TAKARAZUKA BAPTIST CHURCH

日本バプテスト連盟  宝塚バプテスト教会

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■■ 本日の宣教から ■■

主日礼拝当日の週報に掲載されている「本日の宣教から」を再掲しています。

当日の宣教の箇所の概要や導入にあたるメッセージとなっています。

2012年度

1週

2週

3週

4週

5週

4月

1日

8日

15日

22日

29日

5月

6日

13日

20日

27日

 

6月

3日

10日

17日

24日

 

7月

1日

8日

15日

22日

29日

8月

5日

12日

19日

26日

 

9月

2日

9日

16日

23日

30日

10月

7日

14日

21日

28日

 

11月

4日

11日

18日

25日

 

12月

2日

9日

16日

23日

30日

1月

6日

13日

20日

27日

 

2月

3日

10日

17日

24日

 

3月

3日

10日

17日

24日

31日

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2012年4月1日

◆聖書の言葉◆ マルコによる福音書 15章29〜34, 37〜39節

(29〜34節)
そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。
「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」
同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。
「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」
一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

(37〜39節)
しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

「神の子イエスの死」
マルコによる福音書15章13〜39節

宣教:岡村牧師

 4月8日のイースター(復活祭)を前に、今日から受難週に入ります。イエス・キリストの地上での最後の1週間のことを覚えて過ごします。 十字架につけられるその週にイエスは子ろばに乗ってエルサレムに入城されました。
 親しい人々がいた近くのベタニヤなどへ出たり入ったりなさりながら弟子達や人々に神の国のたとえ話や、エルサレムの壮麗な神殿が崩壊する予告、艱難の時代がくることなどを語られました。十字架につけられる前日の木曜日には、愛する弟子の一人であったイスカリオテのユダが裏切ることを知りながら、最後の晩餐を弟子達と共に行います。
 最後の晩餐の時にヨハネ福音書では、イエスは弟子たちの足を順番に洗うという、驚くほどへりくだった、印象に残ることをなさったことが記されています。オリーブ山のゲッセマネの園では、最後の祈りの闘いをなさり、裏切ったユダの導きで政府筋に捕らえられて裁判にかけられます。
その裁判の中で、ローマの総督ピラトは、群衆の「十字架につけよ」という激しい叫びに屈して、イエスの十字架刑が決まります。木曜日の夜から金曜日にかけて、イエスは人々から侮辱されるがままになって、金曜日に十字架につけられて息を引き取られました。
 今日の聖書の箇所は、弟子たちをはじめ人々が期待した救い主の姿とはおよそかけはなれたイエスの姿です。人々の侮辱の行為に抗議もせず黙ってされるがままになって、一見すると弱いみじめな姿が表されています。人間のもつ恐るべき罪のあり様が一気に噴き出た中で、イエスは神から捨てられるという最も恐ろしい罰を受けて死なれたのでした。あなたを、私を、全ての人を、罪から救って永遠に神と共に在るようにしてくださるためでした。

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2012年4月8日

◆聖書の言葉◆ ルカによる福音書 24章32〜43節

 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

「イエス・キリストは復活されている!」
ルカによる福音書24章30〜43節

宣教:岡村牧師

 イースター、おめでとうございます! イエス・キリストはよみがえっておられます! 2000年前に復活なさったキリストは、今も我らと共におられる神です。
 今日の招詞の言葉は、同じ24章1−9節の言葉です。「そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。『なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。』そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人と他の人皆に一部始終を知らせた。」
 誰も経験したことのない復活ということ。確かに死んで墓に葬られたイエスが復活した、その証人になるということが弟子たちの重要な役割でした。その最初の役割をしたのは、墓まで足を運んだ女性たちでした。しかし主イエスの復活の出来事を弟子達に伝えても彼らは信じることができませんでした。あらかじめそのことを予告されていた弟子達でさえ信じられない前代未聞のことでした。
 神は、遠く神の座について私たちから遠く離れておられるのではなく、私たちと共に歩んでくださる身近におられる神であることを、ルカ24章で弟子達に現れた神の様子は語っています。神は人間の理解力に合わせて、弟子達に対して懸命に努力してさえくださるお方です。

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2012年4月15日

◆聖書の言葉◆ 使徒言行録 13章36 〜39, 42〜43節

 ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。
 パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。 集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。

「神の恵みの下に生き続ける」
使徒言行録13章1〜5a, 36〜43節

宣教:岡村牧師

 使徒言行録13章と14章は、パウロの第一回伝道旅行の様子が記されています。イエス・キリストの福音を受け入れる人々もいれば、暴力的に反対し、口汚くののしる人々もいました。様々な妨害があったにもかかわらず、イエス・キリストによる罪の赦しによって信じる者は義とされる、という神の恵みを聞きたい、と集まる人々が大勢いた事が記されています。
 アンティオキア教会は、様々な国の人々が集まっていた国際教会でした。育ってきた背景の文化や教育が違う、言葉が違う、社会的地位が違う、など違いを並べたらいくらでもあるお互い同士が、イエス・キリストを信じるというその一点によって、祈りを一つに合わせることができていたのです。
 パウロは復活のキリストと出会うという体験をして回心してから、キリストを信じる人々に導かれてアンティオキア教会で教会生活を営みました。神から教会にビジョンが与えられて、パウロはバルナバと共に世界にキリストの福音を伝える旅に出ることになります。
 パウロたちが最初に行ったのは、バルナバの故郷のキプロス島でした。魔術師にあって対決して勝つ、というような事も経験しますが、彼らは神からいただいた恵みを言葉で伝えました。ユダヤ人会堂で堂々と、秩序に従いながらキリストの福音を語って伝えました。イスラエルの歴史と聖書の言葉によってイエス・キリストこそが昔から預言されていた救い主であることを語り、その驚くべき恵みについて語りました。イエスを信じる者は誰であろうと、罪が赦されて、神に受け入れられるという恵みです。罪の結果の罰におびえて自分を責め続けて生きることではなく、神の恵みのもとに感謝して生きる生き方です。

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2012年4月22日

◆聖書の言葉◆ 
テサロニケの信徒への手紙I 5章9〜10節

 神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。
ローマの信徒への手紙 14章9節
 キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。

「目覚めていても眠っていても」
テサロニケの信徒への手紙I 5章9〜11節

宣教:岡村牧師

 今日は「召天者記念礼拝」として、先に神のもとに旅立たれた方の御家族をお招きして、共に礼拝をいたします。このように御家族が教会に集まって共に神を礼拝することは、召天された方々は、きっと喜んでおられることでしょう。神のもとに召された方々は私達よりも神を知って学んでおられるだろうと聖書から推測できるので、地上の私達が共に集まって神を礼拝することは召天された方々にとっても喜びだろうと思います。
 イエス・キリストが死より復活させられたということが、キリスト教においては聖書の中心であり、そこから全ての事が始まっています。
 今日読むテサロニケの信徒への手紙?Tは、西暦51年ごろにパウロが書いた手紙です。ローマ皇帝カリグラ、クラウディウス、ネロなどがキリスト教徒を迫害した時代の中で、キリスト教徒たちは命がけで信仰を守りました。 パウロはこのほかにも色々な手紙を書きましたが、新約聖書の中で、パウロが書いたこの手紙は一番年代が古いもの、つまり最初に書かれたものとされています。
 その時代は、キリストが約束された再臨は遠い先のことではないと思われていました。パウロはテサロニケに残してきたテモテから、テサロニケのキリスト教徒たちが迫害に耐えて信仰によって生きている事を聞いて喜ぶとともに、彼らの疑問を聞き、それに答えるかたちでこの手紙を書いています。その疑問とは、キリストが再び地上に来られる再臨のときに、既に死んでしまった人々はどうなるのだろうというものでした。
キリストがわたしたちのために死なれたのは、私たちが生きていても死んでいても主と共に生きるようになるためだと、パウロははっきりと語ります。

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2012年4月29日

◆聖書の言葉◆ 
使徒言行録 16章1節〜4節

 パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた。 彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった。 パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。 彼らは方々の町を巡回して、エルサレムの使徒と長老たちが決めた規定を守るようにと、人々に伝えた。

「信仰による自由さ」
使徒言行録 15章36節〜16章5節

宣教:岡村牧師

 使徒言行録には、目覚ましい聖霊の働きが記されていますが、聖霊の働きは奇跡や伝道が進んでいくということだけにとどまりません。聖霊の働きは、人々が集まって会議をする中にも見られました。使徒言行録15章前半には、使徒と呼ばれた人々がエルサレム教会に集まって、重要なことを協議し、決議したことが記されています。
 イエス・キリストはユダヤ人として活動し、イエスの死と復活から生まれたキリスト教はユダヤ教を母体としていました。ユダヤ人達はユダヤ教の信仰の規範である律法によって宗教生活を営んできましたが、キリスト教が外国に伝えられていった時に、どこまで新しいクリスチャンたちが、ユダヤ人たちが今まで大切にしてきた律法を守るべきかが論争になりました。その中で最大の懸案事項が、割礼でした。キリスト教信者になるために、ユダヤ教で大切に守られてきた割礼を必要条件として行うということに、パウロは真っ向から反対しました。イエス・キリストを心に受け入れる信仰によってのみ人は救われることを主張し、一歩もゆずりませんでした。そして会議でそれは承認されたのです。
 その他に4つの守るべきことが確認されましたが、どこの国の誰であろうと、過去がどうであろうと、イエスを主と信じる者は誰でも教会の一員になることがゆるされたのでした。
 今日の箇所は、大変興味深い記事が書かれています。重要事項で一致したパウロとパルナバでしたが、個別のことでは意見が異なり、決裂するまでになったことが描かれています。また、パウロがあれほど割礼を強制しないことを全教会に認めさせたにもかかわらず、今日の箇所では私たちが驚くようなぶれを見せています。福音のためなら何でもするパウロの自由さ、必死さが見える気がします。

