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大植英次のマーラー交響曲1番2004年4月16日チャリティーコンサート

  →別掲

1

大植英次のブルックナー2007年4月26日  第49回大阪国際フェスティバル

今年も、大植英次/大阪フィルは大阪国際フェスティバルに参加した。
曲はブルックナー作曲交響曲第8番
二つの意味で興味深い選曲だった。
ひとつは、大阪フィル音楽監督就任2年目の定期で一度取り上げ、胸をわくわくさせて聴いたが、今ひとつ共感できない演奏だった。でもそれから3年近い年月が経ち、オケを大植色に大きく変えることに成功した今どんなブルックナーを聴かせてくれるか?
もうひとつには、今まで慣れ親しんできた朝比奈隆のブルックナーも、何度も同じものを聴いているとどうしても新鮮味は薄れてくる。音楽というのは、今この瞬間の音が、生の音が一番。新しいブルックナーを求めて止まないのはファンの偽らざる心境。

そこで大植英次に期待したいのだが、前回の演奏から判断すると、彼とブルックナーの音楽はちょっと違うんじゃないかという思いが消えない。
マーラーやショスタコーヴィチなどは素晴らしい演奏を聴かせてくれるけど、ブルックナーの朴訥とした音楽は全く別の世界を持つ音楽。
あまりいい例えではないけど、短距離選手が一流のマラソン選手になることができない、それと同じことが言えるのかもしれない。

そんな思いでこの日の演奏会に臨んだ。

弦のトレモロが始まる・・・その瞬間、誰かの携帯の音で大植はすぐに中断。
なんとも興ざめなことが起こってしまった。
この日の聴衆は大半がブルックナーの一曲に集中するために会場に来ている。あまりにも無神経な一人の人間が会場の雰囲気を壊すことになったのは残念!

気を取り直して再び集中、あのブルックナーサウンドが低弦の湧き上がるようなテーマを開始。
いつもの大植英次らしく決して力が入りすぎず、それでいて必要なエネルギーは十分兼ね備えたいわば大人の音楽を感じさせる。
第一主題との対比を意識するためか、第二主題は非常になめらか。そこまでエレガントに演奏しなくてもいいのにと感じてしまう。
それでも第三主題の雄大さと再現部のあとの静けさの表現は素晴らしく、このあとの楽章に期待を持たせてくれる。
第二楽章スケルツォは大植英次に一番合った楽章のように思う。楽しみながら指揮してる様子が顔の表情にも表れている。
後半のスケルツォ再現部ではゆったりしたテンポで少し大げさな田舎の踊りというイメージで、これはこれで悪くない。
次いで第三楽章の長大な叙事詩。大植英次の演奏は素晴らしさと少しやりすぎという両面が同居してしまう。
息の長い音楽を実にゆったりと大きな息遣いで演奏してゆくところは素晴らしい。最近の大植英次はこういった音楽を今まで異常に丁寧に大きく演奏するようになってきた。オーケストラの弦楽器群が彼の要求する音楽をこなせるようになったからじゃないだろうか。
ここでも息の長い静かな音楽が、緊張感を保ちながら訴えかけてきていた。
そして長いフレーズのあとに長いゲネラル・パウゼ、非常に効果的な静寂の時をもたらしてくれた。
ここまではいいのだが、ゲネラル・パウゼをこの楽章と終楽章で何度か使うことになる。一度だけなら大きなインパクトになり効果も大きいのだが、何度も使うとブルックナーの音楽をとめてしまうことになるし、単なる効果狙いという印象にもなりかねない。
でもこの楽章、全体としてはブルックナーの音楽の大きさを実感させてくれた。
終楽章は大植英次の持ち味が生かされ、大きく高揚する部分のスケール感も申し分なく、また中間部の静けさも十分あった。
但しこの楽章、前回の時の不満が今回も解消されなかった。後半、大きく盛り上がってゆく時にテンポを速めて先へ先へと急ごうとする。徐々にアッチェレランドして少し速くなる位なら非常に効果的だと思うのだが、ブルックナーの音楽の<大きさ>を少し殺してしまうような逆効果になるように思えてならない。
第7番はそういう部分もなく、ブルックナーを堪能させてくれたのだから、この曲でもそういう演奏を聴かせて欲しいというのが私の切なる願いです。

でも、この曲をここまで聴かせてくれたことは喜ばしいことには違いありません。
過去の演奏はそれがいくら名演であったとしてももう聴くことは不可能。録音はあくまで<記録>であって、新しい音はもう出てこないのです。今を生きる演奏家の音楽を<生で聴く>、これが一番大切なこと。

大阪フィルの演奏は、朝比奈のブルックナーにいつまでもこだわるのじゃなくて、大植英次の元、新しいサウンドを響かせてくれたことに感謝したい。
ただこの日の演奏で、ホルンが絶好調だったらもっともっと感動的なものになってたと思う。ワーグナー・チューバが頑張っていただけに少し残念だった。次を期待しよう。
 
会場となった大阪フェスティバルホール、シンフォニー・ホールとちがって音が響かない。
シンフォニーホールの響きに慣れてくると、このホールで聴く音楽は少しきつい。
来年の秋取り壊されることになっているが、音楽専用ホールとしての再建を期待したい。

(2007.5.6)
           

ベートーヴェン作曲交響曲全曲演奏会-〔Ⅰ〕 (2007年6月5日
  -大阪フィルハーモニー交響楽団創立60周年記念公演-

交響曲第1番ハ長調作品21

交響曲第2番二長調作品36

交響曲第3番変ホ長調作品55
     “英雄”(Eroica)


    大植英次指揮大阪フィル  
 <2007.6.5-シンフォニー・ホール>

ベートーヴェンの交響曲といえば、朝比奈隆指揮大阪フィルの演奏を抜きにしては語れないほど大きな存在である。
何種類もの全曲盤が残されていると言う事実が、その価値の大きさを物語っている。
世間の評価がどうであれ、私にとっては二人の指揮者の演奏が基本であり宝でもある。
まず、フルトヴェングラー。
1940-50年代の録音でもちろんモノーラル。音の状態も決して満足できるものではないが、ベートーヴェンの世界を初めて教えてくれた幾つかのレコードは今でも一番大きな柱です。
それに次ぐのが朝比奈の演奏。
フルトヴェングラーのような激しさ、劇的な高揚感はないが、音の重み、ベートーヴェンの逞しい音の構築物を実感させる凄みがある。

