初期天皇の諡号の秘密


初期天皇の諡号・欠史八代の謎を解く


   

 神武等の漢風諡号は淡海御船が勅撰したという説があると釈日本紀の注は記しています。それが正しいかどうか判定する材料はありませんが、初期天皇の諡号には深い意味があり、統一された思考から生み出されていることは間違いありません。秘められた歴史に基き、考え抜かれて選ばれていることを解説します。欠史八代のうち、日本の歴史の解明に最も重要なのは「孝霊天皇」です。
 記述は即位順ではありません

10、崇神(御間城入彦五十瓊殖天皇、崇=気高い、尊い)

 記、紀によれば、崇神天皇は開化天皇皇太子で平穏、順当に皇位を引き継いだことになっています。しかし、この天皇の初期に大物主神や倭大国魂神をはじめ八十万の神を祭らねばならなかったり、全国的に反乱が起こって、鎮圧のため四道将軍を派遣しなければならなかったりの大混乱が記されているのは不思議です。なぜ、大和の神々の加護を失い、それほど人望を落としたのか。ハツクニシラス(御肇国、知初国=初めて国を統治した)天皇という号は、そこに何か断絶があったことを示すのではないか。次代の垂仁天皇の時にも、大和で皇后の一族の反乱が起こったり、出雲の大神の祟りがあって、皇居と同規模の宮を作ることを求められたりしています。
 大物主神は、神代に、「日本(ヤマト)国の三諸山に住もうと思う。」と言って出雲から移動した大国主神の幸魂、奇魂です。神は天皇に「我は倭(ヤマト)国の域内にいる神、名は大物主神という。」と自己紹介していますから、崇神天皇は、倭国で育った、十代目の首長でありながら、大物主神が域内、しかも、御諸山という重要な山の神だと知らなかったことになります。この矛盾を見過ごすわけにはいきません。
 天照大神、倭大国魂神を天皇の大殿の内に祭っていたが、神の勢いを畏れて共に住むことはできなかった。皇女の渟名城入姫が日本大国魂神を祭ろうとしたのに、髪が抜け落ちて祭ることができなかったとも記されています。崇神天皇とその一族は天照大神や大和の地主神から拒絶されていました。
 そして、和風諡号が御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイニヱ)天皇です。御は尊称。都は磯城水垣(瑞籬)宮とされていますから、マキは磯城内にある巻向を指すのだろう。イリヒコは「入った男」という意味になり、イニヱが本来の名として残ります。イニヱ大王がどこかから巻向に入ってきて大混乱を引き起こしたわけです。(崇神天皇と紀伊国の荒河刀畔の娘、遠津年魚眼眼妙媛との間に生まれた皇子は豊城入彦命で、豊は美称、紀に入った男の意味を持ちます。)
 崇神という漢風諡号は、「気高い神」のごとき大和朝廷の初代、ハツクニシラスの天皇であることを示しています。十進法で桁上がりの10代目ということにも意味があります。



1、神武(神日本磐余彦天皇)

 前王朝、(魏志倭人伝の)邪馬壱国との断絶を避けるため、崇神天皇が大和入りするまでの事績は、分割して同じハツクニシラス(始馭天下之)天皇とされる神武天皇に託し先頭に置かれました。南九州から東征し、武力で饒速日と表される物部氏の王朝を制圧しているため、神と武を合わせた諡号です。
 この天皇は即位後76年で崩じたことになっていますが、在位中の事績と言えるようなものはほとんどありません。東征して大和で即位するまでの記述の濃厚さに比べ、あとはおまけ程度ですから、崇神天皇の前に神武天皇の事績を簡単に継ぎ足すことができます。
 神武紀は、四年の詔して皇祖天神を祭ったという記述から、三十一年の国見の記述に飛び、四十二年に皇太子を立て、七十六年に崩じて、翌年、埋葬したという内容空疎な記述で終わります。実質は四年までです。
 崇神紀は、即位前の紹介、元年に即位、家族の系譜。三年に都を磯城に移すという記述で始まり、四年に皇祖に関する詔ですから、四年から継ぎ足せるよう設計されています。神武紀の四年までを崇神紀に加えれば良いわけです。それが史実というわけではありませんが、おおやけにはできない歴史、同一人物であることを後世に残すための工夫と思われます。
 和風諡号は神日本磐余彦(カムヤマトイハレビコ)天皇。「神である倭の磐余の男」という意味を持ちます。磐余は、実体の崇神天皇の陵墓が、磐余のメスリ山古墳であることに由来します。崇神天皇こそが神日本磐余彦(カムヤマトイハレビコ)天皇なのです。天武紀上には、天武天皇が神日本磐余彦天皇の陵墓に馬及び種々の兵器を奉ったと記されており、その言葉通り、メスリ山古墳から大量の武器が発掘されています。山辺の道(現在の山辺の道ではなく、古代の上つ道)の曲がりの丘の上という崇神天皇の陵墓の位置の記述とも一致します。天武天皇時代には、陵墓の位置が正確に把握されていたわけです。



