自分史 〔学生時代〕

<高校の時、古賀メロディがきっかけでギターを>

姫路城をバックに

子供の頃、次兄がつまびくギターで、古賀政男さんの「愛染かつら」をよく聴いた。高校2年の夏、私はこのメロディに魅せられて、ギターでこの曲を必死になって練習していた。独特の哀愁を帯びた旋律と和音は、物語の内容をよく知らないながらも何となくにじみ出る物悲しさとぴったり合っていたようだ。
ある日、教室で仲間の1人とギターアンサンブルのコンサートをやっていたら進学担当の先生が飛んで来て、「進学の勉強をすべき時に何をしとるか!」と一喝されてしまった。「勉強はちゃんとやっとる!」と反論はしたものの、結局はねじ伏せられてしまった。

<両眼を手術>

進学するために理系コースを選び、出来たら工学部に進んで機械関係の技術を勉強したかった。ところが、右目の視力がほとんどゼロだったので、工学部等の理系は初めから受験資格が無いことが3年の4月になって分かった。しかし今さら文系に変更は出来なかった。
何とか治らないかと色んな病院を駆けずり回ったが、どの医者も”視力を出すことは不可能”という診断だった。秋になって同級生の中に阪大病院の医師が従兄弟だという者がいたので、頼み込んで眼科の名医を紹介してもらった。”阪大でダメならあきらめよう”と心に決めた。やはり、結果は“先天的なものだからダメだ”ということだった。しかし、視力は治らないが、見た目だけは直すことが出来ると言われた。それは、「斜視」だ。自分としても、いつも鏡を見たら目の位置がズレているのが気になっていた。親は”まともだ”と言って取り合ってくれなかったが、やはり異常だったのだ。直ぐに手術をしてもらった。手術は初めにメスで目の端にある筋肉を切り、さらに眼球を縫うのだ。手術後は、両眼の眼球を縫っている糸が入ったままなので、目を閉じていても痛くてたまらなかった。そしてそれが2週間ほど続いた。メスや針が目の前に迫ってきた光景と痛みは、今でも強烈な記憶として残っている。

<落第寸前から大学入学>

病院回りや手術をしたため、高校の出席日数が不足して落第寸前までになっていた。学業成績も急降下し、とりあえず就職試験も受けたが、やはり大学への想いも断ち切れない。また、家が貧乏なので私学は受けられず、さらに下宿をするとお金がかかるので、近場の大学しか許されなかった。県内にある某国立大学の教育学部なら条件付だが可能性があることが分かった。”条件”というのは、”片目が見えないから、将来教員になれなくても文句は言わない”という誓約書に印を押せということだった。つまり、「健常者優先」ということだ。なぜ国立大学が公然とこのような差別をするのか納得できないが、従うしかなかった。

<大学の軽音楽部ハワイアンバンド入部>

めでたく(?)大学に進学し、機械体操部か自動車部に入ろうと思ったが、音楽の事も気になっていたので、同じ大学に行っていた村の先輩に聞いたら、”バンドをやっているのは女の子ばっかりやで”との返事だった。”女の子ばかり”というのが妙に心に残ったが、一応色んなクラブのガイダンスを聞くことにした。そして2,3のクラブを回った後、軽音楽部に行ったら、男子学生がいて”どうや、入らへんか?”と誘ってきた。
その人はハワイアンのスチールギター奏者で新規にバンドを作ろうとしていたのだった。それがきっかけでハワイアンをやることになった。とりあえずギターが少し出来たのでサイドギターをやれと言われたが、部室は1部屋だけなので他のロックやウエスタンも順番で使っており、週に1回の練習以外は部屋の外で1人で練習したりした。
ところで、以前”女の子ばかり”と聞いていたのに実際はほとんどが男子で、後からハワイアンに2人女子が入ってきた程度だった。少し経ってから、先代のハワイアンバンドが女子ばかりで編成されていたことを知った。つまり、村の先輩はそのバンドのことを言っていたのだった。

バンド演奏

そんなある日、ダンスパーティがあるからベースをやってくれないかと言われて突然ベースをやる羽目になった。本番まで1カ月も無く練習に励んだが、なにせ指の皮がむけてしまい痛くて指に力が入らなくなった。これは大変な楽器だと思った。それでもどうにかこうにか本番を迎えたが、リズムに乗れずメロメロだった。ホロ苦い思い出の1つでもある。

