TAKARAZUKA BAPTIST CHURCH

日本バプテスト連盟  宝塚バプテスト教会

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■■ 本日の宣教から ■■

主日礼拝当日の週報に掲載されている「本日の宣教から」を再掲しています。

当日の宣教の箇所の概要や導入にあたるメッセージとなっています。

 

2015年度

1週

2週

3週

4週

5週

4月

5日

12日

19日

26日

 

5月

3日

10日

17日

24日

31日

6月

7日

14日

 

28日

 

7月

5日

12日

19日

26日

 

8月

2日

9日

16日

23日

30日

9月

6日

 

20日

27日

 

10月

4日

11日

18日

25日

 

11月

1日

8日

15日

22日

29日

12月

6日

13日

20日

27日

 

1月

3日

10日

 

24日

31日

2月

7日

14日

21日

28日

 

3月

6日

13日

20日

27日

 

◆今年度に戻る◆

 

2015年4月5日

使徒言行録 1章8節
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

ルカによる福音書 24章6〜7節
あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。

「キリスト復活のしるし」
使徒言行録1章3〜11節

宣教:岡村牧師

イースター、イエス・キリストの復活、おめでとうございます!
イエス・キリストは復活しておられます!

イエス・キリストは復活して今もおられる・・・これをキリスト教会の原点として今年も心に刻むこと、それが本日共に祝う理由です。あなたも神の愛の対象です。
2000年前のイエス・キリストの死は、三日目に復活するという神の御業が起こり、悲しみは喜びに変りました。神は生きて働いておられる神であります。2000年前からキリスト教会が滅びることなく存在する事実は、人間の信仰の努力というよりも、見えない神の導き、聖霊の働きがずっとあったからだと言えます。
父・子・聖霊なる三位一体の神は、2000年前のある時代にイエスをキリストとして誕生させ、神の御意志を表しました。神に背く人間の罪の問題を自ら解決なさるために、キリストの十字架の死と復活が神の御意志として実現しました。
今日読む使徒言行録は、これまで読んで来たルカによる福音書と同じ著者によって記され、ルカ福音書の続きとも言える書です。キリスト復活後に弟子たちがどのように変って行ったか、どのようにイエス・キリストの福音が世界に伝わって行ったかが記されています。聖霊の導きによって道が拓かれて行きます。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。・・・また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」 この〈あなたがた〉はキリスト教会のことであり、この教会のことであり、私たちのことです。今日、共に祝いつつ神からの聖霊の力を新たにいただいて歩んでまいります。感謝をもって明日に向かいましょう!

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2015年4月12日

詩編 145編7節
人々が深い御恵みを語り継いで記念とし/救いの御業を喜び歌いますように。

コリントの信徒への手紙11章24節、25節
「・・・これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」
「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい。」

「感謝をもって明日へ向かおう!」
詩編145編7節

宣教:岡村牧師

先週4月5日に私たちは「イースター」、キリストの復活記念日をお祝いしました。ちょうど新しい年度が始まる4月に入って初めての日曜日で、主の晩餐も皆さんと共に分かち合いました。
新しい年度に入った2週目の今日、聖書の言葉を詩編からにしています。

 「人々が深い御恵みを語り継いで記念とし、救いの御業を喜び歌いますように。」(新共同訳)

旧約聖書の言葉を読む私たちは、それが書かれた紀元前の時代、つまりイエス・キリスト誕生以前の人のように読む事はできません。イエス・キリストを信じて活動している私たち教会は、どのような言葉もキリストをとおして読むようになっています。その意味で、この詩編の言葉も十字架で死なれ、復活されたイエス・キリストを念頭に受け取りました。
新しい始まりは、過ぎた過去の日々の歴史を通って始まりました。この聖句は2014年が終る時に、教会が新しい年へ向かうために力となる言葉と出会わせて下さいという願いをもって聖書を読んでいて出会った言葉です。
キリストの十字架の死、そして復活という出来事が過去に起こりました。それはキリストが時を越えて生きておられるしるしとなりました。神を父と呼び、関係のなかった者同士がキリストにおいて兄弟姉妹となりました。キリストのゆえに神の国の国民となったのです。今日も喜び歌わないではいられません。

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2015年4月19日

使徒言行録 11章25〜30節
それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。
そのころ、預言する人々がエルサレムからアンティオキアに下って来た。その中の一人のアガポという者が立って、大飢饉が世界中に起こると、"霊"によって予告したが、果たしてそれはクラウディウス帝の時に起こった。そこで、弟子たちはそれぞれの力に応じて、ユダヤに住む兄弟たちに援助の品を送ることに決めた。そして、それを実行し、バルナバとサウロに託して長老たちに届けた。

「キリスト者の原点」
使徒言行録11章19〜30節

宣教:岡村牧師

今日読む箇所には、キリストを信じる人々に対して「クリスチャン/キリスト者」と名付けられたことが書かれています。百年、二百年まえのことでもなく実に二千年の前から、まだイエスの直弟子だった人々や、パウロが世界伝道に出かける前の、キリスト教会が発足してから間もないときでした。
「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」(使徒言行録11章26c)
これだけ読むと、どのような由来で呼ばれるようになったのかはわかりませんが、当時の状況を考えると、キリストを信じるグループが自分たちで名付けたのはなく、彼らを見ていた外部の人々が、嘲笑的な悪意をこめて呼ばれたものだろうと推測されています。
キリストという言葉が入っているので、キリストを信じるグループの人々がなにかにつけて「キリスト」という名を出したりしながらキリストの死と復活を語り続けたからでありましょう。つまり、バカにして呼ばれたのです。常識的に考えれば誰も死人が復活するなどということは信じる事ができません。しかし、教会の人々は真面目な喜びをもって、キリストが死から復活した、と語り続けたのでしょう。
バカにして呼ばれた呼び名が「キリスト者/クリスチャン」です。ただそう信じて語っていただけでなく、彼らがキリストにならって、キリストの言われた言葉を大切にして、他者を愛する生活を実践していたからです。その中にパウロが加えられます。パウロがアティオキアの教会のメンバーになった事は、非常に重要なことであり、神さまの導きでありました。神が教会を今もこれからも導かれます。

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2015年4月26日

コリントの信徒への手紙�� 15章42〜44節
死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。

ヨハネによる福音書 14章2〜3節
わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあたがたのために場所を容易したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

「霊の体への復活」
コリントの信徒への手紙�� 15章35〜44節

宣教:岡村牧師

本日は年に一度の「召天者記念礼拝」を迎えております。先に神の元に逝かれた方々は消滅してしまわれたわけではありません。聖書によればこの地上にいるよりも安全で確かなところにおられます。この礼拝は故人のために行うというよりも、故人を懐かしく偲びながら、あちらで神の存在を知らされ学んでいるであろう故人と、こちらの私たちと共に神を礼拝するというイメージをもって行います。
去る4月5日に教会ではイースターを迎え、イエス・キリストが死から復活しておられることを改めて心に刻み、神に感謝する礼拝を行いました。イエス・キリストの復活がどんな恵みをもたらしたのでしょうか。様々に表現できますが、今日はこれです。
キリストが復活したように私たちもまた復活して体が与えられる、ということです。
「・・・つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」
種が地に蒔かれると元の種の姿からは考えられない様な素晴らしい植物の姿に変えられる例を出して、私たち人間も同じで、霊の体が与えられるのだと言います。
今さえ良ければ死んでからのことはどうでもよいと思う人々は多いかもしれません。しかし死んでから今とは別次元の神の世界に入って、自分という存在があり続けるとしたらどうでしょうか。証明できない信仰の事柄ですけれども、キリストがおられるところに私たちも共にいるだろう、と聖書で様々な言葉で約束されていることを覚えていたいと思います。神と共にある希望で支えられ、今をしっかり生きます。

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2015年5月3日

使徒言行録 15章5〜8節
ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と行った。そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について教義するために集まった。議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。

「信仰による会議」
使徒言行録 15章5〜18節、28〜35節

宣教:岡村牧師

使徒言行録はルカによる福音書の続きで、キリストの死と復活後に生まれたキリスト教会の成長の様を記しています。キリスト教はユダヤ教を母体として生まれました。今でこそはっきりと別の宗教ですが、最初の頃はユダヤ教を変革する方向に向かっていました。しかし、どうしても相容れることができなかった理由は、イエス・キリストです。教会の人々は聖霊の導きを求めて祈り、イエスの言葉や行いを大切にしていく中で、ユダヤ教が大切にしてきたものとは決別しなければならないことに気がつきました。その第一歩が今日の箇所に書かれていることです。
ユダヤ教の伝統であった割礼をキリスト教は受け継がない、とはっきりと会議で決議された事により、キリスト教の伝道はより自由に世界に広がって行く大きなきっかけとなりました。イエス・キリストの十字架の意味を大切にしたのです。
意見が対立したときに、エルサレムにある教会とアンティオキアに生まれた教会は会議を開いて協議することを選びました。もちろん神に導きを祈りつつ行いました。 何が大切かを判断するのは本当に難しい場合がありますが、キリストの御名において起こった信仰の出来事の証しと聖書(旧約聖書)の言葉が人々を動かしました。
不完全な人間が集まっても本当に神の御意志がわかるわけでもないだろう、と批評家は思うかもしれません。しかし信仰者はキリストの御名で祈りつつ協議し決断することがゆるされていることを感謝します。特別だと思われている人が独断で決めるのではなく、違う意見を出し合い、何が神の御心にかなうことかを求める話し合いです。時間も費用もかかることかもしれませんが、このプロセスを私たちは重んじます。間違ったら神は修正へと導いてくださる神であります。