2、綏靖(神渟名川耳天皇)

 意味は「安んずること」。大字典(上田万年等編纂、講談社)には「綏靖四方(呉志)」と記されていますから、中国の文献から採られたようです。和風諡号は神渟名川耳天皇です。
 古事記には、神武天皇没後、息子の手研耳(タギシミミ)命が弟二人を殺そうとしたので、その下の弟、神渟名川耳命が射殺した。兄の神八井耳命が皇位を譲ったので即位したと書いてありますから、綏靖はそこから与えられた諡号と思われます。
 古事記では建沼河耳命ともされており、大彦の子で四道将軍、東海へ進軍したとされる建沼河別命が下敷きにあります。神八井耳命は神祇をつかさどり、多氏や九州の有力豪族等の祖とされていますが、実際は多氏なども大彦の子孫なのです。大彦系は邪馬壱国の大豪族でありながら、弟の開化天皇系と対立、崇神(神武)朝の成立に尽力し、それを支えた一族なので、その功績からここに関連づけられたのだと思われます。崇神(神武)朝=大和朝廷を「安んじた」のです。



3、安寧(磯城津彦玉手看天皇)

 「安らか」、「冬」という意味です。大字典に「天下安寧(史記)、冬為安寧(爾雅)」とあります。欠史八代のうち、この天皇だけが冬に崩じたとされています。そこから与えられたのでしょう。あるいは逆に、諡号を決めてから、安寧に冬の意味を見出し、冬に亡くなったという記述を作ったか。古事記には系譜しか記されていません。和風諡号の意味は、「磯城の男、美しい手を見る」でしょうか?



4、懿徳(大日本彦耜友天皇)

 「美徳」という意味です。大字典には「好是懿徳(詩経)」という言葉があります。綏靖、安寧、懿徳という諡号は漢文から荘厳さを感じさせる好字を選んだものです。欠史八代は、ほとんど事務的な系譜の記述だけで終わるのですが、綏靖、安寧にはまだ根拠らしきものがありました。懿徳に至って、もう根拠も何も見いだせません。和風諡号は「ヤマトの男、鋤の友」?はっきりしません。
 しかし、旧唐書には懿徳太子重潤という名が見えます。701年、十九歳で則天武后に暗殺されていますから、文字は立派でも、天皇にふさわしい良い諡号とは言えないでしょう。神功皇后の神功は、神助を得た成功という意味を含めて則天武后(*)時代の紀元、神功(697)から採られたようです。懿徳太子が暗殺された数年前の年号ですから。諡号の選定者が、懿徳太子について知らなかったとは思えないのに、なぜ使ったのか?《*/唐の高宗の皇后、唐を簒奪し周を建てた。十四年後、唐が復活。》



大字典の例文等の出所をたずねると面白いことがわかりました。


魏書文帝紀二 「頼武王神武拯茲難於四方惟清区夏以保綏我宗廟」
(漢の献帝が、魏の曹丕に帝位を禅譲する宣言書の一部=帝位の交代)

呉(周の分家)

三国志呉書胡綜伝 「明明大呉実天生徳、神武是経惟皇之極乃自在」
三国志呉書陸遜伝 「陸遜字伯言呉郡呉人也…陛下以神武之姿誕膺期運…敬服王命綏靖四方…」(陛下は呉王孫権)
 

