TAKARAZUKA BAPTIST CHURCH

日本バプテスト連盟  宝塚バプテスト教会

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■■ 2011年度 本日の宣教から ■■

主日礼拝当日の週報に掲載されている「本日の宣教から」を再掲しています。

当日の宣教の箇所の概要や導入にあたるメッセージとなっています。

 

2011年度

1週

2週

3週

4週

5週

4月

3日

10日

17日

24日

 

5月

1日

8日

15日

22日

29日

6月

5日

12日

19日

26日

 

7月

3日

10日

17日

24日

31日

8月

7日

14日

21日

28日

 

9月

4日

11日

18日

25日

 

10月

2日

9日

16日

24日

30日

11月

6日

13日

20日

27日

 

12月

4日

11日

18日

25日

 

1月

1日

8日

15日

22日

29日

2月

5日

12日

19日

26日

 

3月

4日

11日

18日

25日

 

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2011年4月3日

 ◆聖書の言葉◆  ローマの信徒への手紙12章15節, 1節

* 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

* こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

「キリストにあって共に喜び共に泣く」

宣教:岡村牧師

4月に入り、新しく2011年度を迎えています。常会での要望にこたえて週報がこのようなコラムを備えた両面印刷の形になりました。この欄は、宣教の概要になることが期待されていると思いますが、概要よりも導入になる時もあると思います。その辺は柔軟に受けとめて下さい。

大地震、津波が起こり、福島第一原子力発電所の放射能漏れ被害の行方がどうなるかわからない不安な状況の中での新年度の出発です。

想像を越えた過酷な状況に、日本も世界も衝撃を受けひるみました。多くの人々の命が失われたことに、悲しみや無念さよりも行き場の無い怒りのようなものを感じておられる方々も多い事でしょう。神はいるのか、神はこのような惨い事を見過ごしにされたのか、という声が聞こえてきそうです。

神の被造物である私たち人間には、神がお造りになられた命のことについて、完全に理解し、説明することはできません。キリストを救い主と信じ告白する人々は、悲しみに打ちのめされながらも、礼拝をし続けます。 神はおられる、神はこの悲惨さの真っただ中におられて、共に苦しみを担ってくださる神なのだと、十字架に赴かれたキリストの出来事を想起しつつ、祈ります。神の愛がこの自分にも及んだことを覚えつつ、私たちは自分の弱さやふがいなさにとどまるのではなくて、キリストの恵みをまとって、共に喜び、共に泣くことを必要としている人々に向かって、礼拝から遣わされていきます。教会は、キリストにおいて、「共に」を訓練されていきます。

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2011年4月10日

 

◆聖書の言葉◆ マルコによる福音書 14章32〜42節

 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

「イエス・キリストの最後の闘い」

宣教:岡村牧師

キリスト教会の多くは教会歴を大事にして1年を歩みます。 キリスト教の最大のイベントがイースターです。春分後の満月から最初の日曜日をイースターと定めるため、毎年イースターの日が変ります。今年は4月24日と、こんなに遅いことは近来ありませんでした。来年は4月8日がイースターです。4月24日より遅いイースターは 2038年の4月25日で、4月24日が再びイースターになるのは2095年です。

世の中は天変地異があり、自分の命もいつどうなるかわからない中にあって、死を支配なさる神、イエス・キリストによって知らされた神を知って信じる人は幸いです。私たちが神と関係がある者として、いえ、神の子どもとして希望を持って生きていけるようにイエス・キリストは闘われました。

聖書に記されているイエス・キリストの御苦しみは私ども人間には深くはわからない、神の独り子としてのものです。私どもには深くはわからないのですけれども、神の子イエスが神から呪われた者がかけられる十字架の死をお受けになった事によって、人類の救い、私たち一人一人の救いというものが実現しました。

今日は礼拝の中で子どもたちの進級式が行われます。教会に来て下さる子どもたちが成長して行く中で、キリストへの信仰が成長していきますようにという祈りをもって、見守っていきましょう。子どもたちは大人を見ています。私どもがキリストの十字架の出来事があったからこそ、神に希望を持って生きていくことができる礼拝者となっていることを心に刻みつつ今日も共に礼拝します。

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2011年4月17日

 

◆聖書の言葉◆ マルコによる福音書 15章1〜39節

 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

「神の子イエスの死」

宣教:岡村牧師

2011年のイースター(復活祭)前の受難週に入りました。 

神の子イエスキリストをめぐって、あらゆる人々のあらゆる罪性が露わになっていきます。聖書の言葉の持つ力に御一緒に触れることが大切と思いましたので、予告の聖書の箇所より長く読みたいと思い、マルコ15章1節から39節までにしました。

この受難週はイエスの御苦難に思いを馳せ、神の子イエスが、神から見捨てられ呪われた者として最も酷く悲惨な死刑の方法であった十字架刑を受けて死なれたことが、この自分と関係があることを改めて特に心に刻むときでもあります。神の子イエスキリストの死の意味を知らない人はいても、イエスキリストの死に関係の無い人は一人もいません。神の子は全ての人が神との関係を知って、救われるために十字架におかかりになりました。

キリストの恵みとその御臨在を深くしみじみと体験するようにと、この時期に自分にとって少し大変とか苦しいと思われる事を課してこの受難週を過すということが、長い歴史の中で世界のキリスト教の世界では行われてきました。どのようにしたら、キリストの御苦難の意味とその御愛が自分にもっとわかるだろうか、という思いから、色々なことが奨励されてきました。自分と神様の間の祈りの中で、主の御苦難を思いながら、自分はこの1週間をこのようにして過そうという決心は、きっと何かを教えてくれるだろうと思います。昨日も今日もいつまでも変らないイエス・キリストの恵みが今週もあなたを包みますように。

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2011年4月24日

◆聖書の言葉◆ マルコによる福音書 16章5〜8節

墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

「イエス・キリストの復活の証し」

宣教:岡村牧師

 イースター、イエスキリストの復活、おめでとうございます!主イエスキリストは死からよみがえられました!
 イエスキリストが復活されたので、私たちはここに集まっています。教会が存在する理由も、クリスチャンがキリストの御名で祈る根拠も、キリストの復活ということがあったためです。
 イエスキリストが世の人の全ての罪を負って、十字架につけられたとき、イエスは弟子たちに全ての事を予告していたにもかかわらず、弟子たちは誰一人としてそばにいることができず皆逃げてしまいました。
 イエスは罪人として裁かれ神に捨てられ、死なれました。そして葬られました。
 イエスにつき従ってきたのは12人の弟子達だけではありませんでした。大勢の女性たちがイエスのグループの世話をしながら一緒におりました。イエスが死なれた後、イエスが墓に入れられた場所をしっかりと覚えて、遺体となったイエスに香料を塗る準備をしました。けれども、彼女たちにしても誰もイエスが復活するということを信じていたわけではありませんでした。人類が誰も経験したことがないことなのですから、当然のことでした。
 天使からイエスの復活の事実を告げられて、彼らが受けたのは驚きと恐怖しかありませんでした。その後弟子たちに伝えても誰もイエスの復活を信じなかったと記されています。しかし、やがて彼らがイエスの復活を信じるようになったのは、どうしてでしょうか。
 確信をもてることが起こったからです。 復活のイエスが彼らに現われ、対話をするということを通してでした。。

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2011年5月1日

◆聖書の言葉◆ ガラテヤの信徒への手紙5章1節

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だからしっかりしなさい。奴隷の軛(くびき)に二度とつながれてはなりません。

「原点としての礼拝」

宣教:岡村牧師

 2011年のイースターを先週迎え、死からよみがえられたキリスト・イエスを通して神への希望をもって私たちは歩み始めます。
  イエスを裏切ってしまった後悔と、復活なさったことを聞いても信じることができなかった弟子達でした。復活の主は、復活なさってから40日にわたって彼らに現われ、神の国について話された、と使徒言行録1章3節に記されています。話をし、食事を共にして、復活の主は弟子たちを導き、さらに約束を与えてくださいました。聖霊降臨の約束です。
 今年のペンテコステ、聖霊降臨祭は、4月24日のイースターから数えて50日目の6月12日になります。それ以降はしばらく使徒言行録を読んでまいりたいと考えています。
 今日から6回の主日礼拝で、父・子・聖霊なる神を礼拝する者として、礼拝とは何か、全体の流れや礼拝のプログラムの一つ一つがどのような意味をもっているのか、見てゆきたいと思います。
 さて、今日の聖書の箇所ガラテヤの信徒の手紙5章1節は、パウロから叱られているような、激励されているような、強い言葉ですね。私は奴隷になった事が無いから、この言葉の意味がよくわからないと思う方もいらっしゃるかもしれません。確かにこの言葉の背景にある時代は、はっきりした身分差別のある社会でした。私たちが今生きるこの日本では、信教の自由をはじめ様々な自由が保障されています。  パウロがここで言っている奴隷の意味、自由の意味を考え、礼拝することとの関連について少し思いめぐらせたいと思います。

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2011年5月8日

◆聖書の言葉◆ コロサイの信徒への手紙 3章16節

キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。 知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。

「主に向かって歌う」

宣教:岡村牧師

 新しい年度が始まってから、ミッションスクールの生徒さんたちが、出席して下さるようになっています。キリスト教会の礼拝に出席することは初めての方々もいらっしゃることでしょう。いつも教会で礼拝することに慣れている人々にとっては当たり前のような事でも、初めての方々にとっては一つ一つが不思議で、なぜ?という疑問が起こっているかもしれません。
  毎週毎週、日曜日に集まって礼拝することは、当たり前の事ではありません。1年に一度だけ集まって礼拝するというのではなく、1年52週、毎週、生活の色々なことを、この世の人々から見れば犠牲にして神を礼拝するために集まるのです。 昔のユダヤ人のように社会の全ての人々が同じ神を信じているわけではないのですから、クリスチャン人口が全体の1パーセントにも満たない日本で、キリスト教会で毎週日曜日に礼拝することは簡単なことではありません。
  しかし、教会を形作っている人々は、まず何よりも礼拝を第一にする姿勢を基本にもって集まります。神の子キリストの死と復活の出来事、その恵みが過去だけではなく今と将来にわたる事であることを心に刻みつつ、喜びと感謝をもって神を礼拝します。
  今日は礼拝で歌う賛美歌について聖書から見てまいります。讃美歌は、歌詞もメロディもキリストに表される神への信仰から作られたものです。讃美歌はクリスチャンだけのものではありません。讃美歌は人を神へ導く力を持っています。讃美歌は信仰告白であり、祈祷であり、伝道であり、聖書朗読でもあります。私たちは、嬉しい時も悲しい時も讃美歌を歌います。不安と悩みの中で讃美歌を歌うことにより慰めと癒しを受け、挫折の中で神への信頼へ立ち帰ります。

