倭国伝の変遷



 史書(魏志から旧唐書まで)の倭国伝データの変遷を分析


 中国史書内の日本関係の記述の表題に関し、魏志が倭人伝で、後漢書が倭伝、隋書が倭国伝となって、統一されていないことに不審をお持ちの方もおられるかと思うが、それぞれの史書の出だしが倭人、倭、倭国となっているから、それを尊重しているだけのことである。このレポートの表題、「倭国伝の変遷」も、全体を通して考えるなら「倭国」が良かろうと感じただけで、深い意味があるわけではない。時代とともに日本関係の記述がどのように変化していったか、その思考の流れを分析する。

(漢書地理志燕地) 夫樂浪海中有倭人分為百餘國㠯歳時來獻見云
「それ、楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国を為す。歳時を以って来たり献見すと云う。」

(漢書地理志呉地) 會稽海外有東鯷人分為二十餘國㠯歳時來獻見云
「会稽海外に東鯷人あり。分かれて二十余国を為す。歳時を以って来たり献見すと云う。」

(漢書地理志粤地) 其君禹後帝少康之庶子云封於会稽文身斷髪避㠯蛟龍之害
「その君は禹の後、帝少康の庶子。会稽に封じられ、分身断髪し、以って蛟龍の害を避くと云う。」

(漢書地理志粤地、海南島に関する記述)
自合浦徐聞南入海得大州東西南北方千里 武帝元封元年略為儋耳珠厓郡民皆服布如單被穿中央為貫頭男子耕農種禾稻紵麻女子桑蠶織績亡馬與虎民有五畜山多麈麖兵則矛盾刀木弓弩竹矢或骨鏃 
「合浦、徐聞より南、海に入りて大州を得たり。東西南北方千里。武帝、元封元年、略して儋耳、朱崖郡と為す。民はみな単被の如き布を服し、中央を穿ちて貫頭を為す。男子は耕農し、禾稲、苧麻を種え、女子は桑蚕し、織績す。馬と虎はなし。民は五畜あり。山に麈麖多し。兵は則ち矛、盾、刀、木弓、弩、竹矢、或いは骨鏃。」


 日本に関する最初の史料は、漢書地理志燕地の「それ、楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国を為す。歳時を以って来たり、献見すと云う」という文である。楽浪郡は漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼした後に設けた郡なので(B.C108)、それ以降の伝承だとわかる。漢文だと十九文字。「海の中(の島)に、百以上の国を作っていて、時々、楽浪郡を訪れる」という程度の認識しかなかった。楽浪郡へ通っているのだから、日本側も漢に関する情報を持っていたことになる。漢の都へ行こうと思うほどのエネルギーは溜まっていなかったようである。燕の都、薊(現在の北京)も、かなり離れているので、おそらくそこまで行っていないだろう。呉地、粤地の記述は、史書に引用されているので参考資料として挙げておく。


 時代的に漢書地理志に続くのは後漢書倭伝だが、424年頃、南朝、宋の范曄により編纂されたもので、280年頃から着手された普の陳寿編纂の魏志倭人伝(三国志)より百四十年ほど遅れる。後漢は25年、光武帝の建国で、220年、魏の曹丕に滅ぼされた。



 後漢書倭伝は次の六つの要素で構成されている。このあたりは大雑把に色の違いを眺めていただければ十分である。

1、魏志倭人伝の修正要約
2、范曄の解説
3、唐の李賢による注
4、先行後漢書と思われる史料の要約
5、漢書地理志呉地からの引用
6、三国志呉書や史記の整理

倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同土宜禾稲麻紵蠶桑知織績為縑布出白珠青玉其山有丹土氣温腝冬夏生菜茹無牛馬虎豹羊鵲其兵有矛楯木弓矢或以骨為鏃男子皆黥面文身以其文左右大小別尊卑之差其男衣皆横幅結束相連女人被髪屈紒衣如單被貫頭而著之並以丹朱坋身如中國之用紛也有城柵屋室父母兄弟異處唯會同男女無別飲食以手而用籩豆俗皆徒跣以蹲踞為恭敬人性嗜酒壽考至百餘歳者甚衆國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三女人不淫不妒又俗不盗竊少爭訟犯法者没其妻子重者滅其門族其死停喪十餘日家人哭泣不進酒食而等類就歌舞為楽灼骨以卜用決吉凶行來度海令一人不櫛沐不食肉不近婦人名曰持衰若在塗吉利則雇以財物如病疾遭害以為持衰不謹便共殺之建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見桓靈間倭國大亂更相攻伐歴年無主有一女子名曰卑彌呼年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆於是共立為王侍婢千人少有見者唯有男子一人給飲食傳辭語居處宮室樓觀城柵皆持兵守衛法俗厳峻自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王自女王國南四千餘里至侏儒國人長三四尺自侏儒國東南行舩一年至裸國黒齒國使驛所傳極於此矣會稽海外有東鯷人分為二十餘國又有夷洲及澶洲傳言秦始皇遣方士徐福将童男女數千人入海求蓬萊神仙不得徐福畏誅不敢還遂止此洲丗丗相承有數萬家人民時至會稽市會稽東冶縣人有入海行遭風流移至澶洲者所在絶遠不可往來

