延喜式祝詞、神社



久度、古関

 延喜式祝詞に久度古関というものがあります。桓武天皇が奈良の今木から平安京に移したという平野神社内の祭神です。延喜式には平野祭に続いて久度古関が記されていますし、平野祭の祝詞には皇太御神と記されているのに、久度古関には皇御神ですから、平野(今木)神の方が神格が高くなっています。祝詞の内容にはほとんど差がありません。
 奈良県北葛城郡王寺町久度に久度神社があり、延喜式の久度もこの神と考えられます。竈の煙抜きの穴をクドといい、竈のことをクドという土地もあることから、竈神ではないかとする説(伴信友)がありますが、それなら、まったく同じ祝詞を唱えられる今木、古関も竈神ということになってしまうでしょう。祈りというのはその神の縁起や神威によって異なるはずです。この三神には同じ力がある。少なくとも一つにまとめられている久度、古関は同じと見なければならないのです。
 「天皇の御世を岩のように堅く長く斎(いわ)い、盛んなる御世に幸いをもたらし、天皇が万世に渡ってもありつづけるようにしてください。」と祈り、「参り集まって仕える親王等、王等、臣等、百官人等をも、夜の守り日の守りに守りたまいて、天皇の朝廷に高く広く茂る枝のように立ち栄えて仕えさせていただけますように。」という言葉が付け加えられています。
 皇室、国家、国民の繁栄を願うのは祝詞の性格上当然なのですが、この三神には皇室の守護、国家体制の護持がことさら強調されているわけです。国を覆そうという勢力に対する効験がある神。その性格は、いつ、どこから導き出されたのかということになります。
 道饗祭という祝詞もあり、八衢比古、八衢比売、久那斗という名の神に祈ります。大八衢にゆつ磐群の如く塞ぐ神、夜の守り、日の守りに守りまつる、つまり、道を守って入れないという神です。神格は久度古関より低く、それに応じて、久度古関ほどレベルの高いことは望んでいません。
 久那斗神は黄泉の国から帰った伊邪那伎命が投げ捨てた杖に成った神で、衝立船戸神ともされています。道に杖を立て、そこから先へ入ってはいけないという意志を示す風俗があったのです。
 この神を祭る舟戸神社が同じ王寺町舟戸にあります。位置を見ると、この二つの神社は大和川とそれに沿う道に関係するように見えます。奈良盆地を潤した水は全てこの一点から流出し、久度はそれを煙抜きの穴にたとえた地名かと思えるのです。

 
                   延喜式二十八篇の祝詞のうち、武器を供えるのは
 春日祭(御横刀、御弓、御桙、御馬)
 広瀬大忌祭(盾、戈、御馬)
 竜田風神祭(盾、戈、御馬)
 平野祭(御弓、御大刀、御馬)
 久度古関(御弓、御大刀、御馬)
 祟り神を遷し却る(弓矢、太刀、御馬)
        の六篇に限られます。
 
 つまり、河内と大和を結ぶ大和側の先端部に、武器を供えて体制を護持する久度神社があり、すこし内に、ここから先へ入るなという、道を守る神、船戸神が祭られているわけです。この神々によって大和が守られているということは、河内に敵対勢力があったことを想像させます。
 そして、魏志倭人伝に示された邪馬壱国と狗奴国の対立に思いが及ぶのです。河内は狗奴国の臣、コウチヒコの所領でしたから、この位置に邪馬壱国側の防衛拠点が設けられたと考えても何ら問題がなく、考えない方が不思議なくらいです。
 狗奴国本国、紀ノ川(吉野川)筋からの攻撃も、当然、防がねばなりません。そして、五条あたりが狗奴国の所領だったなら、もっとも平坦で入りやすい道は、現在、JR和歌山線が走っている蘇我川沿いの道になります。もう一つは国道309号線の谷で、吉野方面からの侵入が可能です。この二つの道の合流しているJRや近鉄の吉野口駅付近が最も効率の良い防御拠点になります。近代でも二本の鉄道と一本の国道がこの狭い谷間に集注せざるを得なかった。ですから、ここに狗奴国の侵攻を防ぐべく邪馬壱国側の関が設けられたと考えることは、久度と同じくらい当然ということになるわけです。
 古関は、延喜式には、下の文字が書かれています。門の中に弁が入っていて、弁は「分ける」という意味で、日本では開けたり閉めたりして流れを変えるものに使われますから、これは関の俗字と考えられます。古開とする一本もあるようですが、開の誤記ではなく、逆に、この文字が間違って開と記された可能性の方が強いでしょう。
 そして、谷間の最も狭くなっている地点に古瀬という地名がありますから、この吉野口駅付近に古関があったのではないかと思わせるのです。「関、堰(せき)」は「堰く」の名詞化で、「堰く」は「狭(せ)」の動詞化だといいます。
 平野神社は今木から移されたとされています。現在、古瀬の東南方に今木という字がありますが、古代はもっと広域で、北方の越智あたりまで今木だったようです。したがって、平野神社(今木神)の元の位置は想像しにくいのですが、国道309号線に沿う今木に今木神が祭られ、JRの走る蘇我川沿いに古関が祭られていたということかもしれません。
 大和朝廷の神武(=崇神)天皇が、この神の守護する久度(対河内)や今木、古関(対紀ノ川筋)から侵攻することは出来ず、守っていない宇多から大和に入らざるを得なかったということもこの神々の神威を高める結果になります。
 平野(今木)、久度、古関は大和の防衛神で、弥生時代の邪馬壱国と狗奴国の対立にその起源を発し、狗奴国の侵攻を許さなかった効験から祭りが続き、都が平安京に移転したとき、平安京鎮護のため京都に移されたと結論できます。


