TAKARAZUKA BAPTIST CHURCH

日本バプテスト連盟  宝塚バプテスト教会

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主日礼拝当日の週報に掲載されている「本日の宣教から」を再掲しています。

当日の宣教の箇所の概要や導入にあたるメッセージとなっています。

 

2016年度

1週

2週

3週

4週

5週

4月

3日

10日

17日

24日

 

5月

1日

8日

15日

22日

29日

6月

5日

12日

19日

26日

 

7月

3日

10日

17日

24日

31日

8月

7日

14日

21日

28日

 

9月

4日

11日

18日

25日

 

10月

2日

9日

16日

23日

30日

11月

6日

13日

20日

27日

 

12月

4日

 

18日

25日

 

1月

1日

8日

15日

22日

29日

2月

 

12日

19日

26日

 

3月

 

12日

19日

26日

 

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2016年4月3日

エフェソの信徒への手紙 1章17〜18節
どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。

1章23節
教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。

「キリストの体である教会」
エフェソの信徒への手紙 1章17節〜23節

宣教:岡村牧師

今日は2016年度最初の主日礼拝です。先週はイースターを迎えました。私たちは希望と喜びのうちに新しい年度を歩みだして行きます。

イエス・キリストの死と復活の出来事から教会が生まれました。教会は原語のギリシャ語では "エクレシア"と言い、「呼び出された者たちの集まり」という意味があります。今日はエフェソの信徒への手紙の中からパウロの祈りとされている箇所を取り上げています。

キリストの死と復活から半世紀後にエフェソの信徒への手紙が書かれましたが、全てのキリスト教会で読んでもらうべく書かれたもののようです。17節から23節までのパウロの祈りは、現代の教会である私たちへの祈りとしても受け取る事ができます。

パウロの願いは教会の人々が深く神を知ることができるようにというものでした。そして最後に「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」と記されています。

主イエスが人として地上におられた時、弟子たちを集めて共同体を作りましたが、そのときの集まりはまだ教会ではありません。けれどもイエスが弟子たちと共に生活して活動なさったということは、先を見越しての教育であったと思うのです。不完全な欠けの多い、まさにゆるされた罪人である私たちが集まって礼拝する生活をしていくことの大切さを教えるために、主は弟子たちを具体的に教えたのでありましょう。神と共に在るということが個人的な事と同時に、他者と共にあるということの中にあらわされることを教えるためにではないでしょうか。

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2016年4月10日

マルコによる福音書 9章37節
「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

10章14〜16節
しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

「子ども」
マルコによる福音書 10章13〜16節、9章33〜37節

宣教:岡村牧師

教会が興味深い面白いところであることの一つは、様々な年齢層の人々が集っているということだと思います。今日は子どもたちの進級式が行なわれます。普段子どもと接触がない人にとっては、子どもは可愛いというよりもうるさく煩わしい存在かも知れません。しかし私たちは例外なくかつては皆子どもだった時代がありました。

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

(マルコ10章14b〜15節)



今日は子どもについて主イエスが言及している二箇所から読んでいただきます。人々が子どもたちをイエスのそばに連れて来た時、弟子たちはそのことに対して人々を叱りました。イエスのそばに来るのにふさわしくないとか、邪魔だと思ったからでしょう。弟子たちのそのような対応に対してイエスは憤ったと記されています。

「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と言われた意味をご一緒に考えたいと思います。

私たちの教会は子どもたちと一緒にいる事を喜ぶ教会です。子どもたちと一緒に礼拝をすることでそのことを表しています。教会は子どもに表される小さくされた人と共に歩むところです。権力志向のこの世の常識にとらわれない自由さを教会はもっています。価値観の転換が起こります。

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2016年4月17日

マタイによる福音書 5章13〜16節
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
あなたたたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
イザヤ書 60章19節(今日の招詞の言葉)
太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず 月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり あなたの神があなたの輝きとなられる。

「あなたがたは世の光である」
マタイによる福音書 5章13〜16節

宣教:岡村牧師

「あなたがたは地の塩である。・・・あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」(マタイ5:13a〜14)

イエス・キリストが山上の説教の中で、弟子たちだけではなくイエスの話しを聞きに集ってきた人々も含めて彼らに対して語っている言葉です。神はその時も今も同じ神です。そして時代は移っても、地の塩であり世の光であるのは、今もキリストの言葉を集って聞き続ける人々である私たちだ、と読むことができます。

「地の塩」の「地」とは私たち人間が住むこの世界をあらわしています。この地にしっかり居ながらすべてを照らす光として生きているのが、キリストの言葉を聞く人々である、と主は大胆な宣言をしておられます。

 熊本で震度7の地震災害が起こってしまいました。不安な思いが心を覆って明日への希望が持てない人々がたくさんおられると思います。私たちは困っている人、苦しんでいる人がいると何ができるだろうと具体的に考えます。ボランティア活動や募金活動もこれからなされていくことでしょう。できるだけのことを協力したいと思います。直接的な助けになるようなことを早くしなければ、と焦る思いがつのります。しかし、私たちにしかできないことで重要なことは、まず神に助けを求めることです。キリストが教えて下さった神を礼拝する民となっている教会の私たちは、心を合わせて神に祈り求めることができます。

今日集った私たち。心をこめて神に助けを祈ります。既に全てのことをご存知の神は、子どものような私たちの祈りを受けて、神の時に、最善に働かれる神です。死を越えて共におられる主にただ信頼して祈ります。主よ、助けて下さい!

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2016年4月24日

テサロニケの信徒への手紙�� 5章9〜11節
神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。

「主と共に生きる」
テサロニケの信徒への手紙�� 5章9〜11節

宣教:岡村牧師

熊本地震の被害で苦しむ方々のことを覚えて心から祈りつつ、今日も一生懸命礼拝をしたいと思います。様々な支援活動を始めることに先立って、主に助けを求めて祈る礼拝をすること。それが私たち教会が、まずなすべき最善の業だと信じていたします。

「主が共におられる」という表現を教会ではよくいたします。「主」とは「神」のことであると知るまでは、何だろうと思った方々もいらっしゃったでしょう。イエス・キリストが誕生する前に神の天使がヨセフに「生まれて来る子はインマヌエルと呼ばれる」と伝え、「神は我々と共におられる」という意味であると述べています。(マタイ1章23節)

神が我々と共におられることをイエス・キリストがあらわしています。そして教会は、神が我々と共におられることを世界に知らせる役割を持っています。

さて、今日読んでいただくのは新約聖書27書あるうちの最初に書かれたとされるテサロニケの信徒への手紙�気�らです。テサロニケ教会の人々は、「主の日」という神による最後の審判の日が来ることに関して恐れを抱いていました。パウロは、キリストの死は人々が神と共にあるようにするためだったのだと述べて、恐れずに互いに励まし合うことを勧めています。

「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」

パウロの言葉は私たちにも語ります。主と共に生きるのは根拠があるのです。

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2016年5月1日

マルコによる福音書 10章21〜22節
イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

ローマの信徒への手紙 6章23節
罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。

「永遠の命を受け継ぐ (I)」
マルコによる福音書 10章17〜22節

宣教:岡村牧師

今日も礼拝を、私たちが主の御名によって祈りつつ心をこめて神にささげるとき、熊本地震の被災者の方々をはじめ、助けを求めている方々に神様からの助けが何らかの形で動いていくと信じて続けます。

昨年の8月からマルコによる福音書を中心に礼拝の中で読んできています。必ずしも続けて順番にではありませんが。 時間の関係で、今日は先週の週報で予告していた箇所を全部読まず、2回に分けて来週後半を読みます。

「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいでしょうか。」と、主イエスに真摯に尋ねた人との対話が記されています。

「永遠の命」・・・SF漫画じゃあるまいし、と思う人がいるかもしれないほど私たちには馴染まない言葉でしょう。今の命が死なないでずっと存続する、という意味ではありません。神と共に在る新しい命によみがえることです。その永遠の命を受け継ぐことを、聖書の登場するこの人は求めました。この人は自分の行いによって永遠の命を得ることができるという前提から入っています。

話しが噛み合ないまま進み、イエスははっきりと具体的に示します。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

たくさんの財産を持っていたこの人は主の言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った、と聖書は記しています。イエスがこのような言葉を言ったのはなぜでしょうか? それを共に考えてみたいと思います。 この人のその後のことは書かれていません。しかしイエスの死と復活の出来事が起こった後、この人は主イエスが言われた言葉の意味がわかって教会に加わった・・・でありますように。

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2016年5月8日

マルコによる福音書 10章23〜27節
イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」

ローマの信徒への手紙 3章23〜24節
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

「永遠の命を受け継ぐ (II)」
マルコによる福音書 10章23〜31節

宣教:岡村牧師

先週の礼拝で取り上げた箇所の続きです。前回はある金持ちの人と主イエスと、永遠の命をめぐっての対話でした。今日は金持ちの人が去った後に、イエスと弟子たちの対話がその内容です。ここでは「永遠の命」と「救い」と「神の国に入る」こととは同義語として用いられています。

「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」というたとえは、当時の価値観をひっくりかえす言葉でした。「それでは、だれが救われるのだろうか」と弟子たちが言ったとき、イエスは彼らを見つめて言われました。

「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」

今日の聖書の言葉は、私たちに取ってはショックな言葉です。こんなにすべてのものを捨てなければ、永遠の命を受けることができないのか、と愕然としてしまいます。イエスが、家や兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑、を捨てることを奨励しているような言葉はどのように理解すれば良いのでしょうか? どれも大切なものばかりなのに、捨てるとはどういうことでしょうか? 「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」という言葉も含めて、イエスがおっしゃる言葉は「???」ばかりです。

「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」を中心に考えてみたいと思います。

私たちの考えをはるかに越える神の出来事は、イエス・キリストの十字架の死が象徴しています。私たち人間ができることは一つもありませんでした。神の側からの一方的な救いと今日の箇所も関係しているのではないでしょうか。