そんなベートーヴェンの交響曲全曲演奏を大植英次と大阪フィルが取り組むという。
その発表があったとき、いろんな思いが交錯したことを今でも覚えている。
朝比奈から受け継いだ大阪フィルを短期間でより素晴らしいアンサンブルに仕立て上げた大植英次の手腕は大したものであると感心している。
五年で大阪フィルを自分の手兵とした大植英次、ここでオーケストラのレパートリーの核とでも言うべきベートーヴェンの交響曲をどう演奏するか?彼の本当の実力を測る物差しとなるはず。
逆に言うと、我々を納得させるベートーヴェンが演奏できる音楽監督であって欲しいという思いがそれだけ強いということ。

大阪フィルのベートーヴェンと言うと、年末恒例だった≪朝比奈の第九≫が思い浮かぶ

年末の第九は大阪だけじゃなく日本の行事として定着していて、朝比奈も毎年演奏していた。
私は個人的にこの種のお祭騒ぎが好きではないので、過去一度行っただけ。

では、大植英次はどうなのか?
考えてみれば、大阪フィルの音楽監督就任以後一度も年末に第九を演奏していない。
大阪フィル側から申し入れはあったが、大植が引き受けないというのが事実のようだ。


 「第九は特別な作品なので、年末恒例という形ではやりたくない」
また、
 「チクルスというのは、お客さんにとってはとてもわかりやすいけれど、音楽的にはあまり意味がないと、僕自身は思っている」という考えも持っていたようだ。
こんな大植英次が、大阪フィル創立60周年の今年、ベートーヴェンの全曲演奏会を決断した背景には何があるのだろうか? まして最後の第九はまさに年末になるが・・・・?
それを解く鍵になる(?)発言がある。
 「大フィル音楽監督就任五年目でベートーヴェンに取り組むには適切な時期。」
 「やるなら、第1番からきっちり順番にやっていく。」
 「イベント的に短期間に全曲やるのではなく、1年かけて、ひとつずつ取り組んでいく。それならば意味がある。」


昨年くらいから、大阪フィルが完全に大植英次の思い通りの音を出せるようになってきたように感じるし、両者の想いが一致した時の響きには聴き手に戦慄を覚えさせるような瞬間をももたらすようになり、いわば<蜜月時代>に入ったようだ。
つまり大植英次にとってもやっとベートーヴェンと真正面から取り組める時期が来たという判断が出来たのだと思う。


その大植英次のベートーヴェン、実は今回が初めてという訳ではない。
2005年3月にいずみホールで第4番、翌4月の定期で第7番を、そして2006年9月のイベント<大阪クラシック>の総決算として第3番を聴いている。
それらの演奏は、一言で言うなら一長一短。
3番は素晴らしかったが、7番ではやや不満の残るものだった。
ブルックナーの演奏でもそういうことがあり、オーケストラ音楽の一番メインとなるドイツ音楽にやや不満がぬぐいきれないもどかしさを感じていた。
それゆえこのチクルスが発表された時、聴きに行くかどうかずいぶん迷った。
でも、バイロイトを経験し、年齢も50歳を過ぎた今の大植英次と、かつての勢いを取り戻すと共にあらたな魅力を発揮するようになってきた今の大阪フィル、この両者ならば、朝比奈を意識することなく新しいベートーヴェンを聴かせてくれるかも知れない。
意を決して、全4回通して行くことにした。

前置きが長くなったが、大植英次/大阪フィルのベートーヴェン・チクルスの初日。

普通の演奏会だと一日に2曲ということになるが今回は3曲、それも番号順ということなので時間的にはやや長い。
まずオーケストラの配置。第1・第2ヴァイオリンが左右に分かれ、チェロは第1ヴァイオリンの隣、そしてヴィオラと並ぶ。コントラバスは管楽器の後、舞台の最後列に横一列に並ぶ。管楽器は中央に木管群、左にホルン右にトランペット・トロンボーンが並び、その右端にティンパニーが座る。
まず第1番、意外とオーソドックスに始まる。なんの衒いもなくやや速めのテンポで若きベートーヴェンの音楽にぴったり。
この1番・2番ともに、古典派の枠内にある音楽で、大植英次の指揮はその様式をしっかり踏まえたもので安心して聴けた。
最近の傾向からすれば、古楽器の演奏法を取り入れ、メリハリの効いたものが多いが、大植英次はそうじゃなくて、ベートーヴェンの書いた音楽を現代のオーケストラでしっかり表現することに徹しているように思える。
弦楽器のリズムをはっきり刻み、心地好い響きだった。
第1番の終楽章の第二主題になると、リズムに合わせて指揮台上で得意の(?)尻振りダンスをするなど、大植英次も演奏を楽しんでいる。
第2番の終楽章も、若いベートーヴェンの音楽の楽しさを味わわせてくれた。ここではのちのベートーヴェンを暗示するようなしつこさが少し顔を出すが、大植英次の演奏は若さの爆発になるようだ。
今回のメインはなんと言っても後半の第3番。
前半の2曲が共に30分くらいの曲だが、これは50分を越える大曲。古典派のシンフォニーの倍くらいの時間を要する。
 それまでの交響曲と大きく違うのはまずその構成。
第2楽章は通常アンダンテとかラルゴという静かな美しい音楽になるが、この曲は<葬送行進曲>。やさしさ・美しさとは無縁の、悲しみの音楽。
そして終楽章。これも通常軽やかなロンドやソナタ形式の明るい音楽が多いがこの曲は<変奏曲>、それも自作のテーマを自由に変化させるという誰も考えなかった音楽。
 もう一つ大きな特徴は、ソナタ形式の中間にくる展開部の充実。
モーツァルトやハイドンの展開部は比較的あっさりとしたものが多く、比重は主題を提示する部分(提示部)にあったが、ベートーヴェンはここに来ていよいよ彼の本領を発揮してくる。最初に提示した主題(テーマ)を次々と変化させてゆき、彼の執拗さ・執念を見ることが出来る。
ということで、今回の演奏を聴くポイントとして考えていたことが二つ。
まずは、ベートーヴェンの書いた異色の<葬送行進曲>を大植英次はどう演奏するか?
そして、第一楽章の展開部をどれくらい鋭くえぐってくれるかという二点。
順を追ってみよう、まず出だし。オーケストラが全奏で和音を二つ演奏するが、やや速めのテンポで比較的あっさりと始まる。提示部はどちらかと言えば淡々とした流れ。
そして展開部に入ると演奏にも熱が入る。ベートーヴェンの執拗さ、執念深さが展開されてゆく。オーケストラも熱演で、大きな盛り上がりを構築してゆく。
 問題の第2楽章、葬送のテーマを淡々と演奏、浅川さんのオーボエが哀愁を漂わせる。
そしてこの楽章も中間部で大きく展開される。ゆったりとしたテンポのテーマがセカンド・ヴァイオリンから始まり、フーガ風に展開してゆく部分はこの楽章の聴き所で、ヴァイオリンを左右に分けた効果がはっきり出た。
第三楽章のスケルツォ、生き生きした音楽でありながら決して先を急がない大植英次の進め方がいい。ホルンも好調。
終楽章の変奏も、それぞれの特徴がきちんと整理されており、安心して音楽に身を任せることが出来た。変に効果を狙ってテンポを大きく変えたりしがちだが、大植英次はそうはならない。
コーダの盛り上がりも申し分ない。
昨年の大阪クラシックの一大イベントの締めくくりとして聴いた、あの名演に勝るとも劣らないこの日の演奏に拍手を送りたい。


