自分史 〔社会人〜30代〕

<社会人になって>

ビアパーティでの演奏

大学を卒業してからはバンド編成することは無理だろうと思っていた。大手化学メーカーに勤務していた2年間は音楽と無縁になってしまった。その後鉄鋼関係のメーカーに転職したが、そこで教育担当になって若い人と接しているうちに、自然とバンド仲間が出来、会社のビアパーティが出演の場となった。ここでは、井上陽水さんの「夢の中へ」とかを唄う女の子に合わせ、フォーク的なことをやった。
またこの時、素晴らしいアルトサックスプレーヤーが会社に入ってきた。ビアパーティでフルバンドが演奏していたら、いきなり人の楽器を借りて素晴らしい演奏を聴かせてくれた。譜面も打合せも無く、いきなりアドリブやテーマもノリノリでこなしたのは圧巻だった。その人は40才ぐらいでバリバリの現役プロミュージシャンだったらしい。なぜうちの会社に入ったのか聞いたら、”夜の生活”で身体を壊してしまったので、規則正しい昼間の仕事をしたかったからだと言う。
”夜の生活”ということから、その時、あることを思い出した。その昔、大学の音楽の授業で、著名なフルートの先生に「ジャズを勉強したいのですが、どうしたら良いですか?」と尋ねた。「そんなの簡単や。キャバレーを紹介してあげるからそこでやったらいいよ。」という答えだった。その当時の私はウブだったこともあるが、そのような場所でやり始めたら”夜の生活”になり、多分酒も飲むだろうし、最後には身体を壊すのがオチだろう、とおぼろげに考え、断ったのを思い出した。その元プロミュージシャンの話を聞いて、やはり”夜の生活”になるのを予見してその世界に入らなかったのは正解だったと思った。

<バンド交流会を企画>

バンド交流会での演奏

この会社は大手鉄鋼会社の子会社だったので、親会社や隣の系列会社には立派なフルバンドがあり、正規のクラブとして活動していた。親会社のバンドは年間40回以上もの出演機会があったようだ。都市対抗野球の応援や運動会等で、年間予算も百万円単位だったと聞く。我々のバンドは実力も大したことが無かったが、私が人事部門にいたので、同僚の福祉担当の人がうまく調整してアンプ等、共用の楽器類を購入出来るように予算取りしてくれた。もちろん会社の行事には必ず出演するということが前提であったが、高価なものを自力で買う余裕は無かったので大変助かった。
そういう援護射撃もあって、親会社やそのグループ会社を集めてバンド交流会を発案し、5社ほど声をかけてその実現に奔走した。立派な講堂兼体育館を使って7バンドが出演し、観客を含め約300人が参加して、盛大に交流パーティを実施することが出来た。

<フュージョンでソプラノサックスを>

フュージョンバンドでソプラノサックス演奏

当時はフュージョンが流行ってきた。ネイティブサン等がロックとジャズを融合したリズムと旋律で人気を博していた。我々もそのテーマを真似てやることにした。そして私はとうとうソプラノサックスを買いフュージョン路線を走ることになった。
その後社外のメンバーを加え、ナベサダ(渡辺貞夫さん)の曲を主に取り組んだ。その代表的な曲がマイディアライフだ。本来はアルトサックスの曲だが、何とかソプラノサックスでやり、題名を”マエダのライフ”ともじって紹介してウケたりした。正に自分達のテーマのように毎回ライブのエンディングテーマとして演奏した。このサイト「前田のライフ」の名前の由来はここにある。

また、クルーセーダーズやイギリスの新鋭バンドがやっていた16ビートの難しいリズムの曲にも積極的に取り組んだ。音程や技術(腕)は悪かったが、年1回の定期ライブは毎回100人近くの観客が来てくれたのは”何かやってくれそうなバンド”ということで、”音はずれ”(?)等の危うさを秘めた我々のサウンドに興味を持ってくれたからだと思う。もちろんプレイしている方は真剣で、ワザとはずしている訳ではないので、観客の人たちは、我々の熱意というか、ほとばしる何かを理解しようとしていたのかも知れない。

<住民運動とバンド解散>

新聞(見出し:ついに登校拒否)

