PassionateBlue2.0 時の扉
どこまでも深い森を分け入る。
カオスは腕で蔦や木の枝を薙ぎ払いながら、奥へ奥へと歩いていた。木々が鬱蒼と生い茂っていて、昼間だというのに光がろくに差さない。薄暗く、油断すると路を誤ってしまいそうになる。
前方に白い影。カオスは剣の柄に手を掛けてそれに真っ直ぐ進む。まるで隠すようにして群生する樹が邪魔でよく見えないが、それは動きを潜め沈黙しているように見えた。
ひときわ太い枝を蹴飛ばして靴の裏でねじ伏せると、姿が露わになる。女だった。ぐったりとした手足に生気はなく、纏っている服も切れ切れに破れ、裸同然だった。手首を掴んで脈を確かめる。弱いが安定しているので、今すぐどうこうという程ではないだろうが、早いに越したことはない。
遠くから乱暴で不規則な足音と、声が聞こえる。カオスは肩に羽織っていたマントを脱ぐと、屈んで女に掛ける。そこに何も知らないセイシンジャが呑気に現れた。
「オイ、幾らなんでもこんあとこにゃあねぇだろうよ。あ?おまえ何やってんの?」
「来るな!」
カオスの強い口調に、セイシンジャは不服ながら従わずにいられない。苦虫を噛み潰したような表情で、その背中を見下ろした。カオスは女を抱き上げて平然と横切る。細い脚がマントからチラリと覗いて、セイシンジャは混乱したようにカオスに質問を浴びせる。
「オイ、おまえその女・・・、何?どうしたんだよ、なぁ!生きてんの?」
「そんなこと俺がききたいくらいだ、判る訳ないだろう!とにかくつれて帰る」
「あ・・・カオス!」
セイシンジャを無視してもと来た道を足早に戻っていく。カオスの腕の中で、女は小さくうめいて目を開ける。カオスは不意に見た女の目がこちらを見ていたので、流石に驚いた。何か言いたそうな緑の双眸。見つめあって、潤んだ瞳は突然閉じられる。それが夢ではなかったのかと疑うほど、刹那。緩い風に白のマントがはためく。
カオスはセイシンジャに動揺を悟られないよう、顔をなるべく見せないで急いで城に戻った。
全ての処置が終わったという知らせがあったので、カオスは漸く部屋に入ってその寝顔を眺めた。漆黒の髪と、対称的な白い素肌。見るからにか弱い女だ。あんな深い森の中で、独りで何をしていたのだろう。椅子の上で暫く考え込むが、勿論答えは出ない。知っているのは彼女一人だけだ。
「何か判ったのか?」
「いいえ、詳しくはまだ何も。ただ、ファーシィ王国でしか採れない鉱石の腕輪をお持ちですので、そこの出身かと存じます。現在ファーシィは他国との国交がございませんゆえ・・・・・・」
治療にあたった医師が答えた。名前も歳すらも判らない、謎の女。今匿うのはリスクが高いが、かと言ってこの時勢に、モウキの闊歩する中を放り出すことは当然できない。カオスには連れてきた責任がある。年寄りの大臣連中が何を言ってくるかは容易に想像がつくが、カオスにとってそんなものは何の問題にもならない。ここ、ホウライ王国の王子なのである。
「薬は惜しむな。彼女の治癒を最優先に」
「は、仰せのとおりに」
そう言い残してカオスは部屋を出て行く。扉を開けると、風が一通りした。そのまま自室に引き揚げ、テラスに出て森を見る。間もなくセイシンジャが合図もなしに入ってくる。
「おう、どうだって?」
「ファーシィ王国の者らしい、それ以外は何も判らんそうだ」
「ほぉ、ファーシィか・・・それにしてもえれぇべっぴんだったよなぁ。ありゃあそこらのモンとは違うぜ、絶対何かある!」
セイシンジャはいやに自信たっぷりに告げた。カオスはその横顔を一瞥して、また視線を森に向ける。いつもながら、断言の根拠はないのだろう。カオスの表情は付き合っていられないという風だ。
セイシンジャのお気楽さとは裏腹に、彼女は数日しても意識を取り戻すことはなかった。だが、医師すら諦めかけた十日後、漸く目を覚ました。朝一番にカオスに報告がある。
カオスは絨毯の敷いてある廊下を早足で歩いていた。少し後にセイシンジャが続く。好奇心一杯という表情で、口元には微かな笑み。カオスは医師と入れ違いで、部屋に入る。彼女は飾りのないこざっぱりとした白い服に着替えていた。それに比例して、余計に顔色が悪く見える。傍らには食事の盆が置いてあるが、手を付けていないらしい。とうの昔に冷めていた。侍女は困惑したまま、側に控えている。
「・・・・・・気分はどうだ?」
彼女はカオスの顔を見つめて、やがて力なく首を横に振る。カオスは侍女に下がるよう目で合図すると、盆を置いて部屋を出ていった。部屋の中は三人だけになる。
「何故あんなところに独りで・・・何をしていたんだ?」
重い沈黙を破るように、カオスが口を開いた。彼女は袖で口元を覆って、涙を零しながら消え入りそうな声で何かを呟く。森で会った時は感じなかったが、相当高貴な出であるらしい。その仕草や長い髪は、神々しいまでに美しい。顔立ちは大きな瞳が神秘的で、見つめられると吸い込まれそうに深い。
よく聞こえなかったカオスはもう一度同じ問いをする。
「覚えておりません・・・何も判らないんです・・・・・」
「・・・・・・名前も、何もかもをか?」
「はい・・・ただ、消えてしまいたいという思いしか、覚えてないのですわ・・・・・・」
カオスとセイシンジャは驚いて彼女の顔を見つめた。怯えた表情で彼女は彼らを交互に見て、やがて俯く。顔色が悪い。いち早くそれに気づいたセイシンジャに促されて、カオスは部屋を退出した。何も判らないというのはどういう意味だろう?何が判らないのか、カオスには判らなかった。道すがら、両手を頭の後ろで組んで、セイシンジャは呑気に評する。
「やっぱ相当なべっぴんだったなぁ、元気になれば、オレが色々案内してやんのに」
「おまえ、こんな時によくもそんなことばかり言えるな」
「弱ってるのは体だけじゃねぇの、気づかなかったか?あれ嘘だぜ」
「嘘・・・?何が嘘なんだ」
「だから、何も覚えてねぇっつーのがだよ。まぁ、消えてしまいたいとか言ってたヤツ、あれは満更ウソってことではなさそうだったなぁ。人には言えない事情があるんだろーな」
カオスは無表情で踵を返すと、走っていって乱暴に扉を開けた。先刻の侍女と伏した彼女がこちらを注目する。セイシンジャが慌てて追いかけるが、カオスは既に彼女の側に立っていた。腕を掴んで上体を起こして、掴みかからんとする勢いで声を張る。
「生きろ!おまえにも事情はあるだろうが、さだめに背いて死ぬことは俺が許さん!」
「おいカオス!!おまえオレの言ったこと鵜呑みにしてんじゃねぇって!バカヤロウ、先走りやがって・・・女にそんな怒鳴ったり乱暴するもんじゃねぇぜ。おいあんた、悪かったな。こいつバカだから、ちょっと勘違いしてるだけだ。許してやってくれ」
なだめるような口調で割って入って、引きずってカオスを部屋の外に連れ出す。侍女も彼女も呆然としていた。釈然としない面持ちで、カオスはセイシンジャを振り切って歩き出した。
「おまえ何アツくなってんだよ、今のは弱ってる人間に対して余りにもやりすぎだろうが」
「うるさい!俺はああいう腐ったこと言うやつが大嫌いなんだ、弱っていようが関係ない」
「はいはい。どうでもいいけど、後で謝りにいってこいよな、いくら王子様だってやっちゃあいけねぇことがあるんだぜ」
「・・・・・・」
カオスは鋭い目でセイシンジャを一瞥して、黙り込んでしまった。今回はセイシンジャの言う通りだろう。冷静になってみて、返す言葉がなかった。反省した様子なので、セイシンジャは大きく伸びをして、重い空気を和らげて言う。
「じゃあオレはその辺ブラブラしてくるわ。おまえも来る?」
「いやいい」
「おう、じゃあな」
