TAKARAZUKA BAPTIST CHURCH

日本バプテスト連盟  宝塚バプテスト教会

since1986















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■■ 本日の宣教から ■■

主日礼拝当日の週報に掲載されている「本日の宣教から」を再掲しています。

当日の宣教の箇所の概要や導入にあたるメッセージとなっています。

 

2018年度

1週

2週

3週

4週

5週

4月

1日

8日

15日

22日

29日

5月

6日

13日

20日

27日

 

6月

3日

10日

17日

24日

 

7月

1日

8日

15日

22日

 

8月

5日

12日

19日

 

 

9月

9日

16日

23日

30日

 

10月

7日

14日

21日

28日

 

11月

4日

11日

18日

25日

 

12月

2日

9日

16日

23日

30日

1月

6日

13日

20日

 

 

2月

3日

10日

17日

24日

 

3月

3日

10日

17日

24日

31日

◆今年度に戻る◆

 

2018年4月1日

マルコによる福音書 16章7節
「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

コリントの信徒への手紙�機�15章3〜5節
最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。

「人の恐れを越えて福音は行く」
マルコによる福音書 16章1〜8節

宣教:岡村牧師

イースター、おめでとうございます!


2018年のイースターは4月1日で、ちょうど新しい年度が始まる日と重なりました。イースターは、キリスト教会にとっては最も大切な記念日と言えます。しかしクリスマスの「キリスト誕生」ということとは別次元の「復活」がテーマなので、なかなか普通には理解が難しいことでしょう。

人間の中でだれも復活を経験した人はいませんし、キリストの復活といっても科学的に証明できるようなことではありません。しかし聖書はキリストの復活を証言しています。今日お読みいただく個所は、最初にイエス・キリストの復活を告げたのは神の側だったことがわかる個所です。イエス・キリストの降誕も復活も神がご計画なさったことでした。

イエスから死と復活を予告されて聞いていた人々でさえ、初めは信じることができなかったのです。最初に復活のメッセージを受け取ったのは、数にも入れられなかった女性たちでした。彼女たちは恐れを抱きながらも、自分たちがするべきこととしてご遺体に香料を塗ろうとして朝早く出かけて来たのです。ところがそこにイエスの体は無く、神の使いが告げます。

「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」 人の恐れを越えて福音は、人を用いて伝えられていきます。

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2018年4月8日

テモテへの手紙II 2章13節
わたしたちが誠実でなくても、
キリストは常に真実であられる。
キリストはご自身を
否むことができないからである。

「アドナイの神」
出エジプト記 6章2〜8節

宣教:高見協力牧師

ヘブル語の神の呼称には、「神」、「全能」、「万軍」、「主」がありますが、本日の聖書箇所では、その内の「主」が用いられています。では、この「主」という言葉に込められている、神の本性とは一体いかなるものなのでしょうか。

「主」という言葉を、ヘブル語で「アドナイ」と言いますが、それは被造物への慈愛慈悲の主体としての神を言い表したものであるのです。その具体的な働きは5節〜6節に記されているとおりで、�/世聾浚兇鯑�かせ、思いを巡らせて被造物と関わってくださり、�⊇吠,侶戚鵑鬚�忘れにならず、終始一貫それを貫いてくださり、�O咾鮨�ばし、体を駆使して、具体的な行動をもって奉仕をしてくださり、�ぢ仔栖�定ではなく、自ら犠牲を払って被造物を救いに導いてくださるという働きなのです。この「アドナイ」の神は、私たち人間と人格的に触れ合い、交わってくださることで、私たちの悩みや苦しみを全身全霊で知ってくださり、その痛みを憐れんでくださるがゆえに、具体的な処置をしてくださって、私たちを祝福で満たしてくださるお方なのです。

私たちが神に対して不誠実であっても、神はこの「アドナイ」の神であるがゆえに、ご自身を否むことができません。私たちに対しては、顔と顔をつき合わせて接してくださり、常に慈愛と慈悲を注ぎ続けてくださるのです。そして、この「アドナイ」の神こそ、私たちの主イエス・キリストであるがゆえに、私たちも日々、五感を働かせて主の御言葉に聞き、祈りをもって主と交わっていくことが大切です。そうすれば、「アドナイ」の神からの豊かな祝福と「全能」の神からの不思議に与ることになりますから。

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2018年4月15日

ルカによる福音書 5章1〜11節
シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。・・・これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。

「チャレンジ! お言葉ですから」
ルカによる福音書 5章1〜11節

宣教:岡村牧師

4月に入ってUさんが召天され神の国に旅立たれました。そして先週はNさんの信仰告白によりバプテスマ式が行われました。人の力ではないですね。主なる神様の御業です。私たちがいるこの教会は主がおられ、キリストの命に生きている教会です。毎週礼拝をして聖書の言葉に触れ祈りをささげることにより、いつも原点に立ち返らせていただく経験をしていきます。

今日は聖書教育誌と同じ箇所ではなく、ルカ福音書からの言葉を選ばせていただきました。主イエスが最初の弟子を招くときのお話です。ペトロは12人の弟子たちの中で筆頭の存在でした。彼は漁師で、この時に初めて主イエスに出会ったわけではないようです。なぜ彼が弟子として招かれたのかはわかりません。招詞で読んでいただく言葉のように、だれ一人神の前で誇ることがないように、無に等しい者や身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれるご計画だったから、ということも一つの理由でしょう。

ペトロはプロの漁師でしたから、昼間に漁をしてもうまくいかないことは経験として知っていました。しかし彼はイエスの言葉に従ったのです。「・・・しかしお言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答え、そのとおりにしたところ網が破れそうになるほどの大漁を得たのでした。彼はイエスが主だということを知りました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」という信仰告白をいたしました。シモン・ペトロは主イエスこそが自分の人生の全てをささげる価値のある御方だということを知ったのでした。

神は何者でもないあなたやわたしに神の恵みや愛を体験するように導かれます。自分の経験や知識に頼ることを越えて、神の導きの言葉に従ってみよう、という1年でありますように。神の祝福が先立っている事を感謝します。

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2018年4月22日

コリントの信徒への手紙�� 3章10〜17節
イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの
土台を据えることはできません。

イザヤ書 56章7c節
わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。

「キリストの土台に建てる家」
コリントの信徒への手紙�� 3章10〜11節

宣教:岡村牧師

先週は役員会と常会で承認された今年度の指針とした聖書の言葉からの奨励でした。今日は聖書教育誌で先週取り上げられた聖書の中からお話させていただきます。教会の土台についてのパウロの言葉です。パウロは自分の同胞だったユダヤ教信者たちから敵視される中、命がけで世界にイエス・キリストの福音を世界に伝えるために用いられた人です。
パウロの伝道により、コリントにも教会が生まれました。コリントは世界の商業活動の中心地の一つで、経済的には繁栄していましたが、人口の3分の2は奴隷で下層階級に属する人々で、一部の富裕層が冨と権力を握っている格差社会だったそうです。様々な宗教や信仰があり、有名な女神を祀る神殿にアフロディーテは千人もの神殿娼婦がいて、人々の日常生活の中に影響を及ぼしていたと思われます。そのような社会的な状況の中でのキリスト教会に対して、パウロはエフェソから手紙で励ましています。
コリントの教会にも様々な思想や信仰が入り込んで、キリスト教信仰の基本が揺らいでいた中でのパウロの言葉です。パウロは言います。「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。」
建物を考える時、土台は見えない部分です。土台はイエス・キリストであって、そこは動かせないことなのだ、とパウロは言います。その上に立てる家、教会とはどのようなものであるべきなのでしょうか? 「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」という詩編の言葉、また「わたしの家は、祈りの家を呼ばれるべきである。」と主イエスが言われた言葉が浮びます。

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2018年4月29日

マタイによる福音書 9章 37 節
そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。」

イザヤ書53章6節
わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。

「人は迷える子羊」
マタイによる福音書 9章35〜38節

宣教:稲川執事

イエス様のご覧になる現実、イエス様の言われる真実、
イエス様の望んでおられること、イエス様のお導きを、
私たちは受け入れているでしょうか?
イエス様の言われる収穫は多いのです。
そしてその収穫のための働き手は少ないのです。
言い換えれば、イエス様の癒しを必要とする人(希望を見出せない人)が多いのです。
そして、その方のために命を捨てるほどの人は少ないのです。
そしてほぼ全ての人がいつも迷える小羊と言えるのです。
働き手は簡単には増えません。
しかしイエス様に仕える私たちには収穫のための働き手を担うこと、また働き手になる人を願うことが求められています。
私たち一人一人が生涯を通して働き手を願い求め、主の導きに応えたいものです。

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2018年5月6日

コリントの信徒への手紙�� 11章26節
だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

コリントの信徒への手紙�� 10章17節
パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。

「主の晩餐の制定をめぐって」
コリントの信徒への手紙�� 11章17〜28節

宣教:岡村牧師

宝塚バプテスト教会では、毎月第一主日礼拝の中で「主の晩餐」を行うことにしています。皆さんにとってこの教会が初めての教会でしょうか? 複数の教会へ行かれたことがある方なら、主の晩餐の理解や仕方が教会によって少しずつ違っていることに気づかれたと思います。「主の晩餐」「聖餐」「聖晩餐」と、呼び方も様々です。宝塚バプテスト教会は日本バプテスト連盟に所属している教会ですが、同じ日本バプテスト連盟の教会であっても、主の晩餐の持ち方は様々です。