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2011年5月15日

◆聖書の言葉◆ ルカによる福音書11章 1〜4節

イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

「祈りを教えて下さい」

宣教:岡村牧師

 6月第1週まで、礼拝時に行われるプログラムの意味について聖書の言葉を根拠に御一緒に考えながら、礼拝の意味について思いめぐらしています。キリスト教会としての礼拝は、死より復活なさったイエス・キリストに表される、生きて共におられる神のご臨在のうちに行われるものです。それは人間の側からの一方的な行為や言葉ではなく、神からの語りかけを聞く場でもあり、神と人がキリストの故に、応答関係のある交わりの中に生きるものであることを確認しつつ、共同体として成長する場です。
  礼拝は讃美歌や祈りや聖書朗読や説教や献金など、様々な行為や言葉で構成されていますが、それらが一つ一つバラバラにあるのではなく、一つの流れ、ドラマのようになっているものととらえて下さい。出席する全ての人々がその礼拝を形作る参加者です。
  さて、先週は賛美歌について、今回は「祈祷」についてとりあげます。礼拝には、皆で唱和する「主の祈り」が入っています。主イエスが弟子たちに教えられた祈りとして、ほとんど全てのキリスト教会でも唱和されている祈りです。教会での主の祈りは、マタイによる福音書6章9−13節の祈りが基本になっていますが、今日、ルカによる福音書11章2−4節をとりあげた理由の一つは、11章1節で弟子がイエスに「私たちにも祈りを教えて下さい」という言葉が入っているからです。
  イエスも弟子達も、ユダヤ人として生まれ、幼い時からヘブライ語聖書に親しみ、祈りを重んじる教育を受けていました。イエスから教えられた祈りから、特に、礼拝の中での祈りについて少し考えてみたいと思います。

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2011年5月22日

◆聖書の言葉◆ ルカによる福音書4章 15〜21節

イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

「聖書朗読と説教」

宣教:岡村牧師

 礼拝について考えるシリーズの4回目の今日は、聖書朗読と説教について、礼拝の中でのその役割を考えつつ礼拝してまいります。
 今日の聖書の箇所は、故郷ナザレにある会堂の礼拝にイエスが出席されたときのことです。今のように一人一人が聖書を持っていたわけではありませんでした。会堂に備えられていた巻物の形のヘブライ語聖書のイザヤ書61章1節をイエスは読まれました。
 安息日に会堂に行って神を礼拝することがイエスの習慣であったことが今日の箇所からわかります。当時の礼拝は、イエスが目指そうとする霊と真理による礼拝とはほど遠いものだったかもしれませんし、居心地の良い人々が共にいたわけではなかったでしょうけれども、イエスは人々と共に御自分も礼拝に参加なさる事を欠かさなかったのです。
 聖書の言葉自身が人の心に語りかけます。もし聖書の言葉に触れる人々がその言葉を神からの語りかけとして十分にそれを受けることができるなら、牧師の説教はいらないのです。牧師の説教は聖書の言葉を聞く人々が、その言葉をよく理解できるように助けるものであることが基本です。 聖書は一人でどこででも読めますが、聖書が目指すのは、神を通して自分とは違う他の人々と共に生きる生活であり、主イエス・キリストに従う共同体としての信仰の交わりです。
 礼拝において真摯に聖書の言葉に向き合う時、慰めと励ましの力を受けると共に、今迄の自分から変わっていかねばならないという示唆やチャレンジを受けるものです。牧師の説教はそれを助けたいのです。

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2011年5月29日

◆聖書の言葉◆ マルコによる福音書12章14d 〜17節

「・・・ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」     イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」 彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。

「神のものは神に返しなさい」

宣教:岡村牧師

 礼拝について考えるシリーズの5回目の今日は、礼拝で行われる献金の意味について焦点を当ててまいりたいと思います。
 キリスト教会の礼拝は、神と人とが呼応しあうドラマであると表現することができます。一共同体として人々と共に、神からの語りかけを聞いて心に受け、神への応答として献身の思いを表していくのが礼拝です。
 礼拝で献金をするのは、本来お金をささげるという意味ではありません。言葉としては奉献がふさわしいように思います。それは単に自分が所有しているお金の一部を感謝してささげるということではないからです。それは自分自身を神へささげるという献身のしるしだとういうことができます。
 さて、今日の聖書の箇所は、イエスがイエスを失脚させようとするユダヤ人指導者たちとの対話です。ファリサイ派とヘロデ派の人々は、普段は宗教的な見地など立場が違い、対立する間柄でした。この時のイスラエル民族は国が無く、ローマの属州としてその支配下にありました。ですからローマへの税金を支払わねばならなかったのです。元来ユダヤ人にとって税金は神に献納するものと考えられていました。異教の神を崇めているローマ皇帝に税金を納めることは、神と律法を裏切ることにならないかの問題が根底にあります。
 この箇所で、皆さんに心を留めていただきたいのは、イエスの言葉です。 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
 「返しなさい」ということが献金の根底にあることを知って、自由が与えられている私たちは、どのようにお返ししていこうとしているでしょうか?

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2011年6月5日

◆聖書の言葉◆ マタイによる福音書26章26〜28節

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」  また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。

「主の晩餐」

宣教:岡村牧師

 礼拝について考えるシリーズの6回目の今日は、礼拝で行われる「主の晩餐」についてマタイによる福音書の箇所から見てまいります。
 礼拝は毎週行われることで、礼拝のプログラムの讃美歌、祈り、聖書朗読、宣教、献金、祝祷などは欠かされることはありません。 けれども、「主の晩餐」は当教会においては1カ月に一回、基本的に第一週の日曜日の礼拝に行っています。イエス・キリストはこれを毎回行いなさいとか、月一回行いなさいとはおっしゃらなかったので、それぞれの教会が自分たちで決めており、まれには年に一度だけしている教会もありますし、クリスマスやイースター、ペンテコステの時や自分の教会の創立記念日の時にする教会もあります。
 バプテスマ(浸礼)と主の晩餐は、イエス・キリストご自身の言葉でご自分が再びこの地上に来る時、すなわち再臨の日まで守り続けるようにと命令された礼拝行為です。復活のイエスによる大宣教命令と共に、キリスト教会にとっては時代が移り人が変っていっても守るべきこととして受け継がれていくでしょう。
 教会の歴史の中で、主の晩餐は教派や教会によって様々な呼び方をされて守られてきました。「主の晩餐」「記念の晩餐」「ユーカリスト」「聖餐式」「コミュニオン」「ミサ」「聖体拝領」などですが、当教会では「主の晩餐」と呼んで行っています。
 主の晩餐を教会がどのように解釈し、大切に守ってきたかその歴史も見ながら、この信仰による行為の意味を確認してまいります。

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2011年6月12日

◆聖書の言葉◆ 使徒言行録2章1〜4節

  五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

「ペンテコステの祝福」

宣教:岡村牧師

 キリスト教会が大切にしている3つの祝祭は、イースター(復活祭)とペンテコステ(聖霊降臨祭)とクリスマス(降誕祭)です。クリスマスが日本の社会では一番知られていますが、キリスト教は、イースターがまず出発点です。キリスト・イエスが死から復活され、復活のイエス御自身が40日間弟子達の中に現れ、ペンテコステの祝福を予告されました。
 主イエスは、天にあげられ、予告されたとおり復活から50日目、エルサレムにはちょうど世界中に散って生活していたユダヤ人やユダヤ教に改宗した人々が集まる五旬祭の日でした。主の言葉に従って集まって礼拝をしていた弟子達の上に、聖霊が降ったのです。それは世間の人々に隠れてひっそりと彼らだけの上に起こったのではありませんでした。多くの人々がその出来事の場におり、目撃し、聞いたのです。
 何を聞いたのでしょうか。言葉を聞いたのです。神を証しする言葉を聞いたのです。話しているキリストの弟子達は、特に専門教育を受けた人でも何でもありませんでした。彼らはイエス・キリストにある時に出会い、従い、教えを受け、しかし信じ切れずに主イエスを裏切った人々でした。けれども、復活のキリストが彼らの中に現れ、赦しと共に使命を与えます。深い悔い改めのうちに復活のキリストと対話する中で、彼らは、様々な恐れを越えさせる神の愛により、希望と喜びのうちに活動しはじめます。キリスト教会の誕生です。
 人間の傲慢から建てられた「バベルの塔」の話が創世記11章に出てまいります。神は人々を全地に散らされました。しかしイエス・キリストの十字架の死と復活を通して神は聖霊の働きによって人々を集められるのです。 

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2011年6月19日

◆聖書の言葉◆ コリントの信徒への手紙II 13章13節

  主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。

「招詞と祝祷」

宣教:岡村牧師

 しばらく礼拝についてプログラムを構成している賛美歌、祈り、聖書朗読、宣教、献金、主の晩餐などについて、ユダヤ教を母体にして生まれたキリスト教の教会の歴史から、また聖書の言葉から、ほんの一部分からでしたが、その意味を見てまいりました。礼拝のプログラムの内容に関するテーマでの宣教は今日で一応閉じることにします。
 礼拝の形について、これが絶対正しいと言えるものはありません。それぞれの教会での礼拝は、一つの様式をもっていますが、完全な礼拝はもちろんありません。長い歴史の中で吟味され、形作られてきたものをベースにしながらも自由で表現豊かな礼拝が世界で行われています。神は礼拝されるにふさわしいお方であり、神が神であられるから人は神を礼拝します。神がイエスキリストにおいて全ての人間の救いのため、この自分のために成して下さった神の御愛、御憐れみ、神の御臨在に感謝し、神に対する私たちの応答を礼拝で表現します。
 招詞は礼拝の初めに置かれる、礼拝への招きの言葉です。聖書の言葉を用いて神が礼拝に集めて下さっていることを示すように呼びかけます。この教会では自由に聖書からの言葉を用いて司式者が会衆に呼びかけます。礼拝の始まりです。
 祝祷は礼拝の最後に置かれています。神の祝福が、牧師(教会が委託した人)を通して宣言されます。礼拝を終えるときに、神の祝福を以てこの世に送り出されるのです。7日間の旅に送り出され、神を礼拝しにまた戻ってきます。 

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2011年6月26日

◆聖書の言葉◆ ルカによる福音書15章11〜24節

11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 
12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。 
14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 22 しかし、父親はしもべたちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。 

「言わせないよ 〜はらぺこあおむしと放蕩息子〜」

宣教:松隈 協(関西学院高等部宗教主事)

 

 『はらぺこあおむし』(エリック・カール1969)。


◇◇◇
 「おや、葉っぱの上にちっちゃな卵」お月さまが空から見て言いました。
 お日さまがのぼってあたたかい日曜日の朝です。ぽん!と卵からちっぽけなあおむしが生まれました。
 あおむしはお腹がぺっこぺこ。あおむしは、食べるものを探し始めました。
 そして月曜日、りんごを一つ見つけて食べました。まだお腹はぺっこぺこ
 火曜日、梨を二つ食べました。やっぱりお腹はぺっこぺこ。
 水曜日、すももを三つ食べました。それでもお腹はぺっこぺこ。
 木曜日、いちごを四つ食べました。まだまたお腹はぺっこぺこ。
 金曜日、オレンジを五つ食べました。
 土曜日、あおむしの食べたものは何でしょう。チョコレートケーキとアイスクリームとピクルスとチーズとサラミとぺろぺろキャンディーとさくらんぼパイとソーセージとカップケーキとそれからすいかですって!。
 その晩、あおむしは、お腹が痛くて泣きました。
 次の日はまた日曜日。あおむしは 緑の葉っぱを食べました。とてもおいしい葉っぱでした。お腹の具合もすっかりよくなりました。もうあおむしは、はらぺこじゃなくなりました。ちっぽけだったあおむしは、ほら、こんなに大きくて、太っちょになったのです。
 まもなくあおむしは、さなぎになって、何日も眠りました。それからさなぎのかわをぬいで出てくるのです。「あっ ちょうちょ!」あおむしが、きれいな蝶になりました。
◇◇◇