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2016年5月15日

コリントの信徒への手紙�� 1章4節、8b〜11節
4節 神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。

8b〜11節 …わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、使者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。あなたがたも祈りで援助してください。そうすれば、多くの人のお陰でわたしたちに与えられた恵みについて、多くの人々がわたしたちのために感謝をささげてくれるようになるのです。

「神に希望をかけて」
コリントの信徒への手紙�� 1章3〜11節

宣教:岡村牧師

今日はペンテコステ(聖霊降臨祭)記念日です。そして私たち宝塚バプテスト教会の伝道開始30周年記念感謝礼拝の日を迎えています。

2000年前のペンテコステの時に、キリストの言葉を信じて集っていた人々に聖霊がくだり、様々な言語でキリストが救い主であることを証しする言葉を語り始めました。キリスト教会が生まれた日でもあります。私たちの教会を含めて昔も今もキリスト教会はキリスト・イエスを伝える使命を受けています。

読んでいただいた聖書の言葉はパウロによる手紙です。以前はキリスト教徒を迫害し、ユダヤ教のエリートだったパウロが回心してキリストを信じる者となったことは神の導かれたことでした。パウロは、大胆に世界にイエス・キリストの福音を伝えて歩き、行く先々で教会ができました。彼は神の恵みを受け、神のご臨在を体験して道が開かれることを何度も経験してきたのです。

ところがここにはパウロが自分を頼りにしようとしていた弱さをさらけだしたことで、神への信仰が新たにされたことが記されています。「…わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。…それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。…神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救って下さることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。あなたがたも祈りで援助してください。…」

宝塚バプテスト教会が30周年を迎えて、今まで神が導かれたことを感謝し、これからもそうであるにちがいないと、私たちは神に希望をかけて歩み続けます。別れても離れてもキリストの御名において私たちは皆、神へと導かれます。

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2016年5月22日

マルコによる福音書 10章1〜12節
イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。
創世記 1章27節
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。
男と女に創造された。

「神が造られた男と女」
マルコによる福音書 10章1〜12節

宣教:岡村牧師

先週は、ある時期教会に関わってくださった方々をお招きして、共にこの宝塚バプテスト教会の30周年記念感謝礼拝を神の豊かな祝福の中で無事に行うことができました。開拓の最初期からいる方々もそれぞれ途中で加わった方々も皆、キリストの体であるこの教会の大切な部分として神の恵みのうちにおかれています。

教会は聖書では「キリストの体」と表現する一つの共同体です。ところで最も小さな共同体の基本は家庭であり夫と妻です。今日はマルコによる福音書で離婚について主イエスが述べている箇所をとりあげます。

マルコによる福音書の背景の時代では女性の立場は非常に弱く、男性の財産の一つぐらいの存在でした。夫である男性たちの中で法的には違反していないとして妻を離婚する男性が少なからずいたようです。今で言う法律にも等しいモーセの律法に書いてあるのだから夫からの離婚は合法だとする人々が、イエスを陥れるために質問をしたとき、主イエスは聖書の創世記の言葉を引用して彼らを諭されました。

「…天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マルコ10:6〜9)

今は多様な社会になっています。アメリカでは離婚率が50パーセント、日本では30パーセントにも増えてきました。LGBT(性的少数者)のカミングアウトしている方々や同性婚も世界で増えてきています。結婚式で今でも用いられるこの言葉についてイエスが言われたことの意味を考えてみたいと思います。

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2016年5月29日

マルコによる福音書 10章46〜48節
一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
51〜52節
イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と行った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」 盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

「あなたの信仰があなたを救った」
マルコによる福音書 10章46〜52節

宣教:岡村牧師

新約聖書の福音書には、主イエスが病や障がいがある人のいやしをなさった奇跡がいくつも記されています。しかしいやされた人の名前が記されているのはこの記事だけではないでしょうか。

目が見えなくても生きていくために経済活動も必要です。人が多く通る道端に座ってその身をさらしながら人に施しを乞う生活をしていました。この人が生まれながらの盲人だったのか途中で病気をして目が見えなくなったのかはわかりません。障がいがあることイコール罪人だ、という理由づけをしていた時代です。希望を持って生きるのは本当に大変だったことでしょう。

ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めたのでした。目が見えないゆえに彼は大声でイエスを呼び求めることができたのかもしれません。目が見えるゆえに人の目や人の思惑が気になって大事なことを見逃すことがあるものです。人々が叱りつけても彼は黙りませんでした。この方こそ自分をいやしてくださる方であると信じて、今この機会を逃したらもう今後出会うチャンスはないかもしれない、という思いで、必死で呼び求めたのでありましょう。

目が見えるようになりたい、と願ったバルティマイに対して主イエスは「あなたの信仰があなたを救った」という言葉を与えて、奇跡は起こりました。バルティマイは目が見えるようになってすぐにイエスに従った、と書かれています。

肉眼の目は見えていても物事の本質が見えない、心の目が見えないということがあります。バルティマイと自分が重なります。この神、主イエスに人生の全てを委ねて進んで行くのです。見えない、わからない、ことの連続ですから。

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2016年6月5日

コロサイの信徒への手紙 1章15〜20節
御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。
御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

「キリストにより神と和解させられている」
コロサイの信徒への手紙 1章13〜23節

宣教:岡村牧師

私たちの教会では、礼拝前の10時から50分間に各年齢層別の教会学校が開かれており、集って聖書を共に読み、それぞれが自由に疑問や意見、感想を述べる学びの時を持っています。礼拝では牧師の話しを一方的に聞くだけですが、教会学校では闊達に自分が聖書の言葉から受けたことを分かち合う場となっています。木曜日の祈祷会でも牧師からの一方的な話しではなく、説明や奨励の後に聖書の言葉を自由な感性で分かち合い、参加者が自由に自分の言葉で祈り合うひとときです。

日本バプテスト連盟が出版している「聖書教育」は1年ごとに全国から選ばれた3人の牧師達と連盟事務所のスタッフ達が会議を重ねて祈りつつ吟味して作っているものです。バプテスト派が17世紀から大切にして来たことを軸に聖書の読み方のヒントを与えてくれるとともに、キリストの福音から外れないように導いてくれる役割を果たしています。

今日読んでいただいたコロサイの信徒への手紙は小アジアと呼ばれていた今のトルコにある都市で、東西の哲学や思想が集まり、その影響が教会内にも大きく及んでいました。キリスト教会が特に闘わなければならなかったのは、グノーシス派による異端の聖書理解でした。グノーシスとは知識を意味し、彼らは自分たちこそ真のキリスト教徒であり、キリストが幾人かの特別な弟子たちにしか伝えなかった優越した知識の相続人だというエリート意識をもつグループでした。

キリストの福音は選ばれた少数の人々のためにあるのではありません。イエスキリストが死なれたのは全ての人が自分の中にある罪性に気付き、全ての人が神の愛によって生きるためです。それを知らせるために教会があります。

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2016年6月12日

コロサイの信徒への手紙 2章9〜12節
キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。あはたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼(バプテスマ)によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。

18b〜19節
…こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。

「頭であるキリストにしっかり付く」
コロサイの信徒への手紙 2章6〜19節

宣教:岡村牧師

先週に引き続いてコロサイの信徒への手紙の2章から読んでいただきます。キリスト教は表立った権力による迫害はなかったもものの、教会内にキリストの福音とは言えない教えが入り込んで教会を混乱させていました。

それらの思想や教えは、一言で言えば特別なことをして特別な体験をしたものだけが神の祝福にあずかることができるというものでした。その意味ではキリスト教を認めなかったユダヤ教の律法主義と似たところがあります。

神の救いについては、イエス・キリストを神であり救い主であると信じるだけで救われるという「信仰義認」が大切なことなのです。良いことを積み重ねて救われて神の国に入るというのではなく、キリストを信じるだけで救われる、ということをイエス・キリストもパウロも教えました。しかし人間は、神の救いがそんなに簡単なものであるはずがない、と考えがちなのです。

キリストへの信仰告白をした者はバプテスマ(洗礼)を受けます。ここで著者は次の様に述べています。 

「あなたがたは、・・・・洗礼(バプテスマ)によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」(コロサイ2:11〜12)

バプテスマ(洗礼)を受けることの偉大な恵みが語られています。このことも信仰によってのみ救われることを助けている内容です。

偉大な恵みをいただいているにもかかわらず、今の世においてクリスチャンであっても様々な占いや別のものに縛られていることはないでしょうか? 私たちの神は実に偉大な恵みをキリストにおいて実現されているのです。

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2016年6月19日

マタイによる福音書 20章1〜2節
「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶとう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。・・・・・・・

8〜16節
夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と行った。そこで、五時頃に雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもられるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前よさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。

「最後に来た連中」
マタイによる福音書 20章1〜16節

宣教:岡村牧師

聖書のイエスの言葉は、すんなりとは読めない、分からない不思議さに満ちていると思うことがほとんどかもしれません。今日読むイエスのたとえ話しは、天国とはどういうところかを,人々の生活に即したことを用いて語っておられます。

ぶどう園で働く労働者を雇うために主人が、夜明け前に出かけて行くだけでなく、9時、12時、15時、17時、と出かけて行ってその都度新たな労働者を雇います。賃金を払う段階になって、働いた時間がそれぞれ違うにもかかわらず、主人はどの人にも同じ賃金を支払ったのです。

不公平だと不満がもれました。今の私たちの感覚でも不満が出るのはあたりまえだと思います。すると主人は言います。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」そして主イエスはあの言葉を言われます。「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

神の国は私たちのこの世で当たり前になっている考え方やルールとは違うようです。この世では年功序列や能力が秀でた人が優遇される世界です。しかしイエスは、神の国はこの世の価値観とは違うことを教えてくれます。