「あぁ」
軽く手を振って、セイシンジャは途中にある階段を降りていった。絨毯が足音を吸い込んで、やがて聞こえなくなる。カオスは自室に戻って、物憂げにテラスに出た。降り注ぐ陽光。今日も暑くなりそうだ。
遠く森にも、木々の切れ間から日が差し込んでいるだろう。ひんやりとして涼しかったことを思い出す。避暑にはいいかもしれない。
カオスは急に思い立って、共の者も連れずに一人でまた森へ向かった。この間と同じ道を歩く。随分と歩いてから、漸く彼女が倒れていた場所を見つけた。カオスが踏んでならした枝が目印のようになっている。こんな所で何をしていたんだろうか。たったひとりで。腕に覚えがあっても、一人きりでいることは誰しもが遠慮するだろう。少なからずモウキは棲んでいる。もし見つかれば容赦なく殺されていたはずだ。消えてしまいたいというのは、モウキに殺されてしまいたかったという意味なのだろうか。どんな理由があって・・・?考えても答えはここにもない。諦めて立ち去ろうとしたその時、カオスの目に微かな光が飛び込んでくる。屈んで拾い上げると、石の付いた細い首飾りだった。木の葉に隠れて、先日は気づかなかったらしい。緑色の石はファーシィでしか採れないものだ。細かな紋様が掘り込まれている。紛れもない王族の証。国交がなくてもそれくらいは判る。
カオスは急ぎ引き返して城の戻った。資料館に直行して、あの紋様のことを調べる。分厚い本の中から他国についてのものを出して、その場で紐解く。そこに描かれているものと、この首飾りの紋様は見間違いなく一致していた。
薄暗い資料室に風が吹き抜けて、埃を舞わせる。一瞬、さながら雪のような風景になる。
カオスは内密に、信用できる者をファーシィに送って調べさせた。皇女が行方不明などという事態は、少なからず庶民の耳にも入っているだろう。名前なりとも判るはず。
カオスは毎日彼女を見舞いながら、密かに報告を待っていた。彼女が嘘をついてまで隠したい過去を暴こうとすることに、強く後ろめたさを感じている。罪滅ぼしのように、彼女に優しく接する。
5日目に、漸く使いの者は帰ってきた。カオスは自室に召して、話を聞く。衛兵には誰も入れるなと、固く申し渡して。
「ご苦労だったな。何か判ったのか」
「はい、それが少し妙なのです。調べる為に時間が掛かってしまいました。遅れて申し訳ございません」
「いい、話せ」
男の話では、ファーシィでは近頃妃が暗殺され、第2妃が正式な妃に上がったばかりだという。それから王が新興宗教に凝り、物騒な輩が街を徘徊するようになった。王は大規模な宗教行事を執り行い、その時に皇女が失踪してしまったというのだ。神隠しの噂は一時期平和なファーシィの首都を持ちきりにし、尾ひれが付いて、誰にも本当のところは判らなくなっている。それでも地道に調査を進めていくうちに、人々の口に登る噂にも幾つかの共通点が見つかった。
「妃を暗殺したのは第2妃ではないかということ、第2妃が新興宗教の熱心な信者であるということ。その宗教は生娘を生贄にするという噂があるということ。どうも第1皇女が妃に楯突いたということで、生贄に選ばれたということらしいです。それに皇女には何でも凄い術士の才能があるとか・・・。それを妬んだ妃が、無実の罪を着せて生贄にしたらしいです。でも儀式の全容までは、参加の許されていない民には判りませんでした」
確かにあの森はホウライとファーシィに隣接している。しかも昔から誰も近づかないとなれば好都合だろう。しかし何故、その生贄として殺さなかったのだろう。
カオスが黙って考え込んだので、男は所在なげに座っていた。カオスは扉の向こうに微かなセイシンジャの声を聞いて顔を上げた。充分労って、男を帰した。入れ替わりにセイシンジャが入ってくる。衛兵も一緒だ。
「カオス王子様からのご命令を申し上げたのですが・・・あのぅ」
「構わん。ご苦労」
「な、大丈夫っつったろ?」
セイシンジャは笑って衛兵の肩を叩いた。一礼して衛兵はまた持ち場に戻っていく。セイシンジャは部屋を見回してがっかりしたように座った。
「人払いしてあるっつーから、てっきりオンナでも匿ってんのかと思ったぜ」
「バカなことを、おまえじゃあるまいし」
「オレはこそこそしねぇよ、まぁそれはどうでもいいとして、さっきのヤツ、何で商人のカッコなんかしてた訳?あれナントカ大臣の息子だろ。あ?おまえまさか・・・・・・」
セイシンジャは喋りながらふと顔色を変えた。少しだけ黙って、カオスを見つめる。その言葉を待つ前に、また話を再開する。
「ファーシィに行かせたのか?」
「そうだ」
「おまえいつから・・・気が付かなかったぜ」
「5日ほど前からだ。彼女のことを調べさせた」
「何か判ったのか?今のはその報告かよ」
「名前はセアラ。ファーシィ王国の第1皇女だ」
「・・・・・・皇女?マジで?」
セイシンジャは露骨に戸惑いの表情を浮かべて、更に詳しい説明を聞いた。聞き終わってからは流石に俯きがちになっていた。疑惑についてカオスは自分の意見を語る。
「生贄にされる前に自力で逃げ出したか、森の奥にいるとかいうモウキのところへ運ぶ途中に恐くなって置き去りにしたか、可能性としてはそんなところだと思う」
「オレは後者を推すな。大体その儀式とか宗教とかっていうのもあからさまに怪しいぜ。第2妃とやらもモウキが化けてるんだろうし、大方、この森の主のところに連れてくつもりだったんだろうな。所詮人間だ、あの森に入るのさえ恐かったろうよ。願わくは誰かにみつかりませんように、ってハラか」
「あぁ」
「でもよう、セアラ?彼女は嘘ついてまで逃げたいって思ってるんだぜ?聞けんのかよ?」
「聞ける訳ないだろう?どうすればいいかまだ判らない。俺だってさっき聞かされたばかりだ」
「・・・・・・そうだよな。オレたちが知ってるって判ったら今度はここから居なくなるかもな」
「今度こそ本当に殺されるぞ」
「ヤバイことになってきたな。ちょっくら行ってたたっ斬ってやろうか?」
「バカなこと言うな。それこそ彼女が傷つくだろう」
カオスは小さく嗜めると、伏し目にして溜め息を吐いた。一番いい方法は今までどおり、知らん顔をすることだ。だが、幾ら国交がないとはいえ隣国がモウキに牛耳られているとなると黙って捨て置けない。でも何よりセアラの傷をこれ以上増やさないことが最優先だろう。
セイシンジャはまじまじとカオスの顔を見て、視線を外さずに訊く。
「おまえ、いつになく優しいな。惚れたか?」
「バカなことを。おまえはすぐそういう話をしたがる」
「いや、別にしたがってねぇけどよ・・・じゃあ同情か?」
「同情?・・・そうかも知れないな、気の毒な話だ。記憶を失った振りをするのも無理はない」
「選りによってファーシィねぇ、ホウライの従国とかなら話は早いのにな。カオスとケッコンとかよ、色々方法はあるだろうになぁ」
「・・・・・・」
カオスは呆れた表情でセイシンジャを見た。真剣に言っているところが、カオスには理解し難い。でも形だけでもそうすることで彼女が救われるなら、協力は惜しまないだろう。
「とりあえずこの話はこれで終わりだ。セアラが何か話してくれない限り、先には進めん」
「・・・そうだな、まぁ何とかなるだろ。おまえこれからどうする?見舞い行くか?」
「あぁ」
「じゃあオレも行こうっと」
「余計なことを言うなよ」
「・・・・・・おまえにだけには言われたかねぇなぁ」
セイシンジャは頬を引きつらせて、カオスに近づいて言った。カオスは完全に無視して、立ち上がる。セイシンジャも後に続いてセアラの部屋まで行った。
