TAKARAZUKA BAPTIST CHURCH

日本バプテスト連盟  宝塚バプテスト教会

since1986















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■■ 本日の宣教から ■■

主日礼拝当日の週報に掲載されている「本日の宣教から」を再掲しています。

当日の宣教の箇所の概要や導入にあたるメッセージとなっています。

 

2013年度

1週

2週

3週

4週

5週

4月

7日

14日

21日

28日

 

5月

5日

12日

19日

26日

 

6月

2日

9日

16日

23日

30日

7月

7日

14日

21日

28日

 

8月

4日

11日

18日

25日

 

9月

1日

8日

15日

22日

29日

10月

6日

13日

20日

27日

 

11月

3日

10日

17日

24日

 

12月

1日

8日

15日

22日

29日

1月

5日

12日

19日

26日

 

2月

2日

9日

16日

23日

 

3月

2日

9日

16日

23日

30日

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2013年4月7日

◆聖書の言葉◆ ルカによる福音書 12章31〜32節

ただ、神の国を求めなさい。
そうすれば、これらのものは加えて与えられる。
小さな群れよ、恐れるな。
あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。

「恐れないで主について行こう!」
ルカによる福音書12章31〜32節

宣教:岡村牧師

 2013年度に入って初めての礼拝の日となりました。年度が改まったから新しいというよりも、キリスト教会にとっては、主イエス・キリストが死から復活されたイースターから新しい時代が始まっている、ということを意識していたいと思います。日ごとに、年ごとに新たにされて歩みます。
 「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」
 このイエスの言葉は、12章22節から始まる文脈の中で語られています。これらのものというのは、生きて生活していくうえで必要なもののことです。それらをまず求めるのではなく「神の国」をまず求めなさい、とイエスは奨励するのです。
 イエスの言葉は今では聖書を通して全ての人々に語られています。しかし、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」という言葉を読む時に、これは私たちが所属する具体的な教会に対して励ましている言葉だ!と私は受け取りました。
ルカ福音書でイエスが語りかけているのは、弟子達です。12人の弟子達だけではなく女性も含んだ、イエスの後に従ったグループです。恐れることが色々あったことでしょう。残してきた家族、職業、家、財産、周囲の人々の目。必要なすべてのことをイエスに委ねて歩みはじめました。私たちもまた。

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2013年4月14日

◆聖書の言葉◆ フィリピの信徒への手紙 1章9〜11節

「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」(新共同訳)
「わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。」(口語訳)

「本当に重要な事」
フィリピの信徒への手紙1章9〜11節

宣教:岡村牧師

 「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」
 上記の言葉はパウロがヨーロッパ伝道に出かけて設立したフィリピの教会の人々に宛てて書いたとされる手紙の言葉です。キリスト教徒の間では世界の終わりは間もなく来ると思われていました。イエス・キリストは福音書で終末、つまり世の終りが来る時にはその前兆として戦争が起こり、飢饉や地震が起こり、偽預言者が大勢現れ、不法がはびこり、多くの人々が裏切り憎しみあい、愛が冷えると、弟子たちに伝えています。
 終末はいざ知らず、確実なのは自分の命の終わりです。その時に自分が何を希望して何を信じているでしょうか。その希望を生み出しているのは何でしょうか?
 新しい年度が始まりました。周りを見渡せば数限りなく心配材料があると思える中で、キリスト教会は神への信頼を基に歩みます。「本当に重要なこと」を見分けるように神が備えて下さるもの、神の愛を日に日に受けつつ、恐れを後ろにして共に進んでいきます。

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2013年4月21日

◆聖書の言葉◆ マルコによる福音書 5章16〜20節

成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。 そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。 イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。

「イエスと変化を恐れる人々」
マルコによる福音書5章1〜20節

宣教:岡村牧師

 新共同訳聖書では、マルコによる福音書5章1〜20節の前にその内容を知らせる題がついており、「悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす」となっていますが、本文では汚れた霊となっており、悪霊と汚れた霊は同義語となっています。
 悪霊とは何でしょうか。医学の発達していなかった当時の社会では病や災厄をもたらすのは悪霊の仕業と考えられていました。悪霊は神の存在を知っており、神にはかなわないことも認めておりました。マルコによる福音書1章にも汚れた霊に取りつかれた人がいやされた話が載っていますが、その場合は安息日の礼拝堂においてでした。今日の箇所は異邦人が住む地方で場所も墓だったと記されていますが、イエスのおられるところではどこでも神の業がおこされました。自分ではどうしようもない縛りの中に置かれている人を、イエスは解放しました。
 今私たちが生きている社会で、社会生活をすることに困難がある人々や暴力を抑えきれない人はたくさんいますが、それを悪霊や汚れた霊ときめつけることは慎まなければなりません。霊の世界の事は、わたし達にはよくわからない範疇のことです。ただ救い主がおられることを私たちは知らせます。
 豚を飼っていた人々にとって2000匹の豚が死んでしまうことは、生活に影響があることで重大なことでした。イエスは動物の命を軽んじ、それで生計を立てる人々の生活を軽んじるのか、という見方をする人もいるでしょう。
 しかしイエスは、百匹の羊を置いてでも1匹を探し出して助けようとされる救い主であります。あなたはイエスが十字架で死なれるほどに大切なのです。

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2013年4月28日

◆聖書の言葉◆ コリントの信徒への手紙?T/15章 50〜53, 57節

:50兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。:51 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。:52 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。:53 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。・・・ :57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。

「朽ちない者とされる」
コリントの信徒への手紙?T 15章50〜58節

宣教:岡村牧師

 本日は当教会の「召天者記念礼拝」として礼拝を行います。
 「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」(50〜52節)。
 私たちの住む日本の国では多くの人々が、死ぬと天国に行くと考えているという印象を、新聞、雑誌、書物、様々なメディアをとおして私は感じることがあります。これはキリスト教の伝道の成果かしらとも思いますが、残念ながらイエス・キリストが死から復活したことを知っている人は少ないですし、知っていてもそれを信じる人々はもっと少ないでしょう。 人は愛している人とまたいつか会いたい、関係が復活してずっと続いてほしい、という素朴な思いをもつものでありましょう。
 死んだら終わり、とは考えないのがイエス・キリストを信じる教会です。聖書にはイエス・キリストが死より復活したことから、私たちもまた死んでも復活する時が来ると記されていますが、復活とは死んだ後の事ばかりではなく、イエス・キリストを救い主と信じなかった者が信じるようになる事そのものが復活であるととらえることができます。
 神との関係が結ばれ、神と他の人々と共に生きる世界が生きている時も死んでからもあることを神は、イエス・キリストを通して教えて下さっています。

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2013年5月5日

◆聖書の言葉◆
イザヤ書2章3d〜5節

  主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。
マルコによる福音書1章35〜39節
 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

「神による終末のビジョン」
イザヤ書2章1〜5節、マルコによる福音書1章35〜39節

宣教:岡村牧師

イザヤ書2章4節
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。
マルコによる福音書1章35, 38節
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。・・・イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

 上記のイザヤ書2章4節の言葉は、ニューヨークにある国連本部ビルの壁に記されているそうです。イザヤ書が語っているのは紀元前の時代の事ですし、この幻はユダとエルサレムについてのものであって、全世界の事ではありません。 しかし、そのような昔から神は、神の最終的なビジョンとして、神が選んだ民が武力による世界制覇をするのではなく、世界の国々が戦争をしない決意の中で自分から武器を捨てて生きることを描いておられることがわかります。神は世界のすべての国々が神を知るようにと願い、アブラハムからはじめて様々な具体的な人を用いられました。神はその終末のビジョンが実現されるために、イエスをこの世に送られたと言えます。
 神の預言が成就するためにイエスはこの地上で、父なる神との交わりである祈りによって導かれ、使命を果たす力が与えられました。イエスの死と復活の後は教会が、つまり私たちが、神の終末のビジョンのために用いられます。聖書の言葉、キリストの地上における姿に心をとらえられて私たちは聖霊に導かれて、押し出されて歩みを進めます。

2013年5月12日

◆聖書の言葉◆ ヨハネによる福音書3章3〜8節

3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
3:7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

「水と霊とによって生まれる」
ヨハネによる福音書3章1〜8節

宣教:岡村牧師

 この世で母親という役割を与えられる人々は限られていますが、母親から生まれない人は一人もいません。誰もが母を通してこの世に生まれてきました。そして、どのような人も神に祝福されて生まれます。神は命をつかさどるお方であります。
 命を支配なさる神から遣わされたイエスは、この世だけでなく神の国でも生きる者になりなさいと言われ、神の国の存在を語り続けました。神の国に生まれるにはどうしたらよいのでしょうか。今日の聖書の箇所は、イエスと対立していたファリサイ派のグループのニコデモという人との対話です。
 「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(3節)「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」(5, 6節)と、イエスは言われました。
 目に見えない世界の事をどうやって信じるのでしょう。神はそのような人の性をご存じだからこそイエスは地上に来られました。目に見えない神がどのようなお方であるかを目に見える姿のイエスが知らせ、神が何を人に望んでおられるかを伝えました。人の救いのためにこの世に生まれ、人の救いのために死なれたイエス・キリストです。その心は何か?。
 その心は「愛」であります。神が愛する全ての者が、神と共にある永遠の命を得るためであります。


2013年5月19日

◆聖書の言葉◆ 

マタイによる福音書28章18〜20節
イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
イザヤ書6章8〜10節
そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」 主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。 この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」

「応答し続ける教会」
マタイによる福音書28章18〜20節、イザヤ書6章8〜10節

宣教:岡村牧師

 本日はペンテコステ記念日。そして宝塚バプテスト教会が開拓伝道を開始して27周年を迎えた記念の日です。
 キリスト教会の始まりは、エルサレムで集まって復活のキリストの言葉を信じて祈っていた人々に聖霊が降ったことからでした。イエスの十字架刑の死の後、恐れで隠れるようにしていた弟子たちが、そのときを境に神の力を受けてキリストの福音を堂々と語り始めたのです。
 死を経て復活したキリストは、集まる弟子たちに命令をしました。 「・・・あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
 宝塚バプテスト教会は、1986年4月に神戸バプテスト教会から有志の方々が参加して東伝道所という名称で仁川に場所を借りてスタートしました。借り会堂で礼拝し、複数の家庭集会で伝道が広がり、ついにこの宝塚の地に教会堂が阪神・淡路大震災の翌年の1996年9月に建てられました。
 キリスト・イエスの言葉に応えたいと願った信徒たちの祈りに聖霊が働いて下さり、神の祝福として生まれた教会です。どのような時代にあっても神が共におられるので、教会は神に応答し続けて活動していきます。

