魏志「邪馬壹(邪馬壱)国」説



 邪馬壹国か、邪馬臺国か?
  「邪馬壱国説」を支持する史料とその解説


魏志倭人伝(A・D 280頃、晋、陳寿)
「倭人は帯方東南大海の中に在り。山島に依り国邑を為す。旧百余国。漢の時、朝見するもの有り。今、使訳通ずる所は三十国。郡より倭に至るには海岸にしたがい水行し、韓国をすぎて、乍南乍東。………南、邪馬壹国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。」

後漢書倭伝(A・D 424頃、南朝、宋、范曄)
「倭は韓東南大海の中に在り。山島に依り居を為す。凡そ百余国。武帝朝鮮を滅してより、使駅、漢に通ずるは三十許国。国は皆王を称す。世々伝統。その大倭王は邪馬臺国に居す。(邪馬臺国に入っている唐注…今名を案ずるに邪摩惟音の訛なり。原文…案今名邪摩惟音之訛也。)」

隋書俀国伝(A・D 627頃、唐、魏徴)
「俀国は百済、新羅東南に在り。大海の中に水陸三千里。山島に依り居す。魏の時、中国に訳通したのは三十余国。皆、自ら王を称す。夷人は里数を知らず、ただ、日を以て計る。その国境は東西五月行、南北三月行で各海にいたる。その地勢は東が高く、西は下。邪靡堆(同時代の北史では「邪摩堆」)を都とする。則ち、魏志言うところの邪馬臺なり。」
(「俀国」となっていますが、後漢書の安帝の時に遣使した倭奴国も「俀奴国」と記されていますから、倭の異体字と考えて問題ありません。)

 隋書は「邪靡堆(ヤミタイ、北史により、邪摩堆の転写間違いと考える)」と記しており、堆を使用するようになったのは隋、唐代以降と考えられます。この頃、遣隋使、遣唐使の派遣や、裴世清(隋)の日本渡来などで、日本に関する情報が飛躍的に増え「邪摩堆」の文字が新たに使用されたのだと思われます。倭人にじかに国名を聞いた人間でなければ自ら文字を選ぶことはできず、後漢書の邪馬臺を引用するしかないはずです。おそらく裴世清の報告書の文字が起源でしょう。堆を記す魏志、後漢書については見聞したことがありません。
 隋書にしたがえば、「魏志には邪馬臺国と書いてあった」ことになります。言葉通り受け取る人もいますが、そう簡単にはいかない。後漢書(百衲本)の、「大倭王は邪馬臺国に居す。」という記述に、「今名を案ずるに、邪摩惟音の訛なり。」という唐の李賢注が続くからです。訛は言葉が誤って変化したことを表す文字です。より古い邪摩惟(ヤバユイ)音の伝承があり、それが変化して今名(唐代)のヤバタイ(邪馬臺、邪靡堆)になったのだとされ、そして、後漢書に百数十年先立つ魏志が邪馬壹国と表記している事実があるわけです。

 唐(618~907)   「長干行」 李白(701~762)
     ……
      十四為君婦  羞顔未嘗
      低頭向暗壁  千喚不一
      十五始展眉  願同塵與
      常存抱柱信  豈上望夫
      十六君遠行  瞿塘灔澦
      五月不可触  猿聲天上
     ……
       「牡丹」 李山甫(生没年不詳)
      邀勒春風不早開  衆芳飄後上樓
      數苞仙豔火中出  一片異香天上
      曉露精神妖欲動  暮煙情態恨成
      知君也解相輕薄  斜倚闌干首重