 神功皇后という諡号は、唐の高宗の皇后でありながら国を奪い、周を建国した則天武后の年号から採られています。神功皇后も正当後継者ではない応神天皇を擁するため九州で独立、後に大和へ進出して大王位を奪ったという共通点がありますから、神武、崇神、神功、応神という神のつく諡号は皇統の交代を示すものと思われます。
 三国志、魏書文帝紀では、神武と帝位の交代が結び付けられています。神武は呉書「胡綜(コソウ)伝」にも見られ、呉や呉王と結び付けられています。「コソ」も呉に関連づけられる音でした。神武天皇の兄は五瀬命ですから呉と関係が深いことは間違いありません。胡綜伝の記述の半分以上は、魏の将軍、呉質が呉に内通を試みているかように偽作した文章で占められています。実際には存在しないものを見事にでっち上げており、神武天皇が架空の人物であることを示すにはうってつけの内容です。
 呉書「陸遜伝」には、神武、綏靖の二つが見られ、陸遜は「字伯言、呉郡、呉人なり。」と記されています。陸遜は蜀の関羽を破り、劉備を破って丞相にまでなった人物ですから、呉を安んじた(綏靖)と言えます。「綏靖四方」は丞相就任時、呉王、孫権が陸遜に与えた詔の中の言葉です。


呉系楚=秦氏(元の国へ帰る。呉王闔廬と喧嘩別れし、楚に逃れた弟、夫概を始祖とする)

       
三国志呉書虞翻伝 「諸県皆効之咸以安寧………在南十余年年七十卒、帰葬旧墓妻子得還
三国志呉書諸葛恪伝 「昔漢祖幸已自有三秦之地、何不閉関守険以自娯楽、空出攻楚、身被創痍介冑生蟣蝨、将士厭困苦豈甘鋒刃而忘安寧哉、慮其長久不得両存者耳」
(漢の高祖が三秦の地を出て楚を攻撃したのは、漢と楚が両立し得ないことを考慮した結果だと語る)
史記周本紀 「天下安寧」
史記始皇本紀 安寧之術」、「黔首安寧」
詩経小雅常棣
(周の詩)
 「兄弟鬩于牆 外禦其務 毎有良朋 烝也無戎 喪乱既平 既 雖有兄弟 不如友生?」
(兄弟げんかをしても、外部からの侮りには心を合わせて対抗するものだという兄弟の和合をすすめる歌)
 常棣(ショウテイ)を棠棣(タウテイ)とする書もあり、東鯷(トウテイ)に音がよく似ている。
詩経大雅烝民
(周の詩)
「天生烝民 有物有則 民之秉彝 好是懿徳 天監有周 昭仮于下 保茲天子 生仲山甫 ……王命仲山甫 城彼東方 四牡騤騤 八鸞喈喈 仲山甫徂斉 式遄其帰 吉甫作誦……」
 仲山甫を呉の太伯の子、虞仲と結び付ける説もあります。「通志・氏族略」)

 安寧は呉書「虞翻伝」に見られます。辞書の項目になるくらいの一般的な文字ではありますが、これだけ集中しているということは、初代、神武から三代、安寧までは、三国志から採られた可能性大です。
 そして、虞翻は南方に流されていたが、死後、許されて墓は故郷に作られたという人なのです。史記呉世家によれば、周の武王時代、呉の太伯の弟、仲雍の子孫を探しだしましたが、虞に封じられた弟の名は虞仲とされていますから、虞という姓も呉の歴史と結び付けられます。名の翻はひるがえすという意味です。
 仙島へ行き、三百余年後に元の国へ戻った浦島子、よりを戻そうと別れた妻を追って渡来した天之日矛と同じ形をしています(=呉王闔廬の弟、夫概が闔廬に反旗を翻したが敗れ、楚に逃れて堂谿に封じられたことを起源とする堂谿氏=呉系楚人=秦氏が呉人に遅れて日本に渡来している)。そして、兄弟は仲良くあらねばならぬという詩経小雅常棣にも結び付きます。

 「好是懿徳」は詩経大雅烝民の句です。周の歌で、その分家の呉とつながっていますし、仲山甫という人物が宣(セン)王の命を受け、斉まで築城に行き、帰ってきたのを祝うという内容の歌ですから、これも元に戻っている。楚王の姓が芊(セン)、太伯の子孫の虞仲、秦氏が遼東で長城建設に酷使されたということまで考慮されているようです。
 部族の歴史を表すに適した文章、人物を見つけ、その一連の記述の中から、諡号にふさわしい神武、綏靖、安寧、懿徳という文字を選んだのでしょう。