キリスト教の長い歴史の中で、主の晩餐の解釈も様々でしたが、主イエスが制定された目に見える恵みとして大切に受け継がれてきました。この教会においても32年の歴史の中で、主の晩餐の理解と仕方は大きく変わってきました。主の晩餐は教会としての信仰の表現でもあります。様々な理解や執行の仕方がありますが、唯一どこの教派、教会でも外せないことをパウロが今日の箇所で表現しています。「…あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(11:26)

"主の死を告げ知らせる"のです。主の晩餐のために集っておきながら主の死を告げ知らせるものとはかけ離れた状況になっていたことが今日の箇所でも述べられています。私たちは"主の死を告げ知らせる"ものとして、キリストの教会に置かれていることを確認したいと思います。十字架にかけられて死なれたイエス・キリストをとおして、神のものとなっていることの感謝を、主の晩餐を受けるごとに新たにされますように。

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2018年5月13日

コリントの信徒への手紙�� 12章27節
あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

ルカによる福音書 5章5節
シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろして見ましょう」と答えた。

「主を礼拝する体」
コリントの信徒への手紙�� 12章12〜27節

宣教:岡村牧師

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(コリント(��)12:27)

これはエフェソからコリント教会の様子を聞いて手紙を送ったパウロの言葉です。パウロがキリストの教会を一つの有機的な体として表現していることを改めて覚えたいと思います。

宝塚バプテスト教会は、今年度は42名の教会員でスタートしましたが、高齢や病気など、その他様々な事情で年に1?2回だけ来られる方々や全く来ることができなくなられた方々が、全体の約3分の1強おられます。このことを考える時、現在毎週礼拝に出席できることが当たり前のことではなく、今与えられている大きな恵みであり祝福であることに思い至ります。

しかし来ることができなくても主によって一つの体とされた私たちです。来ることができなくなった方々と連絡をとりあったり、その方のことを覚えて祈ることは、教会員としての非常に大切な働きです。

パウロは言います。「一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分のものであろうと、皆一つの体となるために洗礼(バプテスマ)を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」 教会がキリストのゆえに様々に違う人々を許容できることは素晴らしい恵みです。差別がなくならない社会の中で、教会はキリストを信じる人々が一つの体とされていることを覚えつつ、あきらめたり切り捨てたりすることなく、主の導きと時を待ちつつ、祈りつつ礼拝してまいります。

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2018年5月20日

使徒言行録2章17節
神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。

「聖霊による一致」
使徒言行録 2章1〜21節

宣教:高見協力牧師

本日は、教会の暦でペンテコステ(聖霊降臨日)です。このペンテコステから遡ること50数日前、イエスは十字架の上で非業の死を遂げられています。生前のイエスには、語る言葉にも、行う業にもたいへんな力があり、それゆえ弟子たちは、「この方こそメシア」との期待をかけていたのです。ところが、イエスは全く無抵抗なままで十字架に架かり、無残にも殺されてしまったのです。この時、弟子たちは恐ろしくなって逃げ出してしまいましたが、メシアとして期待していた人、愛する師匠が死に、またその愛する師匠を裏切ってしまった自分たちの弱さを知って、彼らは失意のどん底に陥ってしまったのです。

しかし、その3日後、彼らは復活の主イエスに会い、励まされて次第に生きる力を取り戻していったのです。それから40日間、イエスは彼らと共にあり、その後、天の御国に帰って行かれましたが、イエスは生前から「私はあなた方に弁護者である聖霊を送る」という約束をしてくださっていたので、弟子たちはそれを信じて、ペンテコステのこの日、エルサレムの2階座敷に集まってお祈りをしていたのです。すると、イエスの約束通り、聖霊が彼らの上に降ったのでした。聖霊に満たされると、彼らは「ほかの国の言葉」で語り出し、しかも、その言葉を聞いた3000人もの人々が、その日のうちにバプテスマを受けるという奇跡さえも起こったのです。

この出来事から、聖霊に満たされると「言葉を語る賜物が与えられる」ということが分かるのですが、では、この言葉の賜物である「ほかの国の言葉」とは一体いかなる内容を持つものなのでしょうか。本日はそのことを説き明かしてみることにします。

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2018年5月27日

コリントの信徒への手紙�� 15章50節
兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。
マルコによる福音書 12章26〜27a
死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。

「神の国を受け継ぐもの」
コリントの信徒への手紙�� 15章42〜50節

宣教:岡村牧師

予告と少し違う箇所を取り上げることをご了承ください。予告の箇所より少し前のところです。予告と重なっている言葉は15章50節の言葉です。

50節の言葉は、前の段落にも50節から後の段落にも両方かかっている言葉だと思うのです。今日はこの言葉を前の42節からの言葉と合わせて読んでみたいと思います。使徒となったパウロの言葉です。

「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」

先週はペンテコステ記念礼拝を行いましたが、それはイエス・キリストが死んで3日目に復活したという出来事が起こったからです。私たちは誰もはじめはキリストの復活ということを信じられない者でしたが、神の真実を知りたいという思いで集会の中で聖書を読み、祈りをしていく中で、キリストの復活を信じる決断へと導かれた者です。しかしそれだけではありませんでした。キリストを信じた人はやがて死を経てもキリストのように復活するということが約束されています。ただ、何となく神様と共にいることになる、という漠然としたものではなく、霊の体が与えられると書かれています。

「生きる」ということはこの肉体が存続することではなく、信仰によって霊の体が与えられて生きる者とされるのです。それはイエスがこの地上におられたときに、語っておられたことです。信仰によるチャレンジをしていこうではありませんか。死にも勝利されたイエス・キリストが全ての鍵を握るお方なのです。この主イエスに信頼して、私たちは見えない未来へ向かいます。

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2018年6月3日

マタイによる福音書 16章16〜18節
シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。するとイエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。

「つたない告白を宝とされる神」
マタイによる福音書 16章13〜18節

宣教:岡村牧師

32才を迎えたこと、おめでとうございます!

誰のことでしょうか? 今日は宝塚バプテスト教会が伝道を開始してから32周年を迎えたことを共に喜ぶ日としています。イエス・キリストをこの世にくださった神が、私たちの教会の今までの歴史を見守り導いてきてくださったことを感謝します。今日参加できなかった友のことを思いつつ、また様々な理由でこの32年の間に去って行った友のことを思いつつ、ここに私たち自身がキリストの体であり、宝塚バプテスト教会であることを心に刻みたいと思います。

今日の聖書の箇所で、弟子たちが主イエスから「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われた時、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です。」と、信仰告白をしたことが記されています。その告白に対して、主イエスは言われます。

「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」

たかが言葉なのです。しかしその信仰の言葉は、神が導かれることでもあるのです。キリスト教会は、組織力でも経済力でもなくキリスト告白の心からの言葉がその命です。主はあなたやわたしのつたない信仰の言葉を用いて神のご計画を進められます。何度でも立ち返る機会をくださる愛の神です。

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2018年6月10日

コリントの信徒への手紙�� 13章1節
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
出エジプト記 6章13節
主は、モーセとアロンに語って、イスラエルの人々とエジプトの王ファラオにかかわる命令を与えられた。それは、イスラエルの人々をエジプトの国から導き出せというものであった。

「モーセ、再び失敗する」
出エジプト記 6章9〜13節

宣教:高見協力牧師

エジプト王のさらなる重労働政策に翻弄され、苦難に喘いでいたイスラエルに対し、神は「救いと祝福」の再約束をモーセを通して告げられました。しかし、イスラエルの人々は、モーセの語る神の言葉に耳を傾けようとはしなかったというのです(出エジ6:9)。この時、なぜモーセは神の言葉を民に伝えることができなかったのでしょうか。

この失敗に対し、モーセは「自分は唇に割礼のない者」と神に弁明しています。それは「自分は口が重く、雄弁ではない」という意味であり、彼はこの時まで、雄弁に語ることこそが人の心を動かす条件のように考えていたふしがあるのです。その証拠は、彼がファラオと最初の交渉を行った際、自らの雄弁さを演出するために、勝手に神の命じた以上の言葉を語る「虚飾の語り」をしていたことからも分かるのです(出エジ5:3)。

唇に割礼を受けるとは、何も「雄弁」になることではありません。割礼とは神の民のしるしであり、「神に愛されている者として、神の民となり、神の愛を語る者になる」という意味であるのです。人を裁いたり、脅したりする言葉は人には聞かれません。しかし、愛の言葉は人に聞かれ、人を癒やし、人を新たにさせ、人を動かしていくものなのです。今回、モーセが使命を果たせず失敗したのは、この神の愛を語らず、何か雄弁さにこだわって虚勢を張った言葉を語ったからなのでしょう。