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2012年5月6日

◆聖書の言葉◆ 
ガラテヤの信徒への手紙 3章26節〜28節

 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。

「キリストを着ている」
ガラテヤの信徒への手紙 3章26節〜28節

宣教:岡村牧師

 先週の礼拝で、KさんとM君がイエス・キリストを信じてバプテスマ(浸礼)を受ける決心を表して下さり、教会中が驚きと感謝と喜びに包まれました。信仰告白をしてバプテスマを受けるために何の条件もありません。十字架につけられて死に三日目に復活なさったイエス・キリストへの信仰によってのみ人は救われる、と聖書は宣言します。
 パウロがこのガラテヤの信徒への手紙を書いた時代にはまだ新約聖書はできていませんでした。後の人々のためにも初代教会のキリスト信仰の基礎づくりを神はパウロを用いて進められました。救われるとは、神によって罪がゆるされることですし、神の国の市民になることであり、神のものとなることです。それは、目には見えないことですし、信仰の世界ですけれど、具体的には公に信仰を表してバプテスマを受け、教会の一員となることがそれを意味しています。
 ガラテヤ地域はパウロの第1,2回伝道旅行で生まれた教会がいくつかあったようです。パウロが伝えた信仰による救いに、割礼をするという条件を付け加える教えを、ガラテヤの諸教会の信徒が受け入れたことを知ったパウロは、驚き、怒り、悲しみながら必死に説得しています。
 イエス・キリストによる救いは、私たちが何か良いことをしたからではなく、難しい条件を成し遂げたからでもなく、ただ一方的な神の恵みとして受け入れることですから、あまりに単純過ぎて人は戸惑うものかもしれません。
色々な差別が今よりも顕著にあった時代に、クリスチャンたちの集う教会は、それぞれが「キリストを着て」「男も女もなく」キリスト・イエスにおいて平等であり、一つされているとパウロは言います。教会はこの在り方を生きるように導かれます。「キリストを着ている」私たちだからです。

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2012年5月13日

◆聖書の言葉◆ 
マタイによる福音書 5章4節

 悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる。
コリントの信徒への手紙II 1章4節〜5節

 神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。

「悲しむ人々は幸いである」
マタイによる福音書 5章4節

宣教:岡村牧師

 「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる。」
 イエス・キリストの山上の説教の中の言葉です。悲しむ人々とは誰の事でしょうか? 人間である限りどんな人も悲しみを経験します。一人一人が体験する悲しみに対して、慰められるとイエスは言っておられるのでしょうか。
 この山上の説教は、イエスが弟子たちに対して語られた言葉ですが、弟子たちを取り巻くように群衆も集まって聞いていたのでしょう。マタイはユダヤ人の習いに従って「神」という直接の言葉を用いずに、「天の国」と表現していますが、イエスは神の国のことを人々に教えて巡りました。神の国の民である人々は、このように祝福されているのだ、ということをイエスは述べておられます。神は私たちに祝福を与える為にイエスをこの世にお遣わしになりました。その祝福は神の約束です。キリストの十字架のゆえの祝福です。
 東日本大震災の地震と津波と原発被害で家族や家屋や土地を失った人々の地へ足を運ぶ機会がありました。日本バプテスト連盟では、悲しむ人々と関わり続けることを大事にして、近隣のバプテスト教会の人々が仮設住宅の方々との交わりや情報提供を定期的に行っている様子を見てきました。ただただ寄り添うことを大切にし、その声に耳を傾ける忍耐強い活動です。そして、私たちが送る支援物資が役立っています。
 キリストの恵みに与る人々が手を伸ばして、届いていく人々もまた、祝福の中に入れられていくイメージをもちました。神により慰められるのです。

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2012年5月20日

◆聖書の言葉◆ 

マタイによる福音書 7章13節〜14 節

 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

「命への道」
マタイによる福音書 7章13〜14節

宣教:岡村牧師

 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
 「狭き門」という言葉は日本では、入学試験や就職試験時に倍率が高い時に用いられる一般的な言葉となっています。しかし本来の言葉の由来は上述のマタイによる福音書7章13-14節のイエスの言葉からきています。
 神は強制的に人を導かれません。人間に自由意思を与え、アダムとイブのときから選択の意志を尊重されるお方です。二つの道があってそのどちらかを選ぶという表現は聖書によく見られます。旧約聖書の申命記30章19節〜20a節には、モーセを通して神と人との契約の言葉として次の様な言葉があります。 「わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。」
 命に通じる門と、滅びに通じる門があって、どちらを通るかその選択は一人一人に委ねられているのですが、イエスは狭い門から入りなさいと勧めておられます。しかしその狭い門は誰にでも見つけられるものではないのです。原発の放射能汚染の問題を抱える世界で、このイエスの言葉が重なって見えます。イエスがおっしゃるのは永遠の命のことです。しかし、永遠の命は、地上の限りある命をどう生きるか、ということと関係があります。

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2012年5月27日

◆聖書の言葉◆ 

使徒言行録 2章17, 20, 21節

 2:17 『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。・・・・・ 2:20 主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。 2:21 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

「キリスト教会誕生の日」
使徒言行録 2章1〜22b節

宣教:岡村牧師

 キリスト教が大切にしている三大記念日は、「クリスマス」と「イースター」と「ペンテコステ」です。神の子イエス・キリストが死んで三日目によみがえられたことから、イエスの誕生を祝うクリスマスとイエスが約束なさった聖霊降臨の出来事も大切な記念日と制定されていきました。ペンテコステは、聖霊降臨によってキリスト教会が生まれたことを祝います。
 ペンテコステはもともとユダヤ教の五旬節のことで、過ぎ越しの祭りから数えて50日目に行われる祭りでした。お祭りで大事な記念日でしたから、この日には多くのユダヤ人たちが神殿のあるエルサレムに集まってきました。
 人々が多く集まる中で、とても不思議なことが起こりました。その日はエルサレムから遠く離れて世界に散って住んでいるユダヤ人たちやユダヤ教に改宗した人々が集まっていたのです。人々はエルサレムに来ればヘブライ語やアラム語で話をしましたけれど、普段は自分が住む国や地域の言葉で生活をしておりました。
 その日、一つに集まっていたイエスの信徒たちの上に聖霊が降り、一同は聖霊が導かれるままに他の国々の言葉で話しだしたのです。そこには12カ国以上の国々から来た人々が集まっていたのですが、彼らはその12カ国以上の言葉で神の偉大な業について語り始めました。外国から来た人々が、慣れ親しんでいる自分の国の言葉で神の御言葉を聞くことができたときの驚きはどんなだったでしょう。とまどいつつもよく理解できるという喜びが隠れてあったことでしょう。堂々と語る人々は、弱さと恐れを変えられた弟子たちでした。

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2012年6月3日

◆聖書の言葉◆ 

マルコ福音書 10章42〜45節

 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

「奉仕の原点」
マルコによる福音書 10章35〜45節

宣教:岡村牧師

 日本はクリスチャン人口が1パーセントに満たないという数字が長い間続いています。数にとらわれるのではなく質こそ大切だ、と言いますが、一人でも多くの人がイエス・キリストを知って信じて、神への信頼と希望に満ちた人生を送ってほしいと、どの教会でもどんなクリスチャンでも考えている事でしょう。
 大きい教会であっても、小さい教会であっても、キリストが頭である教会のからだの形成が、イエス・キリストが語られた言葉とその生き方、死に方にふさわしく成長していくことが期待されています。
 今日の聖書の箇所で、弟子たちの中の二人が、将来一番栄光ある座に就くことを求めたときに、イエスは言われました。
 「・・・あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
 ヤコブとヨハネが、人々が信じ尊敬するイエスの傍らに座って、自分も尊敬される偉い人になりたい、権威をもつものとなりたい、と願う思いは、人間の自然な性質であるのかもしれません。
 しかし神がイエス・キリストを通して教えられた権威は、他者への奉仕の姿でした。神の言葉の権威の下にひざまづき、神の子キリストでありながら、弟子たちの足を洗うへりくだりを教えて下さり、裏切った弟子たちを愛し抜かれて、十字架の死に至るまで神の言葉に従われた主イエス。わからないながらもイエスを見上げて、悔い改めつつ進んでいきたいと思います。

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2012年6月10日

◆聖書の言葉◆ 

サムエル記上 3章8 〜10 節

 主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。 主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております」。

「主よ、お語り下さい。僕は聞きます」
サムエル記上 3章6〜19節

宣教:岡村牧師

 神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られましたが、この終わりの時代にはイエス・キリストによって私たちに語り続けておられます。
 サムエル記上3章は、イエス・キリストが誕生する1100年ほども前のお話で、サウル、ダビデ、ソロモンなどの王制に入る前に、最後の士師としてまた預言者として活躍したサムエルが神に召されて預言者としての任についたときのことが記されています。
 「サムエルの祈り」という絵を見た事がある方々は多いのではないかと思います。サムエル記3章10節の幼いサムエルの言葉「主よ、お語り下さい。僕は聞きます。」をテーマにした絵画は多くあると思いますが、幼い一人の子どもが膝まづいて両手を組んで祈る姿を描いたその絵には心を打つものがありました。
 子どもの時から主とはどなたかを知っていて祈れることは幸いです。サムエルの頃は神から特別に選ばれた人々が、神からの言葉を人々に告げる使命を持っていました。祭司の役割はレビ族にだけ与えられた役職で、世襲でありました。ところがこのサムエルは祭司エリの血を分けた子どもではありません。神の導きによってサムエルは、祭司エリのもとで育てられ、神はエリではなくサムエルを選んで神の言葉を託しました。神は自由に御自分の御こころにかなう人々を用いて事柄を導かれます。
 旧約聖書のヨエル書にも新約聖書の使徒言行録にもあるように、神はすべての人にわが霊を注ぐとあります。今はその終わりの時なのです。神の霊は、キリストが頭になっておられる教会に注がれています。聖霊の働きに私たちは参与しています。主に導かれながら、恐れず歩みたいです。

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2012年6月17日

◆聖書の言葉◆ 

ルカによる福音書 18章 3 〜 7節

 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。

「気を落とさずに祈ること」
ルカによる福音書 18章1〜8節

宣教:岡村牧師

 あなたがクリスチャンと呼ばれる人ならば、聖書にあらわされている神に初めて祈ったときのことをきっと覚えておられるでしょう。神とはっきりわからない存在に対して漠然と祈る、ということではなく、イエスキリストのお名前によって祈るということを初めてしたときというのは、人にとっては革命的な一大事なのではないでしょうか。祈る対象がどなたなのかはっきりして、自分の口で自分の言葉で祈りをささげたときというのは、きっと神様にとっても嬉しい大事な一歩として、天において覚えられていることだろうと思います。
 先週は旧約聖書サムエル記上3章から、「主よ、お話し下さい。僕は聞いております。」という姿勢が祈りの基本だということをお話ししました。神の言葉が降って来るようには聞くことができないこの時代、私たちが祈るときの姿勢はどうでしょうか。
 今日の聖書の箇所は、気を落とさずに絶えず祈ることの大切さを教えるためであると書かれています。祈りについて聖書は様々な方向から語っています。マタイ福音書の山上の説教では、イエスは偽善者的な祈りを批判し、言葉数が多い祈りを避けるように述べておられます。さらに、神は願う前から、必要なものをご存じだとも言われます。
 今日の箇所に出てくる弱者の代表のようなやもめの「しつこさ」「あきらめないで願う」ということは、イエスが山上の説教で言われた祈りの本質とどのように整合性を見いだすことができるでしょうか。

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2012年6月24日

◆聖書の言葉◆ 
イザヤ書 46章3〜4節

  (前段省略)。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。
   同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで白髪になるまで、背負って行こう。
  わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。
ヨハネの黙示録 1章8節