毎日会っているせいか、大分カオスにも馴れたようだ。記憶の話さえしなければ、セアラは元気を取り戻したように見える。部屋の中を少しなら歩けるようにもなった。
「今日は顔色がいいな」
「えぇ、本当にお陰様で。わたし、カオス様に感謝しています」
「カオスでいい」
「そんな、この国の王子様をそんな風には呼べませんわ」
「別に構わない。こいつのこともセイシンジャと呼んでやってくれ」
「おーおー、オレの人権無視だな、そりゃ」
セイシンジャの呆れた声に、セアラは初めて笑った。カオスは密かに驚いて、同時にそれを喜んだ。身体も精神も回復しつつある傾向だろう。セイシンジャは椅子に座ったまま、笑顔で身を乗り出して言う。
「あんた、もっと笑った方がいいぜ、折角そんなにべっぴんなんだからさ。いっつも泣きそうな顔してたんじゃ勿体無いよ、な?」
「不思議な方ですね」
「オレ?そうかい、あんまりそんな風には言われたことないけどな。そうだ、カオス、名前つけろよ。いつまでも名前がないんじゃ不便だろ?」
「・・・・・・俺がか?おまえが考えればいいだろう」
「そんなこと言うなよ、おまえが連れてきたんだからよ、な?」
「・・・・・・考えておこう」
セアラは二人のやり取りを、微笑みを浮かべて見ていた。隣国ファーシィのことも一時的に忘れていられる、カオスもセアラも。それでもたまに密かに悲しげな表情をするのは、偽っていることの後ろめたさからだろうか。セイシンジャは気が付かない振りをして、少しでもセアラの笑顔を引き出そうとしていた。
カオスはむっつりと黙ったまま、脚を組んで大臣の話を聞く振りをしていた。月に一度の定例会議に出席しているのである。いずれはこの国を継ぐことになるので、父王から会議の出席を義務付けられていた。カオス自身王位には何の興味もなかった。天下に号令してまわることも、カオも知らない誰かに敬われたりすることも、カオスの心を全く動かさない。それよりも近隣の国を旅したり、気心の知れたものたちと好きなことをして暮らしたかった。そういう点では、父王の弟の息子であるセイシンジャが羨ましいと思うこともある。気ままにフラリと出かけて何日も帰ってこなかったり、船に乗って船乗りの真似事をしてみたり、風よりも奔放に振舞う。立場上制限されることも、カオスよりはずっと少ない。カオスと違い実に様々な知識を経験から得ている。カオスに出来ることといえば、森に一人で出かけてくることくらいだ。それだって、城の者は「お忍び」と呼んでいるに違いない。その程度だ。
少しの休憩を挟んで議題が移る。外交担当の大臣が話し出したことは、ファーシィとの国交復活だった。カオスは急に怖い顔をして、話を聞き入る。何十年も国交が無かったファーシィから、今朝急に書状が届いたという。貿易や流通、文化交流をホウライと交わし、協定を結びたいという内容のことを大臣が読み上げた。カオスは離れた席にいるセイシンジャと視線を合わせた。同じように不審に思っているらしいのは、眼差しの鋭さでよく判る。
「つきまして、しかるべき後に使節団を配属して、そのように採り図ろうと存じます」
大臣は書状から目をあげ、全体を見回して宣言した。父王も熱心に聞いている。事実上、国交は復活したも同然だろう。
ファーシィは面積はさほどではないが、セアラのつけていた緑色の鉱石が唯一採れる鉱山があり、これによって栄えてきた。が、先々代の王が始めた鎖国のせいで、鉱石の価値があがり今では誰も手に入れられなくなっている。多くの美術家や音楽家を輩出しており、非常に芸術的価値の高い国だった。町のいたるところに美術が溢れ、また人々の意識も高いせいで古くからあるものも生活の一部として多く残っている。しかし山に囲まれ海がないので、流通は殆どが運河に頼らざるを得ない。食料も限定される。しかし近隣の諸国の長くは続かないだろうという予想を裏切って、ファーシィの鎖国は成功したといえる。何十年もそのままで維持できれば大したものだ。
そのファーシィ王国が何故今になって、侵略などではなく自ら国交の復活を申し込むなどという行動に出るのか、疑う余地は多いにある。カオスは珍しく意見を述べ、諸大臣の考えを伺う。だが殆どがファーシィをよく思う意見だった。モウキ絡みの怪しげな宗教のことや第1妃の暗殺を知らないので、それも当然かもしれない。カオスは使節団に立候補し、セイシンジャを推した。当然それは父王を喜ばせ、団長に任命される。やっと表立って調査が出来る。カオスの熱意を疑う者もなければ、ファーシィを疑う者もいない。カオスは自国の将来について、少し頭が痛くなった。初めて政治への意欲を感じるが、今はセアラのことが先決だった。
使節団の派遣は10日後ということで、これから国を挙げてにわかに忙しくなる。使節団員の選考会議が終了した後も、ファーシィに明るい学者を講師に迎えての勉強会が引き続き開催された。毎日みっちり行われるという。セイシンジャは流石に閉口して、居眠りばかりしていた。暴力行使でカオスに文字通り叩き起こされることもしばしばだった。
そして、派遣当日。
カオスは一人でラナの部屋を訪れた。セアラはラナというカオスの命名でみんなにそう呼ばれるようになった。ラナとはホウライの古い言葉で、花という意味だ。優れた、という意味もある。新しい名前になり、ラナもそれを受け入れて変わっていく。身体の傷もほぼ癒えた。カオスはラナを庭に連れ出して、適当な長椅子に二人で腰掛けて話しをする。天気が良く、さながら使節団の派遣日和といったところだろう。ただ矢張りファーシィのことになると、一瞬顔が強張る。カオスは気づかない振りをして、まだ見ぬ国のことを語った。
「暫くは俺もセイシンジャもファーシィに滞在することになるだろう。何かあったら侍女を通して俺付きの者に相談するといい。話がすぐ俺のところに行くようにしておこう」
「はい、ありがとうございますカオス様」
「・・・・・・様は止めてくれないか?俺はラナと対等に話がしたいと思っている」
「そんな、慣れませんわ。わたしなんかと対等だなんて、おっしゃってはいけません」
「どうしてだ?人は皆平等だ。その命に優劣も貴賎もない」
「でもお立場を・・・・・・」
ラナは言葉を止めて、カオスの目を見上げた。深い緑の大きな目が戸惑ったように揺れる。カオスは重ねた手を強く握って、低く呟いた。
「ファーシィでもラナのことを考えている」
「どうか・・・お気をつけて。わたしもカオス様のご無事のお帰りをお祈りしております」
「ありがとう」
はにかむように微かに笑って、カオスは立ち上がった。笑みはもう消えて、決意を秘めた瞳。風に揺れるマントを翻して、カオスは回廊を通って城に入った。小さく溜め息を吐くと、セイシンジャが後ろからカオスの肩を抱いた。口元には押さえきれないといった下卑た笑み。
「よぅよぅ、二人きりで何話してたんだよ?エラく仲良しだったじゃねぇか」
「別に、何てことは無い」
「そうかぁ?おまえも隅に置けないねぇ、ひっひっひ」
愉快そうに一人で笑うと、セイシンジャはカオスの肩を何度も叩いた。迷惑そうなカオスの視線も目に入らないようだ。鬱陶しげに振り払って、カオスは足を速める。セイシンジャはまだひとりで笑っていた。間もなく使節団を激励する会が催され、カオスたちは旅立っていった。ラナは指を固く組み合わせて、膝まづいた格好で祈っていた。柔らかな風が髪をさらっていく。
かの森をさけるように、使節団の馬はゆるゆると北へ進む。都までは夕方には着くだろう。夜にはファーシィ国王主催の宴が行われる。翌日は街の視察や国交に関して今後の協議と、10日間の過密な予定にゆっくり息つく間もない。あっという間の視察だったが、王や妃、家臣達にも特に怪しいところはない。偶像崇拝を禁じているのか、宗教に使われそうなものも目立って見つけられなかった。国の代表での訪問なので、侍従にも訊くことが出来ず、カオスは歯がゆい思いをしていた。