はらぺこあおむしは放蕩息子と似ている。最善の場所である葉っぱの上から逃げ出したあおむしは、父親のもとから逃げ出した放蕩息子そのものだ。今日は、この二つの物語から、神の恵みに気づき、立ち返っていく、そんな人生を考えてみたい。

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2011年7月3日

◆聖書の言葉◆ コリントの信徒への手紙I 13章4〜7節

 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

「愛は・・・」

宣教:岡村牧師

 今日は愛について語られているあの有名な箇所、キリスト教式の結婚式の時に必ずと言ってよいほど大変多く用いられているコリントの手紙I/13章の言葉を御一緒に味わいたいと思います。
 読むのは13章全部、1節から13節です。何度でも読んで暗唱したいほどの言葉です。これからも皆さんと一緒に折に触れて何度でも読んでいきたい言葉です。しかし、今日特に焦点を当てたいのは愛の性質、特質、定義のように書かれている4節から7節の言葉です。
 この章の主語は「愛」です。愛と一口に言いますが、愛を語る時に、この新約聖書が書かれた原語のギリシャ語では、3つに大きく分けています。一つは男女の愛を表す「エロス」、友情や兄弟愛を表す「フィリア」、そして神の愛を表す「アガペ」です。
 先週は特別伝道礼拝で、講師の松隈協先生から、ルカによる福音書15章のいわゆる放蕩息子と題されている箇所から、神の愛について、深い示唆に富んだ内容のお話をうかがいました。愛、という言葉は一つも出てきませんが、神の愛、アガペの性質をあらわしているものとして、イエスは語られました。
 パウロがこのコリントの信徒への手紙Iの13章で語る「愛」は、アガペと書かれていますので、神の愛ですが、神に属する愛、神が下さる愛ということができます。4節から7節を読むときに、何と愛から遠い自分だろう、と思わないではいられません。けれど・・・なのです。

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2011年7月10日

◆聖書の言葉◆ 使徒言行録 3章6〜8節

 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。

「美しい門」

使徒言行録 3章1〜15節

宣教:岡村牧師

 今年の年度指針は、「礼拝からの派遣」です。そして聖句はローマの信徒への手紙12章15節「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」が総会で承認されました。覚えていらっしゃいましたか? 忘れて生活する事もできますけれども、せっかく皆で受け入れたので、折につけてそれを意識していくことは大切なことだと思います。
 5月、6月と、礼拝についてその一つ一つのプログラムの意味などを聖書から確認いたしました。さて今日からは使徒言行録を読んで参ります。キリスト教の始まりです。父・子・聖霊なる神の御名において行う礼拝の始まりです。9月の創立25周年記念礼拝、10月の召天者記念礼拝、12月のクリスマス礼拝などの特別な礼拝の時以外は、使徒言行録を毎回大体1章づつ進んでいきます。その章の中からある個所をとりあげて、語らせていただきます。そして、1カ月に1度は旧約聖書から、しばらくは創世記から選んでみようと思います。
 初代教会はキリストの死を経て復活から、力に満ちてスタートしました。 教会の始まりですから、教会が確立していく過程として神様が特別に力を増し加えられたことも多々あるでしょう。今日読む箇所は奇跡が起こった記事です。イエスが地上におられるときには様々な奇跡を起こされたことはよくご存じでしょう。 使徒言行録は聖霊の時代に入って生まれた教会の業について記されています。この使徒言行録の延長線上に今の私達がいます。 様々な奇跡の中でも、あなたがイエスキリストを主と信じてキリスト者となって生活するほどの奇跡はないかもしれません。

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2011年7月17日

◆聖書の言葉◆ 使徒言行録 4章19-20節

 しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。 わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」

「語らずにはいられない」

使徒言行録 4章1〜23節

宣教:岡村牧師

 聖霊降臨を経て生まれた初代教会の足跡が使徒言行録に記されています。 3章ではペトロとヨハネが足の不自由な男性をエルサレム神殿の前でいやし、共に神を礼拝するために入っていきました。それは驚異的な奇跡でしたから、人々が彼らの周囲に集まってきました。
 すると大勢の人々を前にペトロが語り出します。あなた達が十字架に磔にして殺してしまったイエスこそが、イスラエル民族が長い間待ち望んでいたメシア・救い主であるのだと証言します。ペトロはイエスを裏切った自分を、死から復活なさったイエスがゆるしてくださったという深い愛を受けていました。そのゆるしの体験は、彼の存在の中心として生涯にわたって核になっていたのではないでしょうか。ペトロはイエスが復活された事を語らずにはいられませんでした。
 恐れに支配されない彼らの言動は、政治の中枢にいた指導者たちを不安にさせたのでしょう。決してイエスの名によって話したり教えたりしないようにペトロたちを脅して命令しました。しかし、彼らは答えます。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えて下さい。私たちは、見たことや聞いた事を話さないではいられないのです。」
 ほれぼれするような言葉です。真実に根差した勇気が、新しく与えられた賜物です。彼らは一人で闘っていたのではありませんでした。そのとき教会が彼らを支えて祈っていたことがわかります。

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2011年7月24日

◆聖書の言葉◆ 創世記4章13-15節

 カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」 主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。

「カインのしるし」

創世記 4章1〜16節

宣教:岡村牧師

 聖書は人間の様々な姿を神との関わりの中で浮かび上がらせており、聖書を読んでいくと、社会が変わり文化が違っても人間の本質は何千年たっても変わっていないことに気付かされます。
 創世記4章1−16節に記されている話は、その罪のゆえにエデンの園を追放されたアダムとイブに生まれた子ども達の話をとおして、私たちの存在がどのようなものであるかを知らせると共に、そのような人間に対する神の御意志が表されています。
 アダムとイブは、子どもを一人だけ産んだのではなく、複数産んで、家族という共同体を最初から形成していたという設定になっています。家族という共同体の中では、喜ぶものと共に喜び悲しむ者と共に悲しむ、ということが血のつながりのゆえにできると信じられています。しかし、家長あるいは族長として選ばれるのは一人であり、その祝福をめぐって妬みが起こり、悲しい争いに発展していきます。
 そのような流れを変えたのがイエス・キリストです。神の子イエス・キリストの死が神への尊い献げものとなり、アダムとイブ以来の罪の問題が、キリストを信じる信仰によって、血筋によってではなく、肉の欲や人の欲によってでもなく、神によって新しく生まれるということをとおして新しい共同体が生まれ、「喜ぶものと共に喜び、悲しむ者と共に悲しむ…」世界が広がっていきます。

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2011年7月31日

◆聖書の言葉◆ ネヘミヤ記 8章10節b

 今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。

言葉により創られし我ら

ネヘミヤ記 8章1〜12節

宣教:北村執事

 ユダ王国はバビロニアによって滅ぼされ、イスラエルの民はバビロンに捕囚されます。そのバビロンはペルシャによって滅ぼされ、イスラエルの民はエルサレムに戻り、壊されていたエルサレム神殿を再建します。ようやくエルサレム神殿は再建されましたが、城壁は壊れたままでした。

 このことに心を痛めたネヘミヤは、給仕係としてペルシャ王に仕えていましたが、エルサレムに戻ることを許され、城壁修復の工事に取りかかります。
 そして人々の心の城壁も修復しなければならないと感じたネヘミヤは、人々を集め、夜明けから正午まで律法の書を説明しながら読み聞かせました。律法の書を聞いて人々は泣き伏します。その時ネヘミヤは語るのです。
 「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」と。

 神の姿にかたどられて創られたはずの私たちですが、自分を見るとき、そのあまりにもの違いに落胆してしまいます。しかし、自分に目を留めるのではなく、創造者である神に目を留め、主を喜び祝うことが、私たちの力となると聖書は語るのです。神の言葉によって創られた私たちは、今日もまた、神の言葉によって新しくされてゆく存在であり、そのために主日礼拝があるのではないでしょうか。

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2011年8月7日

◆聖書の言葉◆ 使徒言行録 14章26-28節

 そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である。 到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。そして、しばらくの間、弟子たちと共に過ごした。

安息の場

使徒言行録 14章21〜28節

宣教:岡村牧師

 神の子イエスの死と復活を経て生まれたキリスト教会は、エルサレムで迫害を受け、信者は散らされて、アンティオキアという地中海に面した今のトルコとシリアの国境付近の都市に設立されました。様々な外国人たちを含んだ国際教会的な教会です。パウロ達はその教会を拠点として伝道に出かけます。第1回目の伝道旅行でした。

 パウロが奇跡を行った時には驚嘆のうちに歓迎されたこともありましたが、ほとんどの場合、行く先々でパウロの伝道活動は妨害されました。ユダヤ教の裏切り者、ユダヤ教の異端者として名が知られていたのかもしれません。パウロは暴力をもって迫害されることが多かったのですが、決して暴力で反撃する事はありませんでした。どのような正当と思われる理由があったにせよ、暴力で人は変わらない、変えられない、ということをパウロは身にしみて学んでいたことでしょう。自分がユダヤ教信者だったときに、彼はキリスト信者を暴力を用いて迫害しました。暴力によって抵抗しないクリスチャン達の姿を見たこと、またキリストとの霊的な出会いが彼を変えていました。その彼を支えたのがアンティオキア教会です。

 パウロの行く先々で教会が生まれ、弟子の訓練をして教会を励まします。どんなに望まれてもパウロは必ず自分を送り出してくれたアンティオキア教会に戻りました。そこでの礼拝から送り出されたパウロのホームでした。

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2011年8月14

◆聖書の言葉◆ 詩編 85編9〜14節

 わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に/彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
 主を畏れる人に救いは近く/栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけし。
 まことは地から萌えいで/正義は天から注がれます。
 主は必ず良いものをお与えになり/わたしたちの地は実りをもたらします。
 正義は御前を行き/主の進まれる道を備えます。

「私たちを必要とする平和」

詩編85編9〜14節

宣教:岡村牧師

 暑い日が続いています。こんな暑い中で戦争をしていた人々は命令に従って動き、また、日本にいた人々は戦争の正確な情報を知ることもなく、連合軍による2回の原子力爆弾の襲撃を受けたのでした。第二次世界大戦で死んだアジア諸国の人々の数は2000万人、日本人の死者310万人、世界では4000万人がこの戦争の為に亡くなったと言われています。
 今日の聖書は詩編85編です。私たちの教会では今年の1月から口語訳から新共同訳に聖書が変わりました。皆さんは、節の区切り方や名称、言葉遣いに色々な違いを発見しておられるでしょう。新共同訳での85編9節の言葉には、口語訳聖書に入っていない文章があることを興味深く思いました。訳はどの訳も不完全なものでありますけれども、この違いは写本の種類の違いからです。
「私は神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に/彼らが愚かなふるまいにもどらないように。」 

