自分史 〔50代〕

<ライブハウスインフォメーション=LHIの立ち上げ>

しかし、またもや意外なことが起こってしまった。私の部下がある理由で退職することになった。次に行くところが無いということと、出来ればホームページ(以下、HPという)を作る仕事がやりたいと言う。私としては、そんな部下を何とか援助出来ないかと思案した結果、ライブハウスを紹介するサイトを作ってはどうかと考えた。しかし、実際にお店のサイトがないと話にならない。そこで大阪で老舗であるロイヤルホースさんを訪問し、お店のサイトを作らせて頂くよう頼み込んだ。
それまで見たライブハウスのHPは、背景色を黒にしたものが多く、いかにもライブハウスの薄暗い店内をイメージさせるものが大半だった。しかし、私は、HPはむしろ明るい雰囲気の見やすいスタイルをイメージしていた。それと、料理やお酒の値段、ミュージックチャージの金額等を出来るだけ詳細に掲載する考えだった。
彼はサンプルページをうまく作ってくれた。お店のオーナー等に見て頂き、OKとなった。さらに毎月スケジュールをメンテナンスする契約も獲得することが出来た。微々たる額だが、毎月固定の収入になるのは彼にとっては大事なことであったと思う。その後の2カ月間にニューサントリー5さん、ミスターケリーズさんも加入され、ポータルサイトの体裁も徐々に出来つつあった。このような経緯でLHIが誕生したのだった。

<予約の取次ぎ>

LHIではスケジュールを掲載しているので、お客さんはそれを見て行ってみたいと思う。
”行ってみたい”と思った時に、すぐに予約が出来たら素晴らしいのではないか?一応そういう考えで、いわゆるフォーム文で氏名や予約日時等を入力してもらい、メールとして受け取った後それを印字して、さらにそれをお店にFaxするという手順でやることした。徐々にネット予約が増えていった。増えるのは有難いが、必ずメールを見て印字し、その後Faxしないといけないので、夜遅く酒に酔って帰った日でも正確にやらないといけない。特にFaxの相手を間違ったりしたら大変なことになる。お店とはスケジュールメンナンス費に加え、予約取次ぎの分も従量制で手数料を頂くようにしていたので間違いは許されない。しかし、1度だけ送信すべきお店を間違え、他店の予約をFaxしてしまったことがあり、”何ですか?これは!”と叱られてしまった。それ以後間違わないよう細心の注意を払うようになり、酔って帰ってもメールを見た瞬間に酔いもさめてしまった。

自分で言うのも何だが、ネット予約は便利である。その最たることが起こった。それは、大阪のロイヤルホースさんに初めて北海道から予約が入ったことである。これには驚いた。私のオリジナル曲の反響が秋田県から入ったことよりもスゴイことだと思った。その方に後ほどメールしたら、大阪へ旅行するのでネット検索したらLHIがあるのを見つけ、早速予約したということだった。その後も北海道や東北、九州等の遠方から大阪のライブハウスを予約するお客さんが徐々に増えてきた。そのたびに”へぇー、こんな所の人も見てくれているのだ”と感心し、何かインターネットの大きな可能性を感じた。いわゆるビジネスとして使えるかもしれないと感じた。

このサイトをやり始めた当時は経理部長だった。会社の上司には事情を話し、一応、業務として行うことについての了解を得ていた。予約手数料やHPメンテナンス代の収益は少額であり売上形態も異なるので、子会社の経理処理の中で扱うこととなった。当初は月々数万円だったが2年ほどすると15万円ぐらいになっていった。
確かに売上としては少額だが、いちいち営業しなくてもFaxを取り次いだらお金になるという特徴があり、負荷も少ないので割の良い商売だ。うまくいけば、初期投資は別として、ランニングの粗利益率は限りなく100%に近づく可能性がある。

<またもや目の問題が・・・>

しかし、会社の帰りに自転車に乗ってゆっくりこいでいたら、突然目の前に人のうしろ姿が見えた。慌ててブレーキをかけたが少し当たってしまった。悪いのはこっちだから平謝りだ。それに近いことが数回続いた。なぜ自分で早く気が付かないのか、自分に腹が立った。眼科で見てもらったら、”網膜色素変性症”という診断だった。
この病気は、網膜の中に斑点が出来、その斑点の色の変わっている部分が網膜として機能しない変質したものになっているということで、明るい昼間は見えていても、夕方の薄暮状態になると見えにくくなる。昔から「鳥目」(とりめ)と言われているものだった。会社帰りの夕方に人にぶつかったりする原因がようやく理解出来た。現在この病気は“難病”として指定され、治療費はかなり減免されていたが、特効薬は無いというのも現実だった。
医者からは、早晩視力低下が進むことも考えられるので、「点字」の勉強をしておいた方が良いというアドバイスを受けた。非常にショックだった。先にも述べたように右目は生まれつき視力が無かった。それに左目も失明となると、点字が読めないと生活しにくい。頭では分かるが気持ちとしては”そんなバカな!”という葛藤が渦巻いた。インターネットで調べても早い人は20代で発症し、両眼とも失明しているとの事。(現在マッサージをしてもらっている先生は、同じ病気で25歳ぐらいに全盲になってしまった。)いずれにしても遅かれ早かれ全盲になる日がやってくる。そうなった時の備えが必要だ。収入はどうなる?家族はどうなる?そこで考えたのが在宅で出来る仕事、それもインターネットを使った商売だ。いきなり目が見えなくなることはあり得ない、しかし徐々に見えなくなっていく。でも見えているうちに準備しておけば何とか収入のベースが作れないかということだ。その為には、今やり始めたLHIの予約等がうまくいけば、目が見えにくくなって外出出来なくてもネットで営業活動をして手数料が入ってくる。つまり、システム的に手間がかかる部分をなんとか自動化出来たらそういうことも可能かもしれないと思った。

