和泉黄金塚古墳と景初三年銘鏡、富木の大樹伝説



和泉黄金塚古墳と大樹伝説・景初三年銘鏡(拘右智卑狗は富木にいた)


 仁徳記
「この御世、兔寸(とのき)河の西に、一本の高樹が有った。その樹の影は、朝日に当たれば淡道島におよび、夕日に当たれば高安山を越えた。そこで、この樹を切って船を作った。非常に早く行く船であった。時に、その船を号して枯野(からの)と言った。この船を以って、朝夕、淡道島の寒泉を酌み、大御水を献じた。…」

 古書には、上記のような、現実には存在し得ない大樹がしばしば登場します。大樹伝説、太陽信仰などと簡単に片付けられていますが、あまりにも安易で、分析というものがなされていません。東の高安山には影を落としているのですから、高安山から日が昇るのではない。富木(とのき)の大木が高安山方向に影を伸ばすとすれば、夕日は淡路島南端に沈んでいることになります。朝日の昇る対照的な位置を考えると影は淡路島から外れてしまう。これは「比喩」というもので、太陽の運行には関係がありません。
 神々の婚姻や喧嘩は、現実に戻せば、その祭祀氏族間の同盟や対立を意味しますし、山の背比べも同様に勢力争いです。仁徳記の大樹とその影は、勢力の中心と代表的な影響範囲を表しています。仁徳天皇という時代は借りられているだけで、応神紀にも伊豆国が貢いだ高速船、枯野の話があります。実際に枯野という船が存在したのかもしれませんが、史書編纂者は何か別のことを残したくて、このような比喩的記述法を採り、仁徳記に挿入したわけです。
 朝日に照らされれば影は西、夕日なら東になるはずです。この仁徳記は位置的には非常に苦しいながらも、なんとか西、東に影を落としています。
 しかし、事実がそう都合良く存在するはずもなく、「播磨国風土記逸文」では、仁徳天皇時代、明石駅家の駒手の御井の上方に生えた楠が、朝日には(南の)淡路島を隠し、夕日には大倭嶋根(大和国)を隠したとされています。その楠を切って作った高速船の名は速鳥です。
 これも比喩で、風土記逸文のいう明石の楠の大木とは、神武天皇が吉備の高島宮から出て大和制圧に向かったとき、速吸門(明石海峡)で合流したとされる国津神、槁根津日子(サオネツヒコ、「紀」では椎根津彦。別名、珍彦=ウヅ彦)を指します。槁(さお)は木+高という組み合わせで、漢字の意味は「枯れる」です。後世の浦島説話のように亀の甲羅に乗って登場しており、楠(クス)、カラ、亀、ウヅと秦系要素(「弥生の興亡」参照)に包まれています。
 この槁根津日子は後に倭国造に任命されました。明石付近の首長ですから、対岸の淡路島にも影響力を持ちます。それで、明石の大木の影が淡路島を隠し、大倭を隠すという話になったわけです。
 大和朝廷初代、神武(崇神)天皇の東征は、実際には、塩土老翁(潮ツ道=潮の道の老人)の案内により、日向から黒潮に乗って紀伊半島南端に達しており、記、紀の瀬戸内進軍は、神功皇后、応神天皇の大和進出経路を借りたものです。
 五世紀初めの神功、応神朝の大和入りに明石から従い、その功績から、槁根津日子は大倭国造に任命され、地元の明石には、そのまま一族の誰かが国造として残ったようです。先代旧事本紀、国造本紀では、明石国造は大和直と同祖で、応神朝に任命されたと記されています。こういう史実に基づき風土記の説話が作られたのです。それ以前の倭国造(そういう地位があったのかどうか不明。とにかく同族間の大和の代表者)は、崇神朝に倭大国魂神の祭主者になったとされる市磯長尾市の子孫と考えられます。神功・応神朝に大倭国造は同族間で交代しています。槁根津日子(椎根津彦)は、神武記に記されていますが、実際には、神功・応神朝の人です。

先代旧事本紀、国造本紀
「大倭国造…橿原朝(神武天皇)御世、以椎根津彦命、初為大倭国造」
「明石国造…軽嶋豊明朝(応神天皇)御世。大倭直同祖、八代足尼皃、都彌自足尼定賜国造」

播磨国風土記逸文
「播磨国風土記に曰く。明石の駅家、駒手の御井は、難波高津宮天皇(仁徳天皇)の御世、楠、井の上に生ず。朝日には淡路島を蔭し、夕日には大倭嶋根を蔭す。乃ち、その楠を切り、舟を造る。その迅さは飛ぶが如し。一楫(一かき)で七浪を越えて去る。乃ち、速鳥と号す。ここに於いて、朝夕この舟に乗り、御食を供えむとし、この井の水を汲む。一旦(ある朝)、御食の時に堪えず。故に、歌を作りて止む。唱えて曰く。『すみのえの、大倉向きて、飛べばこそ、速鳥と云わめ、何が速鳥』」

