大阪フィルハーモニー交響楽団
本文へジャンプ 4月24日 
             

 

第407回定期演奏会 2007年4月20・21日

指揮 大植英次
ピアノ オレグ・マイセンベルク

曲目 ラフマニノフ作曲  ピアノ協奏曲第3番ニ短調作品30
ショスタコーヴィチ作曲  交響曲第5番ニ短調作品47

新しいシーズンの幕開けを飾るのはやはりこの人、音楽監督の大植英次。
2月の定期を首の治療のためにキャンセルしたばかり、果たして回復しているのか?
5年目のシーズンはどんな音楽を聞かせてくれるのか?
いろんな期待を抱いて演奏会に臨みました。

まずプログラム。
ショスタコーヴィチの5番はわかるとして、前半にラフマニノフの協奏曲、それも2番じゃなく3番というのはやや意表を衝かれた感じ。
ロシア音楽の憂愁の色が濃い、それでいて華麗なテクニックをピアニストが披露するような曲と、勇壮な交響曲ではあるけど問題の作品という評価も付きまとう音楽の二本立て。

−−結果−−

素晴らしい音楽を聴かせてもらいました。
一言で言うなら、大植英次の指揮する大阪フィルが一段と進化した演奏をしてくれたのです。

ラフマニノフの協奏曲
第一楽章は比較的抑えた演奏で、マイセンベルクのピアノも予想に反して穏やかな音楽を終始崩さない。テクニックに走るピアニストというイメージ(勝手な想像です)を持っていたので、ゆったりとした音楽はやや物足りなさを感じた。
でも、3楽章になると渾身の力を振り絞っての力演。名ピアニストでもあったラフマニノフの面目躍如とでも言うべき華やかな音楽は現代のピアニスト達にとっては腕の見せ所。
マイセンベルクのテクニックも決して悪くはないが、何かに取り付かれたような演奏をするアルゲリッチの豪放な演奏とは違い、決して表面的な効果を狙うことのない冷静な音楽をじっくり聴かせてくれた。
この曲の演奏の中心はむしろオーケストラの方にあった。
前半は押さえ気味だったオケが後半では完全に音楽をリードしていた。
大植英次が、マイセンベルクとアイコンタクトをとりながら、またマイセンベルクの指と鍵盤を見ながらぴったり合わせていく。若い指揮者が巨匠をサポートするという姿ではなく、名ピアニストがマエストロの音楽に包み込まれている、そんな印象を受けた。
それにしても、自身ピアノの名手でもある大植英次のサポートぶりは見事というほかない。
終楽章のオーケストラの圧倒的な演奏は、ピアノもオーケストラの楽器の一つになりきっていて、ピアノを独奏楽器とするシンフォニーを聴いたような気さえした。

ショスタコーヴィチの交響曲
ともすれば通俗曲と見られがちなこのシンフォニーを大植英次はどう演奏するのか・・・・?
興味津々
特に私が注目していたのは、この曲の中心を第三楽章に置くのかそれとも第四楽章に持ってくるのかという点。
盛り上がりとしては間違いなく終楽章がポイントになるけれど、第三楽章のラルゴをどう演奏するかがもっとも大きな問題だと思っている。
果たしてその演奏は・・・・・

  素晴らしかった!

まず、第一楽章のテーマが低弦で提示されるが、引き締まった力強い演奏。
その後の木管・ホルンも、決して強すぎることなく、内に力を秘めたように進んでゆく。
この楽章ではまだまだ抑え気味で、力をじっくり蓄えている−そんな感じ。
第二楽章のスケルツォは躍動感のある音楽で、コントラバスも木管も生き生きしていた。
そしてここでの大植英次は踊るように楽しげに指揮しており、テンポをゆったりとって楽員たちと楽しんでいる。
そして問題の第三楽章。一転して音楽はラルゴになり、苦悩の音楽になる。
喉の奥から搾り出す−−−そんな印象で、中心になるのは弦楽器。
通常の第1・第2ヴァイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバスという区別じゃなくて、ヴァイオリンを三部、ヴィオラ・チェロを二部、そして一部のコントラバスという分け方。
三群の弦楽器が織りなす苦しみの歌を、大植英次と大阪フィルは渾身の力を振り絞って歌い上げた!
テンポは遅く、息の長い旋律を力の限り歌いきり、そして今正に消えて無くなりそうなかすかな音で歌い続ける。こんな演奏はめったに聴けるものではない。
ピアニッシモを表現することは非常に難しいと思う。
コンサートマスターの長原幸太が力のあまり腰が浮いたり沈んだり。
大阪フィルの弦の見事さに圧倒された、最高の楽章が聴けた!
終楽章は予想通りの力演で、マーチ主題は圧倒的な迫力があったが、ここでも素晴らしかったのは中間部のゆったりした部分。
前の楽章の素晴らしさがそのままここでも聴けた。
この楽章でもテンポを大きく変えて、音楽の流れに変化をつけていたがこれも効果的だった。
最後は圧倒的な勝利の音楽、聴衆を興奮の坩堝に投げ入れた。
名作なのかそうでないのかなど、どうでもいい。
たまに聴くオーケストラの醍醐味を十二分に味わえたことは間違いないのだから。

