TAKARAZUKA BAPTIST CHURCH

日本バプテスト連盟  宝塚バプテスト教会

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■■ 本日の宣教から ■■

主日礼拝当日の週報に掲載されている「本日の宣教から」を再掲しています。

当日の宣教の箇所の概要や導入にあたるメッセージとなっています。

 

2019年度

1週

2週

3週

4週

5週

4月

1日

14日

21日

28日

 

5月

5日

12日

19日

26日

 

6月

2日

9日

16日

 

 

7月

 

 

 

 

 

8月

 

 

 

 

 

9月

 

 

 

 

 

10月

 

 

 

 

 

11月

 

 

 

 

 

12月

 

 

 

 

 

1月

 

 

 

 

 

2月

 

 

 

 

 

3月

 

 

 

 

 

◆メッセージ過去ログ◆
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<2018年度>

 

2019年4月7日

ローマの信徒への手紙 12章1b, 2節
自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
ヨハネによる福音書 4章23節
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理とをもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。

「神に喜ばれる礼拝」
ローマの信徒への手紙 12章1〜2節

宣教:岡村牧師

新しく2019年度に入って初めての礼拝を迎えます。そして今年のイースターまであと2週間となりました。次週の受難週で高見協力牧師がルカによる福音書からメッセージをする予定です。

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12:1-2)

パウロは自分の体験からこの言葉を語っています。神の憐れみを受けた彼は、自分がまだ行っていないローマ教会の信徒の人々に、とっても大切なこととし勧めをしています。この世のあり方ではなく、イエスが教えられた神の国のありかたに倣うように、です。

長く生きていると自分の考え方や来し方を否定されるように感じられることはなかなか受け入れられないものです。パウロはここで、自分の決意と神の助けが必要であると語っています。その中心に礼拝があることを覚えたいと思います。キリストのお名まえによって他者と共に礼拝することがどんなに大きな力となるか、また恵みであるか。キリストの愛の結実である教会の礼拝を、できる限り大切にして歩む1年でありますように。

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2019年4月14日

ルカによる福音書 22章60〜62節
だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

「イエスのまなざし」
ルカによる福音書 22章31〜34節、54〜62節

宣教:高見協力牧師

イエス様の一番弟子とされるペトロでさえ、私たちと同じように数々の失敗を犯しました。その極め付けが、イエス様が逮捕された時、「あんな人、知らぬ、存ぜぬ」の一点張りで、主との関わりを全面的に否定した行為であったのです。自分大切さのあまりに主を裏切った姿は、何とも薄情であり、そこには人間の持つ弱さが浮き彫りにされているのです。

聖書は、このような人間の罪を余すところなく描き出し、人間それ自体では、決して愛を貫き通すことができない弱い存在であることを示すのです。しかし聖書は、決してその弱さだけを断罪して終わることをしないのです。否むしろ、その人間の弱さを受けとめ、罪を赦し、なおも励まし、支え、共に歩んでくださる神様がいることを示すのです。ペトロも自分の弱さを知って、一度は絶望しましたが、しかし、それで終わったのではありませんでした。彼のその弱さの中に注がれた「イエスのまなざし」に触れ、のちに彼は、弱い者から迫害をも恐れない真の信仰者へと生まれ変わっていくことができたのです。

ペトロの弱さは、私たちに何か「ホッ」とできる部分を与えてくれます。それと同時に、私たちが常にイエス様の「温かいまなざし」の中にあることを悟らせてくれるのです。私たちもペトロ同様に弱い器ですが、「イエスのまなざし」に触れて、真の信仰をもつ器となって人生を歩んで行きたいものです。

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2019年4月21日

ルカによる福音書 24章30〜34節
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集って、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
ヨハネの手紙 4章10節
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

「神が伝えるキリストの復活」
ルカによる福音書 24章13〜35節

宣教:岡村牧師

イースター、おめでとうございます!
イエス・キリストは復活しておられます !!