最後の夜、すっかり疲れきったセイシンジャは寝室で大の字になって眠っている。その横でカオスは鎖国が行われていた期間の歴史書に目を通していた。もうすぐ最後の宴が始まる。それまでに読んでしまいたかったので、セイシンジャのいびきも耳に入らない。
と、乱暴に扉の開く音がする。カオスは忌々しげにそちらを見た。そこにいたのは一人の少女。またすぐ扉を閉めて施錠する。カオスは驚いて手にしていた本を絨毯の上に落としてしまった。
「セアラ・・・?」
しかしそんな訳はない。まだこの使節団以外の入国は許されていないし、何より、自分で帰ってくるはずはないのだ。セイシンジャが半分以上寝ぼけた表情で、カオスのいる部屋に入ってくる。セイシンジャも同じような反応だった。一気に目が覚めたようである。少女は驚くほどセアラに似ていたが、よく見ると少し年若いように見える。妹だろうか?なら似ていても無理はない。
「あ・・・姉姫をご存知ですのね?お願いですカオス王子様!姉を・・・姉を捜してくださいませ!姉はお母様の儀式の」
遮るように扉が強く叩かれる。少女は泣きそうな表情のままその場に座り込んでしまった。近くにいるセイシンジャが駆け寄る。カオスは少女を見て、逸る気持ちを押さえてゆっくりと告げた。
「君の姉姫は・・・セアラは、私が保護している。何があったか簡潔に話してくれ。力になれるかもしれない」
「姉姫は新しいお母様に逆らったって・・・そんなことは決してないのに、それが理由で儀式の乙女に選ばれたのです。でも森まで連れて行く人が、途中で恐くなって別な場所に置いてきてしまったと言って・・・本当にカオス王子様のところにおりますの?生きていますのね!?」
涙ぐんで少女は顔を覆って泣き出した。そこに扉が開く。合鍵を持った衛兵と、執事らしき老人。厳格な表情で、そこには人間らしさが欠如しているように思えた。セイシンジャは抱き寄せるように少女を立たせる。
「失礼いたしました。こちらの姫がカオス王子様のお部屋に入るのを見た者がありまして・・・ご無礼を承知で合鍵で入室させていただきました。お許しください」
執事はもったいぶったような仕草で、ゆっくりと時間をかけて少女を見た。それだけで失神してしまいそうな程、美しい顔が恐怖に歪む。
「もしやと思いますが・・・こちらの姫は何か仰っていませんでしたか?」
「錯乱状態でね、何を言っているのかよく聞き取れなかったよ。儀式がどうとか・・・それくらいしか」
セイシンジャは執事からは見えないように、少女の肩に優しく手を置いて、本当にもっともらしく説明した。カオスは緊張した雰囲気に、密かに短く溜め息を吐く。セイシンジャが機転の利く性格で良かったと思う。
「左様でございますか、失礼しました。こちらの姫は少々・・・お聞き苦しい話ではありますが」
「いや、いい」
カオスは短く答えた。急に静まった部屋に、少女の嗚咽だけが耳に届く。矢張りカオスたちの睨んだ通りだったのだ。だが、下手に弁護すれば、この妹姫の命の保証はないだろう。騙したようで悪いが、こうするよりあるまい。
「もう間もなく晩餐会でございます。用意が整い次第、お迎えに上がります」
重々しく頭を垂れると、執事は衛兵に妹姫を連れて行くよう顎で合図した。衛兵はセイシンジャから妹姫を荒々しく受け取る。扉の前で一礼して、二人は下がっていった。
完全に居なくなったのを見計らって、セイシンジャはカオスの隣に座った。第三者が見たら、あやしむくらいの距離で顔をつき合わせて会話する。自然と声は囁くような、小声になる。
「やっぱオレたちの思ったとおりだったな。それにしてもあの娘、大丈夫かなぁ」
「今すぐどうのってことはないだろう。この間姉が失踪したばかりだ。妃が変わったと同時に姫が二人も居なくなったら、誰だってあやしむだろう。でも今度は確実にモウキのエサだろうがな」
「しかしまぁ。オレら無事に帰れんのかね?最後の最後に尻尾だしてきたぞ、と」
溜め息まじりにセイシンジャがぼやいた。独り言のように更に呟く。
「これじゃあ帰るに帰れねぇな、こんなハンパじゃ寝覚めが悪いっての」
「あぁ、とにかく、妹姫の保護だけでもしなければ・・・」
カオスの声も緊迫したものを孕んでいる。だがさし当たってどうしようもない。こちらからあの姫の話を持ち出すのも妙なことだし、逆に何か勘付いているという不信感を持たれかねないのだ。それとなく誘導して強引に話を持っていくしかない。幸い、立場はこちらが上だし、カオスは王子と団長という二つの切り札がある。
不意に扉をそっと叩く音があったので、カオスはすばやくセイシンジャから離れた。抑揚のない返事をすると、静かに扉があいて先刻の執事が晩餐会の用意が整ったことを告げた。先導されて会場に入る。
きらびやかな照明と豪華な料理の数々。ふんだんに使われた高価な食材は、王家の権威と比例する。王と妃だけではなく、王子や姫も同席していた。勿論あの妹姫もいる。あとは王に余り似ない、幼い姫と王子が3人いた。彼らはどれも妃に似た邪悪で挑発的な、抜かりない瞳の輝き。末姫からは小生意気そうな印象を受ける。
直接話が出来ないようにか、妹姫とカオスたちは最も距離がとられている。焦りを感じずには居られないが、カオスは冷静を努めて機会を窺っていた。
話は丁度王と妃の出会いになった。家臣の娘だったのを、当時王子だった王が見初めたという。折しも花の咲き誇るうららかな春のことで、花よりも美しいその姿に惹かれたのだ、と王は臆面なく話す。こんな話を聞いて喜ぶのは無論妃のみで、彼らの子ども達までもが冷ややかな目をしている。あからさまに退屈そうに目の前の料理をつついていた。
「カオス王子は独身であらせられるとか、もったいないことですわ」
今は晴れて正室となった妃が、口元を押さえてカオスに問うた。どこに行ってもまたこの話題だ。いつもカオスは閉口するのだが、今は願ってもない好機だ。肩をすくめて大袈裟に肯定する。
「えぇ、中々恵まれなくて・・・父王の悩みの一つです」
「まあ、こんな素敵な方を、女ならほおっておけませんことよ。理想が高くいらっしゃるのかしら?」
「そうですね、私はあの姫のように可憐な女性が好みです」
カオスは妃が青くなるのを目の端に入れながら、妹姫に笑顔を送った。妹姫は戸惑いながら目を伏せてしまう。
「おや、とても床しくいらっしゃるようだ。失礼しました、お許しください」
家臣たちはいつもとは全く逆のカオスの態度に目を白黒させていた。どういう風の吹き回しなのだろう。だが無論そんなことは億尾にも出せない。一方セイシンジャは大笑いしたい衝動を精一杯押さえて、ぐびぐびと葡萄酒を空けた。元々余り強い性質ではないので、早くも一人酔っ払ってしまう。
「カオス様・・・あの姫は幼少より病勝ちであまり外に出たことがありませんの。ホウライに嫁ぐことなんて、とても出来やしませんわ。途中でどうなってしまうやら、わたくしも心配で外には出せませんの。平凡な結婚など、とうの昔から諦めておりますのよ」
「では、今宵の伽に是非。私もここに参った証が欲しい」
「まぁ・・・大変名誉なことですけど・・・・・・ねぇ王様」
焦っているのは妃一人だけのようだ。王は酒に酔ったような虚ろな表情で、あいまいに笑った。妃の術か何かで操られているらしい。カオスは臆することなく笑顔で妃と妹姫を交互に見た。強引に押し切る形で、ひとまずカオスは妹姫の保護に成功する。セイシンジャは手酌で葡萄酒をあおり続けた。