大植英次のベートーヴェン、まだ最初の3曲だけでは判断しかねるけれど、次回の中期の傑作3曲への期待が大きく膨らんできた。
決してこれ見よがしの演奏ではないし、派手さはないかもしれないが、ベートーヴェンの音楽を一つ一つ着実に音にしてゆこうという姿勢が好ましく感じられる。

 余談だが、演奏会が始まる前、満員になった会場を見渡した時、入り口付近に大阪フィルのフルート奏者、野津さんが私服で立っていた。この日非番で客席で聴くためかな?

3

巨匠のすごさを再認識
シューマン作曲

交響曲第4番二短調作品120


フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル

     <1953.5.14録音>
 大阪フィルの定期演奏会でこの曲が下野竜也の指揮で聴き、若々しくスピード感あふれる好演だった。
この演奏会の前後にいくつかの演奏を聴きなおしてみた。
まず演奏会前に、シャイー指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の放送録音を i-Pod に入れて、主に曲の構成などを確認するために何度か聴いてみた。
そして直前に、チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルのこれも放送録音を一度聴いてみた。
前者は特にここがという感想もなくただ曲を聴いていただけなのに、チェリビダッケの演奏は全く違う。非常に穏やかに始まるので、おとなしい普通の演奏のようだけど、響きがものすごく透明なのにまず驚く。
ピッチをあわせるだけで相当の時間を取ることのあった練習風景からすればこのような澄んだ響きは当たり前かもしれない。でも音楽が進んでいくと、こういう音がシューマンの本来の音かもしれないと思わせるから不思議である。
とにかくこの人の演奏はいろんな意味で別格。
 
そして生の演奏を聴き、一週間経ってその演奏会の感想と曲の説明をホームページに書き込んでいると、どうしてももう一種類の演奏が聴いてみたくなった。

 フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル

ただ、この演奏はCDでは持ってないのでLPレコードでということになる。
レコード棚のどこにあるか探さなくてはならないし、プレーヤーもまともに動くか不安・・・・
やっとの思いで引っ張り出し、プレーヤーの接続もチェック、準備OK!
この演奏を聴くのは何年ぶりだろうか?
CDばかり聞く様になってもう20年くらいになるから、四半世紀くらいの年月が経過しているはず。
聴いてみて、というより聴き始めるとすぐに、<ああ、こういう演奏だった>と、昔のイメージが蘇って来た。
それと同時に、<ああ彼はここをこういう風にやってたのか>、という新しい(?)発見もあってうれしかった。
聴き終えての感想は、やはりこの曲はこういう演奏が一番好きだということ。
若い下野の溌剌とした演奏もいいが、フルトヴェングラーの巨大な演奏と比較すると、やや作為的な印象になってしまう。音楽のスケールの違いが出てしまう。
シューマンの交響曲は、オーケストレーションに問題があるといわれ続けてきたけど、こういう演奏を聴くとそんなことを微塵も感じさせない。

 音楽の聴き方、演奏の好みは人それぞれ。いろんな演奏を自分なりに楽しめばいいけど、私にとっての音楽の原点は、やはりこの人、フルトヴェングラーにあるんだなということを再認識しました。


音楽雑誌の『レコード芸術』誌、7月号にこのシューマンの交響曲第4番の聴き比べしてる記事があります。題して、≪現代名盤鑑定団≫。

ベートーヴェン作曲交響曲全曲演奏会-〔Ⅱ〕 (2007年8月31日
  -大阪フィルハーモニー交響楽団創立60周年記念公演-

交響曲第4番変ロ長調作品60

交響曲第5番ハ短調作品67
     “運命”

交響曲第6番ヘ長調作品68
     “田園”


    大植英次指揮大阪フィル  
 <2007.8.31-シンフォニー・ホール>

ベートーヴェンの最も充実した時期の交響曲3曲を一晩にというプログラムは意表をついたもの。
曲の性格から考えると、4→6→5という順序で演奏するのが普通の考え方だろう。
明るく古典的な4番、のんびり・爽やかな6番で前半を終り、これぞシンフォニー!という5番で締めくくるのが普通考えられるプログラミング。
この日は番号どおりに演奏。
ということは、前半に圧倒的な盛り上がりを持ってきて、後半にガラッと趣を変えて和やかな音楽で締めくくることになる。
こういうパターンにあまり慣れてないので少し違和感があるが、別の見方をすることも可能で、迫力という展では5番“運命”には勝てないけど、ベートーヴェンの心の優しさを感じられる音楽として、6番“田園”がメインの音楽会と捉えることも可能なのでは・・・

もう一つのポイントは、大植英次のベートーヴェン演奏はどういうものなのかという点。
今まで聴いてきた大植英次のベートーヴェンは、決して効果を狙った派手なものではないし、かといって何の特徴も無い平凡なものかというとそうでもない。
私にとってのベートーヴェン演奏の原点とも言うべき、フルトヴェングラーのような力強さ・崇高さを感じさせるものではないし、朝比奈のごつごつした手作りの音楽でもない。
7番の演奏を数年前に聴いてるが、この演奏は手放しで褒められるというものではなかった。又4番もこれと言って特徴のある演奏でもなかった。
そして前回と昨年の二回の3番“英雄”、これは力のこもったいいベートーヴェンだった。
ベートーヴェンの演奏で、その真価が問われるのはなんと言っても<奇数>番号のシンフォニー。
今のところ1勝1敗(こんな表現していいのだろうか?)、今回の5番が試金石となるかもしれない