イースターは、キリスト教会にとっては原点であり、最も大切な祭りであり記念日です。現在型の記念日です。神は生きておられるのですから。

キリスト教は、イースターから始まりました。イエス・キリストが死から復活したということの理解の仕方は様々ですが、とにかくそのときからキリスト教会が生まれ、キリストの福音を世界に伝える活動が始まりました。

イエス・キリスト復活の知らせは、神御自身がなさいました。はじめは墓に行った女性たちに天使が伝えました。しかしそれでもイエスのグループの人々は信じることができませんでした。今日読む場面は、復活の事件が起こったことは知っていたものの、場所から離れていこうとする二人の弟子たちに、復活のイエス御自身が会って対話して復活を知らせた場面です。復活の知らせは、弟子たちだけにとどまりませんでした。イエスのグループを迫害していたパウロにも現れ、パウロの手紙によりますと五百人以上の人々にも復活のキリストが現れたという証言があります。涙ぐましいほどの神の側からの知らせです。神の愛をキリスト教会が受けています。だから愚かしく思われようと人を教会に招かないではいられません。共に礼拝する生活にお招きします。来週もどうぞ!

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2019年4月28日

ヘブライ人への手紙 13章20〜21節
永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。

「祝祷に送り出されて」
ヘブライ人への手紙 13章20〜21節

宣教:岡村牧師

礼拝に共に参加できることは喜びです。私はやがて礼拝に出席できなくなるときまで、集られる方々と一緒に礼拝する生活を続けていきたいと願います。礼拝では讃美と祈りがちりばめられている中で、聖書を読み、こどもメッセージがあり、聖書からの話しを聞き、献金をし、最後に祝祷をもって終了します。今日は「祝祷」に焦点を当てます。

「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。」(ヘブライ13:20-21)

聖書には色々な祝祷の言葉が出てきます。旧約の時代においても祝祷はありました。招詞に民数記の祭司による祝祷を冒頭で読んでいただきました。

「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて あなたに平安を賜わるように。」

キリストの死と復活により教会が生まれたことから祝祷も変りました。祝祷をする側とされる側という区別はなくなりました。祝祷を役割上する人もまた、その祝祷で送り出されて、1週間の主と共にある奉仕に遣わされるのです。

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2019年5月5日

ローマの信徒への手紙 15章13節
希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。

「神、祝福の源」
ローマの信徒への手紙 15章7〜13節

宣教:岡村牧師

日本では5月1日から新元号に変りましたが、「主の年」を意味するA. D. /西暦/紀元の年号はこれからも変る事なく続きます。キリスト教会、キリストを救い主と信じる人は、自分が《主の年》に生きていることを心の中心にいつも据えていますように。そしてキリスト者としての自分を、生活の中で証ししていくことができますようにと願います。

キリストが現れる前の旧約の歴史も、直前に道を整えたバプテスマのヨハネも、キリストの死と復活後のパウロの伝道も、すべてがキリストを指し示す働きでした。神はパウロをキリスト教会迫害者からキリストの福音を伝える伝道者として選びました。パウロはキリストを知る中で深い悔い改めに導かれて、死の危険に絶えずさらされながらも、キリストの福音が根幹からずれて人間の支配できるものにならないように言葉を尽くして闘いました。

人間には自分のメンツ(面目)を守りたいという本能的なものがあります。しかしパウロはキリストと霊的な出会いをしたことによって、今までの自分の名声や働きや将来を約束されたユダヤ教の指導者としての道も、豊かな経済力も、家族や友人も、結婚して家族を持って安定した生活を送ることも、キリストに従う恵みには及ばないとわかってしまったのです。

福音を巡っての対立の中でパウロは、集る信徒がキリストへの信仰によってもたらされる喜びと平和で満たされ、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるようにと祈り、祝祷するのです。