<しかし、また不測の事態発生!>

平成12年の9月の末に名古屋へ出張していた。そこへ緊急の電話が入った。上司の常務取締役が突然入院せざるを得なくなったという知らせだった。初めは事情がつかめなかったが、2日目には、脳梗塞だったことが分かった。そしてその後右半身が不随となり、長期入院を余儀なくされた。これは大変痛手だった。これまで色々とお世話になったし、特に私のLHIの仕事には一番理解して頂いた方である。面会の許可がなかなか出なかった。それは病気のご本人の胸中を推し量っての会社の配慮だったのだが、約1ヵ月後面会が許され、お見舞いに行くことが出来た。やはり、右手、右足が動かず、職場復帰は絶望的とのことだった。

<インターネット部門を設立し自動予約システム開発>

予約ショップトップ画面

その年の忘年会の時、社長から、「常務に在宅勤務で何かやってもらうことが出来ないか」という話を受けた。正月に”インターネット関係の調査の仕事ならその可能性があると考え、そのことを社長に進言した。”ならば、インターネット部門を作ってはどうか”と逆に社長からさらに進んだ提案を出されて驚いたが、即座に新部門を作る作業に取り掛かった。そして、LHIの予約を発展させ、飲食店等の一般的な予約を自動的にFax(または、メール)出来るような予約システムを開発した。開発と平行して”見込み店舗”の市場調査を常務にお願いした。これならば、左手だけでマウスを操作し、検索した店舗のURLをコピーしてくることが出来、在宅勤務が可能である。また、ホームページのメンテナンスについても、関東に住んでおられる身体障害者と提携して仕事として発注し、多少なりとも彼らの収入になるようにした。
平成12年12月にシステムが完成し、翌年1月から正式に稼働した。システムとしては、予約が成立したかどうかをお客さんに即座に回答出来るので大変便利だ、と評価され、朝日新聞や日経流通新聞にも記事として取り上げられた。また、後に実用新案として申請し、正式に認定されたのは大変嬉しいことだった。(実用新案登録第3102987号)

<ネット予約が急増>

お客さんにとっては、お店が閉まっている深夜や休日でも予約可否が入力した瞬間に分かるということから予約件数は急増した。加盟店はライブハウス系が約20店、飲食店、ペンション、マッサージ等が約60店ほどになり、予約人数は月間約800人になった。しかし、やはりライブハウスの予約が多かった。特にライブハウスの場合は、演奏するメンバーのスケジュールを出しており、誰のライブを聴きに行くかという点で、予約する動機がはっきり存在する。特に若い男女のカップルは、事前に予約して席を確保する為にネット予約を使う傾向があった。それも女性からの予約申込が7割近いという状況だった。
ネット予約は、その簡便さはもちろん大きなメリットだが、深夜や休業日等お店が閉まっている時でも予約出来ることから、お店の閉店時間帯のネット予約が約45%に達するという特徴がはっきりと出てきた。
特に、まったく宣伝費を使っていないのに、毎日新たな会員が増えていった。逆に言うと、新規入会者がゼロの日はほとんど無かった。そして平成17年12月末時点で約10,000人を越え、会員の分布は北海道から沖縄県まで全ての都道府県にまたがり、市町村数で見ると530市町村に及んだ。予約も毎日入り、累計人数も、同時点で約37.000人となった。
検索で我々のサイトを知った人も多いと思うが、ミュージシャンのサイトにLHIのリンクがはられているのをよく見かけた。つまり、ミュージシャン自身が出演しているライブハウスがLHIに加盟していると、LHIへのリンクを設定することで、お客さんを自分のライブへ誘導することにつながるということであろう。また、一般のお客さんの間で“便利なサイト”ということで“ネット・クチコミ”的に伝わっていったのではないかと推察する。