神の恵みは等しいことに気付きます。何十年も神を信じて教会にいる人も、昨日教会に来て新たに信仰を得た人も、神は差別をなさらないのです。恵みは同じです。比較し、優位に立ちたがる人間の性質が打ち砕かれます。神と共にあることの平安や喜びや感謝が壊されないように今日の箇所は導いてくれます。

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2016年6月26日

ルカによる福音書 19章1〜10節
1.イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
2.そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
3.イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
4.それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
5.イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
6.ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
7.これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
8.しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
9.イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
10.人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

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2016年7月3日

ルカによる福音書 15章1〜7節
徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹見つけだすまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。

「大きな喜びが天にある」
ルカによる福音書 15章1〜7節

宣教:岡村牧師

先週は、関西学院大学教授で宗教主事の打樋啓史先生をお迎えして、ルカによる福音書19章のザアカイの話からメッセージをいただきました。徴税人で社会の嫌われ者だったザアカイがどのようにして主イエスによって変えられていったかが生き生きと目に浮かぶようで、自分と重ね合わせて引き込まれました。神と共に他者と関わりをもつ者となったことも重要な点でした。

日毎に、そして毎週の礼拝において、神様から「大丈夫、大丈夫、あなたはイエス・キリストによって罪ゆるされた者、あなたは価値ある貴い存在、わたしはあなたを愛している」という言葉を受けながら生きていきたい、と改めて強く思いました。

先生のお話を聞いて、また今日礼拝の中でMさんの転入会の証しがあることを覚えて、神の喜びが語られている今日の箇所からお話しようと思いました。

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探しまわらないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカ15:4?7)

キリスト者・クリスチャンは皆、イエス様をとおして神様から見つけていただいた羊です。神の国に属すると同時にこの世では具体的な一つの教会のメンバーとして、共に生きるように導かれます。今日この教会に新しい仲間Mさんが加わります。共に礼拝して支えあう仲間が与えられたことを主に感謝します。

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2016年7月10日

ルカによる福音書 15章1〜7節
隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。

マタイによる福音書7章12節
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

「むさぼりと権力と神の言葉」
出エジプト記 20章17節

宣教:岡村牧師

今日の聖書の言葉は、「十戒」の中の言葉を取り上げます。十戒はその昔、神がシナイ山でモーセを通してイスラエル民族に授けた十ヶ条の戒めです。

その内容を約して言えば次のようになります。�‖召凌澄垢鮨世箸靴討呂覆蕕覆ぁ���偶像を作ってはならない。��神の名をいたずらに唱えてはならない。�ぐ詑�日を覚えてこれを聖とせよ。�ド磴畔譴魴匹─���殺してはならない。�Т�淫してはならない。��盗んではならない。��隣人に偽証してはならない。��隣人の家を欲してはならない。

今日はこの中の10番目の戒めに注目します。新共同訳聖書では次のような言葉になっています。「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない、」

他の訳では「欲する」ではなく「むさぼる」という言葉になっています。貪欲です。権力者による貪欲は人々の命を奪ってきました。

神の恵みを受けるためには十戒を守らなければならない、と読んでしまいがちです。しかし十戒の前に前置きの神の言葉がついています。

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」

つまり、あなたは神の驚くべき恵みを受けた者である、だからもはや他の神々を神とすることはできない。・・・もはや隣人のものを欲し、むさぼることができない、という不可能性の断定を意味しています。十戒は、神の恵みを受けた者の生き方を記しているのです。

主イエスは十戒を総括するような言葉を言われました。「神を愛しなさい、隣人を愛しなさい。」 人が他者への評価をくだすことができない類いのことです。神はイエスの死によりその意味を教え、救いの道をひらかれました。

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2016年7月17日

ヨハネによる福音書 15章1〜5節
1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。

2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。

5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

「豊かに実を結ぶために」
ヨハネによる福音書 15章1〜5節

宣教:北村執事

「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」(ヨハネ15:2)

この箇所は、そのまま素直に読めば、「実を結ぶいい枝は農夫が手入れをして一層よい実を実らせるようになるが、実を結ばない枝は農夫が切り取ってしまう。だからあなたがたは実を結ぶようにしなさい。」という教訓を示したもののように読めます。

しかし、それでは当たり前です。「良い枝は手入れされ、悪い枝は取り去られる。」これでは当たり前過ぎます。この当たり前のことをわざわざイエスさまは語られたのでしょうか? この世の信賞必罰と同じようなことをイエスさまが語られるのはどうも腑に落ちません。

この疑問を解く鍵が「取り除く」訳されたギリシャ語の「アイロー」という単語です。この言葉には「支える」という意味があります。「支える」と読み直すと、ここに思いもかけなかった新たな物語が展開します。

本日はこの物語に登場する3つのギリシャ語、即ち「取り除く」と訳された「アイロー」、「手入れをする」と訳された「カサイロー」、「つながる」と訳された「メノー」の3つの言葉を中心に、このぶどう園のたとえ話が語る「もうひとつの物語」に迫って行きたいと思います。

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2016年7月24日

ルカによる福音書 10章38〜42節
一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

「必要なただ一つのこと」
ルカによる福音書 10章38〜42節

宣教:岡村牧師

今日の箇所は、マルタとマリアという姉妹についてのエピソードとして、ルカによる福音書だけに記されている内容です。

主イエスの一行がマルタの家に迎え入れられ、マルタはもてなしのために立ち働いていましたが、マリアは主イエスの足もとに座って話に聞き入っていました。それをマルタが不満に思って主に訴えた時に、主はこう言われました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

このエピソードは10章25節から書かれているある律法の専門家との問答の中で、主イエスが指摘された律法の言葉、『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』、をよく説明するものとして置かれていると思います。神様を愛するということはどういうことなのかを具体的に教えています。

男性、女性にかぎらず、大切なお客様が来られた時には精一杯もてなす、ということは当然のことでしょう。しかしもてなしにも貪欲さが潜んでいることに気付かされます。マルタは自分のしたいことを必要以上に広げて思い悩み、心を乱してしまいました。何もしないで座っているマリアと比較をして心をいらだたせてしまい、せっかく敬愛するイエス様が来ておられるのに、その喜びが半減してしまいました。マルタの姿に自分を見る思いです。

主イエスの言葉こそが御馳走なのだということをマリアは察していました。全ての人から批判されても聞き続けたマリアを主は守られ、人々に教えます。

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2016年7月31日

ルカによる福音書 10章27〜37節
彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人が・・・追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司が・・・道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人も・・・道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨を二枚取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」・・・「行って、あなたも同じようにしなさい。」

「分け隔てない心と行動力をもたせて下さい」
ルカによる福音書 10章25〜37節

宣教:岡村牧師

本日の聖書の箇所の冒頭に、新共同訳聖書では「善いサマリア人」というタイトルがついています。そのたとえ話を知らないクリスチャンはいないほどですが、このたとえ話はもともとは、主イエスが律法の専門家との対話から引き出した律法の言葉と関わっているものです。

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい。」(ルカ10:27)

上記の言葉の後半の言葉「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉が今日のテーマです。

主イエスとの対話の中で律法の専門家は「では、わたしの隣人とはだれですか?」と質問しました。それに対してイエスが話されたたとえ話が「善きサマリア人」です。もしあなたがユダヤ人なら、生涯決してサマリア人とは関わりたくないと思うほど互いに敵対関係にありました。大昔の侵略戦争の歴史がその根幹にあります。しかし初めは同じ民族であり、同じ神を信じる者同士でした。

たとえ話に出て来る、強盗に襲われて瀕死の状態だった一人のユダヤ人を助けたサマリア人は、当時の敵対関係など知らぬがごとくに淡々と自分のすべきことをしています。憐れに思い、介抱して宿屋に連れて行き安静にできる場所を確保して看護を宿の人にお願いしてその費用も負担しています。「行って、あなたも同じようにしなさい。」という主イエスの言葉は、今の私たちにも呼びかけています。隣人とは思えない、思いたくない人、それこそがあなたの隣人である、と言われる主は、十字架において平和を打ち立てられた我らの救い主です。

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2016年8月7日

ペトロの手紙�� 3章8〜12節
終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。
「命を愛し、幸せな日々を過したい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」

「神の祝福を受け継いだ者として」
ペトロの手紙�� 3章8〜12節

宣教:岡村牧師

「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにああたがたは召されたのです。」(3章9節)

この著者は上記の言葉を述べるにあたって、旧約聖書の詩編34編の言葉を引用して説得しています。「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。」(3章10、11節)

この手紙の宛先は、今のトルコの中央部から北の黒海に面する地域の幅広い地域のキリスト教会の人々でした。その地域もローマが支配する地域で、ローマ皇帝の名の下にキリスト教会やクリスチャン迫害の風が吹いていました。この手紙の執筆年に関しても色々な説がありますが、いずれにしてもキリスト教への弾圧が強くなって来ている状況が読み取れます。キリストを救い主と信じる者であるということが危険を招く社会状況の中で、そこから逃げるのではなくキリスト者としてどう生きていったらよいかを語って励ましています。

悪をしかけてくる人や侮辱する人に対して祝福を祈るなどできるはずがない、と思いますね。全ての憎しみや侮辱を受けて祈りつつ黙して十字架にかかられたイエス様にしかできない、と思うかもしれません。その主は「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と奨励なさいました。

そのことは平和につながることなのです。世界的にテロに襲われる恐怖に怯える時代の中にあって、私たちは神の言葉を知る者として生きようではありませんか。「平和を願って、これを追い求めよ。」 主よ、導いて下さい。

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2016年8月14日

出エジプト記 20章2節、13節
私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。・・・・・殺してはならない。

マタイによる福音書 5章9節
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

「殺してはならない」
出エジプト記 20章2節、13節

宣教:岡村牧師

平和の祭典オリンピックで盛り上がっている8月ですが、この8月に日本では広島と長崎の原爆記念日を迎えました。そして明日は終戦(敗戦)記念日を迎えます。戦後71年が過ぎ、戦争を体験した人々がやがていなくなる時代を迎えます。私たちはどのようにその悲惨さを伝えて、戦争をしないように導いていくことができるでしょうか?