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2015年5月10日

使徒言行録 17章29〜34節
わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、意志などの像と同じものと考えてはなりません。さて、神はこのような無知な時代を、多めに見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。
死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。それで、パウロはその場を立ち去った。しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。
その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。

「嘲笑の中ですら」
使徒言行録 17章21〜34節

宣教:岡村牧師

使徒言行録を読んでいます。パウロがヘレニズム文化の中心で多神教の神々を信じるアテネの人々に、イエス・キリストの福音を語っています。当時はギリシャ哲学が盛んでしたし、アテネの人々は何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのでした。

パウロはその中で彼らの論法をもちいながら、神は唯一の神であり、イエス・キリストにより神を人々が知ることができるようになさったことを伝えました。しかし、パウロが死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言って、相手にされませんでした。

嘲笑されることは辛いことです。特に自分が愛し信じ最も大切と思っている存在や事柄を、他者が受け入れず理解せず軽んじてバカにするとき、人は傷つきます。しかし、嘲笑されることで傷つく自分を恐れてパウロが何も言わなかったらどうでしょうか。

神は、パウロが演説したことで人々から大喝采を受けてそこで多くの人々がパウロについていってイエス・キリストを信じる多くの人々が起される、というようには導かれませんでした。

それは人々の目から見たら、ある意味での失敗だと映ったことでしょう。しかしそうでしょうか。人数は少なくてもパウロをとおして信じた人が何人か生まれたのです。それは神のなさったことであり、素晴らしい希望になることでした。

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2015年5月17日

使徒言行録 18章9〜10節
ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」
パウロは一年六ヶ月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。

コリントの信徒への手紙�� 12章9〜10節
すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

「語り続けよ、黙っているな」
使徒言行録 18章1〜11節

宣教:岡村牧師

今では世界中で認められているキリスト教ですが、始まりはどんなに大変だったことでしょう。神ご自身の助けがなければとうてい生き続ける事はできなかったでしょう。先週は異文化、多神教の大都市アテネでパウロが唯一の神について演説をした箇所をとりあげました。パウロはそこでもほとんどの人々からは相手にされませんでした。しかし数は少なくても、パウロが語ったイエス・キリストを信じた人たちもいたことにとてつもない希望があるという話をさせていただきました。

さて今日は、コリントという地での活動の様子です。パウロはいつもしているように、ユダヤ人を対象にしてキリストの福音を伝えました。ユダヤ民族が歴史の中で待ち望んでいる救い主はイエスなのだ、と力強く語ったのですが、結果はどうだったでしょうか。

聞いたユダヤ人たちはパウロに反抗し、口汚くののしった、と6節に記されています。このとき一度だけではなく、行く所行く所でユダヤ人たちはパウロの言葉を聞こうとせず、迫害しました。残念なことだったでしょう。パウロが最も大切に思っている自分の同族の人々からは、パウロのキリスト信仰のゆえに受け入れられなかったのです。

しかし同族から拒絶されるという悲劇こそが、パウロがユダヤ人以外の異邦人とされていた外国の人々に向けて、キリストの福音を伝えるきっかけとなるのです。おそらく落胆して怒りと悲しみの中にいたであろうパウロに、神は言葉をくださいました。

「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」

神の言葉に励まされてパウロは語り続けるのです。その神が今私たちと共におられます。

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2015年5月24日

使徒言行録 2章38〜39節
すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼/バプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」

「主に招かれた私たち、教会」
使徒言行録 2章17〜21節, 36〜39節

宣教:岡村牧師

2015年のペンテコステを迎えています。キリスト教会ではイースターとクリスマスと同様に、大変重要な記念日がペンテコステです。キリスト教会が誕生した記念日であり、キリスト教が始まった記念すべき日として祝います。

記念日というと既に過去の事になってしまった昔の事、というイメージがあるかもしれません。始めに起こったその時は今から見れば過去の事ですが、その時に起こった神の御業、聖霊の働きは、その時から今にいたるまでも絶える事無く同じ神によって続いてきていることです。昔はすごかった、不思議だった・・・ではなく今でも神にしかできないその働きは続いています。

そしてペンテコステ記念日を宝塚バプテスト教会の伝道開始記念日にしようと定めたのがつい2年前の事です。キリスト教会が誕生した日であり、宝塚バプテスト教会が誕生した日として覚える事にしたのです。今日29周年を迎えました。

イエス・キリストの復活されたイースターから50日目に、集まって礼拝をしていたキリスト者たちに聖霊が降り、世界中から集まっていた様々な民族の言葉で、神の御業を語りはじめました。その当時の人々が知っていた旧約聖書のヨエル書の預言がそのときから成就し始まったのです。特別な人ではなく、ただ神を求め、従う普通の人々が伝道の働きを担っていくという先がけの出来事でした。

遠く外国から来ていた人々は、キリストの福音を自分たちが生活の中で用いている言葉で聞くことができたのです。その言葉が心に響いた人たちにペトロは言いました。

「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼/バプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」

このときと同じく、主に自分が招かれたと受け取った人々が教会の体として、伝道の働きを担っていきます。キリストの名によって集まることを教会は原点として続けます。

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2015年5月31日

使徒言行録 28章28〜31節
「・・・だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。」
 パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。

「続く」
使徒言行録 28章23〜31節

宣教:岡村牧師

私たち人間は定められている時が来たら死んでいくわけですが、「しかし神の言葉はとこしえに立つ」と聖書は言います。使徒言行録をとりあげてきましたが、今日は最後の章です。28章最後の言葉にこうあります。

「パウロは、・・・神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」

世界にイエス・キリストが救い主だと知らせたパウロは、ローマに連れて行かれてそこで裁判を受けて、最終的には死刑にされるのですが、聖書はその部分を記しません。パウロが伝えようとしたイエス・キリスト、神の言葉の行方に焦点が当てられているからです。神の言葉は人の死をもって終りません。伝えられるからです。

この書を記した人は、パウロが死ぬまでのその活動を見極めていたと推測できますが、パウロの死をもって使徒言行録を終らせなかったのは、聖書にふさわしくまたキリストを信じる人の生き方にかなっているように感じられます。

パウロは伝道旅行を続ける生活でしたが、最後の地ローマで囚われの身でありながら語る自由が与えられ、人と会う自由も与えられました。すぐに処刑されたのではなく数年間そこにいて神の国やイエス・キリストについて教える時間が与えられたことも神の導きとしか思えません。

パウロのように雄弁に語る賜物はなくても、人に教える言葉を持たなくても、聖霊が導く時に人はキリスト者としての証しをすることになります。何よりもまず、あなたが教会に行くこと来ることは、社会に対する大きなキリスト告白であり、伝道をしているのです。共に礼拝する中で神の祝福を受けて外に遣わされていきます。

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2015年6月7日

出エジプト記 3章11〜12節
モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。・・・」

「神により遣わされるしるし」
出エジプト記 3章10〜15節

宣教:岡村牧師

自分は何故生きているのだろう、人間とは何なのか、人は何故苦しむのか、神は存在するのか・・・人は自分の人生の中で苦悩しつつ幾度となく疑問をもつものでありましょう。人が自分のために作り出した偶像の神ではなく、人を創造された神との関係について聖書は語っています。

イエス・キリストが登場する新約聖書の時代に、イエスと最後まで対峙したファリサイ派の人々がいますが、彼らが最も大切にしていたのは、その昔モーセが神から受けた律法でした。今日読む聖書の箇所は、モーセが神との出会いをしたときのことです。神との対話の中で、モーセは国を失ってエジプトの奴隷だったイスラエル民族の人々を連れ出して救うという使命が与えられます。

とてつもない役割です。恐れがモーセを支配したことでしょう。彼は神に対して、どうして私が?と質問します。神はそれについての答えはせず、ただ次のように言われました。

「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」(3章12節)

神があなたと共にいる、とは、イエス・キリストが誕生する際にヨセフに言われた言葉を思い出させます。「その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は『神は我々と共におられる』という意味である。」(マタイ福音書1章23節)

神の救いは一貫しています。神は今も共におられ人を救い、あなたを遣わす神です。

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2015年6月14日

マタイによる福音書 6章33節
なによりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
マタイによる福音書 7章7節
求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。 門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

「まず神の国、神の義」
マタイによる福音書 6章33節

宣教:岡村牧師

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」

マタイによる福音書は、ユダヤ教に基盤を持つ人々を対象に作られたと推測されます。神という概念を〈唯一の創造主なる神〉として共有できていた人々の中でイエスが語られた言葉です。