2013年5月26日

◆聖書の言葉◆

コロサイの信徒への手紙4章2〜4節
目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。同時にわたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。このために、わたしは牢につながれています。 わたしがしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈ってください。
イザヤ書37章4節
生ける神をののしるために、その主君、アッシリアの王によって遣わされて来たラブ・シャケのすべての言葉を、あなたの神、主は恐らく聞かれたことであろう。あなたの神、主はお聞きになったその言葉をとがめられるであろうが、ここに残っている者のために祈ってほしい。

「あなたが祈り私が祈る」
コロサイの信徒への手紙4章2〜6節、イザヤ書37章3〜4節

宣教:岡村牧師

 今日の箇所は両方とも、「祈ってほしい」という言葉が出てきます。私は自分が聖書の言葉に触れ、キリスト教会に通うようになるまでは人に対して「祈ってください」と願う関係やそのような世界があることを知りませんでした。一部の聖職者の祈りが尊く有効であるのではなく、誰でも神を自分の父と呼べる関係であると教えたのはイエスでした。この関係を具体的に知らしめてくれるのが祈りであります。
 キリスト教会では毎週日曜日にあるいは他の日に集まって礼拝することを大切にしています。礼拝とは神と人との公的な交わりのことだと言えます。神との交わりとは祈りであります。神からの語りかけを心を研ぎ澄ませて受け、神への思いを様々な形の祈りをもって神に受けていただきます。
 父・子・聖霊なる三位一体の神は、イエス・キリストをとおして神がどなたなのか神が何を人に望んでおられるかを知らせてくださいました。 聖書の中で人としてのイエスが父なる神に対する姿勢がどのようなものであるかを祈りによって現して下さっています。
 地上におられたイエス・キリストに会ったことがない今の時代の私たちも 神を信じることができるように、神御自身が道を開かれました。イエスの死により聖霊の時代に入っています。キリスト者は、神と人との関係が繋がれていることを体験していく祈りの人生に導かれています。他者を覚えて祈りつつ他者と共に生きるものとされています。

2013年6月2日

◆聖書の言葉◆

エレミヤ書1章4〜5節
主の言葉がわたしに臨んだ。 「わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた。」
ガラテヤの信徒への手紙1章12, 15〜17節
わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。・・・しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。

「神の選び」
エレミヤ書1章4〜10節、ガラテヤの信徒への手紙1章11〜17節

宣教:岡村牧師

 今日は「選び」ということをテーマにしています。本日選ばせていただいたエレミヤ書の1章には、「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた。」という言葉があります。神が言われた言葉です。
 また、新約聖書のパウロの言葉としてガラテヤ書1章で、イエス・キリストの使徒として選ばれたことを彼は、「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が・・・」と語っています。
 パウロが自分で「わたしを母の胎内にあるときから選び分け…」と言うのは、そうとしか説明がつかないほどの神の導きを体験したということです。
 パウロはイエスの12弟子でもない、迫害者だった人ですけれどもそんな者がキリストを信じたのは、母の胎内にあるときから選び分けられたとしか言えないほど神の召しがはっきりしていたということであり、パウロの中でキリストの福音においてしかもう生きることができないほど自分がキリストの恵みに刺し貫かれてしまったからでありましょう。
 エレミヤは紀元前7世紀のユダヤ教の時代の人であり、パウロは紀元1世紀のキリスト教の時代の人であります。ユダヤ教の聖書だった旧約聖書のエレミヤ書をパウロはよく読んで知っていたでしょう。神の選びとは、人々の称賛を受ける誉れ高い輝くような道ではなく、十字架が表す道でありました。今や教会がエレミヤやパウロの働きを託されています。選ばれたのです。


2013年6月9日

◆聖書の言葉◆ ローマの信徒への手紙9章21〜24節

9:21 焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。
9:22 神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、
9:23 それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。
9:24 神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。

「憐れみの器」
エレミヤ書18章1〜8節、ローマの信徒への手紙9章11〜24節

宣教:岡村牧師

 今日の旧約聖書のエレミヤ書と新約聖書のローマの信徒への手紙では、神を陶器を作る陶工にたとえています。人は陶工である神から造られた者であり、すべては神の意志によっています。造られる器が、造る陶工を選ぶこともできませんし、どのように作ってくれと指図する事も出来ません。
 「…見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。あるとき、わたしは一つの民や王国を断罪して、抜き、壊し、滅ぼすが、もし、断罪したその民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる。」(エレミヤ18:6b-8)
 神が最初に選び、愛した一つの民族、イスラエルに対する言葉です。陶工者である神の意志によって、人々はいつでも滅ぼされてしまう立場であることが語られていますが、その人々が悪を悔いるときには生かす、という言葉が述べられています。
 エレミヤの時代から600年ほど後の時代にイエス・キリストが誕生し、イエスはその死に至るまで、神の主権を示すと共に神の愛を知らせる器として命を全うされました。キリストの復活後にイエスと霊的な出会いをしたパウロは今日の箇所で、エレミヤ書と同じように陶工者としての神を説明しています。パウロは神の主権は、憐れみとしてイエスをとおして、もともと神の民ではなかった人々へも現されたと語ります。
 「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。」(ローマ9:24) 今のこの教会のわたしたちもまた憐れみにより召し出され続けています。

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2013年6月16日

◆聖書の言葉◆ エレミヤ書29章10〜14節

主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。
わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。 

「たとえ受け入れられなくても」
エレミヤ書28章1〜9節、29章4〜14節

宣教:岡村牧師

 6月は旧約聖書のエレミヤ書を読んでいます。預言者とは、神に呼ばれて受けた言葉を語る人です。人々を励まし喜ぶような言葉を伝える場合もありましたが、人々が耳をふさぎたくなるような厳しい言葉も伝えなければならない役割を担っていました。
 他の国と違って、神が選び神と契約を結んだ民族は、神を唯一の神として信頼して生きることを教えられました。しかしそれは簡単なことではありませんでした。人々は神との約束を破って、快楽に惹かれ、安易な方向に流れていき、自分で理解し納得できることを選ぼうとしました。それは、いつの時代でも同じかもしれません。
 人は家族や友人、知人から受け入れられて生きることを願うものでしょう。近年では子どもから大人までの多くの人々が、人間関係の難しさに悩み、受け入れられないという絶望の中で死を選ぶことも起こってきています。神を信じている人であっても人々から受け入れられるために、自分の信頼する神を否定するようなことをしてしまう弱さを抱えています。
 それは預言者も同じだったようです。人に喜ばれ人々の期待に応えようとして耳触りの良いメッセージを伝える預言者もいました。しかし、神の言葉を受けたものはその言葉がどのように厳しいものであっても忠実にそれを伝えなければなりません。それは一人も滅びる者がないようにするためです。
 人の弱さを知る神は人を見捨てることをなさいませんでした。 その証しがイエス・キリストです。過ちを赦し、神を信頼する生き方へと導くためです。

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2013年6月23日

◆聖書の言葉◆
エレミヤ書31章33〜34節

しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
マルコによる福音書14章24節
そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。 

「新しい契約・神の決断」
エレミヤ書31章31〜34節

宣教:岡村牧師

 契約と言う言葉は、普段あまりなじみがありませんが、独りで結ぶことはできません。AとBがいてその関係において成り立つものです。一番身近なものは結婚でしょう。結婚は当人たちの愛情だけのことではなく、それが維持されるために法律によって守られているものです。
 神と神に選ばれたイスラエル民族の関係も、人間の結婚のように、契約という概念をもっていました。その契約の原則として十戒が神から人々に与えられました。その第一戒には、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」と神の言葉で記されています。
 結婚しているその片方が他の人と最も親密な関係を結ぶことは、契約違反であります。イスラエル民族の人々が、エジプトで奴隷だった時にそこから神によって導き出されて脱出しましたが、人々は命を助けていただいたその神だけを神としていくことができませんでした。
 普通なら離婚で終わりますが、神は選んで愛した民族を忘れることができませんでした。神は、何度も機会を与えて元の関係に戻る事が出来るように導きましたが、人々は背き続けました。
 それにもかかわらず、神は人との契約が壊れることがないようにするにはどうしたらよいか、神は懸命にお考えになられて、その契約の在り方を、人々に求めるのではなく御自分にその責任を課されました。
それが、イエス・キリストがこの世に来られたことの意味であります。

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2013年6月30日

「讃美歌が子守りうた」
エレミヤ書31章31〜34節

講師:松隈協氏・ゆかり氏

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2013年7月7日

◆聖書の言葉◆
マタイによる福音書 11章28〜30節

 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

「イエス・キリストの軛(くびき)を負う」
マタイによる福音書11章28〜30節

宣教:岡村牧師

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
 イエス・キリストの言葉です。私たちの教会の入り口近くにある看板にもこの言葉が記されています。聖書の言葉の中で日本人に最も愛され受け入れられている言葉でしょう。
 軛(くびき)は、牛など二頭が一緒に活動できるように木の板に穴が二つ空いていて首にはめるようになっているものです。ユダヤ人が「軛(くびき)」というときは「服従」を意味しました。
 イエスはユダヤ人として生まれ、パレスチナ地域で活動をしました。語る対象の人々はユダヤ教の背景を持つ人々です。ですから、全く時代も背景も違う現代の日本の私たちが聖書の言葉を読んでも、本来は意味が違うことがたくさんあるわけです。 それでも聖書の言葉が私たちの心に深く語りかけてくるのは、時代や民族、宗教を越えて、人間というものをお造りになった神がイエスを通して語られた言葉だからでありましょう。疲れて重荷を負う人にイエス・キリストの軛(くびき)を担うように招かれます。軛から全く解放されるのではないのに安らぎが与えられます。生きていく新たな力が備わります。