モーセのごとく自らのさじ加減で、神の言葉から何かを引いたり足したりすることは許されていないのです。私たちに課せられていることは、神の言葉どおりに従うことだけであり、唇に割礼を受けた者として神の愛を語りつつ、苦難にある人々を救いへと導き出すことであるのです。

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2018年7月15日

創世記 18章25節
「…正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
ヨハネによる福音書 15章13節
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

「友となってくださった神」
創世記 18章17〜32節

宣教:岡村牧師

キリスト教だけでなく、ユダヤ教、イスラム教にとって、信仰の父と呼ばれる共通の重要な人物がいました。アブラハムです。天地のすべての命を創造された神への信仰の歴史は、アブラハムから始まりました。今日読んでいただく箇所では神に対してアブラハムが、必死の対話をしている場面です。

『正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。』(18章25節) 神が滅ぼしたいと思われた地域には、愛する甥のロト家族が住んでいました。アブラハムは神をいさめなければならないと傲慢になって述べたわけではないでしょう。彼は、おそらく愛する甥のロトとその家族を心配するあまりに必死に神に願ったのです。今の私たちの立場で言えば、彼は必死になって神に祈ったのです。

神は、アブラハムの姿勢に腹を立てることもできたはずです。神は天地を造られ、人間を創造された全知全能のお方です。人間のあらゆる英知を持っても太刀打ちできない神です。その神がずっとソドムとゴモラの様子を見て、その罪は甚大過ぎて滅ぼすしか無いと判断したことでした。神は、お前は何もわからずに口をはさむのか!と叱責してアブラハムを退けることもあり得ることでした。しかし神はそうはなさいませんでした。彼の言葉に耳を傾けるのです。

神がアブラハムと対話なさった姿勢とイエス・キリストがこの世に来られて示された神の本質は一貫しています。イエスは人々の友となって命をささげてくださった神の子です。神と対話する人生を人が知ってそれに生きるように、と。

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2018年7月22日

ヨハネによる福音書 10章14〜15節
わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。

「証しはとめられない」
ヨハネによる福音書 9章13〜17節

宣教:西脇慎一牧師

1950年8月4日にシェラー宣教師ご夫妻によって蒔かれた神戸での福音宣教の種は、多くの実を結び、1978年に神戸西、1986年に宝塚、1988年に神戸伊川、それぞれの地での福音宣教へと導かれて行きました。私たちが集う教会は、宣教師と牧師と信徒の協働の歩みの結実であり、私たちは今歴史のただなかにいるのです。私はこの歴史を感じていますので、四教会の交換講壇として宝塚教会に来ることが出来たことを、とても嬉しく思っています。今後、教会間交流を続け、共に祈りに覚え互いに支え合う教会となっていければ幸いです。

福音宣教はどのように為されていくのでしょうか。説教でしょうか。聖書の解き明かしでしょうか。それも大切です。でもそれより心を打つのは、私たちに神がどのように出会ってくださったのか、私たちがどのように救われたかという生きた証ではないでしょうか。

今日の聖書個所は「生まれつき目が見えない人の癒し」の物語です。彼は目が見えるようになりました。ところが、これが問題となります。周りの人は彼の癒しそのものに目を留めず、周辺のことばかりに言及します。しかし、彼は常にイエスさまが自分の身にしてくれたことを語ります。私たちに起きた真実の出来事、これは周りから受け止められなくても真実なのです。しかしその真実が、感謝と信仰を生むのです。私が今日皆さまにお伝えしたいのは、共に証しをしていきませんか、というお勧めです。

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2018年8月5日

エフェソの信徒への手紙 2章14〜16節
実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
ペトロの手紙�� 3章9節
悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。

「十字架を通しての和解」
エフェソの信徒への手紙 2章11〜18節

宣教:岡村牧師

「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、・・・十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(2章14〜16節)

伝道者パウロがこの言葉を表したとき、パウロの目の前には自分が深く関わっていることで具体的な敵対関係がありました。それはキリスト教会同士の対立でした。一方はモーセの律法をどうしても重んじたいユダヤ人が中心となっているキリスト教会で、もう一方は、元々は異邦人だったけれどもパウロが、『キリストへの信仰のみで救われる』と伝道してクリスチャンとなった人々が多く集っている異邦人キリスト教会でした。

どんな時代にもどんな民族や個人にもキリストが来られて十字架で死なれたことによる神との和解は有効です。自分の関わる領域におけるどんな小さなことも含めて全ての敵意や不和へもこのキリストの和解が先立っているのです。それを知っているのがキリスト者であり教会です。

夏季休暇をいただいて広島に行きました。災害支援活動に行くよりもその分を献金した方が良いかもしれないと思いましたが、その地に行く、そこに身を置くということの意義を感じさせられた3日間となりました。神との和解を受けた者として神は、祝福を祈るものとして私たちをこの世に置かれています。

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2018年8月12日

出エジプト記 7章 6〜7節
モーセとアロンは、主が命じられたとおりに行った。ファラオに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。
申命記 31章6節
強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。

「ミッション:ポッシブル」
出エジプト記 7章1〜7節

宣教:高見協力牧師

モーセが対峙することを恐れたエジプト王ファラオとは、一体どのような人物だったのでしょうか。一般的には、気まぐれでわがまま、粗暴な権力者というイメージで捉えられることが多いようですが、しかし、実際のところは、全ての臣民に崇められていたところの超越的な知力を持つ「現人神」であったのです。

彼が「現人神」とされた理由は、�.┘献廛畔弧世僚蟷困任△詈源�を理解し、それらを自由に操ることができた知者であったからであり、�∨盻僉�呪術に精通していたからであるのです。ただし�△両豺隋▲┘献廛箸砲�いて盛んに行われていた魔術・呪術というのは、単なるマジックやトリックのことを指しているのではなく、科学技術のことを指しているのです。すなわち、ファラオこそ知恵と科学的知識に秀たる、唯一無二の賢者だったのであり、それゆえ、臣民から崇められていたということなのです。彼がいかに科学的知識に精通していたかについては、この後、モーセがナイル川の水を血に変えた時、全く動揺していない姿からも伺い知ることができます。ファラオにとって、それらの出来事は、全て科学的に説明がつく自然現象であったがゆえに動ずることがなかったのです。

以上のことから、ファラオは単にわがままで粗暴な権力者ではなかったことが分かります。彼は知識や科学技術を用いて、軍事力、経済力を増強した科学文明の上に立つ実力者であったのです。しかし、唯一無二の知的存在であることが彼を傲慢にさせ、自己中心的な人権無視の暴力支配を生じさせることになってしまったのでした。まるでその姿は、近代科学文明に驕り、自国中心の支配形態を推し進めようとする現代の為政者にそっくりだと言えるのではないでしょうか。

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2018年8月19日

ヨハネによる福音書 17章 20〜21節
また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。
イザヤ書 53章12c節
多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。

「とりなしの祈りに支えられて」
ヨハネによる福音書 17章20〜26節

宣教:岡村牧師

8月は子どもたちの夏休みがあり、広島と長崎の原爆の日や敗戦記念日を伝える機会が与えられる時でもあります。平和の尊さや人の命の重さを考えたり"死"を考える時でもありましょう。

今日はヨハネによる福音書17章の、主イエスの祈りの中の言葉に注目します。ヨハネによる福音書は、他の3つの福音書が書かれた時代よりも遅く、独自の資料も含めて書かれました。今日読んでいただく一部だけの箇所も他の福音書にはない、主イエスの祈りの言葉です。この祈りの後、イエスは捕縛されて十字架刑に処せられる記事が続きますので他の福音書にある、いわゆる「ゲッセマネの祈り」に匹敵するものです。死を前にした主イエスの祈りです。

「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」(17章20〜21節)

主イエスがその時代の直接関わりのあった弟子たちだけではなく、彼らが伝道して神を信じる人々のためにも祈っておられます。つまり今の時代の教会の私たちのことまで含めることができる"とりなしの祈り"です。

主イエスは神と人が本来あるべき関係に結ばれるように、神に対して人を"とりなし"続けた神の子です。苦難を受けて死に至まで、父なる神に従うことによって"とりなし"てくださった救い主です。私たちが未熟ながらもイエスにならって"とりなしの祈り"をする重要さを教えるためと思えます。

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2018年9月9日

ルカによる福音書5章8節
これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。
イザヤ書61章1節
主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み 捕われ人には自由を つながれている人には解放を告知させるために。

「待ったなしに」
ルカによる福音書 5章1〜11節

宣教:岡村牧師

自然災害で台風や地震で多くの人々が被害にあっていることを心に覚えつつ礼拝をします。神が伴ってくださり、いやしてくださり、やがて希望をもって生きていくことができるように励まして下さいますように。神が私たちの祈りを用いて下さいますように。