<バイト代でフルート購入>

その後夏休みになって百貨店の配達のアルバイトをやった。神戸の東灘の急な坂を自転車でたくさんのお中元を積んで登っていくのだ。自転車の荷台の重量で前輪が浮いてしまう状態なので体重が前輪にかかるようにして力いっぱい漕ぐ。すると汗が一気に噴出す。照りつける太陽の中汗だくになって働いた結果、ようやく3万円稼ぐことが出来、そのお金を持って念願のフルートを買いに走った。当時ハワイアンではあまり使われていなかったが、フルートの音色が合うのではないかと勝手に思っていた。
早速小豆島の合宿に持って行って先輩たちに見せたら、”変なものを始めてどうするの”という感じだった。教えてくれる先生はだれもいないし、もちろん先輩たちもだれも経験者がいないので自力でやるしかなかった。ところが10分も吹いていると頭がフラフラしてくる。息を吐くばかりなので酸欠状態になってしまうのだ。どんな楽器でもなかなか難しいものだと痛感した。

その後ベースからフルートにポジションが変わるのだが、フルートだけでは暇なのでリーダーからボーカルもやってみないかと言われ、2つのパートをやることになった。そしてある日「南国の夜」のイントロ等の譜面を渡された。これは、当時ビッグバンドのビブラホンで演奏されていたものだったらしい。その為音の使い方がかなり飛んでいて難しいフレーズだったが、この曲のおかげで後に毎日放送の「ヤングタウン」に出演することになる。
ボーカルとしては、「小さな竹の橋」や「月の夜は」、それから「ビヨン・ザ・リーフ」等々、譜面だけを頼りに練習した。実際は譜面もロクに読めないので、先輩のスチールギターのメロディを聞き、自分でギターの伴奏を弾きながら独力で唄っていた。つまり、プロの歌手の唄など手本が全く無いので、自分流に唄うしかないということであった。

<ビアガーデン、そしてヤングタウン出演>

翌年の4月には新しく1年生でスチールギターをやる女の子が入ってきた。そしてその子を中心としたバンドを臨時に編成し、神戸の有名なオリエンタルホテルのビアガーデンに出演したり、宮崎観光ホテルへ演奏旅行に行ったりした。そしてかなり実力がついた頃、毎日放送ラジオのオーディションを受けた。当時の人気番組であった「ヤングタウン」だ。
オーディション会場では50バンド近く参加しており、とても無理だと思ったが、ハワイアンバンドが希少価値だったのかうまく合格出来た。この番組は斎藤努さん(現毎日放送ラジオ社長)が司会で、軽妙でテンポの速い口調が大変若者に受け、多くの受験生が熱心に聴いていた超人気番組だった。また、彼は台本に無いアドリブが持ち味で、型にはまった堅苦しい司会ではなく、全く新しいタイプの司会者だった。
本番では、横山やすし・西川きよしさんが若手芸人として紹介され、漫才、クイズ、トーク、そしてライブ演奏と盛りだくさんで、延べ4時間ぐらいの長丁場で、我々の演奏も8曲ぐらいやったと思う。しかし、後にオンエアされたのは、ワイカプと南国の夜の2曲だけだったのには驚いた。ワイカプはハワイのトラディショナル(伝統音楽)で、私は原曲は知らなかったが、すべてウラ声で唄った。しかしウラ声は音程をとるのが難しくフラットになりがちであった。オンエアされたのは、そのフラット気味のマズイものだった。後からテープで聴いても”やはり”と言わざるを得なかったし、他の先輩からも”ちょっと音程が悪いね”と言われた。”何もこの曲を選ばなくても他に何曲も演奏したのに!”と文句を言いたかったが、既にオンエアされてしまったので後の祭りだ。
しかし、なぜこの曲だったかは放送された内容を聞くと明らかだった。というのは、この曲は”ウィリー”という竹で作られた打楽器を使っており、その奏者は女の子で、斎藤氏は、この楽器を切り口に彼女にインタビューをし始めた。”この楽器は朝にお母さんが料理をしている時の軽妙な包丁の音に似ていますね?お料理もお上手なんじゃないですか?”という風な始まりで、その後だんだん話が変わって”女性が大学へ行くことをどう思いますか?”ということに発展していった。竹の楽器の音、お母さんの包丁の音、女性、そして女子大生と進学、という展開である。