 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

 

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2012年7月1日

◆聖書の言葉◆ 

ルカによる福音書 10章18 〜20節

 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

「名が書き記されている」
ルカによる福音書 10章17〜20節

宣教:岡村牧師

 今月は、当教会では一人の方の信仰告白に基づいてバプテスマ式が行われます。神の国の一員となる人が生まれます。嬉しいですね。具体的なこの世の生活においては、宝塚バプテスト教会の一員となることになります。教会員手帳が渡され、教会籍原簿に名前が登録されます。
 今日の聖書の箇所は、イエス・キリストを信じて従う人の名前が天に書き記されているとイエスがおっしゃり、そのことがどれほど重要な事で喜ばしいことであるかを教えておられます。
 私たちは社会で色々な活動をしていますから、それぞれの活動を行っている組織に入る場合はそこで名前が登録されます。結婚すれば役所に夫婦として名前が登録されます。子どもが生まれれば家族として登録されます。社会生活の中で、自分の名前が覚えられまた登録されるということは、責任を負うと共に恩恵に浴する権利も得て守られることでもあります。
 ルカによる福音書10章1節を見ると、イエスは神の国の福音を伝える為に72人の人々を任命して社会に遣わしておられます。17節で彼らが戻ってきた時に、彼らは喜びに満ちて報告をしました。なぜならば、サタンさえもイエスの名の前には屈服するという今までには経験したことのないことを彼らは味わったからでした。イエスの名前によって祈ると病が癒されたり、悪霊が出ていき人が正気にもどったりすることを目の当たりに見たら、それは、ワクワクするような体験だったでしょう。
 しかしイエスはおっしゃるのです。どのような賜物や力にもまして、喜ぶべきこと、それはあなたの名が天に書き記されることだと。

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2012年7月8日

◆聖書の言葉◆ 

ヨハネによる福音書 15章12 〜15節

 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

サムエル記上 18章3〜4節

 ヨナタンはダビデを自分自身のように愛し、彼と契約を結び、着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を剣、弓、帯にいたるまで与えた。

「友となってくださった神」
ヨハネによる福音書 15章12〜15節
サムエル記上 18章1〜4節

宣教:岡村牧師

 今日のキーワードは「友」です。聖書では「友」に関する言葉が様々に出てきます。旧約聖書サムエル記にはダビデとヨナタンが世にもまれな深い友情で結ばれている様子が記されています。「友」に関する言葉でまず旧約聖書から心に留まっている言葉を二つだけご紹介します。

★詩編15編1〜3節「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り、聖なる山に住むことができるでしょうか。それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり、舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人をあざけらない人。」
★コヘレト4章9〜10節「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば一人がその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友の無い人は不幸だ。」

 イエスは新約聖書ヨハネ福音書15章12〜14節で弟子たちに対して次のように言われました。「15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」
 この言葉と、ダビデとヨナタンが結んだ友情について見ながら、イエスが弟子たち、ひいては私たちの「友」となってくださったとはどんなことなのか、知り、受け入れる一助となりますよう願います。

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2012年7月15日

◆聖書の言葉◆ 

ルカよる福音書 16章8 〜13節

 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。 また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

「永遠の住まいに入るために」
ルカによる福音書 16章1〜13節

宣教:岡村牧師

 大津市の中学校で中学2年の男子生徒が自死(自殺)するという事件が起こり、そのいじめの内容や学校や教育委員会の対応をめぐって日本中が震撼し憂いています。いじめられた生徒やいじめた側の生徒たち、また看過してしまった教師たちが、もしイエス・キリストを知っていたら、信じていたら…と考えてしまいました。イエス・キリストを信じていたら何もかもがうまくいくわけではない、ということは歴史が証明しているではないかと反論が返ってきそうです。
しかし、どのように言われようと、イエス・キリストを知っていること、信じていることは、知らないこと、信じないことにはるかに勝る恵みと力があると断言いたします。イエス・キリストに表される神は、罪人の弱さを無視される神ではありません。その人の根本から生まれ変えさせて下さる愛の力をもった神であります。
 今日のイエスがなさったたとえ話は、ルカによる福音書独自のもので、不正をしている管理人の話です。大変難しい喩え話でどの解釈が正しいとは言えません。語られたイエスご自身に聞いた人はいないのですから。しかしそれはまた私たちの自分の解釈がゆるされているということでもあります。
 この世にある不正はほとんどがお金に関係する事柄です。それは人間がいかにお金、経済に関心があり、またお金の力に弱いかを表しています。
 この喩えは、神を知り、神の存在を知る人々に語られたものです。不正をした管理人は何が最終的に大切なことなのかを知って、方向転換したといえないでしょうか。与えられた全てを管理する私たちへのメッセージです。

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2012年7月22日

◆聖書の言葉◆ 

コリントの信徒への手紙I 1章1〜9節
1:1〜3 
神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。  イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
1:8〜9 主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。

「聖なる者とされている」
コリントの信徒への手紙I 1章1〜9節

宣教:岡村牧師

 今日は宝塚バプテスト教会にとっての最高の喜びの日です。イエス・キリストを知らなかったKさんが、クリスチャンと出会った事から教会に来るようになり、今日の信仰告白とバプテスマ式を迎えることになりました。この喜びは、私たちの教会だけのことにとどまらないことなのです。その喜びは実に私たちの目には見えない神の国、天の天使たちの間でも大きな喜びがあると聖書には記されています。知らずに神に背いてきた一人の罪人がイエス・キリストを救い主と信じると、地上でも天の神の国でも最高の喜びで包まれるのです。
 今日の聖書の箇所では「聖なるものとされた人々」と言う言葉が冒頭に出てきます。イエス・キリストを信じたクリスチャンたちの事です。しかし、クリスチャンとは自分が神から罪をゆるされたけれども、この地上で生きる限りは罪を犯し続ける存在であり、やはり罪人である、という意識を持っています。クリスチャンとはいわゆる「ゆるされた罪人」です。クリスチャンは「聖なる」お方は神のみであると知る人であります。
 この手紙の著者パウロは、コリントにある教会の人々に語っているのですが、コリントは今のギリシャのアテネの西にある大都市で、商業が非常に発達した場所であるために経済的にも文化的にも爛熟していました。女神アフロディテなど様々な神々を信じる偶像礼拝が行われるような都市にキリスト教会が生まれていました。しかし教会内での人間関係のゆがみは恐ろしいほどのものがあったようで、そのような彼らに対してパウロは語っています。
 「聖なる者とされた」ことの意味が御霊の導きの中で深められますように。

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2012年7月29日

◆聖書の言葉◆ 

サムエル記下 16章12節
勝手にさせておけ。・・・主がわたしの苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸を返してくださるかもしれない。

コリントの信徒への手紙I 10章13節
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

「逃れる道」
サムエル記下 16章5〜12節
コリントの信徒への手紙I 10章12〜13節

宣教:岡村牧師

 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」 (1コリント10:13)。
 上記の聖句は、多くの人々の支えとなってきた言葉でありましょう。この言葉は自分自身への言葉であっても、苦しみの中にある人に対して軽々には語れない言葉かもしれません。この言葉の一つ前にある言葉が気になりました。「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」これは自分は大丈夫と内心思っている人への警告の言葉です。
 そして、「試練」と訳されている言葉の原語を調べてみると、今日の招詞のマタイによる福音書6章13節の言葉、「誘惑に遭わせず、悪い者から救って下さい。」の「誘惑」と原語のギリシャ語は同じ言葉を用いています。 また、イエスがバプテスマをお受けになってからすぐ悪魔の誘惑に遭っておられますが、その箇所に用いられている「誘惑」という言葉も同じ言葉が用いられています。
 試練と誘惑。随分ニュアンスが違います。試練は何か信仰の訓練のために神が良しとされた課題として受けますが、神は誘惑はなさいません。しかしどちらにしても自分では乗り切る事ができないことです。イエス・キリストの御名によって神への祈りができることははかり知ることのできない恵みです。

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2012年8月5日

◆聖書の言葉◆ 

ヤコブの手紙 1章19〜21節
わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。

「人の怒りと神の義」
列王記上 3章6〜9節
ヤコブの手紙1章19〜21節

宣教:岡村牧師

 明日8月6日は67回目の広島の原爆祈念日を迎えようとしています。今、ロンドンではオリンピックの熱い競技が行われていて、多くの人々は連日暑さを忘れて選手たちを応援しています。昨年10月に国連総会は、オリンピックの期間とその前後1週間は戦争をしない休戦期間とすることを193カ国間で承認しました。今後もそれが続いていくようにと願います。
 今日の聖書の言葉、ヤコブの手紙1章19−20節の言葉は心に留めておく価値がある言葉です。
 「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。」
 私たちには正義感というものが備わっていますから、その正義感に従って怒り、制裁をくだしたいという思いが出てきます。今日の箇所では、怒るなとは言っていませんが、怒るのに遅いようにしなさい、とあります。怒りを自分の感情に任せてすぐに行動した結果、大きな禍根を残したという経験をする人々は少なくないでしょう。自分の怒りがどんなに正当だと思っても人間の怒りというものは、神の義を実現しないからだと聖書は言います。
 「聞くのに早く」とは人の言葉に耳を傾けるということもありますが、神を知る者は神の言葉にまず心を傾けるということでありましょう。それは神へ聞く、祈るという姿勢をもつことでもあります。イエス・キリストはそれを教えてくださいました。

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2012年8月12日

◆聖書の言葉◆ 

出エジプト記 20章1〜2節
神はこれらすべての言葉を告げられた。 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」

「平和を実現するために」
出エジプト記 20章1〜17節

宣教:岡村牧師

 日本が直接関係した最後の戦争、第二次世界大戦に敗戦して67年経ちました。私は1950年生まれで、戦争が終わってから生まれましたので、直接の戦争の時代を経験していません。今でも戦争の様々な後遺症に苦しむ人々が大勢いて、それらの方々の状況を知り証言を聞くことによって、私たちは戦争の残酷さ悲惨さ愚かしさをわからないなりに認識して、二度と戦争を起こさない覚悟と決意をもつ教育を受けてきました。
 しかしイエス・キリストを救い主なる神であると信じる者たちは、戦争をしない理由、加担しない理由の根拠をまずイエス・キリストに置きます。
 私たちの教会は、日本バプテスト連盟326の教会・伝道所の一つです。日本バプテスト連盟を含めてキリスト教会は、戦争当時一つにされていました。戦後日本バプテスト連盟は自立し、過去の戦争に協力した事を神と人の前に悔い改めていなかった事を悔い改め、2002年に【平和宣言】を造りました。その基本的な形は、旧約聖書の十戒から成り立っています。ただし、新約の時代のイエス・キリストというフィルターを通しての解釈です。
 連盟の【平和宣言】の「前文」の一部に次のような文章があります。「…神は奴隷の地エジプトから人々を解放し、十戒を与え、救いの出来事に応答して生きることを命じた。主イエスは十字架と復活を通してこの律法を成就された。それゆえ私たちは十戒を死文と化してはならない。教会は十戒を生きる。この世界の中で主のことばに従って平和を創り出していくために、日本バプテスト連盟に加盟する私たちは主の恵みに与りつつ、主の戒めに生きることを宣言する。」