最近の英次の演奏から判断して、
≪彼に向いてるのは5番より6番、ベートーヴェンよりシューベルトの音楽じゃないだろうか?≫-というのが聴く前の私の予感。

5番をどういう風に聴かせてくれるかが一番のポイントだが、<感動的な>第5はまだまだ先のことかもしれない、でも6番で素晴らしいベートーヴェンの一面を認識させるような音楽を披露してくれるかもしれない・・・・・
結果はほぼ予想通り。

まず最初の曲、第4番から。
緩やかな序奏がゆったりと流れ始める。速すぎることなく、遅すぎることもない。
時に単調になりやすい部分だが、淡々と流れる。
序奏から主部のアレグロに入って音楽は生き生きとしたリズムを刻むようになるのだが、このつながりが大植英次の場合非常になめらか。
力みすぎると流れが急に変わったような違和感を持つことになるケースがあるが、ここはそんな心配は要らなかった。
生き生きとしたリズムはこの曲の生命線、大植英次の指揮はこれを最後まで崩さない。
第2楽章のアダージョも、引きずるような重さもなく美しいし、躍動感あふれるスケルツォ楽章も弾むような独特なリズムが心地好い。
終楽章も軽快に、しかし決して急ぎすぎることなく楽しい音楽が聴けた。
 全体に、リズムを生かした快適な演奏で、特に目立った特長はないけど安心して聴けるベートーヴェンだった。

次に第5。
いきなり意表をついた演奏に釘付けになる。
例の、
<タ・タ・タ・タ-ン><タ・タ・タ・タ-ン>という運命の動機で始まるのだが、この最後のタ-ンの部分は二つともフェルマータが付いていて音を伸ばすことになっている。普通は、最初の部分を少し延ばし、二度目のフェルマータはそれよりも長めに伸ばすように演奏される。
<タ・タ・タ・タ--ン><タ・タ・タ・タ---ン>というイメージ。そうすることでこの主題がこの第5のイメージを決めてしまうことになる。
ところが大植英次はこのフェルマータをほとんど延ばさないであっさりと先に進むのである。そして
<タ・タ・タ・タ-ン>が終り、間髪を入れずつぎの<タ・タ・タ・タ-ン>に進んでしまう。
極端に言えば、
<タ・タ・タ・タン:タ・タ・タ・タン>となってしまう。
多分大植英次はこの第一主題は、二つの動機から出来てるんじゃなくて、この二つの動機は連続したもので、二つで一つと捕えているのだろう。同じ音型二組で一つのテーマとすることがこの曲では大事なんだというアピール!
昔から物々しい動機として意識過剰になってる耳には一瞬「アレッ?」という戸惑いがあり、やや狐に包まれたようになってるうちに音楽はどんどん進んでゆく。
これも一つのやり方かもしれないとは思うが、
<タ・タ・タ・タ-ン>という音型は重みのあるもの。軽く流れるような音は似合わないと言うのが私の正直な感想。
その部分を除けば、オーケストラの熱演もあり立派な演奏。特にオーケストラの各パートを鳴らしきる力強さは感じられた。
大植英次は、かつてのセル指揮クリーブランド管弦楽団のような演奏を理想としていると聞いたことがあるが、ベートーヴェンでもオーケストラのアンサンブルに非常に気を配っている様子がありありとしていて、大阪フィルの能力を高めたことがはっきり証明された演奏。
第2楽章が少し速すぎるかなと感じた以外は、しっかりした第5だった。
ねがわくは、多少アンサンブルが甘くてもいいから、“心の底をえぐる”ようなベートーヴェンを聴きたいという思いは残ります・・・・

後半は第6番<田園>。
前の第5とほぼ時を同じくして作曲された双子の妹のような作品で、これもいきなり第一主題がストレートに始まる。
優しい穏やかなテーマで、大植英次は身構えることなく非常に穏やかにこれを聴かせてくれる。これを聴いただけでこの演奏が素晴らしいものになることは疑う余地がない!
この<田園>という曲は、穏やかな流れが必要な曲、決して派手に演奏してはならない曲。
大植英次はこんな音楽にぴったり!
オーケストラをしっかり掌握して練り上げたアンサンブル、特に弦のアンサンブルが緻密であればあるほど効果の出る音楽。それを最後まで崩すことなく聴かせてくれた。
嵐の場面の迫力も決して弱くなく、かといって激しすぎることもない。
そして終楽章のロンド、非常に穏やかなメロディーが何度も出てきて聴くものの心を和らげてくれる、そんな音楽をベートーヴェンが書いたように演奏していた。
これだけボリューム満点の曲を演奏し続けてきていながら、最後の力を振り絞っている様子がひしひしと伝わってくる。
穏やかなメロディーを力いっぱいの熱演!



  
第4・・・古典的な整った好演
  第5・・・新たな解釈を模索
  第6・・・曲の良さを再認識させる熱演!


 次回の興味は第8。
演奏されることの少ないこの曲、実はすごく楽しい曲で、舞踏の権化とも言われる7番以上にリズミカルでワクワクする音楽。個人的にはベートーヴェンのシンフォニーの中のベスト3にはいる曲です。
6番に次いで大いに期待のもてる大植英次/大阪フィルの演奏になるはず・・・・・・・?