 上記は李白と李山甫の詩の一節ですが、着色文字は「カイ、カイ、カイ、タイタイ、アイ」「タイ、ライ、タイ、カイ」となり、きれいに韻を踏んでいます。
 唐の顔師古(581~645)が漢書に注を入れていて、その中には半切という方法で文字の発音を記したものがある。〇〇反とか〇〇切とか書くわけです。堆は「丁回反」で、発声語の丁(tei)と韻母の回(kai)を合わせて、tai(タイ)という発音だと示されています。
 何冊かあたってみましたが、臺の発音を注した書物はない。顔師古注で、儋(タン)は「丁(tei)甘(kan)反」「都(to)濫(ran)反」、澹(タン)は「徒(to)濫(ran)反)、「都(to)甘(kan)反」になっていますから、丁、都、徒、どの文字を使おうとも「t」という発声の語には変わりがないということでしょう。
  臺は、広韻(1008年頃)では、「徒(to)哀(ai)切」です。略字として使われる同音の台は、唐韻(唐代)では、「與(yo)之(shi)切」、「土(to)来(rai)切」で、「yi」音と「tai」の二音があったようです。集韻(1039年頃)では「湯(tau)来(rai)切」、並びに音「胎(tai)」になっており、土(to)は「他(ta)魯(ro)切」。
  以上により、唐代の、臺の音は「tai」、堆も「tai」ということになります。中国語の発音や発音記号はわからないので、日本語の発音とアルファベット表記ですが、だいたいのことがわかれば十分。日本語の方が古音を保存している可能性すらあります。
 現在の発音では邪馬臺はイェンマターイ、邪摩堆はイェマトゥイに聞こえますが、盛唐期の「臺」「堆」は同韻で、韻母はアイです。この二文字が別個に「來」や「開」と韻を踏む詩は、唐詩の中にいくつもあります。李白は李賢注より数十年遅れるのが残念ですが、平和な繁栄が続いたその間に音韻の変化がおこったとは考えにくい。辞書では慣用音がツイとなっています。現在の音もツイに近く、継続しているのですから、後の時代に音韻の変化があったのでしょう。
 今の「堆」は昔の「臺」が訛ったものだと言うならともかく。昔の「臺」が今の「堆」の訛だとは言えません、時間が逆です。後漢書の邪馬臺のあとに「邪摩惟音の訛」とは言えても、魏志が邪馬堆と記していない限り、「邪摩堆音の訛」とは言えないわけです。魏志に記されていたとすれば臺か壹ですから、注の「邪摩惟音の訛」が「邪摩堆音の訛」の転写間違いである可能性は排除できます。太平御覧巻七百八十二、東夷三、「俀」にも、「後漢書曰く」として、邪馬臺国に「邪魔惟音の訛」という注が入っています。
 魏志が邪馬臺国と記していたなら、後漢書の邪馬臺国と同じで、注そのものが必要ありません。注を入れた頃の魏志には「邪摩惟音」、つまり、「邪馬壹」が記されていたことになります。
 「案ずるに、(邪馬臺の)今名の邪摩堆は音の訛なり。」という読み方もありますが、邪摩惟と書いてあって、都はヤマトですから、今名(唐代)のヤマユイ国は存在しない。惟は堆の転写間違いだという前提がなければできない読みです。先に書いたように、賢注の入れられた頃の「臺」「堆」は同音ですから、邪馬臺と邪摩堆は何が違うというのか。訛はどこにあるのかということになる。多少アクセントが違ったりしても、案じるほどのこともなくわかる簡単なことでしょう。単なる文字違いに「音の訛」という注が必要と考えるだろうか。臺は「土を高く盛って作った台」、堆は「土の高まり」。意味まで似ています。
 後漢書が魏志を要約しているのは誰の目にも明らかなのに、魏志の邪馬壹が後漢書では邪馬臺に変化している。音があまりにも異なるので、注の必要を感じたのではないのか。唐代(今名)に記された邪摩堆は後漢書の邪馬臺の訛りだという読み、解釈では(案ずるに、今名の邪摩堆は音の訛なり)、魏志とは無関係になり、魏志が「邪馬壹」か「邪馬臺」か、全くわからないことになります。要約している一連の文章中における二書の食い違いの説明、魏志との比較で注を入れたとみるべきでしょう。臺には「yi」音もありますから、それが関係しているかもしれない。
 裴世清の聞き取りにしても、遣隋使、遣唐使等からの聞き取りにしても、日本人が都は「ヤマト」だというのを聞いて中国の文字で表記しています。聞き取りと文字表記という二つの変換過程があり、完璧な写しなどありえない。ヤマトに対して、邪馬臺、邪摩堆、どちらの表記を採るにしても違和感はないでしょう。魏志に邪馬壹(ヤマイ)と記されていて、唐代に編纂された梁書や北史では壹與まで臺與に修正されている。明らかに異なるから、その理由を考えて注を入れたのです。後漢書(南朝、宋代)から唐代まで日本側の国名に変更はない。ヤマトの音訳、中国人の聞き取りに表記に対して、今の中国語訳は訛っていると書くだろうか。中国内ですら同一文字の発音が南北で異なっているというのに(実際にはもっと多かったはず)。邪馬壹を邪摩惟と書いたのは、邪摩堆との対比、当時、主流になっていたこちらの文字の方がわかりやすいという配慮でしょう。