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2012年8月19日

◆聖書の言葉◆ 

申命記 30章3節
あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。

「運命の回復」
申命記 30章1〜14節

宣教:北村慎二

 誰しもが自分の運命について考えたことがあろうかと思います。「この運命の星の下に生まれた」なんていう言い方をする時もあります。「運命だから」とあきらめる時もあったかも知れません。
 私たちの運命は涙とともにあるとも言えます。オギャーと泣いて生まれ、涙のうちに人と出会い、涙のうちに人と別れます。
 私たちの体の中にあるDNAは私たちがいつ病気になるかということまでもあらかじめ描かれているといいます。
 さて、私たちはもともと素晴らしい運命の星の下に生まれていたのですが、私たちの内に罪が入ったため、私たちは素晴らしい運命から離れてしまったのです。誰もが幼少の頃には「末は博士か大臣か」と言われていたものです。どこから運命は変わってしまったのでしょうか。
 しかし、この運命を回復させて下さる御方がおられるのです。「どうせ俺の人生なんか・・・」その人生を劇的に変えて下さる御方がおられるのです。
 なぜそんなことができるのでしょうか。それはその方は私たちを創られた創造主だからです。この御方に出会って運命を回復してみられませんか。

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2012年8月26日

◆聖書の言葉◆ 

ヨブ記 38章16〜18節
お前は海の湧き出るところまで行き着き/深淵の底を行き巡ったことがあるか。死の門がお前に姿を見せ/死の闇の門を見たことがあるか。お前はまた、大地の広がりを/隅々まで調べたことがあるか。そのすべてを知っているなら言ってみよ。

「神は不可知」
ヨブ記 38章1〜21節

宣教:古田 晴彦

 新聞、週刊誌、テレビ、ラジオ。7月前半のマスコミは、昨年10月に大津市の公立中学校で2年生の男子生徒がイジメにより飛び降り自殺(自死)をした事件の報道を、連日大きく取り上げていました。新聞の記事も、その多くは第1面の右上、トップ記事となっていました。更に、インターネットの世界では、加害者の中の主犯格の生徒の顔写真、実名、転校先、親の職業や顔写真までが投稿され、「逆バッシング」とも言える過熱した「社会的制裁」が加えられました。夜回り先生として知られる、水谷修さんが、「この逆バッシングこそ、本当のイジメと言うのです。やめてほしい。」とテレビで発言したところ、予想通り、水谷さんのところに、非難や中傷のメールが殺到しました。
 確かに重大な事件です。学校評価制度の中で、「イジメはあってはならないこと」という原則に縛られている教師たちや教育委員会が、隠蔽工作としか思われない「ケンカで行こう」路線で対応を揃えたことも許されることではありません。けれども、前提は、「容疑者が本当に犯人であったならば」ということですし、その部分では重い腰をようやく上げた警察の捜査が既に始まっている訳です。十分な証拠がそろい、起訴された場合、裁判を通して有罪か無罪かが確定します。それまでは、「疑わしきは被告人の利益に」という原則が大切です。 これは、過去数百年もの間、拷問 ⇒ 自白 ⇒ 処刑 これが、犯罪者処刑の一般的な形であったことの反省から来ています。近代的な裁判が「証拠中心主義」へと変化した理由がここにあります。
 国会では、社会保障の具体像を棚上げしたままの、「消費税増税法案」が、可決・成立しました。更に、8月いっぱいをめどに、2030年の電力供給で原子力発電依存を、25%、15%、0%いずれにするのか、その方向性を決めてしまうことになっています。この間、ロンドン・オリンピックの深夜の生中継で寝不足が続いた国民も多かったでしょう。加えて高校野球です。 国会では、次々と大切なことが、国民の「知らないうちに」決められていきます。国民の関心事が政治の方に向かないようにするための、カモフラージュ、情報操作(目くらまし)が組織的に行われているのではないかと思えてしまいます。
 このような社会を見ると、「正義」は本当にあるのか? という疑問にぶつかります。そして、私たちが、生きる意味や生きる理由を探し求めること自体にも、意味はあるのだろうか? と空しい気持ちに包まれてしまいます。けれども、人間は意味や理由を問わずにはいられない存在です。特に、「苦しみ」に対しては、ほとんどの人が、「なぜ私だけが」「どうして今」このような疑問を持つと思います。「苦しみの意味」「聞かれない祈り」。このことについて、ヨブ記の言葉に耳を傾けてみましょう。

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2012年9月2日

◆聖書の言葉◆ 

ルカによる福音書 9章18〜22節
イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」

「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」
ルカによる福音書 9章18〜22節

宣教:岡村牧師

 イエス・キリストが来られるまでの旧約聖書の長い歴史に触れる時、また、教会が成長し確立していくまでの厳しい信仰の闘いの記事を新約聖書で読む時、こんなに何も分かっていないような自分がクリスチャンと呼ばれて良いのか、という思いになられるクリスチャンの方々は少なからずいらっしゃるでしょう。
 マタイ福音書やルカ福音書でイエスからこう祈りなさいと「主の祈り」を教えられたイエスの弟子たちは、決して神への祈りを知らない人々ではありませんでした。彼らは生まれた時から長い歴史の中での唯一の神の御臨在を知り、学び、イエスに出会う前から1日に少なくとも2度から5度は定められたときに神への祈りをささげることが生活の中に組み込まれており、神を意識しないで生活する事はなかった人々です。
 八百万の神々を信じる多神教の国、日本。神と言われれば何にでも一応頭を下げる礼儀正しい日本にキリスト教が入って来て、神はイエス・キリストに表される唯一のお方であることを知って信じたのが私たち、日本のクリスチャンです。 キリスト教はユダヤ教を母体として生まれ、生まれた時から神は唯一のお方と教えられたユダヤ人キリスト者と、もちろん時代も違いますが神観念が全く違う背景を持つ私たちとは、信仰、と一口にいっても似て非なるものではないかと思ってしまうのは自然なことかもしれません。
 しかし、その信仰の背景や質、度合いがどのように違いがあっても、十字架につけられたイエス・キリストを救い主を信じる信仰によって、私たちは過去のクリスチャンたちと同じように、神から祝福のすべてを受け、必要なすべてをいただいているものなのです。

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2012年9月9日

◆聖書の言葉◆ 

列王記上 19章12 〜15a節
地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」 エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」主はエリヤに言われた。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。

「静かにささやく声」
列王記上 19章9〜18節

宣教:岡村牧師

 どうして私たちは聖書を読むのでしょうか? どうして私たちはイエス・キリストの御名によって祈るのでしょうか。どうして私たちは集まって礼拝することをやめないで続けるのでしょうか? それは私たちが日ごとに死ぬまで神から教育されなければならない者だから、という言い方ができるのではないかと思います。 神の国の民であるための教育です。
 子どもが生まれると、教育ということは欠かせません。生きていくうえで必要な様々な教育がなされていきます。神がその昔イスラエルの民をご自分の民として選ばれたときから、神はご自分が選んだ民と契約を結び、人々の歩みを導くために教育し続けました。
 人が神と人の立場と関係を知り、神とはどなたかを知り、またその関係が良く保たれて、人が神の言葉に従うことを神は求められました。そして、神に従う人々を通して世界のすべての人々に祝福を与えると神は約束されました。 何度も神を裏切り道をはずす人々を神はあきらめずに、御自分の言葉を伝える預言者を社会に送りました。
 列王記上下は、紀元前1000年から紀元前600年までの400年にわたるヘブライ民族の歴史を記しています。預言者エリヤはその名が新約聖書にも登場するほど顕著な活躍をした人でした。しかし、預言者とても人間ですから様々な失敗もしますし、神のご意志にかなわない言動もありました。そのようなエリヤを神は見捨てずに教育なさいます。
 旧約聖書の預言者はもう現れません。神の言葉であるイエス・キリストの恵みと祝福を世に知らせる役割をキリスト教会の私達が担っています。

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2012年9月16日

◆聖書の言葉◆ 

マタイによる福音書 25章 14 〜21節
「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

「神と一緒に喜ぶために」
マタイによる福音書 25章14〜29節

宣教:岡村牧師

 イエス・キリストは神の子で救い主ですが、教育者であるとも言えます。 イエスが人々に希望を与えたのは、政治的なあるいは民族的な支配権を持つこの世での自分たちの国をもつことを期待させたのではなく、神の国に入る希望でした。
 イエスは色々な場合に神の国について弟子たちをはじめ人々に教えました。生きている今をどのように神を信じて生活したらよいのかを教えました。その一つの方法に、たとえ話しという方法を用いました。神の国の真理をわかりやすく伝えるためです。
 ところで、今日のたとえ話はどうでしょうか? 天の国についてイエスが語られたこのたとえ話しは、初めて読む人につまづきを与えかねない強烈な結末ではないでしょうか。実際に私はその昔にキリスト信仰を与えられた当初に抱いていたイエス・キリストへの自分のイメージが壊れてしまうほどにこのたとえ話に恐ろしさを感じました。
 甘い言葉だけで信じさせるようにするのではなく、イエスは真のことを教えられたということと同時に、自分は大丈夫だ、自分は神から祝福されているので神の国に入れると過信してその身分に甘んじていた当時のリーダーたちへの強烈な皮肉のパンチでもありました。
 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。厳しい言葉も、全ての人が悔い改めて神の言葉に信頼して謙遜に生きていく励ましの言葉であるとして受け取りたいと思います。

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2012年9月23日

◆聖書の言葉◆ 

出エジプト記 20章 8 〜11節
8節 安息日を心に留め、これを聖別せよ。
9節 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
10節 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。
11節 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。

「主の戒めと休むという生活のリズム」
出エジプト記 20章8〜11節

宣教:岡村牧師

 今日の聖書の箇所は、モーセが神からいただいた十戒の中の第四戒にあたる言葉で、安息日に関する掟です。
 「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」
 どんな良い、大事なことであっても、「・・・せよ!」「・・・してはならない!」という強い命令や否定形の命令に対しては私たち人間は素直になれないというところがあるのではないでしょうか。聴いて、自分で考えて、体験して、納得して、理解してからなら従うことができますけれども、頭ごなしに言われることに対しては、反抗心がむくむくと頭をもたげるようなことがあります。このような意味でも、神の言葉が真実であることを体験したという証は、他者への励ましになります。
 神は私たちが奴隷のようにただ黙々と従うことを願っておられるのではないでしょう。神が望まれるのは愛が根拠となる応答関係です。
 イエス・キリストは最も大切な掟としてこう言われました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい。」 愛は色々な形をもつ自由な、命あるものです。

