SOUL MAN
一斉に視線が集まる。水生は一瞬たじろいだが、必死に表向き平静を装った。優はまるでそんなことを気にせず紹介する。
「同じ学部のコなんだ。G党見たいっていうから連れてきた」
「こんにちは・・・・・・あの、お邪魔じゃないですか?」
「いやまさか!歓迎ですよ」
一番しっかりしていそうな、リーダー各の男が笑顔で答えた。黒のカッターにしわのない細身のパンツ。比較的シックな装い。
「まぁ、座って座って」
優は水生の両肩を押して、空いた椅子に座らせた。そのまま黒板の方に歩いて水生の名前を大書する。
『麻垣水生ちゃん』
隣に書かれた小さなそれが、いかにも優らしい。
「さぁなんて読むのでしょうか?はい雄二!」
「まがきすいせい」
雄二と呼ばれた人は大して興味なさそうに、棒読みでそう答えた。風貌に似合わず声が高くて澄んでいる。水生にはそれが以外だった。
諭すように口をはさんだのは、リーダー各だ。
「すいせいなんて名前な訳ないだろう?みうでいいの?みずきかな。みお?」
「おーカオルさん天才!みうちゃんです。正解。陽一判った?」
「・・・・・・、いや判らなかった」
意味ありげに一呼吸おいて、陽一と呼ばれた男は答えた。見るからに物静かな雰囲気で無口そうだ。知的な黒縁メガネが似合う。カオルと呼ばれたリーダー各はにこやかに話しだす。
「G党党首黒沢カオルです。3回生。練馬区在住。22歳。他に何か尋きたいことがあれば何でも答えるよ」
「麻垣水生です。学科も年も優君と同じ。吉祥寺に住んでます」
「へぇ、陽一も吉祥寺なんだよ。どの辺?」
カオルは少し身を乗り出した。そういう風に話を始めるのが自然でうまい。水生は少し感心した。
「駅を西に少し歩いたところです。安いワンルームだけど」
「便利だよね、駅に近いと」
「えぇ、そうですね」
「で、声掛けたの優?それとも君?」
ごくありきたりのような顔で、雄二は尋ねる。からかうようなニュアンス。
「そんなんじゃないってー!ともだちともだち!!クラスメイトに決まってんじゃんかー!!」
やや早口に優はまくしたてた。赤面の優がそうは思っていないのは今この瞬間水生にも判る。吹き出すのを堪えて、ごまかすようにカオルは立ち上がった。
「せっかくだから、早い晩飯行こうか。これからの予定は?空いてるかな」
水生に優しく微笑む。穏やかで、裏なんてなさそうなジェントルなそれに憧れる女の子は沢山いることだろう。このメンバーの中でカオルは抜き出て大人の男だ。
「はい、大丈夫です」
水生が返答すると、残りの3人も誰からともなく立ち上がる。要するに満場一致ということだ。行きつけの店でもあるのか、特に何も言わずにカオルは出ていく。雄二と陽一がそれにならい、まだ少し顔の赤い優が嬉しそうに水生に微笑んで先を促した。カオルだけ関係者専用駐車場の方に歩いていく。水生は露骨に疑問を張りつけた表情で、優にその理由を尋ねた。
「電子工学科の黒沢教授って知ってる?」
「ううん、知らない。判った、その先生の息子なのね?」
「正解!だけどあのワゴンは自分で買ったらしいよ。高校生の時からずーっとバイトしてて、そのお金で」
「へぇ、黒沢さん偉いね、凄い!」
「僕なんて免許持ってるけど、身分証明書そのものだよ」
優は肩をすくめてみせる。愛嬌のあるその仕草は、異性ながらとてもかわいい。時折優は無邪気すぎる程無邪気だ。
「黒沢さん、理系なの?」
「うん雄二もね。あぁ見えても理系」