記憶と忘れないようにする努力は、加害者側と被害者側で違うということを如実に感じたことがありました。数年前に中国の北京で宣教師をしているシンガポール人の友人に会いに行ったことがありました。8月ではなく冬だったのに、テレビをつけると日本軍と戦った中国軍を讃えるような番組がいくつもあって驚きました。今でも中国の人々にとって日本は簡単にゆるせない存在なのだ、ということを肌で感じた体験でした。戦争で外国から侵略されて肉親や知人を無惨に殺された体験を持つ人々はそれを子孫に語り継いでいきます。

何度も外国から侵略されたシンガポールは、二度と侵略されない、という決意を固く抱いて国を建設しました。外交を重視して対立関係にならないようにするとともに経済を発展させて軍備を充実させています。

平和ということを私たち教会は、聖書から学びます。「殺してはならない」と神は戒めを与えました。人間が殺しあうことをやめられないことを知って神はこのように言われたのでしょうか。イエス・キリストは「平和を実現する人々は幸いである」と言われ、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」といさめました。

イエス・キリストの恵みを知った私たちは殺すことができないのです。平和を実現する幸いな人々として召されているのが教会であり私たちです。

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2016年8月21日

ヘブライ人への手紙 10章20〜25節
イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。

「集う恵み」
ヘブライ人への手紙 10章19〜25節

宣教:岡村牧師

先週の金曜日と土曜日にかけて北九州の小倉で全国壮年大会が行われました。私は壮年男子ではありませんが、日本バプテスト連盟の「女性牧師・主事の会」からのアピールの手伝いと「阪神女性の集い」という超教派グループが開催する講演会の講師になられたO牧師との打ち合わせのために出席しました。自分が所属する教会での礼拝だけでなく、キリストの御名によって行われる集会に参加する中で、改めて圧倒されるほどの恵みの力を受けたように思いました。

「約束して下さったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。・・・ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。・・・」(ヘブライ10:23?24)

人生の中で人はあるときキリストの福音と出会ったことから信仰へと導かれて神を信じる者となります。しかし私自身のたどった道でもありますが、教会の中で様々なつまずきを感じて教会から遠のくことがありますし、行きたくてもなかなか自由に参加することができない状況に置かれることがあります。しかし神は時を用いて教会の交わりに戻して下さいました。その時、私は自分が教会の人々によって祈られている存在だったということを知ったときでした。

それは今から2000年近くも前の教会の人たちも同じでした。期待していたことがなかなか実現せず、がっかりして信仰を捨ててユダヤ教へと戻っていくことがあったようです。しかしこの手紙の著者は、イエス・キリストの死によって罪ゆるされて神に近く生きるものとなった恵みを示して、励まし合うことを奨励しています。礼拝や諸集会に参加することは、自分のためだけではありません。そのことが他の人への励ましになっていることに気がつきます。

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2016年8月28日

創世記 4章20〜25節
カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」 主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」 主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。

「カインの子孫」
創世記 4章1〜16節

宣教:岡村牧師

今日読む聖書の箇所はカインとアベルという兄弟殺しの物語です。人類最初の人々が、神に背くことと殺人を犯すことだった、というのは衝撃的です。しかもそれらは神を知る人々でした。

アダムとイブは神が創造された最初の人間として聖書の創世記のはじめに出てきます。アダムとイブは神に背いたために楽園を追い出されます。そして二人の間に生まれた子どもが兄のカインと弟のアベルでした。兄は農夫となり弟は羊飼いとなりました。あるときそれぞれに神への献げものをしたのですが、神はアベルの献げものに目を留められた一方で、どういうわけかカインの献げものには目を留められなかったのです。

カインは神になぜなのか問うことをしないまま、その怒りと妬みは弟アベルに向けられて、カインはアベルを殺してしまいます。

なぜ神がえこひいきのようなことをなさったのかはわかりません。後の新約聖書ではこのことを解釈してカインは悪者として表現されていますが、それはアベルを殺したからであって、なぜ神がカインの献げ物をかえりみられなかったのかはわからない領域のことです。

イエス・キリストの死は人間を罪から救う最後の手段として神がご計画されたことでしたけれども、死へと追いやったのは同胞の信仰熱心なユダヤ人たちのイエスに対する妬みであったと聖書は記しています。兄弟を殺したカインの末裔、子孫が私達なのだと聖書は語っているのです。

そんなカインを神は見捨てませんでした。彼を守り導こうとされる神です。どんな状態に陥っていても、神は語りかけて関係をつなごうとされています。

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2016年9月4日

ルカによる福音書 17章15〜16節
イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。 その中の一人は、自分がいやされたことを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。

詩編 95章1〜2節
主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。御前に進み、感謝をささげ 楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。

「感謝に戻って来る人」
ルカによる福音書 17章14〜16節

宣教:岡村牧師

私たちは今日も礼拝に集りました。イエス・キリストにおいて罪をゆるされたものとして礼拝できる恵みを、他の人々と共に感謝して集っています。

今日はルカによる福音書17章11節から19節までに記されている記事の中からの言葉です。重い皮膚病を患っている十人の人たちが、遠くからイエスさま、わたしたちを憐れんでください」と声を張り上げて、いやしを求めました。するとイエスは彼らに「祭司のところに行って、体を見せなさい」と言われました。祭司のところに行く途中で十人全員の皮膚病がいやされたのです。

遠くから主イエスに声を張り上げて呼び止めたのには理由がありました。重い皮膚病の人は社会の人々と接触してはいけないことになっていたからです。伝染するのを防ぐためだったでしょう。社会に出る事を禁じるような病に冒された人は、その病がいやされたときには祭司にいやされた証拠を見せて、お墨付きをいただいてから社会に戻る事ができました。

祭司のところに行きなさいと言われて、まだいやされてもいないのに、といぶかしく思いながらも彼らはイエスの言葉に従ったのです。そして十人全員がいやされたのでした。その喜びはどんなに大きいものだったでしょうか。その喜びの中でどなたがいやしてくださったのかを忘れなかった人がいました。

神を知らなかった時は感謝をささげることができませんでした。しかし異邦人だったこの私たちもイエス・キリストをとおして自分が従うべき神を知りました。ですからどんな時にも神への感謝をささげるものとなっています。どんな力もどんな状況も、我らの神への感謝を妨げることはできません。

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2016年9月11日

ローマの信徒への手紙 12章21節
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

「復讐したい気持」
ローマの信徒への手紙 12章9〜21節

宣教:古田晴彦執事

今日、9月11日は、15年前に全米同時多発テロが起きた日です。当時、私はニューヨークのマンハッタンにいて、このテロに遭遇しました。アルカイダの訓練施設がある、アフガニスタン・タリバン政権へ報復せよとの世論が、アメリカ人の間で日増しに強くなっていくのを目の当たりにしました。アフガニスタンに続き、2003年3月には大義なきイラク戦争が、国連の決議もないまま米英の先制攻撃という形で始まりました。ライフラインやインフラは徹底的に破壊され、人々が普通に生活することができなくなりました。武力攻撃は政治的な混沌状態を生み出し、アルカイダやIS(イスラム国)などの国際テロ組織が勢力を拡大する原因となりました。

「やられたら、やりかえせ」この声はいつでも私たちの心に聞こえてきます。特に、不当な理由で深く傷つけられたとき、私たちはその相手をゆるすことができません。絶対に復讐してやる、そのような気持ちに支配されます。この復讐心、仕返しをしたい気持ちから、私たちはなかなか自由になれません。まさに、奴隷状態です。

私自身、「絶対にゆるせない」「仕返しをしたい」という気持に駆られることが少なくありません。そんな私ですが、実際の報復を行うことは、案外少ないように思います。復讐心を、なんとか抑え込んでいる、そんなことがよくあります。何故それが可能なのでしょうか。おそらく、十字架上でのイエス様の言葉を思い出すからだと思います。

そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」 (ルカによる福音書23:34)

イエス様から「学びなさい」と言われていること、そのことについて考えてみたいと思います。

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2016年9月18日

列王記下 5章13〜14節
しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりになさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」 ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供のようになり、清くなった。

「神の言葉と人のプライド」
列王記下 5章5〜14節

宣教:岡村牧師

今日は予定では列王記下5章19節bまででしたが、今日と来週に分けて取り上げることにしました。

どんな英雄や勇者でも勝てないものがあります。病です。今日登場するナアマンという人物はイスラエル民族の人ではなく、敵対するアラムの国の人でした。彼は軍司令官をしており、アラムの王様の厚い信頼を受けている人でした。病は重い皮膚病で、そのいやしのためにイスラエルの預言者エリシャのもとに行きました。

その頃イスラエルはアラムよりずっと弱い国でしたので、イスラエルの預言者エリシャも、ナアマンに対しては平身低頭の態度で接してくるだろうと思っていたところが、エリシャはナアマンに会いもせず、ただ「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。」と人を介して言葉を伝えただけでした。

ナアマンはプライドを傷つけられて怒り心頭で去って行こうとしました。ところが家来たちが彼をいさめてとりなし、ナアマンは預言者エリシャの言葉に従ってヨルダン川に行って身を七度浸したのでした。そして奇跡は起こったのでした。

彼は自分のプライドや思いこみのせいで、せっかくの機会を逃してしまうところでした。賢い家来たちの助言の言葉があったことで彼は命拾いしました。

この物語は私たちに、空しいプライドのゆえに大切な命に関することまで逃す危険に陥ることがある、と教訓を与えています。イエス・キリストにおける救いも然りです。罪は全ての人に巣食う病と言えます。私たちは自分の内側に生じてくるプライドや思いこみが邪魔をして、切に求めているはずの神からの導きや救いの道を逃してしまうことがあるかもしれません。そうならないためにはどうしたらよいのでしょうか。それもご一緒に考えてみたいと思います。