<やはり目の障害が進行>

以前に眼科の先生がおっしゃったように、徐々に目の障害が進んできた。薄暗いと極端に見えにくくなってきた。例えば、階段を踏み外したり、薄暗いライブハウスの床に段差が分からずけつまづいたりする。けつまづいて突然ジャンプした状態になった時、周りの人は大笑いした。ほかの人から見れば、段差が分かっていてわざとやった風に見えるらしい。しかし私は真剣だし、冷や汗ものである。また、明るいところから暗いトンネルのようなところに入った時、持っていた傘に衝撃を感じた。向かいから歩いてきた人が見えなかった為に、その人の頬にガツンと当たってしまったのだ。相手もこちらが見えているはずなのだが、当然ながら、まさか自分に傘を当ててくるとは思っていなかっただろう。これに近いことが頻発した。
再度、眼科で検査してもらったら、確かに進行していて、特に中心部が見えていないことが分かった。そういえば経理に在籍していた頃、伝票に印を押すのだが、すでに印を押して見たはずの伝票に印が見当たらないので印を押したら、角度を変えて見たら二重に押していることがあった。その時は何故か分からなかった。また、ゴルフに行っても、打った球がほとんど見えない。さらに、打った球の落下地点に行っても球が見つけられないことがよく起こった。極端な場合、自分の球を自分で蹴っ飛ばしてしまったことがあった。何故か?その時まで原因は考えたことも無く、同行者にも“ただのうっかり者”という見方でせせら笑われたりした。しかし、網膜の中心部が欠落していると分かってからは、たえず他のメンバーに“ボールを見ててね!”とお願いするようにした。要は、見ようとして見たら、当然見る方向に眼球が動くが、見ようとしてはいけないのだ。見ようとしてもど真ん中の映像は感知出来ていないのだ。だから、正面から見るのではなく、“ヤブにらみ”のように、眼球をわざと斜めに向けて視神経を中心の周囲を見るようにすると見えることが多くなった。特に床に小さな物を落とした時など、理解し難いことだと思うが、見たいところからわざとはずして見ると見えてくる。
営業的な場面では特に困ってしまう。薄暗いライブハウス等でノートPCを使ってデモをすることが多いのだが、マウスのカーソルが見えないことがしょっちゅう起こった。お客さんに、“カーソルはどこにありますか?”と聞かないと分からない。症状が軽い時は何とかなったが、最近は初めから障害があることを言ってからデモをするようにしているので、少しは気が楽になっているが格好の悪いことには変わりはない。

<ライブのネット配信>

ミュージシャンの方々

LHIはライブハウスを紹介する為のサイトだったが、これはミュージシャンに対する支援という意味もあった。つまり、ライブハウスの来場者数をネット予約によって増やすことは、ライブを盛り上げることに一役買っていることになる。
さらに、ミュージシャンそのものをPR出来ないかといろいろ模索した。例えば、あるライブを放送用のビデオで撮影し、それを大手のプロバイダーに持ち込み、動画のネット配信も試みた。もちろん勝手にライブ撮影は出来ないので、お店に了解を取り、さらにバンドにも協力をお願いした。初めにギラジルカさん(Vo)+祖田修さん(P)トリオ、次に藤野美由紀さん(Sax)や高尾典江さん(Vo,G)らのグループの撮影を行なった。
この方法は、かなり多くの視聴者に見てもらうことが出来るのは分かったが、いろいろ問題があった。例えば、撮影するためには多くの費用が必要で、そのスポンサーをどうするか。また、ジャズの場合、外国の音楽家が著作権を持っており、音だけの配信は認められているが”映像は配信禁止“という状態だった。何度か東京の日本著作権協会(JASRAC)へ足を運んで許諾を得ようとしたが、日本だけの問題で解決しないということから進展しなかった。やむを得ず、著作権の対象でないもの、つまり、民謡等著作権の期限切れの曲とオリジナル曲に限って配信するしかなく、ジャズの場合まだまだビジネスとして成り立つものとは言えなかった。

<高槻ジャズストリート(以下、TJSという)へボランティアで参加>

高槻ジャズストリートパンフレット
前田記事:はるばる代表

TJSは、平成11年5月に第1回目が開催され、50バンドが出演し、約3万人の観客でにぎわった。その後、年々規模が大きくなり、平成17年の第7回目は、会場数40箇所、出演360バンド、ボランティア約1000人、観客動員数は3日間で約11万人と、日本国内最大級のイベントになっている。ゲストプレーヤーは、トランペットの日野皓正さん、ピアノの秋吉敏子さん、海外からは、サックスのハリー・アレンさん、ボーカルのグラディテイトさん等、ビッグな方たちばかりだ。このイベントは、入場料を取らない“完全無料”という“とんでもないこと”を実現している。
私は2回目までは見物人の立場だったが、3回目からはボランティアスタッフとして参加するようになった。初めに参加して驚いたのは、50人近くの若者たちが各々の班に分かれて熱心に議論する姿だ。それも1月中旬から5月の本番まで、毎日曜日2時間余議論を重ねていく。
私は、”広報班”の手伝いをしている。広報班は、TJSのことをPRし、より多くの人を誘導するのが主な役割だ。新聞社や雑誌社への記事依頼、チラシの作成と配布、ポスターの掲示依頼、さらにはライブハウス等へのプログラム事前配布等々、いろんなPR活動をやる。5人ほどの班で、毎回ミーティングの時に次週までの行動予定を話し合ってそれを全員の前で発表する。チラシ配布等は、5人だけでは出来ないので他班の応援を求めたりする。各班はそれぞれ自分達の考えや予定を発表する。これを毎週繰り返すことで徐々にTJSの内容が固まっていくのだ。ある特定の人が命令するのではなく、”みんなの意見”で進めていく。これが大きな特徴であった。

鍋島先生バンド
ジャネットさん

しかし”リーダー不在”ではない。リーダーはみんなの発表を聞き、ある時は”賛同”する発言をし、問題だと感じた時は、”こういう意見だったが、みんなどう思う?”と投げかける。それに対して、賛否両論をメンバーに言わせ、最後には挙手で賛否を問う。非常にオープンなやり方だし、だからボランティアで若い人たちが多く集まってくるのだと思う。
特に、平成17年の第7回のTJSでは、私が作曲を習っている関係もあって、ビブラホンの第一人者で80才の鍋島直昶氏や神戸ジャズボーカルクィーンのジャネットさん達に出演して頂くことが出来、また、平成18年のTJSでは、私が推薦し、事前に接触していた有名な女性ボーカリスト・越智順子さんの出演が決定したのも大変うれしい事だった。