33才の時、私生活の面で大変な事が起こった。子供の小学校の校区問題で、私が住民運動の事務局をやることになったのだ。初めは市当局との話合いの窓口程度だったが、次第にエスカレートし、“座り込み”、さらには前代未聞の“登校拒否”という事態に発展していった。誤解を生まないために申し上げるが、登校拒否というのは、学校に行かずにサボルことではなく、我々父兄で教員の免許を持っている者が代りに授業をするのである。金曜日の夜に住民大会を開き、事務局としてはよほどのことでない限り登校拒否という手段は取れない、つまりこれ(登校拒否)は最後の手段なので、私は、タイミングをもう少しずらすべきだと住民を説得する方に回ったが、投票の結果、大多数の住民が”決行する”ことに賛成した。その後明け方までかかって授業の教材の準備をせざるを得なくなった。
翌朝の土曜日、私は病欠の2名を除いた約100人の子供たちの行列を率いて村の集会所に向かった。この日は、1・2年生、3・4年生、5・6年生の複合学級を編成し、3人の教員資格者が3時間の授業を行なった。このことが新聞やテレビで取り上げられ、夕方6時のニュースでも大写しで教鞭を取っている私の映像が出た為、田舎の両親が偶然知ることになり、大変驚いたようだ。
また市議会もこの事態を重く見て“住民の意見に耳を傾けるべき”という意見が多くなり、市当局も柔軟に対応せざるを得なくなった。結局その問題は大幅に住民の主張が受け入れられた形で決着した。この住民運動をやった半年間、睡眠時間は毎日4時間程度しかなくフラフラだったが、会社が私の立場を擁護してくれたので何とか乗り切ることが出来たのだと、今も大変感謝している。
ただこの時のハードスケジュールが、心身ともに疲れ果てさせた。ちょうど市当局との調印が終わった6月の定期ライブで、ステージ上で思わず引退宣言をしてしまった。
一番驚いたのは後ろにいたバンドメンバーだ。突然言い出せば誰しも驚くのは当然だった。だが気持ちは変わらなかった。結果的にバンドは解散となってしまった。今思うとメンバーに申し訳ない気持ちでいっぱいだが、当時は住民運動に精根尽き果てたという状態でまったく余裕が無い心境だった。バンドリーダーとしての活動はこれが最後だった。

この住民運動でもいろんなことが起こった。当時住民運動が勃発した時に市の教育委員会の次長(実質的な責任者)が突然異動になり、労務畑の人が新たに任に当たるようになった。それで、我々の仲間の郵便局長とかにはいろんな圧力をかけ、その人はリーダー的存在だったのに結局は脱落させられた。あれだけ先頭に立って動いていた人があっという間に萎えてしまったので、何かスゴイ力が働いているなと感じていたが何がどうなってそうなったのか分からなかった。後で聞いたことだが、実は私も狙われていたというのだ。つまり、当局は、私の過去の経歴をしらみつぶしに調べたが、何も記録されていなかった。例えば、学生運動のリーダーだったとかである。何も出てこないので、ハタと仕事の所属を見ると、“労務屋”だというのが分かった。その新任の次長は、“ははーん、労務屋か。労組とやりあっているヤツだからこいつは簡単に落とせないぞ。”と思ったそうだ。つまり、戦術があまりにも統制が取れていたのを感じていたからだった。例えば、座り込みや登校拒否等、すべて“予告”し、その通り乱れることなく実行に移されている。普通住民に揺さぶりをかけたら簡単に崩れていくのに崩れない。(他の数地区も同じ問題になっていたが直ぐに沈静化した。)情報統制もしっかりしている。これは裏方がしっかりしているからで、労務屋でないとそんなことは出来ない、と次長は思ったそうだ。しかし、ネタがなかったのでどうしてもつぶせなかった。えーっ、そんな怖いことが裏で起こっていたとは!である。その次長さんとは“戦友”として今も親しくお付き合いさせて頂いている。