終わったあとの大きな拍手が、ますます進化する『大植マジック』に当然のように贈られた。

ひとつ気になったのは、コンサートマスターの長原の音が時々アンサンブルからはみ出すことがあった。
ソリスト級の奏者が少し浮き上がって聴こえたのも、気持ちがハイになっていた証拠。
小さくまとまるより遥かにいいことだ。



かつて朝比奈隆は練習中、「ピアノ、もっとでっかく弾け」と言ってたという。ピアノは“弱く”だからオーケストラは小さな音にしてしまう。朝比奈はそれを嫌い、ベートーヴェンやブルックナーの<ピアノ><ピアニッシモ>は決して痩せた音じゃなかった。大阪フィルにはその教えが今なお受け継がれているようだ。
だからといって大植英次の弱音は朝比奈のそれとは全く違う。
より繊細な、それでいて一糸乱れぬアンサンブルで心に迫ってくる。

朝比奈と大植、全く違う音楽だが、われわれは二つの<ピアノ>が聴けて幸せ。



第408回定期演奏会 2007年5月30・31日

指揮 井上道義

曲目 伊福部昭作曲  日本狂詩曲
リスト作曲  ハンガリー狂詩曲 第2番
エネスコ作曲 ルーマニア狂詩曲第1番イ長調
ディーリアス作曲 ブリッグの定期市〜イギリス狂詩曲
ラヴェル作曲 スペイン狂詩曲

<ラプソディー:狂詩曲>を5曲集めた珍しいプログラム。
民俗音楽を色彩豊かに聴かせてくれる音楽で、その代表的なものが集められている。
ふだん演奏会の最初かアンコール曲として取り上げられることが多くて、このように定期演奏会でまとめて聴くような機会があるとは予想していなかった。
これらの曲のどれかを改めてじっくり聴いてみようという機会はほとんどなく、CDの余白に入っているからついでに聴くことくらいしかないかもしれない。
この日の聴き方もその延長で、「気軽に聴いてみよう


聴き終えての感想は、予想通り結構楽しめたなというものだった。
前半の3曲は、打楽器の活躍する民族色豊かな音楽、後半はオーケストラの機能を発揮した音楽という印象。

第1曲の伊福部の曲は、戦前の1935年に作られたもので、日本の昔を懐かしく思い出させてくれるリズムがなんともノスタルジックで、眼をとじて聴いていれば<子供の頃の田舎の祭>の風景を思い出す人も多かっただろう。
開始早々、ビオラのソロが奏でるカデンツァふうの音楽が我々をタイムスリップさせる。打楽器の単調なリズムがそれを助長する。
全曲に亘って比較的単調なリズムで推移するこの曲、今の複雑なリズムになれた耳には少し物足りないと感じる人もいるかもしれないが、はまってしまうと絶対飽きない音楽でもある。
リストとエネスコは誰もが一度は耳にしたことがあるはず。
それなりに楽しい演奏ではあったが、井上さんにはもっと芝居ッ気たっぷりにやって欲しかった。アンサンブルを揃えようとするとリズムが生きてこないと言うか、小さく纏まってしまうので難しいとは思うが、多少の乱れなんか気にしない!という意気込みで演奏してもよかったのでは・・・・

後半の第1曲、ディーリアスはイギリスの作曲家で、どちらかといえば穏やかな音楽。
ラプソディーというと民俗音楽の華やかなリズムをイメージしがちだが、これは静かな田園風景を思わせるもので、オーケストラの個々の奏者が楽しませてくれた。
そして最後はラヴェル。
名前の通りスペインのリズムを堪能できる曲で、オーケストレーションの天才ラヴェルがフルオーケストラを使って盛り上げてくれる。
とくにクラリネット・フルート・チェロのパートが素晴らしい演奏を聴かせてくれた。



井上の持ち味であるストレートな音楽が楽しめた一夜で、大阪フィルのアンサンブルの充実がこの日も実感できた。
ドイツ音楽以外の分野で大阪フィルの好演が聴けるようになって、我々のレパートリーにも広がりが出来大変嬉しいこと。

 ※客演コンサートマスターとしてマウロ・イウラートという人が登場したけど、これはどういうことなんだろう?