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2016年9月25日

列王記下 5章17c〜19a節
「・・・僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。ただし、この事については主が僕を赦してくださいますように。わたしの主君がリモンの神殿に行ってひれ伏すとき、わたしは介添えをさせられます。そのとき、わたしもリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように。」
エリシャは彼に、「安心して行きなさい」と言った。

「安心して行きなさい」
列王記下 5章15〜27節

宣教:岡村牧師

先週は、敵国の異教徒で軍司令官のナアマンが、預言者エリシャの言葉に従った時に、願っていた病がいやされた箇所を読みました。

人のプライドや思いこみが、いかに自分を神の恵みからそれさせてしまうかを学びました。神が人に求められるのは難しい事ではなく、とても易しいことのゆえにかえって人は新しい一歩を踏み出す事をやめてしまうのではないかということをイエス・キリストの恵みと照らしてお話いたしました。

異教徒のナアマンが信仰を得たのは、神の言葉を与る預言者エリシャの言葉を受けて従ったことからでした。彼は神の奇跡を体験したときに、神を信じました。異教の神々を信じる地でどのようにして信仰を維持していくことができるでしょうか。ナアマンは自分が仕える王様の前を去ってエリシャの住む地に移り住むことを選んだわけではありませんでした。今自分がいる場所で唯一の神を信じる信仰をもって生きることを決断しています。

今日はその後のエリシャの従者ゲハジのとった行動の箇所も読む事にしました。異教の神々を信じていた人の回心と自分の現状と願いを率直に申し出る姿には清々しいものを感じます。一方で力ある預言者の従者として恵みの中にいた人が主人を騙し、客人を騙して富を得て蓄えようとした姿に目が留ります。ゲハジがその後どのように生きたのか、ナアマンがその後どのように生きたのかはわかりません。

エリシャがナアマンに最後に言った言葉は「安心して行きなさい」でした。この言葉はその時代から700年後に登場される救い主イエス・キリストが苦しむ病から解放された人に語られた言葉です。私たちはキリストの死と復活の後に生きる幸いな存在です。「安心して行きなさい」という言葉が今日も励ましてくれます。

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2016年10月2日

使徒言行録 16章25〜31節
真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外に連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。

「讃美の力」
使徒言行録 16章20〜40節

宣教:岡村牧師

共に讃美の声を響かせながら礼拝をするのは、キリスト教会にとっての大きな喜びです。人数が多くても少なくても讃美の声は神に届きます。

歌うことをキリスト者は讃美する、と表現します。メロディに合わせて歌う内容は、聖書の言葉や時々の人の神への思いがこめられています。讃美は喜びも悲しみも苦しみも痛みもすべてご存知の神に聞いていただく祈りでもあります。

今日の聖書のお話は、パウロとシラスが神の力によって伝道していたときに、無実の罪で捕えられて牢屋の中にいる時のことです。政府のお役人たちは、訴えの事実の根拠を調べもせずに、周囲の群衆の大きな声に動かされて彼らを満足させるかのように、拷問をして足枷(あしかせ)をはめて牢に閉じ込めました。

パウロとシラスは、どんな気持だったでしょうか。神がおられるのならどうしてこんなひどいめにあうのか、と思ったかもしれません。ところがこのことを通して神の御業が起こされるのです。その最初のきっかけが、パウロとシラスが囚われの牢の中で神への讃美の歌をうたって神に祈ったことでした。

その歌の内容はどんなものだったのでしょうね。彼らの讃美の歌、祈りを他の囚人たちが聞き入っていた、と記されています。それからあり得ないようなことが起こるのです。パウロとシラスが信じる神こそが恐れるべき神であると知った看守は二人にこう聞きます。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言います。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」 そして二人は神の言葉を語り、その家族もまた主を信じる者となるのです。それだけではありませんでした。権力者である政府の高官たちの間違いを公に認めさせるように神は導かれるのです。その神が私たちと共におられます。

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2016年10月9日

出エジプト記 20章12節
あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
20章2節
わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

「あなたの父母を敬え」
出エジプト記 20章12、2節

宣教:岡村牧師

十戒のことばを時に応じて一つづつ取り上げてお話ししてきました。十戒の時代背景は今より3000年以上前のことです。おびただしい数のイスラエル民族の人々がエジプトで奴隷だった状況から神の導きで脱出しました。数には入れられなかった女性や子どもたち高齢者、外国籍の人々を入れての第所帯が難民として40年間も旅をすることになりました。

何度もくり返し神を裏切る不信仰の連続の旅は、神による教育の旅ということができると思います。出発したときに40才だった人は、カナンの地に着く時には80才になっていました。途中で病気になったり死んでしまった人もいたでしょう。リーダーのモーセすらも神が導かれた約束の地には入ることはできなかったのです。

そのような旅の中で与えられた神からの基本的なルールの十戒は、前半が神と人との関係、後半が人と人との関係についての基本的教えが記されています。今日読んでいただいた「あなたの父母を敬え。」という戒めは前半の神と人との関係のルールにも、後半の人と人との関係のルールにも関わるものです。

どんな勇者も賢者も年齢とともに全てが衰えていきます。合理的な考え方はいつの時代でも力を持ち、役に立たない人や仕事の効率が悪い人や障がいがある人々はいなくてもよい、という考え方に流されそうになります。そんな中で、神から人に与えられた十戒の真ん中にこの言葉があることは重要です。キリスト者は神によって新たに生まれました。生物学上の父母はいなくても、私たちにはキリストを通して神が父であり母でもあります。旅の中で足手まといになる人々を神は置き去りにはされないのです。共におられる神だからです。

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2016年10月16日

ローマの信徒への手紙 13章8〜10節
互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。
マタイによる福音書 7章12節
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

「神を愛すことと人を愛すことの関係」
ローマの信徒への手紙 13章8〜10節

宣教:岡村牧師

神の最初の選びの民であるイスラエル民族の人々にとって、律法は信仰生活のよりどころでした。生活のあらゆる場面で律法は生きておりました。律法を破らないようにすることが人生の中心的命題になっていた中で、主イエスが最も大切な律法はこれに集約されるとしてとして言われたのが「神を愛しなさい。隣人を愛しなさい」というものでした。

主イエスの福音をパウロは自分の言葉で語っています。「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。…」(13:8〜9)

今日読んでいただくローマの信徒への手紙13章8?10節の言葉の前には、教会と国家についてパウロの考えが記されています。人々はローマ政府に対する様々な税金を支払わねばなりませんでした。ローマの教会には自分たちの国でもないローマに多額の税金を納めることに納得できない人々がいました。それをパウロは借りを作っているとして、借りは互いに愛し合うことにおいてだけです、と語るのです。焦点を主イエスが大事にされた、愛することの意味へと導いています。

「人を愛する者は、律法を全うしている」とパウロは言います。「愛する」とは人を感情的に好きになることではないでしょう。イエス様がおっしゃった黄金律の言葉を思います。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」 神を愛することと人を愛することは二つの別々のことではないことに気がつきます。

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2016年10月23日

エゼキエル書 37章1〜6節
主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」 わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」
ローマの信徒への手紙 4章17節b
彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。

「無から有を呼び出される神」
エゼキエル書 37章1〜9節

宣教:岡村牧師

今日は召天者記念礼拝として行います。神はどの人のことも生きている時も死んでから後もお忘れにならない神です。しかし本日の礼拝はこの宝塚バプテスト教会で教会員として苦しみも悲しみも共にして過ごして先に神の元に召された方々のことを特に覚えての礼拝となります。

旧約聖書のエゼキエル書はイエス・キリスト誕生より600年ほども昔の話ですが、イエス・キリストの死と復活を知って信じる我々は、イエス・キリストの福音を通して読みます。神の祝福のご計画が初めから変らずに貫かれていることに気がつきます。そのことを今日の礼拝で招詞に選ばせていただいた新約聖書ローマの信徒への手紙4章17節bの言葉が表していると言えると思いました。

「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。」(口語訳聖書)

この「無から有を呼び出される神」という言葉が皆さんの心にも響いてほしいのです。新共同訳聖書では「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」と訳されています。

エゼキエル書37章はエゼキエルという預言者が祈りの中で霊的な幻を見たことが書き記されています。おびただしい数の死者の骨が神の言葉を通してつなぎ合わされて霊が吹き入れられて生き返る、というビジョンです。これは昔々のことではなく今の私たちのことを表している、と読むことができると思うのです。無から有を呼び出される神によって教会があり私たちがいます。

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2016年10月30日

ローマの信徒への手紙 3章21〜24節
ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
27〜30a節
では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。それとも神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。

「まことのただという恵み」
ローマの信徒への手紙 3章21〜31節

宣教:岡村牧師

10月の終わりというと、日本でもハロウィーンのお祭りが知られて広がっていますが、キリスト教とは関係のないケルト民族の悪霊払いのお祭りです。教会暦を重んじるキリスト教会では、10月31日はマルチン ルターの「宗教改革記念日」として覚えられています。

ルターが堕落していたキリスト教会に対して95箇条の質問状を貼付けてその姿勢を問うた出来事が起こったのは1517年のことでした。ルターの時代に一般の人々は自分で自由に聖書を読むことができませんでした。聖書はギリシャ語やヘブライ語、ラテン語で書かれており、特別な学びをした教職者しか読めなかったので、教会に集る人々は一方的に聖書の言葉を聞いてメッセージを聞くだけの立場でした。ルターは自国語のドイツ語に聖書を訳して人々が自分で聖書を読むことができるようにしたのです。

