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主日礼拝当日の週報に掲載されている「本日の宣教から」を再掲しています。
当日の宣教の箇所の概要や導入にあたるメッセージとなっています。
◆今年度に戻る◆
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2014年4月6日
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◆聖書の言葉◆
マタイによる福音書 4章12 , 18〜22節
12: イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。
18〜22: イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。
そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。
この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
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「昔も、今も」
マタイによる福音書4章12〜22節
宣教:岡村牧師
4月になり新しい2014年度に入りました。1月には新しい年が始まり、4月には新しい年度が始まる、ということで、新しくなるということは、私たち人間にとってとても重要で、力をいただくことなのでしょう。
しかし年度が改まったから新しいというよりも、キリスト教会にとっては、主イエス・キリストが死から復活されたイースターから新しいことが始まっている、ということを心に留めていたいと思います。それがゆえに私たちはイエス・キリストの復活を記念する日曜日に、毎週集まって礼拝を行います。
十把ひとからげではなく、イエスがいた時代も今も、神は同じ神であり、一人一人の心に語りかけてご自分に従ってくるように招かれます。人はその招きを拒絶する様々な理由をもっているものです。しかし、不思議なことに、としか言いようがないのですが、イエス・キリストにあらわされるこの神に従っていこう!という思いが、ある時、定まるのです。神の導きであり、人の決断です。
今日の場面は、イエスが活動を始める時に弟子を集めた様子が描かれています。
≪イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 二人はすぐに網を捨てて従った。≫
イエスに従ったことから神に信頼する冒険の人生が始まりました。私たちもまた。。。
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2014年4月13日
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◆聖書の言葉◆
マルコによる福音書15章37, 42〜47節
しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。・・・・・既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。
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「死んで葬られた」
マルコによる福音書15章33〜47節
宣教:岡村牧師
イースターを迎える前の受難週が今日から始まります。イエス・キリスト復活の1週間前に、イエスは大勢のユダヤ人たちから歓迎されてエルサレムの城内に入りました。驚くべき奇跡を行ったイエスの名声は広く知られ、ローマの支配に苦しむ人々はイエスに期待したのです。
ところがイエスは、マルコによる福音書によれば神殿で商売をしていた人々を蹴散らし、政治的、宗教的指導者たちを面前で批判し、神殿崩壊を予告し、終末と苦難について語りました。そして12弟子の一人、ユダが裏切りを企て、主の晩餐が行われ、イエスはペトロの離反を予告し、ゲッセマネで苦しみの祈りをし、捕らえられてされるがままになぶりものになって、沈黙を貫き、無抵抗のまま十字架につけられました。
そうです。この時に驚くような奇跡は何も起こりませんでした。負け犬のようにイエスは死にました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれてイエスは息絶えました。
十字架につけられて死ぬこと、墓に葬られることが、様々な証人によって確認されました。イエスの死を間近に見ていた百人隊長、女性たちのグループ、さらに遺体を墓に納めた議員のヨセフ。 落胆のあまりか、残酷さに耐えられなかったのか、この時に12人の直弟子たちの姿があったとは書かれていません。
愛のゆえにか、悔いゆえにか、イエスの死に際して、恐ろしくてもこれだけはしなければ、という思いでそれぞれが決断をして行動しました。神はそれをお忘れになりませんでした。やがて大きな喜びの時が来ます。
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2014年4月20日
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◆聖書の言葉◆
マルコによる福音書16章6〜8節, 11節、13節
:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
:11 しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。
:13 この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。
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「キリストの復活」
マルコによる福音書16章1〜13節
宣教:岡村牧師
イースター、おめでとうございます!
イエス・キリストが死から復活して今共におられる! これが今日祝う理由です。2000年前の苦難の歩みの最後に、神から完全に捨てられて十字架にはりつけにされて死んだイエスが、3日目の日曜日によみがえりました。
2000年前の過去のことに終わらず現在も祝うのは、復活の主は過去から現在に至るまで変わらずに生きて私たちと共におられる神だからです。
2000年間何度も何度も語られ続けてきたキリストの復活の場面を今日も読みます。
神の使いは告げました。 『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』。
イエスが処刑されて三日目の日曜日の朝に、イエスと関わりのあった女性たちがイエスの御遺体に習慣通り香油を塗って葬ることをするために、恐れや不安と闘いながら遺体が納められた墓の前にやってきます。
最初に復活の出来事を神の使いより知らされる栄誉をいただいたのは、イエスを敬愛する思いを自分たちなりに貫こうとした女性たちでした。
誰もその時に信じられなかった出来事をそれ以後人々は伝え知らされ、2000年たった今、今日この日に信仰告白をしてイエス・キリストを信じる方がこの教会で生まれます。このことこそが何よりも大きな証しです。あの時と同じ神が今も御業を起こしておられます。
感謝! ハレルヤ! アーメン!
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2014年4月27日
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◆聖書の言葉◆
コリントの信徒への手紙�� 15章16〜22節
死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。 そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。 そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。 この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。
しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
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「キリストに望みをおく」
コリントの信徒への手紙�� 15章12〜22節
宣教:岡村牧師
今日は「召天者記念礼拝」として、先に主の元に召された方々の御家族をお招きして共に礼拝をする時としています。
先週はイースター(キリストの復活記念日)の礼拝を行いました。そして新しく信仰を告白してTさんがバプテスマを受けたことは、教会として最高の喜びでした。
今日、読んでいただいた聖書の記事は、地上のイエスの直弟子ではなく、敵対者であったパウロが書いたものです。 彼はイエス・キリストの弟子だった人たちのように、復活のキリストが皆の集まっているところに現れた時にはもちろんいなかったのですが、すでに天にあげられた復活のキリストから、語りかけの言葉を聴いて回心した人です。
その当時もキリストの復活を信じることができない人々はたくさんいたようです。パウロが手紙を書いている相手はコリント教会のクリスチャンたちです。クリスチャンであっても、イエス・キリストが死からよみがえった、復活した、ということをよくわからずにいぶかしく思う人々は少なからずいた、ということを今日の聖書の箇所もまた15章全体も示唆しています。もし復活がなかったのなら・・・という語り口でパウロは話を進めています。
復活については様々な解釈がありますし、一人一人のクリスチャンの復活理解を聞いたとしたら、本当に様々なイメージを持っていることに互いに驚くのではないかと思います。今日の聖書の言葉から、生きているこの時も死んだその先も、教会は、キリストに望みをおくものである、ということを確認したいと思います。
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2014年5月4日
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◆聖書の言葉◆
マルコによる福音書 3章28〜29節
:28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
:29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
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「三位一体の神」
マルコによる福音書 3章20〜30節
宣教:岡村牧師
マルコによる福音書では、イエスが公に伝道活動を始めるようになってから、3章までの間に、病にかかった多くの人々をいやしています。病がいやされた人の中には汚れた霊や悪霊に取りつかれた人が含まれていました。悪霊に取りつかれた人という言い方は、今の時代に生きる私たちにはなじまないものでしょう。
聖書に出てくる悪霊は、神に反抗するものであり、人間に取りつき暴力的にならせ、他者と共に生きる社会生活を困難にさせます。しかし、イエスの本質を知っており、イエスが神の子で世の救い主であることを知っているものとして描かれています。
イエスが登場した時、支配者層を含む社会の人々そして家族すらもイエスが救い主であるとは容易には認めることができませんでした。しかし悪霊はイエスは自分より力ある方としてその存在を恐れ、認めていた、と聖書は語っています。
今日の宣教題として三位一体(さんみいったい)という題をつけておりますが、そのことを十分に説明する時間も力量もありません。三位一体という言葉そのものは聖書には出てきません。この神学用語が生まれたのは4世紀です。新約聖書があまたある資料の内、この27巻と制定されたのも4世紀です。イエス・キリストの位置付けをめぐって様々な論争がくりひろげられました。「父なる神」「子なる神」「聖霊なる神」三つの位格をもちながら同位、同格であって唯一なる神であることを「三位一体」と表現しました。
イエス・キリストの十字架の死、復活の出来事があったので、このように理解する事ができます。そして教会はイエスをそのような方として聖書を読みます。
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2014年5月11日
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◆聖書の言葉◆
ヨハネによる福音書 16章26 〜28, 33節
その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」
これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
詩編139編7〜10節
どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうともあなたはそこにもいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。
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「勇気を出して共に歩んでいこう!」
ヨハネによる福音書 16章25〜33節
宣教:岡村牧師
緑が美しい季節になり、日ごとにぐんぐん育つ植物や小さな虫たちの成長に目を見張ります。ひとりでに成長していく様子に神の御配慮と慈しみを感じます。
私たちの人生は常に選択をし続けている人生であるとも言えます。小さなことから大きなことまで、与えられている自由の中でどれかを選びとって生きています。その選び取りを間違えってしまった、ああしまった!あの時こうすればよかった…と悔やみます。もう一度機会が与えられる場合には、慎重に選び直すことができるでしょう。しかし、もう悔やんでも遅い…取り返しがつかないことをしてしまった、と思わずにはいられないことも時には人は起こしてしまいます。
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」 (ヨハネによる福音書16章33節)
最も大事なところで、イエスを裏切るという悲しい選択をしてしまう弟子たち。 人の弱さを知る神は、救いの道をどこまでも備えて下さるためにイエス・キリストをこの世に送られ、十字架の死が起こりました。復活したキリストに赦されていると知った弟子たちは、イエスが彼らに与えた言葉を思い出します。過去の言葉ではなく今現在キリストが自分たちに呼びかけている言葉として受け取ります。
教会が置かれている状況はいつの時代も厳しいものがありました。しかし、私たちは教会をあきらめません。キリストが愛された教会としてこの世でどのように活動する選択をしていくのか、私たちの小さな活動を祝福して下さる神であります。
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2014年5月18日