 先行する魏志倭人伝を自身の言葉で要約しながら引用した文が三分の二ほどを占める。後漢の歴史を記した書なので、後漢末に即位した卑弥呼のこと以外、魏志にある政治的な交渉に関しては書くことができない。そのころ魏という国は存在しなかったし、卑弥呼の後継者、壱与は生まれていないのである。引用は地理、風俗情報に限られていて、魏志を上回る内容はない。すべて魏志に記されている範囲内に収まっている。
 後漢書の書かれた南朝、宋代の朝鮮半島は、新羅、百済、高句麗が独立しており、中国領がなかったため「韓東南大海中」と修正している。存在しない楽浪、帯方を書いても同時代の人には解りづらいという配慮であろう。
 現存する先行史書に見られない独自の記述は、「後漢の光武帝の建武中元二年に倭の奴国が朝貢して、光武帝が印綬を授けた。」「安帝永初元年に倭国王帥升等が渡来して生口百六十余人を献じ、朝見を求めた。」「桓霊の間、倭国大乱」という上記原文の紺字にした部分だけである。范曄自身が、直接、後漢代の倭のことを知るはずがなく、これらも残された何らかの文献からの引用である。范曄は複数の後漢書を編纂して一つにまとめたと宋書范曄列伝に記されているので、范曄の時代に流通していた後漢書等の記述を採用したものと考えられる。
 最後に、日本に関係するかどうかあやふやな会稽海外東方の国の情報を付け加えてある。前漢代、秦代の出来事なので時間的には先立つが、倭の歴史に加えて良いものかどうかという判断であろう。東鯷人は漢書地理志呉地に見られる。徐福のデータは史記と三国志呉書にある。こういうふうに非常に論理的に整理されて無駄がない。魏志も同じである。


魏は220年の建国。265年、普の司馬炎(武帝)により滅ぼされた。

 魏志倭人伝は以下のような要素で構成されている。
1,陳寿の解説、補足
2,最初の帯方郡使、梯儁の報告に基づくと思われる文
3,二度目の帯方郡使、張政の報告に基づくと思われる文
4,南朝、宋の裴松之が加えた注
5,魏の公文書の写し(原型そのままと思われる)
6,魏中央政府の何らかの史料から得た文の要約

倭人在帯方東南大海之中依山島為国邑旧百余国漢時有朝見者今使訳所通三十国従郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千余里始度一海千余里至対海(対馬)国其大官日卑狗副日卑奴母離所居絶島方可四百余里土地山険多深林道路如禽鹿有千余戸無良田食海物自活乗船南北市糴又南渡一海千余里名日瀚海至一大国官亦日卑狗副日卑奴母離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴又渡一海千余里至末盧国有四千余戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深浅皆沈没取之東南陸行五百里到伊都国官日爾支副日泄謨觚柄渠觚有千余戸世有王皆統属女王国郡使往来常所駐東南至奴国百里官日兕馬觚副日卑奴母離有二万余戸東行至不弥国百里官日多模副日卑奴母離有千余家南至投馬国水行二十日官日弥弥副日弥弥那利可五萬余戸南至邪馬壱国女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次日弥馬升次日弥馬獲支次日奴佳 可七万余戸自女王国以北其戸数道里可得略載其余旁国遠絶不可得詳次有斯馬国次有巳百支国次有伊邪国次有都支国次有弥奴国次有好古都国次有不呼国次有姐奴国次有對蘇国次有蘇奴国次有呼邑国次有華奴蘇奴国次有鬼国次有為吾国次有鬼奴国次有邪馬国次有躬臣国次有巴利国次有支惟国次有烏奴国次有奴国此女王境界所盡其南有狗奴国男子為王其官有狗古智卑狗不属女王自郡至女王国萬二千余里男子無大小皆黥面文身自古以来其使詣中国皆自称大夫夏后少康之子封於会稽断髪文身以避蛟龍之害今倭水人好沈没捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以為飾諸国文身各異或左或右或大或小尊卑有差計其道里當在会稽東治之東其風俗不淫男子皆露紒以木緜招頭其衣横幅但結束相連略無縫婦人被髪屈紒作衣如単被穿其中央貫頭衣之種禾稲紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜其地無牛馬虎豹羊鵲兵用矛盾木弓木弓短下長上竹箭或鉄鏃或骨鏃所有無與儋耳朱崖同倭地温暖冬夏食生菜皆徒跣有屋室父母兄弟臥息異処以朱丹塗其身体如中国用粉也食飲用籩豆手食其死有棺無槨封土作冢始死停喪十余日當時不食肉喪主哭泣他人就歌舞飲酒已葬挙家詣水中澡浴以如練沐其行来渡海詣中国恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人名之為持衰若行者吉善共顧其生口財物若有疾病遭暴害便欲殺之謂其持衰不勤出真珠青玉其山有丹其木有枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香其竹篠簳桃支有薑橘椒襄荷不知以為滋味有獮猴黒雉其俗挙事行来有所云為輒灼骨而卜以占吉凶先告所卜其辭如令亀法視火坼占兆其会同坐起父子男女無別人性嗜酒(魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀)見大人所敬但搏手以當跪拝其人寿考或百年或八九十年其俗国大人皆四五婦下戸或二三婦婦人不淫不妬忌不盗竊少諍訟其犯法軽者没其妻子重者没其門戸及宗族尊卑各有差 序足相臣服収租賦有邸閣国国有市交易有無使大倭監之自女王国以北特置一大率検察諸国畏憚之常治伊都国於国中有如刺史王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯下戸與大人相逢道路逡巡入草傳辭説事或蹲或跪両手據地為之恭敬對應聲曰噫比如然諾其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名日卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大無夫婿有男弟佐治国自為王以来少有見者以婢千人自侍唯有男子一人給飲食傳辭出入居處宮室樓観城柵厳設 常有人持兵守衛又有侏儒国在其南人長三四尺去女王四千余里又有裸国黒歯国復有其東南船行一年可至参問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千余里景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏将送詣京都其年十二月詔書報倭女王曰制詔親魏倭王卑弥呼帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利奉汝所獻男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝我甚哀汝 今以汝為親魏倭王假金印紫綬装封付帯方太守假綬汝其綏撫種人勉為孝順汝來使難升米牛利渉遠道路勤労今以難升米為率善中郎将牛利為率善校尉假銀印青綬引見労賜遣還今以絳地交龍錦五匹絳地縐粟罽十張倩絳五十匹紺青五十匹答汝所獻貢直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華罽五張白絹五十匹金八両五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛丹各五十斤皆装封付難升米牛利還到録受悉可以示汝国中人使知国家哀汝故鄭重賜汝好物也正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭国拝仮倭王并齎詔賜金帛錦罽刀鏡采物倭王因使上表答謝恩詔其四年倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人上献生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢掖邪狗等壱拝率善中郎将印綬其六年詔賜倭難升米黄幢付郡仮授其八年太守王頎到官倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拝仮難升米為檄告喩之卑弥呼以死大作冢徑百余歩徇葬者奴婢百余人更立男王国中不服更相誅殺當時殺千余人復立卑弥呼宗女壹與年十三為王国中遂定政等以檄告喩壹與壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪拘等二十人送政等還因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠五千孔青大句珠二枚異文雑錦二十匹

