亀岡の街道 山陰街道 1(老ノ坂から柏原)     

 亀岡市の
幹線道である山陰街道を歩きます。
 シリーズ『山陰古道』では奈良時代以前の古代の道を歩きましたが、今回は近世、江戸時代から現在の国道9号になるまでの丹後道とも呼ばれる『山陰街道』を訪ねます。

 新修亀岡市史にはこう記されています。
「近世の山陰道は、京七口の一つ丹波口(七条口)を起点として七条通りを西へ進み、桂川を渡し舟で渡り、樫原・沓掛村を通り、老ノ坂峠を越え、丹波国亀山藩領に入った。安政2年(1855)、幕末の志士清河八郎は、母と下男の三人でこの道を旅している。その紀行文には、京都に出る商人が絶え間なく、往来は思いの外にぎやかで、老ノ坂の上に茶屋があり、地蔵尊が安置されていて、ここからは淀・伏見が見渡せ、景色の良い休憩所であったと記されている。(中略)境石のところから丹波国で峠町には桝屋、万屋、松屋、柿屋、蕎麦屋など、旅籠や煮売りなどの商いの店が軒を並べ・・・」とあります。

 たしかに江戸時代の町を描いた拾遺都名所図絵「老ノ坂」図を見ると、この紀行文と同じ風景になっていますが、現在の旧老ノ坂峠の辺には民家跡が何軒かありますが、市史に記載してあるような面影は全く見られません。こんなにも変わるものかと感慨深いです。また、この辺りからは淀・伏見は絶対見えません、見晴らしの良い老ノ坂の上の茶屋はもうすこし京都よりにあったようです。

 国道9号の京都霊園入口から縦貫道沿いに山道を西に進み、洛西クリーンセンター進入路の橋をくぐれば『首塚大明神』まで旧道が繋がっています。そこからは舗装道になり、下り坂の途中に『増井の清水』跡がありますが、案内板がないのでわかりにくいです。江戸時代には旅人とが喉を潤した場所で、『南無妙法蓮華経・・』(1631年)の石碑があり増井観世音菩薩(1717年)もあったそうですが、観世音菩薩は今は老ノ坂トンネルの西詰めに移動しています。

 さらに進むと9号線の眼鏡橋辺りに出ます、明治15年に眼鏡橋ができるまでは旧道はここから農道を通り王子神社に出ます。農道を歩くと「占い石」の案内板があります。占師がこの石に座り旅人を占っていたといいます。さらに進むと三軒家や鵜ノ川にある船着場跡がありのどかな田園風景がつづき、旧道(府道王子並河線)にでると王子神社があります。
 こんもり茂った森の中にあり「くらがりの宮」とよばれていますが、江戸時代の書物には正一位王子大権現と書かれてあり位のあるお宮だったようで、旅人が安全を祈願していったようです。祭神を熊野から迎えたと言われ、この地での熊野信仰がうかがえます。また、寛延3年(1750年)後水尾院勅願の天神様を祀り境内に天満宮が造営され、王子天満宮と呼ばれ五穀豊穣、家内安全、学問の神として信仰を集めました。


 王子神社から西はほぼ現在の府道王子並河線と同じルートになります。足利尊氏が活躍した時代には篠村八幡宮の裏道(旗立て楊のある通り)が街道でしたが、江戸時代になり亀山藩初代藩主岡部内膳正長盛が城下町開発で道路整備を命じ、王子から馬堀の当たりを整備し、広道を造ったという記録があり、広道という地名もあります。
 参勤交代が始まると共に街道筋が発展していったようで、元禄年間に広道に旅籠「鍵屋」が店を始め、その後も藤屋、丸屋、菱屋などの屋号の旅籠ができたようです。さらに駕籠屋、茶屋、草履屋、菓子屋、鍛冶屋などが店を並べて賑わったようです。いまでも街道沿いには古い家が多く残り街道の面影があります。
 篠町柏原の念仏寺の前を通り年谷川まできました。この川は江戸時代には寺川と呼ばれ、千本松がありました。川を渡るといよいよ城下町です。


(国分石)

現在の峠町


増井の清水跡にある石碑

占い石

王子神社

篠村八幡宮のあたり

篠町広道あたり
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