夜も更けて、カオスの部屋に妹姫がやってきた。ファーシィでは未婚の女性の価値は低く、公の場での発言権すらない。だからカオスの一見無茶とも言える要望がまかり通ったのだ。例の勉強会で学んだことなので、セイシンジャは多分知らないだろう。いや、彼の性格上、知らない方がいいとカオスは思っている。
妹姫は泣きそうな表情で、軽く羽織った薄い衣を脱ぎ捨てる。この姉妹は本当によく似ている。カオスはそう思いながら妹姫の顔ばかり見ていたので、その動作に気づくのが遅れた。慌てて制して、とりあえず彼女を椅子に座らせる。
「誤解しないでくれ、俺にその気はない」
「・・・・・・それではわたくしが」
「いや、そういうことにしておいてもらって構わない。俺は君の話が聞きたくてこの方法を取ったまでだ。さっきの話をもう少し詳しく聞かせてもらえないか?」
「それでは、一緒に床に入ってくださいませ。誰かに聞かれたら、あなたの身も安全ではなくなりますわ」
「判った」
カオスは妹姫の手を取って、寝所に誘う。折り悪く、泥酔したセイシンジャが部屋に入ってきた。両脇にはホウライの大臣たち。
「あ?おまえ何してんの?」
「別の部屋を取らせろ。朝まではこの部屋には近づかないよう言い渡せ」
呆れた口調でカオスは大臣たちに指示した。また両脇に年寄りを抱えて別室に通される。妹姫はセイシンジャの様子に小さく笑みを浮かべた。カオスは一瞬理性が保つかどうか心配になったが、それどころではない。内側から施錠して、カオスは灯りを落として寝所に入る。密着しないよう充分に距離をとってから話し始めた。
「君の姉はホウライ国にいる。俺が一月程前に森の深くで見つけた。とても傷ついていて、十日ほどは意識を失ったままだった。目覚めてから、何故森の奥深くにいたかを訊いたが、彼女は覚えていないと言った。消えてしまいたいという思いの他は、名前すら思い出せないと。でもセイシンジャは嘘だと言った、絶対何か事情があるとね。次の日俺は何か手がかりになる物を探しに、セアラが倒れていた場所に出かけた」
妹姫は真剣にカオスの話に聴き入る。姉姫の名前が出ると、安心したように少し微笑んで、微かに目に涙を溜めた。瞬きする度、潤んだ瞳が震える。カオスは続けた。
「名前は知らないが、ファーシィでしか採れない緑の鉱石があるだろう?あれに紋様を施した首飾りが落ちていた。まるで隠すように木の葉の下に。城に戻って、その紋様を調べたんだ。ここファーシィの王家の徴だった。そこで俺は商人に姿をやつした信用できる者をファーシィにやって、調べさせた。5日ほどしてその者が戻った。第1妃が暗殺されてから、おかしな宗教が蔓延って物騒な輩が街に出入りするようになったそうだね。しかもそれは第2妃が厚く信仰しているらしいじゃないか。そしてその宗教に纏わる行事が行われた時に、皇女が神隠しに遭った。どう考えても不自然だ。その皇女とはセアラだろう?何故森のモウキの生贄にされずに生きているかは判らないが、俺とセイシンジャの考えた筋はそんな感じだ。間違っているところがあれば訂正してもらえないか?」
「えぇ、その通りですわ、カオス王子様・・・。わたくしと姉セアラは第1妃の娘。あとは前第2妃の子ども達です。姉は昔から不思議な力を持っていました。それで女ということもあり、国を継ぐことは出来ないので修道院で修行の毎日でした。そこでみるみる力を伸ばしたのですわ。お母様に良くないことが起こるのも、占いによって判っていました。随分前から第2妃が策を廻らせていることもご存知でしたの。でも幾ら皇女だからと言って、証拠もないのに誰が姉の言うことを信じましょう?そして遂に姉の言う通り、お母様は殺められておしまいになった。第2妃にもまた、姉のような不思議な力が少しあるのですわ。自分の将来に必ず影を差すと感じたのでしょう、生贄に姉を差し出すことをお決めになった。儀式とは森のモウキに生贄を差し出すだけのものです。でも庶民はそんなことを知りませんわ。儀式は国の繁栄を願うものと告知いたしました。姉の失踪に関してはただの神隠しだと・・・。聖なる森に誰も近づいてはならない、神の怒りに触れるという噂を流し、誰も姉の変わり果てた姿を隠し立てようとしたのです。でも姉を運ぶ者たちは途中で恐ろしくなったのでしょう。ホウライに程近い場所に置いてきたのです。泣きながらわたくしに告白いたしました。わたくし、姉が生きていたというだけでもう・・・・・・」
妹姫はみるみるうちに涙を零し始めて、顔を両手で覆った。懸命に声を押し殺して泣く姿は、誰の目にも憐れ深く映るだろう。少し躊躇ってから、カオスは優しく抱き寄せた。可哀想に、今まで誰にも話すことができずに苦しんでいたのだろう。
「済まなかった、辛い話をさせてしまったね。どうか許してくれ。でももう安心するといい、あなたの姉の身は安全だ。ここに返すこともしない。俺たちはセアラに新しい名前を考えた。ホウライの者はみんな彼女をラナと呼んでいる。ラナは少しずつホウライにも慣れて、元気になってきている。折りをみてあなたにも逢わせよう。だから気を確かに強く生きなければだめだ。第2妃の悪事はいつか必ず俺が露見してみせる。ここに平和をもたらすことを、あなたに誓おう」
妹姫は僅かに泣くのを止め、カオスの目を覗き込んだ。鉱石と同じ、緑の瞳。ラナとそっくりな妹姫はやっと安心したように微笑んで、強く頷いた。もう今までのような怯えた色はない。カオスは微かに微笑んで、頬の涙を拭う。
「さぁもう休もう。毎日宴三昧で疲れた」
「ありがとうございます、カオス王子様。本当にありがとうございます・・・・・・」
妹姫はカオスの胸に擦り寄って、間もなく安らかな寝息をたて始めた。腕の中の暖かさを抱いて、カオスも目を閉じる。早く帰って、ラナに逢いたくなった。
翌日の朝食、妹姫が退出して入れ違うようにセイシンジャが入ってきた。顔色は最悪で、見るからに二日酔いの様子だ。
「・・・ひどい顔だな」
「朝っぱらからゴアイサツだなぁてめぇこのヤロウ」
セイシンジャはこめかみを押さえながら、水を飲む。上を向くのもつらそうな様子だ。と、大袈裟な溜め息。カオスは無視して朝食を食べる。人払いさせてから、セイシンジャは机に顎を乗せて、冷たい布を額に当てて話し出す。
「昨日はてめぇだけオイシイ思いしやがって!不公平だっつーの!ちくしょー」
「何のことだ」
「何だじゃねぇよ、しらばっくれやがって」
「誤解するな、彼女には何もしていない。おまえじゃあるまいし」
「ふん。なぁオイやべぇよ、あの葡萄酒ぜってーアヤシイ。一服盛られた」
今にも息絶えそうな様子で大きく息を吐いた。考えてみれば多少はおかしいかもしれない。そんなに酒に強くないセイシンジャでも、二日酔いになる程飲んではいない筈だ。カオスはホウライから連れてきていた薬師を呼びつけた。何故か執事も一緒だ。
「カオス王子様、どうなさいましたか?」
「いや、私ではない」
「わりーな、ちょっくら飲み過ぎちまってよぅ。いつもの作ってくんねぇ?」
セイシンジャは執事を無視した格好で薬師に告げた。セイシンジャはいつも二日酔いによく効くお茶を、この薬師に出してもらっている。執事は大きく2度手を叩いて、聞きなれぬ木の実の薬を持ってこさせた。見るからに毒々しい色。セイシンジャはそっと鼻に近づけて匂いをかいでから、執事に返した。
「悪いけど、いつものヤツにしてもらう。オレは新しいものにはちょっとウルサイ性質なんだ。せっかくだけども」
執事は顔色すら変えずに、それを下がらせた。恐らくこれもよくない薬だろう。しかし目的はなんだ。セイシンジャが熱いお茶をすするのを見ながら、カオスは考えをめぐらせていた。足止めか・・・?