 後漢末、朝鮮半島北西部を実効支配していた公孫氏の時代に、楽浪郡南部を分割して新たに帯方郡が設けられた。魏が公孫氏を滅ぼした後も受け継がれ、日本への窓口は漢書の楽浪郡から帯方郡に変わっている。漢書地理志燕地の「百余国」や後漢書にある「奴国の朝貢」は、過去の出来事として「旧百余国。漢時有朝見者」と簡単にまとめられた。陳寿も後漢代の資料を読み、奴国の朝貢を知っていたことになる(この頃、范曄後漢書は存在しない)。
 後漢書は魏志の地理・風俗情報を要約、つまり文章を吟味して簡略化しているわけだが、その内容まで変化させている部分がある。以下の表のようになる。

 

魏志倭人伝 後漢書倭伝
●今、使訳通ずるところは三十国
●その(倭の)北岸、狗邪韓国に到る
●使駅、漢に通ずるは三十許国
●その西北界、狗邪韓国を去ること七千余里
後漢書は狗邪韓国を倭領に加えたため、国数が増え、許(ほど)という文字を加えた。
●郡より女王国に至るまで万二千余里 ●楽浪郡境はその国を去ること万二千里
当時の中国人の世界観では、東、西、南、北、中央、距離はすべて万二千里のブロックと考えられていたため、魏志の万二千余里は間違いだと余を省いた。単なる省略かもしれない。
●南、邪馬壹国に至る。女王の都する所 ●その大倭王は邪馬臺国に居す
邪馬壹国を邪馬臺国に改めている。
●真珠、青玉を出す。その山に丹あり ●白珠、青玉を出す。その山に丹土あり
真珠は日本ではパールの意味になるが、当時の中国では丹砂を表すらしく、正しく白珠に直した。丹も丹砂のことなので、丹土(赤土)と改めている。あるいは魏志の文字抜けか。
●或いは蹲り、或いは跪き、両手は地に拠し、これを恭敬となす ●蹲踞をもって恭敬となす
膝を付ける、付けないにかかわらず、手は地面に付ける。それが重要なのに、後漢書は蹲踞のみで恭しさを表すとしている。誤解というより風俗の変化を思わせるが、気に留めずに省略したのかもしれない。
●その法を犯す者は、軽者はその妻子を没し、重者はその門戸及び宗族を没す ●法を犯す者はその妻子を没し、重者はその門族を滅ぼす
●法俗厳峻
重犯者とその一族は魏志では奴隷にされるだだが、後漢書では死刑になる。そして、法俗は厳峻(非常にきびしい)という魏志にはない言葉がみられ、ここでも風俗の違いを感じさせる。
●その(女王国の)南に狗奴国あり、男子が王となる。その官は狗古智卑狗がある。女王に属さず
●女王国の東、海を渡ること千余里。また国あり、皆、倭種
●女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に至る。皆、倭種といえども女王に属さず
後漢書は、魏志の四十行ほど離れた記述を合成し、魏志では方向の異なるまったく別の国を一つにしてしまった。これを范曄の読み間違いとするのは范曄に失礼である。
●年すでに長大 ●年長
魏志、正始八年(247)の頃の卑弥呼は年長大と表された。しかし、即位した後漢代の倭国大乱直後(170年代前半)はそれより七十年ほど遡るわけで、ずっと若い。そこで後漢書は大を省いた。それでも年長だから、卑弥呼は正始中、百数十歳と考えられていたことも明らかになる。百余歳にいたるものがはなはだ多いと書いており、卑弥呼はその中でも最長寿というわけである。