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2019年5月12日

ローマの信徒への手紙 12章1b〜2節
自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

「みことばによって心を新たに」
ローマの信徒への手紙 12章1〜2節

宣教:岡村牧師

自分が生きる意味や人生の目的を模索していた時代を経て、神の言葉と出会いました。聖書の言葉と人の証しにより、つたなく祈り求める中で、自分には理解を超えた聖霊の導きによりキリストが言葉として迫り、生涯をとおしてキリストに従っていきたいと決心したとき、いっさいの懸念や不安やしがらみが遠のき、ただ神の前に裸の自分が立っていました。私の、そして全てのクリスチャンの体験ではないかと思います。

キリストゆえに罪ゆるされ、そのままの姿で神に所属する神の国の者になったという感謝は、信仰生活の中で磨かれていきます。神の御心にかなう者として生きていきたいという願いはどんなクリスチャンもっていることでしょう。

今日の箇所は4月7日で読んだ箇所と同じです。パウロは心にすっと入って来る言葉ではなく、読む人が抵抗を感じる言葉を時に述べます。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12:1b-2)

聖書の言葉…みことば、それが自分に何を意味しているのか求める心をもって祈ることができますように。自分の主義・主張や価値観ではなく、みことばそのものが持つ力によって心を新たにさせられて歩んで行く勇気が、神の愛と慈しみによって備えられますように。

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2019年5月19日

出エジプト記 9章 8〜9節
主はモーセとアロンに言われた。「かまどのすすを両手にいっぱい取って、モーセはそれをファラオの前で天に向かってまき散らすがよい。それはエジプト全土を覆う細かい塵となって、エジプト全土の人と家畜に降りかかり、膿の出るはれ物となるであろう。」
詩編81編12〜13節
しかし、わたしの民はわたしの声を聞かず イスラエルはわたしを求めなかった。わたしは頑な心の彼らを突き放し 思いのままに歩かせた。

「全地に注がれたキリストの恵み」
出エジプト記 9章8〜12節

宣教:高見協力牧師

出エジプト記に登場するファラオは、私たち人間の代表者として描かれています。ファラオこそ私たちのことなのです。私たちは全ての者が、このファラオのように自己中心的なのです。目に見えない神を崇めるより、自らの知力、能力、権力を崇めてしまう。また、神のみ声、み言葉に従って、他己中心(愛)に生きるより、自らの声、思い、欲望に従って、自己中心(罪)に生きてしまう。このように私たちは、知らず知らずのうちに、ファラオのように罪の虜になってしまっているのです。しかし、その生き方の行く末は、出エジプト記12章以下でファラオが被った滅びの出来事であり、神の裁きによってもたらされる嘆き、悲しみ、慟哭でしかないのです。

では、現代のファラオである私たちも、このような行く末を辿るのでしょうか。いいえ、神は現代のファラオである私たちを決してお見捨てにはならなかったのです。時が満ちるに及んで、神はご自身の本性である愛を発動されたのです。神の私たちに対する愛と私たちの命に対する責任は、イエス・キリストとなって私たちに与えられたのです。罪がもたらす苦しみ、死から私たちを救うため、主は私たちのかたくなな罪を負い、私たちの身代わりとなって十字架の上で死の裁きを受けてくださったのです。これにより私たちの罪は贖われ、もはや裁かれることなく救いに与ることが出来たのです。さらに主は、復活により私たちの究極の恐れ、敵であった死をも打ち滅ぼし、私たちに永遠の命を与えてくださったのです。旧約ではなく、この全地に注がれたキリストの恵みによって約束された時代(新約)に生かされている私たちはなんと幸せなことでしょうか。

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2019年5月26日

ルカによる福音書 5章20, 25節
20: イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。25: その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取りあげ、神を賛美しながら家に帰って行った。 詩編103編2〜5節
わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
主はお前の罪をことごとく赦し 病をすべて癒し 命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け 長らえる限り良いものに満ち足らせ 鷲のような若さを新たにしてくださる。