主イエスの最初の弟子となったペトロは、イエスに従いたいと思って積極的に話しを聞いていた群衆の一人ではありませんでした。特別に罪人とレッテルを貼られた人でもありませんでした。ペトロに近づいて行ったのは主イエスのほうです。ペトロはプロの漁師でしたから、昼間に漁をしてもうまくいかないことは経験として知っていました。しかし彼は納得がいかず渋々であったとしてもイエスの言葉に従ったのです。すると、網が破れそうになるほどの大漁を得たのでした。彼は「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と即座にひれ伏して言いました。神に対して自分がどのような存在であるかを知った瞬間でした。その瞬間から、神はペトロから離れないで共におられる神であるということを彼が学ぶ人生に入っていきました。

ペトロたちは今までの生活の手段であった舟を置いて、気になる全てのことを神に委ねてイエスに従って行きました。大漁をくださった主は、他の全てを導かれるという信頼が生まれたのでしょう。信仰の旅がはじまります。弟子たちの裏切りにあうことを知りながらも、神は共に在ることを決断された神であります。私たちもまたその愛を体験していく人生が約束されているのです。

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2018年9月16日

コリントの信徒への手紙11章29節
だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。
エレミヤ書 9章22〜23節
主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。冨ある者は、その冨を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい 目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事 その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。

「パウロの心」
コリントの信徒への手紙II 11章16〜33節

宣教:岡村牧師

「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心をもやさないでいられるでしょうか。」(11:29)

パウロの上記の言葉は、関西地方教会連合の2017年度と2018年度の総会の開会礼拝で選ばせていただいた言葉です。一人の人を思うパウロのこの言葉はパウロの心を表していると同時に、イエス・キリストの姿をあらわしているようで、このような言葉をパウロが表現できることに心が惹かれました。今日は11章から、次週は12章から、キリスト・イエスをとおしてのパウロの言葉を見ていこうと思います。

コリントの信徒への手紙IIはパウロがコリントの教会に宛てて、一度に書いたものではなくいくつかの手紙を集合したものであると思われます。10章から13章までは一つの流れをもっております。パウロに敵対する人々への主張や彼の誇りについて語られています。11章で語られているパウロに敵対する人々を偽使徒とパウロが呼んでいますが、それらの人々が肉に従って誇っていることを用いてパウロは自分の誇りを語り始めます。自分の出自の誇りから始まりますが、キリストに仕えるものとしての誇りは、苦難の連続だったことでした。

自分を誇ることが非常に危険なことを私たちは知っています。どんな素晴らしいことであったとしても、聖書で主イエスが自分を誇る姿を見せたことはありませんでした。誇るなら主を誇るように私たちは導かれていきますように。

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2018年9月23日

コリントの信徒への手紙12章9節
すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」と言われました。

「力は弱さの中でこそ」
コリントの信徒への手紙II 12章1〜10節

宣教:岡村牧師

今日読むパウロの言葉は、今まで時代を越えて多くの人々が励まされてきた言葉でありましょう。パウロには多くの誇るべき事がありました。11章では数々の苦難に耐えてきたことを誇り、教会の一人一人の弱さに無関心ではいられない心も誇っていたと述べています。

今日の箇所では、パウロは霊的な体験をしたことを誇れる事として述べますが、それだけではなくパウロを悩ませることがあったことを告白しています。それが何なのかは書かれていませんが、パウロはそれを一つの"とげ"と表現しています。痛みを与えるそのとげを、彼は自分が誇ることを戒めるために与えられたものだ、という解釈をしています。

しかしそのとげから自由になりたいという思いで、パウロは祈りに祈ったのでありました。その願いに対して神から次のような言葉を彼は受けます。

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。 つまりパウロが願うようにはならなかったのです。

キリストの力が自分の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇ろう、という心にパウロは変えられます。「わたしは弱いときにこそ強いから」と、パウロは告白するのです。彼がこのように言うことができたのは、死を経て復活されたキリストが共におられることを体験したからでありましょう。主は我らと共におられるために生まれ、苦しまれ、全ての罪を引き受けた神です。

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2018年9月30日

コリントの信徒への手紙12章9節
すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」と言われました。

「おごり、高ぶり、傲慢のかたまり」
詩編 131編1〜3節

宣教:古田執事

「ひかり ひかり わたくしたちは ひかりのこども ひかりのように あかるい  こども いつもあかるく うたいましょう」これは、よく知られているこどもさんびか52番です。2節の歌詞は、「げんきなこども いつもげんきで あそびましょう」、3節の歌詞は「ただしいこども いつもただしく はげみましょう」と続きます。一定の年齢以上の教会員の方々にとっては、そしてまた幼いころキリスト教付属の幼稚園に通っていたという方々にとっては、とても懐かしい「こどもさんびか」だと思います。

私の娘が、「これはお父さんの歌やで」と言って、この替え歌をつくりました。「おごり 高ぶり 傲慢のかたまり 自分が中心 自分を手放せない 罪深いわたし 罪深いけど 祈りましょう」後半の「自分が中心」以降は私が自分で考えた歌詞です。何という失礼な娘だと思いましたが、反論できない私がいます。旧約聖書詩編19:14を見ると、ヤハウェ(イスラエルの神の名)に背くことのうち、驕り、高慢、傲慢、誇りなどで表される態度は「重き背きの罪」と考えられています。今日はこの「重き背きの罪」について、そしてまた「沈黙」の意味について、更には乳離れした幼子について、詩編131編が伝えようとしていることを味わってみたいと思います。

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2018年10月7日

フィリピの信徒への手紙2章6〜8節
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

「讃美せずにはいられない」
フィリピの信徒への手紙 2編1〜3節

宣教:岡村牧師

教会に来るのは1週間一度の日曜日の礼拝、そして祈祷会の時ですが、ほとんどの方々は週に一度だけ来られます。共に礼拝をする、それだけなのに、あるとき人は神に招かれて、キリストに属する者となる決意をして信仰告白をしてクリスチャンとなります。その人たちは聖書と祈りにおいて常にイエス・キリストを心の目でみる人生を送るようになります。そのキリストとはどのようなお方なのか。今日の言葉は初代教会の讃美歌としても歌われた言葉です。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6-8)

キリストを信じる者は、どんな状況にあってもイエス・キリストのお名まえによって神を讃美せずにはいられない人生を送るように導かれていきます。差別され迫害されて、居る場所がない人々と共におられた主イエスは、今も弱り果て苦しむ人の傍らにいてくださる神です。人の恐れは変って喜びとなり、打たれても打たれてもあきらめないで神に寄り頼むように変えられていきます。

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2018年10月14日

イザヤ書 57章15節
わたしは、高く、聖なる所に住み
打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり
へりくだる霊の人に命を得させ
打ち砕かれた心の人に命を得させる。

「神が住まわれる所」
イザヤ書 57章15節

宣教:北村執事

詩編22編3節では「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」と作者は詠います。十字架上のイエスさまもこの詩編の言葉をつぶやいたのではないかと言われています。

私たちも苦難にあったときには、「神さまは一体どこにおられるだろうか」と不安になったり、不満に思ったりすることがあります。神さまは一体どこにおられるのでしょうか?

神さまは、天におられます。しかし天とはどこでしょうか? 空間的にも、時間的にも、質的にも、私たちが想像する世界とは違っているような場所であるのかも知れません。

イザヤ書57章15節では、神さまは「高く聖なる所に住み」と書かれています。そして続けて「心砕けて、へりくだる者と共に住み」と書かれています。聖なるものが俗なるものと共におられる、と聖書は語るのです。

本日は、この神さまの不思議、聖なる者が俗なる者と共に住まわれるということについて考えて行きたいと思います。

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2018年10月21日

ペトロの手紙�� 4章10節
あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。
マルコによる福音書 10章45節
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。

「大切な日常生活」
ペトロの手紙�� 4章7〜11節

宣教:岡村牧師

「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」

"仕える"という言葉が入っています。この言葉は今日の礼拝の「招詞」とさせていただいたマルコ10章45節の言葉の"仕える"と同じ原語が用いられています。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」マルコ10:45

その時代のクリスチャンたちは、迫害の中で様々な軽蔑や差別の中で生きていました。その人々の希望は、世の終わりが間もなく来て、キリストを信じる人々は神のもとへ導かれる栄光が待っていることでした。その時は近いと信じていた人々に、ペトロは手紙の中で「祈りなさい」「愛し合いなさい」と励ましています。一時的にではなくそのような生活を心がけなさい、ということです。そして「互いに仕える」ということを具体的なこととして奨励しています。世の終わりが来ていない今も同じようにこの奨励の言葉は生きています。

仕えるのはその人が助かるように、また喜んでもらえるようにすることだと言えます。けれども自分が良かれと思ってすることが、その人を助けたり喜ばせたりすることにはならない場合があることも経験済みでしょう。すきだらけの私たちです。しかし私たちの動機はいつも主イエス・キリストにあることを教えられます。そこにすべての原点があることを感謝します!