 最も問題になるのは「南に女王に属さない狗奴国がある。…海を渡った東にも倭種の国がある。」という魏志に対し、後漢書が「海を渡った東に、倭種で女王に属さない狗奴国がある」と記している部分である。魏志の四十行ほど離れた記述、方向がまったく異なる二つの国を狗奴国として合成してしまった。次いで問題になるのは、魏志が倭の対岸にあるとする狗邪韓国を倭の西北界の国として、倭領に含めていることである。このあたりは簡単な漢文で日本の大学受験生でも間違わないだろう。まして、その才を褒め称えられている范曄が自国語を読むのに?ということになる。間違いでないとすれば意図的な修正と解すしかない。范曄は倭のことを知らないわけだから、修正には何らかの別の資料が不可欠である。
 可能性が感じられるのは、晉書安帝紀に「この歳、高句麗、倭国、及び西南夷銅頭大師並びて方物を献ず。」と記された東普、義煕九年(413)の倭王の遣使である。「義煕起居注曰く、倭国は貂皮、人参等を献ず。詔して、細笙、麝香を賜う。」という注が入っている。倭が献じた方物(地方の産物)は朝鮮半島の産物「貂皮、人参」なのである。わざわざこれを届けたのは、朝鮮半島を支配するに至ったというアピールであろう。
 高句麗、広開土王碑は「倭が辛卯年(391)に海を渡り来て、百残、■■■羅を破り、以って臣民と為す。」と記している。日本の記、紀は、福岡、香椎宮に居した神功皇后が朝鮮半島を攻略し、百済、新羅を属国(百済を屯倉、新羅を馬飼い)にしたという。晉書安帝紀と義煕起居注(太平御覧所載)の「倭が方物の貂皮、人参を献じた」という記述は、それが事実であることを裏付けている。戦後の史学では伝説扱いされているが、神功皇后の事績の大筋は史実に基づくのである。
 皇后は朝鮮半島へ進出したのち、海を渡った東の大和を目指し、ジワジワ支配地域を広げてゆく。当然、大和にあるのは記、紀が隠す正統王朝である。皇統が分裂し、分家筋の神功皇后とその息子が政権を奪った。だから、諡号が神功皇后、応神天皇と始祖扱いで「神」という文字が入っている。元々同族だから大和入りした後の豪族層に大した混乱はみられない。それに反し、饒速日(物部氏)から大和朝廷(神武天皇=崇神天皇)への交代時には、全国的な反乱が起こったことを崇神紀が記している。
 後漢書が「海を渡った東の、女王国に従わない狗奴国」「朝鮮半島の狗邪韓国を倭領に含める」「邪馬壱から邪馬台への地名変更」「一部風俗の変化」など魏志の記述内容を改めたのは、この神功皇后時代の史料を受けたもの、義煕九年の遣使により、倭の新しいデータを入手して、神宮皇后時代の政治環境に合わせたと解せば、すべてが符合するのである。皇后は391年に朝鮮半島へ進出し、遣使した413年の少し以前に大和へ進出して王権を握ったと考えられる。
 邪馬壱から邪馬台(ヤマト)への地名変更は、前期古墳時代の饒速日(物部氏)から神武天皇(=崇神天皇)への王朝交代に付随するものではなく、大和入りした神功皇后の仕業と考えられる。皇后には、神託を受けたり、鮎占いをしたり、神名の交換をしたりなどの伝承がある。占って良かれと思う地名に変更していたのであろう。福岡が「奴(ドゥ)」から「儺(ナ)」へ。大阪は「津(ツ)」から「難波(ナニハ)」、和歌山は「狗奴(コウドゥ)」から「名草(ナクサ)」へと、神功皇后がかかわった土地の名が変化している。「ナ」という水を意味する言葉にこだわりがある。「邪馬壱→ヤマト」も考えられるのである。

【参考 魏略逸文】
1,最初の帯方郡使、梯儁の報告に基づくと思われる文の要約
2, 奴国の朝貢により得られた後漢代の史料に基づくと思われる文の要約
3,二度目の帯方郡使、張政の報告に基づくと思われる文の要約

倭在帯方東南大海中依山島為国度海千里復有国皆倭種従帯方至倭循海岸水行歴韓国到拘邪韓国七千里始度一海千余里至対馬国其大官卑狗副曰卑奴無良田南北市糴南度海至一支国置官与対同地方三百里又度海千余里至末盧国人善捕魚能浮没水取之東南五百里到伊都国戸万余置曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚其国王皆属女王也女王之南又有狗奴国女男子為王其官曰拘右智卑狗不属女王自帯方至女国万二千余里其俗男子皆点而文聞其旧語自謂太伯之後昔夏后少康之子封於会稽断髪文身以避蛟龍之害今倭人又文身以厭水害也其俗不知正歳四時但記春耕秋収為年紀倭国大事輒灼骨以卜先如中州令亀視坼占吉凶倭南有侏儒国其人長三四尺去女王国四千余里


 魏志倭人伝に続くのは晉書倭人伝である。編纂者は唐の房玄齢で貞観二十年(646)に完成している。普は265年の建国。317年に南遷して東普となり、420年、宋に滅ぼされた。華北は五胡十六国という混乱状態であったが後に北魏に統一された。

晋書倭人伝の要素
1、魏志倭人伝の要約、整理
2、魏略の要約
3、隋、唐代史料による修正、追加
4、魏の何らかの史料から得た文の要約

倭人在帯方東南大海中依山島為國地多山林無良田食海物舊有百餘小国相接至魏時有三十國通好戸有七萬男子無大小悉黥面文身自謂太伯之後又言上古使詣中國皆自稱大夫昔夏少康之子封於会稽断髪文身以避蛟龍之害今倭人好沈没取魚亦文身以厭水禽計其道里當会稽東冶之東其男子衣以横幅但結束相連略無縫綴婦人衣如單被穿其中央以貫頭而皆被髪徒跣其地温暖俗種禾稲紵麻而蠶桑織績土無牛馬有楯弓箭以鐵為鏃有屋宇父母兄弟臥息異處食飲用租豆嫁娶不持錢帛以衣迎之死有棺無槨封土為冢初喪哭泣不食肉已葬擧家入水澡浴自絜以除不祥其擧大事輒灼骨以占吉凶不知正歳四節但計秋収之時以為年紀人多壽百年或八九十國多婦女不淫不妬無爭訟犯輕罪者没其家孥重者族滅其家舊以男子為主漢末倭人亂功伐不定乃立女子為王名曰卑彌呼宣帝之平公孫氏也其女王遣使至帯方朝見其後貢聘不絶及文帝作相又數至泰始初遣使重譯入貢