 平和を宣言されるのは主で、御自分の民に対してです。詩編の一つ一つがいつ書かれたのかははっきりとわかっていませんが、古くは紀元前1000年とも言われます。神は不変です。その時代にも今もおられる神が「御自分の民」というとき、キリスト者が含まれると言えます。
 平和とは何でしょうか? 「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」と主イエス・キリストは言われました。

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2011年8月21日

◆聖書の言葉◆ 使徒言行録 12章1〜5節

 そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。
 ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった。 こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。

「栄光は神に」

使徒言行録11章27〜12章5節、20〜23節

宣教:岡村牧師

 暑い日が続いておりますが、この中で原発事故収束のために被曝を覚悟で使い捨ての労力として働いている下請けや孫請けの方々のことを思わないではいられません。先週は、8.15平和祈祷集会と8月17日に大阪南YMCAで行われた原発問題を考える集会に出席しました。どちらの講師もキリスト教会の牧師で、キリスト者としての視点から語られました。 平和をつくり出すことを神から期待されている一人として、自分の在り方を問いただされるような思いで聞きました。
 それだけではなく最近になって、広島や長崎に原子力爆弾が落とされる事を日本政府が事前に知っていたことや、被災し被曝した人々を助ける為ではなく、ただ原爆の威力の詳細な記録を日本政府が米国におもねるかのように自主的に報告していたという衝撃的な記録が放映されました。
 そして今は、東日本大震災を経て原子力発電所が崩壊したことから流れ出る放射能や核物質汚染の問題が日に日に大きくなる中で、なぜ日本が原子力エネルギーに固執したかが明らかになりつつあります。
 使徒言行録12章のこの箇所はキリストを主とする教会と世の権力者の対比が描かれています。批判するだけではなく、自分がどれだけ政治の為にまた政治家のために祈ってきたかということも問われているように思います。
 私たちはこれからどのように生きていったら良いのか、少しでも共に考え、共に祈る時となりますように。

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2011年8月28日

◆聖書の言葉◆ 創世記 32章27〜30節

 「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。

「祝福にこだわる人」

創世記32章4〜13節、23〜30節

宣教:岡村牧師

 祝福とは何でしょうか。古代においては祝福とは繁栄と幸いをもたらす魔術的な力とされていたようです。しかし、唯一神を信仰する旧約聖書の民族に現われた神の祝福は、単なる繁栄と幸いをもたらすだけではありませんでした。創世記27章からの物語を読むと、父イサクからの祝福をめぐってエサウとヤコブの兄弟が命がけの競争をする様子が描かれています。父親の祝福をめぐって争いが起こるのです。
 ヤコブは祝福を自分のものにするために謀略を弄し、兄から命を狙われるほど憎まれ、逃亡します。その途中でヤコブは、アブラハムの神・イサクの神である主に夢の中で出会い、祝福の言葉をいただきました。神がヤコブと共にいること、神の祝福の約束を受けた地に帰ることができること、地上の氏族はすべてヤコブとその子孫によって祝福に入ること、という約束でした。
 ヤコブは叔父の家で20年間、叔父から結婚の事で騙され、労働の報酬を搾取されながらも働き続けて、莫大な財産を所有するようになり、故郷に帰る時がきました。目指す故郷は敵対した兄がいるところであり、今や多くの家族や使用人たちを率いるリーダーとしてのヤコブは悩み苦しみます。
 目前の危機に対して、一人になったヤコブは何者かと格闘をします。それは何と神だったというのです。「祝福して下さるまでは離しません」とヤコブは答え、イスラエルと言う新しい名をいただきました。
 神の祝福はイエス・キリストを通してきたことを知っている私たちです。罪ゆるされ神の祝福の器とされた私たちはキリストの体。神によって愛された教会として天災、人災が起こる中、その使命を果たしていきたいものです。

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2011年9月4日

◆聖書の言葉◆ 出エジプト記 12章26〜28節

 また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」民はひれ伏して礼拝した。それから、イスラエルの人々は帰って行き、主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。

「救いの記念」

出エジプト記12章21〜28節

宣教:岡村牧師

 新しい月、9月に入りました。 今年の9月18日には、この教会の開拓伝道開始25周年記念を迎えます。これまでも節目になる年はありましたが、特に何周年記念礼拝ということをしてこなかったと聞いています。このたびの記念礼拝を計画できたのは、教会の皆さんが今までの25年間、前に向かって一生懸命歩んで来られて、やっとホッと一息つけるようになったためかもしれません。9月は教会としては特に今までの歴史を振り返って感謝するときになるでしょう。
 今日は出エジプト記12章から、イスラエルの民がその長い歴史の中で、神の偉大な救いを体験していくその過程にある箇所です。「過ぎ越しの祭り」は今から3000年以上も前から始まったものです。 その由来について12章に記されています。イスラエルの民は神のなしてくださった救いの御業を決して忘れないとして、現在でも毎年欠かさずにこの祭りを行っています。奴隷として暮らしていたエジプトから脱出させていただいた神の救いの御業の記念です。
 このずっと後にイエス・キリストが来られた時に、この過ぎ越しの祭りに関係づけながら、イエスは弟子たちを集めて、主の晩餐を行われました。
 今日は、礼拝の中で主の晩餐を行います。このことが二千年前にイエスが十字架を前に行われたその意味が、ずっと昔に神が行われた救いの業と関連があることに思いを馳せたいと思います。

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2011年9月11日

◆聖書の言葉◆ 使徒言行録 18章9 〜10節

 ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。 わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」

「弱いとき」

使徒言行録18章1〜10節

宣教:岡村牧師

 今日は9月11日で、アメリカで起きた同時多発テロ事件から10年たったことや、日本で3月11日に起こった東日本大震災から半年たったことを私たちは覚えています。テロに関しては、問題が解決したわけではなく、そのとき以来の間も多くの命が失われました。阪神淡路大震災、東日本大震災、原子力発電所崩壊による自然災害とも人災とも言える事故、そして西日本の台風による洪水で思いがけない大災害に発展してしまいました。
 時代によって自然災害や人災による大きな悲劇が生まれてきました。そのときには被害にあった人々の事を決して忘れない、と思います。しかし時代が去って、百年、二百年、と過ぎていくうちに人々の記憶からは薄れていくことが多いでしょう。人災や自然災害で命を失った人々のことを、その中の一人も忘れない方がおられます。イエスキリストに表される神です。この神と地上で生きているうちに出会って信じる幸を知っている教会は、伝道者パウロの姿勢に学んできました。
 初代教会の伝道者として活躍したパウロの伝道活動は、困難を極めました。彼の同胞だったユダヤ教の人々は、パウロをキリスト信仰に改宗した危険分子としてパウロを追跡し、機会を捕らえて殺してしまおうとする記載が使徒言行録には何度も出てきます。その中を神の助けを得てかいくぐりながらもパウロはキリストの恵みを語ってきました。
 今日の聖書の箇所は活動中のパウロが幻の中で神の言葉を受けたところです。十字架のキリストと出会って始まったパウロの伝道人生。その中でこの言葉を神が語られたその背景を見てまいりたいと思います。

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2011年9月18日

◆聖書の言葉◆ ヨハネによる福音書 20章21 〜23節

 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」。

「主から与えられた赦しの権威」

ヨハネによる福音書20章21〜23節

宣教:岡村牧師

 今日は、宝塚バプテスト教会が開拓伝道を開始してから25周年を迎えた記念の感謝礼拝です。教会の入り口の左下隅に、定礎「神は愛なり」1996年9月と記されている石がはめ込まれています。
 この建物自体は15年前に建てられました。けれどもそのずっとずっと前から、この地に教会を建てるというビジョンは神様の御計画にあったのでしょう。神は、それをこの教会の母教会の神戸バプテスト教会に思いを与えて、祈りを起こし、実現に至らせるようにそれに応える人々を選ばれました。
 このために、多くの祈りと汗と涙と貴い献金がささげられました。そしてこの立派な教会堂が完成した時、苦労を共にしてきた教会の方々はどんなに嬉しく感激し、打ち震えるような思いだったでしょうか。
 自分たちの祈ってきた事が形にあるものとして与えられたという実感を体験することは、神の御臨在を体験することであり、人生の中での際立った大きな励ましや勇気になったことと思います。
 その喜びに与った人々は今では数えるほどになっているかもしれません。その後参加した人々は、その時の同じ祈りや労苦を共にしてはこなかったかもしれませんが、その歴史を受け継いで、また新しく主の御業に共に与っていくことになります。
 十字架のキリストに表された神の愛、神の赦しの福音を、どのような時代になっても伝えていく教会でありますように。必要なものはすべて主が備えて下さっています。

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2011年9月25日

◆聖書の言葉◆ 出エジプト記 32章13 〜14節

 どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。

「主へのとりなし」

出エジプト記32章7〜14節

宣教:岡村牧師

 9月は教会学校月間で、日本バプテスト連盟では独自に発行している「聖書教育」誌を用いての教会学校を行うことを奨励しています。2011年から2013年までの総主題は、「神さまの物語をものがたる」となっていて、現在は出エジプト記を読んでいます。
 出エジプト記は、エジプトで奴隷にされていたヘブライ人達がエジプトを脱出した物語です。 出エジプトの物語は、時代を越えて、様々な抑圧に苦しむ人々に希望を与える解放の物語として読まれてきました。
 今日の箇所は指導者モーセの留守中に、人々が偶像に走る場面です。偶像とは何でしょうか? 2001年にアフガニスタンのイスラム原理主義のタリバンが、バーミヤンにある岩山に彫られた石の巨大な仏像を壊した事は世界のニュースとなりました。彼らの信仰において偶像は偶像礼拝につながり、ゆるせないことだからということでした。
 神は見えないお方ですけれども、イエス・キリストに表された神を、人々は自由に自分のイメージで描いてきました。しかし教派や教会によっては、聖画はもちろん十字架すらも偶像になる危険があるとして、礼拝堂内に形を残さないものもあります。偶像、偶像礼拝というのは、目に見える形として像が刻まれている事だけを意味しているのではないでしょう。
 教会は、イエスキリストの十字架の死と復活の出来事によって生まれました。キリストに表される神以外のものを神としないために、また十字架すらも偶像視しないために、教会は十字架に表されるイエス・キリストを伝え、分かち合い、祈ります。

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2011年10月2日

◆聖書の言葉◆ コリントの信徒への手紙I 1章21 〜24節

 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。

「十字架につけられたキリストを宣べ伝える」

コリントの信徒への手紙I 1章20〜25節

宣教:岡村牧師

 本日の聖書の箇所は、予告よりも1節づつ前後を広げて読むことにしました。使徒パウロは、第二回伝道旅行のときにコリントに1年半滞在してコリント教会の土台を据えました。コリントは、聖書の巻末の地図を見て頂いたらわかると思いますが、エーゲ海とアドリア海に通じる港をもつ大都市でした。
 今日の聖書の箇所の前後を読むと、コリント教会の中には分派をはじめ、様々な問題があったことがわかります。今日の箇所を別の訳、塚本虎二訳のものをここに紹介します。理解の一助になると思います。パウロは、色々な問題、色々な注目すべきことはあるけれども、最も肝心なことはこれなのだ、とばかりにこの言葉をバーンと語った・・・そんな気がします。
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 20節〜25節「『どこに知恵者が』、『どこに聖書学者が、どこに』この世の議論家がいるのか。神はこの世の『知恵を馬鹿なものにされた』ではないか。なぜなら、この世の人が自分の知恵により判断し、神の知恵の現れである御業において神を認めることをしないので、神は馬鹿なことと見える十字架の説教によって信ずる者だけを救おうと、お決めになったからである。実際、ユダヤ人は信ずるための証拠に神からの不思議な徴(しるし)を乞い、異教人は真理を知るために知恵を求めるが、わたし達は十字架につけられたキリストのことだけを説く。すなわち、ユダヤ人にはつまずき、異教人には馬鹿なことであるけれども、神に召された者だけには、ユダヤ人、異教人の別なく、これこそ神の力、また神の知恵なるキリストを説くのである。というのは、神の業はどんなに馬鹿なことに見えても、それは人よりも知恵があり、神の業はどんなに無力に見えても、それは人よりも力があるからである。」