ヤングタウン収録

番組の最後に南国の夜を演奏した。例のビブラホンのイントロをフルートで吹いた。この演奏は納得がいくものだった。特に、放送局のマイクロフォンは抜群の感度で、低い音も高い音も大変豊かな音質だったので、大変やりやすかったのを今でもはっきり覚えている。マイクの話で思い出した。もう1回だけ印象に残っているのは大阪音楽大学にボーカルとフルートでバンドとして招かれて出演した時だ。この大ホールのマイクもすごかった。特に、モニタースピーカーが天井にあり、それが歌い手の方向に向いていたので自分の声に酔ってしまったこともよく覚えている。
話が飛んでしまったが、その番組では、ドラムも叩いた。と言っても曲をやったのではなく、抽選の場面で1フレーズだけやったのだが、”1万円の抽選!”と女の子が叫んだ後にドコドコドコとやらなければならなかったのに少し間が開いてしまった。その後斎藤さんが、”別にドラマーじゃないんですが、前田清悟さんがぜーひ叩かせて欲しいと言うので叩かせてあげました”と言われ、なんか下手なのにやらせてもらったという感じがモロにしたのでとても恥ずかしかった。(”楽曲コーナー”に曲を掲載しています

<大学紛争勃発、そして自活>

2年生の頃から大学紛争が激しくなってきた。学生運動がエスカレートし、東大の安田講堂占拠事件等いろんな紛争が全国各地の大学で頻発した。我が校も、全共闘系と民生系の学生団体が激しく対立し、我々寮生は、大学の図書館に籠城し“大学を守る”為に動員された。しかし、実際に図書館の中に入って驚いた。図書館の棚には本は無く、床に散らばっているではないか。それも上から踏みつけたりした為本としての体裁は崩れ、バラバラになっているものも多数あった。これには大変憤りを感じた。大切な蔵書をなぜこのように扱うのか。「“大学を守る”なんて、ウソっぱちだ!本来きちんとしなくてはならないのに、暴れているだけではないか!」と寮のリーダーに文句を言って寮から出て行った。

私は男ばかりの5人兄弟の一番下だった。先にも述べたように、家は貧乏で、上の4人は下の弟達の為に家計を助けるべく大学へは行かせてもらえず、中学、或いは高校を卒業したら直ぐに働いていた。だから、自分だけノウノウと親のスネをかじる訳にはいかなかった。
寮にいた時、前に書いたように夏休みは百貨店の配達のアルバイトをやった。また、最も過酷といわれた“沖仲士”の仕事もした。これは、船から降ろした70kgぐらいの輸入コプラの袋を2人が息を合わせて手カギでチョンガケしてベルトコンベアからトラックの荷台へ放り上げるのだ。二人の息が合わなければ荷物が落下してしまう。コンベアは連続的に動いており身体を休めることが出来ない。過酷な肉体労働なので日当は普通の3倍あった。しかし他の学生は3日ともたなかった。私は何とか所定期間(3週間)続けることが出来た。身長161センチの小柄できゃしゃな身体なのになぜ続いたかというと、それは小中高時代の農作業で鍛えられたからだと思う。それも夕食もとらずに夜10時過ぎまで働いていたので耐久力がついたのだ。しかし、最終日に足がすべってベルトコンベアが回っているところに足が滑ってはさまれた。すぐに親方が停止ボタンを押して回転を止めてくれた。ズボンは破れ右足は血まみれになったが、幸い全部すり傷で済んだ。親方は、私に“すまないが、これで済ませてくれ。病院には連れて行きたいが、行くと保険がないので大変なことになるんや”と言い、3000円(当時の普通の日当は1000円)を私のポケットのそばに差し出した。親方の風貌は、劇画に出てくる厳しい顔をした野武士のようだったが、その時は普段とは違い弱々しく苦渋に満ちた表情だった。私は学生だったので分かっていなかったが、今思うと“大変なこと”とは、こんな場合は労災の届が必要で、届けたら“業務停止”の可能性があったのだと推察する。彼らにとって働けなくなった場合は、日雇いなので直接生活に響き、アルバイトの事故は隠さざるを得なかったのだ。