「魏志倭人伝から見える日本」で明らかにしたように、倭人伝時代(三世紀半ば)の大阪は、狗右智卑狗(河内彦)と呼ばれる狗奴国(和歌山北部が本国)の臣が統治していました。同じ狗奴国系(=秦系)の槁根津日子の祖先が明石海峡を封鎖していたため、邪馬壱国と魏の使者、張政は大阪湾に入れず、室津あたりで上陸し、大和まで一月も歩かざるを得なかったのです。
 仁徳記(河内)と播磨国風土記(明石)、どちらが先に成立したのか不明ですが、河内彦と槁根津日子は同族なので、まったく同形の話になったのだと思われます。あるいはもっと近い存在、槁根津彦も河内彦の子孫かもしれません。記、紀は神功皇后を卑弥呼と扱っており、仁徳天皇はその二代後ということになりますから、卑弥呼から近い時代のこととして仁徳記を書いています。そして、その大樹伝説から、河内彦の本拠が兔寸河の西だったと推定できるのです。

 

 高石市に富木(とのき)という地名があり、延喜式内社、等乃伎神社が存在します。兔寸河とは神社の東方を流れる和田川のことなのか、神社近く、南を流れる芦田川のことなのか。流路も現在とは異なっているはずで、規模から考えると和田川だと思えるのですが、はっきりしません。中心集落の所在地も神社付近かどうか?
 神社の祭神は天児屋根命で、中臣氏の一族、殿来連竹田売が祖神、天児屋根命をこの地に奉祀し、太政大臣、藤原武智麻呂と、その子の大納言、恵美押勝(藤原仲麻呂)が相次いで、この里に来住したと伝承されています。
 おそらく、原初はこの地の首長、殿来連が中臣氏の本宗だったのでしょう。大樹の影は高安山を越えていますが、その北、生駒山の麓に河内国一宮、延喜式名神大社という神格の高い枚岡神社があり、中臣氏の祖神、天児屋根命を祭っています。富木の大樹の影響力の及ぶ最先端に枚岡神社が存在するわけです。中臣氏は河内彦の一族としては末端の方だったのではないか。
 等乃伎神社の南、八百メートルほどのところ、丘陵地の先端部に国史跡に指定されている黄金塚古墳があります。
 長さ九十五メートルほどの前方後円墳で、被葬者は三人。中央の人物のために作られ、その後、左右に身内の二人が葬られたようです。女性と見られていますが、その中央の人物の棺の外側、粘土床から、景初三年銘の平縁画文帯神獣鏡が出土しています。古墳の築造時期は四世紀半ばから後半とされていますから、河内彦本人ではないにしても、その後裔、この地の首長階級の陵墓と考えて問題ないでしょう。
 本物の鏡は東京に召し上げられてしまったようで、和泉市の府立弥生博物館にレプリカが展示されています。銘文は「景初三年、陳是作銘、銘之保子宜孫(銘という字は言偏になっており、フォントがなく代用しました。)」で、文字は反時計回転に書かれ、中心から放射状の向きで(縦向き、文字上部は外側にあり、回るに連れ傾きが大きくなって、最下部の文字は逆立ちする)、円周に沿って回る三角縁神獣鏡(横向き)とは異なります。文章も練られておらず、三角縁神獣鏡に、「母人銘之保子宜孫(母になる人が持ったなら子孫に恵まれる)」という句を持つものがありますから、スペースが足りず単純にそれを短縮したようです。



 以上の要素から、この鏡は魏の陳氏鏡を模した倭鏡と分類できます。三角縁ではなく、平縁であることが、宗教の違い、卑弥呼の鬼道に属さない部族であったことを思わせるのです。百数十年、伝世されてきた鏡を埋納したのでしょう。被葬者が女性で、両脇の二人が息子であるなら、鏡の銘文から考えて、この女性のため、この地で作られたものという解釈も成り立ちます。景初三年に近いと想定している鏡の製造年代に疑問を持つべきかもしれません。しかし、その場合でも、製造職人がそういう年号を知っていたわけですから、手本になる鏡が身近にあったことは間違いありません。
 富木が景初三年という卑弥呼の時代と結びつき、邪馬壱国(大和)と微妙に違いを見せること、大阪湾を封鎖できる淡路島や明石と結びつくことは、このあたりが狗奴国の臣、河内彦の拠点であることを示しています。
 天智天皇は唐の侵攻を恐れ、高安山に城を築きました。高安山は大和と河内の攻防の際の、河内側の重要拠点だったのかもしれません。このことは久度に関係してきます。(「久度、古関」参照)



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