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2012年9月30日

◆聖書の言葉◆ 

マルコによる福音書 6章 50 〜56 節
皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。
パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。
こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。 一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。

「わたしだ、恐れることはない」
マルコによる福音書 6章45〜56節

宣教:岡村牧師

 聖書には様々な奇跡の出来事が記されています。自分の目の前で奇跡を起こして見せてくれたら信じてやろう、というのが私たち人間の言い分でしょう。しかし見ても信じなかった、ということも聖書は証言しています。この奇跡は五つのパンと二匹の魚を用いて五千人に食べ物を与えたという奇跡を弟子たちが体験した後に起こりました。素直に信じることができない弟子達の姿は私たちの姿でもあります。そのような弟子たちに対して、イエスはあきらめずに「わたしだ、恐れるな」という言葉と共に御自身の存在を明らかにされているように思えます。
 湖の上を歩く奇跡に驚くよりも、弟子たちが嵐の中で奮闘している緊急事態にイエスが来られて舟に乗り込まれた、ということがすごいではありませんか。その恐れや不安が払しょくされるためにイエスがなさったことに心を向けたいと思います。イエスは彼らの緊急事態を知って、共におられたのです。
 日本では、かつてなかったほどに中国や韓国、台湾など近隣のアジア諸国との関係が急激に冷え込んできているこの頃です。原発放射能も未だに垂れ流しのままで、不安をかかえています。政権もひっくりかえるかもしれないという不安定さの中で、この先日本はどうなるのだろうという漠然とした不安が人々の心にあるかもしれません。
 イエス・キリストを信じる人々は、中国にも韓国にも台湾にもいます。神は信じる者の神であります。どんな緊急事態にも共におられる神であることに信頼をし続けることを行動として表していきたいと思います。

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2012年10月7日

◆聖書の言葉◆ 

使徒言行録 16章 25 〜31節
真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。 目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。 パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」 看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。

「神への賛美の力」
使徒言行録 16章25〜34節

宣教:岡村牧師

 「讃美/賛美」とはほめたたえることですが、キリスト教において賛美というのは信仰における基本的行為で、感謝、嘆願、謝罪などの祈りと関わるものです。聖書(新共同訳聖書)で「賛美」という言葉が最初に出てくるのは、出エジプト記15章です。神がモーセを用いて、エジプトの地で奴隷だった御自分の民を、全て救い出して脱出に成功した時に人々は主を賛美して歌った、とあります。神が救ってくださったことへの感謝の歌です。
 キリスト教会の礼拝では讃美歌を一緒に歌います。イエス・キリストが罪の奴隷であった私やあなたのために、御自身が呪いの十字架につけられて死ぬという犠牲を払って下さったことによって、神に反逆する全ての罪をゆるしてくださったことを覚え、感謝し、神に従う決心を表します。
 今日の聖書の箇所は、伝道者パウロが2回目の伝道の旅に出かけた時にフィリピというギリシャ地方の都市で、イエス・キリストの名によって活動をしたために捕らえられて、牢屋に入れられたときの出来事です。
 自由を奪われた状態でしたが、彼らの讃美の歌を止める人はいませんでした。不思議なことが起こり、形勢が逆転して、捕らえた側の人々が神の救いを求める出来事が起こっています。その時の神は今も同じ活ける神で、私たちの人生を祝福して導こうとされる神です。あなたも招かれています。

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2012年10月14日

◆聖書の言葉◆

エレミヤ書 29章4〜7, 10〜11節
4〜7:「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。
10〜11:主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。 わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。

「将来と希望を与える平和の計画」
エレミヤ書 29章4〜14節

宣教:岡村牧師

 東日本大震災の被災地である福島県郡山の仮設住宅に行った時、世界で戦争や紛争、飢饉その他の理由で避難している難民の方々をふと思いました。イエス・キリストも誕生の際に殺害されそうになり、エジプトへ避難して難民として過されたことも思い出します。自分の慣れ親しんだ土地から強制的に追われて長くそこにとどまらなければならない苦しさというのは、経験した人でなければわからないものでしょう。
 在日韓国・朝鮮人の方々のことも思わずにはいられません。私たちの国はかつてアジアに侵略していき、アジアの人々、特に朝鮮半島の人々を強制連行して日本に連れてきました。苦役を強い、軽蔑し、差別をしてきました。忘れてはならないことです。
 今、当教会の教会学校では日本バプテスト連盟が出版している聖書教育に基づいて、紀元前600年頃に起こったバビロン捕囚の時代のことを学んでいます。神の言葉に従わない生活を続けるならば、やがて戦争に負けてイスラエルは国を失い、多くの人々が殺されたあげく、神殿も城壁も破壊され、貴重な品々は奪われてしまうこと、更に人々は敵国のバビロンに連れて行かれる悲惨な出来事が起こってしまうことをエレミヤは、人々から憎まれ殺されそうになりながらも預言して語り続けました。
 しかし、民は悔い改めず、預言の通りになってしまいます。そうなってしまってから苦しむ人々をエレミヤは今度は励まし、将来と希望を与える平和の計画を語ります。神はあきらめずに忍耐強く人が神に立ち返るようにチャンスをくださるお方です。将来と希望を与える究極の神の御計画が、イエス・キリストです。最高の希望であり平和への神の御計画を伝える役割を教会が担います。

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2012年10月21日

◆聖書の言葉◆

詩編 107編17〜22節
彼らは、無知であり、背きと罪の道のために/屈従する身になった。
どの食べ物も彼らの喉には忌むべきもので/彼らは死の門に近づいた。
苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らの苦しみに救いを与えられた。
主は御言葉を遣わして彼らを癒し/破滅から彼らを救い出された。
主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
感謝のいけにえをささげ/御業を語り伝え、喜び歌え。

「助けて!と願える幸い」
詩編 107編17〜22節

宣教:岡村牧師

 詩編には、今から3000年以上前のものも含まれていますが、人の率直な気持ちがあらわされていて、それが今の自分と変わらないことに驚かされます。先週とりあげたエレミヤ書などの預言書は預言者を通して神が人間に語りかけたことが記されていますが、詩編は人間の神への語りかけの歌であり祈りであります。
 150ある詩編の中には、自分を苦しい状況に陥れた相手に対して、神がその人を滅ぼして下さいというような赤裸々な言葉が出て来てハッとします。自分を苦しめる人と和解をしたいと思う前に、そんな人はいなくなってしまえばよい、という思いが出てきてしまう弱さをもつ私たちです。しかし、なかなか人にも言えないような、そんな思いも神へぶつけていいのだ、ゆるされるのだ、という安心感を詩編は与えてくれます。
 詩編はもともとはヘブライ語で書かれているものですので、韻を踏んでいるような部分の面白さはわかりませんが、今日取り上げる詩編107編には、繰り返し出てくる二つの文章があります。「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと主は彼らを苦しみから救ってくださった。」「主に感謝せよ。主は慈しみ深く人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。」 この二つの文章が同じ言葉で4回出てきます。
 今日はその中の3つめのフレーズとその前後にある言葉に、特に目を留めたいと思います。「主は御言葉を遣わして彼らを癒し破滅から彼らを救い出された。」 時代を越えて、救い主イエス・キリストの姿が表わされます。「感謝のいけにえをささげ御業を語り伝え、喜び歌え。」教会は、神への感謝を歌い続ける神の国のものとして今日も主なる神を賛美します。

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2012年10月28日

◆聖書の言葉◆

使徒言行録 17章29〜32節
 わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」
 死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。

「神と神々」
使徒言行録 17章22〜34節

宣教:岡村牧師

 今日の聖書の箇所ではパウロが、文化が爛熟しているギリシャのアテネに行った時に、アレオパゴスでイエス・キリストの福音を伝える機会を得て、人々の前で語ったときに相手にされなかった様子が描かれています。
 ギリシャ神話で知られるように、その地域の人々は多くの神々を信仰して祀っていました。世界にイエス・キリストの福音を伝えた先駆者パウロは、タルソスの生まれでローマの市民権を持つユダヤ人でした。タルソスは現在のトルコにあり当時は東地中海最大の港の一つでしたし、アテネやアレクサンドリアと並んで哲学の中心地でもありました。つまりパウロはヘレニズム文化と思想の中心地で育ち、ギリシャ語にも堪能な国際人でした。
 パウロが死から復活したイエス・キリストを語ったときに人々はあざ笑って相手にしなかったのです。パウロは神から選ばれたイスラエル民族の一員でファリサイ派のエリートでした。パウロがクリスチャンになったときからアテネに来るまでの間に、パウロの信仰の姿勢や視点が大きく変えられていたのは当たり前ですが、今日の演説の箇所でもそれが表れています。
 熱心さはユダヤ教のエリートだったころと変わっていない、熱い信仰のパウロですが、神から選ばれた、という選民意識の有り様が変ってきていることをこの演説から受け取ることができると思うのです。
  多神教の中に生きる現代の私たちが、数が少ないからという恐れやたじろぎからではなく、キリストの愛を受けた者としての原点に立ち続けたいです。

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2012年11月4日

◆聖書の言葉◆

ヨナ書 1章12〜2章3節
 1:12ヨナは彼らに言った。「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている。」 乗組員は船を漕いで陸に戻そうとしたが、できなかった。海がますます荒れて、襲いかかってきたからである。 ついに、彼らは主に向かって叫んだ。「ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。」 彼らがヨナの手足を捕らえて海へほうり込むと、荒れ狂っていた海は静まった。 人々は大いに主を畏れ、いけにえをささげ、誓いを立てた。
 2:1 さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、言った。苦難の中で、わたしが叫ぶと/主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると/わたしの声を聞いてくださった。

「決死の逃亡者」
ヨナ書1章1〜5節, 1章11節〜2章11節

宣教:岡村牧師

 ヨナ書は4章までの短い童話のようなお話で、教会学校で子どもたちには特に親しまれているものかもしれません。神様の言葉に従わないで逃げ出したヨナの姿も興味深いですし、クジラみたいな大きな魚がヨナをのみこんでその腹の中で3日3晩ヨナが生きて、生きたまま魚の口から吐き出されるところなど、惹きこまれます。
 しかし読んでみると内容は深刻です。ヨナと言う一人の預言者の決死の覚悟の行動は、その背景を知る時に私たちには納得できるものとなります。
 ヨナ書は、聖書の預言者の預言を集めた預言書ではなく、ヨナという預言者の物語で、紀元前4世紀の前半に書かれたという説があります。紀元前5世紀後半にエズラとネヘミヤによる改革がなされ、ユダヤ教団の戒律が確立していき、選民意識が再び強化されていきました。ユダヤ人の選民意識の狭さをユーモラスに批判をしている興味深い書です。
 ヨナの時代から数百年後にイエス・キリストが誕生されます。イエスも子どもの頃からヨナ書を学んで知っておられたでしょう。新約聖書のマタイとルカ福音書でイエスがヨナ書を引き合いに出して語っている箇所があります。イエスを神から遣わされた神の子・救い主と認めない人々の不信仰に対して、やがてヨナが三日三晩の間魚の腹の中にいたように、イエスご自身にもそのような奇跡が起こるであろうとの予告でした。
 死んでもやりたくない、という仕事が与えられたヨナ。頑固なヨナを忍耐強く導き、教え、用いる神の愛は、ヨナの敵国の人々にも及んでいました。