聞こえているだろうに、雄二はコメントを出さなかった。それが優の人柄ゆえか雄二の性格かは、まだ判断がつかない。
シンプルなデザインのワゴン車が、雑談する水生達の隣にくる。その緑のボディは今買ったばかりのようにきらきらと夕日を受けていた。
「助手席、どうぞ」
カオルはサイドブレーキを引いてから、窓から身を乗り出して微笑む。水生はそれに従った。高い視線が新鮮だった。
「行き付けって言っても、ファミレスだけどね。リクエストがなければそこに行こう」
他の面々はのそのそと後部席に乗り込む。いつもそうなのか、陽一が後ろ、後の二人は中央に座った。
「ないです。そこ連れてってください」
「了解」
間も無くワゴンは夕方の構内を走り出す。春の爽やかな陽気が頬を撫でるように、窓を開けた車の中を通り抜ける。何か素敵なことが起こりそうな、明日もさっぱりと晴れそうな、感じのいい夕方だった。
優は水生を送ると言ってきかなかった。満員の中央線に水生と優、陽一の三人で帰る。相変わらず賑やかな優とおとなしい陽一。なるべく優と二人の会話にならないよう陽一にも振っていくうち、見かけほど彼が寡黙でないことに気付いた。低い小さな声は時折雑音に消されそうになりながらも、心地好く水生の耳に届く。はっきりと聞こえないのか、優はたまに釣り広告を見上げていた。
「じゃ、おれ原付だから・・・・・・」
駅に着いてすぐに、陽一は誰ともなしに呟く。優は少し落ち着かない様子で、言葉少なく別れた。水生も大きく手を振る。優は大きく息を吐いて、水生に向き直りおもむろに切り出した。
「あのね、今から飲みに行かない?だめならいいんだけど」
「うん、全然平気だよ。行こう」
水生は快く応じる。優は本当に嬉しそうに、無邪気な笑顔で歩き出した。水生も慌てて後に従う。
「吉祥寺詳しいの?」
「うーん僕はいつもカオルさんとか陽一の後ついてくだけなんだけどね、何故かここによく集まるから何件かは知ってるよ、感じいいとこ」
「みんな仲良いんだね、羨ましいなぁ。あたし友達あんまりいないの地元なのに」
「僕らと遊ぼう!G党の活動日は月・火・木・金で、大体その後ゴハン行くから、
バイトとかないなら夕方までに部室に来てよ?水生ちゃん何かバイトしてたっけ?してたよね、何だったっけなぁ・・・・・・」
首の後ろを押さえて真剣に考え始める優に、水生は思わず意地悪してやりたくなったが、ちゃんと教えてやることにした。天真爛漫な優の仕草は本物の子供よりもずっともっと幼く見える時があって、母性本能を大いに刺激される。
「旅行代理店だよ、駅ビルの」
「そうそれそれ!ごめんね、忘れてた訳じゃないんだよ」
「優君は居酒屋だよね?つまみ食いの話面白かったから、よく覚えてる」
「え?あはは、嬉しいなぁ。覚えててくれたんだ」
優は満面の笑みで答える。と、おもむろに当りを見回し始める。
「どうしたの?」
「うん、あはは。道間違えちゃった。反対の方角だったよ」
顔を赤らめて優は屈託なく笑う。あっけらかんとした物言いがいかにも優らしい。
控えめに飲んでショットバーを出たのは、込み始めた頃だった。通りに人は溢れ、もうすぐ夏でも夜はまだ肌寒さを残す。
「気持ちいーねー、ちょうどよく酔ってるみたい!」
「家どっちだっけ?」
「駅と反対!あっちでーす」
「大丈夫?肩貸そうか?」
頼りない足取りで水生はゆったりと歩く。心配そうに後をついて、優は水生の鞄をそっと取り上げた。
「あ、ありがとー」