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◆聖書の言葉◆
マルコによる福音書 7章26 〜30節
女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」 そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。
フィリピの信徒への手紙4章6〜7節
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
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「それほど言うなら」
マルコによる福音書 7章24〜30節
宣教:岡村牧師
人には色々な性格がありますので、自分と随分違う人に出会うと戸惑ってしまうことがあります。日本で長く生活をしている人々の気質のようなものは、近隣であっても韓国や中国その他のアジアの国々の方々とも違う、ということをお感じになられたことがあるだろうと思います。日本では古くから静かさや、謙譲の美徳とか申して一歩下がったところで静かにしていることが美しいこととして価値が置かれていたように思います。しかし、それぞれの民族や国の人々は皆、自分たちが一番素晴らしい、と思っているものです。
イエス・キリストがこの地上に生活していた時代のユダヤ人たちも同じでした。自分の国を持たずにローマに支配される身の上でありましたが、神から選ばれた神の民であるという誇りをもっていました。天地を創られ命あるものを創られた唯一の神を信じる自分たちの尊厳を守るためにも信仰は維持されていきました。
さて、今日の聖書に出てくるのは一人の女性で子どもを持つ母親です。イエスや弟子たちと同じ民族、同じ宗教の人ではありませんでした。人間はみな神の前には等しく大切な存在である、というのは現代においてはごく当たり前のことですけれども、2000年前のその時代では、唯一神を礼拝するユダヤ人は、多神教の人々を汚れた者として軽蔑する傾向がありました。民族差別、男女差別、身分差別、様々な差別がある中、ひるまずイエスに懇願した母親の姿に学ばされます。
「それほど言うなら。」とイエスの心も変えた女性との対話は、長く記憶されるほど弟子たちの心にも残った出来事でした。対話ということを軸に、人と人との関係、また自分と神の関係を考えてみたいと思います。
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2014年5月25日
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◆聖書の言葉◆
マルコによる福音書 10章48 〜52節
多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
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「あなたの信仰があなたを救った」
マルコによる福音書 10章46〜52節
宣教:岡村牧師
新約聖書の福音書には、イエスによる様々な奇跡の記事が載っています。今日共に読む箇所は、目が見えなかった人がイエスによっていやされる、という場面です。現代の様に医療技術が発達していなかった時代に、病や障碍(しょうがい)がいやされる、ということは衝撃的なニュース性があり、注目されました。
当時の人々の理解では重い病や障碍は、その人自身の罪か家族や先祖の罪の結果と思われていましたから、残酷でした。生活は大変だったでしょうし、孤独を強いられることでありました。目が不自由である障碍は伝染性はありませんから隔離されることはありませんでしたが、人々と共に神殿で礼拝をすることはゆるされていませんでした。神からの祝福を受けられない人と思われていたのです。
今日は、イエスがいやした人に「あなたの信仰があなたを救った。」と言われたその意味を考えてみたいと思います。マルコによる福音書においてイエスがこの言葉かけをしておられる人がもう一人いました。5章に出てくる12年間も出血が止まらなかった女性です。この女性にもイエスは「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃっています。大勢の人々がいる中でのいやしの出来事でした。
神の御わざによっていやされ救われたにもかかわらず、「あなたの信仰があなたを救った」と言われるイエスの言葉に深い愛と配慮が含められています。
今日のところでいやされて目が見えるようになったバルティマイという人。本当に嬉しそうで、一緒に喜びたくなります。素晴らしいことに、この人はいやされた後、主イエスに従って行ったのです。この人の姿に教会の私たちの姿が重なります。
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2014年6月1日
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◆聖書の言葉◆
エフェソの信徒への手紙 1章13 〜14節
あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。
17〜19節
どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。
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「聖霊の証印」
エフェソの信徒への手紙 1章13〜23節
宣教:岡村牧師
イースターにはTさんが信仰告白をしてバプテスマを受けました。同時にこの教会の教会員になられました。教会にとっては最高に嬉しい出来事でした。そして今日は、距離的に遠くなった教会からこの宝塚バプテスト教会に転入会を決心されたお二人が前教会の承諾を経て証しをなさることになりました。
信仰は目に見えないもので、神の国の事柄ですけれども、今ここに生きている私たちは具体的な共同体である教会のメンバーとして生きることになります。教会員になると教会員手帳というものが渡されます。これはどこの国へ行ってもどこの教会へ行ってもあなたがキリスト者であるということの証明になるものです。
もう20年近く前のことになりますが、福岡で牧師をしていた頃に中国籍の方がたが続けて来られたことがありました。そのときに私にすぐに見せてくださったのが、中国の教会でクリスチャンになった証明書でした。一枚の紙に教会や牧師の名前、本人の名前、生年月日、受洗日が書かれて印鑑等が押されているものでした。クリスチャンにとってのパスポートのようなものだなあと重く感じたことを覚えています。
「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」(エフェソ1:13,14)
見えない聖霊の証印は、一人一人の信仰を告白する心と言葉に基づいています。
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2014年6月8日
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◆聖書の言葉◆
使徒言行録 2章 5〜6節
さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
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「心に届く救いの言葉を運ぶ人々」
使徒言行録 2章1〜14節
宣教:岡村牧師
今日はペンテコステ。キリスト教会誕生の記念日です。そのときに起こった不思議は全て神がなさったことでした。聖霊の時代の始まりです。2000年前に起こった出来事が今日の聖書の箇所に記されています。その時にキリストを信じる人々を用いて神がなさったことは、アッと驚くような演出でした。世界中から五旬節というお祭りに集まった人々を巻き込んで、彼らを含んだ全ての人々への預言とも言える出来事でした。
その時と同じ聖霊なる神が私たちの時代にも先立って導いてくださり、この宝塚バプテスト教会が始まりました。伝道開始から28周年を本日迎えます。宝塚バプテスト教会の伝道開始からずっと歴史を見て来られた方々は随分少なくなりました。神が宝塚バプテスト教会に関わった人々を用いて行ってくださった恵みの事柄について、今日Yさんが短く話して下さいます。
今日の聖書の箇所で特に焦点を当ててその様子を記された人々がいました。お祭りの為に集まりましたが普段は世界に散らばって住んでいる人達です。「…どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。…彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
その一人一人にわかる言葉で神の御わざを語る言葉が心に届いたのです。それらの人々の驚きを想像しながら、聖書の言葉をとおして、求める人の心に届いてくださる神の不思議さを心にとどめたいと思います。聖霊によって神の愛がわたしたちの心に注がれているので、キリストにおける希望は決して私たちを欺くことはありません。
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2014年6月15日
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◆聖書の言葉◆
創世記 2章18 節
主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
創世記1章27節
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
コヘレトの言葉4章9〜10節
ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。
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「交わりの中で生きる」
創世記 2章18〜24節
宣教:岡村牧師
旧約聖書の1章と2章には、違う時代に書かれた二つの創造物語がつながって記されています。男と女が誕生したことが書かれているそれぞれの資料のうち、1章には27節に、短いけれども素晴らしく奥深い言葉で記されています。
「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」
ここには男と女の間に優位性の違いはありません。しかし2章4節から記されている男と女の創造物語により男性が女性より優位であるという解釈がずっとされてきました。そのような解釈があったために今でも女性が男性よりも一段低く見られていることは、世界全体にありますけれど、日本を含めたアジアでは特に顕著であるように思います。女性牧師を認めない教派があるのも聖書の解釈からです。
「主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
「助ける者」「助け手」という訳が誤解を生み、助手とかアシスタントと解釈したために女性は従の立場に置かれることになりました。しかし。言語のヘブライ語で用いられている「エーゼル」という語が聖書に出てくる意味は、神から遣わされる存在で、男と向かいあう対等なパートナーという関係を表す言葉です。
16世紀に宗教改革をしたM. ルターの国ドイツでは、現在全キリスト教会の55%が女性の牧師であることも最近知りました。キリストの福音が全てに伝わるために互いに愛し合い、協力しあう、かけがえのない存在として私たちが置かれています。
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2014年6月22日
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◆聖書の言葉◆
創世記 3章8〜13 節
その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」 女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
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「隠れるものから向き合うものへの回復」
創世記 3章8〜21節
宣教:岡村牧師
聖書を読んだことのない多くの人々でも、アダムとエバという名称や、蛇にそそのかされて禁断の木の実を食べてしまう女と男が、エデンの園という楽園を神によって追い出される、という話を知っていることでしょう。
キリスト教では聖書を唯一の信仰の規範としています。救い主と呼ばれるイエス・キリストの誕生以降のことが新約聖書に書かれ、旧約聖書にはイエス・キリストがこの世に登場することになった背景として、一つの民族を通して人間と神との関係が描かれています。
神とはどなたなのか、神と人間との関係はどうあるべきなのか、神は何を人間に求めておられるのか、聖書は様々な切り口で語っています。
神と人間の関係の始まりを聖書は記しており、今日の箇所は神と人間を隔てた「罪」という問題について書かれています。神に背くこと、神を無視する事を罪と言いますが、どのようにして罪が生まれたか大変興味深い内容です。魅力的な誘惑に負けて神との約束を破ってしまったことから、神から背を向けて隠れるようになった人間の姿が表されています。
神から問われると、アダムとエバが互いに責任を転嫁して罪を他者になすりつけようとする悲しい姿が描かれており、これが私たちの姿なのだと気付きます。神と人の関係の破壊であり、人と人との関係の破壊です。
その関係が回復されるように神が最終的に選ばれたのが、神の側の一方的な恵みによるものでした。イエス・キリストにおいて実現した関係回復は、神と人との関係や人と人との関係、また人と自然との関係も回復へと導きます。
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2014年7月7日
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◆聖書の言葉◆
イザヤ書55節8〜11節
雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。
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「神さまから与えられた使命」
イザヤ書55章8〜11節
宣教:北村執事
「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出る私の言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ書55章10〜11節)
神さまは私たち個人の望みを果たすとはおっしゃられませんが、神さまが与えられた使命は必ず果たされると書いてあります。
神さまが語られた言葉は、必ず成就するのです。その時と場所と方法は私たちの知るところではありません。しかし、言葉は必ずやその言葉に与えられた使命を果たすのです。