 隋書は唐の魏徴の作とされています。旧唐書、魏徴伝は、「貞観二年(627)、魏徴は秘書監に遷って朝政に参与した。喪乱の後、典章がまぎれ雑然としていたため、学者を率いて四部書を校訂した。数年の間に、宮中書庫の書籍は燦然となった。」と記していますから、隋書は627年から数年の内に整理されたようです。
 後漢書の注は、唐の章懐太子賢(李賢)の命によるもので、儀鳳元年(676)、学者や太子左庶子の張大安などを招集し、范曄後漢書に注を入れ、その書を宮中の書庫に収めたとされています。当時の皇太子の責任で加えた注ですから、国家的事業といって良いでしょう。賢注は、鵲に「或いは鶏に作る。」と入れており、後漢書に関しては複数の異本を調べているようです。韓伝には「魏志曰く」と記していますから、魏志も参照しています。
 注の入れられた儀鳳元年(676)、魏志には邪馬壹国、後漢書には邪馬臺国とすでに別の文字が書かれていて、現在まで千数百年間保持されてきたわけです。
 隋書は、676年の後漢書注より五十年ほど先立つわけですが、魏徴の時代から、章懐太子賢の時代まで書庫が混乱するような事件はありません。わずか五十年で、唐の宮中に保管されていた書の文字が変化するとは考えにくく、魏志の邪馬壹国を、魏徴の時代(627)までさかのぼらせることができそうです。

 隋書は隋の公文記録、日本に派遣された裴世清の報告や遣隋使の提供した情報に基づくと思われる記述を中心に、先行する史書を引用して過去の情報も加えました。引用元は魏志ではなく後漢書です。これは上記の三つの史書を見比べれば歴然としています。
 後漢書を引用するなら、「後漢の時」のはずですが、なぜ「魏の時……」、「魏志言うところの邪馬臺なり。」という不自然な記述になったのか。可能性として、思いつくままを挙げれば、以下のようになります。

1、唐代の魏志に邪馬臺と書いてあった。
 隋書編纂時から後漢書李賢注までの五十年ほどの間に、魏志の文字が邪馬臺から邪馬壹に変化したことになり、先に書いたように可能性は少ないでしょう。(魏志が「邪馬臺」なら注は必要ない。)
2、隋書の編纂者が魏志を確認していない、
  魏志倭人伝は「今、使訳通ずるところは三十国。」で、後漢書は「使駅、漢に通ずるは三十許国(三十ばかりの国)。国は、皆、王を称す。」になっています。 隋書は「魏の時、中国に訳通したのは三十余国。皆、自ら王を称す。」と記し、魏志とは内容の違う、後漢代の出来事を書いている後漢書に合わせているのですから、「後漢の時」で、「魏の時」とは言えないはずです。隋書の編纂者が後漢書のみに頼り、魏志を確認せずに書いた可能性があります。
3、後漢書が正しく、魏志は転写間違いと判定し修正した
 隋の裴世清が日本に派遣され、何らかの報告書を残したと思われますが、そこに邪摩堆国と書いてあった。後漢書の邪馬臺が正しく、魏志の壹は臺の転写間違いと考えて修正した。
4、隋書には元々「邪馬壹」と記されていたが、後世、後漢書以降の国名、ヤマトに影響されて「邪馬臺」に改変された。隋書の転写間違い、あるいは修正。
 「邪靡(摩)堆に都する。則ち魏志いう所の邪馬臺なり。」ですから、文字が違うだけで、李白の詩に見たように「ヤバタイ」という発音にかわりはありません。同じ発音ならわざわざ書く必要がないはず。多少、違っていても違和感なくわかるでしょう。言葉を恐ろしく節約するくせに何故、という思いが残ります。魏志が邪馬壹(ヤバユイ)という別音を記していたから、今、邪摩堆というが、魏志のいう邪馬壹がこれだと強調しなければならなかったのではないか。むしろ、後漢書賢注が、隋書に「邪靡堆を都とする。則ち、魏志いう所の邪馬壹なり。」とあるのを受けて、後漢書、「大倭王は邪馬臺国に居す。」という記述に、「今名を案ずるに、邪摩惟音の訛なり。」と付け加えた可能性が出てきます。

 私が採るのは3、「後漢書の方がはるかに正確、魏志は転写間違いが多いと判定し、後漢書の記述を魏志の原型と扱って引用し、邪馬臺を強調した」です。
 4が一番魅力的で整合性がありますが、「邪馬壹」と表記した隋書が見あたらない以上、主張したところで、根拠のない強弁の誹りは逃れられないでしょう。
 
 当時の中国を想像すると、魏志に邪馬壹、後漢書に邪馬臺とあって、どちらが正しいかわからない困惑状態だったと思われます。そこへ遣隋使が渡来して、都はヤマトだと答える。旧唐書東夷伝「日本」には、「入朝者の多くはおごりたかぶって実を以って答えない。故に中国は疑っている。」という記述があり、さまざまな質問を浴びせかけたようすがうかがえます。当事国の人間が来て、都は「ヤマト」と言うのだから、これほど確かなことはない。倭人伝に限った話ですが、後漢書が正しく、魏志は不正確という評価が下されます。