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2018年10月28日

テサロニケの信徒への手紙�� 5章10節
主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。
マタイによる福音書 4章4b節
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」

「神と共に生きる」
テサロニケの信徒への手紙�� 5章9〜11節

宣教:岡村牧師

今日は召天されたご家族をお招きして、共に礼拝をする「召天者記念礼拝」として行います。今後も毎年10月の第4週の日曜日に行う予定です。

生きるとは、単に生物学的に生存するということだけではありませんね。聖書で主イエスはそれを「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われました。キリスト教では、イエス・キリストが死から復活されたように、信じる人もまた復活して永遠のいのちに入るということを信じています。別の表現で言えば、神と共に生きるいのちに入るのですが、それがいつのことになるのかは誰もわかりません。私たちは死んだら何もかもわからなくなるのであれば死ぬことは苦しみから解放されることですから、むしろ生きているよりも死んだ方が良いということになります。しかし、死んでも自分が自分であることが自覚できて状況がわかる状態なら、神と共に在ることは幸いなことです。

「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」

「主」とはキリストのことです。イエス・キリストは神の言葉によって生き、死なれました。その死に人間は責任があるのですが、神はその責任を問わずに赦されました。その時代の人だけでなくすべての人が神との関係を知って神を信じるようになるためです。キリストの故に私たちは先に召天した人々と再会できる希望が与えられています。この神をあなたも信じて生きませんか?

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2018年11月4日

イザヤ書 56章7c節
わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。
追い散らされたイスラエルを集める方 主なる神は言われる。
既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。
ヨハネによる福音書 10章16節
わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊も導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

「祈りの家」
イザヤ書 56章1〜8節

宣教:岡村牧師

今日の聖書の言葉は、礼拝前の教会学校で学んでいる聖書教育誌と同じ箇所を取り上げています。この56章から66章は、主イエスがこの世に生まれるよりも750年ほども昔に預言者として活動したイザヤが生きていた時代から300年ほど後の時代のことが預言として書かれています。この間に預言者エレミヤやエゼキエルなども活動しています。

捕虜になって外国に地で住んでいた人々は、奴隷になって民族の尊厳を失い、宗教も文化も違う国で苦しい生活を強いられたでありましょう。人々はそれが神に背いた罪のゆえだ、ということを預言者の警告の言葉から知っていました。しかし人間の性なのでしょうか、人は痛い目にあわないと理解できないことがあります。神は御自分が選んだ民族を苦難の中を通らせることによって、人々が心から神に立ち返ることを待たれたのでした。

「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」(イザヤ56:7c)

これは後に主イエスが、人々が神殿を金儲けの場所にしていることに怒りを表されたときに引用された言葉です。わたしの家とは神の家の意味であり、今の時代の教会のことです。教会は「すべての民の祈りの家」となるべく活動します。様々な違いがある人々が、救い主キリストのゆえに集って喜んで礼拝をすることを自分の生活の中心に置きます。自分とは違う人々と共に、ということを学びながら、どんな状況になっても、できるだけ誠実にキリストに従って生きていこうと願い祈る人々がいる教会を、神は喜ばれ祝福されるでしょう。

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2018年11月11日

出エジプト記 7章23〜24節
ファラオは王宮に引き返し、このことをも心に留めなかった。エジプト人は皆、飲み水を求めて、ナイル川の周りを掘った。ナイルの水が飲めなくなったからである。
ローマの信徒への手紙 9章18節
このように、神はご自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。

「神が血の災いを止めた理由」
出エジプト記 7章14〜24節

宣教:高見協力牧師

神がイスラエルの人々を救出するために、エジプトに下した10の災いを、ヘブル語で「エセル・マコット」と言います。それは「10の鉄槌(ハンマー)」という意味です。とかくこの災いは、神が反逆するエジプトに下した「恐るべき裁き」と捉えられがちなのですが、実際のところはそうではないのです。

「エセル・マコット」には、神がファラオに10の試練(つまづき)を与えることによって、彼に自らの過ちを自覚させ、正しい道に立ち帰らせることを狙いとした一種の警告、教育的懲らしめの意味があるのです。これを裏付ける証拠として、神は一刀両断にエジプトを裁かれていないという事実が挙げられます。神が本気でエジプトを裁くおつもりであったならば、彼らを即座に滅ぼすこともできたはずです。しかし、そうはなさらなかった。むしろ神は、エジプトを降伏させるまでに約1年の歳月を費やしている。これは明らかに彼らの悔い改めを待っていたのであり、彼らに猶予を与えていた証拠になるのです。しかも、その災いの内容の7割が、即刻、彼らの命に関わるようなことではなかったことからも分かるのです。このようなわけで、「エセル・マコット」は裁きのための災いなのではなく、エジプト人を救うために、神の恩情から発せられた警告と捉えるべきなのです。実際に、この神の恩情、憐れみ、救いの意志を感じ取ったエジプト人も数多くいたというのです(出エジプト記11:3)。

以上のように、神は罪に生きるエジプト人をも憐れまれていることから、神は全ての者を罪の苦しみや悲しみから救おうとされている「憐れみの神」であり、全ての者に愛と平和を与えようとされている「正義の神」であることが分かるのです。

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2018年11月18日

ルカによる福音書 17章15節
その中の1人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。
ローマの信徒への手紙 10章9節
口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。

「戻って来る人」
ルカによる福音書 17章11〜18節

宣教:岡村牧師

今日は私たちの教会にとって、最高に嬉しい日です。礼拝の中でKさんの信仰告白ならびにバプテスマ式が行われます。

今日の招詞としてまず次の言葉を読んでいただきます。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10:9)

今日はルカによる福音書17章11節から重い皮膚病を患っている十人の人たちが、主イエスに遠くから大声で願って、いやされた記事の箇所です。十人全員がいやされたのでした。その喜びはどんなに大きいものだったでしょうか。その喜びの中で、どなたがいやしてくださったのかを忘れなかった人がたった一人いました。差別され軽んじられていた外国人でした。自分の口で、病をいやされた感謝の思いを伝えたいと思って、わざわざ主イエスのところに戻って来て感謝をあらわしたのでした。

この人の姿が、キリストを信じて信仰告白をしたクリスチャンの姿と重なります。聖書の民からみれば外国人だった私たちも、イエス・キリストをとおして神を知りました。どんな時でも救い主である神への礼拝に戻って来るのがクリスチャンです。今日、神への願いと感謝に戻って来る生涯を送る一人の人が新しく生まれます。天でも地でも喜びが溢れます。ハレルヤ!

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2018年11月25日

ローマの信徒への手紙 10章15節
遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。
ヨハネによる福音書 15章16節
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

「美しい足」
ローマの信徒への手紙 10章11〜17節

宣教:岡村牧師

毎年11月最後の週から12月最初の週まで日本バプテスト連盟では「世界バプテスト祈祷週間」としています。320の教会・伝道所が、特に世界に派遣している宣教師の方々を覚えて祈り、献金をします。

さて、今日読んでいただいた箇所はパウロが、キリストの福音を伝えることの大切さを語っています。旧約聖書イザヤ書の言葉を引用しながら、時代は昔であってもそこに書かれている「主」とは「イエス・キリスト」のことを指しているのであり、民族の差別無くすべての人への救い主なのだとパウロは言います。その主を伝える人が必要なのです。

神は御自分で何でもできるお方ですが、神への信仰を公に表した信者と共に神の国の働きを進めていかれます。先週、信仰告白をしてバプテスマを受けたKさんも福音伝道に参加する人となりました。世界の人々にキリストを伝える「美しい足」として神はクリスチャンを用いられます。誰も大変なことを好んでする人はいません。けれども神から押し出され、神が先立って下さり導いて下さるので、使者としての働きを続けて行くのです。

今週から来週にかけて特にこの時期に世界に派遣されている宣教師の方々を覚えて祈っていきましょう。しかしキリストの福音を伝えるのは牧師や宣教師だけではありません。神はあなたを召しておられます。あなたが来ることを待っている人がきっといるからです。キリストへの祈りの中で勇気と愛をいただいて他者へと関わるとき、必要な全てが備えられることを経験するでしょう。

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2018年12月2日

マタイによる福音書 28章18〜20節
イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼/バプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
ヨハネによる福音書 15章16節
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

「祝福を信じて出かける人」
マタイによる福音書 28章16〜20節

宣教:岡村牧師

今日から「アドヴェント/待降節」に入りました。クリスマスはもう目の前です。今日はまた「世界祈祷週間」のお話や日本から遣わされている宣教師の方々のビデオメッセージを見て聞きます。そしてキリスト教会としては何よりも嬉しい、Tさんの信仰告白ならびにバプテスマ式が行われます。私たちの目には見えませんが、神の国でも大きな喜びが今日、あることでしょう。

今日の聖書の箇所は、死から復活されたキリストの大宣教命令と呼ばれている言葉です。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 今日行われるバプテスマ式もこの言葉に則っています。

遠くの国へ出かけてキリストの福音を伝える宣教師として具体的にインドネシアやカンボジア、シンガポール、ルワンダに遣わされており、それらの方々の活動や生活が安全のうちに導かれるように祈り、またの様子をのような人だけが「行く」のではありません。神の召しに応えた人は、イエス・キリストを通して与えられた神の祝福を受けています。どんなことがあっても神は共にいてくださる神として、ご臨在を示して下さるのです。

