亀岡の街道 巡礼道(善峰寺から穴太寺)  

 城下町を歩いていると道標をみかけます。愛宕灯籠はよくありますが、灯籠にも「左あなう道」とか書いてあるものもあります。
 道標を見ると穴太寺や愛宕山、善峰寺、妙見山がよく見かけます。そうです、穴太寺は西国三十三所観音霊場の21番札所であり「巡礼道」という道があります。
 西国三十三所巡礼は、定かではないが応保元年(1161年)、大津の三井寺の僧・覚忠が修行のために廻ったのが始まりといわれています。その後,、修行僧や山伏たちが信仰のために巡礼をしていたが、江戸時代、元禄年間には社会が安定し宿場も整備され庶民にも広がり、巡礼だけではなく観光の要素が強くなってブームになったようです。そのために道標も多く建てられるようになりました。
 
 西国札所は20番の善峰寺、21番穴太寺、22番茨木の総持寺の順ですが、人気コースは、19番札所京都・行願寺革堂から愛宕神社へ参り、そこから穴太寺、善峰寺、総持寺へ巡るのがはやっていたようです。驚くことに「西国巡礼細見記」というガイドブックもあったそうです。それによると善峰寺から穴太寺までは四里半、穴太寺から総持寺までは六里だそうです。穴太寺への道は洛西大原野外畑から山を越え寒谷、鍬山神社、医王谷を抜けるのが早いとされ、総持寺へはまっすぐ南に与能神社、桜峠から東別院を通ります。それと保津から水尾へ行く愛宕谷の道、これらを西国三十三所巡礼道とよばれています。
 
 道標を訪ねて善峰寺から穴太寺までの巡礼道をたどってみました。

 西京区大原野外畑から西へ林道を通り篠町寒谷へ抜ける林道があります。今は車両通行禁止になっていますが、昔、老いの坂が事故で通行止めになったとき、車で京都へ行くのにここを通ったことがあります。大原野から来ると峠に三叉路があり高槻にも行けます。さらに下ってくると釣り堀がありそこを過ぎると寒谷の集落。車がやっと通れる市道ですが、当時の巡礼道は民家の直ぐ横を通る野道だったようで、民家の前の野道に道標があります。二つ並んでいて「右よしみね」「左あなう」とあります。

 巡礼道は寒谷を越え、イトーピアの南の林道を超えて鍬山神社の前に出ますが、今は入山禁止になっています(熊が出るという注意書があります)。鍬山神社の境内にも「右よしみね」という道標があります。

 鍬山神社から君塚団地をとおり医王谷へ抜けますが、開発されていて道は定かではありません。君塚団地に道標が地蔵さんと一緒に祀られています。右側から「右手」の道標、その左からは地蔵さんや台座に「四国八十八カ所」、「右よしみね」、「左あなう」、「右よしみね道」、「文久元年」(1861年)とあります。地蔵さんに道しるべがあるのは、巡礼途中にここで亡くなった人を祀ったものでしょうか。団地造成の時にここに集めたようです。

 医王谷にある秋葉神社の一の鳥居近くにも道標がありました。「右山みち」「左よしみね」とありますが、道標の場所が移動しているため推測ですが、「山みち」とは秋葉神社への参道でしょうか。この秋葉神社は元禄年間に建立されたもので山の頂上にあります。医王谷を抜ける道は京都縦貫道の側道になっていて、道幅は狭いが交通量は多いので注意して進みます。

 医王谷から中山池を抜け京都縦貫道と池田街道との交差点を過ぎると穴太の集落が遠くに見えてきます。農道に入り走田神社の南の田んぼの真ん中(この辺りを曽我部町重利といいます)にひときわ大きな道標があります、「右よしミね道」「左かめ山・京道」。この道標は高さ165cm、37cm角で、亀岡の道標のなかでも一番大きなものだと思います。農道を進むと小川を渡る小橋があります、その名を「巡礼橋」といいます。 
 
 ようやく穴太寺に到着です。「西国巡礼細見記」によると善峰寺から穴太寺までは四里半ですから約18kmです。ホントに昔の人はよく歩きます。信仰と行楽を兼ねた巡礼道、森林浴もでき健康にも良い「巡礼」をしてみませんか。亀岡の道をもっと歩いて、故きを温ねて先人の自然を楽しむ心、愛しむ心を感じてみませんか。

寒谷の民家前にある道標

鍬山神社百太夫社横の道標

君塚団地にある道標・お地蔵

右手矢印の道しるべ

医王谷の道標

曽我部町重利の道標
「右よしミね道」
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