亀岡の街道 山陰街道 3(丹後口から川関)

 西町の上羽のとうふ屋さん、内藤印刷の前を通り北町の楽々荘、緑橋を渡って安町の商店街へ。町のなかに古い薬屋さんがあり、懐かしい薬の看板が掛けてありました。

 さて安町を進み、道がくの字に折れたところに洋菓子のシオンがあり、そこの路地を下ったところに古井戸がありあります、ここが『清水口』です。清水が湧き旅人がのどを潤したことから清水口と呼ばれるようになった。そのそばの愛宕常夜灯に「あなうみち」と書かれており、京都から愛宕山に参詣し保津を通り曽我谷川沿いに進むとこの清水口に着きます。この道も巡礼道と呼ばれています。

 曽我谷川(江戸時代には河原町川といった)の常磐橋のたもとにある提灯屋さんの当たりが番所のあったところ。ここを越えると河原町の一つ目信号の交差点、そこにある道標は「左 ささ山、はりま」、「右 丹後、みやず、そのべ」。
 左へ進むと篠山街道で篠山口、右は河原町の茶屋ノ前と呼ばれたところでこの辺りが『丹後口』。お茶屋や旅籠、煮売屋などが並び栄えていたらしい。巡礼客や丹後、播磨から来る客がこの辺りの旅籠屋に泊まるので、旅籠町の客が減るので旅籠屋を旅篭町以外では開かないよう藩に訴えたという宝暦8年(1758年)の記録があります。
 さて、河原町の和菓子屋「塩武」で新栗を使った「栗もち」を食し舌鼓を打って北に進みます。


   山陰街道は河原町から保津川団地の前を通る府道を並河に向かいますが、江戸時代にはもう少し北よりの路を通ったようです。
 JRの踏切を越え宇津根町にはいったところに伊達神宮があります。山陰道はここで左に曲がっていたようで、境内に道標があります。
 伊達神社は延喜式内社で永光尚先生の「亀岡百景」によると「鎌倉のはじめ、奥州の藤原忠衛が任務で京都に来ている時、宇津根を領地に賜り、ここに暮らす間に村長の娘とねんごろになりました。任を終えて帰る時、娘は懐妊していたので、忠衛は「もし男子であれば三歳まで養育し、この鎧、太刀を印に、この黄金を旅費にして奥州へ下れ、もし女子なら黄金をもってよき人に嫁がせよ」と、鎧、太刀、黄金を渡しました。産まれた子は女子だったそうです。この子は後に父忠衛の霊を伊達神社にお祀りした。」という言い伝えがあります。

 さて、保津川団地の前の府道を通って犬飼川を渡ると大井町並河になります。ここまでくると、家並みも町家から農家建築になり、この辺りには立派な家が沢山あります。中でもこの写真の茅葺きの門が大事に残されているのには驚きです。
 旧道は並河の集落内を抜け大井神社の横を通っていたようですが、道がややこしくよくわからないので府道をまっすぐ進むと、船越豆腐店がありました。この地で豆腐屋を開いて三代目だそうです。豆腐とお揚げが美味しそうでした。
 
 国道を渡りしばらく行くと地蔵さんに「右あなお、左京みち」と記された道標があり、また、「右そのべ、左とこなげ」と書かれた道標もあります。この辺りは千代川町小林といい、菅原道真が立ち寄ったという小林天神も近くにあり、昔の往来が感じられます。さらに進むと千代川小学校がありますが、ここの門は亀山城下の高級藩士宅の門を移築したものです。 千代川町千原の小松寺には源時頼ゆかりの「高卒塔婆」があります、当時は街道沿いにあったそうで、この辺りを「たかそとば村」とも呼ばれランドマークになっていたようです。

 いよいよ山陰街道の亀岡の最後の村である千代川町川関に来ました。「新修亀岡市史」によると、元禄時代には商品流通が盛んになり、川関村や大井村の街道筋に新しく荷問屋を営むものが現れ、奥から来る商売人の荷をここで受けて馬の背に積み替え、城下を通らずに直接京へ送るので、城下町の問屋の荷が減って困ると京都町奉行所に訴えたと言う記録があります。
 宮前町猪倉の砥石商がこれまで保津川の川船で運んでいた砥石をこの川関で馬に積んで運ぶようになったとも記されており、かなりの往来があったことが想像されます。

 こうして昔から幹線道路として栄えてきた山陰街道筋。今では京都縦貫道ができ通り過ぎるだけになりつつありますが、それでも亀岡は口丹波の要衝の地、中核都市として元気を出して欲しいものです。

 山陰街道シリーズはこれで終わりです。亀岡市内で全長約16km、老ノ坂から川関まで随分町並みが変わっていき、いろんな発見もあり驚きもあり楽しい散策でした。皆さんも昔の街道を歩いてみてはいかがですか。




北町の楽々荘


清水口の井戸


丹後口にある道標

伊達神社

並河の阿弥陀寺

民家の茅葺き門

千代川小学校の門

小松寺の高卒塔婆
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