神の義を求めるというのは理解できても、なぜ神の国を求めよ、というのか理解できないものが私の中には長い間ありました。しかし、国を失ったままの人々にとって自分の国をもつ、自分の国がある、ということが夢でありビジョンであり悲願であっただろうことは聖書を読めば想像できます。主イエスはその思いを痛いほど知っておられたでしょう。

日本の中で特別永住権を持つ在日外国人とされている人々や、戦争で国を失う人々が今の時代にもいることを思う時、自分たちが差別されないで自分たちの尊厳を守ってくれる自分たちの国への憧れというものはどんなに強い願いであったか、またあることだろうと想像いたします。

マタイによる福音書の特徴の一つに、「神」という言葉を使うのをためらい、「神の国」を「天国」「天の御国」「天の国」と呼び変えていることがあげられますが、ここでははっきりと「神の国」「神の義」と語る意味を考えさせられます。十字架を通して、神の国を求めよ、神の義を求めよと導く救い主が今招いておられます。

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2015年6月28日

ルカによる福音書 6章20〜23節
さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。
人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。

「傷口からしみてくるもの」
マタイによる福音書 6章33節

宣教:福万広信先生

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2015年7月5日

マタイによる福音書 4章1〜4節
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、"霊"に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑するものが来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

「生きる糧をくださる神」
マタイによる福音書 4章1〜4節

宣教:岡村牧師

「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」

人はパンだけで生きるものではない、という言葉だけが世の中でも知られていますが、その後の言葉が大切です。「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」 これはどういうことを意味しているのでしょうか。主イエスのこの言葉は旧約聖書の申命記8章の言葉から引用したものです。

ところで、キリスト教会の礼拝の中では必ず「主の祈り」をいたします。主イエスが弟子たちに教えてくださった祈りです。その中で、「我らの日用の糧(かて)を今日も与えたまえ」という祈りの言葉や、「我らをこころみにあわせず悪より救い出したまえ」という祈りの言葉が入っています。

マタイによる福音書4章1〜11節を読むと、主イエスがその主の祈りの言葉を教えてくださる前に誘惑にあわれて勝利されたからこそ、主の祈りの言葉が生まれた、という思いがいたします。

悪魔の誘惑に勝利した主イエスを私たちが信じるということは、絶大なる力と意味を持つものです。私たちも時に誘惑にあうことがあります。しかし私たちは主イエスのようにはできません。神は最も弱きものの神であります。実に神は誘惑の前になすすべもない私たちのような弱いものが救われるために十字架におかかりになりました。徹底して共にいて見捨てない神であります。それを信じることができる道も教えてくださっています。

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2015年7月12日

マタイによる福音書 4章7〜11節
イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。 更に悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

ヘブライ人への手紙 2章18節
事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

「誘惑に勝たれた主」
マタイによる福音書 4章5〜11節

宣教:岡村牧師

主イエスが公の伝道活動に入る前に神の霊によって導かれて悪魔の誘惑を受けたことが記されている4章1?11節を先週から読んでいます。今日は5?11節に記されている悪魔からの二つ目の誘惑と三つ目の誘惑についてです。主イエスが悪魔の誘惑に勝利された決意と意味が、私たちとどのように関係しているかを見ていきたいと思います。

「『人はパンだけで生きるおのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある。」
「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」

悪魔の誘惑は、みな「もしあなたが神の子なら・・・ができるはずだ。」と、悪魔による神の子理解に立っています。最初の二つの誘惑は神の子ならこのような奇跡が起せるし起こるはずだというものでした。誰もが驚いて神の子だと認めるに違いない奇跡を起こせる方となれるのだ、という誘惑です。三つ目の誘惑は、もはや聖書の言葉を持ち出して来ず、「わたしを拝め」と、あからさまに悪魔の願望を露呈させました。

悪魔の誘惑に対して自分の思いや言葉ではなく、すべて聖書の言葉を用いて撃退させた主イエスの姿に、謙遜と覚悟を感じます。十字架への道はここから始まっていたと思えるのです。時代を越えて人を救うためです。

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2015年7月19日

マルコによる福音書 1章4〜5節、14〜15節
洗礼者ヨハネが荒れ野の現れて、罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼/バプテスマを宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼/バプテスマを受けた。

ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

「イエス・キリストの福音」
マルコによる福音書 1章1〜15節

宣教:岡村牧師

現在、水曜日の祈祷会ではサムエル記を読み、日曜日の教会学校で用いている「聖書教育」では出エジプト記を読んでいますが、毎月の礼拝のどこかで福音書に触れ続けていたいと思います。今回はマルコによる福音書を月に何度か取り上げていくことにしました。聖書は読む度に新たなメッセージやヒントを読者に与える不思議な力をもっています。それが聖霊の導きにより記されたということであり、求めて読む人に聖霊が働くからなのでしょう。

新約聖書の中で福音書が最初に置かれていますが、執筆された年代順ではありません。聖書を編集したときに、福音書をとにかく最初に読んでほしいという意図があるのは、イエス・キリストこそが聖書の中心であるからです。マルコによる福音書は最初に書かれた福音書であることには異論がありません。執筆時期は紀元70年代とも40年代とも言われています。

イエス・キリストが公に登場するのは、既にカリスマ的に有名人だったバプテスマのヨハネと呼ばれていた人によってでした。ヨハネはその時代の政治や宗教と一線を画して、神の言葉に純粋に従う道を求めていたグループに所属していたと思われます。そのヨハネがイエスの到来を予告しています。「…その方は聖霊で洗礼/バプテスマをお授けになる。」

そのヨハネが時の権力者に捕えられた後、イエスはガリラヤに行って宣教を始めました。ヨハネを捕えたガリラヤの領主、ヘロデ・アンティパスが支配している地域です。「福音を信じなさい!」。新しい恵みの始まりです。

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2015年8月2日

マルコによる福音書 1章17〜20節
イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、船の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に船に残して、イエスの後について行った。

2章14〜15節
そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。

イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。

「イエスが招いた人々」
マルコによる福音書 1章16〜20節、2章13〜17節

宣教:岡村牧師

暑い中、皆さまの御健康が支えられますように。今日、日曜日から新しい週の始まりです。過去の1週間にそれぞれ色々なことがあったと思いますが、こうして集まって礼拝をする中で、心がほぐれ、讃美歌や聖書の言葉が心にしみていやされ、祈りを共にして新たに主から召しをいただいて、ここからそれぞれに与えられている場に遣わされて出て行きます。あなたにとってそのような礼拝でありますように。

今日の箇所の時代の師匠と弟子という関係は、一般には弟子になりたいと思う人々がその先生の元に行って頼んで弟子にしてもらう、という形だったようです。しかし主イエスの場合は違っていました。ご自分がガリラヤ地方を歩いて弟子となる人々や従って来る人々に声をかけ、招かれたのです。

主イエスは世に出て間もない頃でありましたけれど、声をかけられた人々が素直についていきたくなるようなものをその様子や言葉に持っておられたと想像します。全てを捨ててもついていく価値のある何かを感じとったのでありましょう。自ら近づいて来て招いてくださる神です。

イエスが声をかけた人々は招きを喜んで受け入れた人々でした。ゆるしが伴っていた招きです。現代の私たちは肉眼でイエスを見たことはありませんが、その言動を含めた十字架の御業によって、神から招かれていると信じて従うことができます。神は主イエスに対する私たちの心からの信仰告白を大切にされ、生涯をとおして導いてくださる神であります。

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2015年8月9日

エフェソの信徒への手紙 2章14〜18節
実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くに入る人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

マタイによる福音書 5章9節
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

「キリストによる平和」
エフェソの信徒への手紙 2章11〜18節

宣教:岡村牧師

戦後70周年にあたる2015年の夏を迎えています。今日8月9日は長崎に原爆が投下された日です。そして8月15日の敗戦(終戦)を迎えます。その時代にいた人々それぞれが自分の体験した悲惨さや悲しみを思い出して、亡くなった人々の鎮魂を願っていることでしょう。

私は戦後生まれです。戦争の残酷さを直接経験したわけではありません。全世界の人々が日本の敗戦を悲しみ、原爆被災の苦しさに共感したわけではない、ということを体感したことがありました。それが私にとっては戦争という大罪を認識する一つの大きなきっかけになりました。

今日の聖書の言葉はこう語ります。

「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、・・・十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(2章14?16節より)

平和とは、この社会における人間関係のあらゆるい不和や喧嘩や戦争の単なる反対物ではありません。平和とは神のものであり、神の恵みとしてもたらされる類のことなのだと解釈できるでしょう。イエス・キリストによって敵意は滅ぼされたと知るのは教会でありキリストを信じる人々です。平和を実現する幸いな人々として召されているのが教会であり私たちです。

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2015年8月16日

コリントの信徒への手紙�� 5章17〜19節
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。

「和解のことばをゆだねられた私たち」
コリントの信徒への手紙�� 5章17〜21節

宣教:岡村牧師

8月は、戦争のことに思いを馳せないではいられない月です。そして自分や愛する人の死についても考えさせられるときであろうと思います。

敗戦(終戦)記念日の8月15日前後の今頃は日本の多くの人々が休暇を取って、家族や親戚の人々と集まる機会を持っておられるでしょう。家族であっても互いに知らないことが多いものであろうと思います。様々な傷を負った人の心に神の癒しがありますようにという祈りが生まれます。それだけでなく、キリストを通して和解のために奉仕する任務が与えられ、和解の言葉がキリストを信じる人々にゆだねられたと、聖書は語ります。