<またまた難題〜“6センチの脳腫瘍”発見!>

脳腫瘍

平成13年に突発性難聴、いわゆる“耳鳴り”に悩まされるようになった。1回目の時は2週間ほど治療を受けて治った。しかし、2回目に発症した時はなかなか治らなかった。12月になって、先生は他に原因がないか調べる為にMRIを撮ることを勧められた。それに従って専門病院で撮ってもらったら、そこの担当医の先生は、血相を変えて“直ぐに元の医院に戻って下さい!”と怒鳴るように言われた。“なんか変だな”と思いつつ元の先生にMRIのフィルムを手渡した。すると先生は、“これは!”と絶句状態。そして、“大きな脳腫瘍が出来ているようなので、すぐに専門の病院で見てもらって下さい。”と静かにおっしゃった。
それからが大変だった。確かにMRIのフィルムを何度見ても、頭蓋骨の下に大きな異物が写っている。しまいには、“これは、自分のものでないかも知れない”とも思った。家内に見せた。家内は大変驚いた。しかしそんなに気落ちしていなかった。“何とかしてみる。”と言って本を調べだした。私は、インターネットで脳腫瘍について調べ、2.5センチ程度なら放射線照射によって悪い細胞を破壊出来ることが分かった。その照射設備が日本で6,7台あることも知った。しかし、6.5センチなら何が出来るのか、何とか切らずに直らないかと真剣に考えた。もし頭蓋骨を開けなければならないとしたらどうなるのか?手術後社会復帰出来るのか?もし失敗したら生きてゆけるのか?死んだら、或いはマヒが重症だったら家内はどうなる?目の問題でも悩んだが、今回はもっと切羽詰っていた。
12月中ごろに会社の忘年会に出た時、好きなビールを飲んでいてもまったく酔わなかった。それなりに談笑していたと思うが、社長が近くの席に見えた時、私に“なんや、暗い顔してるなぁ”と語りかけられた。“いやー、スンマセン!”とちょっとおどけた調子で返答したが、“さすがに社長はするどい。”と思った。
平成14年1月になって家内はいろいろ「治療」を始めた。まず「玄米食」だ。次は、ビワの葉っぱを暖めた(いや、熱した)コンニャクでお腹に押し付ける。さらに、ビワの葉と熱いコンニャクを頭の上に乗せて上からタオルで巻いていく。かなり熱いが何か効いたような感じもする。市販の健康管理の本でよく効くと書いてあった薬もいろいろ試した。
もちろん病院にも行った。4,5箇所の病院で診察としてもらったが、いずれも“開頭手術しかない”という結果だった。最後に阪大病院に行って診察を受け“何とか切らずに!”と訴えたが、“仮に、放射線を照射して治療しても、照射した細胞が脳の中に残り、それがどういう影響を及ぼすかまったく分からない。”と言われ、開頭手術をすることに納得した。
しかし、実際に入院するとなると近くの病院でないと家内が大変になってしまうので、私の母校である神戸大学の医学部付属病院にお世話になることにした。
そして身近に脳腫瘍の開頭手術をしたことがある人はいないか、その経験談を聞きたくて色んな人に聞いて見た。近隣や友人関係に聞いてもなかなかいなかったが、ある時散髪屋さんのご主人が神大病院で開頭手術を受けた人を知っていると言ってくれた。早速その人に連絡し、手術の状況等をいろいろ聞くことが出来た。その人は、眼球の裏側に腫瘍が出来、それを摘出するのに口を開いて上アゴからメスを入れて手術をしたが、痛みも感じず、順調に回復されたとのことだった。それを聞いてちょっと安心した。
脳外科の先生からは、一刻も早く手術しないと保障出来ないと言われていたが、仕事の方が全社20拠点、約40台のサーバ入替えの大事な時だった。3月から2ヶ月かかる。私を含め4人しかいない部門だったので欠けるわけには行かなかった。だから“これが終わってから考えよう”と腹をくくった。
サーバ入替え後業務が安定したのを見届け、7月中旬に大学病院に入院して手術前の検査を受けた。私の場合、血液型がO型のRhマイナスなので、他人から輸血を受けることが難しい。よって自己の血液を事前に溜めるしかないのだ。血液採取を何度かやり、脳波の測定の為に検査台の上に寝ていたら、右腕が完全にしびれて動かなくなった。幸い病院内だったので手当てを受け元通りになったが、後で思うに、その時が限界だったのではないかと思う。
手術は朝から行なわれ、手術室には先生を含めザッと20数人の姿が見えた。すごい人数だと思った。手術は8時半から始まり16時ごろまでかかった。長時間の原因の1つは、腫瘍で変質していた頭蓋骨を切取り、その部分の型を石膏のようなもので作り、その部材(人工骨)が固まるのに2時間ぐらい要したらしい。今も左上頭部は直径10センチぐらいのプレート(人口骨)だ。四方にステップルみたいな金属性の留め金が入っており、多分飛行機に乗る時には探知機がキンコンと鳴って引っかかるだろう。
不思議なことに、手術後もまったく痛みを感じることは無かった。4日ほどしたら院内を点滴の器具を帯同してウロウロ出来るようになった。順調に回復するかに見えたが、5日目に歩行中に突然貧血を起こしてタンカに乗せられて治療を受けた。ちょっとテンポを上げすぎたようだ。手術直後は重症患者なのでナースステーションの隣の部屋で、段々良くなってくると部屋を変わっていく。つまり、ナースステーションから徐々に離れた部屋に移されるのだが、結局またもやナースステーションの隣に戻されてしまった。スゴロクのようなものだ。