「共同体の信仰」
ルカによる福音書 5章17〜26節

宣教:鮫島師

今朝のテキストは有名な箇所なのでご存知の方がほとんどだと思います。一人の中風の病人を4人(おそらく)が戸板(おそらく)に乗せて担ぎ、イエスさまの許へと連れてきた。でも小さな家には人々が押しかけていて中に入れない。それで彼らは一計を案じて屋根に上り、屋根を剥いでそこからイエスさまの真ん前に病人を吊り下ろした、というちょっと愉快な(当事者以外は)物語です。

中風の人は寝たきり状態だったようです。当時の医療では治癒は望めなかったと思われます。彼は諦めていました。神に期待しない。イエスさまはそれを「罪」と言われます。そして本人でなく、彼の周りにいて病人を思うあまり大胆な行動に出た人々の信仰に目を留められました。そして彼らの故に、彼らの祈りを聞き届けられたのでした。

本人の信仰でなく、その人のために尽くした人々の信仰に目を留めてくださった、というのです。私たちは取り成しの祈りをします。その祈りも、主は軽んじられないのでしょう。感謝なことです。共同体の祈り、教会の祈り、も、主が祝福されるなら、私たちは希望を持って大胆に祈り求めていっていい、ということになります。共に重荷を分かち合える輩が与えられていることを喜びながら、力にしながら、倦まず、弛まず、諦めず、小さな祈りを積み上げていきたいものです。その点を見ずに、律法に縛られて呟く人たちがいました。そのような人々に、信じる機会を与えようと、イエスさまは中風の人の体の病の癒しを「見せ」られました。人々も驚いて神を賛美しましが、律法学者やファリサイ派は…。

人は、自分の考えを変えることを良しとしません。自分を省みず相手を非難したがる。彼らのイエスさまへの非難は遂に敵意へ、殺意へと変っていきます。しかし癒された人は、体だけでなく心も魂も健やかさを取りもどしました。両極端に分かれていく根っこは一体何なのでしょうか。

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2019年6月2日

マルコによる福音書 4章26〜29節
また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
コリントの信徒への手紙I 15章58節
わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

「まかれてこその種」
マルコによる福音書 4章26〜29節

宣教:岡村牧師

緑が美しく輝く季節となっています。自然の命の営みにはいつも感動を覚えます。今日の箇所は、今日は先週予告した箇所を少し短くしています。マタイやルカによる福音書にはない、マルコによる福音書にしかない箇所です。

主イエスは「神の国」とはどのようなものなのか、人々が日常目にし経験している種まきのことを用いて、わかりやすく語っておられます。マルコによる福音書の1章に、主イエスが公の伝道活動を始めたことが記されていますが、こうあります。「…イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(マルコ1:14?15)

「神の国」が場所を意味するなら「神の国は近づいた」という表現は奇妙です。「神の国」とは、神の御支配を意味しています。イエスがこの世に来られたことによって、神の御支配が今こそ来たのだ、ということを語っています。

でも私たちには見えないしわかりません。イエスは言われます。「…人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。…」(マルコ4:26,27より)

神の御支配する神の国のことは私たちには見えないしわからないけれども、神ご自身が確実に導いて下さっていることなのだということです。見えないけれども信頼することを主イエスはその言葉と死をもって教えておられます。私たちの小さな信仰を神の御計画に巻き込んでくださりながら神の国は成長していきます。

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2019年6月9日

使徒言行録 2章14, 22ab節
すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けて下さい。(14節)
イスラエルの人たち、これから話すことを聞いて下さい。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。(22節より)
ヨハネによる福音書 12章24節
はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

「キリストを証しせずにはいられない」
使徒言行録 2章1〜22節

宣教:岡村牧師

2019年のペンテコステを迎えました。キリスト教会ではイースターとクリスマスと同様に、大変重要な記念日がペンテコステです。キリスト教会が誕生した記念日であり、キリスト教が始まった記念すべき日として祝います。