「…キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。…」

キリストを信じても体や外側の変化は何もないし、心の中もそれほど変ったとは思えないと私たちは感じています。相変わらず神の御心にかなわないと思われるようなことを考え、神が悲しむだろうと思うような行動をする情ないものだと自分を悲しみます。しかし、キリストを信じたということは、神によって新しく創造された者となったということなのだと聖書は語っています。聖霊が内に住んでくださる存在となったのです。

キリストを通して神を信じたということは、神のゆるしをいただいたことであり、神と和解をしたことになります。それだけでなく、神のゆるしを受けた者は、和解のために奉仕をする任務が与えられるのです。復活のキリストが弟子たちに任務を与えられたように、私たちも神から委託されて和解の任務をいただいています。すべてのキリスト者が、です。

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2015年8月23日

マルコによる福音書 2章27〜28節
そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」

2章21〜22節
だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。

「安息日の主」
マルコによる福音書 2章21〜28節

宣教:岡村牧師

「安息日」はイエスが地上におられたときのユダヤ教では、土曜日でした。それは神が天地創造をされたときに7日目に休まれた、ということからきています。世界で1週間を7日間とするのは、ユダヤ教から始まったと言えるのですから、すごいことですね。

イエス・キリストの死と復活後に教会が生まれ、教会はキリストが復活した日曜日を、ユダヤ教でいう安息日とし、集まって礼拝をする日と定めました。制度化されたのは、紀元後4世紀のことでした。

今日読んでいただいた箇所のユダヤ教の時代は、モーセ以来の律法によって7日目の安息日を守ることが厳しく定められておりました。

「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」

「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」

安息日をはじめ宗教的な律法を遵守することが、神が選ばれたユダヤ人として何よりも尊いことであるとされた時代にあっては、誰もが律法に違反しないようにしなければならない、という縛りを感じて生きていました。もともとは大切で素晴らしいことでも、根本の意味が失われて本末転倒していくことがあります。イエスの言葉は、事の本質は何なのか、また私たちの動機がどこにあるのかを問うています。イエスによる安息日理解は、神御自身が関わられた宗教改革の発端ともいえることでした。

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2015年8月30日

出エジプト記 20章2, 3, 4a, 7a節
わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
あなたはいかなる像も造ってはならない。
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

マタイによる福音書 22章37〜39節
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』

「恵みの戒め」
出エジプト記 20章1〜7節

宣教:岡村牧師

戒め、律法、規則、などという言葉は縛られるようで息苦しくなるという印象をもたれる人は多いのではないかと思います。聖書で語る律法は宗教的なものですが、国を失ったユダヤ民族(イスラエル民族)が自分たちのアイデンティティーを保持して、一つになるために重要な役割を持っていました。

今日読むのは、イスラエル民族の人々が奴隷だったエジプトから、神の導きによって民族大移動をしていく中で、神から与えられた十戒の中の第一戒から三戒までの言葉です。前文にはこうあります。

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」

そして、第一戒の言葉が続きます。

「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」

十戒は今から3300年も昔にあった戒めで、それから1300年後にイエス・キリストが誕生します。その時代には、十戒から派生した数多くの律法が定められており、律法を守れない人々を差別する社会になっていました。主イエスは律法が神になっているような解釈の間違いを指摘して、律法が与えられた意味と律法の背後にある、神の願い、想い、を人々に知らせました。その故に呪われ、死んで復活されたキリストは、私たちの救い主であり、唯一の神です。

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2015年9月6日

マルコによる福音書 3章28〜29節
はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。
イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

「すべて赦される、が」
マルコによる福音書 3章20〜30節

宣教:岡村牧師

「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(マルコ3章28〜29節)

上記はイエス・キリストの言葉です。イエス・キリストの言葉は、やさしいようで奥深くてはっきりとは意味が分からなくて難しい、と思われたことはないでしょうか。主イエスをとおしての赦しは無条件の赦しだと思っていたのに、条件があったのか、と思えるような言葉です。

殺人を犯すことよりも思い罪があるだろうか、と私たちは思います。イエスが地上にユダヤ人として生きておられた時代、民族の全ての人々がモーセが神からいただいた律法を中心にして生活していました。そのような社会において、神を冒涜すること、主の御名を呪う者は共同体全体がその人を石で打ち殺さなければならないほどの重罪でした。それもまた律法で定められていたことでした。

そのような社会の中で今日の箇所でイエスがおっしゃったこと、上記の言葉は、当時の人々の度肝を抜くようなことだったのです。このイエスの言葉は昔も今も生きている言葉です。罪を犯さないではいられない人間です。何のためにこの言葉をイエスが言われたのか、「神の愛」という角度から考えてみたいと思います。

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2015年9月20日

マルコによる福音書 4章節
また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。

「種まき」
マルコによる福音書 4章1〜9、13〜20節

宣教:岡村牧師

少し遅い夏期休暇をいただき、滞在先の福岡県久留米市の久留米荒木教会に9月13日には出席いたしました。その教会でも子どもたちは激減していて、その日も子どもは一人も参加していませんでした。けれども牧師は子どもたちが来ていたら座る床に同じように座して、目の前に子どもたちがいるかのように、子どもたちへのお話を一生懸命熱く語っておられました。いつもそうしておられるのでしょう。その姿勢が私に語りかけるものがありました。

今日読んでいただく箇所は、「神の言葉を表す種」を蒔くたとえ話です。たとえで話す意味については10節から12節で語られていますが、この箇所については、次のたとえ話からお話をさせていただくときに、触れることにします。

「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」(8節)

どんなに収穫が豊かな時でも十倍ぐらいでしたから、このすごい量の収穫は不思議です。このたとえが語られた時代も、このイエスの言葉を記したマルコによる福音書ができた時代も、世の中は不安定でした。死は隣り合わせだったと言える状況の中でイエスはこのようなたとえ話をなさったのです。イエスを受け入れ信じるとき、思いもかけないほど豊かな神の御業が起される、ということであると理解するなら、今に生きる私たちにとってそれはどういうことを意味しているのでしょうか。

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2015年9月27日

マルコによる福音書 4章30〜32節
更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

ローマの信徒への手紙 10章17節
実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。

「イエスのたとえ話」
マルコによる福音書 4章10〜12節、21〜34節

宣教:岡村牧師

新約聖書の福音書には、イエス・キリストが地上におられた時の言動、様子が記されています。主イエスは『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。』と宣べて伝道を始めました。イエスは人々に神の国を伝え、教えるときに「たとえ話」を用いました。一般に、たとえ話は、難しい次元のことを人々が理解できるようにわかりやすくするための方法ですけれども、あえてわからなくする、ということも目的の一つであったのではないかと考えさせられます。イエスの言葉を聞く人々の中には、イエスを殺そうとする人々もいたからです。

たとえ話の間にある言葉にも戸惑いを覚えます。「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。」(4章25節)

「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。」(33、34節)

主イエスは神の国の秘密を弟子たちには教えましたが、それでも弟子たちはイエスを信じとおせませんでした。そんな弟子たちを赦して受け入れ任務を託した主の愛と慈しみは、今の私たちにも注がれています。

キリストを信じる事から始まる小さな信仰により、神の国は私たちの間にあって、見えなくても確実に育って成長していると、私たちは信じて歩み続けます。

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2015年10月4日

マルコによる福音書 4章39〜40節
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。 すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

テモテへの手紙�� 2章4〜5節
神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。

「向こう岸に渡ろう」
マルコによる福音書 4章35〜41節

宣教:岡村牧師

マルコによる福音書を続けて読んでいます。今日の箇所では、突然の激しい突風で、船は波をかぶって水浸しになるほどだったと記されています。そんな中でイエスは眠っておられ、弟子たちは「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言ってイエスを起します。イエスの言葉によって風はやみ凪になった、という奇跡の記事です。

自然の力を制御する奇跡などあり得ないと、普通は思います。しかし、だから聖書なんか読まない・・・と終ってほしくはありません。福音書には、イエスがどういう方なのかが、様々な証言とともに記されています。この奇跡はマタイ福音書にもルカ福音書にも平行記事があり、弟子たちにとって忘れることができなかった出来事なのです。

現代の私たちがこの記事を読む時、昔々にはそんなことがあったか・・・で閉じるのではなく、今を生きる自分に対して語りかけられている言葉として解釈することが神から期待されています。なぜならその時の神は今もここにおられる神だからです。あなたの命を生み出した神です。

今の自分の個人的な問題や、自然災害、日本を取り巻く世界の戦争やテロの問題が自分たちとは無縁の他人事ではないことを知っている私たちです。罪や悪は未だにある世界ですけれども、最終的に全てを支配なさっておられるのは神です。神はそれをイエス・キリストにおいて実現してくださいました。

イエスは言われます。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

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2015年10月11日

マルコによる福音書 5章15〜19節
彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを観て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言い出した。イエスが船に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」