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2013年7月14日

◆聖書の言葉◆
エフェソの信徒への手紙 6章19 〜20 節

 また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。

「わたしのためにも祈って下さい」
エフェソの信徒への手紙6章10〜20節

宣教:岡村牧師

 暑い日々が続いていますが、皆様は大丈夫でしょうか。「戦う」という言葉はあまりなじみませんが、私たちに襲いかかる暑さに対して、節電と原発推進政策への抵抗を意識しながら対処することも、暑さと闘う、と表現することができるでしょう。
 今日の聖書の箇所には、「悪魔」「武具」「戦い」などと言う言葉が出てきて何か別世界の戦闘モードの様な緊張感があります。この手紙はパウロかあるいはパウロの弟子が書いたものだと推測されていますが、6章12節では。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」と言います。つまり、パウロたちは人間を相手にして戦っているのではない、ということです。彼らはキリストを宣べ伝える者として迫害されまました。当時世界を支配していたローマや他の民族からの迫害よりも、親戚といってもよいユダヤ教信者たちからであり、ユダヤ人キリスト者たちとの間にも深い軋轢がありました。しかしパウロは敵対する人々と暴力で戦わないことをキリストから学んでいました。
 パウロは神の武具である「真理」、「正義」、「平和の福音」、「信仰」、「救い」、「神の言葉」、「祈り」、これらを身につけるように奨励しています。そのような武具を身に着けているパウロには何も恐れることがない様に見えますし、万全だと思えます。しかし、彼は最後に繰り返して言うのです。
 「わたしのためにも祈ってください。」と。この姿勢がとても大切なのではないかと思わされます。弱さを担う者として、友としての立ち位置です。

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2013年7月21日

◆聖書の言葉◆
ヨハネによる福音書 10章11 〜16 節

 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。 わたしは羊のために命を捨てる。
 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

「主なる神は良い羊飼い」
ヨハネによる福音書10章11〜16節

宣教:岡村牧師

 神が良い羊飼い、という言葉を聞く時に、日本にいる私たちにはあまり自分の生活になじまない表現だろうと思いますが、羊を飼う生活をする人々が多くいる日常だった当時のパレスチナ地方の人々にとっては、とても身近なわかりやすいたとえだったのです。神が牧者である、という表現で最も愛されている歌は詩編23編でありましょう。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(新共同訳)で始まるこの詩を、私も暗唱したものでした。
 旧約聖書の中で預言者や王様などのリーダーを羊飼いとたとえているところがあります。エレミヤ書23章やエゼキエル書34章では、羊の世話をしないで羊飼いが自分にばかりに力を注いでいると神が批判をしています。イエスの時代も羊飼いは命がけの仕事でした。野獣がいて襲われる危険と常に隣り合わせだからです。
 イエスは言われます。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(11節) 「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(14節)
 キリスト教会の良い羊飼いはイエス・キリストのみであります。
この良い羊飼いが呪いの十字架かかって死なれまた復活された故に、どんなことがあっても私たちがどんなに未熟でも、私たちを見捨てず、最後まで共にいてくださるお方であることを日々、また礼拝で他の人々と共に、自分の存在の中心に刻みつけられて生きたいです。

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2013年7月28日

◆聖書の言葉◆
マタイによる福音書 11章5 〜 6節: 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 わたしにつまずかない人は幸いである。」

エゼキエル書 37章11、12、14a節: 主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。
また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。  

「来るべきつまづかせる方」
マタイによる福音書11章2〜6節、エゼキエル書37章12〜14節

宣教:岡村牧師

 暑い日が続いていますが、暑さに負けないほどの力や希望を、聖書の言葉が皆さんを支えてくれますように。
 マタイによる福音書11章6節でイエスは、「わたしにつまづかない人は幸いである。」と言っています。それはつまづく人がいることを、しかも多くの人々がイエスにつまづく、ということをイエスご自身が知っていたからでありましょう。
 最初につまづいたのは何とバプテスマのヨハネでした。イエスが公の宣教活動を始める前に彼によってバプテスマ(浸礼)を受けた事が福音書に記されています。バプテスマのヨハネが最初にイエスに会った時に「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」とヨハネによる福音書1章29節で言っています。その時にはイエスが神の子で民族が待ち望んだ救い主であると彼は確信したのです。しかしバプテスマのヨハネが見聞きするイエスの言動は、聖書で預言されていた救い主のイメージとは甚だしくかけ離れていたのでした。
 エゼキエル書も少しふれますが、エゼキエルは、紀元前6世紀の預言者で、国を失ったユダヤ民族がそのままで滅んでしまうのではなく、神ご自身が墓から既に死んで骨になった人々に命の霊を吹き込んででも人々の信仰を取り戻すと神からの啓示を受けました。イエスはその延長線上に登場した救い主です。神ご自身が道を開くと言われたことはイエスにおいて実現したのです。私たちもまた神の霊を吹き込まれて今があります。

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2013年8月4日

◆聖書の言葉◆
ローマの信徒への手紙 11章28 〜32 節: 福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。 神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。 あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。 神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。

ダニエル書 1章6〜7節: この少年たちの中に、ユダ族出身のダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの四人がいた。 侍従長は彼らの名前を変えて、ダニエルをベルテシャツァル、ハナンヤをシャドラク、ミシャエルをメシャク、アザルヤをアベド・ネゴと呼んだ。

「取り消されない神の憐れみ」
ローマの信徒への手紙11章28〜32節、ダニエル書1章6〜7節

宣教:岡村牧師

 私たちが住んでいる日本は、イエス・キリストが誕生して活動したパレスチナ地方から遥かに遠く、地球の真反対ぐらいに位置しています。イエス・キリストの死、そして復活により教会が生まれ、世界中にキリストの福音が伝えられて、地球の反対側にある日本にも伝えられて、私たちが存在しています。新約聖書の福音書ではイエスを死に追いやったのがユダヤ人であり、パウロの手紙でも、異教徒からよりもむしろユダヤ人たちによる迫害の記事が目立ちます。
 何となくユダヤ教やユダヤ人に対してキリスト教の迫害者というイメージを持ちがちではないでしょうか? しかしどんなに迫害されてもパウロにとってユダヤ人は同胞であり、ユダヤ人・イスラエル民族がまず神から選ばれ愛されたからこそ、イエス・キリストが来られて今の教会がある、ということをパウロはしっかりとおさえています。
 現在のイスラエル共和国は、ナチスにより600万人のユダヤ人が大虐殺されるという歴史を経て1948年に、すでに居住しているアラブ人たちの反対を押し切ってエルサレムがあるところに設立されました。しかし現在も多くのユダヤ人が世界中に生活しています。彼らは紀元前6世紀に自分の国を失ってから、世界に散らばりながらも、天地を創造された神、アブラハム、イサク、ヤコブの神と表現される唯一の神を信じることでその民族性を保ってきました。紀元前6世紀に戦争に負けてユダ王国は滅び、今日少しだけ読むダニエル書では、バビロンへ強制連行された人々が、自分の名前を失いながらも敵国で守られ、生きていく様子が描かれています。
 神の選び、愛、憐れみを受けている教会の私たちは、自分たちの幸を願い祈るのだけではなく、イスラエルの救いを改めて覚えたいと思いました。

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2013年8月11日

◆聖書の言葉◆
ローマの信徒への手紙 12章17 〜21 節

 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

「善をもって悪に勝つ」
ローマの信徒への手紙12章17〜21節

宣教:岡村牧師

 戦争と平和を思わないではいられない昨今です。8月15日に日本は終戦となりました。韓国ではこの日を「光復節」として日本による支配が終わったことを喜ぶ日となっています。中国では8月15日を対日勝利記念日として花火で喜びを表します。
 勝ち負けが決まり、戦争は終わりましたが、世界では6000万人、アジアでは日本を含めて2000万人もの人々の命が失われました。戦後68年たち、戦争経験者の数が次第に減ってきています。戦争は二度と起こしてはならないという決意を日本にいるどの人も、基本的には持っている事と思います。
 しかし、キリスト者、教会は、戦争経験者がこの先一人もいなくなる時代が来ても、神の言葉に従い、イエス・キリストに従うことによって武器を取らないことを選び続けていくのです。身の引き締まるような使命であります。
 今日の聖書の箇所はパウロの言葉ですが、イエス・キリストの言葉を思い出させます。
≪・・・自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」  悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。≫
 世の流れの逆を行く言葉の背後にキリストの十字架があることを覚えつつ聖書の言葉をかみしめたいと思います。

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2013年8月18日

◆聖書の言葉◆
ダニエル書3章17〜18節: わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。
そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」

ルカによる福音書22章42節: 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」

「キリストにならいて、たとえそうでなくても」
ダニエル書3章14〜18節、ルカによる福音書22章42節

宣教:岡村牧師

 旧約聖書のダニエル書には、火で処刑されても死なない、ライオンの洞窟に入れられても殺されない、王様の夢が何であったかを当ててそれを解釈する、など、まことにカッコいい信仰者の様子が描かれています。この書が背景としているのは紀元前6世紀に強国バビロンにイスラエルが侵略されて主だった人々がバビロンに連れて行かれた状況です。今日の箇所では異宗教文化の中で、唯一の神への信仰を貫く者は、神が共におられて窮地の中で救ってくださる、という励ましのメッセージが記されています。
 私たちは、イエス・キリストによる十字架の出来事の後に生きる恵まれたものであります。旧約聖書のどの文書を読む時にもキリストの恵みを知り、その恵みを与えられている者として読みます。イエスの地上での歩みは苦難の連続でしたけれども、最大の苦しみを味わわれたのは、今日読むオリーブ山での祈りの時であったであろうと思われます。
 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
 初めて神からの沈黙。神から罪ある者として捨てられ処罰されなければならない使命を与えられた罪無き神の子イエス・キリストです。
 何故こんなことが? 私たち人間が神と再び固い絆で結ばれるための愛の犠牲であります。どこまでもそのイエスを信じて歩む生き方をその都度導かれながら私たちは選び取っていきます。それが私たちの証しです。

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2013年8月25日

◆聖書の言葉◆
ルカによる福音書17章20〜21節

 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。
 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