薬師と執事を下がらせて、カオスはセイシンジャと話の続きをする。
「よもや毒殺されるようなおまえではないだろうが、根拠はあるのか?」
「アブナイ妹姫を抱きこんだんだぜ?口止めだろうよ。少しでも足止めしといて、次の手を打つ」
「もう一日休んでいこうと言いたいところだが、そうもいかなくなったようだな。おまえには悪いが」
「冷たいと言いたいが、今回ばかりは仕方ねぇ」
セイシンジャは汗を拭って、またお茶を啜る。カオスは溜め息を吐いた。帰りにも何事もなければいいのだが。嫌な予感がする。
送迎の豪華な会が催され、カオスたちはホウライへの道を馬で駆けた。セイシンジャのことがあるので、歩くのとさして変わらない速度。この分だと、城に着くのは夜になるだろう。セイシンジャは真っ青な顔で辛うじて馬の首にしがみついていた。森を避けるようにして進路を取るので、余計遠回りになる。
「カオス〜・・・オレもう死にそう」
「情けない奴だな。まぁいい、休憩を取ろう」
「カオス様、この先に山小屋があるということを城の者が申しておりました。そこでセイシンジャ様を少し横にしてさしあげた方がよろしいのではありませんか?」
薬師はカオスにそう進言する。確かにいかに頑丈そうなセイシンジャでも二日酔いには勝てまい。城の者というのが誰なのか、少々胡散臭い気がしたが、カオスはそこを目指すことにした。進路的にもそこを通ると早く城に着きそうだ。
「わりぃな、みんな」
両脇を抱えられて、セイシンジャは苦々しげに呟いた。その顔色は蒼白を通り越して、最早色がない。薬師は薬茶の効き目がいやに遅いのに不審に思ったが、口には出せないでいた。それもその筈、あの執事に掏りかえられていたのである。実際には効き目どころか、悪化しているのだ。
山小屋というよりは洒落た別荘という佇まいの建物だった。大臣たちは流石王家所有と密かに感心している。風通しのいい2階の部屋にセイシンジャを寝かせて、下で休憩することにした。大臣たちがそれぞれの感想を述べているのを、カオスは聞くともなしに聞いている。ふと、妙な気配を感じてカオスは全身を緊張させた。間違いない、モウキが近くにいる。即戦力になりそうなのは自分と衛兵数名だけだ。大臣たちを守る義務はないが、仕方ない。カオスは山小屋から決して出ないように強く言い置いて、衛兵と共に外に出た。案の定、すでに取り囲まれている。柄に手を掛け一気に剣を引き抜くと、モウキに挑みかかる。あっという間に倒せるものばかりだが、数が異常に多い。時間と体力の消耗だ。額に汗が滲んでくる。カオスは剣を片手で薙ぎ払いながら、汗を拭った。衛兵も肩で息をしている。山小屋の中から男の叫び声がした。隙を突かれてモウキが入り込んだらしい。カオスは急いで小屋に入り、一太刀浴びせて屍骸を外に蹴り飛ばした。このままではキリがないが、かと云ってここから掌妙剄を使うわけにはいかない。山小屋諸共吹っ飛ばしてしまうだろう。カオスは焦りのような気持ちを押さえつつ、冷静を肝に銘じて的確にモウキを倒していく。と、閃光が迸って、モウキの団体に命中した。掌妙剄だ。空を仰ぐと、屋根に乗ったセイシンジャが不敵な笑みと共に電光を両手に次々とモウキをなぎ倒す。
「じゃっじゃ〜ん!セイシンジャ様ふっかーつ!」
「セイシンジャ!大丈夫なのか!?」
「おぅよ!薬師にはわりぃが、胃の中のモン全部吐いちまったぜぃっ!」
セイシンジャは高らかに宣言して、一際大きな光弾をお見舞いする。カオスは俄然やる気が湧いてきて、猛然と剣を奮った。勝ち目がないと踏んだのか、残りのモウキたちは蜘蛛の子を散らすように散り散りに逃げていった。漸く訪れる静寂。森の中はいつもと変わらない、不気味な空間。
山小屋に引き揚げると、大臣たちは縮こまって震えていた。心底情けないと思うが、今まで頭脳専門で国を支えてきた者たちだ。責められはしない。剣の柄で肩を叩きながら、セイシンジャが降りてきた。まだ顔色はよくないが、先刻よりはかなり回復しているように見えた。また薬師に薬茶を作ってもらい、充分冷まして一気に胃に流し込む。セイシンジャはさっぱりとした笑顔でカップを置いた。
「あーやっぱコレコレ。今朝のやつさ、アンタなんか調合間違ってたんじゃねぇの?そう言えば味が違うぜ」
「はぁ、あのぅ実は・・・・・・」
薬師は先刻感じたことを素直に告白した。旅に出ると真っ先に、専用の容器に複数の薬を出しておくのだという。すぐに調合できるように。だから席を外している時も当然そのまま、薬はそこにある。誰かが侵入して悪い物に都合よくすりかえてしまうことだって、当然可能だ。特に執事なら。
「悪いが思い違いだろう。何が目的で、セイシンジャに毒を与える必要があるんだ。滅多なことは言わぬよう」
カオスは信頼している薬師には申し訳なかったが、わざと強くそんな風に告げた。案の定薬師は何度か元気なく頷いただけで、もう何も言わなかった。セイシンジャは流石に同情を禁じえない様子で、顔を覗き込んで肩を優しく叩く。
大臣たちが余りにも急かすので、カオスたちはここを引き払って帰国することにした。外に出ると、辺りにモウキの屍骸は1つとしてなく、緑色の石の欠片が敷き詰められている。カオスはセイシンジャと目配せして、先を急いだ。緑の鉱石をモウキ化させ、カオスたちを襲わせたのだろう。相当な術の使い手と伺える。それも恐らくはあの執事だ。人の皮を被ったモウキ。妃は恐らく囮とみて間違いない。
途中休息なしの強行軍だったせいか、日が暮れてすぐの時刻に街に戻ることができた。国民の歓迎に手を振って答える。その頃にはセイシンジャはすっかり回復していて、満面の笑みだった。
王や残った大臣たちへの報告は明日にすることにして、カオスはラナの部屋を訪ねる。彼女はカオスの顔を見るなり、落ち着かない視線を彷徨わせ、やがて両手を組んで大きな溜め息を吐いた。
「ご無事で・・・何よりですわ」
「ありがとう、そんなに案じていてくれたのか」
カオスはラナの手を取って、そう呟いた。できれば今すぐ妹姫のことを教えて安心させてやりたいが、侍女の前でできるようなことではない。話はもっと長く複雑に絡んでいる。夜なので侍女を部屋の隅に控えさせたまま、カオスは旅の話をした。ラナは何も口を挟まず、微笑を浮かべたままカオスの顔を見ていた。
辺りが濃い闇に包まれてきたので、カオスは自室に戻った。セイシンジャが長椅子に横になって、カオスに軽く手を揚げる。
「おつかれさん、カンドウの再会はどうだった?」
「またバカなことを」
吐き捨てるようにカオスは言って、マントを外して椅子に掛ける。セイシンジャはさして気にした様子もなく、侍女に下がるよう合図した。一礼して退出する。人の気配がなくなってから、セイシンジャは身を起こした。
「ラナ・・・いや、セアラのことはどうするんだ?あのお妃サマにバラして一泡吹かせてやっか?」
「いや、とりあえずは隠しておこう。切り札って訳じゃないが、今は安穏にことを運びたい」
「しっかしまぁ・・・今回オレやられ損じゃねぇの」
セイシンジャがぼやくと、カオスは諭すように告げる。口元には意地悪な笑みが浮かんでいる。
「自業自得、因果応報。おまえは日頃の行いが悪いからだ」
「何だよソレよぅ、納得いかねぇなぁ・・・まぁそれはおいといて、セアラのこと考えてあるのかよ?」
「・・・・・・多分、自分から話してくれるんじゃないかと思う。俺たちがファーシィで何か聞いただろうことも判っているだろうし」
「さっき会った時にそんな素振りはなかったのか?」
「あぁ、いつもと変わらなかった。もしそういう兆しがないのなら、俺が直接聞いてみる」
「おまえが?大丈夫かよ、また怒鳴ったりすんなよ?」
セイシンジャは心配そうな顔つきでカオスを凝視した。カオスには前歴があるのだ。セイシンジャが案じても仕方がない。さすがにきつくは言い返せなくて、カオスは黙って頷いた。