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2018年12月9日

出エジプト記 7章25〜29節
主がナイル川を打たれてから七日たつと、主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行って、彼に言いなさい。主はこう言われた。『わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ。もしあなたが去らせることを拒むならば、わたしはあなたの領土全体に蛙の災いを引き起こす。ナイル川に蛙が群がり、あなたの王宮を襲い、寝室に侵入し、寝台に上り、更に家臣や民の家にまで侵入し、かまど、こね鉢にも入り込む。蛙はあなたも民もすべての家臣をも襲うであろう』と。」
ローマの信徒への手紙 11章29節
神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。

「神の賜物と招きのクリスマス」
出エジプト記 7章25節〜8章11節

宣教:高見協力牧師

アロンがエジプトの水の上に手を差し伸べると、蛙が這い上がってきてエジプトの国を覆い尽くすという事件が起こりました。これが、神がファラオに下した第二の災いです。それらの蛙は「ナイル川に群がり、ファラオの王宮を襲い、寝室に侵入し、寝台に上り、さらに家臣や民の家にまで侵入し、かまど、こね鉢にも入り込んだ」というのです。しかし、この災いは、直接人命を危険にさらすものではなかったがゆえに、この時、神が本気でエジプトを滅ぼしに行かれていなかったことが分かるのです。

しかし神は、蛙を寝室、寝台、かまど等に侵入させることにより、人間の生理的三大欲であり、人間の日常生活の営みである、性、睡眠、摂食を妨害し、あって当たり前、出来て当たり前の彼らの日常生活を停止させたのです。人間にとって、この当たり前の日常生活を停止させられるほど辛いものはありません。それは、ライフライン(電気・ガス・水道)の不通により、日常生活が停止させられ、多くの不便や不快さを感じさせられた、昨今の自然災害(西日本豪雨・北海道地震)などの被災者を見ても分かるのです。

この辛い状況に、ファラオもついに白旗を上げました。彼は「主に祈願して、この不便不快を取り除き、日常生活を回復させてほしい」とモーセに願いました。この時、彼はイスラエルの神を初めて「主」、「ヤハウェ」と呼び、主の力、その存在と働きを認めたかのように見て取れたのですが、果たしてその真相はいかなるものだったのでしょうか。

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2018年12月16日

マタイによる福音書 1章18〜23節
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

「神と人のチーム」
マタイによる福音書 1章18〜25節

宣教:岡村牧師

次週のクリスマス礼拝を前にして、今日はマタイによる福音書1章からイエス・キリストの父親の役割を与えられたヨセフが登場する場面を読んでいただきます。ルカによる福音書で全面的に出てくるマリアの姿はありません。マタイはこの福音書を作成するときに読んでもらいたい人々がいたのです。その人々が抱いていたであろう疑問に応えるため、あるいは説得しようとして書かれたようです。マタイによる福音書のマタイとは、イエスの12人の弟子の一人、元取税人マタイのことです。彼1人で書いたものではないにしてもマタイは主イエスや母マリアと親しい交わりがあった人でした。その意味からも、四つの福音書の中でマタイによる福音書が最初に置かれているということの意義が見える様な気がします。この福音書は、私たちが旧約聖書と呼ぶヘブライ語聖書に精通しているユダヤ人キリスト者に宛てて書かれたものです。

今日の箇所はイエス・キリストは旧約聖書で預言されていた救い主である事、またいかにして神が人を用いてこの世にキリストを誕生させられたかが記されています。イエス・キリストは神の御意志によってこの世に登場した神の子です。この方は「自分の民を罪から救う」と記されており、イエスという名が「神は我々と共におられる」という意味があることを告げています。神は御自分だけで事を起こそうとされたのではありませんでした。神から用いられた人々を聖書は特別扱いをしていません。大切な事は救い主がこの世にお生まれになった事、そして死を経て今も信じる者たちと共におられるということです。今も生きて働かれる神は、今の私たちも用いて世界を拓かれる神です。

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2018年12月23日

マタイによる福音書 2章9〜11節
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
ヨハネによる福音書 1章14節
言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

「神の招きは世界の果てまで」
マタイによる福音書 2章1〜12節

宣教:岡村牧師

クリスマス、救い主イエス・キリストの御降誕
おめでとうございます!

2018年のクリスマスも、集られた皆様と共に宝塚バプテスト教会で祝うことができました。神の子イエス・キリストが誕生されたことから世界は、神の大きな恵みのご計画の中に導かれていきます。

神の子イエスが誕生したことを祝うのがクリスマスですが、世界で初めのクリスマスは、その誕生に際して権力者による暗殺ということが見え隠れしておりました。今日読んでいただくマタイによる福音書では、ユダヤ人の王が生まれたことを最初に知らされたのは、その王を待ち望んでいたはずのユダヤ人たちではなく、異教の外国人だったと記されています。

神様は、エルサレムから見て東方の異教徒の学者たちが専門としていた分野によって彼らを導きました。学者とは真理を求めるものです。自分たちの研究している星のことで目覚ましい発見があったときに、彼らはそれを見極めないではいられませんでした。色々なことを犠牲にしてでも真理を見極めようとする彼らのその探究心を用いて、神は異邦人学者によって救い主誕生の知らせをユダヤ人たちにもたらされたのでした。

クリスマスの恵みは私たちにも外からもたらされました。神から最も遠いところにいるこの私も、神に招かれていると気付くクリスマスでありますように。

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2018年12月30日

マタイによる福音書 2章
14節ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。21節そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。22節…ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。
ルカによる福音書 5章5節
シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。

「危機の只中で」
マタイによる福音書 2章13〜23節

宣教:岡村牧師

今日で2018年最後の礼拝となりました。ご一緒に礼拝できたこの1年を心から主に感謝しています。2018年度は来年3月末まで続きますが、12月末の年の終わりというのは、ひとつの区切りでもあり、色々なことを振り返ったりするものであろうと思います。 今年度のテーマ聖句の「…しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(ルカ5:5)を招詞として載せたのは、新しい年もこのテーマを忘れないでくださいね、という私の思いが含まれています。これはペトロが主イエスの言葉に従ったことを表す言葉です。

今日は聖書教育誌の箇所と同じく、マタイによる福音書2章から、生まれたばかりの主イエスが命を狙われて他国へ避難した箇所を読んでいただきます。主イエスが生まれるに際して、複数の幼児が殺されたことは大変ショッキングな出来事です。どうしてそんなことが…と思わずにはいられないですが、自分の地位がおびやかされる不安の中にいる支配者が残酷な行動をするのは歴史の中でくり返されました。大切な命を失う悲しみの中に主は来られました。

救い主イエスをこの世に下さったのは神様なのだから、主イエスを守られるのは当然だと私たちは思ってしまいます。しかし神は御自分のご計画を単独でなさったのではありませんでした。神は神の言葉を聞いて従う人を選ばれます。昔もこれからも、です。死から復活された主イエスは教会を選ばれました。主イエスの御心にかなった教会でありますように。教会のからだであるわたしたちが神に喜ばれるものでありますように。導かれる主に感謝しつつ。

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2019年1月6日

ルカによる福音書 3章2〜6節
アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼/バプテスマを宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
箴言 4章25節
目をまっすぐ前に注げ。あなたに対しているものに まなざしを正しく向けよ。

「まっすぐに」
ルカによる福音書 3章1〜6節

宣教:岡村牧師

主の年、2019年、あけましておめでとうございます。

今年もご一緒に礼拝を続けることができますように。礼拝に集る中で、互いに声をかけあい、知り合い、祈り合う関係が育っていきますように。

今日の招詞は、「目をまっすぐ前に注げ。あなたに対しているものにまなざしを正しく向けよ。」(箴言4:25)です。また読んでいただくルカ福音書3章4節、5節には、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」という言葉が入っています。「まっすぐに」が心に留まりました。

主イエス・キリストの活動が始まる前に、神はヨハネという人を用いて準備をなさいました。ルカによる福音書ではそのヨハネとは、ザカリアとエリサベツ老夫妻に与えられた奇跡の赤ちゃんとして1章に記されています。旧約聖書イザヤ書には、キリストのことだけでなく道備えをする人が現れることも預言として記されていました。

「まっすぐに」という姿勢は、一般的にはあまり人気がない言葉かもしれません。私たちは物心ついたときから曲がっているものであり、人生を寄り道しながら迷いながら歩んでいるものです。「まっすぐ」などできないし、つまらない、と馬鹿にされる姿勢かもしれません。でもどこかで自分の心が「まっすぐに」なっていたいと思います。ひっかかりながら歩む人生の中で、キリストを仰ぎ見ながら、これだけは…とまっすぐに思えることがあるのは幸いです。

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2019年1月13日

ローマの信徒への手紙12章1節
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
出エジプト記8章13節
彼らは言われたとおりにし、アロンが杖を持った手を差し伸べ土の塵を打つと、土の塵はすべてぶよとなり、エジプト全土に広がって人と家畜を襲った。

「私たちのなすべき礼拝」
出エジプト記 8章12〜15節

宣教:高見協力牧師

神はモーセとアロンに命じて、杖で土の塵を打たせ、そこからぶよを大量発生させて、それらの昆虫をエジプト全土に及ぼしました。この第三の「ぶよの災い」には一体どのような意味があるのでしょうか。