「ただその一人の人のために」
マルコによる福音書 5章1〜20節

宣教:岡村牧師

イエスが湖を渡って着いた場所は、ユダヤ人には異邦人とされていた人々が住む場所でした。汚れた霊に取りつかれた人を、主イエスがその人に取りついている悪霊を追い出して正気に戻したときのことが記されています。その人は社会の中で人々と共に生活することができず、墓場に一人で住んでいた、とあります。

ある時までは家族も友もいたでしょうけれど、悪霊が自分の内側に住むようになってからは、たった一人で自分の体も心も傷つけながら、イエスが来られて救って下さるのを待っていた、と、読めました。

今から二千年も前の時代のことですし、悪霊に取りつかれるということが今の時代にはどのようなことをいうのかよくわからないことですけれど、人間の本質は今も昔も変わりません。聖書を読む時これは私の姿だ、と思うような人の罪深さ弱さがいたるところに記されています。

イエス・キリストは人が神を知って救われるために来られました。狂人のようなこの人の叫びをイエスは、湖の反対側から聞こえていたのかもしれません。

イエスについて一緒に行きたいと願ったその人に対してイエスは言われました。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」

主から与えられた、目的のある新しい人生の始まりです。

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2015年10月18日

マルコによる福音書 5章36節
「恐れることはない。ただ信じなさい」

「遅すぎることはない」
マルコによる福音書 5章21〜43節

宣教:岡村牧師

私たちは競争社会の中に否応なく巻き込まれていますし、気をつけないと何でもすぐに比較をして一喜一憂するようなことになってしまいます。ここを読む時、比較の不要を改めて思い、神はこの自分もかけがえのないほど愛して下さっている、と確信させてくれるでしょう。

今日の箇所には主イエスによって病をいやされた二人の女性が出てきます。一人は長く続く病のためにずっと孤独に生きてきた女性で、もう一人は社会的に地位がある人の12才の病気の女児です。女児は瀕死の状態で、一刻を争うほどだったのですが、その女児の所に行く途中でイエスは病の女性と不思議な出会い方をします。

私は若い頃に初めてこの箇所を読んだ時、二千年前の女性の病気が現代にも通じるものであることに驚き、聖書の率直さに驚きました。人には知られたくない種類の病気だったでしょう。病気の故に財産も使い果たしてしまい、世間が彼女の病を知ることになったことは容易に察せられます。そっといやされそっと家に戻りたかったでしょうに、主イエスは彼女を集まった人々の前で何が起こったのかを告白するように導かれました。そしてその女性に言われました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」 実はこれは個人的にも社会的にも問題解決になる力を持った言葉でした。

一方女児はイエスの到着前に死んでしまいますがイエスは家族に言われます。「恐れることはない。ただ信じなさい。」 そして女児は死から生きかえります。ほかの誰でもない、主イエスを信じるのです。救いは主にあります。

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2015年10月25日

ヨハネの黙示録 21章3b〜4節
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

「神の言葉を信じる決断」
ヨハネの黙示録 21章1〜7節

宣教:岡村牧師

私たちの教会では、本日礼拝の中で一人の方の信仰告白を聞きます。そしてイエス・キリストを神の子であり自分の救い主であると告白する信仰の言葉に基づいて、バプテスマ式(浸礼の洗礼式)を行います。教会にとって何よりも嬉しいときを迎えます。

クリスチャンになるとは、イエス・キリストを自分の救い主として心にお迎えすることです。神がどなたなのか聖書に記されているイエス・キリストをとおして知ります。信仰とは、神は信じる者をどんなことがあっても見捨てないという信頼であり、この地上の命だけでなく死を越えた永遠までも、神御自身が祝福をもって共にいてくださること信じるものです。まだわからない、見えていない神の約束を信じるのが信仰です。

最終的に私たちを待っているのはどんなことなのか、今日の聖書の言葉はこのように言います。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」キリストの死と復活のゆえの結びです。

自分がいつか死ぬことは誰もが知っていますが、死んだ先の世界のことやこの世の終りのことは誰も知りません。死んだら何もわからなくなって無になるのではないと聖書は語ります。二千年前に記された聖書の言葉は限界があるとしても、神が約束して下さっているその言葉を信じていく決心をして歩み始めるのがクリスチャンです。今日一人生まれます。

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2015年11月1日

マルコによる福音書 6章1〜3節
イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いていった。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」 このように人々はイエスにつまづいた。

「主イエスを知る」
マルコによる福音書 6章1〜6a節

宣教:岡村牧師

礼拝ではマルコによる福音書を取り上げて読んでおります。福音書はイエス・キリストがどのような方であるのかを知るのに重要な役割を果たします。今日の箇所は、主イエスの故郷ナザレでのことです。

イエスは子どもの頃からずっとナザレで生活しておられましたから、その地域の人々はイエスの子ども時代からずっとイエスもその家族のことも知っていたのです。

礼拝の日に会堂でイエスが神の国の話をなさったり、病人をいやしたりなさった時人々は驚きました。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で…はないか。」と言って、「イエスにつまずいた。」と聖書は証言しています。「つまずいた」とはイエスを信じることができなかった、ということです。

ナザレの人々は新約聖書に記されていない、イエスの子ども時代のことやおそらく早く逝去したであろうマリアの夫ヨセフのことなど、家族のことを含めてよく知っていたでありましょう。自分たちが知るイエス、という範疇の知り方しかできなかったのです。イエスを知っていたが故にイエスを知ることができなかった、という残念なことが起こってしまいました。

私たち教会は聖書から神の子・救い主であるイエスを知っている者だと思っています。全ての人が救われるために十字架で死なれたキリストは私たちの生活、社会、世界の中で、今、導いておられる神です。

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2015年11月8日

マルコによる福音書 6章6b〜9節
それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。

「弟子たちに与えられた力」
マルコによる福音書 6章6b〜13節

宣教:岡村牧師

私たちはどんな人ともいずれ別れが来ることを知っています。どんなに大切に大事に愛している関係でも、やがてこの命が終る時別れが来ます。何も永遠に続くことはなく、空しく移ろい易いものだと寂しく思う中で、「愛は決して絶えることがない」という言葉を思い出します。

イエス・キリストをより知るために今日も聖書の証言を心に留めますが、それは同時に、神の愛が私たち一人ひとりにどんなに豊かに注がれているかを知ることにほかなりません。神はひとり子イエス・キリストを十字架におかけになるほどに私たち人間一人一人を今も愛しておられます。神の愛は決して絶えることなく、死んでもなお復活させるとイエス・キリストをとおして約束なさるほどなのです。

この神が生きている間も死んでもあなたを、私を愛して生かして導かれるのです。これほど頼りになることはありません。

聖書を読み祈る生活の中で、また共に礼拝をすることを続ける中でそれを信じることができるようになります。

今日の箇所は、主が弟子たちに権能を与えて派遣したと記されます。主が弟子たちを派遣する際に命じたことがありました。二人ずつ組にして旅には杖一本のほかに何も持たずに行くように命じられたのです。この意味を考えます。主は素晴らしい教育者であり、ここにも神の愛が溢れているように思えてなりません。

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2015年11月15日

ローマの信徒への手紙 15章13節
希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。

15章10〜12節
また、「異邦人よ、主の民と共に喜べ」と言われ、更に、「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」と言われています。また、イザヤはこう言っています。「エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」

「希望の源である神」
ローマの信徒への手紙 15章13節

宣教:岡村牧師

「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせて下さるように。」(ローマ15章13節)

今日は、しばらく読んできたマルコによる福音書をお休みしました。パウロの言葉で、祈りの言葉でもあり、祝福の言葉です。パウロ自身が体験していたことであり、キリストの福音を信じる全ての人への励ましの言葉でもあります。

ローマの信徒への手紙は、パウロがキリストの福音を世界に届けに行く人生の最後の方に記されたもので、パウロはこのときコリントから、まだ行っていないローマの教会の人々に宛てて自己紹介の意味を含めながら書いたようです。

昔も今も色々な違いを持った人々が様々にいるのが教会です。パウロのこの言葉は今の私たちにも及んでいる願いと祝福の言葉で、自分たちの状況がどんなものであっても、という含みがあります。

がっかりするような出来事ばかりに気を取られて意気消沈しがちな私たちであるような気がしますが、苦しいと思っている日常の中で、聖書は私たちに喜びが与えられていることに気がつかせてくれます。

生活の中での具体的な喜びを見いだして行く原動力としてキリストがおられるからだということを、分かち合いたいと思います。

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2015年11月22日

マルコによる福音書 6章17〜20節
実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕えさせ、牢につないでいた。ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法でゆるされていない」とヘロデに言ったからである。そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。

ルカによる福音書 4章18〜19節
主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。

「不条理な世界のなかで」
マルコによる福音書 6章14〜29節

宣教:岡村牧師

今日の聖書の内容は、この箇所を読んだ芸術家たちに様々な創作意欲をかき立てた残酷な事件を描いています。バプテスマのヨハネと呼ばれ、最後の預言者とも呼ばれたヨハネが、時の権力者によって惨殺される出来事が起こりました。バプテスマのヨハネが政府に捕えられた後に、主イエスは公に神の国を伝える活動をはじめています。