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2012年11月11日

◆聖書の言葉◆

ヨナ書 3章10節〜4章4節、 4章9節〜11節
3:10 神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」
4:9 神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」 すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。 それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

「神の選びの意味」
ヨナ書3章1節〜4章11節

宣教:岡村牧師

 ヨナ書は今から2800年ほども昔の時代背景で描かれています。ヨナという一人の預言者に対する神の救い、愛、教育と共に、神の愛は罪を悔い改める者に対しては不公平に思えるほど深く広い、という点も見逃せません。私たちがここを読むとき、ヨナを自分と重ねる人もいるでしょうし、ヨナを教会と重ねて読む人もいるでしょう。
 ヨナの時代から800年後に登場なさるイエス・キリストは、マタイによる福音書やルカによる福音書の中で、ヨナを引き合いに出され、神の前に悔い改めることの大事さを語っておられます。
 ヨナ書がある意味で人気があるのは、ヨナと言う人が自由さを持っている人だからだと言えるでしょう。神に背を向ける自由さ、神に対して怒る自由さです。ヨナは自分が海と陸を創造された天の神を畏れる者であることを誇りに思っている人です。しかし、ヨナの神理解は完全ではないのです。どんなに長い間神を信じてきたという人であっても、自分が中心になった神理解をしているのかもしれないと立ち止り、自分の神理解を絶対化していないかと吟味していくことは、重要であります。気付かぬうちに神を自分の部下のようにして祈り求めていることはないでしょうか? 神と共に生きることと共にまた、自分と異なる人々と共に生きるということの大切さも語られているのではないでしょうか。
 私たちは他のキリスト教会と同じように、神から選ばれた教会です。神から選ばれたあなたです。神に従順に従えない部分を直視し、自分や教会に与えられている使命を認識して、悔い改めつつ新しくされますように。  イエス・キリストの十字架の恵みを土台とし続けられますように。

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2012年11月18日

◆聖書の言葉◆

マタイによる福音書 5章6節、10節
 5章6節:   義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
 5章10節: 義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

「イエスの約束」
マタイによる福音書5章6節、10節

宣教:岡村牧師

 マタイによる福音書の5章から7章までは、イエスによる「山上の説教」として知られ、イエスの教えの根幹を表すものです。イエスはその説教の最初の言葉を「幸いである」という言葉をもって始めています。原語では、その「幸いである」という言葉が真っ先に書かれています。
 この言葉は弟子達だけではなく大勢の群衆が来て取り囲むような中で、様々な人々が聞いていたことが想像できますが、直接的にはイエスに従っていた弟子達に対して語られたものです。
 5章3節から10節までの8つの幸いの中で、今日は「義」という言葉で始まる二つの「幸いである」についてとりあげました。
6節「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
10節「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
 自分の生活をとりまく現状を見るとき、不安はつのるかもしれません。政治はめちゃくちゃに見え、金を得るために人を思うがままにコントロールしようとして起きた殺人事件など、おぞましい事件が次々に起こっています。過去の戦争による後遺症は日本でも世界でもあちこちで噴き出し、原発の放射能や核物質汚染は止まることなく進んでおり、イエスの言葉をどうして信じることが出来るだろうと思えるほどです。
 しかし、現在どのような状況に置かれていても神は約束をしてくださっています。救い主イエスしかできない約束です。イエスの約束を心に刻んで、他者と共に生きる希望の力が与えられますように。

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2012年11月25日

◆聖書の言葉◆

コリントの信徒への手紙II 5章16〜21節
 それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。

「和解の任務としての伝道」
コリントの信徒への手紙II 5章16節〜21節

宣教:岡村牧師

 私たちの教会では今日から12月2日まで世界バプテスト祈祷週間になっておりまして、毎年この時期に特に世界伝道に心を寄せ、国外伝道のための献金をしていく週として祈りを合わせます。「和解」の使命ということを大きなテーマとして、タイ、ルワンダ、シンガポールそしてカンボジアにインドネシアへと国外伝道を継続していきます。
 「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。・・・キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」
 私たちの社会では、人をすぐにあの人はこういう人だ、この人はこういう人だと、短絡的に判断して決めつけてしまうことがありがちなのではないでしょうか。判断する基準を「肉によって」つまり、この世の基準としている外見、人の評判とか、社会的地位や肩書、自分自身の感じ方に頼って判断して、その人との交わりを軽んじてしまうということはないでしょうか。
 肉によって知ることの対極にあるのは、霊によって知ることだと言えます。神がその人をどう思っておられるか、というところに立つとき、人を見る見方が変ってきます。自分と神との関係がどうなのかという原点に立ち返らされます。伝道はそこから出発しているのです。神の愛ゆえにです。

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2012年12月2日

◆聖書の言葉◆ マルコによる福音書 8章31〜37節
 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それ失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。

「自分の十字架」
マルコによる福音書 8章31〜38節

宣教:岡村牧師

 クリスマスの待降節(アドベント)に今日から入りました。クリスマス前の12月24日までの間、教会は様々な準備をしつつクリスマスを待ち望みます。この待ち望みは、今年のクリスマスを待ち臨むということだけでなく、この世の最後に主イエスが再び来られると聖書で約束された「主の再臨」を待ち望むことと重ね合わせます。
 マルコによる福音書はいわゆるルカ福音書に見られるような「処女降誕」の記事がありません。これには色々な説がありますけれども、イエス・キリストを語るのに、そのようなことは必要ないと考えたからでありましょう。
 人間の罪を全て被って死ぬために生まれた神の子・救い主イエス・キリストの降誕と死は一つの事であります。今日の聖書の箇所は、神の時が来て、まもなく御自分が処刑されて死ぬことがわかっておられたイエスが、これから御自分がどうなるのかを弟子たちに語られたときのことです。
 イエスは御自分の言葉をいさめたペトロを厳しく叱り、弟子達だけではなく群衆を呼び寄せて皆に次のように言われました。
 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
 マルコによる福音書の中心とも言うべき言葉です。この言葉を語られた時のイエスはどのような調子で言われたのでしょうか。今日またこの言葉を聞く私達、あなたや私はこのイエスの招きをどう聞くでしょうか。

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2012年12月9日

◆聖書の言葉◆ ルカによる福音書 1章13〜20節
 天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。 彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」 そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。 あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」

「待ちつつ」
ルカによる福音書1章5〜22節、57〜64節

宣教:岡村牧師

 待降節第二週目を迎えました。クリスマスの時期に読まれることの多いルカによる福音書の1章、2章には、色々な人物が登場します。これらの記事からイエス・キリストの降誕にまつわる絵が描かれ、飾り物が作られ、劇が演じられてきました。そこにあまり出てくることがないのですが、大切な役割を与えられている人々がいます。
 ルカによる福音書のイエスの降誕にまつわる記事には、年をとった人々が出てきます。自分も年をとってきて思うことですが、ルカによる福音書では救い主誕生に関して、老人・高齢者と言われる人々への暖かい眼差しがあることに気がつきます。
 旧約聖書の創世記には、アブラハムとサラという老夫婦に赤ちゃんが授かるという奇跡が記されていますが、新約聖書ではイエス・キリストが誕生するための大切な準備の役割として、同じようにザカリアとエリサベツという老夫婦に赤ちゃんが与えられるという奇跡が描かれています。
 処女降誕とか老人夫妻に赤ちゃんが授かるとか、聖書は科学的見地から言えば、あり得ない絵空事ばかりが書かれていてとても信じられないと言う人もいらっしゃるでしょう。しかし、奇跡あるいは奇跡的な出来事は私たちの生活の中でも見られることではないでしょうか? 聖書の奇跡は愛に関係する事なのです。神様の愛がすべての始まりです。神の愛からもれる人は一人もいません。クリスマスはそのことを知らせています。

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2012年12月16日

◆聖書の言葉◆ マタイによる福音書 1章18〜25節
 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

「神から与えられた役割」
マタイによる福音書1章18〜25節

宣教:岡村牧師

 クリスマスまで数えるほどになりました。人間にとっての救い主イエスを誕生させるために、神は様々な準備をなさっています。受胎告知はマリアに対してですが、マリアの夫になるヨセフにも天使が夢に現れています。ルカによる福音書には救い主、イエス・キリストの母になるように選ばれたマリアの記事が詳しく書かれていますが、ヨセフの記事は今日のマタイ福音書1章と2章に少し出てくるだけです。マリアからイエスは生まれましたが、ヨセフの存在も無くてはならないものでした。
 ヨセフに関して、マルコによる福音書6章3節によりますと、イエスは大工をしていたようですから父親のヨセフが大工でイエスが聖霊によって生まれた後、ヨセフとマリアの間にはヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンという息子達と幾人かの女の子が与えられたことがわかります。その文章には家長であるヨセフの名前が出て来ないので、ヨセフは早くに亡くなっていたのではないかと推測できます。その死も聖書には記されることが無かったヨセフでしたが、目立たなくてもヨセフは神の言葉に従った信仰の人でした。神に従うヨセフの存在によって家族は守られ、イエスは育たれました。
 最初のクリスマスから2000年もたちました。イエス・キリストがどの人にとっても救い主であることを知らせるために、神は教会を、クリスチャンをお用いになります。来週クリスマス礼拝を迎える教会の準備はどうでしょうか? 十字架までも神の言葉に従われたイエスが今の世に生きる私達に役割を与えておられます。共におられる神に信頼しましょう。

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2012年12月23日

◆聖書の言葉◆ ルカによる福音書 2章4〜12節
 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

「神からの贈りもの」
ルカによる福音書2章1〜14節

宣教:岡村牧師

                 メリー クリスマス
       救い主イエス・キリストの御降誕おめでとうございます!