この第三の災いを、「神の御言葉に服従せず、愛に生きようとしない無価値なエジプトに対してくだされた神の裁き。それは、彼らの自己中心的な生活に不快と痛みと損害を与え、のちに彼らを死に至らしめようとする裁きである」と解釈してしまいがちなのですが、実はそうではないのです。実際、ぶよなどの昆虫が、人を死に至らしめることはまずないことから、今回のこの災いも、「不従順なエジプトを裁き、滅ぼそうとする神からの呪い」として解釈するのではなく、「彼らの過ち(愛のない生き方)に気づかせ、彼らを悔い改め(命)に導こうとする神からの招き、愛の懲らしめ」として解釈すべきであるのです。

神が「ぶよの災い」を送った第一の理由は、イスラエルの民を愛する神が、重労働に苦しむ彼らを憐れんで、苦難から解放しようとしたからであり、第二の理由は、エジプトの民をも愛する神が、不義と滅びに生きる彼らを憐れんで、何とか正しい道、命の道に導こうとしたからであったのです。従ってこの箇所には、無限に広がる神の愛が記されていることになるのです。しかるに一方、ここにはファラオに代表される人間の自己中心性、悔い改めるのに遅い人間の頑なさもまた記されているのです。この対称的な神とファラオの姿。まさしく命に至る道か死に至る道か。私たちの生はこの二者択一になるのです。

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2019年1月20日

ルカによる福音書 6章20〜23節(抜粋)
さて、イエスは目を上げて弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。…人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。…」
詩編102編18節
主はすべてを喪失した者の祈りを顧み その祈りを侮られませんでした。

「神の国の驚くべき真理」
ルカによる福音書 6章20〜26節

宣教:岡村牧師

今日の聖書の言葉は、聖書によればマタイによる福音書5章1?12節の平行記事となっています。マタイによる福音書のほうは5章1節にイエスが群衆を見て山に登られた、とありますので〈山上の説教〉と呼ばれます。

今日読むルカによる福音書のほうは6章17節に、弟子たちと一緒に山から下りて平らな所にお立ちになった、という言葉があるところから、〈平地の説教〉とも呼ばれます。平地は弟子たちだけではなく民衆が居る場所です。しかしどちらにしても、他に色々な人々がいたとしても、これは主イエスが弟子たちに向かって語った言葉です。

「平地の説教」は6章38節まで続きますが、今日は6章20節から26節までを読んでいただきます。マタイの平行記事とは違って「幸いである」で終っていないことが一つの違いと言えます。「不幸である」という言葉が、対になっています。弟子たちに対しての警告の言葉だと受け取れます。人は表面的な部分と隠れている部分があるからです。

1月17日に関西地方教会連合の「1・17祈念礼拝」が、当時被災した豊中バプテスト教会で行われました。こじんまりとした礼拝堂がいっぱいになるほどの人々が集り、胸が熱くなりました。あの阪神淡路大震災が起こってから家をなくしてホームレスになった人々がいました。あのときの支援活動からホームレス支援を始めたグループが関西地方教会連合の中にも生まれ、24年経った今も活動が行われていることにあらためて感謝する思いでした。

主イエスは神の国の驚くべき真理を弟子たちに伝えました。聖書をとおして今の私たちにも教えておられます。持てるものを他者と分かち合うようにと。

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2019年2月3日

ルカによる福音書 7章22b〜23節
「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」
ヨハネによる福音書 20章29節
イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

「わたしにつまずかない人は幸いである」
ルカによる福音書 7章18〜23節

宣教:岡村牧師

イエス様がおっしゃった言葉で「…は幸いである。」という表現があります。マタイによる福音書5章の〈山上の説教〉で、「心の貧しい人々は、幸いである…」と語られ、ルカによる福音書6章の〈平地での説教〉では「貧しい人々は、幸いである…」と言われました。今日読むルカによる福音書7章にもその言葉が出てきます。「わたしにつまずかない人は幸いである。」 主イエスの言葉です。

「わたしにつまずかない人は幸いである。」という言葉はバプテスマ(浸礼者)のヨハネがヘロデ王を批判したことで牢獄にいたときに、ヨハネの弟子たちがヨハネの代わりに質問をしに来たおりに彼らに言われた言葉です。

バプテスマ(浸礼者)のヨハネは自分の使命を知っていた人でした。彼はルカによる福音書1章で祭司だった年老いたザカリアとエリサベツに与えられた奇跡の子どもでした。荒れ野にいるときに神の言葉が彼に降ってから、人々に対して神の前に悔い改めを迫ってまわり、来るべきお方について、自分はその方の履物のひもを解く値打ちもない、と語りました。主イエスが公の活動に入られるときにヨハネからバプテスマをお受けになったときも、ヨハネはイエスがどなたなのか認識していた様子が記されています。

ところがヨハネは自分が牢獄につながれたとき、イエスに対して「来るべき方は、あなたでしょうか。」と質問しました。それに対して主イエスは、その通りだ!とはおっしゃらずに現実に起こっている出来事を伝えて判断を相手に委ねています。ヨハネが質問をした姿と私たちの姿が重なって見えました。そこに復活の主の言葉が響きます。「見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:29)
アーメン!

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2019年2月10日

出エジプト記 8章18〜19節
「しかし、その日、わたしはわたしの民が住むゴシェン地方を区別し、そこにあぶを入り込ませない。あなたはこうして、主なるわたしがこの地のただ中にいることを知るようになる。わたしは、わたしの民をあなたの民から区別して贖う。明日、このしるしが起こる」と。
創世記 4章3〜 5節
時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。

「区別する不公平な神」
出エジプト記 8章16〜28節

宣教:高見協力牧師

神がエジプトに「あぶの災い」をくだした時、神はイスラエルの民が住むゴシェン地方だけを区別し、その災いが及ばないようにされました。それは、神のイスラエルに対する愛と庇護の表われであったのです。

イスラエルに対しては庇護、エジプトに対しては災い。「以前の牧師の話によれば、神は全ての民を平等に愛しているのではなかったのか。やはり神は、愛する民と災いをくだす民とを区別している。不公平ではないか」との疑問の声が聞こえてきそうですが、しかし、聖書では一貫して、神による区別と差別が記されているのです。たとえば、出エジプト記では、イスラエルとエジプト。創世記では、顧みられた人アベルと顧みられなかった人カインとを明確に区別し差別しているのです。このことから、実にキリスト教の神は、区別し差別する不公平な神であることが分かるのです。

ある女性と牧師の逸話です。
女性「どうして私ばかり苦労が多いのでしょうか。本当に神様は不公平な方です」。
牧師「ええ、そうですよ。今頃お気づきになったんですか」。
女性「私は神様に顧みられなかったカインだと思います」。
牧師「いいえ、あなたこそ神様に顧みられたアベルですよ」。
女性「どうしてですか。じゃあ、カインは誰なんですか」。
牧師「神様に捨てられたカインこそイエス・キリストです。神様はもの凄く不公平な方ですね。正しい方に災いを及ぼし、不義なる者に庇護を与えて区別されたんですから。神様はunfair(不公平)なほど、あなたを愛しておられるということです」。

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2019年2月17日

ルカによる福音書 10章27〜28節
彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい。』とあります。」 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
ヨハネによる福音書 6章47節
はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。

「それを実行しなさい」
ルカによる福音書 10章25〜37節

宣教:岡村牧師

これさえしたら、こう良くなる、というハウツー(how to)式の事柄は、昔も今も世に満ちています。今日読む箇所に出てくる人は、専門が律法の専門家で、イエスに対してその類いの質問をしてイエスを試そうとした人でした。その質問の中身はとても一言では答えられないような深淵なものでした。それは、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるか、という質問でした。

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい。」(ルカ10:27)

律法の専門家は、正しく答えました。するとイエスは云われたのです。

「…それを実行しなさい。」

更にその人が「では、わたしの隣人とはだれですか?」と質問しました。それに対してイエスが話されたたとえ話が「善きサマリア人」です。たとえ話に出て来る、強盗に襲われて瀕死の状態だった人を助けたサマリア人は、当時の民族同士の敵対関係など知らぬがごとくに淡々と自分のすべきことをしています。憐れに思い、介抱して宿屋に連れて行き安静にできる場所を確保して看護を宿の人にお願いしてその費用も負担しています。

「行って、あなたも同じようにしなさい。」

この主イエスの言葉は何を意味するのでしょうか。全ての人を救う為に主はこの世に来られ、救う為に死なれ、復活されました。どれだけ私たちが幸いな者か、身をもって知り、応えるものでありますように。

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2019年2月24日

ルカによる福音書 10章41〜42節
主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

「取り上げてはならないこと」
ルカによる福音書 10章38〜42節

宣教:岡村牧師

先週に引き続いて、ルカによる福音書独自の記事を取り上げます。マルタとマリアという姉妹の家に主イエスが来られた時のことです。女性が主イエスに対して香油注ぐ行為をしたのは、ルカによる福音書ではこの他にも7章に出てきます。ルカ福音書以外の3つの福音書では主イエスの死が目前に迫ったときにエルサレムから近いベタニアで一人の女性が高価な香油をイエスに注いだエピソードが記されています。ここでは少し状況が違うようです。子供や異邦人の信仰を祝福する主イエスの話しの最後に今日の記事が置かれていることに意味があると思いました。