翻って私たちです。私たちは聖書を通して、いろいろな人との出会いを通して、神さまからの言葉に出合います。この言葉には神さまからの使命が託されているのです。神さまの言葉を大切にする私たちは、神さまの使命も同時にいただいているのではないでしょうか。
ところで、使命とは何でありましょうか。命を使うと書いて使命です。何のために命を使うのか、それが使命です。本日は、この「使命」ということについて思いを馳せて行きたいと思います。
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2014年7月13日
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◆聖書の言葉◆
創世記 13章8〜9、14〜18節
アブラムはロトに言った。「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」
主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。
さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」
アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた。
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「ビジョンの基」
創世記 13章8 〜18節
宣教:岡村牧師
アブラハムは旧約聖書だけではなく新約聖書の最初に彼の名前が出てくるほど重要な、信仰の模範とされる人です。しかしそのアブラハムも最初から素晴らしい信仰の人ではありませんでした。人が神を知り、神への信仰を確立されていくのには、自分を中心にしてしまうことから生じる失敗や困難を通して、神のご臨在を体験していくことが不可欠だということが聖書には描かれています。
その有様を隠さずに聖書が記しているので、私たちは神とはどういうお方なのか、神への信仰とはどういうことなのかを教えられていきます。
アブラムがアブラハムになるのはまだ先の事です。13章に出てくるのは、協力一致できない親類のロトと財産を巡る、関係の亀裂の問題です。一緒に旅をしてきた甥のロトの自立を認め、財産を分ける事になったいきさつが描かれています。
アブラムは一族の長であり、全主導権は当然アブラムにありましたが、ロトのグループを力づくで従わせるのではなく、相手の意思を尊重し、相手も生きる道をアブラムは選びました。それは見方によれば自分が負けて勝ちを譲るような弱さに見えたかもしれません。しかしそれが自分と折り合えない他者を祝福する生き方ではないでしょうか。
その生き方を選びとったアブラムを祝福するかのように神から言葉があり、アブラムは信仰の応答として「主のために祭壇を築いた。」(13章18節)のでした。
新約を生きる私たちはイエス・キリストを通して旧約のアブラハムを見ます。自分だけでなく全ての人が生きるためにキリストがおられます。神のビジョンの実現です。
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2014年7月20日
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◆聖書の言葉◆
創世記 14章16節
アブラムはすべての財産を取り返し、親族のロトとその財産、女たちやそのほかの人々も取り戻した。
15章4〜6節
見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
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「神は彼の信仰を義とされた」
創世記 14章11〜15章6節
宣教:岡村牧師
アブラハムははじめはアブラムという名でしたが、17章で神と契約を結ぶ関係になった時に、アブラハム(多くの国民の父)と名付けられます。今の世界で唯一の神を信じる宗教に、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が三大宗教として存在します。そのいずれの宗教においてもアブラハムは共通の人物であり、信仰の父として尊敬されています。
創世記13章で甥のロトと財産分けをして別れたアブラハムですが、ロトが窮地に陥ると、命がけでロトを救出しに出かけ、関係が切れてしまっていたようなロトを見捨てなかったのでした。また、財産に執着しなかった様子も記されています。
「主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』 そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15章5〜6節)
このときアブラムは心から主を信じたのでありましょう。その信仰がずっと貫かれたというよりも、妻と一緒の生活をしながらの信仰生活の中で、惑いつつ歩んで行くことがこの先に記されています。主の言葉があったときにアブラムは、子どもの様に素直な気持ちで心から主を信じたと推測します。その信仰を義とされた神。
神は人の最初の心からの信仰をご自身の側にきっと保存してくださって、そのあとの不信仰のゆえに約束を翻すようなことをなさらず、あきらめず、導いてくださっている神です。その神をイエス・キリストをとおして私たちも信じています。
新約時代のパウロがイエス・キリストを伝える為に、当時誰もが認めるアブラハムの信仰を用いて、律法による義ではなく信仰による義、をうち立てました。
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2014年7月27日
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◆聖書の言葉◆
創世記 18章25〜26節、32節
「・・・正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」 主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」 アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」
ヘブライ人への手紙7章24〜25節
しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。
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「神にとりなし祈る人」
創世記 18章20〜33節
宣教:岡村牧師
暑い日が続いておりますが、皆さんの御健康が支えられますように。
創世記から神とアブラハムの信仰による関係を学んでおります。何事においてもそうですけれども、最初というのは大変なことです。神から初めて言葉を受けた人、アブラハムはその神との関係が築かれていくためには、長い年月を要しました。はじめは、神からの一方的な言葉かけだけで、受けて聞くだけの者でした。しかし、人生の中で様々な困難な出来事に遭遇したときに、神はいつも共にいてくださり、約束の祝福の言葉を何度も思い出させてくださり、道を拓いてくださる神であることをアブラハムは体験していきます。
そんな中でアブラハムは今日の箇所では、神に自分の思い、考えを述べることができる関係になっています。自分のためにあれが欲しいこうしてほしい、というのではありませんでした。神が滅ぼそうとしている町の人々を救ってほしい、あの人々を滅ぼさないでほしい、という切なる願いでした。甥のロトがそこに住んでいたからかもしれません。
「アブラハムは進み出て言った。『まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのでしょうか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにならないのですか。・・・・』」
今の時代の私たちは、イエス・キリストをとおして神からの言葉を受けました。そしてその名を通して祈るようにと導かれています。神をよく知らない人の切なる祈りも神はお受けになるでしょう。しかし神がどなたなのかを知った者は、他者の救いのために神に懇願して祈るようにとこの世におかれているのではないでしょうか。 自分のことはもはや心配する必要がなくなったからです。どのようなときにも見捨てず共におられる神、十字架のキリストにより、とりなし祈られている私たちです。
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2014年8月3日
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◆聖書の言葉◆
創世記 22章8節
アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。
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「主の山に備えあり」
創世記 22章1〜19節
宣教:岡村牧師
今日の箇所は「イサク奉献」として知られ、アブラハムの信仰を語る時に避けて通れない大変有名な箇所であります。この箇所から様々な解釈がなされ、多くの説教が生まれてきました。驚くべき事件の話でありながら、アブラハムの心理描写などは全く記されておりません。
神は信仰のテストとして、人間に対して自分の愛する子どもを殺せというような残酷な命令をなさる神なのか、と大きなつまづきになるかもしれない内容です。アブラハムの息子、イサクが生まれることはこの夫婦に対する神さまの約束でした。あり得ないほどの高齢になってから初めて自分の血を受け継ぐ子どもが生まれたことは、この夫婦にとっては言語を絶する驚きであり、歓喜の頂点を経験したことだろうと推測できます。神は約束なさったことは必ず果たされる神だと身にしみて体験した彼らでした。
幸福の絶頂にある中で、息子を献げよという神からの言葉に対してアブラハムはいささかの抗議の言葉も、18章でソドムの町の人々のために必死に神に食い下がったあの雄弁な姿も見せません。ただ黙々と神に命じられた目的地に愛する息子イサクと共に歩みを進めます。
献げ物はどうするのとイサクに質問されたアブラハムは答えます。「・・・きっと神が備えてくださる。」
そのとおりのことがその後起こります。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の先祖として敬われているアブラハムは失敗しながらも神への信仰が育てられていきました。 新約の世界になった今でも、神はキリストのゆえに、信じる者を通して働かれます。
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2014年8月10日
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◆聖書の言葉◆
創世記 25章7-9a節
アブラハムの生涯は百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った。
創世記17章20-21節
「イシュマエルについての願いも聞き入れよう。必ず、わたしは彼を祝福し、大いに子供を増やし繁栄させる。彼は十二人の首長の父となろう。わたしは彼を大いなる国民とする。しかし、わたしの契約は、来年の今ごろ、サラがあなたとの間に産むイサクと立てる。」
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「二人の息子による葬り」
創世記 25章1〜18節
宣教:岡村牧師
8月6日(広島原爆日)、9日(長崎原爆日)、そして15日(終戦/敗戦日)、と8月は戦争について特に考え祈らずにはいられないときです。過去の戦争だけでなく現在戦争状態の地域て特に気になるのは聖書に出てくるパレスチナ地方です。イスラエル民族の歴史が刻まれ、イエス・キリストが生まれて活動した地域で、特にパレスチナ側に多くの一般市民の死傷者がでている情報がほぼ同時的に映像とともに入ってくる世界に私たちは生きています。アブラハムを共通の先祖とする人々です。
創世記シリーズで今日はアブラハムの晩年の様子と、死、埋葬について書かれている箇所を取り上げています。アブラハムは死に、埋葬を息子のイサクとイシュマエルがマクペラの洞穴に葬った、と記されています。アブラハムにとっては正妻の子ではなくてもイシュマエルは最初の息子でした。イサクが生まれるまでアブラハムはイシュマエルをどんなに愛した事だろうかと想像できます。
イサク誕生後イシュマエル母子は追い出され、互いに離れて暮らしておりましたが、共に自分の父親を葬った、と書かれていることに、私は神のアブラハムに対する祝福の約束がこのような場合にも既にもたらされているように思えます。
「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(詩編133:1)詩編にあるこの言葉を思います。
兄弟なのだから当たり前のようであるけれども、その和解した平和の状況が実はどんなに当たり前ではないかを私たちは聖書からもそれぞれの人生からも知っています。
祝福はイサクだけにではなかったのです。聖書にはイシュマエルもまた、神からの祝福を受けた事が記されています。アブラハムのゆえにです。アブラハムが神と契約を結んだからです。イエス・キリストをとおしてその契約は教会に与えられています。 教会を構成する私たち一人一人に対してもです。神の祝福が世界に広がるために。
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2014年8月17日
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◆聖書の言葉◆
創世記 26章26〜32節
そのころ、アビメレクは友人のアフザテとその将軍ピコルと、ゲラルからイサクのところにやって来た。 イサクは彼らに言った。「なぜ、あなたがたは私のところに来たのですか。あなたがたは私を憎んで、あなたがたのところから私を追い出したのに。」 それで彼らは言った。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。それで私たちは申し出をします。どうか、私たちの間で、すなわち、私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。あなたと契約を結びたいのです。 それは、私たちがあなたに手出しをせず、ただ、あなたに良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出したように、あなたも私たちに害を加えないということです。あなたは今、主に祝福されています。」 そこでイサクは彼らのために宴会を催し、彼らは飲んだり、食べたりした。 翌朝早く、彼らは互いに契約を結んだ。イサクは彼らを送り出し、彼らは平和のうちに彼のところから去って行った。 その日に、井戸を掘っていたイサクの僕たちが帰って来て、「水が出ました」と報告した。
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「平和を選んだイサク」
創世記 26章12〜33節