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2011年10月9日

◆聖書の言葉◆ マルコによる福音書 3章32〜35節

 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

「イエスさまの家族」

マルコによる福音書 3章31〜35節

宣教:岡村牧師

 私たちの教会はキリスト教会であり、具体的には日本バプテスト連盟(以下「連盟」と省略)に所属しています。バプテストの特徴は色々に言えますが、聖霊の導きによって自分の言葉でのキリストへの信仰告白を大切にし、また、自立と協力を重んじる、ということがその中心に据えられます。連盟では「バプテスト誌」を毎月ニュースレターとして発行しており、その中に、「聖書日課と今月の祈り」のページがあり、毎日全国の323ある教会や伝道所を日ごとに覚えて教会名とその祈りの課題を載せています。
 去る10月3日(月)は、宝塚バプテスト教会のために祈る日となっていました。祈りの課題については、連盟に数か月前に知らせることになっていて、役員会で相談して、限られた字数の中に収まる課題を提出しています。10月3日の朝7時半ごろに電話が鳴り、誰だろうと思ったら、「今日は宝塚バプテスト教会のために祈る日だったので、覚えて祈りました。お元気ですか?」と、東日本大震災の被災地にある教会の牧師からでした。びっくりしまして、御挨拶しながら互いの近況を短く知らせ合いました。また連盟やその他の教会の方々から祈っていますというお葉書をいただきました。とても嬉しく励まされました。覚えてくださる仲間がいる、祈られている、ということを知るのは大きな励ましになります。この教会はバプテスト連盟の家族です。
 今週と来週にかけて、家族について聖書から見てまいりたいと思います。新約聖書でイエス・キリストの家族はどうだったでしょうか? 血縁関係が非常に重んじられる社会で、長男の立場は非常に大きなものでした。そんな中で、ある時家族を見捨てたように家を出てしまったイエスは家族にとっては理解が出来ない事だったでしょう。イエスの家族観は御自分の使命と関係していたことを見てまいります。

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2011年10月16日

◆聖書の言葉◆ ヨハネによる福音書 15章13〜15節

 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

「友としての家族」

ヨハネによる福音書 15章12〜17節

宣教:岡村牧師

 キリスト教会は常に神の祝福を願いながら歩みを進めます。昔の旧約聖書の時代は、祝福とは自分の土地が与えられてそこに家族が住んで、地は豊かな産物を産みだし、人は子どもがたくさん生まれて家族が大きくなっていくことでした。大きい、たくさん、豊か、金持ち、多くの人々を支配する、というのが繁栄のしるしであり、それが神に祝福されている事と人々は思っていました。その価値観は現在の日本においてもまた世界においても変わらない部分が大きいのではないでしょうか。
 しかし、イエス・キリストの十字架の出来事がおこり、イエスの復活と共に、神を見捨てた罪に苦しんだ弟子達に神は現れ、赦しと共に使命を与え、弟子達は神の愛を知りました。真の祝福とは、イエスキリストにあらわされた神を信じて従って生きることであると知ったのです。聖霊降臨と共にキリスト教会が生まれ、十字架に表される神の愛、神の赦しの恵みを伝える為に教会は活動し続けてきました。
 教会は神の家族と言われます。キリストが頭で信徒の私達はからだです。そのからだの私達には上下関係はありません。社会の中で支配者層と被支配者にあたる人々がおり、奴隷もいた時代の中で、イエスは家族の概念を神の国のレベルで教えました。罪人として苦しんでいる人々、低くされている人々、倫理的に外れてしまった人々に対して、イエスの言葉を聞くために集まってくる人々こそ家族である言われました。
 さて、家族の形態はどうでしょうか? 昔からイエスの時代も含めて家族は家父長制のもとに成り立っていました。今日の聖書の箇所において、イエスはまたもや驚くべきことをおっしゃるのです。イエスは弟子たちをはじめ、今の時代の私たちをも「友」として呼んで下さるのです。聖書からその意味を探ってまいりたいと思います。

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2011年10月23日

◆聖書の言葉◆ コリントの信徒への手紙II 4章14〜18節

 主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

「キリストの復活のゆえに」

コリントの信徒への手紙II 4章14〜18節

宣教:岡村牧師

 今日は「召天者記念礼拝」と称して、先に神に召され逝去なさった方の御家族をお招きして、共に礼拝をもつ日といたしました。故人で、宝塚バプテスト教会の教会員だった方や、教会員のご家族で故人となられた方全てが、神戸の舞子墓園の記念堂に納骨されているわけではありませんので、この教会独自で、このような礼拝をもつことは初めてのことでしたが、皆さんの賛同を得るところとなりました。
 この教会に故人の御家族が集まられることは、故人になられた方の願うことではないかと思います。このような機会に故人の思い出話をしたり、御家族の方々と歓談の機会を持つことを、故人となられた方々はきっと喜んでくださるだろうと思います。
 さて、キリスト教会では、神に召されて逝去なさった方を拝むことはいたしません。礼拝する対象はあくまでも唯一の神、父・子・聖霊なる神お一人です。
 イエス・キリストの十字架の出来ごとにより、神は死が終わりではないことを示され、キリストの復活のように、私達人間もやがて神の最後の審判のときが来るときに復活すると約束をしておられます。
 あるキリスト教会では、死者が復活したときに、まずすることは共に神を礼拝することだとして、葬儀をそのことをふまえて行っています。逝去された方の棺を礼拝堂の前に横に置かないで、頭を会衆側になるようにして縦に置くのだそうです。復活して起きあがった時に、他の人々と共に神を礼拝するという姿勢になるように、という意味をこめてそのようにするのだそうです。礼拝堂の前に横に棺を置くと、そのご遺体を拝むという誤解が生じるかもしれないので、なるほどと思いました。
 死後のことは私達にはよくわからなくても、聖書で神が約束して下さっているということに希望があります。

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2011年10月30日

◆聖書の言葉◆ 創世記 44 章30 〜 34 節

 今わたしが、この子を一緒に連れずに、あなたさまの僕である父のところへ帰れば、父の魂はこの子の魂と堅く結ばれていますから、この子がいないことを知って、父は死んでしまうでしょう。そして、僕どもは白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのです。
 実は、この僕が父にこの子の安全を保障して、『もしも、この子をあなたのもとに連れて帰らないようなことがあれば、わたしが父に対して生涯その罪を負い続けます』と言ったのです。 何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。 この子を一緒に連れずに、どうしてわたしは父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。」

「憐れみ深い者へとお育てになる神」

創世記44章18〜34節

宣教:岡村牧師

 毎月、一度は旧約聖書から選んで語らせていただくことにしています。
 創世記には様々な人々が登場しますが、アブラハム、イサク、ヤコブ(イスラエル)の神となられた神は、契約を結んだヘブライ民族の人々を導くのに苦労をなさった様子が記されています。 人々が神様に従わないことがたびたびあったために困難な道を歩むことになりました。 神様は人々が様々な逆境を体験する中で育てておられる様子が、創世記の中にみることができます。
 イスラエルという名前を神からいただいたヤコブは、12人の男子をもうけました。女子も生まれましたが、この時代は父権制社会でしたから、男子が家督を継ぐ事ができる者として尊ばれました。ヤコブから生まれた12人の息子たちは、ヤコブの妻のレアとラケル、妻たちの召使だったビルハとジルパの4人の女性達が産んだ息子達です。
 ヤコブはだまされて最初にレアと結婚しましたが、ラケルを愛していたのでラケルも妻としました。ヤコブにとっての最愛の妻ラケルに与えられた息子がヨセフとベニヤミンです。レアとの間にはルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン。ビルハはダンとナフタリを産み、ジルパはガドとアシェルを産みました。
 さて、今日、注目したいのはヨセフの兄だったユダのことです。ユダは、ヨセフを売ろうと他の兄弟達に提案した人でした。ユダは、その後恐ろしい罪を犯してしまいます。このユダからユダ族が生まれ、ダビデが生まれ、イエス・キリストへと続きます。しかし、そのキリストが選ばれたのは血筋を越えた、信仰による人々でした。ユダのように罪を犯す人を、神は見捨てずに育てて下さいます。生涯を導かれる主に信頼していきたいと思います。

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2011年11月6日

◆聖書の言葉◆ マタイ福音書10 章26 〜28 節

 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

「恐れるべきお方」

マタイによる福音書10章26〜33節

宣教:岡村牧師

 想像がつかない未知の事柄に直面しなければならないときに人は恐れます。赤ちゃんを授かった妊婦が産みの苦しみを想像して恐れます。望んでいる学校に入学するために入学試験に合格できるだろうか。親や自分を心配している人々をがっかりさせることにならないだろうか。新しい職場で人々から受け入れられて、しっかりした仕事ができるだろうか。重たい役割を担うことになったときに、感謝することよりも恐れてしまう私達です。期待されているとき、期待通りにいかなかったらどうしようと恐れます。自分を大切に思っている人々をがっかりさせることになるのではないかと恐れます。
 今、日本をはじめ世界の人々が恐れているのは、自然災害や経済の問題でしょう。原子力発電所の崩壊から放出される放射能や核物質汚染で被曝して健康が損なわれていくことへの不安から恐れが生まれます。 原発を推進したい陰のグループの動機は、支配欲や競争ではなく、ただ金もうけの為だという分析があります。自分達の現在の生活の質を落としたくないために、もっと、もっと、と利益の上昇を望むのですが、それは下降していくことへの恐れからだという解説を聞いて、がっかりしながら納得しました。
 この地球で人間は、動物・植物・土地・海をはじめ被造物の世話を任されています。そのように人間を作られた神がこの地球におられることを忘れてはいないでしょうか。人間だけが地球にいて、全てを支配する主人でいるのではないのです。人間をお造りになり、一人一人に命を与え、考える力、感じる力、行動する力、愛する力をお与えになった全知全能の神がおられること。それを忘れることがないようにと、神はイエス・キリストをこの世に遣わされました。
 的外れな生き方をする人間に対して、イエスは今日の言葉においても、的はどこかを教えて下さっています。