<残念ながら鉄鋼関係の会社を退職>

30歳のころ

“会社が私を擁護してくれた”と書いたが、それにはこんな背景があった。というのは、会社の仕事は、「労政」という仕事で、労働組合との交渉窓口だった。春闘の時は徹夜でベースアップ額を計算したり、福利厚生や賃金制度を検討し、組合と交渉する。もちろん本来は社長と組合の委員長が団体交渉等で合意するのだが、労政というのは、企画立案した案件を組合の事務局と事前に交渉して“地ならし”をするのが役目だ。そういう中で、上司からは、“従業員の気持ちに配慮すること”を学ばせて頂いた。だから、住民運動の際、上司に“スト(登校拒否)を回避したいのですが”と言ったら、“住民の意見を尊重せよ”とのアドバイスだった。私はその時まで“戦術”としてベターな方法は何かを考えていた。上司からも戦術的なアドバイスが受けられると思っていたのだか、その答えは大変“意外”であった。“戦術”ではなく“気持ち”を尊重することが大切だということである。だから、先に述べた“住民大会”で一旦登校拒否回避を主張したが、それを言った上で住民のみんなが登校拒否を選択したら、直ぐに気持ちを切替えて登校拒否の用意に取り掛かるつもりだった。
会社と組合は、本来立場が正反対なのでお互いに対立する。しかしその根底には、“労使協調”というお互いの姿勢が不可欠で、組合としては自分達の言い分が受け入れられないとストをするということは余程のことがない限りやらないという不文律が存在した。
しかし如何に円満解決を図ろうとしても不可避な事態もある。35才の時、鉄鋼不況の中、会社の業績が年々悪化し、人員整理を余儀なくされ、希望退職を募ることになった。私は、退職者の条件の整備、再就職先の斡旋等、組合との交渉窓口として奔走した。約200人の再就職等が一段落した後、私も退職した。それも次に就職する先のないままで。当時の気持ちとしては、仲間(組合員)の首切り(退職)によって自分がのうのうと生き延びることはおかしいのではないかという単純な考えだった。

<職探し、そして再就職>

次の職場を探す上で考えたのは、今後はパソコンの分野が伸びるであろうということからソフト開発関係の会社を主に調べた。と言うのは、前職においては労政の仕事の傍ら、パソコンのソフトを開発したり、ホスト系(大型コンピュータ)の人事システム等のシステム設計に携わっていた。数年前から退職者の補充が出来ない状況になり、何らかの機械化を施さないと立ち行かなくなることは目に見えていた。そういう中でPC8000のベーシックを知り、簡単なプログラムで大幅に事務工数が削減出来た。また、人事システムの開発過程では、データの入力方式をめぐってホスト系のSE(システムエンジニア)と激しく対立した。そのSEは“ペンタッチ”方式を主張し、私は“キーボード(カナ漢字)変換”方式を推薦した。ペンタッチは確実かもしれないが、いちいち漢字を探さないといけないし、慣れないと字を探すのに時間がかかる。カナ漢字変換は、カナを打ち込んでから変換する手間がかかる。確かに当時は、ペンタッチが主流だったが、将来は絶対カナ漢字変換が主流になると信じていた。
結局、実績のあるペンタッチが採用され、カナ漢字変換は却下された。この辺の事も退職の理由になっているため、今度は、ホスト系ではなくパソコンの分野の会社で仕事をしたいと思った。(その後パソコンが発達し、当然のことながらペンタッチはすたれていった。)

3ヶ月ほどいろいろ会社の面接を受けたが、なかなか希望する仕事は見つからなかった。そんなある日、新聞の小さな求人広告が目に入った。それが現在お世話になっている会社だ。当時この会社は、大手電気メーカーのパソコンのサポートセンターを運営し、前の鉄鋼関係の会社の時にお世話になったこともあって、ここに就職したいと思った。だが、電話で問い合わせてみると、“35歳ですか。年齢的にちょっと難しいですね・・・”という返事が返ってきた。そこで“いろいろPCのシステムを開発してきた実績があるのでその資料を送らせて頂きたい”とすがる気持ちで訴えた。“一応お送り下さい”という返事だったので郵送した。試験会場に行ったら応募者の多さに驚いた。60人ぐらいいたと思う。それも若い人ばかりで、私のような“高齢者”は皆無だったので、まず合格しないだろうと思っていた。ところが最終選考の面接にも残り、入社が決定した。後で聞いたことだが、社内に私のことを間接的に聞いていた人がいて後押ししてくれたり、たまたま採用の担当者が大学の後輩で、年齢の条件をはずして面接まで受けさせてくれたということがあり、正に首の皮一枚で命拾いしたのだ。もしそのようなことが無かったら到底就職出来なかっただろう。目に見えるところ、目に見えないところにかかわらず、人は色んな形でいろんな方にお世話になっているのだということをしみじみ感じた。

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