宇野功芳の第九 (2007年11月24日
  -アンサンブル・SAKURA-いずみホール


管弦楽 : アンサンブルSAKURA
合唱 : 大阪新音フロイデ合唱団
独唱 : (S) 石橋栄美
        (A) 田中友輝子
      (T) 竹田昌弘
      (Br) 藤村匡人

アンサンブルSAKURAはアマチュアのオーケストラ。
日大管弦楽団のOBたちで結成されたものが土台になっている。



常に歯に絹を着せない評論を音楽雑誌で披露している宇野さん。
その宇野功芳指揮アンサンブルSAKURAによるベートーヴェンの第九演奏会が、大阪のいずみホールで行われた。
宇野さんといえば、我々が一番良く知っているのは音楽評論家として。
特に“レコード芸術”誌で馴染みの深い人である。
その論評は非常に明快で、<いいものは良い><芸術にとってなにが大事か、それがすべて><表面上綺麗でも、魂に響かないものは芸術でもなんでもない>など、聞き様によっては非常に傲慢かもしれないし、万人向きではないかもしれない。
カラヤン・小澤・アバドなど、世界的に有名な指揮者でも彼は評価しない。
一方で、朝比奈隆・ムラヴィンスキー・クナッパーツブッシュなどは、最高の芸術家として高く評価する。
ベートーヴェン・ブルックナーを演奏させたら世界で3本の指に入る人として朝比奈を高く評価し、朝比奈がここまで高い評価を受けるようになったのはこの宇野さんがいたからといっても過言ではない。
一言で言えば、<魂に響いてくるものでなければ音楽じゃない>ということかもしれない。
そんな評論家としてのほかに、というより本来の仕事は合唱指揮者。
コーラスを指揮し、レコードの演奏評を続けていた彼が、自分の最も尊敬する音楽家であるベートーヴェン・モーツァルト・ブルックナーを自分で演奏してみたくなるのは当然の成り行きだったのかもしれない。
アマチュア・オーケストラをはじめ、プロのオーケストラにも進出し、独特の解釈で演奏を積重ねてきたようだ。

始めてその演奏に接したのは2000年7月、今回と同じオーケストラで曲はベートーヴェンの交響曲第8番と第3番。
このときの強烈な印象は今でも忘れられない。
正直、アンサンブルはひどかった。アインザッツ(出だし)が合わないだけじゃなくばらばらの演奏というイメージ。でも熱意だけはひしひしと伝わってくる。
そして何よりすごかったのは、弾むようなリズムで進んでいくはずの第8がまるでブルックナーの壮大なシンフォニーのように巨大な音の塊となってゆく。
この日のメイン、第3番“英雄”よりも壮大な音楽となるなんて考えもしなかった。
こんな演奏でいいのだろうか?こんな解釈がはたしてベートーヴェンに合ってるのだろうか?皮を突き破るんじゃないかと思うくらい強烈にティンパニーを叩いて、これがあの可愛い第8の演奏といえるのか?
第3の演奏、1時間くらいかかってるんじゃないだろうかと思うくらいテンポが遅く、いくらなんでもやりすぎでは・・・?
などなど、正統派の演奏会じゃないことは確か。
でも、そのティンパニーの一撃がなんとも強烈に心の奥まで突き刺さってくる。
これが演奏という一回きりの行為の一番の目的なんですよ・・・・宇野さんはそう言いたかったのかも知れない、などと考えさせられる。

2度目の宇野さんとの出会いは、2005年4月の大阪フィルを指揮しての演奏会で、曲はモーツァルトの交響曲第40番ト短調とベートーヴェンの交響曲第5番“運命”。
前回の強烈なイメージがあるので、このときの演奏はそれに比べると大人しいもの。

そして今回は曲がベートーヴェンの第九、これはどうしても聴いてみなくては!
実は宇野功芳さんは今回の第九演奏について自分の思うところを事前に書かれていた。
要約すると、
 ○第九を演奏するのは大変なこと、特に第一楽章が困難を極める。
  眼前に巨大な壁が立ちふさがってるような音楽で、下手に動かせば失敗する。
 それでもやるからには<内容を抉りに抉る>ことが大切。
 ○四楽章で、前3楽章を回想しそれらを否定し歓喜の主題を歌うことになるが、
  それら3つの楽章の終わり方に注目。
  いずれも完結する終わり方ではなくどこか不安定な要素を持ったまま終り、
  終楽章で完結しようというベートーヴェンの音楽であると見る。

そこで今回宇野功芳さんが初めての試みとして考えたことが3つ。
1.第一楽章のエンディングを、終結感を出さないまま終わる。
2.終楽章で、前3楽章のテーマを回想しそれを低弦が否定してゆくレチタティーヴォの部分の
 第三楽章のテーマ、原曲では木管で出てくるが元の楽章では弦の優しいメロディー。
 だからこの部分を弦でやってみる。
3.終楽章の声楽陣の舞台への登場の仕方を考え直す。
 最初からコーラスが並ぶのも大変だし、三楽章のまえに独唱陣が出て待ってるのも声楽的に問題がある。
 そこで、バリトンが<O Freunde!>と歌いながら舞台裏から始めて登場、歩きながら前段を歌い、
 歓喜のテーマを定位置で歌うのがベスト。

前もってこんなことを<レコード芸術>誌で語っておられた。
さて本番は・・・

第九の前に<フィデリオ序曲>。
オーケストラが緊張していて音がしっかり出ていない。予想通りと言ってしまえばそれまでだがちょっといやな予感がする。
でも中盤位からしっかりしたアンサンブルが出来つつある。

いよいよ第九、この曲の成否を決めるのは第一楽章だという宇野功芳さんの意見に全く同感!
混沌とした宇宙をさまよいながら決然とした意思を表すかのように第一主題が出てくる。この最初の部分の出来ががこの曲の演奏の成否を分けると思う。
出だし、もっとかすかな音を期待していたが出てきた音ははっきりとしたもの。宇野功芳さんの意図はピアニッシモだと思うが、アンサンブル・SAKURAにそれを期待することが無理だと思うのでしっかりしたピアノくらいの音ではじめたと思う。
これはこれで悪くは無い。第一主題のテーマをしっかり決めていたので、やろうという音楽の意図はしっかり伝わってきている。
アンサンブルもしっかりしてきて、前回感じた<アマチュア・オーケストラ>という意識も途中でなくなってきて、演奏に集中できたことは大きな誤算!
展開部から第一主題が強烈に戻ってくる部分では、オーケストラが一団となって大きな盛り上がりを作る。これはすごいと思った。
そして注目のコーダ。宇野功芳さんの予定通り、大きく盛り上がって行った後ディミュニエンドして“不安感”を抱かせて終わった。
これがいいのか悪いのか、判断は難しい。
ただ宇野さんの狙いはよくわかるし、実際聴いてみて、不安な状態で終わるとその先が興味深くなるのは事実。
失敗ではない。
そして第二楽章、スケルツォは生き生きした音楽。
宇野さんのことだからティンパニーが大活躍するんだろうなと思ってると意外とそうでもない。生き生きとした音楽が流れてゆく。
宇野功芳らしさはこの楽章の最後でも発揮された。ノーマークだったこの楽章の最後も一気に弱くして終わってしまった。
通常この部分、少し騒がしいような感じで終わるのだが、そういう喧騒のうちに終わってこそ、次の3楽章の穏やかさが生きてくるのではないだろうか。ここは従来どおりのほうが良かったようにおもう。
第三楽章は穏やかな音楽、テンポも程よいもので聴き手に訴えかける演奏になった。
この後舞台の照明が落とされ、合唱団が入る。このへんの演出もうまいものと感心した。単に舞台を暗くしただけなのに、中断している時間がそれほど長く感じないから不思議。