すごろく

振り出しに戻り、今度は少し慎重になった。そして10日目を迎えた朝、先生の回診時に頭部の抜糸をしてもらった。“風呂に入って良いですか?”と尋ねたら、“もちろん良いですよ”との答え。しかし、ちょっと不安がよぎったため2日ほど後にしようと思った。そして2日経った朝シャワー室へ向かった。シャワーのコックをひねってお湯を頭にかけた瞬間、とんでもないことが起こった。右半身が動かない。自分の身体で無いような変な感じだ。あわてて左手で非常通知用のボタンを押し、マイクのある所に向かって一生懸命しゃべろうとするが、言葉ではなくロレツの回らない酔っ払いのようなわめき声しか出ない。ナースステーションから看護婦さんが駆けつけた時、私は下着を付ける余裕も無くただわめいていたので、“パンツだけははいて下さい!”とたしなめられた。車椅子に乗せられ運ばれている間中、私は声がおかしい、右半身がおかしいことを訴えるためにワーワー言っていたように思う。以前テレビで見た田中角栄氏のような情況だ。先生方の点滴等の処置によって1時間ほどで元の状態に戻ることが出来た。地獄へ落ちようとする自分を必死で引き上げてもらったようなものだ。今思い出すだけでも恐怖の世界だった。
その後“自宅外泊”が許され、それを2回繰返し、自宅療養を含め、3ヵ月半後職場に復帰することが出来た。
今までも何度か入院を経験したが、今回のような稀有な体験をしたことによって“今生きている自分”は、多くの方の力によって“生かされている”とつくづく思う。感謝あるのみだ。

<鍋島先生との出会い>

退院後会社に復帰したある時、ジャズ界の長老で、ビブラホンの第一人者である鍋島直昶氏のコンサートに行った。大変素晴らしい演奏だったので、知人に鍋島先生を紹介してもらった後、その人を通じて先生にジャズの作曲を教えてもらえないかとお願いしたら、快く引き受けて頂いた。当時体調は本調子ではなかったが、何か今までとは違うことをスタートさせたかった。
2週間に1回のレッスンだが、2週間に1曲創っていかなければならない。以前にそのようなことがあったが、今回は、自分のやりたいやり方ではなく、先生から出された課題をこなしながら創っていかねばならない。音楽にはコード(和音)というのがあって、いくつかの典型的な進行パターンがある。それらのパターンに従ってメロディを創るのだが、私の場合は、メロディの方が先に出来上がるのでついコード進行から外れてくる。これは、自己流で作曲してきた欠点でもあった。

鍋島教室

また、メロディを創る際もなかなか奥が深い。ノンコードトーン、つまり非和声音をうまく使えと何度も言われた。例えば、“ドミソだったら、レの音から入りなさい”ということだったが、どうもうまくいかない。先生に言われて、ジャズのスタンダードと言われる曲を調べてみると、ナルホド!和音以外の音がたくさん使われていた。これには驚きだった。名曲と言われていたものはこういうやり方で創られたんだなと感心したが、簡単には真似出来ない。多分これは“感性”の問題だろう。
今まで、2回ほど鍋島教室の発表会でオリジナル曲を演奏させて頂いたが、ある人の評では、“クラシックみたいな曲”と言われたこともあった。要は、“ジャズ的でない”のだ。いつかは、その方から、“ジャズの曲だね”と言ってもらえるような曲を創りたい。

<ミュージシャンへの支援について>

LHIではミュージシャンのサイトも作成していたのでミュージシャンとの接点も多かった。ライブに行った時にもいろんなミュージシャンと知り合いになった。良い演奏なのに観客が極端に少ない場面にも多く遭遇した。反対に、当然満員で立ち見のケースもあったが、自分もステージに立った経験もあるのでお客さんがまばらでは気持ちが乗らない。LHIは、ネット予約によってライブハウスの集客を増進する仕掛けだが、ミュージシャンやバンドにとっても密接に関連している。ファンの多いバンドやミュージシャンには早くから予約が入ってくる。だから全然知らない人にそのバンドの音楽を知ってもらい、より多くのお客さんに来てもらえるよう短いデモ試聴の機能も付けたりした。
そしてミュージシャンの人となりやプロフィールを知ってもらう為にミュージシャン紹介のコーナーも設けた。また、よくあることだが「リンクコーナー」も設け、LHIからいろんなミュージシャンを紹介するようにもした。
そんなこともあってか先にも述べたように多くのミュージシャンが自分のサイトからLHIへのリンクをはってくれていたようだ。

ある時、LHIの投稿欄からメッセージが入った。初老の男性から“マキ凛花というボーカリストの歌を聴いて欲しい”ということだった。彼女のデモテープを聴いて“音程もぶれないし、歌唱力も素晴らしい逸材だ”と直感的に思った。特に音程については、すでにプロで活躍している人は別として、ボーカルコンテスト等でいろんな新人ボーカリストを聴いたが、なかなか発声を含めちゃんとした音程で歌っている女性は少なかった。(自分も音程が悪いのに他人のことを言うのはおかしいかもしれないが・・・)
初め、あるライブハウスでジャズピアニストにお願いして(彼女が)歌わせてもらった。1コーラス目はうまくこなせたが、アドリブの後の2コーラス目に入るのがうまくいかなかった。バンド経験があると聞いていたのでいきなり歌ってもらったのだが裏目に出てしまった。多分かなり緊張していたからだと思った。