 世界で初めてのクリスマスから2012回目のクリスマスを迎えようとしています。今日は、キリスト教会の多くはクリスマス礼拝を行います。教会は毎週日曜日にイエス・キリストの死と復活、再臨を覚えて礼拝を行っていますので、クリスチャンたちは毎週がクリスマスやイースターであるかのようにイエスの御臨在を感謝して礼拝を続けます。
 このようにしてクリスマスと銘打ってアピールするのは、社会の人々に教会に来て頂きたいからです。自分はクリスチャンでもないし、キリスト教とは縁がないし関係が無い、と思っている方々に来て頂きたいからです。  また、クリスチャンであるけれども久しく教会に行っていない人が、行ってみようかなと思い出して下さるためにも、教会はクリスマスのこの時期を喜び準備します。
 今日の聖書の箇所には、イエス・キリストが誕生されたときの時代背景や誕生の場所と誰にまず知らされたかが記されています。神と人との和解のために全ての罪を背負って十字架で死なれたイエスそのものが、神から世界への贈りものでありますけれども、それは具体的にはどういうことなのでしょうか。神は私たちが心貧しいものであることを御存じです。とても具体的な贈りものを神はイエス・キリストを通してくださいました。

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2012年12月30日

◆聖書の言葉◆ ヘブライ人への手紙 13章20〜21節
 永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。

「祝祷」
ヘブライ人への手紙13章20節

宣教:岡村牧師

 2012年最後の礼拝を迎えています。先週はクリスマス礼拝で、私たちの教会では、S君の信仰告白とバプテスマ式、という最も嬉しい時を迎えました。神様と大勢の方々の祝福に包まれて、キリストにある新しい命が誕生しました。
 毎年思うことですが、世界の新しい年が始まる1週間前にクリスマスがあることは、神の祝福が先立っていることを象徴的に表しているようで、嬉しくなります。キリストを信じる人々にとっては、クリスマスからすでに新しい年が始まっています。
 今日の聖書の箇所は、祝祷の言葉です。ヘブライ人への手紙の作者はヘレニズム世界のユダヤ教の教養を身につけた人の説教集という説があります。
 「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。」
今年はクリスマス礼拝の後にもう一度礼拝があり、今年1年のことを思い起こし、一つ一つの事柄において主なる神が導いて下さったことを共に分かち合い感謝するときが与えられました。 キリストが新しい年に、様々な喜びと共に、どんなに暗く苦しいことが起こってもそこから立ち上がることができる希望を与えて下さる祝福が先立っていることを心に留めて進みたいと思います。今年共に歩めたことを感謝しつつ。

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2013年1月6日

◆聖書の言葉◆ マタイによる福音書 5章 13 〜16節
 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

「地の塩、世の光として」
マタイによる福音書5章13〜16節

宣教:岡村牧師

        主の年、2013年、
        あけましておめでとうございます!

 新しい年が始まっています。キリストと共に始まっています。
 この年はどのような年になるのか誰も知りません。その意味では私たちは冒険の歩みを始めようとしています。
 年明けに太陽の光を見るために山登りをする人々、寒さの厳しい中1年に一度お寺や神社へ参拝に行く人々、いつものように神への礼拝や祈祷をもって歩み始める人々。どの人も先のわからない冒険の歩みを踏み出すにあたって自分のことだけではなく、愛する家族や友人・知人の幸い、被災地の復興、政治や経済の安定、世界の平和を願っていることでしょう。
昨年のクリスマス礼拝で、キリスト教会は神からの贈りものであると語らせていただきました。イエスが十字架に表される恥と苦しみの死を受けて下さったほどに神が私たち人間を愛されたことは、教会が生まれるためであったということができるのです。
その教会とはどのような存在であるのか、今日の聖書の言葉は語ります。
「あなたがたは地の塩である。・・・あなたがたは世の光である。・・・」
この言葉は、死より復活して生きておられるキリストが現代の私達に下さっている言葉です。私たちの弱さやふがいなさを知っておられる主が、私たちに対して恐れ多いほどの宣言をしておられます。それは、人々が天の父なる神をあがめるようになるためです。主に信頼して歩んで参りましょう。

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2013年1月13日

◆聖書の言葉◆ マタイによる福音書 3章 13 〜17節
 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

「イエスがバプテスマを受ける」
マタイによる福音書3章13〜17節

宣教:岡村牧師

 私たちの教会では昨年の7月にKさん、12月のクリスマスにS君の信仰告白とバプテスマ式を行うことができ、教会にとって最高の喜びの時を迎えることができて皆で神に感謝をささげたことでした。
 バプテスマって何?と初めて聞いた方々は思うことでしょう。バプテスマの語源は新約聖書が書かれた原語のギリシャ語から来ています。口語訳聖書、新改訳聖書では「バプテスマ」とそのまま書かれていますが、新共同訳では「洗礼」の脇にルビで「バプテスマ」と記されています。
 イエスが神の国の福音を伝えるために活動しはじめたのは、ルカによる福音書3章23節によるとおよそ30歳の時でした。どうしてその年齢からだったのかよくはわかりませんが、ユダヤ教の場合はラビになるには30歳まで待たなければならなかったそうですから、その慣習にならったのでしょうか。 人の子として生まれたイエスが御自分の使命を認識して家を出て活動を始めるまでに、色々な準備があったということであり、神の時が来るまで待ったということでありましょう。
 バプテスマのヨハネは、イエスの活動の道備えをした人ですが、彼は人々に悔い改めを促し、ヨルダン川で全身を水につけるバプテスマを施していました。 私たちのバプテスマ理解は、イエスの死と復活の後に定められたものですからこのときのイエスの場合とは違いますけれども、罪ある者が悔い改めるという意味ではバプテスマのヨハネのバプテスマの時代も同じです。
 罪無き神の子イエスがなぜ受ける必要があるでしょうか? この出来事は、イエスの神性を否定する人々の格好の攻撃になるような出来事です。
イエスの十字架の意味を今日の箇所から考えてみたいと思います。

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2013年1月20日

◆聖書の言葉◆ マタイによる福音書 4章4 〜11節
 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」
 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」

「神の言葉の力」
マタイによる福音書 4章1〜11節

宣教:岡村牧師

 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」 クリスチャンでなくても世に知られた言葉の一つであろうと思います。イエスがヨハネから罪ある人間と同じようにバプテスマを受けてから公の宣教活動に入る前に、霊が導いた試練が悪魔からの誘惑でした。
 イエスが神でありながら人として生まれたということを知っていたのは、人間ではなく悪魔でした。日本語で悪魔と訳されていますが、原語のギリシャ語では「ディアボロス」と言い、語源は「中傷する者」「そしる者」「敵対者」という意味です。悪魔はイエスに、「もしあなたが神の子なら」と言ってイエスを試みます。神の子であっても人間であるイエスの弱さがあるはずだという前提で、言葉巧みにイエスに挑みます。
 二つ目の誘惑に対するイエスの言葉は「あなたの神である主を試してはならない。」でした。三つ目の誘惑に対するイエスの言葉は、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
 イエスは全てその当時の聖書である旧約聖書の申命記に記されている神の言葉から答えました。イエスは悪魔の誘惑に勝ち、天使が仕えたとあります。
 聖書はイエス・キリストを証しているものです。私たちが聖書の言葉に触れることにより、イエス・キリストに表される神とはどのようなお方なのかを知っていきます。イエスがどなたなのか、自分とどう関係があるのか、どういう神を自分は信じているのか、真理であり命であるイエスへと導かれていきます。 イエスのように誘惑に打ち勝つ力も知恵も知識もない私たちを守るためにイエスはこの世界に来て下さいました。誘惑に陥ってしまった人々も救い出すために、御自身が神の言葉であるイエスがおられます。

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2013年1月27日

◆聖書の言葉◆ イザヤ書 55章10 〜11節
55:10
雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。
55:11 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。

「神さまのご計画」
イザヤ書 55章6〜11節

宣教:北村慎二執事

 旧約聖書で神さまが最初にされた質問は「あなたは、どこにいるのか」でした。 新約聖書における最初の質問は「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」でした。 そしてイエスさまがされた最初の質問は「何を求めているのか」でした。
 「あなたはどこにいるのか?」「イエスさまはどこにおられるのか?」「あなたは何を求めているのか?」この3つの問いをもって聖書が始まります。

 私たちはどこにいるのでしょうか? 私たちの立ち位置はこれでいいのでしょうか? 私たちは、神さまが必要とされる時に、どこかに隠れていないでしょうか?

 私たちのイエスさまはどこにおられるのでしょうか? イエスさまをどこに尋ね求めようとしているでしょうか?

私たちが切に求めているものは何なのでしょうか? 私たちはイエスさまに何を求めるべきなのでしょうか?

 信仰生活は神さまとの対話の生活です。日々神さまは私たちに問いかけられ、私たちは神さまに問いかけます。その中で、神さまのご計画というものが次第に明らかになって来るのではないでしょうか。本日はこのことについてみなさまと共に考えて行きたいと思っております。

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2013年2月3日

◆聖書の言葉◆ コリントの信徒への手紙II 8章7 〜9節
 あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。
 わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。
 あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。

「恵みの分かち合い」
コリントの信徒への手紙II 8章7〜9節

宣教:岡村牧師

 「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。 すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(?Uコリント8:9)
 今日の聖書の箇所では、パウロがコリントの教会の人々に対して他の教会を支援するために献金を呼びかけています。 人間は自分のことや自分に直接関係があることには出資をする用意があるでしょうし、また自分のしたことが効果があることを自分の目で確かめられることに対しては積極的に支援をすることができるものだろうと思います。
 ところが、キリストは、上記の言葉が示すように、何の保証もない中ですべてどころか、御自分を献げてくださいました。キリストは人間を救うために神の座におられたのに人となられ、全ての富を放棄なさり、十字架にまで至られました。神の愛と恵みがこのことにおいて表されています。教会はこのキリストの姿に倣うものであります。たとえ直接感謝されることがないことであっても、キリストのゆえに献金をささげる道を私たちは歩みます。天に宝を積む生き方です。
 日本の社会は政権が変って、安倍首相のアベノミクスといわれる経済再生への道を歩み始めています。どのようなことにもまさって「経済」が復興していくことが第一だとして進みはじめました。この世の中では第一とされるお金。それを私たちは、まず神にささげます。経済が豊かになるときもそうでないときも、私たちはキリストに従う者として、祈りつつささげる生活を奨励されていきます。主に仕えるためであり、他者が救われるためです。

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2013年2月10日

◆聖書の言葉◆ ダニエル書
3章16 〜18節 
シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えた。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。 わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。 そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」
6章11節 ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。