 范曄は後漢書倭伝を記すにあたって、当時、数種類伝わっていた後漢書や魏志倭人伝等を要約引用しました 《*/范曄は「衆家後漢書を柵して一家と為した」と宋書范曄列伝にあります。》
 後漢の歴史ですから、魏代の出来事には用がありません。卑弥呼の即位は後漢、霊帝の時代なので、後漢書の対象になりますが、後漢代に存在しない魏や壱与に関する記述を書きこむわけにはいかない。魏志からの引用は地理、風俗情報がほとんどです。すべて魏志倭人伝に含まれているデータばかりなので、魏志を要約したことは明かです。ただ要約しただけではなく、東晋、義煕九年(413)の神功皇后の遣使から得られたと思われるデータに基づき、魏志を修正しています。 修正(要約するだけではなく、内容も変えている)箇所は以下のようになります。

魏志倭人伝

後漢書倭伝

●今、使訳通ずるところは三十国
●その(倭の)北岸、狗邪韓国に到る
●使駅、漢に通ずるは三十許国。国はみな王を称す
●その西北界、狗邪韓国を去ること七千余里
後漢書は狗邪韓国を倭領に加えたため、国数が増え、許(ほど)という文字を加えました。
魏志では、王が存在するのは伊都国だけです。後漢書は倭(面土)国王帥升の名を記すなど、何らかの史料からデータを得て魏志を書き換えています。(面土は宋本「通典」にある。)
●郡より女王国に至るまで万二千余里 ●楽浪郡境はその国を去ること万二千里
当時の中国人の世界観では、東、西、南、北、中央、距離はすべて万二千里のブロックと考えられていたため、魏志の万二千余里は間違いだと余を省きました。
●南、邪馬壹国に至る。女王の都する所 ●その大倭王は邪馬臺国に居す
邪馬壹国を邪馬臺国に改めています。
●真珠、青玉を出す。その山に丹あり ●白珠、青玉を出す。その山に丹土あり
真珠は日本ではパールの意味ですが、当時の中国では丹砂の意味になるようで、正しく白珠としました。丹も丹砂のことなので、丹土(赤土)と改めています。あるいは魏志の文字抜けか。
●或いは蹲り、或いは跪き、両手は地に拠し、これを恭敬となす ●蹲踞をもって恭敬となす
膝を付ける、付けないにかかわらず、手は地面に付ける。それが重要なのに、後漢書は蹲踞のみで恭しさを表すとしています。誤解というより風俗の変化を思わせます。
●その法を犯す者は、軽者はその妻子を没し、重者はその門戸及び宗族を没す ●法を犯す者はその妻子を没し、重者はその門族を滅ぼす
●法俗厳峻
重犯者とその一族は魏志では奴隷にされるだけですが、後漢書では死刑になります。そして、法俗は厳峻(非常にきびしい)という魏志にはない言葉がみられ、ここでも風俗の違いを感じさせます。
●その(女王国の)南に狗奴国あり、男子が王となる。その官は狗古智卑狗がある。女王に属さず
●女王国の東、海を渡ること千余里。また国あり、皆、倭種
●女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に至る。皆、倭種といえども女王に属さず
後漢書は、魏志の四十行ほど離れた記述を合成し、魏志では方向の異なるまったく別の国を一つにしてしまいました。これを范曄の読み間違いとするのは范曄に失礼です。
●年すでに長大 ●年長
魏志、正始八年(247)の頃の卑弥呼は年長大でした。しかし、即位した後漢代の倭国大乱直後(170年代前半)はそれより七十年ほど遡るわけですから、ずっと若い。そこで後漢書は大を省きました。それでも年長ですから、卑弥呼は正始中、百数十歳と考えられていたことも明らかになります。魏志倭人伝には倭人は長寿で八十、九十、百歳であると書かれており、それをさらに上回っていたわけです。