宣教:岡村牧師
旧約聖書で神を表すのに、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」という呼び方をする場合があります。神がその昔、選んで契約を立てたのはアブラハムです。イサクはその息子、ヤコブはアブラハムの孫にあたります。イサクもヤコブもアブラハムのゆえに祝福されました。
アブラハムを含めて三人とも不信仰と思える色々な失敗を何度もしています。弱さを抱えたままで、しかし、アブラハムを神が選んだゆえに、神が約束なさったように祝福は続いていくのです。神がアブラハムを選んだゆえに、信仰の継承がなされていきます。親を好きでも嫌いでも、共に生活する中で親の後ろ姿から子どもたちは何かを吸収し学んで見につけていくのでしょう。
さて、イサクという人に今日は焦点を当ててまいります。両親が年とって生れた子で、ある時期溺愛されて育ったでしょう。しかしモリヤの山で死にそうな経験をしています。今日の箇所でイサクの地味だけれどもとても大切な生き方を見る事ができます。彼は負ける事ができたのです。ひどい事を言われても黙って引き下がり、自分にできることをし続けて行きました。
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」
(マタイ福音書5章9節)
イエス・キリストの言葉です。平和を実現するという姿勢は生活の中から育ちます。
平和の主、イエス・キリストを主にして生活していくとき、自我との闘いをしながらも祈りへと導かれてきっと道が開かれていきます。キリストのゆえの祝福です。
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2014年8月24日
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◆聖書の言葉◆
創世記 27章37-38節
イサクはエサウに答えた。「既にわたしは、彼をお前の主人とし、親族をすべて彼の僕とし、穀物もぶどう酒も彼のものにしてしまった。わたしの子よ。今となっては、お前のために何をしてやれようか。」 エサウは父に叫んだ。「わたしのお父さん。祝福はたった一つしかないのですか。わたしも、このわたしも祝福してください。わたしのお父さん。」エサウは声をあげて泣いた。
ペトロの手紙�� 3章9節
「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」
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「神の祝福は狭き門なのか」
創世記 27章27-38節
宣教:岡村牧師
「祝福」という言葉は、私にとっては聖書を知る前にはなじみの無い言葉でした。 しかし、聖書を読んでいく時に、神の「祝福」というものが最も価値あるものとして描かれている事に気がつきます。「祝福」とは人に繁栄や幸福をもたらす、神の好意や恵みを表すものです。 旧約聖書では長命や家族や富の増加などで祝福を表しました。また時代によっては知恵が祝福であり、義と平和が祝福と考えられました。
神は最初にアブラハムを選んで契約を立て、アブラハムのゆえに子孫の間とも契約を結んで祝福を与えると約束をなさいました。「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と、神はご自身をそのように形容されたように、神の祝福はアブラハムから始まってずっとその子孫に流れていくことが表されています。
この祝福は、氏族の長となるものが得る、というふうに理解されていったために一つしか無い座を争うことになりました。イサクの子どもは一人ではなく双子でした。神が母親のリベカに、兄が弟に仕えるようになる、と告げたように事柄が進んでいきます。今日は祝福を逃したエサウの悔しさ悲しさが描かれている箇所を読みます。人物的にはエサウは素朴で単純で愛すべき人のように思えますけれども、神の祝福に関して鈍感だったと言えます。エサウは長子の権利を軽んじたという言葉が25章に載っていますが、その姿勢が既に神の祝福を軽んじるということにつながっている事が示唆されています。
新約聖書から後の時代に生きる私たちにとって神の祝福は、イエス・キリストです。聖書に証しされているイエスを心に受け入れること、信じること、従っていくことは神の祝福です。神の祝福のしるしとしてイエス・キリストの名前によって祈ることが与えられています。神の助けを必要とする他者のために祈り、行動することです。祝福するとは祈りをとおしてであることを覚えたいと思います。
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2014年8月31日
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◆聖書の言葉◆
創世記 28章15-19a節
「・・・見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」 ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」 そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」 ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けた。
ヘブライ人への手紙12章11節
およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
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「神の臨在を体験したヤコブ」
創世記 28章10〜22節
宣教:岡村牧師
アブラハム、イサク、ヤコブ・・・と、信仰の継承がなされていったことが、創世記のアブラハム家族の物語を通して記されています。アブラハムの信仰がそのままイサクに問題も無く受け継がれたのではないでしょう。イサクの息子ヤコブが、イサクの信仰を最初から当然のように受け継いで、同じ神をイサクのように信じていたとは思えません。
神はアブラハムをある時にご自分と契約を結ぶパートナーとして選びました。複数選んだのではないのです。アブラハムを選びました。しかしそれは彼を通してすべての人が神を知って信じるようになるために彼を選んだ、ということができます。それゆえに神はイサクとその息子ヤコブも信仰を継承する者として育てます。親の持つ信仰の経験を持たない未熟な者が、神が選んだ故に成長させられていきます。
成長の過程は苦しいと思えることが多々あります。しかしなぜ神を信じることができるのかといえば、ヤコブは親から神のことを聞いたことに加えて、自分で神が共におられることを体験したからです。彼は礼拝する者となります。
「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
神はヤコブに夢をとおしてその臨在を伝えました。 教会を構成するキリストを信じる一人一人も同じでありましょう。聞いて知って心に留めて、留めた信仰が成長するように助けてくださる神が、今も目には見えませんが助けてくださっているのです。何千年たっても神は人にご自身をあらわされます。聖書や人や事柄を通してイエス・キリストにたどりつかせてくださり、聖霊によって導いてくださいます。
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2014年9月7日
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◆聖書の言葉◆
使徒言行録 14章21-28節
二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。
また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。
それから、二人はピシティア州を通り、パンフェリア州に至り、ペルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である。到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。
そして、しばらくの間、弟子たちと共に過ごした。
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「神の恵みにゆだねられ送り出される」
使徒言行録 14章19-28節
宣教:岡村牧師
1週間7日あるうちの日曜日を、キリスト教会では礼拝する日としています。キリスト教では、日曜日はイエス・キリストが死から復活された日であり、この日を起点に全てが始まると考えます。一週の始めは日曜日であり、神の祝福をもって一週間が始まります。教会は建物を意味しません。神により呼び集められた人々が、様々な違いを越えて共にイエス・キリストにあらわされる神を礼拝するところが教会です
教会はキリストの体であり、神の祝福に満たされたところですが、人間が集まるところですから問題も起こります。しかし、問題が無いということが最善なことと考える必要はありません。問題が起こりながらも神の導きや神のなさることが起こっていくことを体験することが大切だと考えます。
今日は創世記を離れて使徒言行録を選びました。パウロたちが国外伝道を始めた様子が記されています。イエス・キリストの福音を受け入れる人々もいれば、執拗にパウロたちを迫害する人々もいました。今日の箇所を読むとキリストを伝えるということは、命がけであった様子が分かります。
パウロは紙が選んだ傑出した伝道者として名を残していますが、どんなにパウロが優れた人であっても、神はパウロを単独では行動させませんでした。教会で育てました。パウロたちは、勝手に出かけたのではありません。教会から送り出されて伝道旅行に出かけました。旅行というと楽しい旅のイメージがありますが、聖書に記されているその活動は、神の導きがなければ一歩も進めなかったことを思わせる過酷なものでした。
苦しむことは誰も望みませんけれども、歩んでいく中で避け得ないとき、神がともにおられると信じられるなら歩みを進めることができます。もはや孤独ではありません。
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2014年9月14日
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◆聖書の言葉◆
創世記 32章10-13節
ヤコブは祈った。「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。 わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。あなたは、かつてこう言われました。『わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と。」
マタイによる福音書 5章43-45a節
あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかしわたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。
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「神の祝福をめぐる格闘」
創世記 32章8-13節、23-30節
宣教:岡村牧師
若い時は自分一人の事でももてあまして、悩み苦しみます。しかし、結婚して家族ができたりすれば家族全体の事も責任をもたねばなりません。仕事や趣味やボランティア活動などでも責任が大きくなれば、全体の事を常に考えねばなりません。
ヤコブは両親がいる家を出た時は一人でした。遠く離れた伯父の家で結婚をえさにだまされて、20年もの長い年月、使用人同様に働き続けました。ラケルを愛した故に耐えてやっと結婚し二人の妻と女奴隷によって11人の子どもたちを得て、財産も増えて、神の言葉によって20数年ぶりに父親イサクと兄エサウがいる故郷に帰ることになりました。
20数年たって、ヤコブはいわば成功して錦の御旗を掲げて凱旋して帰る事ができるほどでしたが、神の「帰りなさい」という言葉に恐れおののくばかりだったのです。
なぜならば20数年前に自分が起こした事件を決して忘れていなかったからです。父も兄もだまして家督の権利と祝福を盗んだからでした。 「ヤコブは非常に恐れ、思い悩んだ」「どうか、兄エサウの手から救ってください。私は兄が恐ろしいのです。」とヤコブは祈りました。ヤコブはその昔神がヤコブにくださった約束の言葉を引き合いに出して、祈りました。まさに、苦しい時の神頼みです。
しかし、苦しい時に誰に祈っているのか、祈る対象の神がどなたなのかわかっているということは何と幸いでしょうか。その意味ではイエス・キリストを通して父・子・聖霊なる神を知っている我々は、ヤコブよりもはるかに恵まれた祝福された存在です。
不安と恐れで苦しむヤコブに、神は存在と祝福を具体的に信じる事ができるようにレスリングや相撲のようなものだったのか、格闘をするのです。私にはこれが神の深い愛であり、ユーモアであり、まさに身をもってヤコブを守る、という約束に思えます。
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2014年9月21日
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◆聖書の言葉◆
創世記 33章1-4節
ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた。ヤコブ は子供たちをそれぞれ、レアとラケルと二人の側女とに分け、側女とその子供たちを前に、レアとその子供たちをその後に、ラケルとヨセフを最後に置いた。ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。
創世記 33章16-20節
エサウは、その日セイルへの道を帰って行った。ヤコブはスコトへ行き、自分の家を建て、家畜の小屋を作った。そこで、その場所の名はスコト(小屋)と呼ばれている。ヤコブはこうして、パダン・アラムから無事にカナン地方にあるシケムの町に着き、町のそばに宿営した。ヤコブは、天幕を張った土地の一部を、シケムの父ハモルの息子たちから百ケシタで買い取り、そこに祭壇を建てて、それをエル・エロヘ・イスラエルと呼んだ。
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「和解の一考察」
創世記 33章1-4節、12-19節
宣教:岡村牧師
私たちは誰とも仲良く平和に暮らしていきたいと願いますが、聖書は、人間はなかなかそれができないものであることを正直に描いています。人間の生まれながらの姿というのは、人より力を持つ者となりたい、自分が優れた者として認められたい、他の人より愛されたいという思いをもつものであろうと思います。
一番愛し合うべき家族という中においても、仲良く平和に暮らす事は太古の昔から難しいことを聖書は語っています。その中で、神が人を祝福するとはどういうことなのかが描かれています。