いよいよ第四楽章。導入部が終りすぐに低弦のレチタティーヴォ、チェロ・コントラバスの数が少ないにもかかわらずはっきりした音でホールに響き渡る。
金管がやや心もとないのはやむをえないところ。
そして問題の箇所、前3楽章のテーマがすこしづつ出てきては否定されてゆく部分である。
第三楽章のテーマは予告どおり木管じゃなく弦で演奏した!
作曲者は、低弦と絡む部分だからそれと対比するために木管にしたのだろうが、三楽章でこのテーマが弦に出てくる時の美しさをここにも出すべきで、その方が天国的な響きになるはずだと言うのが宇野功芳さんの考え。
聴いてみた感想は、ベートーヴェンのやり方の方を採りたい。
もう少し長くテーマが続くのなら弦の美しさが引き立つかもしれないが、実際に回想されるのはテーマのほんの一部分という短い部分なので、低弦と対比するには木管の方がよかったというのが私の意見。
そしてバリトン独唱は二階オルガン席の左から歌いながらの登場となる。
いずみホールの正面がオルガン席、その左端の入り口から<O Freunde!>と歌いながら登場し、歩きながらレチタティーヴォを歌いきる。そして正面の位置に着いて
<Freude, schöner Götterfunken---->と歌いだす。
バリトン独唱が終わる頃に残りの歌手3人が登場し4重唱に続く。
歩きながら歌うことに一抹の不安を抱いていたけど、バリトンの藤村さんは完璧にこの演出に応えてくれた。
4人の独唱も合唱団もこのホールにうまくマッチした歌を謳い上げた!
これもアマチュアのコーラスだから大したことはないだろうと思っていたのが、嬉しい誤算だった。
60人で歌う第九のコーラスがこんなにホールいっぱい響き渡るとは、正直思わなかった。
そしてこの楽章でのオーケストラはもうアマチュアだとか小編成だとかいうことを完全に忘れるくらいの熱演だった。というより、声楽が入ったときからオーケストラの存在を忘れていたのである。気がついたら、中間部のオーケストラの展開する部分。ここでの力演は賞賛に値する。プロのオーケストラにも決して引けをとらない素晴らしい演奏だったことは銘記しておきたい!

終わった時の感動は、私が今まで聴いてきた第九の実演の中で最高のものだった。
実験的な部分や、アマチュア・オーケストラの限界など、細かいことを取り上げれば問題が無いわけではないが、一番の問題は、演奏が心にどれだけ届いたかということ。

爽やかな感動に浸りながら帰りました。

ベートーヴェン作曲交響曲全曲演奏会-〔Ⅲ〕 (2007年11月29日
  -大阪フィルハーモニー交響楽団創立60周年記念公演-

交響曲第7番イ長調作品91

交響曲第8番へ長調作品93

    大植英次指揮大阪フィル  
 <2007.11.29-シンフォニー・ホール>

ベートーヴェン・チクルスの3回目は、交響曲第7・8番。
今回も番号どおりの演奏で、前半に7番を、そして後半が8番ということになる。
通常の演奏会なら、曲の性格上7番が最後になることがほとんどのはず。
前回も前半に5番後半に6番と言う順序になり、前9曲を順番に演奏してゆくというコンセプトだったのか、6番や8番が一日のコンサートの“トリ”としてふさわしいという判断なのかは定かではないが、多分前者の方だろう。

前回、予想通り6番の演奏が素晴らしかったように今回は8番のほうに大いに期待をしていた。
大植英次の音楽は、楽しく弾むような8番のほうがあってるような気がするし、あえて言うなら7番をそれらしく鳴らすような音楽作りじゃないように思えてならない。
でも、3番の演奏は素晴らしいものだったから、それを考えると7番も好演になるかもしれない。
そんな思いで今回の演奏を聴くことになりました。さて・・・

オーケストラの配置は今回も第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンを左右に分け、コントラ・バスは中央奥に横一列に配置。金管はホルンが右、トランペットが左。

まず第7番から。
最初のフォルテは力強い和音が響き、その後はゆったりした序奏が続く。
ゆったりしたテンポで決して急がず、フルートの吹く第一主題に流れてゆく。
ややおとなしいなと思っていたが、展開部に入るとオーケストラの響きは厚くなり力強さが感じられる。
コーダの低弦ははっきり聞こえ徐々に盛り上がって行くが、今ひとつ突き抜けるような力強さがあったほうが良かったように思える。
第2楽章は、やや単調な第一主題だがこれが変奏されると非常に美しい音楽になってゆく。大植英次の演奏は淡々と流れて、美しさは感じられるけれど、後半のデモーニッシュな部分でも同じように流れて、やや力感に不足する。
3楽章のスケルツォも力の抜けた、それでいて音楽の流れの非常になめらかな演奏。
ここまで聴いてくると、全ての力は終楽章のために取っておいたということかなと思わせる。
そしてその終楽章、ベートーヴェンの前へ前へと突き進むようなリズムが展開されてゆく。急ぎすぎず、落ち着きすぎずちょうどいいテンポで音楽は進む。
怒涛のようなコーダまで一気呵成に走りぬく。
オーケストラも健闘し、素晴らしい音楽には違いない。
でも、もう一つ何かがほしい気がしてならない。それは何?
言葉では表現しにくいけれど、聞き手の魂を根こそぎ持っていくような音の塊が欲しい。