ルターの宗教改革によって、プロテスタント教会が生れ、「聖書のみ」「信仰のみ」「万人祭司」の三大原則が確立されました。

今日の聖書の箇所では、パウロの言葉として「信仰義認」がはっきりと書かれているところです。こんなにもはっきりと神の義と人の信仰との関係について書かれているのに、キリスト教会はこの言葉をゆがめて受け取り堕落した時期があり、ルターも聖書の言葉が心に響くまでは、わからなかったのでした。

「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。・・・私達は、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。」(ローマ3:23?30より)無償で価値あるものをいただくことに抵抗がある私達でありましょう。お返しできない恵みです。感謝していただくしかない恵みを神はイエス・キリストを通して私達にくださいました。

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2016年11月6日

出エジプト記 20章1〜6節
神はこれらすべての言葉を告げられた。
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。
わたしは主、あなたの神、わたしは熱情の神である。・・・」 わたしを否む者には、父母の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。

「唯一無比の神」
出エジプト記 20章1〜6節

宣教:岡村牧師

教えてくれる人がいなければ、あるいは教えてくれる言葉がなければ、私は神が唯一無比の神であるということを知るまでにもっと時間がかかったでしょう。私にイエス・キリストを通して神を伝えてくれた人もまたその人に伝えた人がいて神を知ったのです。このようにしてずっとたどっていくと、神に行き着きます。神御自身が御自分がどなたなのかを人間に教えてくれなければ、人は神がおられること、神とはどのような神であるかをはっきりと知ることができなかったでしょう。人が考えて創り出した神ではないのです。神がおられて御自身で存在をあらわされたからこそ人は神を知り、信仰を得ることができました。神の啓示が初めにあったのです。

今日読む十戒の前文と第一戒の言葉は旧約聖書、新約聖書を通して貫かれている神の言葉です。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」 この言葉は私達が生きていく生活の中でどういう方向を与えるのかが、その後に具体的に記されています。その具体の最初は第二戒となっているものです。

「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神、わたしは熱情の神である。・・・」

「?してはならない」という否定語がつくと反発したくなってしまいますが、このような具体的な言葉がなければ人は神の御意志がわからなかったでしょう。私達の主イエス・キリストは律法を別の言葉で教えてくれました。

神を愛するがゆえに主の名で祈ります。今日も友と共に主の晩餐に与ります。

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2016年11月13日

マタイによる福音書 25章24〜27節
ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧下さい。これがあなたのお金です。』 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰ってきたとき、利息付きで返してもらえたのに。』
ペトロの手紙I 4章10節
あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理人として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。

「あなたに委ねられた少なくとも5千万円の賜物」
マタイによる福音書 25章14〜30節

宣教:岡村牧師

ちょっといやらしい題名にしたものだ、と我ながら思います。神様の賜物をお金に換算するとは・・・と思いますが、このたとえ話しは莫大な額のお金にたとえて、主イエスがなさった神の国に関するたとえ話として記されています。

この世で行われるどのような事柄も神の前にやがて最後のときが来れば一切が明らかになり神の公正な裁きが行われる、ということが旧新約聖書を貫いて書かれています。イエス・キリストの愛によるゆるしを受けることが一切の鍵になることが記されていますが、神の国がどのような国なのか誰も詳しく知る人はいません。神の子として神の国のことを人々に知らせたイエスの言葉です。

このたとえ話の冒頭で、主イエスは「天の国は次のようにたとえられる」として話しています。天の国とは神の国のことです。主人は神を表していると考えられます。神様が不在のときにその財産の一部をそれぞれの額を預かった人々の行動や考えが描かれています。

財産を与えられたのではなく預けられた3人の人々のその額は違いますが、お互いにどれだけ預かったのか知らない、という想定で読んでいきたいと思います。神の国は互いを比較し合い競争しあう世界ではないはずだからです。

3人のうちの二人はそれぞれすぐに出かけて行き、主人から預かったものを元手にしてそれぞれ利益を得ました。ところが一人は、出かけて行ったのですが誰も知らないところに穴を掘ってそれを埋めて、主人から預かったものを隠しておき、主人が帰ってきた時にこう言いました。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。」この人の何が問題だったのでしょうか? 共に考えてみます。

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2016年11月20日

ルカによる福音書 12章22〜34節(抜粋)
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。・・・・・信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しをしなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」

「小さな群れよ、恐れるな」
ルカによる福音書 12章22〜34節

宣教:岡村牧師

今日のメッセージ題の「小さな群れよ、恐れるな。」という言葉は、ルカによる福音書12章31節の主イエスの言葉です。信仰をもって読むとき、主イエスのこの励ましの言葉は、今の私たちの教会にまで届いてきます。

今日読んでいただく箇所は、マタイによる福音書6章25節から34節に平行箇所があります。「何よりもまず、神の国と神の義をもとめなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから,明日のことまで思い悩むな・・・」と主イエスはマタイ福音書で語っています。

一方でルカ福音書では「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない富を天に積みなさい。・・・」と記されています。

これからクリスマスを迎えますが、救い主が生まれることを知らせた神の使いもまた「恐れるな。」という言葉とともに人々に現れます。「恐れるな」という言葉が用いられている意味を考えます。

招詞で呼んでいただく言葉もこう呼びかけます。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府(よみ)の鍵を持っている。」(ヨハネ黙示録1章7c, 8節)

今年の日本バプテスト連盟の定期総会に宝塚バプテスト教会の代議員として出席してきました。例年になく女性代議員が多く、発言も活発で大変励まされる総会でした。み言葉と祈りに励まされて、辛い内容の議案についても率直に熱心に協議しました。そのテーマも「小さな群れよ、恐れるな」でした。

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2016年11月27日

コリントの信徒への手紙II 5章17〜19節
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。

「和解の務め」
コリントの信徒への手紙II 5章17〜21節

宣教:岡村牧師

今日からアドベント(クリスマスまでの待降節)に入ります。そして毎年この時期に日本バプテスト連盟に連なる諸教会は「世界バプテスト祈祷週間」を迎えます。特に国外伝道のために遣わされている宣教師の方々を覚えて祈り、献金をささげます。現在日本バプテスト連盟では、インドネシア、カンボジアに二組4名の宣教師とルワンダにミッションボランティア1名、シンガポールにミッション・コーディネーター1名の方々を送っています。

イエス・キリストの死と復活の出来事が起こり、キリスト教会が生まれました。パウロから国外伝道が始まりましたが、イエス・キリストの死からの復活という特異性と唯一の神のみを信じるその姿勢からローマ帝国では脅威とされ迫害されました。しかし伝道が止むことはありませんでした。

今日の箇所でパウロは語ります。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(コリント�� 5章17-18節)

パウロによれば、キリストを信じるということは神との和解へ導かれたということなのです。キリストを信じた者は神から生まれた新しい命に生きる者となっているのです。そして神と和解した者は、和解の使命が与えられるというのです。

神は何と大胆なお方でしょう! 神が人を信頼してその働きを委ねてくださるのです。神が共にいて助けて下さることを神は人に経験させたいようです。失敗も無駄にはならないのです。私たちが一歩踏み出すことからが始まりです。

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2016年12月4日

ルカによる福音書 3章23〜38節(抜粋)
イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、マタト、レビ、メルキ、ヤナイ、ヨセフ、マタティア、・・・ナタン、ダビデ、エッサイ、オベド、ボアズ、・・・ユダ、ヤコブ、イサク、アブラハム、・・・セム、ノア、レメク、・・・エノク、・・・セト、アダム。そして神に至る。
マタイによる福音書1章1〜17節(抜粋)
アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、・・・サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、・・・マタンはヤコブを、ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。

「系図に見る神の子」
ルカによる福音書 3章23〜38節

宣教:岡村牧師

クリスマスまでの待降節の第二週を迎えています。今日はイエス・キリストの系図を取り上げます。ルカによる福音書3章にある系図です。

系図は家系を証明するものですので、正当性が重視される世襲の王様や祭司の系図は重要でした。マタイによる福音書では冒頭にイエス・キリストの系図が置かれています。マタイでもルカでもそこに出て来る名前の人が誰なのか知らなければつまらないだけですが、全部は知らなくても聖書を読んで知っている名前をいくつか見つけられますか?

ルカのほうの系図とマタイの系図とを見比べていると、色々な違いをみつけることができます。まずマタイでは旧約聖書のアブラハムから始まって主イエスまでという書き方ですが、ルカによる福音書では主イエスから始まって、溯ってアブラハムに至る書き方です。

そしてルカ福音書ではアブラハムで終っていないのです。アブラハムの前のノアやアダムの名前まで記されています。そして最後にこうあります。

「そして神に至る。」 イエスは神から生まれた神の子ですが、父親として育ててくれたヨセフは普通の人間ですしヨセフ以前の先祖たちも王様がいても神ではない普通の人々です。

ところで今日の招詞にはこうあります。「…時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」

救い主イエス・キリストがこの世に誕生なさったことは、今の私たちを救うことであり、私たちを神の子どもとしてくださるためであるのです。感謝!