自分の思い通りにならない時に力を利用して邪魔な者を亡き者にしてしまう人々、人への体面を何よりも第一とする人々が、暴力や権力を用いて殺人を行うことを正当化してしまう弱さが描かれています。最近フランスで起こったテロ事件もその根は同じでしょう。

聖書は旧約聖書の冒頭から、兄弟であるのに兄が弟を嫉妬のために殺してしまうという事件を記しています。それが人間の本質を表しているのかもしれません。なまじ権力をもつことで欲望がむき出しになります。イエスが同胞のユダヤ人の嫉妬の故に十字架につけられて、最も残酷な刑で殺されたこととつながります。

主イエスが活動したのはまず、心も生活状況も貧しい人たちのためでした。 「主は貧しい人に福音を伝えるためにわたしを遣わされた。囚人に赦免を、盲人に視力の回復を告げ、押えつけられている者に自由をあたえ、主の恵みの年をつげさせるために」(塚本虎二訳聖書ルカ4:18-19)

他の誰でもない、あなたが、神から遣わされるために招かれているのです。

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2015年11月29日

ガラテヤの信徒への手紙 3章26〜29節
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼(バプテスマ)を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。

ローマの信徒への手紙10章14〜15a節
ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。

「伝道の使命と差別」
ガラテヤの信徒への手紙 3章26〜29節

宣教:岡村牧師

「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(29節)

上記の言葉はパウロのものです。パウロはユダヤ教ファリサイ派の信徒としてはじめはキリスト教徒を迫害する側の人でしたが、キリストの十字架の死と復活後にキリストと霊的な出会いをして、すっかり変えられて世界にキリストの福音を伝える生涯を送った人です。

当時のユダヤ教の世界では女性は数にも入れられない存在でした。パウロは、キリストと出会い、その言葉に触れ、教会に根ざした生活になってから全く変えられて、世界への伝道旅行では様々な女性の信徒たちの助けを受けたことが聖書に記されています。

日本バプテスト連盟の諸教会・伝道所では、今日から「世界バプテスト祈祷週間」として、来週までの一日一日を特に世界に遣わされている宣教師たちを覚えて祈り、世界伝道のために献金をささげる時としています。日本バプテスト女性連合は、日本バプテスト連盟傘下の一グループではなく、全く別の独自の組織です。世界伝道は、バプテストでは女性たちの夢でありビジョンだったのです。男女差別がある世界で、ガラテヤの信徒への手紙3章28節のパウロの言葉はそのときも今も、人々を励ます言葉です。

今日からクリスマスまでの待降節が始まりました。神が世に来て下さったことに心を留め、キリストの福音を伝える良い機会となりますように。

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2015年12月6日

マルコによる福音書 6章34節
イエスは船から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

6章38〜44節
イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パン屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。

「神の御わざ」
マルコによる福音書 6章34〜44節

宣教:岡村牧師

クリスマスを待つ「待降節(アドヴェント)」の第二週目を迎えました。  イエス・キリストがどのような救い主であるのかを知ることは、クリスマスの意味がより深まることです。今日の箇所は四つの福音書すべてが記している、奇跡の出来事です。イエスと共に活動した人々にとって、忘れることのできない強烈な出来事であったと思われます。

男女子どもを含めると1万人近くいたかもしれない群衆に対して、主イエスは差し出されたわずかなパンと魚を用いて、そこにいた全ての人々が満腹になるほどの食事をさせることができたのでした。しかし、このことが起こる前の主イエスの様子に注目したいと思います。

「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」(6章34節)とあります。

主は群衆に対していきなり食事を与えたのではなかったのです。イエスは人々の様子を見て深く憐れまれたのです。そして教えました。そこにいた人々は必ずしもユダヤ人ばかりではなかったでしょう。日頃は差別を受けていた人々も含めて様々な人々が集まっていたと推測できます。皆がイエスの言葉を聞いてから、弟子たちのリードに従ってグループに分かれて互いの顔を見える関係になって座りました。

主は差し出されたわずかなパンと魚を用いて、そこで食事会が行われたのです。共に集まってする食事は平和の象徴です。未来の先取りのような風景だったのではないでしょうか。私たちもそこにきっといます。

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2015年12月13日

ルカによる福音書 1章35〜45節
天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」
マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

「助け手を準備される神」
ルカによる福音書 1章26〜45節

宣教:岡村牧師

来週はいよいよクリスマス礼拝を迎えます。12月25日がクリスマスとされていますが、実はその日にイエス・キリストが誕生したかどうかははっきりしていません。大切な事は、神の恵みが目に見えるイエス・キリストとしてこの世に来られた、ということです。

今日はルカによる福音書から、いわゆる「受胎告知」の場面を読むことにしました。マリアに対しては様々な芸術家がこの聖書の場面から自分なりのイメージによる作品を作っています。マリアは救い主イエスがこの世に来られるための準備の役割です。そしてそのマリアを支えるために神はエリサベトを準備なさいます。そしてその子どもの洗礼者ヨハネがイエスを支えてイエスが宣教活動をしていくための準備となるのです。

今日読む聖書の箇所にはずっと心に刻んでおきたい言葉が出てきます。

天使の言葉:「神にはできないことは何一つない。」(ルカ1章37節)

マリアの言葉:「お言葉どおり、この身に成りますように。」(38節)

エリサベトの言葉:「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(45節)

すべてイエス・キリストがこの世にこられるための神の側のご準備です。その目的は何でしょうか? 神が造られた人間が神を信じて生きることに立ち返るためです。すべてのご準備の目的はあなたに関係しているのです。

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2015年12月20日

ルカによる福音書 1章35〜45節
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町に旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

「最も貧しく低いところを選ばれた神」
ルカによる福音書 2章1〜7節

宣教:岡村牧師

メリー クリスマス♪
救い主イエス・キリストの御降誕
おめでとうございます!

2015年のクリスマスを迎えることができました。「2015年の」と言えること、何気なく用いている年号ですが、キリスト教会にとってまたキリストを信じる者にとっては大変嬉しく喜ばしいことです。

「…皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。」(2章1節) それでヨセフは身重のマリアと一緒にガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムまで行きました。「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(6〜7節)

今日読んでいただいた箇所は、ただの記録のように記されている言葉で、面白くもない文章かもしれません。しかしこれは強大な権力を持つローマ皇帝アウグストゥスが世界を治めていた具体的な時代に、実際にイエス・キリストがこの地上に誕生したという事実を述べている重要な言葉です。旧約聖書で預言され、また神がマリアとヨセフに告げたことが現実となったのでした。

宿屋には彼らの泊まる場所がなかったのです。飼い葉桶のある場所は牛やロバや馬など動物がいる場所です。神が御子降誕のために選ばれた場所は、人が思いもかけないところでした。暗闇を照らす光の誕生です。

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2015年12月27日

詩編 145章3〜11節
大いなる主、限りなく賛美される主 大きな御業は究めることもできません。人々が、代々に御業をほめたたえ 力強い御業を告げ知らせますように。あなたの輝き、栄光と威光 驚くべき御業の数々をわたしは歌います。人々が恐るべき御力について語りますように。大きな御業をわたしは数え上げます。人々が深い御恵みを語り継いで記念とし 救いの御業を喜び歌いますように。主は恵みに富み、憐れみ深く 忍耐強く、慈しみに満ちておられます。主はすべてのものに恵みを与え 造られたすべてのものを憐れんでくださいます。主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ あなたの主権の栄光を告げ 力強い御業について語りますように。

「感謝をもって明日へ向かおう!」
詩編 145編3〜11節

宣教:岡村牧師

2015年最後の主日礼拝となりました。神が来られたことを祝うクリスマスから新しい年が始まっています。

クリスマスは神の主権を思わされます。神が全てを計画されて御子イエス・キリストが来られました。すべての人を救うために。自分は関係ないと思っていたあなたや私を含む世界のすべての人のために神が準備された救いが、イエス・キリストをとおして今も有効です。

「人々が深い御恵みを語り継いで記念とし、救いの御業を喜び歌いますように。」 詩編145:7

これがダビデ王の作品なら紀元前一千年のものとなります。イエス・キリストが降誕される千年前もそれからも神はずっと御自分の民を救い続けてこられました。それを認めず、あるいは感謝してもすぐに忘れる私たち人間です。神がどれほど私どもを大切な存在として下さっているか、神は最後にイエス・キリストにおいてあらわされました。

2015年も私たちの教会において様々な出来事がありました。日本の社会においては戦争を放棄した戦後70年が今後どうなるかわからない不安定な中にあります。ヘイトスピーチという醜い差別の言葉に愕然とさせられ、世界では宗教の名を借りた憎しみがはびこり、多くの尊い人命が失われました。しかし苦しく厳しく辛い貧しい中にキリストは今いてくださっています。救ってくださり喜びをくださる主です。神の言葉を信じる決断と恵みの体験は感謝と喜びをもたらします。希望の光が私たちを照らします。私たち教会は語らずにはいられません。歌わずにはいられません。

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2016年1月3日

マタイによる福音書 5章14節
「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」

ヨハネによる福音書 8章12節
イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

「あなたがたは世の光である」
マタイによる福音書 5章14節

宣教:岡村牧師

主の年2016年、
あけましておめでとうございます!