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2011年11月13日

◆聖書の言葉◆ コリントの信徒への手紙I 13 章4〜6 節

 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。

「ただひとつの理性的なもの」

コリントの信徒への手紙I 13 章1〜13 節

宣教:古田晴彦執事

 10月16日(日)の子どもメッセージで、法月光世さんが素敵な聖書訳を紹介されていました。 みなみななみさんが書かれた『愛ことば』という絵本で、北村佐智子さんから頂いたものとのことでした。11月13日の宣教では、コリント?T 13 章を取り上げようと考えていました。「これはいい」と思いました。思わず笑ってしまうところもありました。みなみさんの訳は次のようなものです。
 愛は すぐにあきらめない。
 相手は、どんな気持ちだろうって 考えられる。
 なんだよあいつばっかり、って 思わない。

 愛は 私すごいでしょ、って みせびらかしたりしない。
 自分のほうが上だな、とか 思わない。

 失礼なこと、しない。 そんなの損だ、とか思わない。
 ムカついたりしない。 他人のイヤなことリストを 心にメモしない。
 いんちきで得しているのを ラッキーだなんて思わない。
 本当のことがわかったら よかったーって思う。
 逃げないで、信じる。 期待して その場所でふんばる。

 本当の愛は 何があっても なくならない。 信じる、期待する、愛する。
 以上三つは 最後まで残るもの。

 これ以上の解説は要らないかもしれません。それと同時に、「私には絶対にムリ」と思ってしまいます。 「ただひとつの理性的なもの」 この側面から、愛について共に考えてみたいと思います。

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2011年11月20日

◆聖書の言葉◆ ルカによる福音書15 章1 〜7 節

 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 そこで、イエスは次のたとえを話された。
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

「神の喜び」

ルカによる福音書15章1〜10節

宣教:岡村牧師

 今日は、「子ども祝福式」を礼拝の中で行うことにしています。私達は教会に子ども達がいることを喜びます。教会はどんな人も、神から招かれている人として歓迎します。子ども達は今は自分の意志で教会に来ているのではないかもしれません。親の願いによってであっても、幼い時から教会で、聖書からイエスキリストの話を聞き、神の国の価値観を聞いて育つ子どもは幸いです。自分は教会から離れる事があっても、神は自分を見捨てたりあきらめたりなさらない。自分が自主的に、神の元に戻ってくるのを待って下さる神である、と知っている事は、生きていくうえでどんなに大きな支えになることでしょうか。
 キリスト教会は、人の意志を尊重しますので、教会の礼拝に参加する人々に対して、神を信じるようにと脅したり、無理やり信仰告白を強制してクリスチャンにする、などということは決してありません。けれども、教会に来られた人々が、きっといつか自分で心からイエス・キリストに表される神を信じるようになられ、信仰告白に導かれるようにという祈りをし続けます。
 ルカによる福音書15章は、3つのたとえ話で構成されています。羊と銀貨のたとえ話は、3つめのいわゆる放蕩息子のたとえ話しの前座のようにしておかれています。この二つのたとえ話を聞いてから、3つめのたとえ話しに入っていくことによって、神の愛をより深く知るように構成されています。
 私たちは大切にしている動物や物が失われた残念さ、悲しさを味わう時があります。そして一生懸命探して見つかった時の喜びを味わった経験もおありでしょう。あきらめることのない一生懸命さで失ったものを探しまわる方、それが神であります。あなたを探し出すためです。

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2011年11月27日

◆聖書の言葉◆ マタイによる福音書5 章13 〜16 節

 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

「地の塩、世の光である」

マタイによる福音書5章13〜16節

宣教:岡村牧師

 今日からクリスマスまでのアドベント/待降節に入りました。プロテスタント教会では、今年は11月27日(日)から12月24日までを、アドベント/待降節として、クリスマスの準備の期間といたします。
 紀元前のずっと昔から、国を失ったイスラエルの民は、いつか国を復興してくれる救世主が現れる、と預言者の言葉を信じて待ち続けました。そして、時が満ちて、神の子・救い主としてこの世に来られたのがイエス・キリストです。 イエスがその使命を果たして十字架にて死なれ、三日目によみがえられるという出来事をとおして、神は人間の罪をゆるすという救いをもたらしました。死からよみがえられたイエスは、また地上に来ると弟子達に約束して天に上げられました。その約束に従って、今はクリスチャン達、教会が、キリストが再臨されるときを待ち望んでいるのです。そのときには、世界が終わりを迎える終末になり、神が約束された全ての事が成就すると聖書は証言しています。
 そうです!キリスト教会はキリストの再臨を待っているのです! 「待つ」ということをクリスマスは、思い出させてくれます。待つとは、どのように待つのでしょうか? イエスは、神の国のことを説かれて人々を教え、励ましました。今日の聖書の箇所は、山上の説教と言われる箇所で、イエスを主と信じる人々や、キリスト教会がどういう存在なのかが語られています。
 イエスは、しばしば対をなすたとえを語られました。「地の塩」と「世の光」もしかりです。イエスご自身ではなく弟子達に語られた・・・つまり、私ども教会が地の塩、世の光であるという宣言です。この言葉から、教会やクリスチャンに与えられている存在の意味、使命を確認してまいります。

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2011年12月4日

◆聖書の言葉◆ マタイによる福音書25 章13 節

だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。

「主の再臨の準備」

マタイによる福音書25章1〜13節

宣教:岡村牧師

 待降節/アドベントの2週目を迎えました。アドベントとは救い主が来られる時を待つという意味を持っています。毎週1本づつろうそくを灯していくとき、待つということを目に見えるかたちで表現しています。ろうそくは、暗い世界に「世の光」として来られたイエスキリストを象徴していますし、人間の側の信仰を表すとも言われます。
 イエスキリストは2000年前に十字架につけられて死んで葬られ、三日目の日曜日に復活され、それを人々に証明したあと、再びこの地上に来ると約束してから天に上げられました。教会は、やがて再び来るとおっしゃったイエスキリストの言葉を信じて、それを待ち望みながらクリスマスの準備をします。クリスマスを待ち望んで待つことの中に、もう一つの「待つ」ということを重ねているのです。終末・世の終わりにイエスキリストはきっと来られるというのは、神様の約束です。
 「待つ」ということは、簡単なようで難しいことですね。インスタントラーメンにお湯を注いで待つことすら、時々できなくなるくらい、私たちは、早く、早く、と急いだ、せかされる生活を送っています。信号も待つことができなくて赤のうちに渡ってしまう大人がいます。レストランで待たされるとき、あまり長いと怒りたくなってきます。待つことはなにか時間を損するような気がするからでしょう。でも、待つことが楽しい人たちがいます。子供たちはクリスマスプレゼントを楽しみにしてクリスマスを待ちます。今日の箇所は待つこと、待ち方をイエスが語られた箇所です。その言葉の持つ意味を共に考え味わってまいりたいと思います。

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2011年12月11日

◆聖書の言葉◆ ルカによる福音書1 章31〜38 節

 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

「神への信頼」

ルカによる福音書1章26〜38節

宣教:岡村牧師

 待降節/アドベントの3週目を迎えました。今日は、先週の週報に載せていた予告の箇所を来週に延ばして、マリアへの天使の御告げの箇所から語らせていただくことにしました。
 神の子で救い主のイエス・キリストがこの世に降誕なさるまでに、神は実に色々な準備をされていたことが聖書に記されています。神が何かを始めようとされる時、神の創造ともいうべきことが起こされる時、神はよく準備をなさっていることに気がつかされます。
 聖書に記されている天地創造の箇所で人をお造りになったとき、神は光、闇、水、空、海、地、草、太陽、星、鳥、動物、など、人間を誕生させるのに必要な環境をすべて整えてから、人間を創造されました。神が愛した人間が、神に従い得ない存在であることを悟られた神は、人間を最終的に救う計画をお立てになったわけですが、それが、神の一人子を地上に人間として送る/贈ることでした。
 イエス・キリストの誕生は、まず一神教であるユダヤ民族を選び、その中の様々な状況や人間を用いて準備をなさっています。ローマ皇帝に支配されている民族の状況、旅、ダビデの町ベツレヘム、家畜小屋、夜。子どもが授からないまま老齢となったザカリヤとエリサベトとその子。ヨセフとマリア。社会的に蔑視されている羊飼い。少し後の東の国から来た学者達とそのプレゼント。
 神が選ばれた人々は、疑い戸惑いながらも神の言葉に信頼して、あるいは信頼するように訓練されて未知の一歩を踏み出した人々でした。

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2011年12月18日

◆聖書の言葉◆ ヨハネによる福音書1 章26〜30 節

1:26 ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。
1:27 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」。
1:28 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。。
1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
1:30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。

「神をさし示す指」

ルカによる福音書 1章76〜79節
ヨハネによる福音書 1章26〜37節

宣教:岡村牧師

 いよいよ来週はクリスマス礼拝を迎えます。その前日の土曜日はクリスマスイブで、当教会では午後4時半から「キャンドルライト・サービス」を行うことになっています。待降節に入ってから、「準備」ということをテーマに語ってまいりました。今朝は、バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)が、イエスが公の活動に入る道を整える為に神の御計画の中に入れられて用いられたことを覚えたいと思います。
 バプテスマのヨハネに関しては、4つの福音書全てが記しています。ルカ福音書1章によれば、天使が救い主となる神の子イエスがマリアを通して生まれることを告げた時に、マリアの親戚のエリサベトという高齢の女性が妊娠6カ月になっている事を知らせて、このすべてのことが神の御計画によるものであることを伝えています。エリサベトとザカリア老夫婦に生まれた赤ちゃんが後のバプテスマのヨハネで、イエスと6カ月しか年が違わない親戚でした。そのヨハネのこともイザヤ書やマラキ書で、救い主の前に来て道を整える人が来ると預言されていました。
 その言葉の通りに神はイエス誕生の前に老夫婦からヨハネが生まれる事実をもってマリアを励まし、イエスが30歳ごろになって宣教活動を始める前にもこのヨハネを用いて人々の心が、いざというときにイエスに従うように導く役割をいたします。バプテスマのヨハネに関して聖書の全ての箇所を読むことができませんが、マタイ3章、14章、マルコ1章、6章、ルカ1章、9章、ヨハネ3章を後でお読みになってください。バプテスマのヨハネはイエス・キリストを指し示す人差し指の役割が与えられました。イエスの死と復活の出来事が起こった後に生きる我々もまた、主イエスをさし示す指の働きを担います。

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2011年12月25日

◆聖書の言葉◆ マタイによる福音書2章11〜16 節

2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
2:13 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
2:14 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、
2:15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
2:16 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。

「我らの喜びと神の御苦しみ」

マタイによる福音書2章1〜16節

宣教:岡村牧師

 クリスマスおめでとうございます!
 救い主、神の子イエス・キリストが暗闇の様なこの世界に、輝く光として誕生されたことを覚えて祝うのがクリスマスの原点です。
 恋人や家族や親しい人々が集まってプレゼントを交換し合い、御馳走とケーキを共に食べて暖かい団らんの時を過ごすクリスマスが日本では定着しています。子ども達はサンタクロースにプレゼントの願いをしてわくわくして休みます。これらのことは楽しく暖かい想いに満ちた良いことです。クリスマスの意味を現代流、日本流、自分流に解釈して楽しむことは、暗い事の多いこの社会で明るくなる役割を果たしているかもしれません。
 しかし、キリスト教会としては、クリスマスの原点が何なのかを人々に知ってほしいのです。一つの宗教というジャンルではなく、世界のすべての人の救いの為にイエス・キリストが神によって誕生したこと、その意味を知ってほしいのです。神から人間へのプレゼントがイエス・キリストです。
 神と人間を隔てる罪の問題を解決するためにイエス・キリストはこの世に来られました。全ての人の罪を背負って死ぬ事、そのために神はイエスを誕生させてくださいました。
 最初のクリスマスの夜は神に守り導かれた静かな喜びに満ちたものでしたが、とりまく環境はその命を抹殺しようとするテロが暗躍していました。 2000年前に生まれたクリスマスのときも今も取り巻く環境は違いが無いかもしれません。しかし、イエスは生まれてくださるのです。暗く悲しく苦悩するあなたの心に、希望の光として生まれて下さるのです。