「信教の自由」
ダニエル書 3章14〜18節、6章4〜11節

宣教:岡村牧師

 今日は先週の週報で予告した箇所と違えていることをご了承ください。 明日の2月11日は「建国記念の日」という国民の休日になっていますが、キリスト教会としてはこの日を建国記念の日とは認めず、「信教の自由を守る日」としています。明日を控えて私たちがこのことの基本的な知識と理念、信仰を共有しておくことは大事です。
 大阪の桜宮高校2年生のバスケット部の主将が、監督の先生からの体罰を苦に自死した事や、オリンピックを目指す女子柔道の選手たち15人から、監督やコーチたちの体罰による暴力事件が明るみに出て、私たちは驚き落胆しました。これは長い歴史の中で伝統として容認されてきたことなのでしょう。加えて精神的な暴力、乱暴な言葉や無視などの類の暴力もあることを考えると、おそらく私たちのすぐ身近なところにおいてもこのような暴力が日常的に行われて、苦しむ人々は多いのだろうと思います。基本的人権を大切にする姿勢が確立されていないのは無知からくることも多いのではないでしょうか。信教の自由は、基本的人権が守られることと関わります。
 ダニエル書の背景は紀元前のことであり、イスラエルが国を失って他国の奴隷となっている状況の中の事であります。全てを失って自分のアイデンティティーもわからなくなるような状況にあって、ダニエルは自分の信じる神を徹底して神としていくことで自分を生きることができた人でした。
 イエス・キリストは、神とはどなたかを教えてくださり、神を神として生きる生き方を教えて下さいました。信じない自由がある中で、キリストを信じる決心をした私たちが大切にしたいことを共に考え祈りたいと思います。

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2013年2月17日

◆聖書の言葉◆ 使徒言行録 4章17〜20節
 しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。」 そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。 しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。 わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」

「脅しに屈しない」
使徒言行録4章5〜20節

宣教:岡村牧師

 キリスト教の長い2000年にわたる歴史の中で、様々に困難な時代がありました。否、いつでも困難でこれからもそうかもしれません。 キリスト教が健全な信仰ではないと判断した人々によって弾圧された時代が何度もありました。もしそこで信者が信仰を放棄していたら日本にもキリスト教は伝わらず、教会もなく、私は自分で描いた希望や絶望の間を行ったり来たりしていたでしょう。
 今日の使徒言行録の記事は、イエス・キリストの死と復活を経て生まれた初代教会の活動の様子が描かれています。使徒言行録は紀元90年代に書かれたと推測されていますが、ここに書かれている言葉を読んでどれだけ人々が励まされ勇気をいただいて前進してきたことでしょうか。
 今日の使徒言行録4章の出来事を一言で述べている言葉が5章29節にあります。「ペトロと他の使徒たちは答えた。『人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。・・・』」 これがキリストを主と信じた人の生き方を表しています。
 「和」を重んじ、人に迷惑をかけないことを大切にし、人の目を恐れる日本の国の倫理観の中で私たちは生きています。イエス・キリストと霊的な出会いをして、生涯を通してキリストに表された神を神として信じていくことを表明する事は、尋常なことではありません。聖霊の導きによって表明した信仰を貫くことは気持があっても人間業だけではできないことです。
 しかし、困難な時にも神が私たちの信仰告白のゆえに助けて下さることを私達は知っています。時代にあったやり方で私たちを導かれる神であります。

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2013年2月24日

◆聖書の言葉◆ ルカによる福音書 8章9〜15節
 弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。 イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、/『彼らが見ても見えず、/聞いても理解できない』/ようになるためである。」
 「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。 道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。 石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。 そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。 良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」

「神に委ねられる幸い」
ルカによる福音書8章4〜15節

宣教:岡村牧師

 今日の箇所は、「種を蒔く人のたとえ」で知られており、マタイによる福音書とマルコによる福音書に並行記事があります。
 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。(ルカ8:5〜8)。
 イエスの活動の目的はただ一つでした。それは神の国を教え伝えることです。人々に神の国を知らせるために色々な場合にたとえ話を用いて語りました。たとえ話は、目に見えない霊的な真理を人々が理解できるように、日常の誰もが知っている事柄を用いる方法です。しかし、易しくみえる話でもその意味は謎のようなものもありました。
 「聞く耳のある者は聴きなさい」とイエスが言われたのは、このたとえ話で簡単に理解できる以上のものが含まれているということでしょう。この話を聞いていたのは大勢の群衆でした。けれども群衆はイエスに質問をしませんでした。それぞれが自分なりに受けとめて解釈して納得したのでしょうか。
 しかし、弟子達は違いました。彼らはわからなかったのでイエスに質問をしたのです。このような関係が重要なポイントである気がします。神はすべての人々が真理を悟って神を信じるために弟子たちを、そして今の時代に生きる私たちを用いておられます。

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2013年3月3日

◆聖書の言葉◆ マタイによる福音書 20章8〜16節
 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。

「恵みの報酬」
マタイによる福音書20章1〜16節

宣教:岡村牧師

 やる気のある人が、汗水たらして働いたらそれだけの報酬が正当にもらえる社会というのは現代においても理想とされていることだろうと思います。ワーキングプアという状況に陥って働いても働いても生活が苦しくて余裕がなく、将来に希望をもてない人がいるかと思えば、特に働かなくてもインターネットのワンクリックや電話の指示ひとつで、大金が手に入ってしまう人もいます。今日のたとえ話は、さかさまの不公平ともいうべきお話で、神の救いのご計画のご意志を私たちに伝えています。
 イエスが語られた今日の言葉は、天の国についてのたとえ話です。これは19章で金持ちの青年がイエスに永遠の命を得るにはどうしたらよいか尋ねたことからの流れで語られています。何時間も働いた人と1時間しか働かなかった人と同じ賃金だったのです。自分以外の人がいくらもらったか知らなければ不平も出なかったでしょうけれども、知ったために比較と計算が働いて不平に結びつきました。
 ところが比較と計算をして、不満からもっと多くの報酬を要求する人に対して雇用主のオーナーはこのように答えます。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。…」
 この世の価値観の中で生きる私たちが天の国(神の国)の価値観を受け入れて生きるのはなかなか難しいことです。イエスのたとえ話を完全に解説する事は誰にもできませんが、自分がどこに立つかによって見方が変わります。

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2013年3月10日

◆聖書の言葉◆ ルカによる福音書 9章20〜25節
 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。・・・」

「自分の十字架を背負って」
ルカによる福音書9章18〜27節

宣教:岡村牧師

 聖書は新共同訳では480ページにもなる分厚い書ですが、その中心は旧約聖書と新約聖書を含めて、イエス・キリストであり、十字架の出来事であるということができます。イエス・キリストが十字架につけられて死んだ、ということは日本でも多くの人々が知っているでしょう。キリスト教が日本に入って来てから460年ほどたち、「十字架」という言葉は日本でもよく知られているようです。世間で十字架という言葉を用いるのは、辛いことや、嫌なこと、けれどもしなければならないことなどの軽い意味で用いられているように思います。
 十字架は十字架刑のことを指し、最も残酷な刑として恐れられていました。イエスは言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。」
 このときイエスは弟子たちに間もなく自分が多くの苦しみを受け、社会の支配者たちから排斥されて殺されること、三日目に復活することを予告しています。そのすぐ後で、イエスは弟子たちに対して「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。イエスについて行きたい、と当時はどの弟子たちも思ったことでしょう。しかし、現実にイエスが捕らえられたとき、イエスについて行った弟子は一人もいませんでした。十字架の出来事が起こった後の弟子たち、そして今の私たちは、このイエスの言葉をどのように受け取るでしょうか。イエスによって自分の罪深さを知った者として、ご一緒に思いめぐらしてみたいと思います。

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2013年3月17日

◆聖書の言葉◆ マタイによる福音書 26章6〜13節
 さて、イエスがベタニアでらい病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄使いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」 イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。 この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。 はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

「香り立つ愛」
マタイによる福音書26章1〜13節

宣教:岡村牧師

 「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
 イエス・キリストの福音と共にこの人のしたことが記念として語り伝えられるだろう、とイエス御自身の言葉として言われたこの人は、マタイによる福音書とマルコによる福音書では、名前がしるされていない一人の女性となっています。ヨハネによる福音書ではこの女性は、ベタニア村に住むマルタとラザロの姉妹のマリアであったと記しています。
 イースターを2週間後にひかえて今日は、あからさまなイエス殺害の陰謀が秘かに進んでいく中で、人々の記憶にとどめられた珍しい突然の出来事が起こったことについて読んで参ります。 イエスが捕縛されて十字架につけられる日が近づいていたことは、イエスにはわかっていて、それが二日後に起こると予告しました。 ベタニヤ村でイエスと共に食事の席についていた人々の心に忘れられない出来事が起こりました。世にも類まれな高価なものとされていた香油を、一人の女性がイエスの頭に注いだのです。 弟子たちは憤慨して、「これを高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」とこの人を非難しました。 いつの時代にも、経済ということがまず第一に重んじられるこの世でありますけれど、イエス・キリストへの心からなる思いを、自分の大切にしているものも惜しまずにささげることで表したこの女性をイエスは埋葬の準備をしてくれたとして彼女を守り、祝福しました。

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2013年3月24日

◆聖書の言葉◆ マルコによる福音書 15章33〜39節
 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

「イエスの死」
マルコによる福音書15章25〜39節

宣教:岡村牧師

 『そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。』
 今日から受難週に入りました。イエスの十字架の死はこの自分のためであったと、心からの告白へと導かれたいと思います。
十字架につけられたままの状態での叫び「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」という言葉は絶望の言葉です。ののしられ侮辱されて、誰も味方する者も助ける者もおらず、唯一頼みとする神からも沈黙されて見捨てられたイエスの姿です。この悲惨を人類が味わうことがないために、イエスは十字架につけられるがままにされました。
 この叫びは詩編22編の冒頭の言葉です。そして、神への次の言葉が続きます。「助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。」(詩編22編6節)。
この言葉が私たちの言葉となるようにイエスがしてくださいました。

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2013年3月31日

◆聖書の言葉◆ ヨハネによる福音書 20章24〜29節
 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

「イエス・キリストの復活」
ヨハネによる福音書20章24〜29節

宣教:岡村牧師

 イースター、おめでとうございます!
 イエス・キリストは死から復活された! これが今日祝う理由です。  2000年前の苦難の歩みの最後に、神から完全に捨てられて十字架にはりつけにされて死んだイエスが、3日目によみがえりました。
 それが2000年前の過去のことに終わらず現在も祝うのは、復活の主は過去から現在に至るまで変わらずに生きてここにおられる神だからです。
 3年半の間寝食を共にしてイエスの話をずっとそばで聞いていた弟子達すら、復活の知らせを聞いた時に、誰も信じませんでした。弟子たちは今度は自分たちがイエスの仲間だということで捕らえられるのではないかと恐れて、鍵をかけて息をひそめて集まっておりました。するとその真ん中に復活のからだでイエスが現れ、彼らに言葉をかけて新たな使命を与え、彼らが復活を信じるように導きました。
現代の私たちと同じようにイエス・キリストの復活を信じることができない一人の弟子が今日の聖書の箇所で登場します。福音書であまり名前が登場したことがないトマスというこの弟子に目をとめてみたいと思います。 復活のキリストがどのようにこの人と関わったかを見る時に、希望が輝きます。
 「トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 「求めよ、そうすれば与えられる」と言われる神であります。

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