延喜式祝詞

久度古閞
天皇御命 久度・古閞二所尓之氐供奉來皇御神廣前白給 皇御神万比之 此所石根宮柱廣敷立 高天千木高知 天御蔭・日御蔭定奉 神主某官位姓名定 進神財 御弓・御大刀・御鏡・鈴・衣笠・御馬引並 御衣多閇多閇多閇多閇尓備奉 四方國礼留御調荷前取並 神酒𤭖乃閇高知 𤭖腹滿並 山野物甘菜・辛菜 靑海原 鰭廣物 鰭狭物 奥都毛波 邊津毛波爾末天 雜物如横山置高成 獻宇豆大幣帛 平所聞 天皇御世 堅石常石 齋奉 伊賀志御世幸閇奉 万世御令坐 稱辭竟奉久登
又申 參集仕奉 親王等・王等・臣等・百官人等乎毛 夜守日守守給 天皇朝廷彌高彌廣 伊賀志夜具波江立榮之女令仕奉給 稱辭竟奉良久登

「天皇が御命に坐せ、久度・古関二所の宮にして、供へまつり来たれる皇御神の広前に白したまはく。皇御神の乞ひたまひしまに(平野では二重になっていて「まにまに」)、この所の底つ石根に宮柱広敷き立て、高天の原に千木高知りて、天の御蔭、日の御蔭と定めまつりて、神主に某、官位姓名を定めて、進る神財は御弓、御大刀、御鏡、鈴、衣笠、御馬を引き並べて、御衣は明るたへ、照るたへ、和たへ、荒たへに備へまつりて、四方の国の進れる御調の荷先を取り並べて、神酒は𤭖のへ高知り、𤭖の腹満て並べて、山野の物は、甘菜、辛菜、青海原の物は、鰭の広物、鰭の狭物、奥つ藻菜、辺つ藻菜に至るまで、雑物を横山の如く置き高成して、献るうづの大幣帛を平らけく聞しめして、天皇が御代を堅石に常石に齊ひまつり、いかし御世に幸はへまつりて、万世に御坐さしめたまへと、称辞竟へまつらくと申す。
 また申さく、参集まりて仕へまつる親王等、王等、臣等、百官人等をも、夜の守り、日の守りに守りたまひて、天皇が朝廷に、いや高に、いや広に、いかしやくはえの如く、立ち栄えしめ、仕へまつらしめたまへと、称辞竟へまつらくと申す。」

現代語訳はあまり自信がありませんが。以下のような感じではないかと。
 天皇のご命令にございまして、久度・古関の二つの宮でお仕えしてまいりました尊い神様の御前に申し上げることは、「尊い神様のお求めになったとおりに、この場所(平野神社)の底深い石の土台に宮柱を広く敷き、立て、大空に千木を高く示して、天の御影、日の御影(神々が休む雲の代わり)と定めさせていただき、神主には某の官位、姓名を定めて(祝詞を称える神主の官位と名前を告げるのであろう)、お供えします神財は、御弓、御大刀、御鏡、鈴、衣笠、御馬を引き並べ、御衣はあかるたへ、照るたへ(光沢がある)、にぎたへ(柔らか)、あらたへ(目が粗い)を揃え、四方の国が貢として修めた最初のもの(初穂)を並べ、神酒は甕の上までいっぱいに満たせて並べ、山野のものは、甘い菜、辛い菜、青海原のものは鰭(魚)の大きなもの、鰭の小さなもの、沖の海草、浜辺の海草に至るまで、さまざまなものを横山のように置き高く積んで奉るたくさんのお供えを、すべてに渡ってお受け取りになって、天皇の御世を堅い岩のように、永遠の岩のように、ご祝福いただき、栄えている御世に幸いを給わって、万代に渡って続けさせていただきますようにと、お祭りさせていただきます。」と申します。
 また申しあげることは、「参上して集まり仕えている親王等、王等、臣等、百官人等をも、夜の守り、日の守りに守りたまいて、天皇の朝廷にますます高く、ますます広く、いよいよ盛んに伸びる木の枝のように立ち栄えさせ、仕えさせていただけますようにと、お祭りさせていただきます。」と申します。