主イエスをお迎えして、もてなしのためにせわしく立ち働いていたマルタは、不平が出てしまいました。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 古今東西、今までの人間に歴史の中で性による役割分担というものが行われてきました。マルタのこの言葉には、迎える側や女性がするべきことが当然のこととして語られています。主イエスの一行はお客様ですからマルタを手伝ってマリアももてなしをするのが当然だと彼女が思っていたことがわかります。ところがマリアは主の足もとに座ってその話に聞き入っていました。マルタが思ったこととイエスに不満を訴えたことは彼女一人だけの思いではなかったでしょう。そんな中でイエスの言葉が響きます。「…必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

この意味をご一緒に考えてみたいと思います。主イエスの到来は、今までの価値観がひっくり返されるようなことだったことを、聖書は教えてくれています。

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2019年3月3日

ルカによる福音書 11章9〜10節
そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
11章13節
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えて下さる。」

「求めなさい」
ルカによる福音書 11章1〜13節

宣教:岡村牧師

今日は上記の箇所から聖書を読んでいただきますが、2回に分けて同じ箇所からお話させていただきます。今日はルカによる福音書11章5節から13節までのところに焦点を当てます。3月24日(日)に今日読んで頂く前半の、ルカ福音書の「主の祈り」について取り上げます。

弟子たちが主イエスに祈りを教えて下さいと頼んだときに、いわゆる「主の祈り」を教えられました。祈りについて5節から8節までは、たとえでお話され、その後で、こうしなさい、と励まして、そしてプレゼントをくださる約束の言葉で締めくくられています。

マタイによる福音書と重なる有名な言葉がここにも出てきます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(ルカ11:9)

この様に言われた後で、祈りは子どもが親に願い事をするようなものだ、と、神と祈る人との間の親しさを教えておられます。神ははるかかなたにおられる偉大な神であって、父よ、と呼ぶほどの親しい間柄の神だなどということは、弟子たちにとっては考えてもみなかったことでした。そして直接の弟子でもない2000年後の私たちでさえ、神に対して親しく祈ることができるようにしてくださったのです。実に主イエスの死によりこのプレゼントは与えられました。

キリストの死によっていただくことになった恵みを神は色々な言葉で教えて下さっています。プレゼントは箱から出さねばなりません。驚き喜び使うために。

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2019年3月10日

出エジプト記 9章3〜4節
見よ、主の手が甚だ恐ろしい疫病を野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊に臨ませる。しかし主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別される。イスラエルの人々の家畜は一頭たりとも死ぬことはない。
エレミヤ書 5章1節
エルサレムの通りを巡り よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか 正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。

「神の共有財産とされた私たち」
出エジプト記 9章1〜7節

宣教:高見協力牧師

出エジプト記の「十の災い」は、普段から何げなく読み過ごしてしまう箇所ですが、じっくり読み進めてみると、意外な福音が隠されていることに気づかされるのです。

本日の「疫病の災い」にも面白い発見がありました。神はご自身に背くエジプトの家畜とご自身に信頼するイスラエルの家畜を区別し、背信のエジプトの家畜のみを滅ぼされたというのです。これは罪・不義をお赦しにならない神の裁きといえるものですが、これはエジプト人が、常日頃から自分たちの肥えた家畜とイスラエル人の貧相な家畜とを区別し、分け隔てて飼育していたがゆえに、神も容易にエジプト人の家畜のみに災いを下すことが出来たのであろうと思われるのです。しかし、もし仮にエジプト人とイスラエル人の家畜が区別されておらず、共有されていたらどうなっていたのであろうかと思わされたのです。もし一頭の羊がエジプトとイスラエルの共有財産であったならば、不義なるエジプト人の財産を没収したくても、それは同時に義に生きるイスラエル人の財産でもあるがゆえに、神は裁きを下すことは出来ない。イスラエルの義のゆえに、神はその羊に手を出すことができなかったのではないかということなのです。

人が自分の物と他人の物とを区別し、自分の物だけ大切にして、他人の物は粗末に扱うという、自己中心性に生きるならば、そこには滅びがある。しかるに一方、神の愛に根ざした一致と共有の関係、相手を承認、尊重し、共存、平和に生きるなら、そこに永遠の命が生まれる。このことを「疫病の災い」は教えようとしているのではないでしょうか。

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2019年3月17日

ルカによる福音書 16章30〜31節
金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』

「遅すぎることがある」
ルカによる福音書 16章19〜31節

宣教:岡村牧師

今日の箇所は、礼拝前の教会学校でグループで学んだ箇所と同じです。今日の主イエスのお話は、流れから見ると15章1?2節から続いている話しです。主イエスの言動は、悔い改めなど必要ないと思われていた人々を批判する一方で罪人として軽蔑され差別されていた人々を励まし希望を与えるものでした。

今日の主イエスの話しは、差別する側もされる側も、思いもよらないたとえ話しだったでしょう。主イエスは、御自分が伝えたいことが相手によくわかるようにたとえ話しなどを用いて語りました。19節前にある小見出しには〈金持ちとラザロ〉となっています。〈金持ちと貧乏人〉でもなく〈金持ちと乞食〉でもありません。ラザロという名前を用いてイエスが伝えたかったことを表していると思えます。ラザロとは、"神は助けたもう"という意味があります。

自分の人生を振り返ると、遅過ぎたと後悔することがあります。例えば人間関係において、あのとき大切なあの方にすぐお返事をしておけば良かった、お顔を見に行けば良かった、この人の話しをじっくり聞いてあげれば良かった…けれどももう亡くなられて遅過ぎた。また、聖書の言葉に背く戦争に反対する行動を示すことが遅過ぎた、などという後悔を二度としたくないと思う私たちです。私達にとって最も大切なのは自分の命、愛する人々の命でしょう。神との関係において遅過ぎた、と後悔することがありませんように。

神は最終的に全ての人を裁かれるということ、逆転の審判があること、遅すぎるということがあることがわかります。そして、最も救いから遠い人と世間から思われていたラザロを招いた神の憐れみ、愛は、イエス・キリストのゆえに私たちにも及んでいます。恵みを受けた者としての方向が示されています。

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2019年3月24日

ガラテヤの信徒への手紙 4章6節
あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。
ルカによる福音書 11章1〜4節
『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』

「求めなさい(2)-ルカ福音書の《主の祈り》」
ルカによる福音書 11章1〜13節

宣教:岡村牧師

3月3日の礼拝で、同じ箇所から読み、2回に分けて話しをさせていただくことをお伝えしていました。今日は前半のいわゆる〈主の祈り〉について見てゆき、後半との関係を探り、全体で主は何を言われようとなさったのかを、考えてみたいと思います。

前回は主に5節から13節までの、主イエスが祈りについてたとえ話しを用いて語られたことと、その後の主のご命令「求めなさい」以下のところからお話しました。1節から4節までの〈主の祈り〉と5節からのたとえ話し、また主のご命令は、ひとかたまりになっています。互いにどうつながっているのか興味を覚えます。

ルカによる〈主の祈り〉は、マタイによる福音書6章の主の祈りより短く、言葉が違っています。膨大な数の研究がなされていますが、はっきりしたことはわかりません。当時の人がショックを覚えたのは、冒頭の「父よ」という言葉です。神を父なる神と表現することはあっても、直接に祈るときに「父よ」と呼ぶことは、斬新なことでした。主イエスではあり得るでしょう。しかし主イエスは弟子たちもそのように祈るように導かれたのです。

ガラテヤの信徒への手紙でパウロがこのように言っています。

「あなたがたが子であることは、神が『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」(ガラテヤ4:6)

当時の弟子たちだけでなく、パウロもその後に信じる者たちも皆、幼児が親に話しかけるようにして祈ることができる存在として、神は私たちとの対話を待たれ、喜ばれる驚くべき愛の神であります。私たちはこの神の子どもなのです。

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2019年3月31日

ヨハネによる福音書 8章10〜11節
イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

「イエス・キリストのしるし」
ヨハネによる福音書 8章1〜11節

宣教:山本勝久氏

私たちにとって生きる目的とは何でしょうか。何のために存在しているのでしょうか。イエスキリストがこの世に来られたのは私たちに人間にとって本当の生きる目的を知らせるためでした。キリストが宣教を始めてから、各地で「奇跡」を起こされた幾つもの記録が聖書にはあります。病人を癒し、見えなくなった目を開き、飢えた何千人もの空腹を満たし、嵐を沈め、死人を蘇らせ、普通では考えられない出来事が、何の躊躇もなく淡々と紹介されています。これらの出来事は聖書では「しるし」という呼び方をされることがありますが、私たちには「奇跡」と言われる方がしっくりくるかもしれません。しかし、この聖書が示すキリストが現された「しるし」は私たちの目に見える現象としての「奇跡」という意味を超えて私たちに示されています。

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