 以上から、神武、綏靖は呉人、安寧、懿徳は元の国(日本に移動した呉)へ戻った呉系楚人(秦氏)を念頭に置いた諡号と結論できます。
 懿徳が呉系楚人を意識しているなら、越人の邪馬壱国の成立以前に、大和には呉系楚の王家があり、唐の懿徳太子の暗殺も考慮すると、その王が殺されて王朝交代があったことを示しているのかもしれません。大和朝廷は大和の地主神として、三輪の大物主神の他に倭大国魂神を祭らなければなりませんでした(崇神紀)。これが呉系楚人の祖神、邪馬壱国以前の秦系氏族の祖神といえます。

 以上のようなデータが集まってきて、偶然というには合いすぎる。面白い思いつきでも、関係がなければ何も見つからないものです。



5、孝昭(観松彦香殖稲天皇)

 この天皇から漢風諡号は様変わりし、漢の諡号が意識されています。懿徳天皇とは明らかな断絶があり、後継氏族も大幅に増加して実在感が出てくるのです。前漢には孝武帝の後に孝昭帝がいます。昭は明らかなること。魏志倭人伝に邪馬壱国、女王国と表された物部氏の王朝は、漢に出自を持つ文氏・漢氏の王朝でもありますから、漢を意識するのは当然と言えるでしょう。
 「昭穆…祖先をまつる廟(ビョウ)の順序の名。始祖廟(シソビョウ)を中央に置き、初代をその左に置いて昭といい、その子を右に置いて穆(ボク)という。(学研漢和大辞典)」
 どうも邪馬壱国の初代という意味で孝昭が与えられたようです。和風諡号は、古事記では御真津日子訶恵志泥(ミマツヒコカヱシネ)命となっており、意味不明です。初代と目されながらヤマトを表す文字が外されており、こちらからも懿徳天皇との断絶を感じとれます。


6、孝安(日本足彦国押人天皇)

 後漢書の諡号をみると、光武-孝明-孝章-孝和-孝殤-孝安-孝順-孝沖-孝質-孝桓-孝霊-孝献と続いています。安帝永初元年(107)に、「倭国王帥升等が生口160人を献じ、(安帝に)面会することを願った。」と後漢書倭伝にあり、孝安はこの帝に合わされています。邪馬壱国の二代目が中国へ渡ったのかどうか、確定するには証拠が乏しすぎますが、和風諡号も国押人(国を押す人)ですから、国家建設の推進者としての役割を与えられています。


7、孝霊(大日本根子彦太瓊天皇)

 後漢書に「桓霊の間、倭国大乱。更に相攻伐、歴年主なし。一女子有り。名は卑弥呼という。年は長。嫁せず。鬼神道に事え、よく以って衆を妖惑す。ここに於いて共立し、王と為す。」という記述があります。後漢書は卑弥呼の年を「長」と表現し、魏志の「長大」より短くしています。後漢代には長大ではないと大を省いたのです。考えて細かく修正しています。
 桓帝の在位は147年~167年。霊帝は168年~188年です。桓霊の末(*)は韓濊が強盛で楽浪郡などは制することができなかったと魏志韓伝にあり、桓帝の末頃、後漢が衰えたため、その心理的影響力が弱まって倭国でも大乱が引き起こされたのです。桓帝の末から霊帝の初期まで続いたということになるでしょう。それがどのくらいの幅をもつのか。167~168年を中心に、160年代半ば~170年代初めと見ておけば片付くのではないでしょうか。(*/桓霊の末は桓帝の末と霊帝の末をひとまとめにした表現。したがって、霊帝初、中期には韓濊強盛という言葉はあてはまらない。)
 とにかく、孝霊という諡号は倭国大乱時の後漢の帝から採られているわけです。孝霊天皇が倭国大乱の主人公であることは、「孝霊天皇の鬼退治」というような日本の各地の伝承からも明らかにできます。この天皇のあと、孝元、開化と三代の和風諡号に日本根子彦(ヤマトネコヒコ)が入っています。ヤマトに根ざした、つまり、出雲からヤマトに入って都を置いたことを示すようです。孝安天皇に日本が入っていることを思うと、この天皇がヤマトに入り、孝霊天皇時代に大乱になったと解釈しているのかもしれません。
 そして、娘に三輪の大物主神の妻となったとされる倭迹迹日百襲姫がいます。神の妻、巫女となって独身を守ったのでしょう。この姫を卑弥呼とすることに何の問題もありません。
 魏志の卑弥呼は年長大で、247年に使者を派遣しているわけですから、後漢代の倭国大乱終息直後に即位したとすれば在位七十数年。現実には幼少時に即位しなければ不可能な数字です。後漢書の「年長」は何らかの別の文献に基づくのではなく、魏志倭人伝から推定していることになります。
 倭迹迹日百襲姫は、大物主神の妻となったが、神との約束を守らなかったため神の怒りをかい、後悔してへたり込んだ際に箸でホトを突いて死んだという人物です。その実弟に大吉備津彦、異母弟に孝元天皇がいます。名は歴史編纂時に与えられたもので、実際は卑弥呼と呼ばれていたわけです。卑弥は狗奴国男王の卑弥弓呼素と共通し、王の称号のようですから、実名として呼(コ)が残ります。神代では、素戔烏の乱暴に驚き、杼でホトを突いて死んだ天の機織り女とも表現されているので、呼は蚕の意味と思われます。
 孝霊天皇の陵墓としては、箸墓より数十年古い、箸墓に次ぐ大きさの古墳を三輪、天理方面に求めれば、ほぼ片付くのではないでしょうか。