 邪馬台国が朝鮮半島南部(狗邪韓国)を領有し、倭国内の東方の国と敵対したことになる後漢書の記述は、いにしえの奴国領域にある香椎宮に居し、新羅、百済を属国としたのち、東へ進出して大和と戦った記、紀の神功皇后時代の政治環境に完璧に一致します。東晋、安帝の義煕九年(413)の遣使は神功皇后によるもので、倭に関するデータが残されていたと推定できるのです。(関連ファイル、弥生の興亡「魏志倭人伝から見える日本1、邪馬臺国か邪馬壹国か」
 そして上記表の食い違いのすべてにわたって、後漢書が正しく、魏志は間違いと結論されたでしょう。遣隋使、遣唐使は神功皇后の子孫たる大和朝廷の使者なので、修正された范曄のデータが正しいと保証する。次に出てくるのが、正しいデータへの修正という作業です。間違いが確定したものを使う人間はいません。邪馬壹は追放され、邪馬臺に統一されるのは明らかです。書物の改訂作業など現在でもよくあることです。梁書(唐、姚思廉)が「壹與」まで「臺與」に修正していることをみると、壹は臺の転写間違いだと、現在の通説のように考える人々が存在した。それが当時の常識だったのでしょう。梁書の編纂には、隋書の編纂責任者、魏徴もかかわっていますから、共通認識の元に書かれていることは明らかです。
 この流れでいけば、隋書の記述も理解できます。「魏の時」の話だが、魏志は間違いが多いとわかっているので、後漢書の記述を使う。「中国と交流のあるのは三十余国」と国が増やされ、「皆、自ら王を称す。」も付け加えられました。魏志の邪馬壹は邪馬臺の書き間違いなので、正しく邪馬臺に改めて、「魏志謂うところの邪馬臺」です。現在の日本で「魏志倭人伝の邪馬台国」と書く書物がいくらでもあることから、これもありふれた修正とわかります。
 しかし、後漢書李賢注は、それに異を唱えた。私同様、魏志には「壹」という文字が四文字もあるのに、すべてを書き間違えられるのか。おまけに「臺に詣ず。」と臺を書き分けている。転写間違いとするには問題が多すぎると考えたのではないか。様々な可能性を考えた結果、そうではなく、今名のヤバタイ(邪馬臺、邪摩堆)はヤバユイ(邪馬壹)音の変化で、魏志の文字間違いではない、魏志も正しいと結論したわけです。 唐代の人間の考えたことと、現在の日本で考えていることはまったく同じだったことになります。

 隋、唐以降の中国は、倭の歴史に関しては、魏志よりも後漢書が正確だと判断し、魏志の邪馬壹を邪馬臺の転写間違いだと結論した。隋書や梁書、太平御覧などの新しく編纂された書物は、著述者の研究成果が発揮されて、魏志の邪馬壹を改め、原型と考えた邪馬臺を用いる。そういう小知恵の入らない魏志そのものは機械的な転写を続けて邪馬壹を保持したことになります。研究者による書き換えの最も身近な例として、中央公論社刊「日本の古代」の魏志倭人伝原文を挙げておきます。原典そのままの引用ではなく、このような編纂者による意図的な書き換えが行われていると、様々な史料の文字違いを校勘して真を見つけるという作業が無効になります。そもそも校勘とは、機械的に転写された同一書物間の文字の異同を調べて原型を求めるのに意味のある作業で、著述、編纂者の思考が入った異なる書物間では力を大きく減じます。
 壹與も、梁書や太平御覧(巻七百八十二、東夷三、俀)では臺與に修正されてしまいましたが、同じ太平御覧の歴史研究の成果が入らない項目(巻八百二、珍宝部一、珠上)では、単純に魏志倭人伝を引用して壹與と記しています。壹與が村屋神社の祭神、三穂津姫であることは「弥生の興亡、帰化人の真実5、壱与の死とその祭祀」や「補助資料集、村屋坐弥富都姫神社(村屋神社)」の項で解説していますが、神社の所在地名は伊与戸(イヨド)です。日本の地名から壹與が正しいとわかります。伊予国の別名が愛媛(エヒメ=かわいい姫)であることもそれを補強します(神代記)。このあたり、日本の伝承をなめてはいけない。

 後漢書李賢注が示すように、唐代の魏志には「邪馬壹国」と書かれていた。これが結論です。陳寿が魏志を著してから、唐代まで三百数十年間、伝世されてきました。本来の形はこうだと断定するには至りませんが、魏志を積極的に「邪馬臺」に修正するデータが見あたらない以上、そのまま「邪馬壹」を使用するべきです。記、紀には王朝の交代が記されており、弥生時代の国名(魏志)が、倭の五王時代(後漢書)まで、そのまま継続していた保証はないのですから。