「神の国はあなたがたのただ中に」
ルカによる福音書 17章20 〜21節

宣教:北村執事

 イエスさまは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と語られました。
 私は「神の国は遠い将来、来るべき世のことだ」とタカをくくっていたのですが、「神の国はあなたがたの間にあるのだ」とイエスさまの指先は私たちの方を指し示していることに気づかされました。口頭訳聖書では「あなたがたのただ中に」と記されています。ただ中とは、真ん中、真っ最中ということです。
 私たちの一体どこに神の国があるというのでしょうか?
 さあ困りました。
 もし、わたしたちの間に神の国を見いだすことができないのなら、イエスさまはうそをついていたことになります。しかし、イエスさまはうそをつくことができない御方ですから、神の国はあるのです。わたしたちのうちにあるのです。神の国とはほど遠いと思えるこの現実の世界にあって、神の国がわたしたちのただ中にあるのです。

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2013年9月1日

◆聖書の言葉◆
ローマの信徒への手紙 7章24節〜8章2節

 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。

「最高の恵み」
ローマの信徒への手紙 7章24節〜8章2節

宣教:岡村牧師

 教会から夏休みをいただいて東日本大震災の被災地に行きました。一番の目的は3.11以降知り合った福島県飯舘村のNさんが川俣町で運営している保育所を訪問することでしたが、「全国キリスト教学校人権教育セミナー」と日程が合致したので、50名の方々と一緒に仙台から南三陸町、石巻へ廻るバスに同乗し、その後のセミナーに参加しました。
 胸潰れるような痕跡を残す現場にも行き、被災して亡くなられた方々のことを神がお忘れにならないことを願いつつ祈りました。私たちは苦難に遭遇する時になぜ?と問うものでありますけれども、神ではないのでわかりません。苦しみつつも生きなければならないという現実の中で、具体的な人々に寄り添って生きようとするキリスト者たちの姿がありました。やっぱりそこに希望の光を見ました。
 「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」 (ローマ8:1-2)。
 7章では内在するからみつくような罪に苦しむパウロの姿が描かれていますが、7章の終りで突然、イエス・キリストを通して神に感謝する言葉が発されています。そして8章1,2節の言葉と続きます。
 この根本的な神の恵み、イエス・キリストを通して実現された恵みがあるからこそ私たちは自身の内在する罪も外側から襲いかかるような罪も他者と関わろうとするときに生じる罪も、神に明け渡しながら前進していくことができるのではないでしょうか。

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2013年9月8日

◆聖書の言葉◆
ルツ記 4章11〜15 節

 門のところにいたすべての民と長老たちは言った。「そうです、わたしたちは証人です。あなたが家に迎え入れる婦人を、どうか、主がイスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにしてくださるように。また、あなたがエフラタで富を増し、ベツレヘムで名をあげられるように。 どうか、主がこの若い婦人によってあなたに子宝をお与えになり、タマルがユダのために産んだペレツの家のように、御家庭が恵まれるように。」 ボアズはこうしてルツをめとったので、ルツはボアズの妻となり、ボアズは彼女のところに入った。主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ。 女たちはナオミに言った。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。 その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。」

「感謝と祝福を引き出される神」
ルツ記1章1〜7節、19〜21節、4章11〜15節

宣教:岡村牧師

 予定ではマタイによる福音書1章の系図のところも入れていましたが、次週に分けることにしました。今「聖書教育」ではルツ記を読んでいます。ルツ記は諸書としてエステル記、詩編、雅歌、哀歌と共に文学的小品として置かれる場合もありますが、書かれている時代背景などからヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記などの申命記的歴史書の中に含める学者もいます。
 時代背景はまだ統一された国の形の無い戦国時代のような時代、国を治めるリーダーが次から次へと代わっていく時代で、ダビデ王が現れるずっと前の紀元前1100年ごろのある女性たちのことが物語として描かれています。
 キリストが誕生する時代からはるかに昔のことですけれども、ここに描かれているナオミの家族は、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセの歴史を知り、ヨシュアによって約束の地、カナンに定住後に生きた人々であり、唯一の神を知り信じている人々でした。。
 ナオミの家族は、飢饉のために住みなれた家や人々を後にして生きるために外国に移り住みます。その異教の地で夫にも息子たちにも先立たれたナオミは、長い年月を経て故郷のベツレヘムに息子の嫁モアブ人ルツを連れて戻ってきます。ナオミは自分を神から見捨てられて不幸に落された、と語るしかなかった人です。しかしこの人は変えられていきます。
 ナオミのお荷物にしかならないと思われた異邦人の嫁ルツを、神はナオミの祝福として用いられました。自分への神の祝福を体験したナオミの口から祈りの言葉が思わず出てきます。神がそれを導き引き出されました。

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2013年9月15日

◆聖書の言葉◆
マタイによる福音書1章1〜6 節

:1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
:2 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、
:3 ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、
:4 アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、
:5 サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、
:6 エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、

「救い主は罪人のただ中に」
マタイによる福音書1章1〜6節

宣教:岡村牧師

 先週は旧約聖書のルツ記から語らせていただきましたが、ルツの時代から何世紀も後に書かれた新約聖書のマタイによる福音書にルツの名が出てきます。マタイによる福音書の冒頭でイエスの系図が記されています。私たちにとっては何の意味があるのだろうと思う系図ですが、ユダヤ人にとっては系図は血筋を表す極めて重要な意味を持つものでした。そのユダヤ人に対してイエスこそが長い歴史の中でイスラエル民族(ユダヤ民族とも言う)が待ち望んだメシア(救い主)である、と説得するためでした。
 しかし説得になるのでしょうか? 異邦人女性のルツの名前だけでなく、1節から6節までだけでも4人の女性の名前が記されていますが、系図に女性の名前が記されるということも普通ではありませんし、記された女性たちはそれぞれいわく付きの人々でした。女性達だけではありません、なぜユダがその系図に名が記されるのかもそもそも疑問が起こります。彼はヤコブの息子たちの中で長子ではありませんでした。この系図にはヤコブが愛したラケルの息子ヨセフやベニヤミンの名ではなくユダの名が残っています。このことについても少し考えてみたいと思います。
 この系図に出てくる名前の中には、イエスの時代のファリサイ派の人々が決して認めないであろう、罪人の名前が連なっているのです。 そのことからも、神がイエスをどのような目的を持ってこの地上に生まれるようになさったか、神のご計画の一端を知る事が出来るように思います。救い主イエスは私たち罪人の歴史の中に生まれた方です。神のご計画でした。

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2013年9月22日

◆聖書の言葉◆
ヨハネによる福音書8章12節
 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。
エステル記3章5〜6 節
 ハマンは、モルデカイが自分にひざまずいて敬礼しないのを見て、腹を立てていた。モルデカイがどの民族に属するのかを知らされたハマンは、モルデカイ一人を討つだけでは不十分だと思い、クセルクセスの国中にいるモルデカイの民、ユダヤ人を皆、滅ぼそうとした。
4章13〜14節
 モルデカイは再びエステルに言い送った。「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。 この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」

「与えられた使命」
エステル記3章1〜6節、4章13〜14節、ヨハネによる福音書8章12節

宣教:岡村牧師

 今日は、旧約聖書のエステル記をとりあげました。紀元前3世紀ごろに書かれたものとされ、時代背景はイエス・キリストが登場する400年ぐらい前の設定です。エステル記は「神」という言葉が一つもない書で、そのためか後に補遺が追加されました。私たちが使用している聖書ではそれは入っていません。ユダヤ人社会では、今でもプリム祭の時期にはこの書が朗読されます。
 子どもから大人までの教会学校をもつことを奨励している日本バプテスト連盟では「聖書教育」誌を発行しており、今はエステル記を読んでいます。今日の礼拝では招詞に選んだヨハネによる福音書8章12節の言葉を心に留めてエステル記を読みたいと思います。
 「イエスは再び言われた。『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』」
 神の選びの民と言われたイスラエル民族(ユダヤ民族とも言う)は、紀元前6世紀に国を失いました。多くの人々がバビロンに連れて行かれてペルシャの支配になった時代のことです。 ペルシャ王クセルクセス王は不服従な王妃ワシュティに代わって、バビロン捕囚の民ユダヤ人のモルデカイの養女エステルを王妃に迎えました。ところが王に次ぐ権力者になったハマンにモルデカイが敬意を表さなかったことで、モルデカイだけでなく全ユダヤ人絶滅が企てられます。
最後の手段は王妃エステルから王様にユダヤ人の救いを懇願することだけでした。与えられた地位、状況を用いてエステルの命がけの働きが始まります。イエス・キリストの死と復活の後に生きる私たちは、キリストをとおして命の光をいただいています。私たちの使命を確認したいと思います。

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2013年9月29日

◆聖書の言葉◆
テサロニケの信徒への手紙?T 5章14〜18節

14:兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。 15:だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。
16:いつも喜んでいなさい。 17:絶えず祈りなさい。 18:どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

「キリスト・イエスにおいて」
テサロニケの信徒への手紙?T 5章14〜18節

宣教:岡村牧師

 宝塚バプテスト教会の玄関脇の看板には、マタイによる福音書11章28節のイエス・キリストの言葉と、今日の聖句テサロニケの信徒への手紙?Tの5章16節から18節の使徒パウロの言葉「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」が記されています。
 テサロニケのこの言葉に関しては、3年前の2010年度の聖句にも選ばれましたが、この言葉を大切にしておられる方々は多くいらっしゃるでしょう。イエス・キリストの死を経て生まれたキリスト教会の人々を捕らえては処刑していたパウロが、復活のキリストと霊的な出会いをしてキリスト・イエスを世界に伝える人になりました。 キリストに倣うかのように使徒パウロの人生は迫害を受けることの連続で、彼は最後にはローマによって処刑されたと伝えられています。そのパウロの言葉です。
この言葉は一人でいるあなたにというよりも、キリスト・イエスにおいて集められている人々に対して言われている言葉として受け取ります。14節15節の言葉は一方的な上から目線の言葉ではなく、互いにという意味でとらえたいと思います。破れだらけの教会だからこそ、謙虚に神に聞きつつ求めるとき、聖霊の御業が起こされていき、きっと最善に導かれるのです。
教会としていつも喜び、たえず祈り、どんなことにも感謝する生き方など、できっこないと思えます。キーワードは「キリストにおいて」です。私たちに勧められている言葉として心に留めてまいりたいと思います。