「ならおまえに任せるけどよ。じゃ、オレもう寝るわ。おっやっすみ〜」
セイシンジャは後ろ手に手を振って、部屋から出て行った。入れ替わりに侍女が入ってきて、寝所の用意を整えてくれる。カオスはすぐ横になって、暗い天井を眺めた。自然に頭に浮かんだのはラナのことだった。はじけるような笑顔が見たい。どうにかして幸せにしてやりたい。カオスは寝付かれないまま、何度も寝返りをうった。大きな溜め息を吐いて起き出す。
テラスに出る。夜風がカオスの頬を撫でて、髪をさらった。ファーシィに出発する間際、ラナと話した長椅子と噴水が見える。今はただ水を湛えているだけの噴水だ。カオスは椅子の上で何かが動いたような気がして、暗がりを凝視する。もしやと思って、カオスは慌てて外に向かった。音もなく走って、噴水の前で速度を緩める。ゆっくり振り返ったのは、案の定ラナだった。
「カオス様・・・・・・こんな真夜中にどうなさいましたの?」
「君こそ、どうしたっていうんだ」
カオスは慌ててラナに自分の上着を羽織らせる。ラナは驚くほど薄着だった。肩の出た薄いドレスと同じ素材の肩掛けを僅かに着ているだけの格好。外はもう秋の涼しさだ。この頃は陽が落ちてからは、夏からは考えられなかった位の気温の落差が激しい。
「月を眺めていたのですわ」
「それなら自分の部屋からでも見られるだろう?こんなに薄着で風邪でもひいたら・・・」
「カオス様に逢えるかもしれないと思っていたんです」
ラナはカオスを見て、羽織ってもらった上着を握って答えた。カオスは面食らったようにラナを見る。まるで冗談を言った後のように、ラナは小さく笑う。
「カオス様はお優しい方ですのね。本当にお優しくていらっしゃる」
「どういう意味だ・・・?」
風が強く吹きぬける。ラナは俯いて身じろぎもせず、ただ座っていた。髪が乱れたのも直そうとしない。カオスは隣に腰掛けてラナを覗き込む。ラナは泣いていた。音もなく透明な雫が瞳から流れ落ちて、膝の上に溜まる。
「どうしたんだ・・・何故泣くことがあるんだ」
「全てお判りなのでしょう?どうしてわたくしを責めないのですか・・・?わたくしはあなたやセイシンジャ様を騙していました。嘘を申し上げていたのですわ、自分のことを忘れてしまったなどと・・・・・・嘘をついていたのです」
「・・・・・・」
カオスは何も言えずに、黙ってその横顔を見つめる。そしてラナの頬に触れた。ラナは驚いたように、カオスをゆっくりと見た。カオスは両手で頬を包んで涙を拭うと、ラナを抱きしめた。華奢な身体をしっかりと抱きとめる。
「話したいことがある。外聞を憚る話なんだ、部屋に行かないか」
カオスは言ってから初めて下心のようなものを感じた。だが言い訳をいうと、余計に空々しくきこえてしまうかもしれないと思い直して、ラナの手を誘った。
灯りを弱く点して、カオスは柔らかい長椅子に腰掛けた。ラナは窓辺に立ち、月を眺めている。見事なまでの満月が強く光を投げかけるので、下手な灯りよりも余程明るい。
「俺はラナが意識を覚ました次の日に、あの森に一人で行ったんだ・・・そこでファーシィ王家の紋章の入った首飾りを見つけた。それで密使をファーシィに遣った。ファーシィ王朝での出来事を聞いて、まさかそれがラナのことだとは信じられなかった・・・そんな辛い目に遭ったのなら、誰だって今までの自分を捨てたいと、忘れてしまいたいと願う筈だ。折しもファーシィからの国交復活の書状が来た。そして昨日の夜、君の妹姫に直接会って話を聞いた。君のことを心の底から案じていて、君の無事を本当に喜んでいた」
「妹は・・・無事でしたのね?良かった・・・・・・この数日、そればかりが気になっておりました」
「済まないと思っている。知らなかったとはいえ、隠れて調べ回って君の気持ちを無視した」
「いいえ、わたくしのことを心配していらっしゃったからでしょう・・・?わたくしに生きろとおっしゃってくださったこと、本当に心強かったのですわ。カオス様には、どう申し上げて言いか判らない程感謝いたしておりますのに・・・」
ラナはうな垂れるカオスの前に立って、そっと微笑みかけた。優しい気配にカオスは顔を上げる。カオスはゆっくりと手を伸ばして、ラナを抱き寄せた。頬を胸に当ててその鼓動を聴く。暖かい響き。ラナは母親が子どもにそうするように、目を閉じてカオスを抱きしめる。
ゆっくりと時間が流れていく。
二人はどちらからともなく、お互いの唇を重ね合わせていた。絹よりももっとしなやかな髪が揺れる。カオスは今までになく愛おしくラナを想う。髪の中に手を差し入れて口づける。ラナはうっとりと目を閉じて、全てをカオスに委ねていた。
「離れている間、君のことを考えない日は一日たりともなかった・・・」
「わたくしも、毎日カオス様の身を案じておりました。本当はファーシィにも行って欲しくありませんでしたの。あの邪悪な執事に会われるだけで、あなたの身が穢れておしまいになるのではないかと心配申し上げておりましたわ」
「君の祈りが通じていたから俺は大丈夫だ」
「・・・・・・カオス様」
カオスは真っ直ぐにラナを見つめる。緑色の瞳が、月明かりを背負って深緑に変色する。どの鉱石よりもずっと綺麗だと、カオスは思った。髪も唇も、何もかも。カオスは立ち上がり身体を入れ替えて、ラナを抱き寄せる。
「・・・・・・様は止めてくれないか?俺はラナと対等でいたい」
「カオス・・・・・・」
そのまま静かに二人は後ろに倒れこむ。何度も口づけを交わして、カオスとラナは夜を共に過ごした。ゆっくりと夜は更けていく。
明け方カオスは肌寒さに目覚めて、安堵の息を吐いた。傍らにはラナが穏やかな寝顔で腕の中にいる。ともすれば夢だと認識してしまいそうな出来事だった。そっと抱き上げ、寝室に連れて行く。ラナの身体を横たえると、微かな身じろぎをした。やがて目が開いて、カオスを捉えると微笑んだまままどろむ。安らかでかけがえのない瞬間。カオスは暖かいラナの身体をしっかり抱いて、また眠りにつく。
暫く時間が経って、ラナはカオスがしっかり眠っているのを確認して、そっと寝所を抜け出し部屋に戻る。いつまで待っていてくれたのか、侍女が部屋の隅の椅子に座って居眠りをしていた。鳥の声が外から小さく聞こえる。もうすっかり朝だ。やがて人々が目を覚ますだろう時間に二度寝をすることに、ラナは何だかおかしかった。子どものようなカオスの寝顔を思い出しながら、布団をひき被って眠る。久しぶりの落ち着いた深い眠りがラナを支配する。
控えめなノックの音に、カオスはゆっくりと身を起こした。外からの強い日差しが眩しい。まだ上手く働かない頭を軽く振って扉を開けると、セイシンジャが立っていた。隣には申し訳なさそうな顔をした衛兵がいる。強引に扉を開けさせられたのだろう。
「おっはよ〜さんっ!なーに寝ぼけたツラしてんだよっ」
「うるさい。まだ寝る」
カオスが真顔で扉を閉めかけるのを、セイシンジャは慌てて足を挟んで阻止した。不機嫌そうなカオスの表情にも臆することなく、入室する。
「・・・んっ?んー」
セイシンジャは窓際の長椅子に目を遣って、暫く見つめていた。カオスも目を向け、瞬時にセイシンジャの言葉の意味を深く理解した。ラナの羽織っていた肩掛けが置いてあったのである。勿論瞬時に目は完全に覚める。
「はー、そう来たか。カオスちゃんてばよぅ」
セイシンジャは昔からカオスの優位に立った時は必ずちゃん付けで呼ぶ。言い返す言葉のないカオスはいつもセイシンジャの気が済むまで付き合ってやることにしている。そうでないと向こう1ヶ月はその話を掘り返されるのだった。
「・・・・・・」
「何か言えよ、黙ってねぇでさ。良かったじゃん、この際勢いでケッコンしちゃえよ」
「突飛だな、おまえはいつも」
カオスはいつになく優しいセイシンジャの言葉に、慎重に返答する。もっと激しく冷やかされるのを予想していたので、少し拍子抜けだった。