2、魏臺訪議の魏臺は明帝を表し、蛮夷の倭国に対する
  「臺」の使用はあり得ないこと

 古田武彦氏が指摘していることで、古田氏に賛同できることなどほとんどないのですが、ここだけは認めざるを得ません。
 隋書経籍志二(巻三十三)に、高堂隆撰、魏臺雑訪議三巻が見られます。蜀書、劉二牧伝第一の「物故」という言葉に裴松之(南朝宋代)が注を入れており、「魏臺、物故の義を訪う。高堂隆、答えて曰く…(魏臺訪物故之義高堂隆答曰聞之先師物無也故事也言無復所能於事也)」とあります。「魏臺が死のことを物故というのは何故だと尋ねた。高堂隆が、私の先生に聞いたことですが、物は無で、故は事です。事に於いてまた能くする所の無い(何も出来なくなる)ことを言いますと答えた。」
 古田氏はここに目をつけられたわけです。魏志には高堂隆伝があります(巻二十五)。高堂隆(?~237)は明帝の傅(守り役)となり、光禄勲(九卿の一つ、宮殿の禁門の守備を司る部署の長官)で生涯を終えました。厳しい儒者だったようです。命を賭しても帝を諫めるのが自らの使命と考えているから遠慮がない。それほど明帝の身近にいる人だった。上表して諫言したことや、明帝の下問に応答したことなどが記されています。
 史記匈奴列伝の「物故」にも、索隠注(唐代)が「魏臺、議を訪う、高堂崇、対えて曰く…(魏臺訪議高堂崇対曰聞之先師…)」と、名前を間違っていますが、同じ文を引用しています。裴松之の注と照らし合わせると、議は義の意味で使われているのではないかと思えます。時代的には裴松之注が一番近く、原型にも近いでしょう。
 後漢書儒林列伝(上)の「物故」の注(唐代)にも、「路上死である。案ずるに、魏臺が物故の意味を訪ねた。高堂隆が答えて言った。これを先師に聞いたのですが…(在路死也。案魏臺訪問物故之義高堂隆答曰聞之先師…)」
 太平御覧(宋代)巻三十三、時序部十八には、「高堂隆の魏臺訪議曰く、詔して問う、なんぞ以って未祖丑臘を用いる。臣隆こたえて曰く、案ずるに月令、孟冬十月、先祖五祀に臘す。田猟して得るところの禽獣を薦めるを謂う。これを臘と謂う。(高堂隆魏臺訪議曰詔問何以用未祖丑臘、臣隆対曰按月令孟冬十月臘先祖五祀謂薦田臘所得禽獣謂之臘)とあります。明帝の祭祀に関する問いに高堂隆が答えました。
 芸文類聚(唐代)巻五には、「魏臺訪議曰く、帝問う、何ぞ未社、丑臘を用いる。王肅、対えて曰く、魏は土なり。土は木を畏れる。丑の明日はすなわち寅にして、寅は木なり。…(魏臺訪議曰帝問何用未社丑臘王肅對曰魏土也土畏木丑之明日便寅寅木也故以丑臘土成于未故于歳始未社也)」と記されています。
 上記、太平御覧の質問と同じですが、王粛(195~265)という人物が答えました。魏、王粛撰の「魏臺訪議」という書もあり、その中の一節のようです。しかし、王粛著の「孔子家語」は偽作というのが定説で、王粛は少々いかがわしい人物であったらしい。元々存在した孔子家語を自説に都合の良いように改変して世に出したといいます。魏志王郎伝に王郎の息子として付け加えられている大物で、晋を建国した司馬炎の母方の祖父にあたるのですが、盗用の常習犯かもしれない。問いに対する答えが高堂隆と全く異なっていますから、魏臺訪議も、自説に書きかえて、自らの著作のように装ったとみえます。
 「魏臺訪議」という書名はかなり特殊で、「漢書」のような汎用的なものではない。著述者の個性が大きく関与するでしょう。別人が同一書名を思いつく可能性はかなり少ないと思われます。そして、高堂隆が魏臺と表記している質問者を、同じ魏の王粛は帝に置き換えているわけです。
 臺は高台を意味する文字ですが、魏志倭人伝には、壹與は使者を派遣し張政等の帰国を送り、臺に至って貢物を献上したことが記されています。中央政府のことを臺と表現しているわけです。後には臺城が皇居を表すようになりましたから、明帝を魏臺と表す可能性は大いにあります。
 断片しか残っていませんが、魏臺訪議(義)は「魏臺が意見(理由)をたずねる」と言う意味で、明帝と高堂隆の問答集のようです。雑(色々なものが入りまじった。)を加えて書名としたのでしょう。魏志高堂隆伝にもそういう質問のいくつがが記されていますが、これは魏臺訪議からの引用かもしれない。「魏臺とは明帝のことだ。」という古田氏の指摘に間違いはありません。(訪=問う)