6番の“田園”が素晴らしかっただけにこの日の8番は期待大だった。
<リズムの権化>と表現される7番に負けず劣らずリズミカルで、かわいくてウキウキするような音楽。これは大植英次にぴったりの曲だと思っていた。
大植英次/大阪フィルの演奏はややリズムが硬くて、もう少し柔軟性があってもいいなと思う出だし。
二楽章以降はリズムも軽く音楽もスムーズに流れてくる。
全体としてはほぼ満足の行く演奏だったが、リズムがすこし硬くなったり響きがやや散漫になってるように思えた理由を考えてみた。
オーケストラの編成が大きすぎるんじゃないだろうかというのが私の結論。
軽やかなリズムを刻むのにフル編成のオーケストラではすこしきついだろう。また小編成の方が響きにまとまりが出るはず。
特にこのシンフォニー・ホールの素晴らしい音響効果を考えると、小編成でも素晴らしい響きのベートーヴェンを十分堪能できるはず。



この日の演奏、そしてこのシリーズの演奏を振り返ってみると、大植英次の意図がすこし分かるような気がする。
ベートーヴェンの9つのシンフォニーを、書かれた通りに演奏することに徹しているように思えてならない。
それは決して悪いことではないし、ベートーヴェンの書いた音楽はこういう音なんだと聴き手に分からせることは演奏家として必要な態度だとは思う。
でも、何度も何度も耳にしているベートーヴェンの音楽を、常に新鮮な響きで聴くためには、もう一つ踏み込んだ意思の音を要求したくなる。
評論家の宇野功芳さんは、「聴いて退屈したり眠くなったりするようなベートーヴェンではやらないほうがよい。彼の音楽には演奏家が途方にくれてしまうくらい、まったく性格の異なる音楽が並び、極端から極端へと感情が動く。それを演奏家は宙に舞い上がって捉えなければならない」というプレトニョフ(ロシアのピアニスト・指揮者)の言葉を引き合いに出す。つまり、ベートーヴェン演奏にスマートさは必要ないというのである。
全く同感! ベートーヴェンは綺麗な音楽を望んではいないと言えば言い過ぎか・・・?
そういう感覚で大植英次のベートーヴェンを聴くと、どこかもどかしさがある。
指揮者としてはまだまだ若手の大植英次、もっと若さを前面に出してベートーヴェンに挑戦する!と言う位気迫のある演奏を期待したい。

もう一つ気になったのはこのチクルス、大阪フィルの記念行事ということもあってTVカメラが何台も入り、録音もされている。
どんな形で公開されるのか分からないが、記録に残すための演奏、何度も繰り返し聴かれることを意識した<綺麗な>演奏に終始しているとしたら・・・・・
もちろんそんなことは無いと思うが・・・・・



ベートーヴェン作曲交響曲全曲演奏会-〔Ⅳ〕 (2007年12月29・30日
  -大阪フィルハーモニー交響楽団創立60周年記念公演-

交響曲第9番ニ短調作品125

    大植英次指揮大阪フィル  

<2007.12.29・30-フェスティバル・ホール>

この交響曲は、いろんな点で画期的な作品でありベートーヴェン自身にとっても、自分の人生の集大成と言える曲である。
古典的な交響曲作曲家として出発したベートーヴェンは、作品を追うごとに従来の枠をはみ出してゆく。
規模において、従来のモーツァルト・ハイドンの交響曲を遥かに凌ぐようになり、内容においてその深さを増す。
軽やかな音の集まりではなく、一音一音が精神的な意味を持つと言ったら言い過ぎかもしれないが、人間性に根ざした音楽になっている。
耳が聞こえなくなり、音楽家としてはこれ以上無いほどの苦痛を味わい、不屈の精神だけが作曲のペンを走らせたのではあるまいか。
3番の「英雄」、5番の「運命」という大きな作品を作り上げ、狂気の一歩手前のような7番を書き上げてきたベートーヴェンがその行き着いた最後の作品がこの<第九>である。

1時間15分を要する大曲、器楽で演奏されるはずの交響曲に声楽を入れるという大胆な発想!
声楽を伴う終楽章の規模の大きさは、演奏時間から見ても従来の交響曲一曲に相当する。
これは今まで誰もが考えもしなかった革新的なものであり、もはや古典派の作曲家ではなくて、後のロマン派以降の音楽に大きな影響を与えたのも当然と言える。



大植英次と大フィルによるベートーヴェン・チクルスも最終回を迎えた。
6月にスタートしたこのシリーズ、最後は第九。
“年末の第九”は今や日本のクラシック音楽界の一大イベントと化していて、それがいやで今まで年末にこの曲を聴きに行ったことが無い。
今年はこのチクルスのおかげで、はじめてこの時期に聴くことになった。

この日を迎え、自分の中で思いはいろいろあった。
先月、宇野功芳/アンサンブル・サクラの感動的な第九を聴いたばかりだし、フルトヴェングラーの伝説的なバイロイトでの実況録音のもう一つの録音テープが発見され、そのCDが手に入り、何度も聴き比べるという日が続いた。
これだけ聴いた後だから、大植英次の演奏に対する期待はそれほど大きいものではなかったというのが正直なところだった。
それに、過去三回の演奏で、大植英次のベートーヴェン演奏がどういうものか大体分かってきたという思いもあった。
そんな状況で、当日は何も考えないで、というより過度の期待を持たないで行くことにした。

注目するのは第一楽章、そして第三楽章
まず、この曲の偉大さを象徴するような出だしの部分を大植英次はどんな大きさを聴かせてくれるか?
そして第三楽章、この天国的なアダージョの世界へどんないざない方をしてくれるのか?この二点。
マイナス要素もある。
音が響かないフェスティバル・ホールでこの二つの部分がうまく響かないのではないか・・・・

第一楽章、ピアニッシモで刻まれる音が霧の中で徐々に大きくなってゆき、決然とした主題が提示される。
この部分でこの楽章が決まってしまうという位大事な場面、大植英次の演奏は比較的あっさりと始めてゆく。
期待してたのは、もっと小さなピアニッシモで始まり、徐々にクレッシェンドしていってもっと巨大な第一主題。
意外に淡々と進んでゆく。
そして展開部に入るところでもう一度最初と同じパターンが戻ってくるが、ここも綺麗に流れてゆく。
展開部の最後の部分で大きく盛り上がりそのまま再現部に入るが、ここが一つのクライマックス。
やはりホールのせいかティンパニーの強打が客席までストレートに届かない。
そして長いコーダ(終結部)でオーケストラは徐々に高まってゆき、最後のクライマックスを迎える。
でも聞こえて来る音が、ややもどかしい。音楽のもつ巨大性がストレートに伝わってこない。