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2012年1月1日

◆聖書の言葉◆ マタイによる福音書8章23〜27 節

 イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。

「主よ、助けてください」

マタイによる福音書8章23〜27節

宣教:岡村牧師

 主の年2012年1月1日、あけましておめでとうございます。 救い主イエスキリストが誕生されたクリスマスから新しい年は始まっており、いつも神が私たちの歩みの一歩先を行って導いて下さっているような心強さに安堵いたします。
 新しい年を迎えて、多くの人々は仕事を休み、家族で集まってゆったりと落ち着いて楽しく豊かに色々な人々との交わりの中で、静かに新年をスタートさせるというのがお正月のイメージでしょうか。新しい年を迎えて、気持も新しく心機一転で頑張ろう、という思いになる人々は多いでしょう。
 しかし、現実に昨年まで借金をしている人が新年になったからといって借金が帳消しになるわけでもありませんし、日本社会が抱えている苦しい現状や世界の諸問題が消えてなくなるわけでもありません。
 新年を迎える日の言葉を神の前に待つ時、自分がどのような状況にあってもやはり主への感謝が静かに心を満たします。なぜなら私たちには、「助けてください!」と呼び求める神がどなたなのかはっきりしているからです。人が作った神々ではなく、人を造られた神は十字架におかかり下さるほどに、人が神との関係を取り戻すことを望んでおられる神であり、応えて下さる神であり、救うために何事かを起こして下さる神であります。 苦難は自分独りで何とかしなければならない、と自己責任を求める社会にあって自分を追い詰めるのではなく、イエス・キリストに表された神、三位一体の父・子・聖霊なる神に、「助けて下さい!」と叫び求めることがゆるされていること、それがどのように絶大な恵みであるか、聖書の言葉から学んでまいりたいと思います。

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2012年1月8日

◆聖書の言葉◆ ルカによる福音書9章13〜17 節

 しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」 というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

「計算外の恵み」

ルカによる福音書9章10〜17節

宣教:岡村牧師

 新しい年を迎えていますが、年度としては今年の3月末までは2011年度のままですので、当教会の今年度の聖句として選んだ「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)は今も心に刻んでいたいと思います。
 さて、本日選ばせていただいた聖句は、5千人に食べ物を与える奇跡の出来事のところです。この奇跡は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書に書かれている奇跡の中で、唯一どの福音書も記載されている奇跡です。それだけどの弟子達にとっても忘れられない出来事だったということでしょう。
 この奇跡に対して色々な解釈がなされてきました。たとえば、イエスの後を追いかけてきた群衆の中には女性も子どももいたことが推測できるので、それらの人々全員が全く何も食べ物を持たないで来たとは考えにくい。誰も自分の持ってきた自分の所有する食物を簡単に人に分けようとは思わないものだ。自分の物だという意識が強いからだ。ところが、イエスの語られた神の国の話しを聞き、イエスが病の人々を癒す様子を見てイエスに感動した人々が、それぞれ自分たちの持っている食べ物を近くの人々と分かち合う心に変えられた。そして、全ての人々が心も体も満たされた・・・とこんなふうにです。
 それも素晴らしい奇跡と言えます。しかし、私はここをそのような奇跡が真に起きたととらえます。その当時の社会のあり様や、貧しく打ち捨てられた人々が大勢いたことを考えると、イエスのこの奇跡は、起こるべくして起こったと思うのです。むしろこのような解釈は、現在の私たちに神が期待されている事だと思いませんか?

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2012年1月15日

◆聖書の言葉◆ ルカによる福音書 10章 33〜37節

 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

「永遠の命と隣人」

ルカによる福音書10章25〜37節

宣教:岡村牧師

 永遠の命、ということを真剣に考えたことがありますか? 永遠の命と言われてもどんなことなのか、わたしたちにははっきりとわからないのが普通でしょう。私たちはこの世で生きている今が大事なのです。そして私たちは死んだら終わり、と思っているからです。しかし、永遠の命の対極にあるのは死ではありません。滅びなのです。死はその人のすべての終わりではないということです。神を信じる者は生きるが信じないものは滅びる、という教えのもとにイスラエルの民は育てられました。
 わかっているようでよくわからない大きなテーマを、律法の専門家はイエスに問いました。彼はイエスを試そうとしたと10章25節にはありますが、イエスがどのように答えるか、非常な関心をもって質問したことでしょう。哲学的で抽象的な答えは出せてもそれが今の自分の生活とどのように関係があることなのか、人には分からないことも多いからです。
 イエスはその人の専門の律法によって答えるように導き、その人は模範的な正しい解答を述べました。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。」 素晴らしい答えでした。 しかし隣人について質問したのは、罪人やイスラエル民族ではない人々も、イエスは隣人だというだろうかという疑問があったからでしょう。その当時、隣人とは同胞のことを指す、という定義だったからです。イエスは、永遠の命、というテーマに対して、憐れみの心と行動という具体例をもって愛を教えられました。
具体的でわかりやすいイエスの言葉を実行するのは簡単ではありません。しかし、イエスはご自身の命をかけて人々を憐れみ、御自身をささげてくださいました。そのイエスの言葉を心に留めて生活するようにわたし達は導かれていきます。

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2012年1月22日

◆聖書の言葉◆ ルカによる福音書 10章 38〜42節

 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

「マリアの時、あなたの時」

ルカによる福音書10章38〜42節

宣教:岡村牧師

 今日は1月22日で、明日は1月23日。宝塚バプテスト教会の教会員でいらっしゃった故辰井一さんが昨年の1月23日の日曜日の朝に主の元に召されたことを思い出します。神様の絶対的なる召しであります。あの日曜日の朝、礼拝の直前にその知らせを受け取りました。どんなにか教会に来て礼拝に出席したいと思っておられたであろうと、故辰井一さんが、共にその場におられるような気がして礼拝したことを思い出します。
 神から召される時、というのは死ぬ時だけではありません。神を知らなかった人が神とはイエス・キリストに現される神だと知って信じることも、神から召されることであります。クリスチャンとは神からの召しに応えた人であります。私が決心した時は祈祷会に出席した時でした。初めて自分以外の人々がいる中で自分の言葉で祈った時でした。
 人が神から招かれてその生涯を神に仕え、ささげる決心へと導かれることを召命を受けると言います。たとえば教会の牧師は、神からの召命をいただいて決心してその道を歩みはじめます。その導かれ方は様々です。私は礼拝をしているときに神の呼びかけを感じて献身の決心へと導かれました。将来牧師になりたいとか宣教師になりたいという思いは全く無く、ただ従って行きたい、もっと聖書の神を知りたい、という思いだけしかありませんでした。
 今日の聖書の箇所は、マルタとマリアが住む家にイエスとその弟子達が訪問したときの話です。女性は公の数には入れられない時代です。女性は男性のような勉学も活動もゆるされない時代でした。区別と差別のはっきりした時代にイエスは隔てなく、聴くものに語られます。昔も、そして今も。

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2012年1月29日

◆聖書の言葉◆ ルカによる福音書 19章5〜10節

 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

「救いの驚きと喜び」

ルカによる福音書19章1〜10節

宣教:岡村牧師

 日本では国会が始まり、増税に関する議論が沸騰しています。税金を納めることは何か損をしたような気持ちになるものかもしれませんが、国民の義務です。しかし、自分の国ではないよその国に、税金を支払わなければならないとしたら、毎回屈辱や怒りで心の中が煮えたぎるように沸騰するものかもしれません。
 私たちは国が無くなって別の国に支配される、ということを経験したことがないので、その屈辱感や無念さ、怒りなどを想像するだけです。私は日本から支配されたシンガポールに少しだけ住んだ経験がありますが、日本や英国による支配時の屈辱を忘れないことが、国を発展させる力になっていました。
 今日の聖書の箇所は、ローマ帝国に支配されていたユダヤ地方のエリコという町での出来事です。イエスが地上で活動しておられた時、ユダヤ人の中には生活の為にローマ政府に雇われて、ローマの為に同胞のユダヤ人から税金を取り立てる役人たちがいました。
彼らがきちんと決められたルールに従ってただ税を集めるだけならまだ良かったのですが、余分に取り立てて私腹を肥やしている徴税人が多くいたようです。いわば敵国のために働く徴税人は、搾取をするということからも、同胞の人々から憎まれており、罪人の烙印を押されていました。彼らは経済的には豊かであっても、同胞の人々から軽蔑されていたのです。
 ここに登場するザアカイは徴税人の頭でした。そのザアカイが、イエスから呼ばれて対話をする中で、信じられないほどの方向転換をするのです。喜びと共に変化していくこの人の姿は、神から祝福された人の姿でした。

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2012年2月5日

◆聖書の言葉◆ 
ルカによる福音書17章15 〜19節

 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

詩編102編19節
 後の世代のために/このことは書き記されねばならない。
 「主を賛美するために民は創造された。」

「神に賛美をささげる喜び」

ルカによる福音書17章11〜19節

宣教:岡村牧師

 今日の招詞の詩編102編19節の言葉はこう言います。「主を賛美するために民は創造された。」 短い一言の言葉ですけれども、自分がこの世界に生きている意味に答えてくれる言葉です。この言葉はキリストが来られるずっと前に作られたものですけれども、キリストに現された三位一体の神、父・子・聖霊なる神を主と信じる教会の私たちにとっても示唆を与える言葉です。
 キリスト教における賛美とは、三位一体の神への祈りであり信仰告白であるということができます。讃美歌は神を賛美することを歌によって行うように作られました。それは祈りでもあります。しかし歌となることによって誰でもその賛美に参加することができる伝道の力をもっているものでもあります。その言葉を歌うことで千千に乱れていた自分の心が整えられたという経験をしたことがおありになるでしょう。また、色々に違う私たちが共に賛美することで一つになる意識をもつことができます。
 今日の聖書の箇所ルカによる福音書17章11節から19節は、賛美の意味を教えています。重い皮膚病にかかって一般の社会生活がゆるされなかった人々がいやされた体験は、何ものにも換え難い喜びにあふれるものだったでしょう。10人とも同じ喜びを体験したのです。しかしその喜びの源泉がどこにあるか忘れない人がおりました。目に見えることだけを喜ぶのだけではない人がいました。信仰的に汚れた人々としてユダヤ人から軽蔑されていたサマリア人のその人だけが、どなたがこの喜びを与えて下さったかを忘れずにいて、それを自分の言葉で表現するためにイエスの元に戻ってきました。
 今日は特別に賛美のゲストとして、寺田恵子さんをお迎えしています。聖書の言葉を共に分かち合いながら、共に神に賛美をささげる喜びを味わいましょう。