クリスマスから1週間後に2016年を迎えました。クリスマスでは闇の世界に来られた光としてのイエス・キリストの誕生を喜び祝いました。

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ9:1)という旧約聖書イザヤ書の言葉が実現しています。イエス・キリストが共におられるという感謝と喜びは今年も最初からずっと消えません。 ところで今日選ばせていただいた聖書の言葉はこう述べています。

「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」(マタイ5:14)

主イエスが言われた言葉です。本来この言葉は前後の文脈の中で読まれるべきものですが、この言葉を強調したいためにここだけを選んでいます。

今年伝道開始30周年を迎える宝塚バプテスト教会です。最初から世の光として神がその存在、活動を祝福しておられるキリストの教会です。私たちが置かれている世界の状況を見るときに身がすくみますけれど、神の言葉が先行しています。「世の光」として存在している「あなたがた」とは「わたしたち」キリストを主と告白し続ける共同体としての教会です。

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2016年1月10日

マルコによる福音書 7章18〜23節より
「…すべて外から人間の中に入って来るものは彼を穢しえないことがわからないのか。なぜならば、それは彼の心の中に入るのではなく、腹の中に入って便所へと出て行くからだ。」こうして、彼はすべての食物を彼は清いものとするのだった。また言っていた、「人間から出て来るもの、それがその人間を穢す。なぜならば、人間たちの心の中からこそ、悪い(もろもろの)想いが出て来る。つまり、淫行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪意、奸計、好色、よこしまな眼、?言、高慢、無分別などだ。これらすべての悪しきものは、中から出て来て、その人間を穢すのだ。」(岩波訳聖書)

「神の言葉と人の言い伝え」
マルコによる福音書 7章14〜23節

宣教:岡村牧師

昨年の7月から、基本的にマルコによる福音書を礼拝の中で中心に読んでいます。行事に合わせて他の聖書の箇所を読む日もありますが、マルコによる福音書を行きつ戻りつしながらご一緒に礼拝の中で読んでいこうと考えています。聖書のどこを読んでもイエス・キリストが焦点でありますが、マルコによる福音書からイエス・キリストを見つめたいと思います。

今日の箇所は、人を汚すものについて語られています。神は清く聖なる方であり、人は罪多き汚れたものという設定は古今東西同じでわかります。聖書でイエスがおられた頃のユダヤ人社会では、民族のアイデンティティーをモーセの律法に置き、そのリーダーとしてファリサイ派の人々や律法学者が幅をきかせていました。

彼らが自分たちを律法を守っている清いものとしていることに問題がありました。神の御前に清いとはどういうことなのか、汚れているとはどういうことなのかを、イエスは語ります。

「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。…」(マルコ7:20-21より)

イエスの言葉は、時代や民族や文化や宗教等様々な違いのある人間であるということを越えた普遍的な真理を導き出しています。私たちはファリサイ派の人々と何ら変らない者であると気付くとき、愕然とします。しかしそのような私たちのために救い主イエスはおられるのです。

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2016年1月24日

マルコによる福音書 7章 32〜37節
人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

「主がなさったことはすべてすばらしい」
マルコによる福音書 7章24〜37節

宣教:岡村牧師

今日の箇所には二つの奇跡が起こった事が記されています。神の国を説き奇跡すら起こすイエスの評判は広く知られるようになっていました。その名は外国にも異邦人にも知られておりました。どういういきさつで外国のフェニキアのティルス地方にイエスが行かれたのかはわかりません。

天地を造り命あるものを造られた唯一の神を信じるユダヤ人は、偶像を神と拝む人々とは付き合いをしませんでした。今の私たちには想像することは難しいほど徹底していたようです。今日の箇所では奇跡を起こす前に、イエスが外国の異邦人の女性と対話をしています。普通にはないことでした。しかし自分の娘を救う事ができるのはこの方だ、と信じてそばに来たこの女性の心を主はご覧になり、そして奇跡は起こりました。

その後ガリラヤ湖へ戻って来られた時に、耳が聞こえず舌が回らない人を人々が連れて来てその上に手を置いてくださるように願いました。

イエスは苦しんでいる人自身だけでなく、その人を世話する人々の思いもご覧になっていると思います。子を愛する親、共同体の中で障がいがあるために苦しむ人を見捨てておけない人々。イエスのまなざしは広く遠くに届きます。人々は言いました。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」 

それ以上に素晴らしい恵みをいただいている私たちがここにいます。

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2016年1月31日

マルコによる福音書 8章15〜18節
そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。・・・」
マタイによる福音書10章16節
わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。

「まだ悟らないのか」
マルコによる福音書 8章11〜26節

宣教:岡村牧師

今日の題にしている言葉は、主イエスが弟子たちに発した言葉です。どんな調子でどんな声でどんなスピードで言われたのかわかりませんが、「まだ悟らないのか。」という言葉を聞くとき、叱られているようでもあり責められているようでもありますが、主イエスが人の信仰のどうしようもない限界を悲しんでいるようにも聞こえます。

主が「ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と弟子たちに言われた時、弟子たちは勘違いをしてしまったのでした。パン種とはパンをふくらませるイースト菌のことです。少しの量でパンを大きくすることができるものです。ここでは害を与える悪いものとしての例えとして用いられています。ファリサイ派もヘロデ派もイエスを敵対視して死に追いやった人々です。

今日の箇所の前には、四千人の人々に食事を与えた奇跡と、その少し前には五千人に食事を与えた奇跡が記されています。弟子たちは自分たちの目の前で主イエスが考えられないほど多くの人々が満足するほど食べものをお与えになった奇跡を見て体験したばかりでしたのに、的外れな考えにとらわれてしまいました。

まだ悟らないのか、と主イエスに言われたら弟子たちだけでなく私たちもうなだれるしかないものでありますが、同時に気づかされるのです。私達がまだ悟らなくても見捨てずに、最後まで、導いてくださる主が共にいてくださるのだから、私たちは希望を持って生きていくことができるのだと。

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2016年2月7日

マルコによる福音書 8章29節
そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
31〜37節
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、とでしたちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい、自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。

「信仰告白」
マルコによる福音書 8章27〜37節

宣教:岡村牧師

教会は基本的にオープンな場所で、どんな人々も受容して共に礼拝をします。礼拝の仕方は教会によって様々で、賛美の仕方や祈り方も随分違うと感じることもあるでしょう。

けれどもどのキリスト教会にも無くてはならないものがあります。それは、教会を構成している教会員の信仰告白があることです。教会にはクリスチャンたちだけがいるわけではありませんが、クリスチャン一人ひとりの信仰告白がなければ教会として成り立ちません。

今日の箇所で、ペトロはイエスに対して「あなたは、メシアです。」と答えています。メシアとはヘブライ語で、キリストのことです。「油注がれたもの」つまり「救い主」という意味です。

信仰告白がなければ教会は成立しないほど重要なものですが、信仰告白をするペトロや私達の信仰は問題含みです。この後、ペトロは主イエスを裏切ってしまうのですから。信仰告白をしたからといって私達の信仰が完全なものになるわけではありません。しかし未熟な信仰告白にもかかわらず、またイエス・キリストをよくはわからなくても、自分が知っただけのキリストに対する正直な思いから「信じます」と発する信仰告白は、神にとっては非常に重要な告白なのです。それは永遠の命につながるものです。

「たとい全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」神はあなたの信仰告白を待ち望んでおられます。新しい命の始まりです。

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2016年2月14日

マルコによる福音書 8章34節
それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、
わたしに従いなさい。」

「主イエスに従うとは?」
マルコによる福音書 8章34節

宣教:岡村牧師

今日の聖書の箇所は予告した箇所と違います。先週の礼拝の中で、マルコによる福音書8章34節の言葉に関しては語る時間が無いので後日にすると申しました。その後日を今日にしました。次のような言葉です。

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

イエス・キリストの言葉です。この言葉の前には次のような言葉があります。「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。」 つまり非常に厳しく重たいと思えるその言葉を言われたのは、決して主イエスの弟子たちだけではなく、集まっていた不特定多数の人々に対しても言われた言葉です。

主イエスが34節の言葉を言われたときには、そこに居た人々の誰もこれからイエスが捕えられて恥ずかしめを受けて十字架につけられることをまだ知りません。時代を経てイエスの死と復活の出来事の後に生きる現在の私達に対しても、神はこの言葉もって語りかけてきます。

自分を捨てる、という意味は何でしょうか。自分の十字架とは何でしょうか。今日はこの意味を考えていきますが、いずれにしてもイエスに従うというのは安易なことではないという印象を受けます。

現在の難しい世界の中にある私達に対して主イエスは率直な言葉で今も私達を励ましておられます。神の身分を捨てて友となってくださった主イエスです。永遠に私達と共にいる決断をしてくださった神です。私達に与えられた十字架を共に負ってくださる友なる神であります。