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2013年10月6日

◆聖書の言葉◆
マタイによる福音書26章48〜54節

 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。 ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。 イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。 そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。 そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。 わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。 しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」

「裏切る人を愛しぬかれる神」
マタイによる福音書 26章47〜54節

宣教:岡村牧師

 今日お話しする全体のテーマは、礼拝の招詞にさせていただいた新約聖書ヨハネによる福音書13章1b節の言葉です。
 「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」
 イエスがこの世でキリスト(メシア/油注がれた者/救い主)として活動したのは、どんな人も神から分け隔てなく愛されていることを知らせるためであり、社会的地位や民族や国によって分断される世界ではなく、神が支配なさる国がやがてはっきりと現れることを伝えるためでした。神の国とはどのようなものか、イエスはその生き方、言動、死に方を通して人々に知らせました。 私たちの目には見えませんが、死から復活して今も世界を導いておられる神がおられるがゆえに、私たちは毎週礼拝をする生活をしています。
 今日マタイによる福音書26章47〜54節で登場するのは、イエスと弟子の一人だったイスカリオテのユダです。ユダの事については、イエスのグループの活動を推進するための会計を任されるほど仕事ができ信頼の厚い人だったことぐらいしかわかりません。今日の箇所に表されるユダの裏切りについては、永遠の謎とされています。
 この裏切るユダをもイエスは愛しぬかれました。イエスが愛する人々から裏切られ神から捨てられる苦難を経たゆえに、神は全ての人を愛せるのです。

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2013年10月13日

◆聖書の言葉◆
マタイによる福音書18章21〜22節

 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。

「神の憐れみを受けた者として」
マタイによる福音書18章21〜35節

宣教:岡村牧師

 今日の聖書の箇所はイエスのたとえ話で、テーマは無条件のゆるしです。神のこの自分に対する憐れみがどれほどのものか、また憐みを受けた者としてどう生きるべきかが語られています。
 ≪そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。≫ (マタイ18:21-22)
 このイエスのたとえ話は、神の国とはどんなところであるのかを教えるためのものです。計算できないほどの負債を、憐れみによって主君にゆるされて免除されたその人が、自分に対して負債のある人をゆるさずに裁いたことを主君が知って怒り、ゆるしを取り消し、裁いた、というものです。
 私たちの現実の世界でも、いじめを受けた人が、自分より弱いものに対していじめを行う、ということがあることを知っています。自分が苦しんだように他の人を苦しめることで苦しみから逃れるとか、粉々にされた自分の尊厳をそのような方法で回復する、という気持が起こる、と聞きます。
 ですから、神のように無限の憐れみをもって他者をゆるすことなどできるはずがないと私たちは思うものであります。しかし、神の国ではこうなのだ、とイエスはおっしゃるのです。憐みを受けた者としてそれを知っているなら、苦しくても無視はできません。できないからこそ祈りがあるのです。

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2013年10月20日

◆聖書の言葉◆
ルカによる福音書15章1〜7節

15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。
15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」。

「まるごと」
ルカによる福音書15章1〜7節

古田晴彦

 1980年代、イギリスのサッチャリズム、アメリカのレーガノミックスが世界経済に大きな影響を与えました。新自由主義という思潮の登場です。この流れは、1990年代に入り、世界の主要な先進国にも及んでいきます。補助金の削減、公営企業の民営化、社会保障費の抑制などを通じて、財政赤字が深刻化する国家財政は確かに健全化に向かいました。反面、労働市場も自由化されたため、非正規雇用が増え、格差が拡大します。繰り返し強調されるのは、自助努力と自己責任。努力をすれば必ず報われる。報われないのは本人の努力が足りないから・・・・・。
 彼らは言います。「競争こそが、活力ある社会の源である。」 放っておいても、人間は競争します。学業成績、仕事での営業成績、学校のクラブ活動の公式戦。大小様々なコンクール。人は賞を得るために走りますし、目標としていた賞を得たときには歓喜に溢れます。けれども、競争には必ず勝ち負けがつきものです。スタートラインが揃っていたのならばまだ納得もできますが、経済的な条件や病気・ケガなどのために、他の人たちと同じスタートラインに立てない人もいます。競争の真っ最中に、様々な事情でレースから離脱せねばならない人も出てきます。それもこれも、全て「自己責任」なのでしょうか。
 少なからぬ人が「生きづらさ」を感じながら生きています。その根本には、何があるのでしょうか。聖書に聴きつつ、皆様と御一緒に考えてみたいと思います。

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2013年10月27日

◆聖書の言葉◆
ルカによる福音書5章4〜11節

 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

「しかし、お言葉ですから」
ルカによる福音書5章1〜11節

宣教:岡村牧師

 今日の箇所はイエスが、漁師のペトロ、ヤコブ、ヨハネを弟子として招く場面です。マルコ福音書やマタイ福音書でペトロたちが召し出された場面と比べると、ルカ福音書では詳しく状況が描かれています。
 ここには一つの奇跡的なことが起こったエピソードが大切な役割を果たしています。ペトロたちは長い年月漁師として暮らしてきました。イエスがペトロに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた時にペトロはどうしたでしょうか。彼は「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」と答えました。そしてペトロはその通りにしたのです。
 何十年も漁師をしてきたプロであるペトロに対して、イエスの言葉はあまりにも非常識で、ペトロを馬鹿にしているのか、と問いたくなるようなことだったかもしれません。もうさんざん努力してやってみてだめだったのだし、再びそんな無駄な事はしたくありません、と答えて無視する事もできたかでしょう。
 しかし、ペトロはイエスの言葉に従いました。長年の自分の経験や実績や勘で、99パーセント答えがわかっているわい、と思うことでも、「お言葉ですから」…と、ペトロはイエスの言葉に従いました。まだ「主」と呼べない、関係が築かれていない時のことでした。まだイエスのことをよく知らないうちの出来事でした。
 イエスの言葉に従った時に、思いもかけないような恵みをペトロたちは経験することになりました。キリスト信仰は十字架に表されると言いますが、神の恵みを全く経験せずに従い続けるということはありえないのです。恵みに恵みを増し加えて下さるからこそわたし達は困難な時でも、十字架につけられるほどに父なる神に従い、弟子たちを愛し通したイエス・キリストに従っていこうという思いが与えられ続けていくのです。

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2013年11月3日

◆聖書の言葉◆
ローマの信徒への手紙5章1節

(新共同訳)このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、
(口語訳)このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。
(岩波訳)かくして私たちは、信仰によって義とされたので、私たちの主イエス・キリストをとおして、神に対して平和〈な思い〉にひたされている。
(新改訳)ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
(塚本虎二訳)だから、わたし達は信仰のゆえに義とされたのであるから、わたし達の主イエス・キリストによって、いま神と平和ができた。

「義認の信仰の実」
ローマの信徒への手紙5章1節

宣教:岡村牧師

 今日は月に一度の「主の晩餐」に共にあずかる礼拝となっています。主の晩餐理解とその行い方は、バプテスト教会の中でも様々に分かれておりますが、どれが正しいということは言えません。しかし私たちは信仰によって主の晩餐にあずかります。
 神を信じることが信仰なわけですけれども、神により義と認められて受け入れられるのです。キリスト教の母体といえるユダヤ教では、神は信仰の父といわれるアブラハムに語りかける神として現れます。その神がモーセの時代になって律法を人に与えて律法に従って生きるように勧めました。 律法を守ることによって義とされると理解され、神の本質から離れていきました。
 イエス・キリストは、神の本質を現す方として神からこの世に送られました。イエス・キリストの生涯についてその言動を見聞きした弟子たちが、四つの福音書としてそれぞれ編集しました。
 しかしローマの信徒への手紙を著したパウロは、ユダヤ教の律法専門家であった知識を用いながら、律法を守るという行いによって義なるものとされるのではなく、イエス・キリストが神の子で救い主であることを信じることだけで救われる、と主張したのです。
 「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、・・・」
 イエス・キリストを信じる小さな信仰を神が受け入れて下さっています。

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2013年11月10日

◆聖書の言葉◆
ローマの信徒への手紙5章2〜4節

 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

「苦難を誇りとして受ける」
ローマの信徒への手紙5章1〜5節

宣教:岡村牧師

 今日は11月第2週の主日で、1996年11月以来日本バプテスト連盟ではこの日を「バプテスト福祉デー」として覚えることになっています。福祉の原点はイエス・キリストであるという認識から始まっています。キリストの福音を世の人々に伝える伝道は教会の使命でありますが、それは聖書の言葉を学ぶことと、魂の癒しにかかわっています。
 今日の聖書の箇所は、ローマの信徒への手紙5章1〜5節にしています。先週は5章1節に心をとめ今日は5章2〜4節としていましたが、5章1節から5節までの流れの中で読んでいきたいと思います。
 「5:1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、5:2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。5:3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、5:4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。5:5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
 パウロがローマの教会宛に書いている手紙です。まだ行っていない会ったことがない人々に対して複数形の「あなたがた」ではない「わたしたち」という言葉を用いています。キリストにおいて「わたしたち」であることの意味から、今日は特に苦難についてのパウロの言葉に心を留めたいと思います。教会はイエス・キリストの御名によって祈りあう群となることが一つの鍵であります。神の愛は、私たちがキリストを通して連帯する方向へと導いていきます。

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2013年11月17日

◆聖書の言葉◆
ローマの信徒への手紙12章12節

 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。
エフェソの信徒への手紙1章17〜18節
 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。

「先輩からの奨励」
ローマの信徒への手紙12章12節

宣教:岡村牧師

 10月には日本バプテスト女性連合総会ならびに信徒大会へ、そして先週は日本バプテスト連盟総会に行ってきました。
 キリスト者の集まりですから、必ず聖書の言葉、祈り、賛美があります。たくさんの仲間たちと共に歌う賛美の素晴らしさは、天国の前味を味わうような祝福を感じます。それぞれが自分の所属する教会から遣わされて、そこで別の教会の仲間たちと共に礼拝し、食事をし、語り合い、同じ場所で3日間を過す中で、色々に違う状況に置かれて意見や解釈が違うのだけれども、主にあって一つとされていることに感動いたします。
 色々あるプログラムの中で最も心打たれ、恵みの力をいただいたと感じたのは、人の「証し」を聞いたときでした。神が自分の生活の中でどのように苦難から導きだされたか、神からどのように励ましをいただいたか、どのように問題への認識が深められたか、喜びが与えられたか、この度も何人かの方々のお話を伺いました。
 イエス・キリストに表される神を信じたことが、自分にとってどう恵みであるのか、よくわからないと思うことがあるでしょう。けれど、イエス・キリストがこの世に来られて罪の問題を御自分の死をもって処理してくださり、わたしたちはイエス・キリストのお名前によって祈ることができると知りました。
 今日の言葉はパウロの奨励の言葉です。伝道者として苦しみながら前進した先輩の言葉には聞くべきものがあります。
「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」