 三国志編纂者の陳寿が倭の国名を直接知るはずはなく、何らかの資料から得たものです。その資料の書き手は帯方郡使としか思えない。邪馬壹国(女王国)まで至ったのは正始八年に派遣された張政等のみですから(弥生の興亡参照)、張政あるいはその同行者の手になるものだろう。軍事援助のために派遣され政権中枢部と接触していた彼らほど倭を知るものはいないのです。明帝の死は景初三年正月一日(グレゴリオ暦で1月22日)ですから、派遣されたのは八年後。張政は三十四歳(あるいは三十六歳)で亡くなった明帝とほぼ同時代の人と言えます。高堂隆の死は237年で、明帝に2年先立ちます。張政が派遣されたのは247年。張政は後に帯方太守に昇進したらしく、帯方太守、張撫夷の墓が発見されており、288年の死亡だから、渡来後41年です。
 高堂隆が明帝を魏臺と表記していて、これはその時代の共通認識と解せられますから、同じ空気を吸った張政が蛮夷の国にこの文字を当てるとは、儒教の大義名分からいって、考えられないのです。「タイ」にしても「ト」にしても、それを表すには同音のもっとふさわしい文字が見つけられるはずです。しかも「鬼道に事え、能く衆を惑わす。」と鬼道を嫌い軽蔑しています。
「考えられない」、「史官の首がいくつ飛んでも足りぬような所業だったと思われます(古田氏の原文)」と言うしかなく、それは推定に過ぎないのですが、根拠のしっかりした、きわめて妥当な推定と考えます。魏志が「邪馬臺」と書く可能性はありません。



訂正(重要)

hyena-no-papaという人のブログで次の文を見つけました。

尚書曹訪云:「官僚終卒、依礼各有制。至於其間、令長以下、通言物故、不知物故之名本所依出。」高堂崇曰:「聞之先師、物、無也。故、事也。言無復能於事者也。」(注:避諱で崇←隆)

質問したのは尚書曹であって皇帝ではない。
「魏臺訪議」という書物には、高堂隆の受けた質疑が収録されているが、皇帝の下問もあれば小役人から聞かれて答えたことも書いてある。
史記集解では「高堂隆答魏朝訪曰」となっており、魏臺=魏朝。
つまり「魏臺」は魏の公務全般を包含するのです。


 確かに「通典 巻八十三 禮四十三」に書いてあります。尚書曹の役人が「官僚が死んだときは卒で、礼によって決まっている。令長以下はみな物故というがその言葉の出所がわからない。」と訪ねています。
 この主張は正しい。こちらは関連文書を修正せざるを得ない。よほど漢文データに詳しい人のようです。

 しかし、魏臺訪議とはっきり書いていて、魏の時代には「魏臺」という表現があったわけです。古田氏の「臺は至高の文字」なんていう大げさなもの言いには付き合わないけれど、タイ音の文字は他にいくらでもあるのに、★「明帝を含む魏の朝廷を表す重要な文字を蛮夷の国名に使うか?」という疑問は解消されないままです。例文では、当時の玄宗の諱をさけるため、高堂隆を高堂崇に変えています。魏臺訪議は「魏の朝廷での議論」という意味を持ち、書名と内容が一致しています。高堂隆のほかに、「帝問う」と記す王粛著の魏臺訪議もあるわけですから、魏臺という言葉の存在に疑いはありません。

 魏志には邪馬壹国に加えて壹與が三回、計四文字の壹があって、「臺に詣る」と臺が書き分けられています。壹のすべてを書き間違えとすることができるのか? すべて元は臺だとしたら、他の文字はみんな見えているのに、飛び飛びにあるこの四文字の臺だけが都合よく見えにくくなって間違える確率はどれくらいのものか?

 倭人伝に記された、帯方郡使、張政の帰国を送った壹與の遣使は、魏の滅亡二年前、陳留王奐の景元四年(263)と考えられます。(「魏志倭人伝から見える日本3-h、壱与の即位と張政の帰国」参照) 蜀を滅ぼした年なので軍事的に忙しかったはずです。陳留王は十七歳、実権は司馬昭にあり、帝として機能していなかった。壹與の使者が「臺に詣った」ということは、陳留王を含むかどうかはわかりませんが、朝廷に至って政権中枢部と面会していたわけです。倭人伝中にある臺(帝を含む朝廷)という文字を軽く見ることはできないでしょう。

 古田武彦氏やそれを支持した私の「魏臺は明帝」だという主張は否定されましたが、★印を付けた根本的な部分で何も変わりません。「明帝」が「明帝を含む朝廷に変わった」だけで、こちらの主張を覆すには至らない。
 「魏臺、物故の義を訪う」という裴松之の引用文は、尚書曹を書名に合わせて意訳していたわけです。それがわからずに、こちらは間違えてしまった。

 古代に比べ、政治も社会も複雑になり、古代の制度そのままに運用していくことが難しくなります。「通典巻八十三、礼四十三 凶五」には、魏臺で行われた「身分の違いによる死の表現法」に関する議論が書かれています。礼という儒教の概念に基づくもので、天子の死は崩ですが、豪族の境界部で薨と書くか卒を使うかとかが怪しくなる。明帝の詔がありますから、そのとおりになったと思われますが、高堂隆は反対しています。
 魏に関する部分を翻訳して下に置きます。三府上事博士・張敷などの主張には「詣臺(臺に至る)」という魏志倭人伝と同じ言葉があります。