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2012年2月12日

◆聖書の言葉◆  ルカによる福音書16章27〜31節

 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』 

「無関心の罪」

ルカによる福音書16章19〜31節

宣教:岡村牧師

 ルカによる福音書には、富と所有の問題についての議論や教えが多く取り上げられています。今日の箇所は、当時考えられていた価値観を覆すようなイエスの教えで、聞く人々は大きな衝撃を覚えたのです。まず、金持ちは神の祝福を豊かに受けているから金持ちであると考えられていました。経済の問題は、いつの世でも人々の人生の大きな関心事です。多く所有する事は現在と将来に安心を得るためであり、活動を広げ、他者を支配するほどの権力を持つことだからです。
 「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」とイエスは別の箇所で語っておられます。多くを持ちながら神の御心にかなう生き方をするのは難しいことなのでしょう。
 金持ちであることが悪いことではありません。多く所有するようになる者は、それを自分の力で得たものと考えるのではなく、神の憐れみによって与えられたものと考え、神の御意志にかなうように管理し使用することが求められます。
 今日の箇所で覚えておきたいのは、現在の生き方が常に神の前に問われているということであり、神の憐れみによって生かされている私たちが憐れみ深いものとなってこの世でどのように生きていくかということです。
 この金持ちもラザロと言う貧しい人も、平等に与えられている事がありました。それは、モーセの律法であり預言者の言葉です。金持ちも貧しい人も神を知る者ならば、聖書の言葉については幼い時から等しく学び知っていたでしょう。このラザロはただ貧しかったということだけで天国に行ったのではないだろうと推測いたします。そして神の言葉であるイエス・キリストをどのように真剣に受け留め従おうとしているかは、私たちが問われている事なのです。

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2012年2月19日

◆聖書の言葉◆  コリントの信徒への手紙二 4章7節

 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。 

「神が使われし器」

コリントの信徒への手紙二3章15節〜4章7節


  完全な器でなければならないと思っていた
  神の栄光をお入れするには 神の愛をお運びするには
  欠けのない器にならねばと思っていた

  自分を振り返れば 欠けだらけ
  こんなボロボロの器では 神は用いて下さらないだろうと
  一生懸命に欠けを繕おうとした

  完全な器になったら 神が用いて下さる
  そう思っていた
  しかし いくら頑張っても 欠けが塞がるどころか
  ますます壊れて行くばかり

  落胆した私の肩に触れ イエス様は語られた
  私を受け容れよ 欠けたあなたの器を私で満たせ
  私の愛は 欠けなどものともせず
  溢れんばかりに充ち満ちているから
  私の愛は 欠けた箇所を通して
  溢れ流れてゆくから

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2012年2月26日

◆聖書の言葉◆  ルカによる福音書 19章31〜40節

 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は、「主がお入り用なのです」と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。
 イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
 「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」

「十字架への序章」

ルカによる福音書19章28〜40節

宣教:岡村牧師

今年の礼拝宣教は、私が行う時には教会学校の成人科と青年科、中高科が使用している「聖書教育」で割り振られている聖書の箇所をなるべく取り上げるようにしています。
  ルカによる福音書19章28節から記されているエルサレムに入城されたときの様子については、ルカ福音書だけでなく全ての福音書がそれを記しています。それが最後のエルサレム入城になったからです。
  イエスは御自分がエルサレムに行くことが何を意味しているかをご存じだったでしょう。イエスがいるところでは、目の見えない人が見えるようになり、足が不自由な人が歩けるようになり、悪霊に支配されて苦しんでいた人が社会生活ができるようになり、病で差別されて悲しんでいた人がいやされ、人々は罪の赦しの宣言を受けました。イエスによって死人が生きかえるというような奇跡も目の当たりにした弟子達は、どんなに主イエスを誇らしく思っていたことでしょう。王としての主がこれからエルサレムに入られる、王なるイエスがエルサレムに行かれるのだ、と神を賛美しながら、長い長い歴史を経て人々が待ち望んだ救い主がついに自分たちの国を打ち立て、全ての国々を支配する時が来たのだと、喜び期待したことでしょう。
  ロバに乗ったイエスを見て、弟子たちも周囲にいた人々も、自分達がよく知っている旧約聖書で預言されていた言葉を思い起こしていたのです。ロバが登場し、石が叫ぶと言われたことに、人間だけでなく全ての被造物が、救い主の出現を喜び、救いの完成を待ち望んでいる、ということに思いが広がります。
  しかしそれは、救い主が人間の一切の罪の呪いを引き受けるということによって切り開かれる希望でありました。避けて通れない十字架の道でした。

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2012年3月4日

◆聖書の言葉◆  使徒言行録 3章4〜8節

 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。 その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。 

「ナザレの人イエス・キリストの名によって」

使徒言行録3章1〜10節

宣教:岡村牧師

 イエス・キリストの十字架の死を経てキリストの復活を体験して生まれたキリスト教会は、目覚ましい活動をしていきました。社会の多くの人々は、イエス・キリストは政府にたてついて滅ぼされてしまった憐れな罪人と思っておりました。その認識をくつがえしてイエス・キリストは真の神の子で救い主であることを知らせるかのように、イエスの弟子たちを通して驚くような奇跡の御業が起こされていきます。
 イエスご自身が地上におられるときに行われた奇跡を弟子達が行う時に、弟子達は「イエスの御名によって」ということを大切にしました。決して自分たちの力によるものではない事をわきまえていたからです。そして、その奇跡を受ける人の信仰もあったからこの奇跡が生まれたと、今日の箇所の先にある3章16節で、ペトロは語ります。
 イエス・キリストを自分の主であると告白し、バプテスマを受けるということは、イエス・キリストを心の中心にお迎えしたと言うことです。それは、自分の名前が神の元に記されているということであります。ルカ福音書10章20節で伝道に遣わした弟子達にイエスはこう言われました。
 「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
その名をいただいた尊さと重さと、現代において主が望んでおられる御業は何かを礼拝で考えてまいりたいと思います。

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2012年3月11日

◆聖書の言葉◆  マタイによる福音書

 28章18-20節
 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
 1章23節
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」こ この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 

「主が世の終わりまで我らと共におられる」

マタイによる福音書28章18〜20節、1章23節

宣教:岡村牧師

 東日本大震災からちょうど1年たった今日が日曜日で、キリスト教会の礼拝の日であることは偶然ではない気がします。神がこの日、日本中に、世界中に祈りなさいと導いておられるように思います。今日の礼拝は、東日本大震災を覚えての礼拝ですが、私たちができる最高のことは共に神を礼拝するということであり、その中で、自分達が聖書の言葉から確信しながら心をこめて被災地や被災者の方々のいやしと復興の実現を祈ります。また原発崩壊被害で放射能や核物質による被曝汚染から、我々人間をはじめ全ての被造物が守られるように、我らの救い主である神に祈ります。
 死者が15843人、行方不明者が3469人。見つけることが出来なかった家族や親せきなどの親しい人々は、無念さに心が引きちぎられるような思いを抱えておられるでしょう。引き裂かれた人々の心を神様が慰めて下さり、確かな希望を与えて下さるように、そのために私たちができることをさせて下さいますようにと祈ります。
 さらに、今後そう遠くないうちに再び襲ってくるかもしれない地震や津波、そしてそのことでますます不安定になる福島第一原発ほか日本各地にある原発。どこに行っても安心して生活できない不安な状況になってきています。しかし、私たちは希望を持ち続けて、全ての人の救いの為に私たちに与えられている使命を大切にしてまいります。私たちは聖書の言葉によって、「神が初めから終わりまで我々と共におられる」ことを、十字架につけられたイエス・キリストを通して知っているからです。教会はこれからも神に祈り、感謝し、語り続けます。

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2012年3月18日

◆聖書の言葉◆  使徒言行録 9章4〜11節

 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。 サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。」

「迫害者の回心」

使徒言行録9章1〜19a節

宣教:岡村牧師

 イエス・キリストの十字架の死と復活を経て、キリストを主と信じるグループが成長していきました。それは、使徒言行録が証言しているように、イエスが約束された聖霊の御臨在があったからです。命の危険があったにもかかわらず、イエスをキリストと信じるグループは、広がっていきました。しかし、それには多くの犠牲も伴ないました。どれだけの人々の血が流されたか、それは歴史が語っています。
 今日の箇所は、キリスト信仰を世界に広げた大伝道者パウロが回心した時の様子が語られています。パウロはイエス・キリストの直接の弟子ではありませんでした。彼は、イエスを死に追いやった中心的存在だったファリサイ派に属する人でした。福音書に語られているファリサイ派の人々と同じように、イエスやそのグループはファリサイ派の人々を批判して神を冒涜する危険分子であるから抹殺しなければならないと考えていた人でした。キリストを伝えるために、恵みと力に満ちて活躍していたステパノがその信仰によってリンチを受けて殺された時に、パウロはそれに賛同する側として側にいたことが7章に記されています。
 このパウロに劇的な回心の時が、神の一方的な関与で行われました。クリスチャンたちを迫害することが神の御意志にかなうことだと信じて活動してきたパウロが、キリストとの霊的な出会いを通して、変えられていきます。このパウロが十分にキリストの僕として活躍する準備を神は、教会の人々を用いて整えられました。

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2012年3月25日

◆聖書の言葉◆  使徒言行録 10章11〜15節

 天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」 すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」 

「主により新しくされる、啓かれる」

使徒言行録10章9〜28節

宣教:岡村牧師

 2011年度最後の主日礼拝の時を迎えました。 そしてあと2週間のうちに、レントの期間を終えてイースター(復活祭)を迎えます。
 人間は生まれた時から日ごとに死に向かって歩んでいるという表現があります。そのとおりです。しかし、死から復活されたイエス・キリストを信じるものは、この地上で年老いていくだけではなく、地上に生活する中で神と共にあり、神の御臨在、御わざを拝しながら、永遠に神と共に在る神の国の住民となる約束を希望にしながら新しい命に生きてまいります。
 キリストと結ばれる人は、だれでも新しく創造された者なのです。
 しかし、新しくされるというのは自分で自分が新しくされたことを五感ではっきりと感じたり、何かそれを自分自身や人に対して証明できるものを自分が見せることができる、という類のことではないでしょう。キリストにより新しくされるということは、子どもが育っていくように、日々新しくされていくということであります。それは、今日の聖書箇所でキリスト教会のペトロがコルネリオというローマ軍に所属する外国人と出会うように導かれる様子にも表されているように思います。
キリスト教は、ユダヤ教を母体として生まれました。世界の諸国に多神教の国々が多かった中で、アブラハム、イサク、ヤコブに現れた唯一の神のみを神として信じる生活を、イスラエル民族の人々は長い歴史を経て訓練されました。その中で食べ物に関する規定は日々の生活に直結することで、何をどのように食べて良いか、いけないかが、厳しく定められていました。それは人々の血となり骨となって深く浸透していたことでしょう。ペトロも例外ではありませんでした。 しかし、主が導かれた人々との出会いの中で、古いものが変えられ、聖霊による新しい理解へと心が、魂が啓かれていきます。

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