「水生ちゃん車来たよ、危ないからもっとこっちに」
狭い歩道。軽く引き寄せると、簡単に水生は体ごと流れた。肩口にぶつかった時にヘッドライトの強い光が瞳に飛び込んでくる。小さく声を上げて、水生は堅く目をつぶった。
再び街灯だけの暗い闇が戻ってくる。軽く笑いながら、水生は優を見上げて照れ笑いした。
「へへ、優君ごめんねぇ、ホントありが」
最後まで言葉を告げる前に、水生は優に抱き寄せられていた。鞄が背中に当る。直後硬直したように、水生は微動だにできないでいる。火照った優の抱き締める腕の力強さだけが妙に印象的で、いつもの無邪気な優と一致しない。
水生は改めて、というよりもむしろ初めて優に異性を感じた。少し冷たい風と熱い体温、全然悪くない。そんな予感はあった。急に冷めた酔いが少しの余裕を生む。微笑んで目を閉じて、水生は浸っていた。少し低いめの優の身長も、背の高くない水生にフィットすることが判る。何もかも初めて経験する割には、水生の度胸は座っていた。
「優君のこと、呼び捨てにしていいかなぁ?いいんだよね?」
「うん、えへへ。嬉しいなぁ、大好きだよ」
名残惜しげに水生を離して、優はその手を取って歩き出した。初めて繋ぐ優の手は暖かくて、そっと優しい。
「嬉しいなぁ。今日みんなに冷やかされただろ?どうしようかと思ったよ、僕」
「あの時の優、真っ赤っ赤だった。あたし凄く嬉しかったんだよ」
「ホント?ありがとう」
糸のように細い目にして優が笑う。笑顔にときめく。暖かい、幸せの予感に包まれる。水生は一度に訪れた多くの出会いを想う。
帰り間際、ドアの前で優は水生の頬に、唇に、優しいキスをした。少し赤い顔に笑顔を張りつけて、優は何度も何度も振り向いて手を振る。水生はいつまでもそれを見ていた。
そうして優のかわいい仕草を思い浮かべながら眠った。
翌日、早速水生はG党を訪れる。クラブ棟の一番端の部屋、筆文字で堂々と書かれたG党の二文字を確認して、軽いノックの後返事を待たずにドアを開ける。
「こんにちは・・・・・・」
「あぁ」
パイプ椅子に足を組んで、こちらに背中を向けて座っていたのは、"意外に理系の人"だった。無礼とは思ったが、名前を忘れた水生は率直に訊いてみる。
「ごめんなさい、お名前何でしたっけ?」
「酒井雄二」
膝の上の雑誌に目を落として、雄二は必要最小限に答えてくれる。だが名字を聞いたのは初めてだった。その名を改めてインプットする。
「みんなはまだなんですか?」
「あぁ。うざいから敬語喋んなくていい、優と一緒の言語で結構」
「・・・・・・優も、まだ?」
恐る恐る尋ねてみる。一瞬水生を凝視して、妙な間を空けて雄二は雑誌を閉じた。何故、雄二がそんなことをしたか、水生は瞬時に頭に閃いた。昨日の食事の時点で優の名を呼び捨てにしていなかったからだろう。つまりその一言で、雄二は色々と悟ったということになる。この水生の推測が当っていれば、酒井雄二はキレ者なのかもしれない。そんな深読みをすること自体、なんだかよく判らないけど。
雄二は狭い室内を見回す。あっけに取られた水生は、その視線を目で追う。
「俺と君以外の人間が存在するように、見える?気配を感じるのか?ロミュランの遮蔽装置があれば可能だろうけど、今現在、バルカン人とファースト・コンタクトをしていないから無理だろうな。そんな技術はないということだ。だから君の思い違いか、聞き違いだろう」
意味不明な言葉の羅列に、水生は益々きょとんと雄二を見た。つまり何なのだ?