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2013年11月24日

◆聖書の言葉◆
使徒言行録 16章10節

 パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。

「神さまが示される道」
使徒言行録16章6〜10節

宣教:北村執事

 本日から世界バプテスト祈祷週間が始まります。そこで本日は海外伝道の初穂としてパウロの宣教の旅路について、振り返ってみたいと思います。
 パウロはエルサレム会議の後に第二回伝道旅行に出かけました。西に向かってアジア州へ行こうとするのですが、聖霊によってその道は禁じられます。そこで、アジア州の北の方へ向かいます。ところが今度はイエスの霊によってまたもや道が閉ざされ、アジア州を迂回するかたちで港町トロアスに到着します。
 全世界に福音を伝えるのだ、とミッションを抱えて踏み出したものの、何と聖霊によって宣教の道が閉ざされるというのです。これは一体どのように理解すればよいのでしょうか?
 さてパウロはマケドニア人が救いを求めているという幻が示され、これこそが主の召しであると確信し、エーゲ海を渡ってマケドニアに赴きます。
 もしこの主の招きがなければ、エーゲ海を渡ることなく、東方への伝道にいそしんでいたのかも知れません。世界宣教が東方世界から西方世界へと大きく舵が切られた瞬間です。
 このパウロの軌跡を私たちの人生を重ね合わせて見て行きたいと思います。

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2013年12月1日

◆聖書の言葉◆
ローマの信徒への手紙 8章22〜27節

 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、"霊"の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。 同様に、"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 人の心を見抜く方は、"霊"の思いが何であるかを知っておられます。"霊"は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

「待ち望む」
ローマの信徒への手紙 8章22〜27節

宣教:岡村牧師

 今日から12月25日のクリスマスまで待降節/アドベントに入ります。
 キリスト教会にとっては、毎週集まって礼拝する日曜日がイースター、ペンテコステ、クリスマスを想起するときであると言えます。しかし福音伝道という観点からとらえるなら、日本の社会にクリスマスが定着してきた今、クリスマスを待ち望み、喜び祝う、というお祭りにおいて人々を教会にお招きする良い機会として大切にしたいシーズンです。

 今日のテーマは「待ち望む」としています。子どものときは、"もういくつねるとおしょうがつ♪…"と待ち遠しかったものですが、わたし達がクリスマスを待ち望むのはそのような意味だけではない「待ち望む」ことが含まれていることを覚えたいと思います。
 本日選ばせていただいた聖書箇所では、このようなことをパウロが言います。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、"霊"の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」(8章22−23節)
 
 荒廃し、うめき、傷つくのは人間だけでなく自然界や人間以外の動植物も同じです。神が創世記1章で「良しとされた」世界が破壊され傷ついている今、私たちは人間の力ではどう修復しようもない事があることを知りました。私たちはクリスマスを待ちつつ、キリストの再臨を待つものであります。被造物が完全に癒され神の「良し」へと回復することを待ち望みます。それは、目的を持ちながらも今のこの時も決してお見捨てにならない神が、キリストをとおして私たちと共におられることを知って信じているからです。

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2013年12月8日

◆聖書の言葉◆
ヨハネによる福音書 13章1〜5節

 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。

「神により洗われる」
ヨハネによる福音書 13章1〜8節

宣教:岡村牧師

 アドベント/待降節の第ニ週を迎えました。ロウソクが2本灯ります。

 今日の聖書の箇所は、イースター前の受難週によく読まれる箇所です。クリスマスの待降節は、待つ時であります。クリスマスにこの世に来られた救い主イエス・キリストとはどういう方なのか、心に刻みつつ待ち望みます。

 今日の聖書の箇所は、他の福音書には載っていない内容で、イエスについてこう語っています。
「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(ヨハネ13章1節)

イエスは御自分の死が近いことを察して何をしたのかが記されています。「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛しぬかれた。」という言葉は、時代を越え、民族、性別、社会的立場を越えて、現在の私たちにも及んでいる普遍的な言葉として受け取ることができます。神はイエス・キリストをとおして神の本質を示して下さったからです。

いつの時代も社会は政治的に不安定な要素をはらんでいます。今日は72年前に太平洋戦争が始まった日です。歴史は繰り返す、と言われますけれども、同じ過ちを繰り返さないようにキリストの僕たる教会として、ふさわしく活動していくことができますように。

そしてどんな時も私どもと関わり続けて下さる神の愛を信じて、希望をもって生きていくことができます様に祈ります。

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2013年12月15日

◆聖書の言葉◆
ルカによる福音書 1章35〜40節

 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」
 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。

「お言葉どおり、この身になりますように」
ルカによる福音書1章26〜45節

宣教:岡村牧師

 2013年の待降節/アドベントの第三週を迎えました。ろうそくが3本灯ります。来週はいよいよクリスマス礼拝の日、そして私どもの教会では翌日の12月23日(月/休日)の夕方からキャンドルライト・サービスを行うことになっています。
 2013年が終わる一週間前にクリスマスがあることは、人類の歴史に先立って導いて下さる神の立ち位置をあらわしているようでもあり、またやがて全ての終わりがやってくるときにも、神が先立って導いてくださり、私どもが不安や恐れで途方に暮れないようにしてくださっている、ということの象徴のような気がいたします。
 クリスマスの物語の主人公は神であり、またそのひとり子イエス・キリストでありますけれども、神は人間の歴史に介入なさるにあたり、神御自身だけで全てを行われようとはなさいませんでした。人々に関わりながらそれらの人々を巻き込みながらその御業を成し遂げられます。
 今日の箇所は、様々な書物、絵画や絵本、映画で美しく描かれている若いカップルのうちのイエスの母となったマリアに焦点を当てています。ここから神の御計画、神の憐れみ、慈しみに思いをはせてみたいと思います。
 イエスがこの世に生まれるためになぜマリアが選ばれたのかわかりません。彼女の家柄や血筋、性格、容貌などが特別に素晴らしかったということは一言も書かれていません。神は事柄を起こされる時に人を選んでお用いになりますが、それがどうしてなのかは私どもにはわからないことです。ただ今日の聖書の箇所を読むたびにいつも思うことですが、マリアの率直さ、正直さ、「お言葉どおり、この身になりますように」という言葉に教えられます。しかしただ単に受け身だけではなく、神との対話も恐れぬ人であり、神の恵みを確認することをためらわない行動力を表せる人でした。

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2013年12月22日

◆聖書の言葉◆
ヨハネによる福音書 1章14〜18節

:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
:15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

「人を救う恵みと真理」
ヨハネによる福音書 1章14〜18節

宣教:岡村牧師

 メリー クリスマス♪
救い主イエス・キリストの御降誕おめでとうございます!


2013年のクリスマスを皆様と共に迎えることができました。昨年のクリスマスと決して同じではありません。共に迎える人々の面々も違っていますし社会の状況は日々に変わり、私たちも徐々に年をとり、不安や心配は増しているかもしれません。弱い立場に追いやられている人々の辛い生活状況や不安に包まれた心情は、ニ千年前にイエスが生まれた最初のクリスマスの時代も今も根本的には変わらないのではないでしょうか。

しかしニ千年前の最初のクリスマスのとき、人を救う神の御子が生まれた!というニュースが、その弱い立場に追いやられた人々にまず告げられました。「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1章14節)

言(ことば)とはイエス・キリストを示しています。イエスは人が神との関係を結ばれて救いを受け希望を持って生きる道を拓きました。ように願い、全ての罪を引き受けて十字架につけられて死ぬためにこの世に生まれてくださいました。

生きている事が当たり前…と思えない昨今の社会、世界の中にある私たちです。不安な材料が押し寄せる中、この素晴らしいニュースを全ての人が受け取れるように、教会は今年もクリスマスを世に知らせて祝います。

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2013年12月29日

◆聖書の言葉◆
ルカによる福音書 12章22〜24節, 31〜34節

:22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。
:23 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。
:24 烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。
:25 あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
:31 ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。
:32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
:33 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
:34 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」

「小さな群れよ、恐れるな」
ルカによる福音書 12章22〜34節

宣教:岡村牧師

 2013年最後の主日礼拝を迎えました。人々は1年が終わっていく中でこの1年の色々な出来事等を振り返り、新しく始まる年に希望をたくして締めくくりと始まりの準備をいたします。1年が終わる1週間前にクリスマスがあることに意味を感じます。常に神が人の歴史に先だって導かれるということを象徴しているように思えないでしょうか。イエス・キリストをこの世に贈られた神が先立って共に導いて下さるので、先の見えない私たちは、来る新しい年の行く末を心配しないでもよい、というメッセージであるかように思えます。

今日の聖書の言葉12章32節はこう言います。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」 ルカによる福音書12章22〜34節は、マタイによる福音書6章に並行記事があります。しかし12章32節の言葉はルカ福音書独自のイエスの言葉です。この箇所のうち12章31〜32節から今年メッセージをさせていただいたことがありました。これは私たちの教会の2013年度の活動のテーマ聖句となっています。

今日はもう一度この言葉を含めた22節から34節までの中で「神の国を求めなさい。」という言葉と、所有欲から自由にされることが難しい私たちへの励ましの言葉から、私たちの教会として聞く言葉として受け取り直したいと思います。

今年1年の感謝を主にささげ、私たち小さな群れにもはっきりと神の国をくださることを宣言される主に導かれて、共に新しい年を迎えたいと思います。

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2014年1月5日

◆聖書の言葉◆
ヨハネによる福音書 16章33節

 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。

イザヤ書50章4節

主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え 疲れた人を励ますように 言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし 弟子として聞き従うようにしてくださる。

「しかし、勇気を出しなさい」
ヨハネによる福音書 16章33節

宣教:岡村牧師

 主の年2014年、
   あけましておめでとうございます!


