篠村八幡宮(しのむらはちまんぐう)



  篠村八幡宮

  本殿(左奥に矢塚があります)

  旗立楊

  乾疫神社
 篠村八幡宮は、延久3年(1071年)後三条天皇の勅宣により河内の誉田八幡宮の御霊神を移したと伝えられています。神社には翌4年に源頼義の花押のある寄進状があります。これには「丹波の国八幡宮の修宮のため篠村荘を寄進する・・」とあります。

 篠村八幡宮は足利尊氏が挙兵した地として有名です。
 1333年5月7日に足利尊氏がここで挙兵し鎌倉幕府を倒しました。その時に尊氏が奉納した願文が残されていますし、尊氏や集まった諸将が矢を奉納したという「矢塚」、挙兵のため白旗を掲げたという「旗立楊」があります。

 足利高氏は、北条執権から政権を後醍醐天皇に戻そうとする勢力に対して、1333年六波羅の幕府軍の援軍として鎌倉から呼び寄せられ、同年4月27日長岡京市辺りから京に入り久我畷の戦いがはじまった。幕府軍は優勢であったが、幕府軍の大将名越高家(なごやたかいえ)は不覚にも、敵の矢で眉間を射抜かれあえなく討ち死に。それを聞いた足利高氏はすぐさま丹波国篠村に兵を引きます。
 篠村は源氏の地領があり、また母の里が近くにある(綾部市上杉)と言うことで篠村に来たと考えられています。

 高氏はそこで兵を募り、5月7日反旗を翻し六波羅に攻め入ります。その数2万5千とも3万とも言われます。実は高氏は鎌倉から京に来る前から倒幕をくわだてており、後醍醐天皇から入洛直前に倒幕の勅命をもらっていたと言われています。 通説としては「太平記」にある5月7日当日に「願文」を書かせ祈願したとされていますが、篠村八幡宮にある「願文」は4月29日の日付となっており、すでに前もって書いていたのではないかとも考えられます。

 その後、足利尊氏は後醍醐天皇を擁する新田義貞軍を破り室町幕府を開きましたが、1346年には丹波国一宮「出雲大神宮」の本殿の造営をするなど、亀岡ゆかりの武将です。

 また、当神社境内には「乾(いぬい)疫神社」がまつられています。 疫神社は平安時代前期に朝廷により畿内 10カ所で疫神祭がおこなわれた厄除けの神社で、丹波地方から山陰道を通って平安京に入る悪霊を治めるために峠に設けられていたが、後にここに移されました。京都の今宮神社や石清水八幡宮疫盡堂と同時期に創建されたと言われ日本最古の疫神社の一つです。京都からは西北の方向にあるため「いぬい疫神社」と呼ばれています。

 篠村八幡宮では毎年9月の第3日曜日に放生会例大祭が行われます。境内では子ども相撲大会や夜には出店が並びにぎやかです。