パチンコ

また、冬休みになって稼ぎが良いからと友人に誘われてパチンコ屋の住み込みのアルバイトをした。朝9時から夜10時までパチンコ台の裏の幅60センチぐらいの細長い通路に座り、お客さんから“玉が切れたぞ”と言われたら、上から顔を出して“補充します”と言ってパチンコ玉を補充するのだ。当時は、今と違って玉を1個ずつ左手で台の穴に押し込み、右手を使ってバネをはじくスタイルだった。釘師という職人がいて、台に打ち付けている釘を特殊な器具を使って調整していく。パチプロと呼ばれるお客さんは、朝一番に釘の状態を見ていくつかの台の上に素早くタバコを置いて権利を確保し、順番に打ってみる。そして“これは”という台が見つかったら初めはあまり出なくても、夕方には出玉はドル箱一杯になり、ついにはパンク(終了)台にしてしまう。彼等は、台と勝負するというよりむしろ釘師との戦いだ。パチンコ台の中は騒音でうるさい。また退屈なので本を読んでいたりすることが多かったが、退屈しのぎに“台を立てる”のだ。普通パチンコ台はやや打ち手(客)の方に傾いている。“立てる”というのは、パチンコ台を反らしてより垂直にし、釘の根元に玉が当たるようにするのだ。そうなると今まで出ていたのがピタリとやむ。あるお客さんが何度かパンクさせていたので、その方法をやったがダメだった。彼等は少々台が立っていても確実に玉が出る台を選んでいたのだ。やはりプロはスゴイ!の一言であった。
アルバイトの最終の日に給料をもらいに行ったら、若衆が、“お前らに払う金は無い!”と言い放った。他に3人同僚がいたが黙っていた。私は、“払われへん言うてどういうことや。あんたら学生相手にそんなことして良いんか”と言い、しばらくにらみ合いになった。すると横にいたおばちゃんが、“そら、この子の言う通りや。払ろたりぃ。”と若衆に命令した。このおばちゃんは女ながらに鋭い目つきだった。社長の奥さんだった。今思えば、もしそのおばちゃんがいなかったらと思うとゾッとする話だ。
寮を出てから、朝は牛乳配達、夜は家庭教師をして生活費を稼いだ。もちろん昼間は学業とクラブ活動である。そんな生活が3年間続いた。

<ボサノバへ転向>

大学3年になって当時ブラジル66等のボサノバが流行っていたので、ハワイアンとは別にボサノババンドをやり始めた。コンスタントレイン、ソーナイス等々の曲をフルートでやるのだ。ちょうど新入生に女性ボーカル志望の子が入ってきた為、うまくバンドが組めた。この女性はなかなかセンスがあり、私が退いた後も大変活躍したと聞いている。

<ロックバンド編成>

ロックバンドでのフルート演奏

大学4年になって、軽音楽部のバンドのあり方に疑問を持ち、同じように不満を持っていた3人とロックバンドを編成し、何とヘビーロック的な曲をやっていくことになった。レッドツェッペリンとかのハードな曲をやるのだが、音負けするフルートにはきつく、マイクに思い切り近づいてあえて半分音割れさせて吹くのである。このバンドでは、西宮市民会館でジャニスジョップリンのムーブオーバーとか、変拍子のオリジナル曲を引っさげて出演した。このステージでは、プロのバンドや市内のアマチュアバンドが出演し、浜村淳さんが司会、ゲストには漫才のレッツゴー3匹さんらも出演していた。このステージも大変印象深く、以後の“音楽的ヤル気”につながったと思う。

<卒論〜電気はなぜ起こるか?〜>

卒論〜電気はなぜ起こるか?〜実験風景

私の専門課程での大学生活は特異だった。教育学部の中の中等系理科という分野だが、さらに物理、化学、生物、地学等専門分野に分かれ、私はただ1人物理学科に進んだ。
物理学科には、教授、助教授、助手の3人の先生方がおられ、物理の授業は、1人で受けていた。もし私が欠席したら休講にせざるを得ないので休む訳にはいかなかった。
そういう中で、4年生の卒業論文の時期になり、「なぜ電気が起こるのか」をテーマとして選んだ。あまりにもぼう漠とした、かつ原理的というか根本問題に挑戦することとなった。
実験としては、いわゆる「静電気」をいろんな環境下で発生させた。“空気が摩擦によってプラスとマイナスに分離するのではないか”と仮説を立てて、“摩擦”で電気を起こす。
さらに、限りなく真空に近い環境ではどうなるのか?つまり、空気が無い状態で摩擦によって静電気は起こるのかどうかである。これは“宇宙”に行かない限り実験は出来ないのではないかと思ったが、先生方のご指導、ご支援によって超真空の空間を作る装置を作り、ほぼ真空のビンの中で摩擦電気を起こす実験を行なった。そうするとやはり静電気は起こった。“空気が分離”という仮説はみごとにはずれた。しかし、宇宙のような真空中でも摩擦電気が起こるということを“実際に証明”出来たのは有意義なことだった。次に実験結果を論文としてまとめる作業に入った。しかし、朝の牛乳配達、昼の学業、とバンド活動、そして夜の家庭教師と、かなりハードな生活が続き、ついに卒論を書き終えた1月にダウンしてしまった。そして朝の力仕事がたたって痔になり、3月に手術をしなければならなくなった。結局1カ月入院したことで卒論の発表会に出席出来ずじまいだった。なんとも残念な結末になってしまった。

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