「優は今朝熱があったとかで、今日は授業を休んでいるそうだ。だからここには来ない。君が来る直前までここにいたカオルさんに、電話があったらしいな。因みにカオルさんは誰かに呼び出れて、どこかに出掛けた。陽一は4限が終わってからだから、あと1時間は来ない。君も座って待つか?」
「・・・・・・優の住所、知ってる?」
「見舞い?」
「うん、そのつもりだけど・・・・・・」
水生は畏怖を抱いて、それでも素直に答える。雑誌を水生に手渡し雄二は足元の鞄を開いて、手帳を出した。何も書いていないページの裏を確かめてから破って住所を写す。
「ゆっくり歩くと15分はかかるな、最寄りの駅から。しかも近くにはガソリンスタンド位しかないから、タクシーも考えもんだ。それでも行く気は?」
「・・・・・・教えてくれる?行く方法」
「うん。簡単な地図位なら書いてやれるが、迷うなよ。俺もそんな無責任なことしたくないからな」
早速ルーズリーフを取り出して、地図を書き始めた。目標物も何もない簡素過ぎる地図が出来上がる。
無言で二人してそれを眺めていると、カオルが帰ってきた。水生を見つけて優しい
微笑みをこぼす。少し照れて水生は小さく挨拶した。
「調布駅?それ優の家の地図?」
「見ての通り、目標物が何もない状態」
お手上げと言った様子で雄二がペンを置いて告げた。少し考えてからカオルはラーメン屋とレンタルショップを書き足す。だが肝心の店名が判らない始末だった。
「・・・・・・依然ちっとも参考にならないな、これじゃあ」
「雄二、時間あるんなら二人でお見舞いに行けばどう?」
「いや俺がいない方が優は喜ぶんだ。カオルさんこそ送ってってやれば?」
「そうできたらいいんだけど、おれ今日バイト入れちゃって。さっきの電話はオーナーからだったんだよ。ウェイターの穴埋め」
雄二は少し困惑した様子で、カオルと水生を交互に見た。水生はもっと困った顔をしている。雄二は判らないように溜め息吐いて、何度か頷いた。
「乗りかかった舟だ、とりあえずアパートの前まで連れていってやる。それでいいか?」
「いいの?」
「俺のことは何も言うな。それでいいな?」
「ありがとうございます、わざわざどうもすいません」
水生は深く頭をさげた。雄二が目敏く注意する。
「普通に喋ってくれ。こういう時もそういう時も」
「あ、それおれにもね、水生ちゃん。友達なんだから。おれのこと今から名前で呼んでね」
ふたりの強引な約束に、水生は頷かざるを得ない。友達、だから。そうきっと陽一のこともそうした方がいいのだろう。
「うん、そうする」
「新宿まで送るよ、通り道だから。もう行くよね?」
「ありがとう、カオル君」
水生は鞄を腕に抱いて微笑する。雄二が驚いたように水生を見た。カオルは何も言わずに少し笑う。水生は一瞬慌てて訂正した。
「カオルさん、の方が良かったんだっけ?」
「いや、いいんだよそれで。さんでも君でもおれのこと言ってるのには変わらないんだから」
照れ臭そうな仕草を隠して、カオルは頷く。それを合図にしたように雄二は立ち上がる。シンプル過ぎるその地図を鞄にしまって水生も続く。二人に忘れ物を聞くと、カオルは部室の鍵を締めた。
「陽一には後でメール送っておくよ」
新宿に近づくにつれて、段々交通量は増す。助手席に乗って街を見下ろす格好で、水生はカオルに尋いてみる。車内には水生の知らない、大人しい洋楽が流れている。
「毎日渋滞してて、嫌にならない?」
「通学するのが?」
「うん、早起きになるでしょう?」
率直な水生に、カオルは少し笑う。1年の頃はよく尋かれたその問いも、今では何となく懐かしい。