次の第二楽章スケルツォはいつもの大植英次の音楽で、しっかりしたリズムが心地好い。
オーケストラもようやく調子が上がってきたようだ。(前の楽章はいまいち乗り切れてなかった)

そして問題の第三楽章。
ここの速度表記は、<アダージョ・モルト・エ・カンタービレ>(非常にゆっくり そして歌うように)となっている。
穏やかできわめて綺麗な旋律をゆったりと演奏してはじめてその良さが発揮される。
二つの天国的なメロディーが、時間をかけて噛み締めるように変奏されてゆくことで、心の安らぎをもたらされる。
でも、大植英次はここを非常にあっさりと進めてゆく。テンポが速くて落ち着けない。
なんでだろう?・・・そんなに急がなくてもいいじゃないか、と言いたくなる。
アダージョ・モルトはもっとゆっくりだよ!と言ってやりたくなる。
朝比奈もここは意外と速かった。でも一つ一つの音を噛み締めながら、ポイントでは遅くしていたはずで、あっさりした音楽にはならなかった。
第一楽章につづいてこの楽章でもやや期待はずれな音楽になってしまった。
というより、大植英次のベートーヴェン演奏はこういうケースが何度かあって、今日の第九もそんな懸念がなかったとはいえない。
ここまで来ると後は、終楽章をどう演奏するのかという興味と一抹の不安・・・
でもここまで演奏してきて、大フィルの調子は良くなってきていて、はじめの不安は解消されている。
そしてここで考えてみると、前3楽章が比較的あっさりしているのは、終楽章にこそこの曲の全てがあるのだという大植英次の解釈かもしれない。
そう思って終楽章を聴いてみる。

前楽章の沈黙を破るかのように、不協和音のプレスとが炸裂する。
テンポはいい。力任せではなく少し抑え気味に進んでゆく。
そして前の三つの楽章のテーマを少し出しては、低弦のレチタティーヴォが次々と否定してゆき、ついに『歓喜の歌』を獲得する。
この低弦のレチタティーヴォ、響きが今ひとつと思ってたフェスティバル・ホールにしっかりと広がる。
そして『歓喜の歌』が低弦で静かにその姿を現す。この部分はすばらしい!
何より低弦のアンサンブルが素晴らしく、あのテーマの最初の音を少し強めに出し、その後の音を低く抑え気味にするというやや意表を衝いた演奏が印象的。
このテーマが流れ始めた時、ちょっとインパクトが弱いかなと感じたのが、ヴィオラ・ファゴットなどハーモニーが加わり、ヴァイオリンがこれを演奏するころには、これが大植英次の音なんだなと納得できた。
この主題が確保されるとオーケストラ全体が大きく音楽を盛り上げて行くのだが、大フィルもここにくるといつもの輝きを完全に取り戻している。
最初の喧騒が戻ってきて、いよいよバリトンの独唱、
“O Freunde, nicht diese Töne!”(「おお友よ、このような音ではない!」)
少し張り切りすぎで、やや上滑り気味だが、徐々に落ち着いてくる。
そして合唱が続くが、このコーラスは本当に素晴らしい。
独唱の4人は共にドイツ人、当然ながらドイツ語の歌詞が明瞭で聞いていて安心できる。
ソプラノが若干声量が小さいかなと思ったが、アンサンブルとしても纏まっており、声楽陣は安定してた。
音楽は『歓喜』のテーマをフォルティッシモで歌った後、一転して行進曲風になりテノール独唱が雰囲気を換える。
感心したのはその後、オーケストラだけでそのマーチを展開して行く場面。
弦のアンサンブルが中心になって華やかな彩を加えるのだが、ここでの大植英次のオーケストラ・コントロールは素晴らしい。
そのオーケストラが頂点に達したところで『歓喜』のテーマが朗々と歌い上げられる。
合唱の声が隅々まで響き渡る。決して叫ぶようにはならず、言葉が明瞭に、それでいてスケールも大きい。おまけに各パートのバランスがきっちり取れている。
場面は一転して荘重な雰囲気に。
“Seid umschlungen, Millionen!”(万人よ、抱き合おう!)という人類愛を神の前で歌い上げる。
男声合唱が中心になって厳かな雰囲気が続くが、ここでのコーラスは本当に感心する。
ganzen Welt-全世界><Sternenzelt-星空><Vater wohnen-神は住み給う>という言葉がピアニッシモではっきり聞こえる。綺麗なハーモニーは聴く人に間違いなくその言葉を伝えることが出来ている!
その後の二重フーガの部分、
“Seid umschlungen, Millionen!”の旋律と“Freude, schöner Götterfunken,”の主旋律二つが絡み合ってゆくのだが、ここでも合唱は感動的!
二つのテーマが入り乱れて進行していくようすが、それぞれのパートがきっちりと歌い分けていて、まるで極彩色の絵を見ているよう。
これはコーラスの力ももちろん素晴らしいが、それをコントロールしている大植英次の力を認めないわけにはいかない。

そして再び『歓喜』のテーマが四人の独唱者のアンサンブルで歌いだし、音楽はいよいよ最終段階に入る。
独唱が終り、大植英次の絶妙の“間”のあとオーケストラと合唱が、万人の歓喜を歌い上げる。
そして最後はオーケストラだけが猛烈な勢いでこの曲を締めくくる。
このオーケストラの部分、フルトヴェングラーの凄い演奏を聴いてきた耳には、普通の演奏ではなかなか満足できないものだが、この日の大植英次の指揮は素晴らしかった。
フルトヴェングラーに匹敵するとまでは言えないけど、素晴らしい第九の終楽章の演奏だったことは間違いない。

後で考えてみると、大植英次の第九はやはり終楽章に重きをおいたものだったと思う。
演奏の出来を振り返ると、やはりこの終楽章の緻密で用意周到な計算のもと、十分な練習がなされたものだった。
それゆえ、前3楽章のいくつかの不満もそれほど大きなキズとなっては残らなかったのだろう。

私の意見を言えば、この曲は第1・3楽章の持つ意味はもっと大きいと思う。
それらのはっきりした性格付けがあって初めて終楽章が生きる音楽になると考えるので、大植英次の第九は、これからもっともっとスケールの大きなものになっていってほしいもの。

さらに言うならば、ベートーヴェンの第九はそういう問題を常にはらむような、とてつもなく大きな音楽だと言い換えるほうがいいかもしれない。
今回はまだ初めてのベートーヴェンという段階、これからますます円熟した演奏が待っている筈!