ヤコブが強奪したのは物ではありませんでした。祝福と長子の権利でした。それがもとでヤコブは兄から命を狙われる事になり、家を出て遠い親戚の家で20数年間も働き、その間に家族が増え財産も増えた頃に、神から故郷に帰りなさいという言葉を受けます。
故郷に戻るということにたまらない恐怖を感じるヤコブでした。しかし神は和解の時を用意されました。「エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。」(33章4節) 感動的な場面です。
これでめでたしめでたし、二人は和解して仲良く共に暮らしました・・・というのではなかったのです。
今日の箇所から、和解とは何なのかを考えさせられます。また神の祝福とは何なのか、人を愛することはどういうことなのか、信仰とは何なのかを考えさせられます。旧約の時代と違ってイエス・キリストを信じることで神の祝福をいただくことができる私たちは、なんと幸いでありましょう。しかしキリストの使命を担っている私たちです。
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2014年9月28日
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◆聖書の言葉◆
使徒言行録15章1〜2節
ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。
使徒言行録8〜11節
人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。
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「教会に託された神の祝福」
使徒言行録 15章1〜11節、23〜31節
宣教:岡村牧師
私がまだクリスチャンになりたての頃、聖書がどのようにして成立したのか知りませんでしたが、漠然と神が特定の人を用いてまとめられたのだろうと思っていました。ところが今私たちが手にする旧約聖書39巻と新約聖書27巻が正典として定められるようになったのは、必要に迫られて人々が集まって会議をして決めた事を知りました。
膨大な様々な資料があって、福音とは言えない文書もあり、むしろキリストの教えや在り方に反するような内容もあったことから、精査して吟味する必要が出て来たのです。人間が集まる会議で聖書が構成された、ということは今では当たり前の事ですが、その頃の私は、こんなに罪深い人間が集まったとしても、神の御意志を知り得ようか・・・と思ったのです。
キリストを信じる人々が心を合わせて祈りつつ神の御意志を求めていくこと、それは神のよしとされることであり、神が導いてくださるということをやがて知りました。一人の特別な人にだけに、ではなく集まって礼拝する事の大事さとつながっています。
今日読んでいただく使徒言行録15章は、初代教会が伝道して行くうえで、非常に大切な分水嶺となった事柄でした。ユダヤ教の伝統であった割礼をキリスト教は受け継がない、とはっきりと会議で決議された事により、キリスト教の伝道はより自由に世界に広がって行く大きなきっかけとなりました。
何を取って何を捨てるのか、何が大切かを判断するのは本当に難しい場合がありますが、違う意見に聞き合い、キリストの御名で祈りつつ決断することがゆるされていることを感謝します。間違ったら神は修正へと導いてくださる神であります。
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2014年10月5日
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◆聖書の言葉◆
マタイによる福音書 16章13〜18節
イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
ヨハネによる福音書 15章4〜5節
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
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「キリストへの信仰を告白し続ける教会」
マタイによる福音書 16章13〜20節
宣教:岡村牧師
皆さんの育って来られた信仰的な背景はどのようなものでしょうか? 神についてどのような概念をもって育ったか、人それぞれです。日本は八百万の神々がいるといわれる国ですし、日本昔話などで語られる地域の神々の話やギリシャ神話なども身近にありますから、神は複数という認識を持ちやすい環境に生きています。
神を絶対者としてとらえるなら、神は複数ではなく唯一の神であると思っていましたが、私がそう思えたのはキリスト教主義学校で学んだからかもしれません。
唯一の神を信じるユダヤ人社会の中にイエスが現れた時、イエスは神を冒?(ぼうとく)する者として人々から批判を受け続けました。自分が神の子だと宣言したからです。その中でイエスを信じてついていった弟子達はイエスが十字架刑で処刑された時には皆逃げてしまいました。
しかし、そのことが起こる前にイエスはペトロを信仰告白へと導いています。マタイによる福音書16章で、イエスが弟子たちに対して「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と尋ねた時、シモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えると、イエスは彼の名を呼んで宣言します。「あなたはペトロ。私はこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。」
このような権威をイエスが与えたのはペトロに対してではなく、彼の信仰告白にでした。人は神を裏切るかもしれません。しかし神は一度なされたその時の信仰告白を貴いものとして保存される神であります。一人一人の信仰告白を神が祝福してくださり、教会として立たせてくださっています。神の祝福が世界を覆うためです。
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2014年10月12日
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◆聖書の言葉◆
ヨハネによる福音書 15章16〜17節
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。
コリントの信徒への手紙 13章13節
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
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「神が私たちを選んでくださっている」
ヨハネによる福音書 15章16〜17節
宣教:岡村牧師
先週の週報で予告した箇所とは違う聖書の言葉を選ばせていただいています。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」
上記の言葉は、イエス・キリストがご自分に従って来た人々に語られた言葉です。このイエスの言葉は、今自分に語りかけられている言葉として、また自分が所属する教会や連合、連盟への言葉として語られている言葉であると、私はまた改めて強く感じ受け取っています。
宝塚バプテスト教会から送り出されて、10月8日から2泊3日で、「日本バプテスト女性連合」の総会ならびに信徒大会に当教会のFさんとKさんと3人で参加しました。1920年に発足した世界バプテスト婦人同盟の時代から名前は時代とともに変わりましたが、ずっとぶれることなく目標として活動してきた事は国外伝道です。外国から送られてきた宣教師たちからキリストを伝えられて、日本でも社会的立場の弱かった女性達が、夢・ビジョンとして世界にイエス・キリストを伝える宣教師を送るために祈り続け、献金をささげてきました。
私たちが行う全ての活動は、神の言葉によって導かれ、祈りによって形あるものとなっていきます。今日の箇所の最後のイエスの言葉、「互いに愛し合いなさい」というイエスの命令は、神を愛する事とつながっています。自分一人ではなく、互いに、という言葉が示す仲間がいることは喜びであり力となります。実を結び、その実が残るように、神があなたを選んでこの場所に導いて下さっています。
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2014年10月19日
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◆聖書の言葉◆
コヘレトの言葉 12章12〜14節
それらよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも/一切の業を、隠れたこともすべて/裁きの座に引き出されるであろう。
マタイによる福音書 22章37〜39節
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。
第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
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「賢者の語る人生の結論」
コヘレトの言葉 12章1〜14節
宣教:岡村牧師
旧約聖書には39の書が選ばれ入っています。今日は歴史書でも預言書でもない文学の部に入る「コヘレトの言葉」を読むことにしました。「伝道の書」とも呼ばれますが、新約の時代に生きる私たちが言う伝道という意味ではなく、会衆に向かって人生哲学を説く人、というような意味です。
この書の作者は1章1節によると、「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」とありますから、ソロモンだということになりますが、諸説があり書かれた年代も紀元前10世紀という説から紀元前4世紀頃という説もありよくわかりません。ただ、イエス・キリストよりもはるか大昔の紀元前900年代に生きた王様の言葉が残っていてその文章を読むことができる、などということだけでも興味がわかずにいられようか、という気がしますが、皆さんはいかがでしょうか。
意味の深さはそれぞれ違っていても人は皆、幸福になりたいと思うものでありましょう。およそ人である限り味わってみたい様々な願いや欲望をすべて生ききった人がソロモン王であると言えるかもしれません。
「空しい、空しい」で始まるこの書の最後で、彼はこう言うのです。「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべて。』神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう。」
では神の究極的な戒めとは何か。イエス・キリストは言われました。「あなたの神である主を愛しなさい。」「隣人を自分のように愛しなさい。」 無関心の対局にある「愛する」ということ。これを学ぶために私たちは今日も教会へ集まります。
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2014年10月26日
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◆聖書の言葉◆
イザヤ書 43章10〜13a節
わたしの証人はあなたたち/わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ/理解するであろう/わたしこそ主、わたしの前に神は造られず/わたしの後にも存在しないことを。わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。わたしはあらかじめ告げ、そして救いを与え/あなたたちに、ほかに神はないことを知らせた。あなたたちがわたしの証人である、と/主は言われる。わたしは神 今より後も、わたしこそ主。
ヨハネによる福音書 3章16節
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
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「神の片思い」
イザヤ書 43章10〜25節
宣教:岡村牧師
イザヤ書は旧約聖書の預言書の一つです。預言者イザヤは人の名前で「主の救い」という意味があります。聖書は新約聖書と旧約聖書と合わせると66巻ありますが、その中で詩編を除くとイザヤ書が最も章数が多く66章もあります。預言者とは神から言葉を預かって人々に告げて導く役割を担っていました。
新約聖書の福音書でもパウロの手紙でも、イザヤ書から引用している言葉があちこちに見られます。イザヤ書が語っている背景は紀元前740年頃から紀元前500年頃までのことで、200年以上もの間の預言がなされています。ですからイザヤが一人でした預言ではなくイザヤの弟子達の集団が、バビロン捕囚後の時代までイザヤの名で言葉や思想を受け継いで記したものだとも考えられます。
神がどんなに人々を愛してもイスラエルの人々は神の言葉に従わず、北イスラエル王国が紀元前721年にアッシリアに滅ぼされ、約200年後に南ユダ王国がバビロンに襲われて滅びてしまいました。重立(おもだ)った人々がバビロンに捕囚として連れて行かれて奴隷になり、希望を失ってしまいそうになっていたとき、神は預言者をとおして人々と神との関係がどんなものであるかを思い起こすようにと一生懸命伝えます。
「わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。わたしはあらかじめ告げ、そして救いを与え あなたたちに、ほかに神はないことを知らせた。あなたたちがわたしの証人である、と主は言われる。わたしは神 今より後も、わたしこそ主。」
神の愛は人に受け入れられず、イエス・キリストの死にまで至ることになるのです。
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2014年11月2日
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◆聖書の言葉◆
マルコによる福音書 10章42〜45節
そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。
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「すべての人の僕」
マルコによる福音書 10章35〜45節
宣教:岡村牧師
聖書には、神と人との関わりの歴史が記されています。何千年も昔の背景の中の人々の歴史を旧約聖書で読む時も2000年ほど前の新約聖書を読む時も驚くことは、人間は何千年たってもその本質は変わらないものだ、という点です。だから聖書は面白いし、まるで自分に語りかけているように感じます。
今日の聖書の箇所では「共に」、ということができず自分だけが先を行きたい、人よりも前に行きたい、という思いが人にはあることを語っています。しかもイエスがこれから苦難を受けて死ぬことを話されたすぐ後です。自分たちの主であるイエス様に大変なことが起きようとしているときに、弟子たちは心を一つにして祈り支えることができず、自分のことだけを考えていた、という有様があらわにされます。