 ほとんどすべてが前代の情報から成り立っていて、晉書でありながら晋代の記述は全くない。普の滅亡後、二百年以上経ってからまとめられている。戦乱で記録が散逸したであろうし、日本側も晉書安帝紀にある東普義煕九年(413)まで遣使していなかったようである。倭に関するローカル情報はそれ以外残っていなかったと思われるが、この倭人伝ではそのデータが漏れている。ピンク文字にした泰始元年(265)の倭の遣使だが、これは魏の咸煕二年十二月に禅譲を受けて普が建国され、その年の年号を泰始と改めたもので、使者は魏に派遣され、到着して朝見を待っている間に王朝が交代してしまったと考えられる。普の記録といって良いものかどうか。
 他、遣隋使(600、607、610)や裴世清(日本に派遣された隋の使者、608)、遣唐使(630)から得られたと思われる情報により、魏志を少し修正したり、データを追加したり、解説を加えたりしている。
 内容的に重要なのは、「文帝が相となるに及び、また数至る。」という文で、司馬炎(晋の武帝)により晋が建国された泰始元年の朝貢に先立って、文帝と諡された司馬昭時代の、倭の複数回の遣使が明らかにされることである。泰始元年は、少なくとも、壱与の三度目の遣使ということになり、帯方郡使、張政の帰国を送ったのは魏終末期、司馬昭時代の遣使と推定できるのである。このあたりの詳しい分析は「魏志倭人伝から見える日本、ファイル3」にある。 【司馬懿(宣帝)-司馬師(景帝)-司馬昭(文帝)ー司馬炎(武帝、晋建国)】

 

 晉書に続くのは,南朝、梁の沈約が編纂した宋書倭国伝である。宋は420年の建国で、479年、斉により滅ぼされた。

1、前史からの引き継ぎ
2、宋書独自の記述(倭の五王)

倭国在高驪東南大海中丗修貢職高祖永初二年詔曰倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表獻方物讃死弟珍立遣使貢獻自稱使持節都督倭百濟新羅任那辰韓慕韓六國諸軍事安東大将軍倭國王表求除正詔除安東将軍倭國王珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔國将軍號詔竝聽二十年倭國王濟遣使奉獻復以為安東将軍倭國王二十八年加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東将軍如故并除所上二十三人軍郡濟死丗子興遣使貢獻丗祖大明六年詔曰倭王丗子興奕丗載忠作藩外海稟化寧境恭修貢職新嗣邊業宜授爵號可安東将軍倭國王興死弟武立自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大将軍倭国王順帝昇明二年遣使上表曰封國偏遠作藩于外自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川不遑寧處東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿累葉朝宗不愆于歳臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遙百濟装治船舫而句驪無道圖欲見吞掠抄邊隷虔劉不已毎致稽滞以失良風雖曰進路或通或不臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大擧奄喪父兄使垂成之功不獲一簣居在諒闇不動兵甲是以偃息未捷至今欲練甲治兵申父兄之志義士虎賁文武効功白刃交前亦所不顧若以帝徳覆載摧此彊敵克靖方難無替前功竊自暇開府義同三司其餘咸暇授以勤忠節除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大将軍倭王

 宋書には魏志など過去の史書を受け継ぐ部分がほとんどない。最初に「倭国は高麗東南の大海中にある。」という位置を記すのみである。ここでも当時の政治環境に合わせて高麗東南と変更している。残りすべては倭の五王の遣使に関する記述である。
 最初は永初二年(421)の讃の遣使、二度目は元嘉二年(425)で、同じく讃によるもの。上表しているから、自身の名を書く。その文字が讃だったのだろう。讃、珍、済、興、武の五王が遣使しているが、印象の良い文字ばかりなのは、日本側がそう書いたからである。中国風に書き表すため、自らの名に関連したふさわしい文字を選んだと考えられる。
 413年の東普への遣使が神功皇后によるものなら、8年後の421年の遣使は次代の応神天皇によるものと自然に流れができるし、応神天皇の名はホムダワケ、讃の意味は「ほめる」その古語は「ほむ」であるから、記、紀と宋書の間に矛盾はない。
 神功皇后は夫を失い、懐妊中に朝鮮侵攻を決意して、軍の帰還後に応神天皇を生んだとされているから、応神天皇は広開土王碑にある辛卯年、391年の生まれである。皇后は後妻として入っているから二十歳前後だったのではないか。420年頃に亡くなり政権が交代したのであろう。421年の遣使時の応神天皇は三十歳ということになるし、皇后の享年は五十前後と思われる。
 次いで、宋書は「讃が死に弟の珍が立って遣使し貢献した。」と記しているが、夫を失っている神功皇后が応神天皇以外の子供を生めるわけがなく、一人っ子である。だからここは宋書の系譜に誤りがある。
 最後に昇明二年(478)の倭王武の上表文が載せられていて、「渡りて海北九十五国を平らげ…」と告げ、高句麗と戦う決意を表明している。海北九十五国は朝鮮半島のことだし、高句麗を攻めるには百済、新羅という途上が安全でなければならない。ここでも、記、紀がおおむね真実を伝えていることが明らかになる。武は高句麗と同じ開府義同三司という地位を望んだが得られず、使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王という称号を授けられている。武をワカタケル大王こと雄略天皇に比定することにはほとんど異論がないようである。


 南朝、梁の蕭子顕より編纂された南斉書倭国伝が続くが、新しい記述は、建元元年(479)に「倭王武を号して、鎮東大将軍に除す。」という部分のみである。倭国の位置と「漢末以来、女王を立てる。土俗はすでに前史に見る」と書いて、ほとんどすべてを省略して四行で片付けている。

1、前史の引き継ぎ
2、南斉書独自の記述

倭國在帯方東南大海㠀中漢末以來立女王土俗已見前史建元元年進新除使持節都督倭新羅任那加羅秦韓六國諸軍事安東大将軍倭王武號為鎮東大将軍


 次は、唐の姚思廉が編纂した梁書倭伝である。梁書倭伝とはいっても、内実は魏志、後漢書、宋書の記述と、隋、唐代に新たに入った伝聞資料を整理したもので、梁代の資料は全く含まれていない。
 貞観三年(629)に唐、太宗の命を受けて編纂し、貞観十年(636)すべてが完成したとされているので、遣唐使(630)から得た情報も採用可能である。

