自分史 〔40代〕

<パソコンとシンセサイザー(以下、シンセという。)>

その後も音楽をやりたい気持ちはくすぶり続けた。そんな中、パソコンのソフトが発達し、ABCD等の音名と長さの数値を打ち込めば、シンセを鳴らせるものが発売されるようになった。シンセもドラムセットやピアノ、ベース等の音源を複雑な設定無しで扱えるものが安価に手に入るようになった。安価と言っても、以前何十万円もしたものが10万前後で買えるという程度で、安月給の私にとってはなかなか買うのに決断を要した。また、音の設定にしても、その昔は1つの音色を創るのにいろいろな設定が必要だったらしいが、単に音色番号をパソコンから送るだけですぐに音をチェンジ出来るようになった。結局、1年ほど小遣いを貯めてようやくそのシンセを手に入れ、初めは市販の楽譜に載っている曲を打ち込んでいった。例えば、松田聖子さんのロックンルージュ等はすごく時間がかかったが、何か自分で演奏しているような気分になった。自分で強弱やリズムを変化させているので、レコードとは一味違った”手作りの味”が出ていた。

<ウインドシンセ>

自室のシンセ

シンセもだんだん良いものが出来、PCの性能の向上によってソフトもリアルタイム入力等が出来るようになってきた。シンセの音色は、自然の音をサンプリングして創ったものだと生の楽器にかなり近い音が出る。また、ソフトの性能の向上で、管楽器のシンセを吹くと、細かいデジタルデータに分解されて、データとして自在に修正出来る。例えば、いったん吹いた旋律のデータを、音程、強弱等も後から修正することも出来る。アナログの世界では到底出来ないことだ。
そこで、またまたムラムラッときて、ウインドシンセという管楽器のシンセサイザーを購入した。普通の管楽器を吹くと如何にフルートのような音量が小さい楽器でも近所迷惑になる。ましてや好きなソプラノサックスを吹くのは、音量が大きすぎて防音室でもない限り無理だった。その点、このシンセはボリューム調整が簡単で、ヘッドホンを使えば夜中でも出来るメリットは大きかった。しかし、それを吹いているような暇が無いのが現実でもあった。

<ナベサダさんに対抗??>

ある日、家内が、ナベサダさんがチベットの山奥に行って一人でサックスを吹いている場面をテレビで見ていた。彼女は言った。「ナベサダさんって素晴らしいね!あんな曲がすぐに出来るなんて。」私は、それを聞いてすぐに自室のウインドシンセとキーボードのスイッチをオンにした。適当にパラパラと弾いてみた。ナベサダさんの立っていたチベットの代わりに、中国の切り立った山々の風景を思い浮かべた。ピアノでイントロをパラパと弾いてみてすぐにデータに落とした。それをバックに流して、ゆっくりとウインドシンセを吹き始めた。良い感じだ。何かが湧き出てくる。水墨画に描かれたような切り立った山々に囲まれた崖の上に自分がいてソプラノサックスを吹いている。中国的雰囲気のメロディが浮かんだ。4小節はまずまずの滑り出しだ。次にさらにゆったりとした感じで歌い上げるようなメロディにしていった。ベースも後から入れてみようと思い、単調だが重厚な感じを大切に入力していった。そしてドラムも単純だがしっかりと支えるフレーズにした。こうやってものの20分ほどで出来上がり、早速家内に聴かせた。「なるほど良い感じやね。でもナベサダさんは素晴らしいね。」と、いかにもナベサタさんが好きだと言わんばかりの口調で言ったのだった。ちょっとがっかりしたが、まぁ、ナベサダさんと張り合うほどの実力は無いのは当然であり、スゴスゴ引き下がるしかない。
この曲は、サビをまだ創っていなかったので、ギターの音色でメロディデータを打ち込んでいった。チョーキングといって、1つの音を長く伸ばしながら音程をキューンと変えていくのだ。この辺は、ピッチベンドという機能を使って数学的に計算しながらデータ入力していく。何とかチョーキングの感じが創れた。いわゆる”泣き”のギターという雰囲気が出来てきた。私の曲創りは、メロディ先行だ。コード理論ではきっちりしたコード進行の上にメロディがきれいに乗るべきとされるが、はっきり言って、「どこへ行くの?」である。この曲の場合、ぐーっと盛り上がって突然ストンと落ちる、絶頂から谷底へというイメージで創っていき、その後はテーマの変奏曲につないでテーマで終わらせた。今までもいくつか作曲していたが、この曲は自分としても納得がいくものだった。題名は、自分の名前“清悟”の1文字を入れ、中国の清らかな泉のほとりで吹いているイメージを表す意味で、「清山の泉」(せいざんのいずみ)と名付けた。