8、孝元(大日本根子彦国牽天皇)

 卑弥呼を補佐したという卑弥呼の男弟に当たります。卑弥呼が天の機織り女(織女)ですから、和風諡号の漢字、牽はコンビになる牽牛から採られたものでしょう。国を引っぱるという意味も込められているに違いありません。古事記では、大倭根子日子国玖琉命となっており、クニクルという音が先にあり、それに国牽という文字を当てたことになります。クルは引き寄せる、進める意味かと思えます。
 皇后の長男に大彦、次男に開化天皇、末娘に倭迹迹姫がいます。卑弥呼の後を継いだ壱与は、卑弥呼の宗女、年十三とされており、独身かつ年すでに長大であった卑弥呼に十三歳の娘がいるわけはありませんから、一族で最も身分の高い娘ということになり、倭迹迹姫が該当するのです。倭迹迹日百襲姫との名前の類似も後継者であることを示しています。
 孝元天皇が十三歳の娘を持つということは、卑弥呼とはかなり年の離れた弟と推定できます。卑弥呼死後に男王が即位したが国中が不服で反乱が起こったとされており、この男王は卑弥呼の男弟とは区別されていますから、息子の開化天皇でしょう。大彦との後継争いらしく、孝元天皇は卑弥呼と相前後して亡くなっていたのかもしれません。
 後漢に孝元帝という諡号は見あたりませんが、魏最後の帝、陳留王奐(在位260~265)の諡が元皇帝です。この帝の景元四年(263)に壱与が帯方郡使、張政を送って魏政府に朝貢しており、孝元という諡号は壱与(倭迹迹姫)との関係から与えられたと思われます。狗奴国の滅亡は遣使の前年(262)から遡っても数年と考えられ、箸墓の築造も262年頃に置くことができます。壱与の兄、開化天皇が壱与を補佐するという卑弥呼時代と同じ形が採られていたようです。陳留王奐は魏の帝位を追われ、晋の陳留王に封じられた人物ですから、息子達に引退させられた可能性もあります。陵墓は卑弥呼の墓、箸墓とおなじく弓月ヶ岳に中心軸を向ける崇神陵古墳です。ここには中国の武神、兵主が祭られていました。今も麓に大兵主神社があります。


9、開化(稚日本根子彦大日日天皇)

 「化」は、形が別のものに変化することを表す文字です。別のものに変わることを開いた。この天皇を最後に、魏志倭人伝中の邪馬壱国こと、天孫に国を譲った物部系・大国主系の王朝から崇神天皇の大和朝廷へと移行しているので、この諡号が与えられました。「人智の開け進むこと。建極開化(顧凱之)」(大字典)とされています。
 開化天皇のあと、神武(崇神)天皇に皇位を譲った饒速日が続くはずなのですが、王の列には加えられていません。開化天皇は壱与(倭迹迹姫)の兄なので、崇神天皇時代には既に故人だったはずです。陵墓は奈良市北方のウワナベ古墳と思われます。


 諡号からも上記のように歴史をなぞることができるということは、諡号を付けた時代、歴史の真実がまだ保存されていたということでもあります。崇神、神武が同一人物であること。孝安、孝霊が後漢の諡号や後漢書の記述に関連づけられることを書こうと始めたのですが、好字を選んでいるだけと思っていた、綏靖、安寧、懿徳にこれほどの意味が込められているとは!当時の漢文知識の深さを思い知らされました。手がかりを与えてくれた大字典に感謝です。