第409回定期演奏会 2007年6月14・15日

指揮

曲目 フォーレ作曲  レクイエム 作品48
ブラームス作曲  交響曲第4番ホ短調作品98

ベートーヴェンの好演でこの日のブラームスを大いに期待して会場に行ったら、大きな張り紙が目に付きその近くでチラシを配っている。
    
謹告・指揮者変更のお知らせ
大植英次が急病で出演できなくなったという内容で、フォーレは合唱指揮者の三浦宣明さんが指揮し、後半のブラームスは指揮者なしで演奏することになった。

会場は大植英次人気で補助席も含めて満席。
シンフォニー・ホールの係員に様子を聞いてみたところ、前日(定期初日)のリハーサル中に倒れ、救急車で運ばれたという説明だった。詳しいことはわからないが、本人の意識はしっかりしているとのこと。
どんな演奏会になるのかと落ち着かない状態で待ってると、開演直前に楽団の事務局長が出てきて事情説明。
病院に入って二日目、本人は何とか本番には出たいと希望したが医師のストップでやむなく休演することになったということ。
今年に入って2回目のキャンセル、健康面の不安があるとは思っていなかっただけに、これから先のことも少し気になる・・・・
それはそれとして、今日の演奏はどうなるんだろう・・・・?

まず前半のフォーレ、レクイエム(死者のためのミサ曲)としてはやや異色の作品で、時間にして35分くらい、編成の小さなオーケストラとコーラス、独唱者はソプラノとバリトンだけで、規模の小さなもの。
内容も静かで美しい曲がほとんどで、ヴェルディやモーツァルトなどのレクイエムでは、「怒りの日」という部分が音楽的なクライマックスになるが、フォーレはこれあっさりと流す。だからこれはレクイエムではないという意見もあるくらいで、激しさ皆無、全編落ち着いた美しさが漂う。
さて演奏の方だが、出だしのコーラスの清澄な音楽はまず心に沁みてくる。
今まで何度かこの合唱団を聴いているがその素晴らしさは何度か体験済み。楽譜を持たず指揮者のもと、一つになった声は夢の世界へいざなってくれる。フォーレのレクイエムはコーラスが主体の音楽で、三浦さんの指導がしっかりしているんだろうなと推測。
その三浦さんがオーケストラも指揮下が、この曲の持ち味を崩すことなく落ち着いた演奏をしてくれた。
独唱の二人もよかった。中でもバリトンの三原さんが素晴らしい。声の質・声量・抑揚など、安心して聴けた。
ソプラノも好演だったが、もともとこの曲のソプラノはボーイソプラノのために書かれており、今まで聴いてきたレコードも少年の声だったので、その意味では少し違和感があった。でもソプラノで歌われることも多いようだからこれは慣れの問題だけ。
フォーレの音楽を楽しませてもらった。

その美しいメロディーを一つだけあげておこう。第4曲<ピエ・イエズス>
なおこの曲の途中でセカンド・ヴァイオリンのトップ奏者が退場し、最後まで空席のまま終わった。不安な状況の演奏にもう一つ不安が重なった感じ(いろんなことがあるな・・・)。
問題のブラームス!
指揮者なしでフルオーケストラがシンフォニーを演奏できるのだろうか?
交響曲の演奏にはいろんな場面転換があるもので、テンポが変わったり表情が刻々と変化していったりと、まとめる人が存在しないとばらばらになる恐れがある。それを怖がって無難にまとめて行こうとすると、メトロノームのように何の変哲もない無味乾燥な音楽になってしまう。指揮者の不在を大阪フィルはどうしようとしたのか?
普通考えられるのは急遽別の人を頼む方法。でもあまりに急すぎて探せなかっただろうし、練習なしに指揮することは無理かもしれない。次の方法は、副指揮者なり、練習に立ち会っている練習生などが指揮するというもの。(大植英次もかつて日本でバーンスタインの代わりに指揮している)
これもだめなら、コンサートマスターか誰か楽員の人が指揮台に立つという方法。
今回はそうじゃなくて≪指揮者なし≫という方法をとった。これにはいろいろ内輪の事情があるだろうが、困難な選択の一つには違いない。
でもこれで行くと決めた以上は、コンサートマスターの長原幸太クンを中心に一致団結してことに当たる覚悟を団員全員が決めたはず。そしてその裏には、大植英次の元で十分な練習をこなしてきたので、彼のやり方が皆に浸透しており、何とかなるという思いがあったと推測する。大植英次のブラームス4番がほぼ出来上がっていたと思う。