弟子たちの中の二人が、将来弟子達の中で誰よりも栄光ある座に就くことを求めたときに、イエスは言われました。「・・・あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
神がイエス・キリストを通して教えられた権威は、他者へ仕える僕の姿でした。神の子キリストでありながら、弟子たちの足を洗うへりくだりを教えて下さり、裏切った弟子たちを愛し抜かれて十字架の死に至るまで神の言葉に従われた主イエス。そのイエスに従う告白をしているのが教会です。この世にありながら神の国の価値観を教えていただいている私たちが今週もどのように従っていけるのでしょうか。聖書のことばがそれぞれの方に語りかけて下さいますように。
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2014年11月9日
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◆聖書の言葉◆
イザヤ書 53章4〜5, 10〜12節
彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。
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「人々の期待を裏切る主の僕の姿」
イザヤ書 53章4〜12節
宣教:岡村牧師
初めてイザヤ書53章を読んだ時はまだクリスチャンではない学生時代だったと思います。なんて悲しい、けれども、美しいと感じました。この詩の知識は全くなかったのですが、読みながら母の実家の2階の柱にかかっていたキリストの磔刑の像のついた十字架を連想したことをふと思い出しました。
「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに 私たちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり かれが打ち砕かれたのはわたしたちの咎(とが)のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」イザヤ書53章4〜5節
イザヤ書の預言は200年にもわたっています。今日とりあげる53章は第二イザヤと呼ばれる枠内に置かれています。第二イザヤは慰めの預言者と言われ、バビロン捕囚期か捕囚から解放されつつあった時期に記されたと考えられています。
古代のユダヤ教において人間の苦しみや悩みは、その人が罪を犯したために神が裁いておられるしるしだと理解されていましたが、解釈の転換が預言者によって行われたのです。
後にイエス・キリストが苦難の道を歩んで復活したとき、初代教会の人々は53章に記されている預言がイエスによって成就したと理解するようになりました。この理解は今に至るまで受け継がれています。このような主の僕の姿がイザヤ書に描かれているのに、ユダヤ人たちの多くはパウロが伝道したときにもイエスを救い主と受け入れる事ができませんでした。長く培われた伝統や思い込みの力に私たちも支配されているかもしれないことに気付きます。
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2014年11月16日
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◆聖書の言葉◆
エフェソの信徒への手紙6章12〜20節
わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかり立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、"霊"に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈って下さい。
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「自分との闘い」
エフェソの信徒への手紙 6章10〜20節
宣教:岡村牧師
この箇所の冒頭には聖書の言葉ではありませんが、小見出しがついていて「悪と戦え」となっています。悪の定義は色々に言えますが、私達をキリストから引き離そうとするすべてのこと、と言えるでしょう。それは外側の状況を含めて自分の心の状態にも及ぶ力をもっているがゆえに、この言葉を述べているパウロはそれを悪の諸霊、悪魔の策略としています。そしてそれに対抗するために神の武具を身につけるように言います。
「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」(エフェソ6:14-17)
しかし、この神の武具には、祈りが入っていません。祈りは武具ではないのです。
武具は自分を守るためのものです。祈りについては、武具としてではなく、こう記されています。
「どのような時にも、"霊"に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために絶えず目を覚まして根気よく祈りつづけなさい。」(エフェソ6:18)
私達が祈るとき、また祈る場に身をおいて共に心を合わせるとき、神の出来事が起こっていくことを体験していきます。パウロは人々が心を合わせて祈る祈りがどんなにすごい力を持っているか知っていました。だから彼は繰り返して言います。「わたしのためにも祈って下さい。」そのように言える関係作りをしていきたいです。
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2014年11月23日
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◆聖書の言葉◆
ローマの信徒への手紙8章20〜26節
被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望を持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、"霊"の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。同様に、"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
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「希望の成就までのうめき」
ローマの信徒への手紙 8章19〜27節
宣教:岡村牧師
紀元55〜56年頃にこの書を書いたパウロはイエス・キリストの直弟子ではありませんでした。ローマの市民権ももつユダヤ人で、元々ユダヤ教の指導者として聖書に精通していた人でした。彼の一つの大きな功績は、キリストの福音を通して聖書の神の救いの計画が、ユダヤ人だけにとどまらず世界のすべての人々に及んでいることとして伝えたことです。
「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、"霊"の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。同様に、"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8:22?26)
当時のパウロが関わる人々のような苦しみは私達にはよくはわかりませんし、終末やその際に起こると聖書が語る復活についてもよくはわからないものです。しかし苦しみについていうならば、思いがけない苦しみは人生の中で突如やってきます。自分の小さな苦しみに関しても聖書から励ましを受けて良いのです。いつ終るかわからない苦しみを神はご存知であり、耐えられないことがないように祈りを教えて下さいました。祈る事もできないほどのときも、神と同格の聖霊ご自身がうめきつつ祈りを受けとめ救い上げて下さいます。希望は消えません。
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2014年11月30日
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◆聖書の言葉◆
マタイによる福音書 6章12節
わたしたちの負い目を赦してください。
わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
マタイによる福音書 18章21〜22節
そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」
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「ゆるしてあげなさい」
マタイによる福音書 6章12節
宣教:古田晴彦 執事
アドヴェント(待降節)を迎えました。12月25日を含めて、その前の4週前の日曜日がアドヴェント第1主日となります。従って、最も遅いアドヴェントは12月4日から、最も早いアドヴェントは11月28日からとなります。6日間のズレですから、このくらいであると助かります。
イースター(復活日)の方は、春分のあとの満月の直後の日曜日という決まり方ですので、1ヶ月ほどの間で、毎年日程が変わります。春休み、入学式と重なることが多く、日本のキリスト教学校でイースターが定着しにくい理由の一つとなっています。何とか、イースターの方も、4月下旬あたりで固定してもらいたいものです。
クリスマスはキリストの誕生日、イースターはキリスト教の誕生日、ペンテコステは教会の誕生日です。悲喜こもごもがある私たちの人生ですが、1年の最後にクリスマスがめぐってくる、その意味を静かに考えたいと思います。そのためには、イエスが何のためにこの世に来られたのか、そのことも同時に想起することが必要です。イエスの十字架と復活は何のためであったのか、そのことにも改めて思いを向ける。それがアドヴェントの期間でもあります。 (古田晴彦)
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2014年12月7日
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◆聖書の言葉◆
ルカによる福音書 1章18〜20節
そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」
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「時が来れば実現する神の言葉」
ルカによる福音書 1章5〜25節
宣教:岡村牧師
待降節の第二週を迎えています。ルカによる福音書にあるクリスマスの出来事を聖書から読んでいく時、年を取った人々に焦点が当たっていることに気がつきます。神は救いのご計画を、弱者とされる高齢の人々を巻き込みながら準備をなさり、神とはどのような神であられるかをイエス・キリストのご降誕の準備の段階からも教えてくださっています。
今日はザカリアという人に注目してみましょう。彼が年を取って疑い深くなり、祭司でありながら神の言葉を信じることができなかった様子を見ながら、自分と重ね合わせる人は少なくないと思います。若い時からずっと願ってきたことが叶わなかったという落胆とあきらめは、神を信じる意味への疑問を生じさせたことがきっとあるだろうと想像いたします。
子どもが授かる人もいるし授からない人もいる、ということだけですが、聖書のその時代は、子が生まれないことを罪があるからと理由付けしました。神に対する隠れた罪があるから、とか、先祖の罪が及んでいる、と考える時代でした。
ただ願いが叶わなかったということだけではなく、ここには社会的な差別、という問題も見え隠れしています。神はザカリア夫妻を用いて、社会の人々が目に見えることで人を裁いたりレッテルを貼ったりすることを批判なさっているとも思えるのです。
「時が来れば実現する神の言葉を信じなかった」ザカリアへの神の深い憐れみと慈しみが表されていて、ここを読む度に私は励まされます。
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2014年12月14日
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◆聖書の言葉◆
ルカによる福音書 1章35〜45節
天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
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「私たちに必要な友」
ルカによる福音書 1章35〜45節
宣教:岡村牧師
待降節の第三週を迎えています。救い主イエスの降誕の物語はマタイによる福音書とルカによる福音書にありますが、それぞれに随分違う内容です。今年はルカによる福音書を読んでいます。ルカには東の国から博士達が星を見てやってくる話しもヘロデ王が2才以下の子どもを虐殺したこともマリアとヨセフと赤ちゃんイエスがエジプトに逃避行したことも記されていません。ルカによる福音書は、救い主イエスの誕生を諦めと悲しみの中にある人々を巻き込みながら、実に優しいタッチで描いているように思えます。色々な人々の中で、今日は受胎告知を受けたマリアと親類のエリサベトのことが記されている箇所です。
マリアが子どもを授かることを天使から告げられた時、それは誰にも相談できない事柄でした。神の不思議な介入を体験したことがある人でなければ彼女に起ころうとしていることは、とうてい理解も受け留めもできなかったでしょう。 神はマリアに起こった不思議を理解して信じる人をあらかじめ用意なさっていたのです。マリアの親類のエリサベト叔母さんにもたらされた不思議をとおして神は神の御業を信じる人を準備されました。救い主を宿し育てる役割を与えられたマリアにとってどんなに大きな支えと力になったことでしょう。
親類で年齢も随分開きがあったでしょうけれど、マリアとエリサベトは神を信じて祈り合える友となったのです。イエス・キリストはあなたや私の友となってくださったことを思います。しかし神は目に見える友も私たちに必要なことをご存知です。神を人が信じるためにイエス・キリストは人の友となられ、具体的な友を与えてくださるために、教会の主として今も共にいてくださる神です。
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2014年12月21日
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◆聖書の言葉◆
ローマの信徒への手紙 8章38〜39節
わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
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「神の愛」
ローマの信徒への手紙 8章34〜39節
宣教:岡村牧師
メリー クリスマス♪
救い主イエス・キリストの御降誕
おめでとうございます!