<インターネット配信の反響>

HP(タイトル:前田清吾のオリジナルコンサート)

その後、友人から、音の圧縮をしてサーバにアップした後、それをインターネットでダウンロードしたら聴けるということを聞いた。”これはスゴイことだ!”と思った。いろいろ圧縮方法があるのが分かった。最も一般的なのがMP3だったが、私は、ヤマハのサウンドVQが良いと思った。MP3が10分の1圧縮に対して、サウンドVQは20分の1まで圧縮でき、音質もそう劣らない。なにぶん回線スピードが64KBPSのINS回線が主流の時代だったから、ダウンロード時間が長いと回線料金もかさむのでより軽くしないといけないのだ。
ようやく音の圧縮が出来た。次はホームページ(以下、HPという)を作る必要がある。しかし、ハタと困った。それまで曲を創る方ばかりが気になって、HPは作ったことが無い。とりあえず、so−netが提供している簡易作成ツールを使い30分ほどで作ってみた。それと併行してヤマハのサウンドVQのライブラリ的なところにもリンクを設定した。
それから4日ほど経った後、1通のメールが入ってきた。何と秋田県のある先生からだった。「清山の泉」が気に入ったというメッセージだった。”これはすごいことだ!”自分の曲をどこかの人が聴いてくれた!それも近所ではなく、自分も行ったことがない遠い所から反響があったのだ。これがインターネットの威力か!と、今まで感じたことがない興奮を覚えた。もしこんなことが出来るのなら、自分が創った曲を自分の力だけで発信出来る。つまり、レコードを創ったりしなくてもテープ音源さえ創ったら自分がサーバにアップするだけだ。ましてや、レコードを販売するには”物”としるて販売するためのルートが必要だが、ネットからだと”物”は存在しないし、欲しい人は直接手に入れることが出来る。そういう世界が存在し、発展していくことは画期的なことだと思った。

1曲だけ載せていてはつまらないので、曲を増やすことにした。キーボードのシンセに向かって適当に弾いてみる。気に入ったフレーズが出来たら1小節でも2小節でも断片的にPCのソフトに入力して保存する。そういう作業を繰り返し、1カ月2曲のペースで作曲していった。ある時はウィンドシンセのトロンボーン(以下、ボーンという)を即興で吹いて、リアルタイム入力したりした。ボーンは、力を入れて吹くと立ち上がりの音が割れたような音が出る。そのような微妙な音も出るので、ほとんど本物のボーンではないかと思った。サックスの指使いだがボーンの音色で吹くと、自然にボーンの雰囲気のフレーズになったのは驚いた。3月末から7月ぐらいまで1カ月2曲ずつ作るペースで作曲した。

<大学の軽音楽部OB会発足>

一般的に大学のクラブが多数存在しているが、我々のクラブはOB会が無かった。私が大学に入った時は、確か“軽音楽同好会”から“軽音楽部”に昇格したばかりの出来たてホヤホヤの状態だったようだ。当初は、ロックとウエスタンの2バンドから始まり、ハワイアンが加わり、さらにフォーク、ジャズ、フルバンド、ボサノバと次々に新しいジャンルのバンドが生まれていった。それぞれのジャンルの中に複数のバンドが出来、部発足時点で10数名だったのが10年後には部員総数150名に達する一大クラブに発展していった。
しかし、いわゆるOB会というものは存在しなかった。フルバンド等は先輩が後輩を指導する必要があったと思うが、それ以外のバンドはバンド単位でまとまっていたら別に他の先輩から教えてもらう必要も無いということで、体育会系のクラブのような先輩・後輩の関係とは異なる体質だと思われる。
段々我々も年をとり40歳ぐらいになってくると、若干ノスタルジアが湧いてくる。時々思い出したように年末ぐらいにハワイアンOBが集まったり、他のバンドも同様に個々バラバラに集まっていたようだが、ある日クラブ発足時の数人のOBと食事をしていた時、“OB会が無いのは寂しいね”とか“OB会があったら良いなあ”といった意見が異口同音に出た。それをきっかけとしてOB会を作る準備に取り掛かったが、さあ、どうやったらOBの情報を集められるのかが大きなテーマとなった。OB会が無いということは、毎年卒業していった者がいるはずだが、卒業名簿のようなものは無いということだ。幸い毎年定期コンサートをやっていたので、その時のプログラムをかき集めようということになった。プログラムにはその当時演奏していた名前が載っている。幸い1人のOBがかなりのプログラムを持っていた。他のOBも協力し、名前だけは徐々に整理出来てきた。