マキ凛花さん

その後、大阪や神戸のライブハウスのセッションデー等に度々同行し、彼女の“武者修行”のお手伝いをした。そんな甲斐もあってメキメキと力をつけ、一度神戸ジャズボーカルクィーンコンテストに出てみようということになった。ジャズを歌い始めてまだ半年にもなっていなかったし、レパートリーも3,4曲しかなかったが、何と初出場で“審査員特別賞”を受賞した。それも1曲目は無難に歌ったが、2曲目でまたもアドリブの終りが分からなくなった為立ち往生してしまった。ピアニストが早く入るよう促しているのをヒヤヒヤして見ていたら、どうにかこうにかして歌に戻ることが出来た。それでも審査員は絶賛だった。彼女の美貌もさることながら、多少の失敗があっても多分“素質”を買ってくれたのだと思う。その後、彼女はラジオに出演したりや雑誌にも取り上げられ、大手レコード会社からインディーズでCDを出版したりするとともに、現在も東京と大阪を行き来して、オリジナル曲を中心としたライブ活動を続け、2012年5月には大阪の昔有名だった”ユニバース”というキャバレーでミュージカルが開催された。その時の主役がマキ凛花だった。彼女の立派なステージを見て、走馬灯のように昔の色んなシーンが頭の中を駆け巡った。今後もますます大きく飛躍するのではないかと思う。
これ以外にも色んな形で多くのミュージシャンとのお付き合いがあったが、書けばきりが無いので割愛させて頂くこととしたい。

<バンドジャムの立案と立ち上げ>

バンドジャムトップ画面

かねてよりミュージシャン達にプラスになる仕掛けが作れないかといろいろ思案していた。その1つとして音楽配信によってバンドのPRをしてはどうかと考えていた時、KDDIの担当者にご紹介してもらった。バンドプロフィールを紹介するとともにデモ曲を流す携帯サイトの企画を大阪のauの企画担当の方に説明した。”面白い企画だ”との評価を得たので、社内で検討を重ね、企画書を整えてauの東京本社のサイト事務局に申請した。
以前に、某携帯電話会社に申請する際、何度も差し戻しがあった話を聞いていたが意外にもすんなり一発合格だった。それも東京の事務局の人と一度も“会話する”ことなく、すべてネットでのやり取りだけである。さすが最先端のネット専門のやり方だと感心した。
しかしそれからが大変だった。問題はシステム開発だ。いわゆる未知の領域があまりにも多い。携帯のシステムは特殊な言語が必要だ。その為に参考となる本を探したがほとんど無いに等しかった。音楽配信もしかりだ。一般的な配信ツールではなく、携帯のデータ保存容量やコピー防止の問題等がいろいろある。さらに課金システムへの連結や様々な課題が次々と発生した。
それでも当初の予定の1カ月程度遅れただけで平成17年1月中旬に正式に立ち上げることが出来たのは大変嬉しかった。バンドの登録料は無料で、プロフィールや写真を掲載出来、さらにデモ曲を3曲まで流すことが出来る。そして、スケジュールも登録出来るようにしたので、バンドやミュージシャンのPRのツールとしてはかなり有益なものだ。また、一般ユーザも月額315円でデモ曲がダウンロード出来、気に入ったバンドのスケジュールを参照出来る。さらに、予約まで出来るのだ。
当然のことだが、まずは登録バンドを増やす必要があり、美人ボーカリストの「マキ凛花」さんのページとデモ曲を掲載し、それを元にパンフレットも作成してPRを開始した。

<スイングジャーナル掲載と”着うた”>

この年の7月、ジャズの専門雑誌「スイングジャーナル」に高槻ジャズストリートの関係でお世話になったのでお礼の為に訪問した。その時、ライブハウスインフォメーションとバンドジャムを説明し、バンドジャムのデモを聴いて頂いた。その時の模様がスイングジャーナル9月号に掲載され、これを契機にある程度注目されることとなった。こんなメジャー雑誌に取り上げられることはめったに無いことであり、この時記事を書いて頂いた編集局の方々には大変感謝申し上げたい。
さらに9月になって、バンド数は100バンド近くになった。登録楽曲も約170曲となり、約8割がオリジナル曲で、それも大変レベルが高いものばかりだった。我々としてはそのような曲をもっと聴いてもらうきっかけを作らないともったいないと思った。
常々もっとサイトを見てもらえるような企画が出来ないかと思案していた。そのような時、当社のスタッフの女性から、”着うたは出来ないのですか?”と投げかけられた。実は私はその時まで、”着うた”がどういうものか知らなかった。聞いてみると、それは、携帯電話の着信時のベルの代わりにダウンロードしたメロディを使うことが出来るということだった。早速いろいろ調べてみると一応可能なことが分かり、ツールとしてもすでにauから提供されていたことが分かった。その結果1カ月ほどで目途が立ち、10月から週間投票ランキング1,2位の曲を対象としてサービスを開始した。ありがたいことに、反応はすぐに表れた。入会者が急に増えてきたのだ。ミュージシャンにとって、自分の曲がいろんな人の着信音に使われるということは、“ミュージシャン冥利”に尽きると思う。何とかして投票を伸ばして2位以内に入るよう友人たちにアピールする動きが、このような会員の急増につながったと思われる。このことは、女性スタッフのお陰であり大変感謝している。