1、魏略の要約
2、魏志倭人伝の要約
3、姚思廉による解説、修正
4、隋、唐代史料
5、宋書の要約

倭者自云太伯之後俗皆文身去帶方萬二千餘里大抵在會稽之東相去絶遠從帶方至倭循海水行歴韓國乍東乍南七千餘里始度一海海闊千餘里名瀚海至一支國又度一海千餘里名未盧國又東南陸行五百里至伊都國又東南行百里至奴國又東行百里至不彌國又南水行二十日至投馬國又南水行十日陸行一月日至祁馬臺國即倭王所居其官有伊支馬次曰彌馬獲支次曰奴往鞮民種禾稻紵麻蠶桑織績有薑桂橘椒出黒雉真珠青玉有獸如牛名山鼠又有大蛇吞此獸蛇皮堅不可斫其上有孔乍開乍閉時或有光射之中蛇則死矣物産略與儋耳朱崖同地温暖風俗不淫男女皆露紒富貴者以錦繍雜采為帽似中國胡公頭食飲用籩豆其死有棺無槨封土作冢人性皆嗜酒俗不知正歳多壽考多至八九十或至百歳其俗女多男少貴者至四五妻賤者猶兩三妻婦人無婬妒無盜竊少諍訟若犯法輕者沒其妻子重則滅其宗族漢靈帝光和中倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子卑彌呼為王彌呼無夫壻挾鬼道能惑衆故國人立之有男弟佐治國自為王少有見者以婢千人自侍唯使一男子出入傳教令所處宮室常有兵守衛至魏景初三年公孫淵誅後卑彌呼始遣使朝貢魏以為親魏王假金印紫綬正始中卑彌(呼)死更立男王國中不服更相誅殺復立卑彌呼宗女臺與為王其後復立男王並受中國爵命晉安帝時有倭王賛賛死立弟彌彌死立子濟濟死立子興興死立弟武齊建元中除武持節督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事鎮東大將軍高祖即位進武號征東大將軍其南有侏儒国人長三四尺又南黒齒國裸國去倭四千餘里船行可一年至又西南萬里有海人身黒眼白裸而醜其肉羙行者或射而食之

 「海闊千餘里名瀚海」、「海が広いから瀚海と名付けられている」というのは、姚思廉が瀚海と呼ばれる理由を考え、解答として出したものである。実際には千里と表された海が続くわけだし、島影が望める程度の距離を広いと表現できるはずがない。現在は海峡というくらいである。前後の記述を無視して「瀚」という文字のみを考えている。
 「山鼠という牛のような獣がいる。大蛇がいて、この獣を呑む。蛇の皮は堅くて切り裂くことができない。その上(おそらく頭)に穴があり、開いたり閉じたりして、時には光を放つ。この中を射れば蛇は死ぬ。」という記述は、遣隋使あるいは遣唐使が酒席か何かで語った法螺話を真に受けたものと思える。蛇とクジラ類を合成した妖怪で、山クジラと言えば良さそうである。
 「富貴なものは錦繍、雑采を以て帽となす。中国の胡公の頭に似ている。」という記述は、日本に派遣された裴世清(608)の報告から得たものであろう。聖徳太子の時代に冠位十二階を定めたとされている(603)。この頃、高句麗僧が渡来したり(602)、高句麗の大興王から仏像用の黄金を贈られたり(605)、高句麗とは親密であった。その影響を受けていたと思われ、胡公の頭に似るという表現につながったのだろう。これが隋、唐代のデータであることは明らかである。
 最後の「西南万里に海人がいて、体が黒く、目が白い。裸で醜いが肉はうまく、そこへ行ったものは、射てこれを食べる。」という記述も、南西諸島沿いの航海の伝承を聞いたものであろう。
 後漢書が「桓霊の間倭国大乱(147~188)」とするのを、「霊帝光和中(178~183)倭国乱」と時期を絞っている。後漢書には「安帝永初元年(107)倭国王帥升等が生口百六十人を献じて朝見を願った。」と書いてある。願ったというだけなので、朝見は許されなかったのである。献じられた生口の数を考えると、何らかの紛争があり、その解決策を求めて国王自らが危険を顧みず海を渡ったと考えられる。魏志倭人伝には「その国は元は男子を王にしていたが、住むこと七、八十年で倭国が乱れ戦いあった。」と記されている。姚思廉はこの二つのデータを合わせ、永初元年(107)に女王国の一族が倭国へ移住したと解釈したのである。107年に70~80年を加えて、大乱はおよそ霊帝光和中という計算になる。107年という移住年に根拠がなく、机上の計算というしかない。後漢書は桓霊の間なので、桓帝と霊帝にまたがる。両帝の交代した168年を中心にした前後を考えるべきであろう。
 魏志の「壹與」を「臺與」に修正している。魏志が「邪馬壹」と記し、後漢書が「邪馬臺」と記す。どちらが正しいかわからなかったが、日本との交流が深まった結果、後漢書が正しいという結論が出せた。隋、唐代には、魏志は転写間違いだろうと、現在の通説と同じように思われていたのである。そこで、壹與も臺與の転写間違いとして修正された。これは姚思廉や魏徴などの編纂チーム共通の解釈である。
 卑弥呼は、多くの人が指摘しているように、紀に、三輪山の大物主神の妻となったと記されたヤマトトトビモモソ姫である。崇神紀にはめ込まれているが、実際は、大和朝廷ではなく、それに国を譲った前王朝の饒速日系、物部氏系の人物である。もう一人、大物主神に配偶したとされる人(神)があり、三穂津姫という。こちらは神代紀にある。つまり、三穂津姫は卑弥呼と同格なのである。卑弥呼の後継者、壹與が投影されていることは容易に汲み取れるであろう。その三穂津姫は奈良県磯城郡田原本町の村屋神社に祀られている。集落名は伊与戸(イヨド)という。物部氏同族に伊與部(イヨベ)があり、伊與戸へ表記が変わり、それがイヨドと読まれるようになったのだと思われる。イヨドに坐す三穂津姫は臺與(トヨ)ではなく、壹與(イヨ)が正しいとわかる。伊予国の別名が愛媛(愛比売)であることも難無く説明できる。村屋神社に関しては「補助資料集、村屋坐三穂津姫神社」にまとめてある。
 「普の安帝の時、倭王讃あり。」という記述は、宋書の永初二年(421)に讃が遣使したという記述から遡らせて、東普の安帝、義煕九年(413)も讃の朝貢であろうと推定したものである。この頃、応神天皇は二十一歳の若輩で、神功皇后は四十前後の油の乗り切った時期だった。神功皇后の遣使と解するのが妥当である。
 以上のように、史書には旧書のデータを要約したり、修正したり、当代のデータを追加したり、編纂者の思考が色濃く反映されている。何を重要と見るか、記録に残したいかは人により異なるので、採用部分はまちまちである。