幸太クンの合図のもと、あのため息をつくような主題が始まる。聴き手も固唾を呑んでいる様子がよくわかる。オーケストラも不安なのかもしれない。
若干アンサンブルの不ぞろいはあるが乱れるというところまでは行ってない。第一主題が終り経過部のチェロのメロディーは力感がある。木管も無難に絡んできて第二主題に入る。
展開部を少し心配したけど、この辺も大植英次のやり方が浸透しているらしくテンポの緩やかな部分でも乱れない。
コーダではオーケストラがティンパニーの主導でしっかり盛り上げ、この楽章は無難に終わる。固唾を呑んでいた聴衆から拍手が沸きあがる。幸太クンの弓も切れた糸がその奮闘振りを物語っている。
第2楽章になるとややリラックスしてきたのか雰囲気が少し落ち着いてきた。
でもこういうゆったりした楽章では、楽器から楽器へのつながりが難しくなるはず。でも弦と木管のやりとりも、絡んでくるホルンも決して音楽を途切れさすことなく順調。
ここではチェロがしっかりと音楽を支えていて、その充実ぶりに関心。
この楽章は予想以上に良かった。
次のスケルツォ楽章、多分大植英次が指揮していたらもっとテンポに変化をつけてやっただろうなと思わせるような雰囲気があった。賑やかで動きのある音楽なのでそれだけでも十分だけど、大植英次がいないとやはり小さくまとまることはやむをえない。
一つ不満を言えば、打楽器がもっと思い切った演奏をした方が良かったのでは・・・・。ティンパニーはもっと吹っ切れた潔さがあってもいいし、ここで重要な役割を果たすトライアングルの音がはっきりした方が良かった。
終楽章は一番心配だった。パッサカリアという、単純なテーマを次々変化させていき、それが大きなうねりとなっていくような音楽なので、指揮者がいないと正直難しいと思う。
でもこの日の大阪フィルは非常に頑張ってくれた。熱演だった。
時には幸太君が、時にはティンパニーが、時にはトロンボーンやホルンがイニシアティブをとり、又木管奏者が幸太クンと目でコンタクトを取りしてクライマックスまで持っていった。

この日の演奏は、楽団も大変だったとは思うが、聴く側もちょっと異様な雰囲気のまま最後までどこか落ち着きのない聴き方に終始した。
フォーレのレクイエムの優美な美しさ、ブラームスのオーケストレーションが実に重層的で緻密なことに改めて感心するという一日でもあったけど、何はさておき、
   長原幸太クンと大阪フィルの熱演
に尽きる一日だった。

    −−−ご苦労様でした−−−−



第410回定期演奏会 2007年7月5・6日

指揮 下野竜也
ピアノ 伊藤恵

曲目 ブラームス作曲  ピアノ協奏曲第1番ニ短調 作品15
ブルックナー作曲  “アダージョ”(弦楽五重奏曲より)
シューマン作曲 交響曲第4番ニ短調 作品120

前回の定期でブルックナーの交響曲0番というマイナーな曲を、感動的に聴かせてくれた下野さんの登場に大きな期待を持って出かけました。
期待に違わぬ、立派な演奏でした。