<業務の効率化も併行して実践>

このように音楽に関することばかり書いていると、”前田は自分が好きなことだけやっている”と思う人もいるかも知れない。実は、我々のインターネット部門は、「固定費削減」という企業の重要な課題に果敢にチャレンジし、会社の業績にも貢献している。
その一例として、ネットワークの増速とコスト削減を実現したことを挙げたい。増速を図るということは、基本的に費用が増えることになるのが常識だが、うちの担当者は、インターネット回線を使うことで増速と費用減を実現出来ることを提案してきた。今でこそこれは周知の事実かもしれないが、当時はほとんど実例が無く、当社が実験台になるしかなかった。社内ではホスト系を統括している電算部門が反対し、回線業者も”出来ないことは無いが・・・”という状況だったので、我々としては、”安全性”を重点において、回線切断等のトラブルを想定した実証実験を繰り返し、いざという時もほぼ問題が無いということを証明した。このようなことによってようやく社内的に承認され、全社約20拠点の回線を一斉に切替えた。それによって回線費等の固定費を大幅に削減出来た。
また、ビジュアルベーシックという言語を勉強して、商品の在庫や受発注情報を元に将来の在庫数をシュミレーションするシステムも開発したりした。以前経理部に在籍していた時からPCのベーシックを勉強し、会社の経理伝票システムや小口現金システムを本来業務の合間や、休日に自分で開発したりしていた。特に、月間3000枚の伝票を処理する小口現金システムは、平成元年の消費税開始の時から17年間タダで動き続け、月次業績を5営業日で算出することにも大きく貢献した。現場に役に立つシステムを創るのは大変苦しいことも多かったけれど、完成して作業工数が大幅に削減されたと聞くのは、本当に嬉しい限りであった。

インターネット部門発足後3年ほど経過すると、前述の固定費削減、業務効率化の便益等がさらに増加し、部門の人件費の約1.5倍の便益を生むようになり、社内でも間接部門でありながら業績に貢献している部門として評価されるようになった。もちろん間接部門としての本務である全社のPC(約350台)のメンテナンス、グループウェア・ネットワーク、セキュリティ管理等の日常業務をこなした上でのことである。それも私を含め、たった4人で。
一方、インターネットはコストが安くつく反面、脆弱な部分もある。代表的なものが、”ウィルス”だ。一時ウィルスが世界中に一瞬で広がり、政府や大企業でも大きな被害が発生したこともあったが、当社はリスク管理を徹底して行ったことで、すべて水際で撃退することが出来た。これは、以前から予約システム等、社外に対して営業する真剣勝負が要求されるシステムを運用してきたことが役に立っていると思う。つまり、社内だけのシステムは、問題が起こっても身内同士なので”甘え”が許される。しかし、社外の一般の顧客と向き合うとそのような甘えは許されない。絶えず迅速な対応をしないとあっという間に悪い風評が広がり、商売が継続出来なくなる。我々はそういうリスクと向かい合って切磋琢磨することで、”安全”を維持している。当部門は、インターネット商売という先端を走りつつ、そのような”縁の下の力持ち”的な役割を担う部門でもある。

<西明石からたつの市へ引越し>

今の家内とは約10年前に再婚し、家内の母親が高齢であることから、家内の実家(実は私も同郷)と会社の中間に住むようにした。つまり、私の勤務は大阪、家内の実家はたつの市ということで、双方の中間地点である西明石にした。

鯛

西明石では、貸農園を借りて野菜を作ったり、梅の木のオーナーになって沢山の梅の実を収穫したりして楽しむことが出来た。また明石大橋を渡って淡路島に行き、海洋釣堀で大きなタイやハマチ、カンパチ等を釣ったりした。
家内は、母親が寂しがるからということで初めは週1回程度定期的に実家へ帰っていたが、それが週2回、3回と増え、しまいには週4回帰るようになった。理由は、母親のことが心配だからだ。つまり、結婚当初は先に述べた理由がメインだったが、10年も経つと、義母の体力や記憶力が衰え、火の始末や戸締りに不安があり、こちらとしても放っておけない状況になりつつあった。
また、家も老朽化し、畳も歩くとブヨブヨしたり、へこんでいるところが増えてきた。平屋だったので夏は暑く冬は寒く、特に冬の風呂の中は、外で風呂に入っているのかと思うほど空気が冷たかった。我々夫婦はマンション住まいだったので、私はこの寒さにはまいった。
そういう中で義母が元気なうちに家を建て直したいという気持ちが徐々に強くなっていった。逆に言うと、義母が病気で寝込んだりしてから家を建て直しても喜こんでもらえるはずが無い。家内とも何度も話し合った。家内としては、たつの市だと私の通勤が大変だということと、脳腫瘍の手術をしたので体力的に大丈夫かということを心配していた。だから定年、つまり60才になってからたつの市に住んではどうかという意見だった。それはもっともなことだが、その時まで義母が元気でいてくれるか分からないし、家内も週4回が5回、6回になるようだと体力的に問題が起こるかも知れないというのが私の見方だった。
たつの市は、自分の故郷でもあり、家内の実家は、桜や紅葉の名所である龍野神社や紅葉谷の横にあって風光明媚な場所にあった。ここに住むことは通勤時間が長い(片道約2.5時間)ことを除けば自分としては何ら問題はない。しかし、片道約2.5時間は未知の経験で不安が大きかった。いろいろ悩んだ末、やはり義母や家内のことを優先し、早めに家を建て直してたつの市に引っ越すことにした。いずれはたつの市に住むのだから、”少し時間が早まっただけだ”と考えることとし、平成17年3月に引っ越した。