 梁書に続くのは南北朝時代の通史として書かれた北史、南史の倭国伝であるが、成立は唐、高宗の時代で、梁書や隋書より遅れる。独自の記述はなく、前史と隋書の引用から成り立っている。文字数が多い上に説明するほどのことも見当たらない。冗長になるので割愛する。



 隋書倭国伝がそれに続く。
 隋書は唐の魏徴撰。唐の二代目、太宗(李世民)の貞観二年(628)、学者を率い、数年かけて戦乱の間にバラバラになってしまった四部書(経、史、子、集)を校訂したとされている(旧唐書魏徴伝。新唐書では貞観三年)。隋書もこの間に編纂された(636)。魏志倭人伝の「壱与」を「台与」と記す梁書(姚思廉撰)の編纂にも魏徴が関与している。

1、後漢書倭伝の要約
2、隋、唐代史料
3、魏徴の解説
4、魏志倭人伝の要約

俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中依山島而居魏時譯通中國三十餘國皆自稱王夷人不知里數但計以日其國境東西五月行南北三月行各至於海地勢東高西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近漢光武時遣使入朝自稱大夫安帝時又遣使朝貢謂之俀奴国桓霊之間其國大亂遞相攻伐歴年無主有女子名卑彌呼能以鬼道惑衆於是國人共立為王有男弟佐卑彌理國其王有侍婢千人罕有見其面唯有男子二人給王飲食通傳言語其王有宮室樓觀城柵皆持兵守衛為法甚嚴自魏至于齊梁代與中国相通開皇二十年俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕上令所司訪其風俗使者言俀王以天為兄以日為弟天未明時出聽政跏趺坐日出便停理務云委我弟高祖曰此大無義理於是訓令改之王妻號雞彌後宮有女六七百人名太子為利歌彌多弗利無城郭内官有十二等一曰大德次小德次大仁次小仁次大義次小義次大禮次小禮次大智次小智次大信次小信員無定數有軍尼一百二十人猶中国牧宰八十戸置一伊尼翼如今里長也十伊尼翼屬一軍尼其服飾男子衣帬襦其袖微小履如屨形漆其上繋之於脚人庶多跣足不得用金銀為飾故時衣横幅結束相連而無縫頭亦無冠但垂髪於両耳上至隋其王始制冠以錦綵為之以金銀鏤花為飾婦人束髪於後亦衣帬襦裳皆有襈攕竹為梳編草為薦雜皮為表縁以文皮有弓矢刀矟弩讚斧漆皮為甲骨為矢鏑雖有兵無征戦其王朝會必陳設儀仗奏其国楽戸可十万其俗殺人強盗及姦皆死盗者計贓酬物無財者没身為奴自餘軽重或流或杖毎訊究獄訟不承引者以木壓膝或張強弓以絃鋸其項或置小石於沸湯中令所競者探之云理曲者卽手爛或置蛇瓮中取之云曲者卽螫手矣人頗恬靜罕爭訟少盗賊楽有五絃琴笛男女多黥臂點面文身没水捕魚無文字唯刻木結繩敬佛法於百濟求得佛經始有文字知卜筮尤信巫覡毎至正月一日必射戯飲酒其餘節略與華同好棊博握槊樗蒲之戯氣候温暖草木冬靑土地膏腴水多陸少以小環挂鸕鷀項令入水捕魚得百餘頭俗無盤爼藉以檞葉食用手餔之性質直有雅風女多男少婚嫁不取同姓男女相悦者卽為婚婦入夫家必先跨犬乃與夫相見婦人不淫妬死者歛以棺槨親賓就屍歌舞妻子兄弟以白布製服貴人三年殯於外庶人卜日而瘞及葬置屍舩上陸地牽之或以小轝有阿蘇山其石無故火起接天者俗以為異因行禱祭有如意寶珠其色靑大如雞卵夜則有光云魚眼精也新羅百濟皆以俀為大國多珎物並敬仰之恒通使往來大業三年其王多利思北孤遣使朝貢使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法其國書曰日出處天子致書日没處天子無恙云云帝覧之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞明年上遣文林郎裴淸使於俀国度百濟行至竹島南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國其人同於華夏以為夷洲疑不能明也又經十餘國達於海岸自竹斯國以東皆附庸於俀俀王遣小徳阿輩臺従數百人設儀仗鳴皷角來迎後十日又遣大禮哥多毗従二百餘騎郊勞既至彼都其王與淸相見大悦曰我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢我夷人僻在海隅不聞禮義是以稽留境内不卽相見今故淸道飾館以待大使冀聞大國維新之化淸答曰皇帝徳並二儀澤流四海以王慕化故遣行人來此宣諭既而引淸就館其後淸遣人謂其王曰朝命既達請卽戒塗於是設宴享以遣淸復令使者随淸來貢方物此後遂絶