 国名に邪(よこしま)+馬(動物)+タイ、女王に卑(いやしい)+弥呼、こういう文字を選択して与えた同じ人物が、怠やら退、帯、苔など使えそうな文字がいくらでもあるのに、儒教社会の政権中枢部、国家方針を定める場を表す臺という文字を、鬼道に支配された蛮夷の国名に使用するか?という疑問はますます深くなります。魏志の邪馬「臺」国説に対する私の違和感の正体がようやく見えてきました。



 通典巻八十三 礼四十三 凶五

魏明帝詔亭侯以上称薨 夫爵命等級貴賤之序 非得偏制 蓋礼関存亡 故諸侯大夫既終之称 以薨卒為別 今県郷亭侯不幸称卒非也 礼 大夫雖食菜不加爵 郷県亭侯既受符策茅土 名曰列侯 非徒食菜之此也 于通存亡之制 豈得同称卒邪 其亭侯以上 當改卒称薨

「魏、明帝は亭侯以上を薨と称するよう詔した。爵命、等級、貴賤の序列は、いたずらに偏った制度ではなく、おそらく礼の存亡に関係している。昔は諸侯、大夫がすでに終わったという称で、薨、卒は別と為した。今、県郷亭侯の不幸を卒と称するのはいけない。礼では、大夫は食、菜に爵を加えないけれども、郷県亭侯はすでに割符、策(辞令書)や茅土(封土)を受けていて、命名して列侯という。ただ、食、菜のみの大夫ではない。存亡の制度を通して、どうして同じ卒を称することができるであろうか。その亭侯以上は卒を改めて薨を称するのが良い。」

三府上事博士張敷等進議 諸王公大将軍県亭侯以上有爵土者 依諸侯礼皆称薨 関外侯無土銅印 當古称不禄 千石六百石下至二百石皆詣臺拝受 與古士受命同依礼称不禄

「三府上事博士の張敷等が論議を進めた。諸王公、大将軍、県亭侯以上で爵位と領土のあるものは、諸侯礼により、みな薨を称します。関外侯で土地がなく銅印は、まさに、昔は不禄と称したもので、千石、六百石から下は二百石に至るまで、みな臺に詣(至)って拝受しています。昔の士が命を受けたのと同じで、礼により付禄を称すべきです。」

高堂崇議 諸侯曰薨亦取隕墜之声也 礼 王者之後公及王之上公九命為二伯者侯伯皆執珪 子男及王之公皆執璧 其卒皆曰薨 今可使二王後公及諸国王執珪 大将軍県亭侯有爵土者 車騎衛将軍辟召掾属與三公 倶執璧者卒 皆称薨 礼 大夫曰卒者言陳力展志功成事卒無遺恨也 今大中大夫秩千石諫議中散大夫秩皆六百石 此正天子之大夫也 而使下與二百石同列称不禄 為大夫死貶従士 殆非先聖制礼之意也 士不禄者言士業未卒 不終其禄也

「高堂崇は意見を述べた。諸侯を薨というのは、また、隕墜の声を取るものです。礼は、王者の後は公、王の上公九命を二伯となし、侯伯はみな珪を執ります。子、男および王の公はみな璧を執り、その死はみな薨といいます。今、二王後公および諸国王は珪を執り、大将軍、県亭侯で爵や土地のあるもの、車騎、衛将軍で掾属(掾史)などを召し出すものと三公で、ともに璧を執るものは卒であるのに、みな薨を称しています。
 礼では、大夫を卒というのは力を見せ、志をひろげ、事を成りとげて死に、恨みを残すことがないことです。今、大中の大夫で秩千石、諫議中散大夫の秩はみな六百石で、これはまさに天子の大夫です。それなのに、下の二百石と同列に不禄を称させるのは、大夫の死を士に従って貶めるものです。ほとんど先聖が制した礼の意にそわない。士の不禄は士の役目が未だ果たせずに、終わってその禄がないことをいいます。」

尚書曹訪云 官僚終卒依礼各有制 至於其間 令長以下通言物故 不知物故之名本何所出 高堂崇曰 聞之先師 物無也 故事也 言無復能於事者也

「尚書曹がたずねて言った。官僚の終卒には礼に依りそれぞれ決まりがあります。その間で、令長以下はすべて物故と言うのに至りましたが、物故の名が本はどこから出たのかがわかりません。高堂崇が言った。これを先師に聞いたのですが、物は無です。故は事です。事において能力が元に戻らないことを言います。」



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