2014年のクリスマスを迎えています。キリスト教会では12月25日のクリスマス日に一番近いクリスマス前の日曜日をクリスマス礼拝の日としています。23日、24日、25日、とそれぞれの教会では、キャンドルライトサービスやクリスマスイブ礼拝、クリスマス礼拝なども行われるでしょう。しかし、イエス・キリストが十字架の死から復活した日曜日に共に集まり祝うことは、キリストがどのようなお方であったかを自然に十全に表していると言えます。
今日はパウロの言葉を選ばせていただきました。イエス・キリストとは直接会ったことがなく、12弟子でもありませんでした。しかし彼は神の介入によってイエス・キリストを信じる信仰へと導かれ、世界に神の愛を伝える伝道者となりました。
「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:38-39)
キリスト教会は、この言葉を体験しながら現在の自分たちの信仰告白としてどんな時代になっても世の終わりが来るまで宣べ伝え続けます。キリストをとおしてあらわされた神の愛はあなたに向けられています。
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2014年12月28日
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◆聖書の言葉◆
ヨハネによる福音書 16章33節
これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。
あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。
ルカによる福音書 12章31〜32節
ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。
小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
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「恐れるな、小さな群れよ」
ヨハネによる福音書 16章33節
宣教:岡村牧師
2014年最後の礼拝を迎えています。先週は救い主イエス・キリストの降誕をお祝いするクリスマスを、色々なお客様とご一緒にもつことができ、様々な喜びに包まれました。このクリスマスから既に教会は一足先に新しい年を迎えているということができます。
色々な理由で、教会に来ることができなかった方々のことを心に覚えつつ私たちは 礼拝を続けてきました。2014年最後の今日の聖書の箇所は、今年度の年度聖句として週報の第4面冒頭に毎週載せるようになった言葉の全文で、イエス・キリストが語った言葉です。
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ福音書16章33節)
イエスが語られたときの時代の背景と私たちが生きる時代とは全く違います。しかし人間の有り様や人間の本質は、時代を経ても変わっていないことに気付きますし、自分にとっての苦難に人は直面して生きていかねばなりません。時代の状況や人々の価値観がある程度変わっても、生きることをあきらめずにいられる力や自分自身の存在の意味をキリストは与えて下さいました。
十字架に赴くほどに人を愛され通す神は、聖書の言葉をとおして、また謙虚にキリストの御名によって祈る人間のつたない祈りを受けとめ、導かれる神です。
平和へと導き、勇気をひきだしてくださるキリストの言葉に信頼して私たちは共に励まし合ってこれからも歩みます。
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2015年1月4日
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◆聖書の言葉◆
詩編 145編8〜12節
主は恵みに富み、憐れみ深く 忍耐強く、慈しみに満ちておられます。主はすべてのものに恵みを与え 造られたすべてのものを憐れんでくださいます。主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ あなたの主権の栄光を告げ 力強い御業について語りますように。その力強い御業と栄光を 主権の輝きを、人の子らに示しますように。
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「わたしたちの神をたたえよ」
詩編145編1〜21節
宣教:岡村牧師
主の年2015年、
あけましておめでとうございます!
2015年最初の礼拝を迎えています。新年最初の礼拝の聖書の箇所として詩編145編を選ばせていただきました。この詩編は神への賛美の言葉や神をたたえる根拠などが記されています。神を賛美しほめたたえることは私たちにふさわしいものです。「主を賛美するために民は創造された。」(詩編102:19)のです。
下記の言葉は詩編145編8?12節の言葉です。これを見ると一部の信仰のある人々だけでなく命ある全ての人々のことを神は恵み、憐れまれる神であると記されています。そしてその全ての命あるものが、神をほめたたえるものとなるように、また神を証しするものとなるように、という祈りが記されています。
「主は恵みに富み、憐れみ深く 忍耐強く、慈しみに満ちておられます。主はすべてのものに恵みを与え 造られたすべてのものを憐れんでくださいます。主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ あなたの主権の栄光を告げ 力強い御業について語りますように。その力強い御業と栄光を 主権の輝きを、人の子らに示しますように。」
イエス・キリストがこの言葉を生きて、死んで、私たちに示して下さいました。神をたたえ、伝える生き方を私たちもさせていただける1年でありますように。
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2015年1月11日
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◆聖書の言葉◆
ヨハネによる福音書 13章1〜7節
さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、わかるようになる」と言われた。
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「後でわかるようになる」
ヨハネによる福音書13章1〜7節
宣教:岡村牧師
今日は1月11日で、私たちの教会では毎月11日を「東日本大震災で被災した人々や土地が復興しますように」という祈りの日としています。3年10ヶ月たちました。そして今週迎える1月17日は、「阪神・淡路大震災」から20周年たつ節目となります。天変地異により失われた命や生き残った人々の苦しみ、復興をめざす中で互いの関係が分断される苦しみ・・・なぜ、どうして、と人は思います。また信じる神仏に問わずにはいられなかった人々は多くいたでしょう。
ところで、今日の聖書の箇所は、他の3つの福音書では最後の晩餐にあたる場面です。あえて7節まで読む事にしています。主イエスが自分の最後の時が迫った事を悟ったときに、食事の席から立ち上がって弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められたのです。自分たちが主と崇める方が奴隷のする行為を始められたとき、弟子たちは大変なショックを受けたでありましょう。
するとイエスはこう言われるのです。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる。」
この言葉は本来15節ぐらいまでの文脈全体からとらえてみるべきでしょう。しかしイエスのこの言葉が今の私がわからないことにまで言われているように受け取りました。答えが出せないこと。神がなされたこと。私たちが願っても神がなされなかったこと。とにかく私たちにはわからないことがあります。けれど主イエスが「後で分かるようになる」と言われたことが、自分のわからないことまで包んで入れてくださっているような思いがして、私は希望を感じて生きる勇気が出ます。
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2015年1月18日
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◆聖書の言葉◆
ルカによる福音書 5章4〜11節
話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
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「人の自信と神の言葉」
ルカによる福音書 5章1〜11節
宣教:岡村牧師
私たちは神の言葉はもちろんですが、人の意見や言葉に耳を傾けることが大切なことだと知っています。自分の尊敬する人や知っている人、信頼している人の言葉なら聞くでしょうか。人がイエスと関わりを持つようになる最初の出会いの不思議さを今日の箇所は記しています。
イエスと彼らが出会う最初のきっかけは、イエスが集まってきた人々に自分の話しが聞こえるように彼らの舟を借りて乗ったことからでした。イエスはそのお礼がしたかったのかどうかわかりませんが、イエスがペトロに語りかけたのです。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。このときは、またペトロたちはイエスのことをよく知らないでいたときです。
聖書の言葉を語る人を人々は先生と呼んで尊敬していました。彼は「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」と答えました。そしてペトロはその通りにしたのです。自分に話しかけた人がどなたなのか知らないでいるときです。ペトロには自信があったでしょう。今はきっと魚はとれない、だめだと。
しかし、ペトロはイエスの言葉に従いました。そして思いもかけないような恵みを経験することになりました。ペトロは恵みをとおしてイエスを知った時にイエスを「主よ」と呼び、同時に自分が罪深いものであることを告白しています。神を知ることは、自分がどんな者であるかを認識することになります。
ペトロだけでなく、神はその恵みを今も人に体験させようと望んでおられます。御言葉に従う、神の言葉に従うということをとおして、神の恵みを体験して行く者となります。十字架のキリストに従っていくものとなるためです。
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2015年1月25日
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◆聖書の言葉◆
ルカによる福音書 6章20〜26節
さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」
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「神の国の者とされたから」
ルカによる福音書6章20〜26節
宣教:岡村牧師
今日読むルカによる福音書の箇所は、マタイによる福音書5章1節から11節では「山上の説教」としてよく知られています。それに対して今日読むルカによる福音書6章20節から26節は「平地の説教」と呼ばれることがあります。
マタイ福音書とルカ福音書は、マルコ福音書が作られてから10年後ぐらいの同じ紀元後80年代に作られたものとされています。しかしそれぞれの福音書は、イエス・キリストの福音の受け取りかたが違うことがわかります。それは伝える対象の人々が違うからでありますし、また私たちが特定の人や事柄に対して感じることや評価は全く同じではあり得ず、それぞれ違うのと同じです。
今日読む6章20節では、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」とありますが、マタイによる福音書5章3節では「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」とあります。
ルカ福音書は幸いにだけではなく不幸についても語ります。「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。・・・すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。・・・」
今も昔も人々は富むことを何よりも望みますし人から賞賛されることを心地よく思うものでしょう。富は権力の象徴であり、神の祝福と思われていました。しかし聖書でイエスは社会の常識と全く違うことを言われるのです。
イエスが語られるのは神の国の福音だからです。そしてキリスト教会の私たちはそれを受け入れ、この世に証しする人であるように主が導いておられます。
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2015年2月1日
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◆聖書の言葉◆
ルカによる福音書 7章47〜50節
「・・・だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された。」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。
ペトロの手紙�機�4章8節
何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。
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「愛は罪をおおう」
ルカによる福音書7章36〜50節
宣教:岡村牧師
一人の女性が人々が集まって食事をしているところにそっと来て、イエスの足を涙で濡らし、自分の髪の毛でぬぐい、足に接吻をして香油を塗っている場面を想像してみてください。それはその当時でも日常普通に見る光景ではありませんでした。
その女性は、社会の人々が罪深い女として軽蔑している人でした。警察に収監されているわけでもないのに社会が罪人というレッテルを貼るのは、宗教上のことだからです。罪人とは神に背き、その律法を犯す者でした。聖書に登場する女性の罪人は、異教徒や売春婦や不倫をしたと暴かれた人々でした。罪人というレッテルを貼られると社会から孤立して軽蔑されて生きるしかありません。
罪人とされている人とつきあうことは自分が汚れることを意味していました。ですからこの場面で罪深い女性と言われていた女性がイエスの足に触れることを気にしないで触れられるままにしていたイエスの様子は、異常だったのです。人々が自分を拒絶してもイエス様は私を受け入れて下さるという信頼があったと思われます。
批判の目が集まっている中でイエスは言われます。「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」さらに、人々が見ている前でイエスはこの女性に宣言します。「あなたの罪は赦された」「あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい」。
教会は神の愛により罪赦され、神の愛を受け続けるものとしての象徴的存在です。イエス・キリストをとおして教会は今日も神の愛、罪の赦しを宣言して信じて歩みます。
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2015年2月8日
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◆聖書の言葉◆
ルカによる福音書 10章30〜37節
イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
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「永遠の命とは」
ルカによる福音書10章25-37節
宣教:岡村牧師
「永遠の命」と聞いて、漫画の世界のようだと思う人がいるでしょう。永遠の命などわけのわからないことを考えるよりも、今どう生きていくのかを考えることが大切だ、という言葉がきこえそうです。本当にその通りです。「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」という質問を受けた時、イエスがその人に答えたことは、何をすればよいということではなく、どう生きるかということでした。
今日の箇所は、「善いサマリア人」という題がつけられており、隣人愛についての視点で語られることが多いですが、今日は「永遠の命」ということを中心にしてイエスの語られたことをみていきたいと思います。
この律法学者は答えを知っていました。すなわち『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また隣人を自分のように愛しなさい。』という旧約聖書の律法の書に書かれている答えを知っていました。
しかし愛するということはどういうことなのでしょうか。答えは知っていても、それを自分がどう解釈して自分の生活の中で指針としてどう生きるのかはやはり難しいことです。
永遠の命のことなど考える余裕は無い、という生活の中におりますけれども、聖書でいう永遠の命とは、神を愛し人を愛することと関係があることだということは覚えておきたいと思います。イエス・キリストがその律法の言葉を、私たち全ての人間を救うために実現して下さいましたから。
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2015年2月15日
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◆聖書の言葉◆
ルカによる福音書 12章30b〜34節
あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。
テサロニケの信徒への手紙�� 5章10〜11節
主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。
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「究極の目標」
ルカによる福音書12章13〜34節
宣教:岡村牧師
寒さが続いておりますけれど、やがて春になる、緑の芽が出て葉が育って花が咲くようになる、という期待と希望をもって寒い中を、人間をはじめ生きているものは耐えていきます。春を迎えることは毎年の事で私たちは、もうすぐきっと春になる、そうなる、ということを毎年確認していることなので、信じる事ができます。
しかし、イエス・キリストが言われる神の国のこと、永遠の命の事、キリストの再臨のこと、最後の審判のこと、私たちの復活の事は、どうでしょうか? 誰も一度も経験したことのない神の約束の事柄です。しかし神ご自身が言われることなのです。
「ただ、神の国を求めなさいそうすれば、これらのものは加えて与えられる。」
イエスはこの世の価値観に縛られている人々が、神の国を知る事により、縛りから自由になり、希望をもって生きる事ができるようにイエスは導きます。神の国がこの世の価値と真っ向から衝突することの一つに、富の問題がありました。いつの世でも誰もが必死になって追い求める富、この富を蓄えてもっともっとと、駆り立てられる貪欲に支配される生き方から自由になれと主イエスは言われます。
「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。・・・あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
イエスが命を捨てるほどに愛された人の命の価値。あなたは何を目標に生きますか?