 隋書になると、遣隋使と裴世清の相互訪問で飛躍的に情報が増え、ほとんどが新資料になる。晉書、梁書は魏志を要約しているが、隋書は少し内容の異なる後漢書を採用する。旧唐書の記述からは、日本の使者に対して質問を浴びせかけた様子がうかがえる。魏志と後漢書の食い違いに対し、どちらが正しいかを問いただしたことであろう。日本の政権は神功皇后を始祖とするから、その時代の政治環境に合わせて魏志を修正した後漢書が正しいと保証するにちがいない。魏徴は魏志のデータを使うより、正確だと判定した後漢書のデータを主に使い、足りない部分を魏志から補ったことが上記原文の色分けからうかがえる。
 邪靡堆に「すなわち、魏志いうところの邪馬臺である。」という解説を付けているが、これも邪馬壹は邪馬臺の転写間違いだとする考えに基づいたものであろう。
 「漢の光武の時、遣使入朝し大夫を自称した。安帝の時また遣使朝貢した。これを俀(=倭)奴国という。」も魏徴の解説である。光武帝のときは確かに奴国だが、安帝の時は倭国王帥升等となっているだけで、奴国とは書いていない。宋本通典などから、面土国王帥升が原型だったと考えられる。続く記述なので国も同じと早合点したのであろう。



 旧唐書は唐の滅亡後、五代十国の混乱になったが、その一国、後晋(936~946)の劉昫により編纂されたものである。

1、隋書の要約・データ追加
2、唐代の新資料

倭國者古倭奴國也去京師一萬四千里在新羅東南大海中依山島居東西五月行南北三月行世與中國通其國居無城郭以木為柵以草為屋四面小島五十餘國皆附屬焉其王姓阿毎氏置一大率儉察諸國皆畏附之設官有十二等其訴訟者匍匐而前地多女少男頗有文字俗敬佛法並皆跣足以幅布蔽其前後貴人戴錦帽百姓皆椎髻無冠帶婦人衣純色裙長腰襦束髪於後佩銀花長八寸左右各數枝以明貴賤等級衣服之制頗類新羅貞観五年遣使獻方物太宗矜其道遠勅所司無令歳貢又遣新州刺史高表仁持節往撫之表仁無綏遠之才與王子爭禮不宣朝命而還至二十二年又附新羅奉表以通起居

日本國者倭國之別種也以其國日邊故以日本為名或曰倭國自惡其名不雅改為日本或云日本舊小國併倭國地其人入朝者多自矜大不以實對故中國疑焉又云其國界東西南北數千里西界南界咸至大海東界北界有大山為限山外即毛人之國長安三年其大臣朝臣眞人來貢方物朝臣眞人者猶中國戸部尚書冠進德冠其頂為花分而四散身服紫袍以帛為腰帶眞人好讀經史解屬文容止溫雅則天宴之於麟德殿授司膳卿放還本國開元初又遣使來朝因請儒士授經詔四門助教趙玄黙就鴻臚寺教之乃遣玄黙濶幅布以為朿修之禮題云白龜元年調布人亦疑其偽所得錫賚盡市文籍泛海而還其偏使朝臣仲滿慕中國之風因留不去改姓名為朝衡仕歴左補闕儀王友衡留京師五十年好書籍放歸郷逗留不去天寶十二年又遣使貢上元中擢衡為散騎常侍鎮南都護貞元二十年遣使來朝留學生橘免勢學問僧空海元和元年日本國使判官高階眞人上言前件學生藝業稍成願歸本國更請與臣同歸從之開成四年又遣使朝貢


 前半の倭国に関する記述は、過去の史書の文言を使いながら、唐代の新たなデータを加え微妙に修正している。後は唐代に得られたデータである。貞観五年は舒明天皇三年(631)に当たる。日本では最初の遣唐使は630年だが、中国に現れるのは一年後になる。
 日本の政権は神功皇后の流れである。初代は福岡の香椎宮、つまり、古の奴国が発祥の地で、大和を制圧して王権を掌握した。だから、初文の「倭国は古の奴国なり。」という記述に偽りはない。
 日本国という別項が設けられ、「日本国は倭国の別種なり。その国は日のほとりなので日本を名とした。」「倭国は自らその名が雅でないのを嫌って日本に改めた。」とある。
 神功皇后が始祖だから、宋書の倭国とは同じでも、魏志とは異なる。同じ国内での政権交代だが、別種と言えるだろう。
 いつ頃から日本と名乗ったのか、手がかりをくれれば有り難かったのだが。唐の貞観五年(631)は舒明天皇の遣使、二十二年(648)は孝徳天皇である。長安三年(703)は文武天皇、中国は則天武后の時代に当たる。開元元年(713)は元明天皇、天寳十二年(753)は聖武天皇、貞元二十年(804)は桓武天皇、元和(806)元年は平城天皇、開成四年(839)は仁明天皇の遣使である。天皇を考えると、大化の改新をやり、大化、白雉という中国風年号を定めた孝徳天皇時代に国号を日本にした可能性があるし、二代後の天智天皇、その次の天武天皇は中国と激しく対立していた。この二人にも可能性がある。だから、「日本」が伝えられたのは、貞観二十二年(648)か長安三年(703)の遣使ということになるのではないか。私の個人的な感覚に過ぎないが、貞観二十二年だと思える。
 「日本は旧小国、倭国の地を併せた。」「入朝者の多くはおごり高ぶって、実をもって答えない。故に中国は疑う。」と書かれている。
 神功皇后を基準にすれば「倭国は古の倭奴国」だという記述と同じことで、これも事実である。そういうことを耳にして確認しようとしても、聞かれた使者は尊大な態度でごまかしにかかる。本当なのかどうか、中国は疑ったのである。

 倭国伝は、各史書のそれぞれの国に関連する倭を書いたものである。倭の方も変化しているわけで、時代が移るごとに過去の出来事は用済みになり、その時代に即した史料に置きかえられてゆく。魏志倭人伝が長く尾を引いたのは、隋、唐以前は倭人の風俗に関するデータが乏しかったからである。



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