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2016年12月18日

ルカによる福音書 1章45〜56節
「…主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」 そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」 マリアは三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

「神と共に、人と共に」
ルカによる福音書 1章39〜56節

宣教:岡村牧師

次週のクリスマス礼拝を前に、今日はマリアがエリサベトを訪問した時のことが書かれている箇所を選ばせていただきました。

ルカによる福音書には、詳しくイエス・キリストの降誕物語が記されています。神が救い主をこの世に送るためにどのように準備をなさって、どのような人々を用いてその偉大なことが実現したのかが記されていて、惹き込まれます。

神の子イエスの誕生に関わる人々が登場しますが、それらの人々が特別な信仰深い素晴らしい人々であるということではなくて、神がどのようなお方であるかということが人々の様々なドラマを通して見えてくるような気がします。

今日はマリアの受胎告知があった後のことが描かれているところを読んでいただきます。マリアは天使との会話の中でエリサベト叔母さんが年をとっているにもかかわらず子どもを宿したことを聞いて、自分が住んでいるナザレから叔母さんのいるユダの山里まで出かけました。
エリサベトの言葉はマリアに起こった神の御わざがわかった人の言葉です。次のエリサベトの言葉はマリアに対する祝福の言葉で、心に響きます。

「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

その言葉を聞いて、マリアの讃歌が始まります。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。・・・」

マリアから神を誉め称える言葉がほとばしり出るまでに、神はエリサベトという同じような神の不思議を体験した人をマリアに備えてくださり、勇気と励ましを与えて育ててくださいます。神は交わりに生きることを導かれます。

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2016年12月25日

マタイによる福音書 2章13〜23節(抜粋)
占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。
さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。

「悲しみの救い主」
マタイによる福音書 2章13〜23節

宣教:岡村牧師

メリー クリスマス♪
救い主イエス・キリストの御降誕
おめでとうございます!

2016年も共にクリスマスを祝うために集ることができました。今日、病や高齢やその他の事情で、参加できない方々のことを覚えながら、共に過ごしたいと思います。12月23日のキャンドルライト・サービスでは、初めての方々や久し振りの方々が大勢集ってくださり、聖歌隊のリードのもとに、クリスマスにちなんだ讃美歌を皆でたくさん歌うことができました。喜びが増し加わりました。

イエスが生まれたときの時代背景は決して安全な平和なものではありませんでした。今日読んでいただく箇所は、イエスが誕生したときの社会状況を描いています。直接の支配者であったヘロデ王の残酷さが際立つ内容です。東の方から来た占星術の学者たちをとおしてヘロデ王が、イエスがユダヤ人の王となるという情報を聞いたことから疑心暗鬼に陥り、ベツレヘムと周辺一帯にいたイエスと同じ位の年頃の赤ちゃんを全て殺戮するという事件が起きました。

命を狙われて、エジプトへ避難してそこで外国人として生きる経験をしました。イエスは嬰児か幼児だったので、そのようなことは覚えていないかもしれません。しかし後に両親から色々な状況を聞いたことでしょう。その悲しみや苦しさはいかばかりだったでしょうか。私たちの救い主は、御自身も人として悲しみや苦しみを味わい尽くした方です。あなたをはじめ全ての人を絶望の闇から救うために死ぬ使命を与えられて神の子イエス誕生します。神に感謝します。

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2017年1月1日

フィリピの信徒への手紙 1章9〜11節
わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

エレミヤ書29章11節
わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。

「重要なことを見分けられる愛」
フィリピの信徒への手紙 1章9〜11節

宣教:岡村牧師

主の年2017年、
あけましておめでとうございます!

先週はクリスマス礼拝でした。神の愛が具体的に、救い主イエス・キリストが降誕されることで表されたことを祝いました。そして今日は多くの人々が大切にしている新しい年の初日です。1週間前にクリスマスがあったことで、神の愛が先立って導いてくださっているようなイメージをもって始めたいと思います。

 今日選ばせていただいた箇所は、パウロがヨーロッパで初めて伝道して生まれたフィリピ教会の人々に対して祈った祈りです。

「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。・・・」

主語が「あなたがたの愛」であるわけですが、この「愛」はギリシャ語の「アガペー」という言葉が用いられていますので、神の愛をあらわしています。神の愛はすべての人に注がれているものですが、それに気付いて受け入れた人々が集るのがキリスト教会で、神の愛を知らせる役割を世の終わりまで受けています。

私たちの生きている世界は情報が錯綜し、何をどのように信じたら良いかわからなくなることもあります。そして自分に降りかかる様々な困難に出会うとき、どのように生きていったらよいのか途方に暮れます。重要なことを見分けられるにはどうしたら良いでしょうか。 色々迷うことがあっても救い主キリストがおられることが確かなことです。主のご臨在を信じる1年でありますように。

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2017年1月8日

マタイによる福音書 3章13〜17節
そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。
彼から洗礼(バプテスマ)を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼(バプテスマ)を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」 しかし、イエスはお答えになった。「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」 そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼(バプテスマ)を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

「主イエスはバプテスマ(浸礼)からはじめた」
マタイによる福音書 3章13〜17節

宣教:岡村牧師

主の年2017年が始まりました。今年もどうぞよろしくお願いします。

イエス・キリストにあらわされる神がどのようなお方かを知る事は、自分がどのような者でどのような存在であるかを知る事でもあります。信仰や希望に優って大切なものは愛である、と聖書でパウロは言いました。愛はすべてを完成させるきずなであるとも言います。神の愛を知る最も基本は具体的な人となられたイエス・キリストを知る事から始まります。今年もあらゆることにおいて神の愛を見いだしていくことができるものとなりたいと思います。

マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書はイエス・キリストの言葉や行動が記されています。ルカによる福音書3章23節によりますと、主イエスが宣教を始めたのは30歳ごろだったと記されています。生まれてからそれまでの間のことはルカによる福音書2章にイエスが12歳のときに神殿に行ったときのことが短く書かれているだけです。

主イエスが公に姿を現したのは、ヨハネからバプテスマ(浸礼)を受けるという場面からです。このことから主イエスの伝道活動が始まります。

真の神にして真の人であるイエスは罪と無縁の方でしたので、ヨハネの悔改めのバプテスマを受ける必要は無かったのです。しかしここでイエスが「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と述べてヨハネから受けました。この事の意味を共に考えたいと思います。外側から見ればヨハネよりも下に見られることであり、罪人と見なされることでした。神の御座から降ってこられたイエスさまに従う教会でありますように。

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2017年1月15日

ヨハネによる福音書 3章21〜27節
マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と行った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

「死んでも生きるいのち」
ヨハネによる福音書 11章17〜27節

宣教:岡村牧師

今日が愛する家族が神に召された記念日という方々がおられます。また、あさっての1月17日は22年前の阪神・淡路大震災で亡くなられた6434名の方々をはじめ未だに苦しむ方々を覚える日としています。

あさってここで10時半から行われる「1・17祈念礼拝」には皆さんに出席していただきたい気持です。平日ですがご都合がつく方はどうぞ出席してください。

私たち人間が克服することができない最大の敵は「死」です。どのような死に方であれ誰もがいつかは死ぬのです。ところが聖書では、キリストによって最後の敵として死が滅ぼされると語っています。(コリント��15 :26参照)

今日よんでいただいた箇所で、イエスはマルタにこのように言われます。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

肉体の命だけではない霊の命という表現でも的確ではないでしょうけれども、私たちの知る死が全ての終わりではないことをイエスは示唆しています。この問いに関して問われたマルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」 彼女は自分が今信じていることを告白しました。私たちも問われているように思います。「このことを信じるか?」と。死を越えて主イエスは私たちを救い、生きる希望を与える神です。

だから痛む他者と共に生きる勇気と愛が神から備えられて生きていきます。

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2017年1月22日

マタイによる福音書 9章22〜26節
「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」 そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後からイエスの服の房に触れた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。 「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。このうわさはその地方一帯に広まった。

「嘲笑の中で」
マタイよる福音書 9章18〜26節

宣教:岡村牧師

先週は大雪が降り、出席者は少なかったですけれども、いつものように礼拝をすることができ、主イエスとマルタの対話から、私たちの命がこの世限りの存在ではないことをあらためて心に刻みました。その二日後に関西地方教会連合主催の「1・17祈念礼拝」をこの礼拝堂で行ない、6434人の死者と未だに苦しみや悲しみを背負いながら生きている方々のことに思いを馳せながら、礼拝しました。終ってからの温かい豚汁とおにぎりの昼食をいただきながら、「共に」、という中に生きていることを感じて、私は感謝で溢れました。

私たちの人生において命を失うようなことは予想がつきません。世界で起こっている悲惨な状況を知るときに、今ここに自分が生きていることの意味を考えさせられます。ラザロが死んだときに、マルタもマリアもそれぞれに同じことを言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」

その主は全ての人が神により救われる為に、全ての人の罪を背負って死なれた神であります。神御自身の一方的な救いの故に、私たちの目には見えなくても今もここにいてくださることが実現しているのです。それゆえに礼拝します。

今日の箇所も人が死んだことが記されています。死んでもなおイエスが来て祈って下さったら大丈夫と信じる人と、長年の病の苦しみから解放されたいと願う人のいやしが起こったことが記されています。人々の嘲笑の中で、神の御わざが起こりました。今この世の命があるこのときに、イエス・キリストと自分との関係を知り、深め、信じて生きることができますように。憐れみ深い主なる神はあなたの願いの必死さにきっとお応えになるお方です。

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2017年1月29日

マタイによる福音書 5章13〜14節
あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。

ヨハネによる福音書8章12節
イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

「地の塩としての世の光」
マタイよる福音書 5章13〜14節

宣教:岡村牧師

今日の箇所は2016年に2度とりあげている箇所ですが、改めて、地の塩の部分に焦点を当ててとりあげたいと思いました。

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によて塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」(マタイ5:13〜14)

主イエスの言葉を聞くために集っていた弟子たちをはじめ人々に対して、「天(神)の国」の民について語ります。「心の貧しい人々は、さいわいである、天の国はその人たちのものである。」という言葉からはじまる一連の言葉の中に、今日の言葉も含まれています。

イエスは、神の言葉を聞きに集まりそのように生きようと願う人々の存在はこういうものである、と宣言しているのです。「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」 イエス・キリストの生き方死に方を聖書から私たちは知る者です。イエスに従う人々が地の塩として使命に生きることで世の光なのだ、と私は理解しました。

光も塩もなくてはならない存在です。それなしには人は生きることができないほどのものです。キリストを信じる人々、キリストの言葉に聴き祈り求める人々は、この世になくてはならない存在なのだとイエスは言われるのです。神の御心にかなわないことばかりの私たちですが、神の愛を知る者として歩みます。