記念日というと既に過去の事になってしまった昔の事、というイメージがあるかもしれません。始めに起こったその時は今から見れば過去の事ですが、その時に起こった神の御業、聖霊の働きは、その時から今にいたるまでも絶える事なく同じ神によって続いています。昔はすごかった、不思議だった・・・ではなく今でも神にしかできないその働きは続いています。

そしてペンテコステ記念日を宝塚バプテスト教会の伝道開始記念日にしようと定めたのは2013年からです。宝塚バプテスト教会は伝道を開始してから今年33周年を迎えました。ここまで導いてくださった神様に感謝します。

イエス・キリストが復活されたイースターから50日目に、集まって礼拝をしていたキリスト者たちに聖霊が降り、世界中から集まっていた様々な民族の言葉で、神の御業を語りはじめました。その当時の人々が知っていた旧約聖書のヨエル書の預言がそのときから成就し始まったのです。特別な人ではなく、ただ神を求め、従う普通の人々が伝道の働きを担っていくという先がけの出来事でした。

人々を恐れて隠れていた信徒たちが、この日から別人になったかのように、人々の前で堂々とキリストを証しする言葉を述べるようになりました。恐れよりもキリストの愛が勝ったのです。一人ではなく、神と仲間たちと共に立ち上がったのです。それを表しているのがキリスト教会です。

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2019年6月16日

出エジプト記9章18〜21節
「『見よ、明日の今ごろ、エジプト始まって以来、今日までかつてなかったほどの甚だ激しい雹を降らせる。それゆえ、今、人を遣わして、あなたの家畜で野にいるものは皆、避難させるがよい。野に出ていて家に連れ戻されない家畜は、人と共にすべて、雹に打たれて死ぬであろう』と。」ファラオの家臣のうち、主の言葉を畏れた者は、自分の僕と家畜を家に避難させたが、主の言葉を心に留めなかった者は、僕と家畜を野に残しておいた。

「イエス・キリストこそ神の家」
出エジプト記 9章13〜21節

宣教:高見協力牧師

不義に生きるエジプト人を「雹の災い」で裁く前日、神は彼らを憐れんで、その災いを予告し、彼らの命が失われることがないようにと「家」に避難することを勧告しました。この神の御言葉を受け入れ、「家」に避難した者たちは命を得たのですが、この御言葉に聞かず、「野」にいて好き勝手なことをしていた者たちは命を失うことになってしまったのです。御言葉に従う者が救われ、従わない者は滅びるということが言いたいのでしょうか。いいえ、それだけがこの箇所のメッセージではないのです。

神の御言葉に聞かず、禁断の実を食べたアダムの原罪に象徴されているように、本来私たち人間は、御言葉に聞き従うことのできない罪人でしかないのです。すなわち私たちは、不義に生きる者として、神の裁きである「雹の災い」を受ける者でしかなかった上に、さらには神の恩情である「家」への避難勧告をも無視し、「野」で好き勝手なことをした罪の上塗りのゆえに、一刀両断たちまちのうちに雹に打たれ、滅ぼされるべき者でしかなかったのです。

そしてこの裁きは、今から二千年ほど前、私たち人類の上に降ったのですが、

それでも私たちは、何の被害も受けなかったのです。それは一体なぜなのでしょうか。それはイエス・キリストが私たちのために身を投げ、裁きに対して無防備な私たちを覆う「家」となって、御自身の命と引き換えに、神の仮借なき審判である「雹の災い」から、私たちを守ってくださったからなのです。

イエス・キリストこそ「神の家」、私たちの「避け所」。苦難の時、その中に逃げ込めと聖書は言っているのではなく、もうすでに、イエス・キリストの福音の出来事により、この「神の家」、「神の国」、「神の愛の支配」の中に、私たちは無条件で住まわされているのだと聖書は告げているのです。今、私たちは、「神の家」、「神の国」、「神の愛の支配」の只中に住まわされているからこそ、どんな苦難に遭おうとも、恐れたり、不安になったりする必要がないのです。

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