「まぁそうだね、それは確かに。でも僕は満員電車が特別苦手でもないんだけど、この車の中で一人で音楽を聴くということがとても好きなんだよ。それにせっかく僕所有の車なんだから、少しでも長く乗っていたいなと思って。だから贅沢とは思うけど僕は卒業するまで車で通学かな。なんなら毎朝迎えに行こうか?」
「あたし早起きダメだもん、カチッと定刻通りに来て定刻通り着く電車との相性はもう最高かも。待ってーって言いながら走ってね、そのうち目が覚めるっていう仕組み」
「はは、成程。うまいね」
「カオルさんのバイト、何時からだったっけ?」
不意に雄二が口を挟んだ。腕時計に目を走らせてカオルは答える。
「えーと4時だよ、なんで?」
「紀伊國屋のそばで降ろして欲しい」
「了解。もう着くよ」
そうして間も無く本屋の前の広場横に車を止める。窓を開けて手を振るとカオルとその自慢の車は行ってしまった。取り残されたようにたたずむ水生に、雄二は呆れたように告げる。
「あのなーおまえ、口説かれてたんだぞ。判ってんのか?」
「深読みしすぎじゃないの?そんな訳ないって」
「あーはいはい、行くぞ」
雄二はひとりで歩き出した。まだよく判らないまま、水生は後をついて行く。
「何買うの?」
「雑誌」
「さっき何か読んでたじゃない、また買うの?雑誌好き?」
「嫌いじゃないな、別に」
少し面倒臭そうな素っ気無い答えが返ってくる。
そこで雄二は何冊もの漫画雑誌とファッション誌を買った。水生はもう何も言わなかった。殆ど話をしないまま、京王線に乗る。
「そう言えばね、優の好きな食べ物知らない?」
ゆっくりと発進する電車の吊り環に捕まって、揺さぶられないようにしながら尋いてみる。毎週のように食事を一緒にしているなら、少しは判るだろう。
「・・・・・・知らないな」
「だっていっつも一緒に食べてるんでしょ?」
「別にいつもいつも一緒って訳じゃないからな、判らないものは判らない。この前はオムライスとパーティサラダ食ってたなぁ」
午後の街を速い景色が流れる。目に入る看板達のどれもが同じで映った瞬間、次のものに書き替えられていく。それを眺めながら、途方に暮れたように水生の頭には何も思い浮かばない。
「別に深く考える必要ないだろ?相手は病人なんだぜ、粥と果物で充分だって。気合い入れて豪華なもん作ったって、食えるかどうか判らないし。シンプルシンプル。治ってから自慢の料理を御馳走してやれよ」
「ん。ありがとう、あたし酒井君のこと勘違いしてた。もっと嫌な人だと思ってたよ、昨日だって優のこと冷やかしてたし」
「そりゃ結構。それ位の助言で一々人のこと見直してたんじゃ、おまえ・・・・・・まぁいいけど、俺はともかく優はいい奴だからな、泣かせるなよ」
「え?うん」
「次で降りるぞ」
初めて降りた調布駅の改札を抜けて外に出ると、小さな広場になっていて、噴水の周りには多くの人が腰掛けていた。みんな待ち合わせをしているのだろうか。等間隔でひとりずつ、音楽を聴く者、タクシーのロータリーを見るともなしに見る者と、思い思いに過していた。
冬ならもう日は高くないだろうが、これからもっと暑くなるこれからじゃ、一日は長い。
「南側に真っ直、つきあたりのT字路を右。そのまま進んでガソリンスタンドを左だ。ゴミ捨て場から路地に入ってつきあたり。シャンブル調布101号室。タクシー乗るならそう言え、判ったな?今日は連れて行ってやるけど次からは一人だぞ、しっかり覚えろよ」
「うん、以外とシンプルな道じゃない?それなら大丈夫かも」
「それは実際に歩いてみて判断するんだな。あ、スーパーで買物するよな?そこ」