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2017年2月12日

マタイによる福音書 12章22〜32節(抜粋)
そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。・・・・・・・
だから、言っておく。人が犯す罪や冒?は、どんなものでも赦されるが、"霊 "に対する冒?は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」

コリントの信徒への手紙 4章4b〜5節
わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。・・・・・・・

「罪を赦し、裁く権威をもつ方」
マタイによる福音書 12章22〜32節

宣教:岡村牧師

今日の箇所は、難しい内容です。悪霊に取りつかれて身体に障がいを負った人をイエスはいやして助けました。驚くべき奇跡が起こったのです。それを神の業だと畏敬をもって感謝せずに、その奇跡は悪霊によるものだとした人々がいました。イエスはその論点のおかしさを糾したうえで最後にこうおっしゃるのです。

「…人が犯す罪や冒?は、どんなものでも赦されるが、"霊"に対する冒?は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることはない。」(マタイ12: 31-32)

この言葉の解釈について色々に議論されてきた言葉ですが、誰がはっきりわかるでしょうか。私たちは神ではないのでわからないですけれど、自分なりに理解することがゆるされていることは幸いです。しかしその理解を絶対化するのではなく一つの理解に過ぎないと思う謙虚さは持ち続けるべきでしょう。

"霊"と聖霊は同じです。「聖霊」という言い方は、イエス・キリストが死んで葬られて三日目に復活した後に働かれる見えない神のことを指します。「父・子・聖霊なる神」という表現がありますように神は三位一体の神であり聖霊として今共におられる目には見えない神です。

イエスはファリサイ派を厳しく批判していますが、彼らが滅びたらよいとは思っておられないのです。私たちがキリスト・イエスを信じていることがどれだけ幸いかいつかそれぞれ分かる時がきますように。導かれる神に感謝します。

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2017年2月19日

マタイによる福音書 13章44〜50節
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、色々な魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

「神の国のたとえからわかること」
マタイによる福音書 13章44〜50節

宣教:岡村牧師

自分の国がなく他国の人々から支配されている状況下にある人々にとって自分の国を持つということは悲願であり憧れであったのです。しかし主イエスが語られたのは神の国のことでした。たとえ話を用いてイエスが神の国のことを伝えようとしていますが、おそらく当時の人々のように私たちにも終末が来る時までははっきりとはわからないままなのです。

「天の国は次のようにたとえられる。」という言葉ではじまる3つのたとえ話が今日読む箇所に記されています。天の国というのは神の国と同義で、神という言葉を用いることを畏れたユダヤ人への配慮の言葉です。「天の国」つまり「神の国」は神が直接支配なさるところであり、事態のことです。それは終末の時に受け継ぐべきものであるとともに、今在るものとして聖書の中で表現されています。

最初の2つのたとえ話は神の国について全財産と引き換えにしても良いほど価値があるものとしています。その価値あるものは隠されているのです。

3つ目のたとえ話に、世の終りと神による裁きがあることが記されています。神の目に悪とされる存在の事は今はわからなくて一緒のままにあるのだけれども、神の時がくるとはっきり別れるのだというのです。神の裁きは恐いです。しかし鍵はイエス・キリストだということが聖書を通して語られています。私たちにイエス・キリストへの信仰が与えられている事がどれほどの宝なのか今はよくわからない私たちです。神の国は神との関係だけではなく人々との関係の中にあらわされるということも覚えていたいと思います。

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2017年2月26日

ヨハネによる福音書 15章12〜17節
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているのか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではないわたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの何よって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。

「愛し合う友という関係を教える神」
ヨハネによる福音書 15章12〜17節

宣教:岡村牧師

ヨハネによる福音書の15章を含む13章から17章は弟子たちだけを対象にした活動や言葉になっています。今日は15章の中から「互いに愛し合いなさい。」という言葉で最初と最後をくくっているところを読んでいただきました。愛し合うという言葉は教会以外では馴染まない言葉かもしれません。

イエス・キリストの言葉は最初から最後まで全てが心に留める価値のある言葉ですけれども、十字架につけられて死ぬ前の言葉は、弟子たちにとって後で振り返るときに非常に重いものがあったと想像いたします。またイエス御自身も十字架を前にして弟子たちが後にこれらの言葉を思い出してほしいという思いで語られたでありましょう。互いに愛せよという命令の言葉は13章にも出てきていますが、15章12節を見ると「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい。」とあります。そんなこと絶対無理です、と思います。イエスが弟子たちを愛したように愛し合うなど、できるわけがありません。友のために自分の命を捨てるほどの愛を示された救い主です。

13章から読んでいくとこの15章までの間にユダの裏切りの予告や、ペトロが離反することも予告をされています。イエスを中心にまとまっていた共同体がイエスの十字架の捕縛と死によってばらばらになってしまう危険があることをイエスは心配しておられたでありましょう。友として愛してくださる主の言葉は今の私たちにも及ぶ言葉です。主イエスが愛している人を友として愛するのが教会の姿です。罪故に愛されるはずがなかった私たち人間を愛し通された主を知る私たちです。できなくても主に助けを求めて祈りながら、主の御跡に従って生きようとしていきます。そんな教会を主はきっと導かれます。私たちが思うようにではなくても。

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2017年3月12日

ローマの信徒への手紙 12章14〜15節
あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く教会」
ローマの信徒への手紙 12章14〜15節

宣教:岡村牧師

教会の皆様のお祈りとご奉仕の素晴らしさをこの度、味わわせていただきました。2月26日前から皆様の様子を拝見しながら、ずっとこのローマの信徒への手紙12章15節の言葉、「喜ぶ人と共に喜び…」という言葉が胸に去来していました。この教会の信仰をその言葉が表しているように感じていたからだと思います。

ローマの信徒への手紙はパウロがこれから行こうとしているローマの教会宛てにコリントから書いたものです。パウロはイエス・キリストへの信仰によってのみ神の救いは実現すると説きました。伝統的な諸行事を守ることや律法を守ることによって救われるのではないのですが、神のその大いなる恵みに接した者は、神への感謝からキリストに倣う生活へ導かれるものであることも確かなことです。もちろん不完全なのですが。

ローマ皇帝によるクリスチャン迫害は始っており、パウロも殉教するのです。日本でもクリスチャン迫害が起こりました。現在遠藤周作の「沈黙」を原案とした映画が上映されていますが、休暇中に、激しい迫害が起こった長崎の外海地区の切支丹の集落を尋ねました。

「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」

これはイエス・キリストがこの地上におられたときの姿です。私たちがキリストを信じたからといって常にできるものではないでしょう。しかしこの言葉を知って無視もできません。神に助けを求めつつ他者と関わり続ける教会です。

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2017年3月19日

マタイによる福音書 25章31〜40節
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

「死を目前にした主イエスの警告と励まし」
マタイによる福音書 25章31節〜26章5節

宣教:岡村牧師

私たちは先のことが見えません。自分の将来がどうなるのかわからないからこそ生きていけるものであるとも言えます。しかし人は先を見たいし見ようとするので、占いなどが商売として出て来るようになります。しかしイエス・キリストを救い主と信じる人は、神の言葉に信頼します。

主イエスは弟子たちをはじめ人々の質問に答えてこれから起こることを話されました。世の終わりがやがてくること、そのときに神の裁きが世界の全ての人に対して行われること、救われて永遠に神と共にある命を得る人と、永遠に神から離されてしまう人がいることを伝えています。

今日読んだ箇所は主イエスの言葉で、羊と山羊に分けるというたとえを用いて分かりやすく弟子たちに伝え、小さくさせられている人に対して善い行いをしたのは、イエスにしたことと同じなのだと説明しておられます。しかし善行が永遠に神と共にある命に入る条件としてとらえては間違えます。

神から祝福された人というのは、イエスの十字架の死と復活以降に生きている人々としてはパウロが言うように、ただイエス・キリストを自分の救い主だと信じることだけなのです。しかしイエスを主と信じた人は、その結果として小さくさせられている人を助けないではいられないようになる、ということです。ところで、これらの良い行いはここに書かれているだけのことではないでしょう。それも考えてみたいと思います。

他者との関わりがある生活が前提となっていることに目を留めてください。私たちは神と人と共に生きる存在です。教会でその恵みを体験していきます。

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2017年3月26日

マタイによる福音書 26章6〜16節
さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、1人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壷を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に注ぎかけた。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」 イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。そのとき、十二人の1人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。

「主イエスの死へ準備した人々」
マタイによる福音書 26章6〜16節

宣教:岡村牧師

イエス・キリストの受難がどのようなものであったのかを聖書から読んでおります。今日は2つの事件を並べてとりあげました。一つは、イエス・キリストの福音が語られるところでは記念として語り伝えられるだろうとイエスが言われた、ある女性の行為です。そしてもう一つは、これもまたイエス・キリストの福音が語られるところでは語り伝えられることになった、弟子の1人ユダの裏切りが水面下で進んでいた様子です。

1人の女性が極めて高価な香油をイエスの頭に注ぎかけたという事件が起こりました。それを見た周囲の人々が思わず憤慨して批難した行為でした。その香油の価値は、例えばマルコによる福音書14章を見ると300デナリオン以上と書かれているので、労働者の1年間分の収入に匹敵するほど高価なものでした。批難の中でイエスはその行為を尊いものと意味付けして言われました。

「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

もう一つの事件はイエスの弟子の1人だったイスカリオテのユダの裏切りの計画が進められている様子です。銀貨30枚でイエスを売るユダの思いがどのようなものであったのかははっきりとはわかりません。イエスの教えや奇跡の業を間近で見聞きし、最も近いところにいた人。イエスから最も愛されていた弟子の1人がイエスを裏切るということに衝撃を覚えます。人間の罪深さが如実にあらわされています。全ての人を罪から救うために主イエスは十字架への道を進まれます。

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