 平野蔡の祝詞は「久度・古関二所の宮にして供え奉り来たる皇御神」が、「今木より仕え奉り来たる皇御神」となっているだけで、あとは文字の違いとか脱落の類だけで、内容は変わりません。「皇御神」に大が加えられている分、平野の方が神格が高かったのでしょう。平野神社内に久度古関が存在するのですから当然とも言えます。次の道饗祭では「皇神」と、御が省かれ、さらに神格が低いようです。神前で直接語る言葉ではなく、神主達に対する教科書的な文書かと思われます。

 道饗祭
高天之原事始 皇御孫之命稱辭竟奉 大八衢湯津磐村之如塞坐 皇神等之前 八衢比古・八衢比賣・久那斗御名者申辭竟奉久波根國・底國與里來物相率相口會事無 下行者下 上徃者上 夜之守日之守守奉齊奉禮止 進幣帛者 明妙・照妙・和妙・荒妙備奉 神酒者𤭖邊高知 𤭖腹滿雙 汁尓母尓母 山野住物者 毛和物・毛荒物 靑海原住物者 鰭廣物 鰭狭物 奥都海菜・邊津海菜万弖尓 横山之如置所足 進宇豆幣帛氣久聞食 八衢湯津磐村之如塞坐 皇御孫命堅磐常磐齊奉 茂御世奉給
又親王等・王等・臣等・百官人等 天下公民万天尓齊給部止 神官天津祝詞太祝詞事稱辭竟奉

「高天の原に事始めて、皇御孫の命と、称辞竟へまつる。大八衢にゆつ磐むらの如く塞ります皇神等の前に申さく。八衢彦、八衢姫、久那斗(くなど)と御名は申して辞竟へまつらくは、根の国、底の国より、麁び、疎び来む物に、相率り、相口会うことなくして、下より行かば下を守り、上より往かば上を守り、夜の守り、日の守りに守りまつり、齊ひまつれと。進る幣帛は、明かるたへ、照るたへ、和たへ、荒たへに備へまつり、神酒は𤭖のへ高知り、𤭖の腹満て並べて、汁にも穎にも、山野に住む物は、毛の和物、毛の荒物、青海原に住む物は鰭の広物、鰭の狭物、奥つ海菜、辺つ海菜に至るまでに横山の如く置きたらはして、進るうづの幣帛を、平らけく聞しめして、八衢にゆつ磐むらの如く塞りまして、御皇孫の命を堅磐に常磐に齊ひまつり、茂し御代に幸へまつりたまへと申す。また親王等、王等、臣等、百官人等、天下公民に至るまでに、平らけく、齊ひたまへと、神官、天つ祝詞の太祝詞事をもちて、称辞竟へまつると申す。」

 高天原にことを始めて、皇御孫のご命令としてお祭りを行わせていただきます。大八衢(いくつにも分かれている道に)に神聖な岩の群れのように塞いでおられる神様がたの前に申しあげること。八衢比古、八衢比売、久那斗とお名前はおっしゃって、お祭りさせていただくことは、「根の国、底の国より荒々しく、気味悪く来たれるものに、交わり口を合わせることなく、下から来れば下を守り、上から来れば上を守り、夜の守り、日の守りに守っていただき、清らかにしていただきたいと、捧げるお供えは、あかるたへ、照るたへ、にぎたへ、あらたへに揃えて、神酒は甕の上までいっぱいに満たせて並べ、汁にも穎にも(意味不明)、山野に住むものは獣のおだやかなもの、獣の荒々しいもの、青海原に住むものは魚の大きなもの、魚の小さなもの、沖の海草、浜辺の海草に至までを、横山のように置き並べて、奉るたくさんのお供えを、すべてにわたってお受け取りになって、八衢に神聖な岩群のように塞いでいただき、御皇孫命を堅い岩のように、永遠の岩のように祝っていただき、栄えている御代に幸いをおたまわり下さい」と申し上げます。「また親王等、王等、臣等、百官人等、天下公民にいたるまでに、すべてにわたってご祝福くださいと、神官が天の祝詞の太祝詞ごとを以って、お祭りさせていただきます。」と申し上げます。




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