神戸大学軽音楽部定期演奏会パンフレット

しかし、単に名前が分かっただけでは名簿にならない。次に、面識のあるOBに片っぱしから近辺の年次のOBの消息を尋ねていった。人から人へ、まさに人海戦術だ。そして、ようやく500人ぐらいの氏名、住所、連絡先等が分かってきた時、突然フロッピーディスクがエラーになって読めなくなってしまった。幸い私は大手パソコンメーカーのサポートセンターに勤務していた関係で、データの修復方法に詳しい技術者のアドバイスを受けながら修復作業を行なった。その作業というのは、ディスクの中の16進数が混じったデータを見ながら、不要な部分を識別しながら削除していく気の遠くなるような作業だった。他の人ではデータの中身のイメージが無いため、私しか出来ない。根気良く作業をしてようやく8割ぐらい修復出来たのは、不幸中の幸いだった。

神戸大学軽音楽部OB会発足についてのご協力お願い
OB会発足パーティー
OB会発足パーティー:バンド演奏

そんなトラブルを経て、平成2年には約700人のOB名簿を発行するのとOB会を正式に発足させることが出来た。我々のクラブのパーティは当然の事ながら演奏が付き物だった。初回のOB会発足記念パーティは、大阪のバナナホールで行ない、120人近く集まり、盛大に行なうことが出来た。特に、往年の人気ロックバンドが久しぶりにステージに上がるということを聞きつけた一般の若い女性グループが4,5人入らせて欲しいと電話があり、特別に入場してもらうことにした。当然彼女たちは最前列に陣取ってノリノリのロックに酔いしれていたことは言うまでもない。
普通、OB会は毎年集まって何かするのが一般的だと思うが、私は、OB回発足の時に、2,3年に1回、つまり、5年に2回ということを提唱した。理由は、毎年やるのは良いが、我々の場合は演奏をするのでそれなりの音響設備が整っている場所でないと意味がない、また、それを毎年設定するのは段取りする人間が大変で、さらにそれなりの人数が見込めないと簡単に赤字になってしまう。初めは出席者が多いのは当然だが、毎年開催すると食傷気味になり出席者が減っていく。如何に新鮮味を維持し、それなりの出人数を確保するかが課題である。そんなこんなで、考えたのが5年に2回という案だ。初めは、みんな毎年やりたいという意見が大勢だったが、最終的に規約の中に正式に盛り込まれた。東京の方ではOB会を毎年やっていたが、回数を重ねる中である時から開催されなくなった。しかし、こちらでは2,3年に1回のペースで開催することで、立ち消えにならずにそれなりに安定して開催されるよう切望している。
そして平成17年秋には、軽音楽部発足40周年を目出度く迎えることが出来た。40周年記念パーティは、何と昼2時から夜の10時までの長丁場だった。一次会は懐かしい大学の講堂で現役フルバンドとウエスタンOBの演奏、2次会は、OBが現役当時の写真を持ち寄ってスライド上映しながらOBの代表が当時の模様を語るパーティとした。さらに3次会は、六甲の有名なライブハウスを借りきっての4時間に及ぶライブだ。現役も多数参加してくれた。

初めの1次会では驚くべきことが起こった。ウエスタンバンドが演奏している時に、次に演奏する現役のフルバンドのリーダーが私に“頼みたいことがあります”と言ってきたので、会場の外へ出て聞くことにした。すると、何と、今からテープを聴いて一緒に演奏して欲しいということだった。曲名は全く知らないものだった。たまたま3次会でやるためのソプラノサックスのケースが目についたからそうなったらしい。それを見てOBとのコラボレーションをやろうということになったようだ。しかし、ソプラノは20年近くやっていないことを理由に断った。“ならばフルートで”と食い下がってこられた。“まあ昔フルートでやったこともあるのでやってみるか”と思い、一応テープを聴かしてもらった。聴いてもそんなに直ぐに出来るはずがない。譜面もなく、構成も知らない。その時、“テーマとボーンのソロが終わったらアドリブで入って欲しいのです”と言われた。引き受けざるを得なくなってしまったので、“どうなるか分からんよ”と言ってステージにいきなり上がってボーンのソロが終わるのを待ってアドリブを始めた。2コードを指定されたがフラットが4つでそれもブルーノートだったので変則極まるものだ。とりあえず浮かんだフレーズをやっていったが、長い!なかなか終わりにならない。バッキングのフレーズがなかなか入って来ない。若干焦り一旦フレーズが枯れかけたが何とかバッキングのフレーズが入ってきたので終わることが出来た。正直ホッとした。あとでビデオを見せてもらったが、下手ではあったが大変記念になるので大変ありがたかった。