新しい年が始まる前に、2014年という新しい年に進み行くにあたって、キリスト者の多くの方々が聖書の言葉をもってこの1年も導いてくださいと祈られたことでしょう。自分に語りかけているように思われる聖書の言葉をどうぞ大切にして下さい。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

昨年末に私が教会と自分にいただいたと受け取った言葉はこの言葉でした。 イエス・キリストが弟子たちに語られた言葉です。間もなく十字架につけられて死ぬことがわかっていたイエスが、いつかきっと自分が語った事がどういうことか弟子たちが悟る時がくる、と信じて語った励ましの言葉です。

社会的な状況は常に不安定な緊張をはらんでいます。自分自身の生活は納得できるものでありたいと願いつつも思ったようにはいかない現実にうろたえ、自分の罪深さを改めて認識してたじろぐのが私たちの姿でありましょう。

しかし主はあえて言われます。「しかし、勇気を出しなさい。」 勇気が出るようにして下さっているのです。苦しみの中でも感謝と喜びが失われないで元気を出して生きていくことができるように主が導いてくださっています。

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2014年1月12日

◆聖書の言葉◆
ヨハネによる福音書 6章9〜13節

 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。

「小さくても」
ヨハネによる福音書 6章1〜13節

宣教:岡村牧師

今日の箇所のヨハネによる福音書6章1節の前には、新共同訳では《五千人に食べ物を与える》という見出しがついています。五千人という数の人々が集まっているところにいたご経験があるでしょうか? 五千人だけではありません。女性や子どもたちは人数に数えられなかった時代ですから、合計すると一万人以上はいたことになります。

そのように大勢の人々に対して話を聞かせるだけでも大変なことです。心を満たす言葉やお話しではなく、実際にご飯を食べさせた、というこの奇跡の意味は何でしょうか? 他の3つの福音書、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書にも、五千人に食べ物を与える、という奇跡の話が載っています。この奇跡がどんなに強い衝撃と感動を弟子たちの心に残したかがうかがい知れます。

その中でヨハネによる福音書だけが、他の福音書が記していないことを載せています。それが6章8節、9節の言葉です。「弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。『ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。』
  
少年の存在と弟子のアンデレの言葉です。そう、弟子たちのように私たちはイエスに期待してイエスの導きを待つのではなく、「何の役にも立たないでしょう。」と、自分で答えを出してしまうことがどんなに多い事でしょう。何の役にも立たないと思った事を用いてイエスは御わざを行われました。

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2014年1月12日

◆聖書の言葉◆
ヨハネによる福音書6章9〜13節

 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。

「小さくても」
ヨハネによる福音書 6章1〜13節

宣教:岡村牧師

今日の箇所のヨハネによる福音書6章1節の前には、新共同訳では《五千人に食べ物を与える》という見出しがついています。五千人という数の人々が集まっているところにいたご経験があるでしょうか? 五千人だけではありません。女性や子どもたちは人数に数えられなかった時代ですから、合計すると一万人以上はいたことになります。
そのように大勢の人々に対して話を聞かせるだけでも大変なことです。心を満たす言葉やお話しではなく、実際にご飯を食べさせた、というこの奇跡の意味は何でしょうか? 他の3つの福音書、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書にも、五千人に食べ物を与える、という奇跡の話が載っています。この奇跡がどんなに強い衝撃と感動を弟子たちの心に残したかがうかがい知れます。
その中でヨハネによる福音書だけが、他の福音書が記していないことを載せています。それが6章8節、9節の言葉です。「弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。『ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。』
  
少年の存在と弟子のアンデレの言葉です。そう、弟子たちのように私たちはイエスに期待してイエスの導きを待つのではなく、「何の役にも立たないでしょう。」と、自分で答えを出してしまうことがどんなに多い事でしょう。何の役にも立たないと思った事を用いてイエスは御わざを行われました。

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2014年1月19日

◆聖書の言葉◆
ヨハネによる福音書 8章6 b 〜 11節

イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

「裁くのは神のみ」
ヨハネによる福音書 8章1〜11節

宣教:岡村牧師

1月11日(土)には東日本大震災から2年10カ月が経ち、そして1月17日(金)は「阪神・淡路大震災」から19年が経った日でした。特に被災された方々にとっては忘れられない日だったと思います。1995年1月17日に私は福岡にいましたので、皆さんと被災の大変さを共有する事ができません。でも色々な体験談を聞いて分かち合っていただくことや、これからどうするかなどを共にする事はできます。

自然災害や災難は避けることができません。また、人間の神に背く性質はこれからも消えることはないでしょう。それによってもたらされる問題が起こす苦しみは絶えません。しかし人間にはどうしようもない問題に苦しむ中で、神は救いを与えてくださいました。人が神を認めて悔い改め、心に平和を取り戻し感謝と希望をもって喜んで生きていくことができるようにです。

神の救いをもたらしたイエス・キリストがどのような方であるのか、私たちは聖書を読むことによって知ることができます。イエスはどのように苦しみから人を救い、希望を与えるお方であるか。また人の心の中にある動機もご覧になって人が悔い改める機会をくださる神であります。

今日の箇所で、イエスを陥れるために利用された女性が登場します。批判されても仕方がない罪を犯した女性に対して、裁く権威がある神の子イエスは彼女に言われます。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪をおかしてはならない。」

罪ある人をゆるし、その人の意思を尊重して忍耐強く待つ神の姿勢に圧倒されます。

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2014年1月26日

◆聖書の言葉◆
ヨハネによる福音書 11章40 〜44節

イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

「信じるために」
ヨハネによる福音書 11章5〜8節、32〜44節

宣教:岡村牧師

この世の命が終わったらすべてが終わりなのではない・・・とクリスチャンたちは信じています。次の世のチャンスがあるから今をいい加減に生きても大丈夫、というのではもちろんありません。むしろこの世の命がすべての終わりではないからこそ地上で与えられている命を一生懸命生きることであると理解しています。

「永遠の命」という言葉が新約聖書に出ておりますが、福音書の中でもヨハネによる福音書が断然多く出てきます。永遠の命とはどういう意味をもつものなのか、私たちにははっきりとはわからないことです。誰も経験をしたことがないことですから。永遠の命とは神と永遠に至るまでも共にある命に入る、というふうにとらえますけれど、それもどういうことなのか具体的には全く私たちにはわかりません。

今日読む11章はとても長いので一部しか読みませんけれども、ここに出てくるマルタもマリアもイエスに同じ言葉を言うのです。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」

イエスがそれから墓に行って死んで墓に納められているラザロに向って呼びかけるのです。「ラザロよ、出て来なさい」。 ここを読む時にいつも思います。神を信じていないために死んだようになっていた私へ神はあるとき呼びかけてくださり、私は神を信じて生きる者となりました。

生きている時も死んでからも、永遠に共にいてくださる神をイエス・キリストが地上におられた時からあらわして下さっています。愛する人々がイエスを信じるためです。

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2014年2月2日

◆聖書の言葉◆
エフェソの信徒への手紙 3章16 〜21節

どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。

また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。 わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

「私たちの思いをはるかに超えて願いをかなえる神」
エフェソの信徒への手紙 3章14〜21節

宣教:岡村牧師

今日読んでいただく聖書の言葉は、パウロの祈りの内容が記されています。3章20、21節の言葉に私はまず心を惹かれます。

「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」

神は、パウロが祈りの言葉で表現しているように、わたしたちが求めたり思ったりすることすべてをはるかに超えてかなえることがおできになる方です。その神に対してパウロは「教会により、またキリスト・イエスによって」栄光が世々限りなくありますように、と祈っているのです。「教会により」という言葉が入っていることに驚きます。その教会を構成する人々がこうでありますように、とパウロは16節から19節で表現しています。

エフェソの信徒への手紙は、パウロが牢獄に捕らわれている中で書かれた手紙です。牢獄の中でパウロがひざまずいて祈るほどに切にとりなし祈った内容は、キリスト教会の信徒たちの信仰が、心にキリストが住むことによって愛に根差して生き、他の信徒の人々と共にキリストの愛による臨在を体験して神により満たされることでした。パウロがこのように切に祈らねばならないほど、キリスト教会の人々が、人の言葉や社会の評価、周囲の状況によってその信仰が弱く崩れてしまう現実があったのだろうと想像いたします。私たちもキリストへの信仰告白をした者として、教会のからだとして、キリストの愛に根差して他の人々と共に立たせていただけますように。

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2014年2月9日

◆聖書の言葉◆
マルコによる福音書 12章14 〜17節

彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」
イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」
彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、
イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。

「神の国の国籍を持つこの世の住人として」
マルコによる福音書 12章13〜17節

宣教:岡村牧師

キリスト教会は、様々な人々が集まって来ることができる自由な礼拝の場です。イエス・キリストを救い主と信じる人々と、特に信じているわけではないけれども様々な理由で足を運んでくださる人々と、共に集まってひととき聖書の言葉に向き合い、讃美歌を歌い、祈りに心を合わせてアーメンと唱和し、聖書からの話に耳を傾ける、という機会を神は豊かに祝福して下さっています。キリスト教会はどのように社会状況が変化しても、神への礼拝を絶やす事はないでしょう。

信仰の自由が与えられている今の日本ですが、世界を見回せばキリスト教の信仰を禁じている国や政府があり、信仰の自由は必ずしも自明のことではないことに気がつきます。この日本でも歴史の中でキリスト教の信者への厳しい弾圧がありました。戦争の時代も政府に都合が悪いと思われる教義をもつ宗教の信仰者は迫害されました。 なぜか? それは権力者を脅かす存在になると考えたからです。

さて、今日の聖書の言葉で、イエスに敵対する人々がイエスを陥れようとした罠は、政治と宗教に関するものでした。政治的最高権力者であるローマ皇帝への税金を納めることは、当時のユダヤ教の律法に適っているかいないか、という質問でしたが、イエスは以下のように答えました。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