年期の入ったスーパーの、その向かいのビルにはコミックカフェの黄色の看板が見える。いつか優が凝っていたというカフェだろうか。
スーパーの入口の隣は、長細い喫茶店になっていた。買物袋を足元に置いた女性一人の客が幾人もコーヒーを飲んでいる。入口の植木の隣の黒板にチョークで書かれた日替わりランチのメニューは、"ハンバーグセット750円"。隅に描かれたイラス
トは既に風化しつつある。
水生は外国産のキーウィとレンジで温めるだけで食べられるご飯と、6個パックの玉子を買った。雄二のアドヴァイス通り、お粥と果物のシンプルなメニューだ。
オニールのショルダーからペンを出しながら、雄二は水生に掌を差し出した。水生は買った物を手渡す。それを持ち替えて、呆れたように付け加える。
「レシート貸して」
「あ、これ?」
手に持っていたレシートも渡して、水生は照れ笑いした。手を出しただけで雄二の要求しているものが水生に判る訳ない。
スーパーの搬入口の隣の路地の奥に、運動場の狭い保育園が見える。門の閉まったそれには数人の子供がしきりに動き回る。きっとここらの働く母親は、朝ここに子供を預けて夕方迎えに来るまでの間、ゴミゴミした都心にいるのだろう。
「おい危ねえって」
はっとして隣を見ると原付が迷惑顔で水生を見ていた。慌てて身を引いて頭を下げる。それはそのまま奥まで徐行して、門の前で止まった。
「大丈夫か?」
「え?うんちょっとぼーっとしちゃった」
「ほら、これ」
雄二はレシートを水生に返した。裏には青いサインペンで携帯電話の番号が書かれてある。
「何これ、口説いてんの?」
「いい、返せ」
「嘘ですごめんなさい、何?」
「もし帰り道が判らなくなったら、電話しろよ。何とかするから」
「・・・・・・うん、判った」
「あ、ここのT字路を右な」
ちょうど青になった信号を渡る。礼を言いそびれたまま、コンビニの前をレンタル屋の前をラーメン屋の前を通る。ひたすら真っ直な道を黙黙と歩き続ける。水生の我慢の限界に差し掛かった頃、漸くガソリンスタンドが見えた。嬉しそうに水生は雄二に問う。
「ここを左に曲がるのよね?」
「そう」
「結構長い道のりだったねー、ひとりだともっとそう感じるのかな」
一人ごちるように水生が呟く。敢えて返事をしないで雄二は少し先に道を折れる。等間隔にガードレールが並ぶ。ここへ来てやっと舗装されていない土の道と出合う。雨が降った訳でもないのに道はぬかるんでいる。庭に撒いた水がオーバーしたのだろう。民家が何軒も並ぶ。
3つ目のガードレールを折れる。不思議と静かだった。道路の前だというのに、目に映る全ての植物達が吸い取ったように音がない。
雄二が不意に立ち止まる。ショルダーバッグから、紀伊國屋で買った雑誌を取り出すと、スーパーの袋と一緒に水生に手渡す。
「そのつきあたりのでかい家の横、一番手前が優の部屋だ。シャンブル調布101号室な。よろしく言ってくれ、じゃあな」
「帰るの?一緒に来ればいいじゃない」
「いや、今日は帰る」
「うん・・・・・・これ優に渡せばいいのね?」
頷いてにこりともせずに雄二は片手を上げて、元来た道を丁寧に辿るように帰っていった。信号が変わったのか、車が何台も連なって走り抜ける。みんなもう家に帰る時間のようだ。嘘みたいに静かだった空間は真昼の幻想のように消えてなくなった。
荷物を抱え直して、水生は言われた通り101号室のチャイムを押した。マジックで書かれた優の名字。間違いなく優の字。
暫くしてドアが開く。襟の伸びたスウェットにセットしていない髪。少し力の弱そうな優。
「・・・・・・はい、あっれー水生ちゃんだ!」