現役部員フルバンドにフルートでアドリブ出演

ハワイアンでの演奏ロックバンドでの演奏

3次会では、ブルース、ジャズ、ロック、ウエスタン、フォーク、ハワイアン等のOBバンドが熱演を繰り広げた。小生は、ハワイアンのフルート、ボーカル、ベースの演奏、さらにロックバンドでは、ソプラノサックスのバッキング等をやり、大変充実した一日となった。このOB会パーティは出席したOBは異口同音に“素晴らしかった”と言い、同様に数日間OB会のホームページへの書き込みが急増した。

<ハワイアンOBバンド>

立派なログハウス!
新鮮なアユ!
イロリを囲んで
フラダンス
お客さんもたくさん
砂浜でオープンライブ
ハワイアン演奏

ハワイアンのOBは、現役時代2バンド合わせて12,3人程度だったが、その中の数人は阪神間に住んでいたので毎年集まることが出来た。15年ほど前から5年前まではメンバーの1人が“別荘”を持っていたので、男ばかり6人で夏には毎年“合宿”をやった。立派なログハウスが福井県にあり、先輩2人がアユ釣りが好きで午前中に福井の川に行きアユを釣ってくれ、午後からわれわれが合流し練習をした。夕食は、イロリを囲んで釣ってきたアユを串刺しにして炭火で焼いて食べるのだ。夕食後はまた練習し、それが終わってから深夜までウダウダと雑談した。これは日常の会社生活から完全にかけ離れた時間・空間で、本当に学生時代に戻ったかのような別世界だった。

ここ3,4年は、夏になるとフラダンスとのコラボレーションで須磨海岸の海の家でライブが恒例となってきた。最近フラダンス教室が沢山出来ているようで習っている人も多いらしい。初回のライブは、前日から台風の予報が出ていた。海の家ではあるが、全く窓も無い閉ざされた空間でやることになった。しかし、大雨にもかかわらずお客さんは約60人、フラダンサーは30人ぐらいだったが、場内はほぼ満杯となり盛大なライブとなった。フラダンスチームは比較的年配の女性が多かったが、さすがにしなやかで素晴らしいダンスを披露して頂いた。ライブの終盤に雨が止みお店の壁が大きく外に引き上げられた。いわゆる大きなジャンボジェットのウイングが開いたような感じで、ステージからみると暗闇の中に砂浜が広がっているのが見え、素晴らしい眺めだ。“こんなんだったら雨でなかったら大変良い雰囲気だろうなぁ”と思った。その翌年は幸い雨も降らず、絶好の浜辺ライブとなり、お客さんは砂浜に配置したテーブルにも沢山見え、さらに盛大になった。
ただ演奏としては、少し普通のライブとは違うものにならざるを得なかった。フラダンスは、“歌詞”に合わせて手や足の動きが作られている。だから、まず歌は忠実に歌わないといけないのと、間奏とか編曲はご法度である。つまり、楽器だけの間奏をするとダンサーは歌詞が無いために何を踊って良いのか分からなくなるということだ。よって普段のライブとは違ってボーカル主体の単純な構成にせざるを得なかった。しかし、それはそれで楽しいものである。何せ、男ばかりの“おっさんバンド”と違い、フラダンスは女性主体のゆったりした踊りで“花”があり、文字通り華やかであった。今後もそういうスタイルでやっていくことはやぶさかではないが、たつの市から須磨の海岸まで行くのはかなり時間がかかるので毎年続けるのは厳しいなぁというのが正直な気持ちでもある。ただメンバーの先輩方々にも大変お世話になっているので何とか声を掛けて頂いている間は出演したいと思っている。

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