政治と宗教が混然としていた時代に、イエスはこの世の国に所属する者の信仰の立ち位置を教えてくれています。

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2014年2月16日

◆聖書の言葉◆
マタイによる福音書 16章13 〜20節

シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。

「有限」
マタイによる福音書 16章13〜20節

宣教:古田執事

「50年後の同じ日、2月16日にこの場所で会おう。」これは、デス・エデュケーション(Death Education)の冒頭で生徒たちに発する言葉です。

50年後となると、私はまず生きていないでしょう。16歳の生徒たちも、1クラス45名ほどいれば、66歳の時に全員が揃っているということはまずありません。残念ながら、何人かは欠けていると思います。50年後と言わず、来年の2月16日と言っても、もしかしたら召されている人がいるかもしれません。

私たちは、お互いが「余命数十年」です。当たり前のことですが、私たちの人生は有限です。終わりがあります。いつまでも同じように生きていられるわけではありません。限りのある人生を、ゆるされて生かされている私たち。その中で、小さなことから大きなことまで、「選択と決断」を迫られます。選択と決断の連続が人生であるとも言えます。選択と決断を、いつまでも先延ばしにしているわけにはいきません。

さて、人生における最も大きな決断は、何でしょうか。マタイによる福音書のピークとも言われる「ペトロの信仰告白」から共に学んでみたいと思います。

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2014年2月23日

◆聖書の言葉◆
ヨハネの黙示録 21章 3〜4節

そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

「死も悲しみも嘆きも労苦もない世界」
ヨハネの黙示録20章11〜21章4節

宣教:岡村牧師

キリスト教会では聖書が信仰の規範となっていますので、どんな時にも聖書の言葉を大切にしています。読み方、解釈は様々ですが、聖書の中心はイエス・キリストです。日本に住む私たちには現在どのような宗教を信じる自由も与えられています。しかし日本でもキリスト教会が自由を保障されて伝道活動を行えるようになったのは、敗戦後に日本国憲法が成立して以来のことです。自由の無い息苦しい時代について知る人びとが次第に少なくなってきています。

今日ほんの一部だけ読むヨハネの黙示録は、書かれた時代は紀元95〜96年ごろと学者たちは推測しています。ローマの皇帝ドミティアヌスの支配下にある時代の中で、キリスト教徒への弾圧が再び次第に強まっている時でした。一人の預言者が牢獄の中で神からの啓示を受けて、キリスト教徒たちを励ますために執筆しました。

今日は、自分たちキリストを信じる人々や世界は最後にはどうなるか、という言葉が記されている箇所です。

「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

人間が味わったことのない至福についてこのような言葉にして表現されていますが、その意味を考えてみたいと思います。そして今私たちはどう生きたら良いのか、それぞれの心に神からの語りかけや導きがありますように。

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2014年3月2日

◆聖書の言葉◆
使徒言行録 17章29 〜34a節

わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。それで、パウロはその場を立ち去った。しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。

「福音を受け取る人がいるから」
使徒言行録17章22〜34節

宣教:岡村牧師

3月、2013年度最後の月になりました。教会は4月20日にイースター(イエス・キリストの復活祭)を迎えます。教会にとっては毎週日曜日に集まる時がイースターであり、クリスマスであり、ペンテコステでありますけれども、マンネリになりがちな生活の中に、このような教会暦があることは、自分たちの信仰が鼓舞されるために大切なことであると思います。そしてそれだけでなく、これらのお祭り・記念日は、教会がキリストの福音を世の中の人々に伝える良い機会にしてきました。

クリスチャンはだれも自分で勝手に生まれたクリスチャンはいません。私たちがこの地上に生まれてくるためには親がいなければならなかったように、私たちがクリスチャンとして生まれるために、神は人や書物や祈りをとおして導かれました。

伝える人がいました。パウロはユダヤ社会に生まれたキリスト教を、世界に伝える働きをした伝道者でした。今日の箇所でヘレニズム文化の中心で多神教の神々を信じるアテネの人々が、初めて一神教のキリスト教に接した時の話です。ギリシャ哲学の都市に恐れず進み入ったパウロは、はっきりと復活のキリストを伝えました。

≪死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。それで、パウロはその場を立ち去った。しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。≫(32〜34a節)

教会はどのような時代になってもキリストの福音を語り続けます。一人の求める人を大切にされたキリストにならって、教会は一人の人が救われるために祈り続けます。パウロのアテネ伝道は失敗ではありませんでした。信じた人がいたのです。

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2014年3月9日

◆聖書の言葉◆
マルコによる福音書7章31 〜36節

それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。
すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。

「イエスによる解放と自由と私たち」
マルコによる福音書7章31〜37節、8章22〜26節

宣教:岡村牧師

大多数と少数、大きい者と小さい者、声が大きいものと小さいもの。この世界では大多数の声の大きいほうが時に正義とみなされてしまうことがあります。しかしイエスは、脇へ押しのけられた人の声を大切にし、不自由さに縛られていた状況から人を解放しました。神を信じ従う自由を選べるように導かれたのです。

今日の箇所マルコによる福音書7章のほうでは耳が聞こえず舌の回らない二重の困難を抱える人がイエスによっていやされた出来事について書かれており、8章のほうでは目が見えない人がイエスから視力を与えられたことが記されています。生まれつきこのような障がいが与えられていたのかはわかりませんが、聖書にあるその時代にそれらの人々は罪の結果だとされました。しかし、ヨハネによる福音書でイエスが言われた次の言葉が心に響きます。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネによる福音書9章3節)

多くの人々が当たり前のように与えられている耳、口、目。その機能が不自由ということは不自由ではない人々の生活に合わせて動いている社会では困難をもたらします。自分の生活が困難になるということは人の助けが必要となるということです。

奇跡を起こした後でイエスは人々に口止めをされました。また目が癒された人には「この村にははいってはいけない」と言われました。イエスの死期を早めたかもしれない奇跡の業。あえて行うイエスの姿に神の愛を想います。

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2014年3月16日

◆聖書の言葉◆
マルコによる福音書 10章23 〜27節

イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」
弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。
金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。
イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」

「神はなんでもできるから」
マルコによる福音書10章17〜27節

宣教:岡村牧師

今日の聖書の箇所には、金持ちの人とイエスの対話が出てきます。イエスは弟子たちに言われました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。…金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」

自分が神のみに信頼している敬虔な者であると思いこんでいたけれども、イエスとの対話の中で自分の問題に気がつかされる人の驚き。最も自信があるところに罪が入りこむことが指摘されているようにも思います。この人はそれを指摘されたことから、以後悩みつつも祈りながら決断していく余地が残されているのです。自分は罪深いものなのだ、と認識するのは他者との比較ではありません。神の前に出る時に私たちはそれを認めずにはいられません。

願わくは、この金持ちの人がそれから先の人生で、イエスとの対話を思いかえしながら、イエスの言葉に従っていくものとなりますようにと祈りたい思いになります。

イエスの上記の言葉をなぜ?と考える時に、全てこの世は経済が中心の世界であることに気がつきます。平和が大切と言いながら、経済が回っていくために戦争を利用しなければならない仕組みになっている世界経済の事情は異常ですが現実なのでしょう。しかしそれはつまり、それほどにお金の力は昔も今も恐ろしいほど強いということです。お金は権力と結びつきます。

富を有することが必ずしも悪い事ではないでしょう。持っても持たなくても、金や経済的な縛りから自由になることをイエスは教えて下さいました。

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2014年3月23日

◆聖書の言葉◆
マルコによる福音書15章

16〜20節 兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。

21節 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。

25〜32節 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。*こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、

15:30 十字架から降りて自分を救ってみろ。」 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

「侮辱の苦しみを担われた主」
マルコによる福音書15章16〜32節

宣教:岡村牧師

今日の箇所は、イエスに対する侮辱の言動で満ち満ちています。イエスは、神の国を人々に教え、罪の赦しを宣言し、時には奇跡を起こして、苦しむ人々を助けました。ひょっとしたらこの方が神が遣わされた偉大な救い主ではないか、と大きな期待を寄せていたのに裏切られた、という思いでイエスをののしる人もいたでしょう。

誰も人は自分を守るためなら必死で、あることないことまでも述べて自己弁護をするものなのに、イエスはただ人々がするままに、なぶりものにされ、打ちたたかれ、唾まで吐かれても、黙したままでした。

『そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。』 (マルコ15:29-32)

人は自分が侮辱されることには大変弱いものであると思います。自分が馬鹿にされたと感じると何倍にも見返してやらなければ気が済まないあまりに、殺人事件すら起こしてしまうような怒りが引き起こされることを私たちは日常茶飯事に見聞きします。

侮辱されるとすぐにカッとなって自制心を忘れる私たち人間ですが、そのような私たち人間を救うために、イエスはあらゆる侮辱に表される罪を全て負われました。

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2014年3月30日

◆聖書の言葉◆
マルコによる福音書 9章35 〜37節

9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

「子どもとイエスと私たち」
マルコによる福音書9章30〜37節

宣教:岡村牧師

私たちは一人残らず皆、子どものときがありました。子どもの時の環境や体験は、その人の後の人生に大きな影響を与えると言われます。イエス・キリストがこの地上に生活をしていた時代では、子どもは体の大きさだけではなく、最も小さな存在の者として扱われました。子どもの教育にはユダヤ人は大変熱心でしたけれども、その中心は聖書の言葉(旧約聖書のモーセの律法の書)を覚えて学ぶことでした。

私たちはいつの頃から競争ということに直面するのでしょうか。幼稚園や学校に行き始める頃から成績が出されるようになると、いつの間にか自分と他者を区別し、一番を目指すようになるものかもしれません。

今日のマルコによる福音書9章33節、34節を見ますと、弟子たちの間でだれがいちばん偉いかと議論をし合っていたとあります。イエスが弟子たちに間もなく自分が殺されることや復活する事を話したばかりのことでした。

そのような弟子たちに対して、イエスはとても大切なこととして子どもを彼らの真ん中に立たせて、抱き上げて言われました。 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(9章37節)

つまり、子どもとイエスと父なる神の関係を述べているのです。それは現在の私たちとイエスと神の関係も同じです。イエス・キリストをとおしてもたらされた恵みによって、神は私たちが神の子どもたちになったことを、活き活きと体験をさせてくださっています。とっても安心できる嬉しいこととして。。。

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