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2016年2月21日

マルコによる福音書 9章4〜8節
エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。

「復活の片鱗」
マルコによる福音書 9章2〜13節

宣教:岡村牧師

あと1ヶ月ちょっとで今年のイースターを迎えます。死から復活されたイエス・キリストですが、そのことが起こるまでは主イエスが苦難の道を通って死と復活が起こることをどれだけ弟子たちに話しても、弟子たちにはわからないのでした。

この世の誰も経験をしたことがない復活ですけれども、今日の箇所を読むと、復活のイメージが湧いてくるような気持になります。主の復活は私たち信じる者の復活の道も拓いてくださいました。モーセとエリヤとイエスの会話のシーンが、三人の弟子たちの目の前で繰り広げられます。

大昔の旧約聖書の時代のリーダー達とイエスが一緒に会話をしている場面はとても不思議で面白く、私は私たちに約束されている将来の復活を想像しました。モーセはイエスよりも1200年以上も昔の時代のイスラエル民族のリーダーで、エリヤはイエスより850年ぐらい前にいた預言者です。

この箇所の平行記事がルカによる福音書9章に載っていますが、それによると違う時代にいた彼らが会話していたのはイエスがこれからエルサレムで遂げようとしておられる最期についてでした。神の救いのご計画は、最初からイエス・キリストへ到達する一つの線上にあるということを表しているかのようです。

素晴らしいことを見た弟子のペトロはもう一つの不思議を体験します。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 神の言葉です。イエス・キリストに聞く人生の祝福を、一言で伝えてくださっています。

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2016年2月28日

マルコによる福音書 14章6〜9節
イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

「できるかぎりのことをした」
マルコによる福音書 14章1〜9節

宣教:岡村牧師

先週の週報に予告していた聖書の箇所ではないところから、選ばせていただいています。これから3月27日のイースターまではマルコによる福音書14章以降の箇所から聖読むことにしたいと思います。イースター以後は続きの9章に戻ります。

食事の席で、一人の女性が純粋で非常に高価な香油を主イエスの頭に注ぎかけるという事件が起こりました。あまりに高価なものをその一瞬に全部使ってしまったのです。この香油は誰のものでもない、この女性の所有していたものでした。

しかしそれを目撃した人々は憤慨して厳しくとがめたのです。理由はこの女性が無駄遣いをしたと判断したからでした。労働者が働いて得る給与の1年分に相当するものでした。それを売って貧しい人々に施すことができたのに…と人々はこの女性のしたことを非難しました。

イエスの死が近づいているときでした。この女性の気持を表す言葉は一言も記されていません。どのような思いでそのような行為をしたのか、だれにもわからなくても、イエスにはわかられたのです。

主は行為の外側に見えることではなく、その動機をご覧になる神です。貧しさに喘ぐ社会の人々を助けることはこの当時の社会で大切にされていた良い行いでした。人々のもっともと思える非難の中で、イエスは「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」と受け取られました。無言で行われたこの女性の行為は愛と感謝に満ちたものだったでしょう。これから全ての人の罪を負って死に赴く主が、救い主であることを表す出来事でした。

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2016年3月6日

マルコによる福音書 14章33〜42節
・・・イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」・・・・・ 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは,イエスにどう言えばよいのか分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

「もうこれでいい。時が来た。」
マルコによる福音書 14章27〜42節

宣教:岡村牧師

3月27日にイースターを迎えることを覚えて、イエス・キリストの死に至るまでの苦難の歩みを聖書から見て参ります。

主イエスには、弟子たちがいつも共にいて活動していました。その中でペトロは年長だったのでしょうか、リーダー格として常にイエスと共にいた人でした。イエスからペトロ「岩」という名前をもらったペトロに対してイエスは、「今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と予告をされます。ペトロは驚いたでしょう。そんなことは絶対にない、と力みますが、どうなるかは次週の礼拝で取り上げます。

その後、イエスがゲッセマネの園で壮絶な祈りのときを持たれた事が記されています。これまでに弟子たちに見せた事のないイエスの姿や言葉が記されています。

「わたしは死ぬばかりに悲しい。」「…できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り…」「…この杯をわたしから取りのけてください。しかしわたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

この言葉がここに記されているということは、弟子たちが少し離れたところであってもイエスの祈りの言葉が聞こえていた、ということなのでしょう。彼らが今までに見た事も聞いたこともない苦しげな主イエスの姿、言葉、に弟子たちはかなり動揺しただろうと推測できます。それでも眠ってしまうのです。

全ての人から裏切られ、誰も共にいる人もなく、神から捨てられなければならないイエスの苦しみは、私たち全ての人を救うために負わねばならない孤独の

戦いだった事を改めて心に刻み、神への感謝を共にしたいと思います。

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2016年3月13日

マルコによる福音書 14章61b〜62節
そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」

14章70〜72節
ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。

「罪の自覚」
マルコによる福音書 14章53〜72節

宣教:岡村牧師

キリスト教においては、「神の愛による罪のゆるし」ということがテーマになっています。キリスト教における「罪」とはどのようなことでしょうか。私たちがいわゆる「罪を犯す」というときは、社会的に禁じられていることを破る事です。法的に他者の人権を著しく損なう事をすると「犯罪者」となります。毎日裁判沙汰になる犯罪事件のニュースを新聞やテレビ等のメディアで目にしない日はありません。

聖書においての罪は、「的外れ」という意味の言葉が用いられています。神を神としないこと、神を侮ることです。神に造られた人間が神となり、相対的な存在にすぎない人間が絶対者のように振る舞うことが罪なのです。神を知っていて信じないことも罪なのです。

誰もイエスがキリスト、つまり世の救い主だということを信じ抜く事ができませんでした。この私だけはどんな事があっても、たとえ死ぬような事があっても主イエスを裏切ることはない、と言ってはばからなかった弟子のペトロも、気がついた時にはイエスを裏切っていたのでした。人には自分が神の御前には罪人でしかない、ということを自覚する時が来ます。そしてそのときこそ、神の御前に心からへりくだることができる時です。

今日の礼拝の招詞(ローマ3:23-24)にこうあります。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖い(あがない)の業(わざ)をとおして、神の恵みにより無償で義とされるのです。」 キリスト・イエスが、あなたを、的外れではないものとして生きるように導いてくださいます。

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2016年3月20日

マルコによる福音書 15章10〜15節
祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

「犠牲の小羊」
マルコによる福音書 15章6〜39節

宣教:岡村牧師

来週3月27日に今年のイースター(キリストの復活記念日)を迎えます。今日から始まる今週の7日間は、キリスト教会では「受難週」としてキリストの受難と死を心に刻みます。

受難週の日曜日の今日は、「棕櫚の日曜日」と呼ばれ、マルコ福音書で言えば、11章でイエスがエルサレムに入場する時から始まります。そして木曜日に弟子たちとの最後の晩餐を行い、ゲッセマネの園で祈りの苦闘をし、弟子のユダの裏切りにより当局に捕えられ、裁判の合間に激しい拷問と侮辱を受けて有罪になり、他の犯罪人たちと共に十字架に磔にされました。そして金曜日に息を引き取り、夕方に墓に納められました。しかし!・・・ということで次週のイースターがあります。

予定の箇所より長い文章を朗読していただくことにしました。その中に、イエスが十字架上で発した言葉は絶望の言葉なのか、あるいは神への希望と信頼で終る詩編22編の言葉の一部なのか、神学論争が起こりました。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」

イエスを最後に、今後だれも神から見捨てられる事がないために、罪の無い神の子イエスが、贖罪の小羊が罪の犠牲としてささげられるようにして死ぬのです。あのときイエス・キリストを死へと追いやった「十字架につけよ!」と叫ぶ人々の中に、この自分もいたかもしれない、と思えるでしょうか。神を信じない、神を神としない心が自分にあることを認めることから、神との新しい関係への一歩が始まります。

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2016年3月27日

マルコによる福音書 15章46〜16章2節
ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。

安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして週の始めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。

16章6〜7節
「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

「復活した救い主は今ここに!」
マルコによる福音書 15章42節〜16章8節

宣教:岡村牧師

イースター、イエス・キリストの復活、おめでとうございます!

2016年のイースター、キリストの復活祭を迎えました。2000年前にこの地上に生活をして人々を導いたイエス・キリストは、予告通り、死んで三日目に復活し、悲しみは喜びに変ります。喜びに満ち、勇気に溢れてキリストの福音を語り始めた人々の様子が、聖書に記されているわけなのですが、今日読んでいただく箇所は、最初の驚きの場面です。

墓に納められているはずの遺体が無いこと、天使らしき若者が神の使者として人々に言葉を伝えたことなど、そこに行った人々は意味がわからず恐怖と驚きしかなかったのです。復活を認めて喜びに転じるまでにはしばらく時間がかかったことが、今日の箇所からもわかります。墓の中にいた若者は言いました。

「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

キリストの復活は、人々に死が全ての終りではないことを証しし、神との関係が死を越えてつながっていくことを教えました。切れて壊れた関係が復活させられていきます。神の愛は、キリストの死をとおして、ゆるしという形であらわされました。神と人との関係が、そして人と人との関係も復活して、教会という共同体が生まれました。あなたもこの交わりに招かれています。

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