「そうだよなー、それが一番自然でいいっ!オレ、おまえと妹姫じゃあなんかちょっと違うって気がしてたんだよ。そっかー、ところでホントに妹姫とおまえ何ともなかったんだろうーな?」
「おまえじゃあるまいし、俺は誰とでもという訳にはいかないんだ」
「お?言うねぇ、そりゃあ勘違いだ、オレは別に誰とでもって訳じゃあねぇよ。ただ範囲が人よりも広いってだけで、オレにも好みってもんはあるんだぜ」
セイシンジャは困ったような表情で大袈裟に頭を振ってみせた。完全に無視して、カオスは迷惑顔でセイシンジャに問う。
「そんなことはどうでもいい。それより朝っぱらから、何の用だ」
「おぉ、忘れるとこだった、今回の成果を今日の昼食会で報告だとよ。しち面倒臭ぇなぁ。一服盛られてひっくり返ってましたとでも言えっつーのか?」
「判っていると思うがそれは内密に。とりあえず黙って国交を維持だ。後でいくらでも暴けるだろう?」
「黒幕は執事だぜ?妃はただのコマだ。ヤロウどうにかしてギャフンと言わせてやれなぁかなぁ、くそぅ今思い出してもムカつく!」
個人的に大きな恨みを抱いて、セイシンジャは投げやりに寝所に身を横たえた。手入れの行き届いてない、長めの髪が八方に散らばる。カオスは適当な椅子に座って脚を組んだ。穏便にことを運ぶ、か。あれこれ思案して、カオスはやがてひとつの結論に至った。奴らが何よりも驚くことは、セアラが生きているということだろう。それを公式の場で公開するのはどれ程効果的か。どんな顔をするか、見ものだ。ただ、何という名目でセアラを連れてくるかが問題だ。何気に伴わせるのもしゃくだし、かと言って侍女のような真似もさせられない。カオスは先刻セイシンジャの言っていたことを思い出した。婚約発表というテがある。カオスはそれをセイシンジャに話した。
「婚約ぅ?マジで?」
「真似だけでもいい、勿論それはラナの意見を尊重するつもりだがな」
「やっちゃえやっちゃえ!マジでケッコンしろっ!しちまえっ!それがいい!」
セイシンジャは大喜びで手を叩いた。半分以上は茶化しているようだが、それでもカオスには反対されないだけでも少しは気が紛れる。内心そう思いながらも、溜め息まじりで評する。
「他人事だと思って・・・おまえはカンタンだな」
「いや、何言ってるんだよ。オレはちゃんとおまえのことを考えてるって!判んないかなぁ、オレのオヤゴコロが。このままだと、王様とかおまえの気にいる気にいらねぇ関係なしでどっかから嫁サン連れて来ちゃうぜ?そうなるより、絶対この方がいい!恋愛結婚万歳!!この昼食会で公表しちまえ!なんならオレが言ってやろうか?」
「いや・・・・・・いい、遠慮しておく」
「何でだよぅ?水臭いやつぅ。まぁいいや、じゃあ後でな!」
セイシンジャは一人舞い上がって、部屋を出て行った。カオスは暫く放心したように椅子に座っていた。その後、侍女が軽めの朝食を持ってくる。今日はとても天気がいいようだ。カオスは食べ終わると、身支度を素早く済ませてラナの部屋に向かった。テラスにいたラナは嬉しそうにカオスの元に駆け寄ってきた。手には薄い童話がある。侍女はカオスと入れ違いに出て行ったので、ラナはカオスに抱きついた。
「恥ずかしいですわ・・・顔を見るのが」
カオスは何と答えたらいいか判らなかったので、黙ってラナを抱き寄せている。ふと意地悪な気持ちが湧いてきて、愛しい人の顔を覗き込んだ。
「昨日のことが夢のようだった。起きたら君がいなかったから」
「恥ずかしかったのですもの、起きたばかりのわたくしを見られることが」
「どうして・・・こんなに綺麗な君が」
カオスは頬を両手で包み込んで、優しく口づけた。微かに目を開いてみると、閉じた瞳が一際可憐だった。この幸せな時間を何より大切にしたい。カオスも、恐らくラナもそう思っているだろう。すっと前からお互いが安住の地であったような気さえしている。二人で庭に出て、歩きながらカオスは話を切り出した。ラナは懸命に耳を傾ける。
「昨日の今日で、俺のことを全て判ってはいないだろうけど、決して浮ついた気持ちはない。一生涯君だけを妻とすることを誓う。ずっと俺の側にいてくれないか・・・?」
「嬉しい・・・」
ラナは潤んだ瞳でカオスを見上げ、頬を染めて頷いた。カオスは嬉しさのあまり、滅多に見せない笑顔でラナの手を取る。ラナも恥ずかしそうに微笑んだ。
「わたくしもカオス様のことをお慕い申し上げております・・・本当にうれしゅうございますわ」
「ラナ・・・いや、セアラ、様はよしてくれ」
照れくさそうにカオスはセアラの手を強く握った。初めて呼ぶ名前。見つめあい、微笑む。たまたま窓からそれを見ていたセイシンジャはカオスの求婚を察知し、セアラの部屋の物を全部カオスの部屋に移させた。戻ってきて流石に驚いたが、幸せな二人はそれすらもおかしい。
午後からの昼食会で、カオスは婚約を発表した。摩擦をなるべく減らす為、ラナという記憶を失った少女ということにしておく。父王は殊更喜び、明日にでも挙式の段取りを組んでしまいそうな勢いだった。大臣たちもカオスが身を固めるのに多いに賛成してくれた。ファーシィとの外交が終わった後、国を挙げての大々的なものになるだろう。明後日にやってくるファーシィの使節団が帰る最後の夜に、カオスたちの計画通りに婚約の晩餐会をやることになった。
一日中そばにいたいのを堪えて、カオスは使節団を迎える準備に大忙しだった。セアラにも色々協力してもらって、もてなす手筈を整える。
そして、当日。
生憎の雨だった。それで少し到着が遅れてしまったが、滞りなく予定は消化されていく。妃は万事上機嫌で、聞きもしないのに妹姫の話ばかりしてくる。相手をセイシンジャに任せて、カオスはぼんやりセアラのことを考えていた。
慌しく歓迎の日々は過ぎていく。とうとう最終日が来た。午後から街の主な施設を見学するのに同行して、いよいよ晩餐会が始まる。カオスよりもセイシンジャの方がこの夜を待ちわびていたようだ、異常に元気だった。
王はさも嬉しそうに、ラナをファーシィの人々に紹介する。妃と執事は見るも気の毒な程青ざめ、その他の事情を知らない者たちは皇女の無事を多いに喜んだ。この度の外交と婚姻は両国にとって、大いなる発展に繋がる。
セイシンジャは意地の悪そうな笑みを何度も執事に向けていた。その夜、執事は自室から忽然と姿を消してしまった。衛兵も誰も、目撃していない。ファーシィ側からも捜索の要請が出なかったことから、可也大臣たちの反感を買っていたらしい。妃は人が代わってしまったようにおとなしく縮こまっていた。ファーシィを牛耳るモウキが姿を消したことで、この国にも平和が訪れるだろう。カオスは妹姫宛の書状をセイシンジャに託した。これから少し森を開拓して、街道を開く。お互いの国民がもっと出入りしやすいように、序々に発展させていくつもりだ。領事館の責任者にはセイシンジャが抜擢された。カオス達の結婚式が終わった翌日、セイシンジャはファーシィに旅立った。風の噂ではセイシンジャらしくなく、真面目に働いているらしい。
幾つか季節が過ぎた。
セイシンジャは任期を終え、妹姫を伴って帰国した。カオスは全く預かり知らぬことだったので、驚いて話を聞いた。年が暮れる頃に子どもが生まれるらしい。ちょうどセアラと同時期だった。
もうすぐ夏が来る。
カオスはテラスに出て森を眺めた。ここからは街道がよく見える。人通りは絶えず、先は明るい。風が吹いて、カオスのくせのない髪を揺らした。
File2.0 時の扉
File2.1 幼馴染み
File2.2 高校生。
File2.3 大事なこと、信じているもの。
File2.4 バトルロワイヤル
File2.5 青春X3!
File2.6 When we were green.
File2.7 つりにゆこう
File2.8 空が青い日
巻末付録(ミニデータベース)
公式HPより抜粋記事
言い訳ついでにあとがき