「お見舞いに来たの。大丈夫ですか?」
「うん、うー・・・・・・うーん、まぁとにかく上がってよ。散らかってるんだけど」
狭い玄関にはスニーカーと健康スリッパ、透明なコンビニの傘の傍らには、乱暴にたたまれて放置してある灰色の携帯の傘が倒れていた。
水生の荷物をそっと取り上げて、優は一足先に奥に入る。
「お邪魔しますぅ・・・・・・」
小さな声で告げてから、つぶさに観察するのはよくないと思うものの見回しながら狭いキッチンの横を歩く。意外に整頓されていて、よく使い込まれているような印象を受ける。その奥に6帖程のフローリングの部屋。一時停止した映画が、電気のついていない夕方の光を半分受けて影を落とす。壁際のベッドの上には大きなクッションが、今しがたまで優を支えていた形を残す。空のコーヒーカップとリモコンが脇に置いてある。ベッドから出た拍子に転がり落ちたのだろうか。
テレビデオとコンポを乗せたローボードの中にはカセットテープが無造作に詰め込まれている。どれ位の数がそこのあるのか、全く見当がつかない程の量。ふとアレが聴きたくなった時、優はどのように探すのだろう。そう見えて実は緻密な管理下にあるのかもしれない。
「コーヒーと日本茶と紅茶、どれがいい?」
「あたしがやる!優は寝てて」
「そんなに悪い訳じゃないから大丈夫だよ」
恥ずかしそうに髪をかき分けて、優は床の上に本を置いた。余程重いのか、手に赤く跡が残る。
「その本酒井君からだよ。家の前まで連れてきてもらったの」
「雄二に?あいつは?」
「もう帰った。ね、いいから寝てて下さい!」
「うーん・・・・・・うん。はい」
ベッドに横たわって、薄い掛け布団を羽織る。水生はそばに転がるリモコンを手渡し、コーヒーカップを拾い上げて、そのまま台所に行く。
「勝手に使っていい?」
「どうぞどうぞ」
ポットにはまだ半分以上湯が入っていた。コーヒーの瓶にいれっぱなしのスプーンも、いかにも優らしい。ゆっくりと湯を注ぎながら別のスプーンでかき混ぜる。濃い琥珀色から立ち上る湯気が、鼻先をかすめていく。水生は急いで自分の分の紅茶をいれて、両手にカップを持って注意深く戻った。
「何か入れる?」
「ありがとう、いつもブラックだよ。いただきます」
「はーい、えへへ」
優はカップを傾けて湯気ごと吸い込む。水生は猫舌なので、それを手にしたまま冷めるのを暫く待たねばならなかった。ずっと持っているのもどうかと思い直して、テーブルの上に置く。
「お粥作るね、レンヂでチンする御飯買ってきたの。それとキウイ好き?体にいい
から食べてね」
「うん、ありがとう水生ちゃん」
引き留める優をなだめすかして、それでも優の部屋を出たのは結局7時を回っていた。日はもうすっかり暮れていて、家路を急ぐ波に逆らって歩く。
道はちゃんと覚えている。ポケットの中のケイタイを触りながら、水生は迷っていた。妙に心細くて、満員バスがとても憂鬱で。信号待ちの間中、角のコンビニの光が眩しくて仕方なかった。とぼとぼと歩くうちに駅についてしまう。
このまま真っ直家に帰るのはどうしても嫌だった。仕方がないので駅前のケンタッキーに入る。行き交う人を見ていても、寂しさは拭えない。時間を適当に潰して、無意識にケイタイを握ってバスに乗り込む。
水生は住宅街の上を薄く微かに星がまたたくのを少し見た。
第一章 SOUL MAN
第二章 GOD BLESS YOU
第三章 今日が終わる前に
第四章 それでも恋はやってくる
1 夏祭ナツマツリ
2 なつのひと
3 夏の神
4 ナツノヒト
5 夏の男
6 夏の女
7 サマーピープル
8 サマーバケーション