たつのの自室

ただ自分としては”故郷に住む”ということ以外にメリットが無いわけではなかった。それまではマンション住まいだったので、自分の部屋は5.5畳しかなく、シンセサイザーやパソコン、ステレオを置くと身動き出来ないぐらい狭かった。しかし、今度は自分の部屋を広く取ることが出来る。設計の間取図をいろいろ検討し、一応13畳の部屋を確保出来た。
平日は通勤時間が長いので夜に自分の部屋で眠るだけであまり広さのメリットはないが、土日はシンセやステレオ、DVD等多少大きな音を出しても大丈夫なのでそれらを楽しむことが出来る。

鹿

また、以前は想像すら出来なかったが、家の直ぐ近くに野生の鹿が出没するのだ。夕方では山の散歩道近くで見かけたり、深夜になると神社の広場や斜面で餌を捜している。それをデジカメで写真に収めようとしたが、残念ながら距離が離れすぎていてなかなかうまく撮れない。かろうじて撮れたのがこの写真だ。
また、地元に戻ってきたことで、昔の同級生と旧交を温め、さらに新たに音楽の趣味の人たちとも知り合うことが出来た。都会に住んでいた時は10年経ってもあまり友達は増えなかった。しかし今回は今までと違って徐々に交際範囲が広がっていった。昨年は、揖保川西地区一帯の87会場で行なわれる一大イベント・オータムフェスティバルに少しだけ参画し、ホームページがまだ無いということで、新たに制作に携わったりした。今後は、今の仕事を活かして地域のアマチュアミュージシャンの支援やプロミュージシャンの招聘等、多少とも地元の文化振興のお役に立てればと思っている。

<最後に>

私は仕事では、営業(含む、技術)、人事・総務、財務・経理、ソフト開発・システム管理等を経験し、さらにインターネット企画等、いろんな業務を経験してきた。また、私生活では、転勤は一度も無いのに、家は4回新築し、離婚と再婚を経験し、会社も3回変わってきた。出世したとは言えないが、自分としてはそれなりに充実した人生を送ってきたと思う。“充実”の意味は、常に前向きに生きていこうとする気持ちを持ち続け、いろいろ生じてくる課題に向かって、失敗もあったが精一杯やってきたので悔いはない。
肉体的には生まれつき片眼失明というハンディと、さらに見えている片方も失明するのは時間の問題と言われていた中、全盲にならずに60年以上も過ごせたのは幸せというべきだろう。ここまでどうにかこうにかやってこられたのも、生んで育ててくれた両親、兄弟・家族、眼科、脳外科のお医者さんのお陰であり、心から感謝申し上げたい。
しかし実は、もっと驚くことが過去に起こっていた。それは2才の時、一旦死亡宣告されたという出来事だ。私は大腸カタルになって身体が衰弱し、医者も見放し、瞳孔も開いて死亡宣告を受けた。そして兄たちが葬式の準備をしていた時、次兄が死んだと思っていたはずの弟が微かに息をしていると気づいたという。危うく焼かれてしまうところだったようだ。
さらに、先にも書いたが53才の夏には大きさ6センチ余りの脳腫瘍の摘出手術を受けた。その後5年経過し、再発の可能性は無いと診断されたが、2008年7月に、人口骨をチタンのネットに張り替える手術をし、成功した。これによって以前は人口骨が下がってくるという不安があったが、まったくその不安がなくなり、体力も従来より元気になったようだ。
このように正に起死回生と言うべきか、九死に一生を得たと言うべきか、2度も命拾いをしているのは、神様が私を死なないように守ってくれているのかもしれない。或いは、まだまだ人の役に立つように頑張れ!と言っているのかも・・・。

このような波乱の人生だったからこそ、音楽を愛し、多少なりともバンドやミュージシャンの役に立つことが出来るのはありがたい事と思う。また、そのまま経理部長でいたら違った運命もあったかもしれないが、今まで述べたような経緯をたどってきたのにはそれなりの必然性があったと思う。そういう中で、本業とはかけ離れたこのような分野にチャレンジさせてもらったことに大変感謝申し上げたい。

現役時代に、ビジネスモデルとしては、「仕入れて売る」、「サービスを提供して見返りをもらう」等々二者にメリットが生じるオーソドックスなモデルが一般的だが、私は、三者三得、つまり、ミュージシャンやライブハウス、お客さんの“三者がお互いに得をするモデル”を理想と考えていた。ついでに仲を取り持っている当社が儲かればベストである。このようなことは、インターネットが出現して初めて実現出来るようになったのではないかと思う。今後もみんなにメリットがあり、より多くの人が“よりパッピーになる”“理想のビジネスモデル”を追及していきたい。既に、2009年8月末で定年退職したので、直接ビジネスに関わることは無くなったが、今度は、”たつの市”の為にみんながハッピーになるようなシステム作りをお手伝いしたいと思っています。

なお、2006年4月以降のことについては、トップページの「徒然なるままに」に、その時々の出来事を随時アップしています。また、バックナンバーも見られるようにしていますので、ぜひご覧下さい。

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