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2015年2月22日
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◆聖書の言葉◆
ルカによる福音書 15章21〜24節
息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
28〜32節
兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
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「近すぎて見えなかった恵み」
ルカによる福音書15章11〜32節
宣教:岡村牧師
私たち人間の大きな不幸は、自分を人と比べてしまうことかもしれません。今日の聖書の言葉は、イエスを批判するファリサイ派の人々や律法学者に向ってイエスが語られたたとえ話しです。「放蕩息子のたとえ」として有名なたとえ話しです。放蕩に身を持ち崩して立ち返る弟に焦点が当てられる場合が多いのではないかと思います。今日は、家出をすることもなく父のそばで働き続けた兄の場合に目を留めます。
この兄の様子を読んでいくと、正しく自分が評価されていない不満や嫉妬の感情がこの人を支配している事がわかります。最も近い関係で、最も愛すべき対象になる家族なのに愛せないで苦しむ人の姿が描かれています。自分と近い人と比べることから疑心暗鬼に陥ってしまい、何も喜ぶ事ができない状況にはまってしまいます。創世記の4章に兄カインが弟アベルへの嫉妬から殺してしまう、という悲劇が記されている事を思い出します。
不満と嫉妬で怒り狂う兄の言葉を聞いた後、父は次のように答えます。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だがお前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」
兄は自分がいつも最高に幸せな位置にいることを忘れてしまいました。イエス・キリストの十字架の死と復活後に生きる私たちは、イエス・キリストのゆえに神の恵みを受けている幸いをいつも思って喜べますように。神への感謝をささげつつ、他者の救いのために祈り働くものでありますように。
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2015年3月1日
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◆聖書の言葉◆
ルカによる福音書 16章8〜9節
主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、私は言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠のすまいに迎え入れてもらえる。
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「主の招きに応えた者として」
ルカによる福音書16章1〜9節
宣教:岡村牧師
今日もルカによる福音書のイエスのたとえ話しをとりあげます。これは、特に弟子たちに対して語られたものです。このたとえ話しはルカにしか載っていないもので、最も難解なたとえ話だとされています。
私がこのたとえ話しの意味を、このときに言われたイエスの思いを見抜いて完全に解説することなど到底できません。しかしイエスが言われた言葉ですから、共に考えてみたいではありませんか。
主人の財産を管理していた管理人が、主人の財産を浪費していることがばれてしまい、万事休すの状況になります。何としてでも生き延びたかったこの管理人は、主人に借りのある人々の借財の量を勝手に軽くして助けてあげる、という方法をとりました。そうすれば、主人からクビにされても自分が助けた人々からは感謝されてそこで受け入れられて生き延びることができるだろうと考えたからでした。
この管理人がしたことは悪いことでした。けれど驚いたことに、主人はこの管理人の抜け目の無い方法をほめたのです。このたとえ話しをとおしてイエスが弟子たちに教えたかったことは何でしょうか。
三つのことを思いました。 [(1)自分だけでなく共にという視点の大切さ (2)財産の用い方 (3)「永遠の住まいに迎え入れてもらえる」ということをどれだけ真剣にとらえて生きているか。] 人間が神と共に永遠に在るようにご自身を犠牲にされたイエス・キリストの思いがこのたとえ話しにも表されているように思います。
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2015年3月8日
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◆聖書の言葉◆
ルカによる福音書 18章8〜9節
ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」ところが徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」
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「罪人のわたしを憐れんでください」
ルカによる福音書18章9〜14節
宣教:岡村牧師
今日のたとえ話は、イエスが祈りについて18章の冒頭から語っているそのすぐ後に置かれています。祈りに触れながらイエスがこのたとえ話をする目的が9節に記されています。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」 うぬぼれて、他人を見下す人に対する批判の言葉として語られています。
イエスはそのたとえ話の中で、登場人物をファリサイ派と徴税人としており、当時現実の世にいる人々のことをはっきりと批判している大胆さに驚かされます。彼らはその時代の指導者層であり権力者でした。このような批判がどれだけ彼らを怒らせたことでしょうか。イエスを殺そうとする計画が絶えずつきまとうのでした。
しかしあえてイエスがたとえ話で教えなければならなかったほど、その当時の神の義の理解は一辺倒でした。義人とは神によって義とされた人、つまり神の目から見て良しとされ神に受け入れられた人のことです。それを当時の宗教的指導者たちは、律法を守っているかどうかを判断して、人々を区別していました。
神への感謝の祈りをしたファリサイ派の人と胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と祈った徴税人。イエスがあえて、義とされたほうはこちらの祈りだ、とされたのは自分たちを区別するファリサイ派のレベルにあわせた皮肉にも受け取れます。イエスがこの世に来られたのは、自分は駄目だ、希望がない、と思って胸を打つしかない失われた人を見つけ出し救うためです。今もこれからも。
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2015年3月15日
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◆聖書の言葉◆
ルカによる福音書 19章5〜10節
イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
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「神に覚えられている喜び」
ルカによる福音書19章1〜10節
宣教:岡村牧師
嫌われ者の徴税人・ザアカイと呼ばれる人が、イエスによって救われ、神を信じて従うものとして新しい人生が始まった、という記事をとりあげます。
この話は、たとえ話ではなく、イエスが伝道生活の後半で出会った人の救いについてであり、ルカによる福音書だけに記されているものです。神によって見いだされ、救われたことの嬉しさ喜ばしさがほとばしっていて、読んだ後、こちらも思わず嬉しくなってしまうような内容です。
先週とりあげた聖書の箇所はルカによる福音書18章9節から14節にあるイエスのたとえ話でしたが、それにも徴税人がとりあげられていました。「罪人のわたしを憐れんでください」と神に祈る姿こそ私たち人間の姿である、という話をさせていただきました。しかし今日の箇所には神の前に悔い改める具体的な言葉は出てきません。
ザアカイはこう言います。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
それに対してイエスは言われました。「今日、救いがこの家を訪れた。」
救いというのは、その人の内側からの変化を意味します。言葉と心で神を信じますと告白をしながらそれまでと同じように生きる、ということはできなくなるのです。
お金、経済が人の命よりも重んじられる傾向にある世界の価値観の中に生きる私たちです。ザアカイの変化は尋常ではない、ということはわかるでしょう。この自分が神から覚えられている、愛されている、それを知って信じた者は、イエスに従っていかないではいられなくなります。受難の道を歩む事も含めて導かれていきます。
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2015年3月22日
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◆聖書の言葉◆
ルカによる福音書 22章27〜29節
食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。
31〜32節
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
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「裏切りに先立つイエスの愛」
ルカによる福音書22章22〜34節
宣教:岡村牧師
今日から2週間後にイースターを迎えます。次週3月29日からイースターの朝4月5日までは受難週として主イエス・キリストの御苦しみに思いを馳せながら過す週となっています。
年度末で忙しい日々に置かれる私たちですけれども、様々な準備をしながらあの方、この方のお名前を具体的に覚えて祈りながら、イースターに教会に来て一緒に礼拝できますようにと願ってまいりたいと思います。
今日は、イエスが捕らえられて十字架刑に処せられる時が近づいている中で、唯一その事を知っていたイエスご自身が、弟子たちの悲しいほどの鈍感さにもかかわらず、愛を示しておられる箇所としてとりあげたいと思いました。
グループのリーダー格であったゆえにこそ、イエスを裏切る罪も大きかったと思われるシモン・ペトロという弟子に対してイエスが言われた言葉が心にしみます。
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
私たちの人生には、立ち直るときが来る、ということと、立ち直るときが来るまでそれほどに落ちこみ自分をゆるせないような時がある、という現実を主はご存知です。人と比べてどんぐりの背比べをする必要はありません。私たちは主を見上げます。いつも立ち返るところ、救い主イエス・キリスト。立ち返るところがどこなのかどなたなのか知っている事の幸いを今日もかみしめたいと思います。
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