まず前半のブラームスの協奏曲。
ティンパニーと低弦で物々しく始まる音楽なので、いきなりオーケストラの響きが試される。
下野の指揮は大げさに構えることなくごく普通に開始、それでいて歯切れのいい爽やかさを感じる。
テンポが決して速くなりすぎず、どちらかといえばゆったりした音の流れが聴く耳に心地好い。
伊藤さんのピアノがそっと入ってきてオーケストラとうまく溶け合う。
この女流ピアニスト、NHKのFM番組の司会などで知っていただけで実際聴くのは初めてだけど、その落ち着いたピアノは大家の風格すら感じさせるもので、このブラームスの曲は彼女にぴったりだと思う。シューマンのピアノ曲が得意らしいが、ブラームスやベートーヴェンなどのドイツ音楽をじっくり聴かせるタイプのピアニストかも知れない。
第一楽章の第二主題が大変きれいなメロディーで、伊藤さんのピアノはこれをしっかりと歌い上げる。そして下野さんがそれにぴったり寄り添うようについてゆく。
この長い楽章を落ち着いたテンポで最後まで引っ張ってゆく下野/大阪フィルの音楽には感心しっぱなし。
第2ヴァイオリンが右手に配置され、ブラームスの音の重なりがよく聞こえる。
第2楽章はしみじみとした音楽、もう少しゆっくりだったらもっとよかたかも・・・
終楽章のロンドは、テンポもよく楽しい音楽になった。伊藤さんのピアノが、決して華やかにならず、かといってだれることは全くない。ブラームスの生真面目な音楽が堪能できた。
圧倒的なコーダは、この演奏が素晴らしかったことを証明している。


後半はシューマンの交響曲第4番。
番号から言えば最後に位置する交響曲だけど、作曲されたのは第1番と同じ頃。
シューマンがクララと結婚した翌年の作品で、若いときの音楽。
つまり今日のプログラムは、師シューマンと弟子ブラームスの若いときの作品ということになる。
それはともかく、下野のシューマンは非常に楽しく聴かせてくれた。
シューマンの音楽はややもすると暗く、重くなりがち。
でも下野の演奏はそうじゃなく、若さを強調した溌剌とした音楽になっている。
まずテンポ。全体に速めでだれることが無い。そして時には追い込むような速さの部分もあり、聴き手を飽きさせない。
この曲、主題は親しみやすいのだが、展開部になるとあまり変化が無く、どちらかといえば単調な音楽になってるので、聴き手をぐいぐい引き込むようになりにくい。
下野の演奏は、テンポを速めに取ることでそういう部分を意識させない。
オーケストラは始めは乗り切れてないような印象があったが、第一楽章も後半になってくると指揮者とうまく噛み合ってきた。
第二楽章、オーボエとチェロのソロがメランコリックな主題を生かした美しい演奏。
コンサートマスターの幸太クンのソロも浮き上がることなくアンサンブルの仲にうまく溶け合って素晴らしい。
第三楽章は元気いっぱいで、そのままの勢いで終楽章。
ここで下野の本領発揮、オーケストラを自在に操り、早いテンポでぐいぐい進む。
要所で見栄を切るような大げさな動きを交えたりして聴き手を引っ張っていく。
ホルンのアクセントも決まっていて気持ちがいい。
コーダも一気呵成に突き進み、すがすがしさを残す。・・・

弦のアンサンブルは、大植英次の時に比べやや荒さが感じられたし、金管に今ひとつ洗練されたピュアな音があればな・・・・と思う部分も少しあったけど、下野の統率力、音楽の大きなつかみ方など、感心することのほうが多かった。

下野は読売交響楽団の正指揮者となったけど、大阪フィルとの関係も今以上に深めて欲しい。大阪フィルとの強い絆をますます太くしてください。



第411回定期演奏会 2007年9月13・14日

指揮 ラモン・ガンバ
クラリネット マーティン・フロスト

曲目 アダムス作曲  歌劇「中国のニクソン」より“主席は踊る”
コープランド作曲  クラリネット協奏曲
ブリテン作曲 組曲「ソワレ・ミュージカル」作品9
レスピーギ作曲 「ローマの祭」


一週間にわたる<大阪クラシック>のイベントが終り、その余韻がまだ消えていない時にもう次の定期演奏会になってしまった。我々聴衆はもちろんだけど、大阪フィルの皆さんはリハーサルの期間も考えるとすぐに切り替えが出来てないと新しいことは出来ないな・・・・・などといらぬおせっかいまでしてしまう。
入場してきた楽員を見ると、コンサートマスターの二人、幸太クンと梅沢さんが揃ってる。特に梅沢さんはしばらく体調が悪かったようで、最近ようやくその姿を見ることが出来るようになったが、少し元気のなさそうな様子が気がかりではある。

この日のプログラムは、特に聴きたいという曲がなくて、指揮者のガンバもその名前を耳にしたことはあるという程度で聴くのは今日がはじめて。
曲で知ってるのは「ローマの祭」だけ、それもオーケストレーションを楽しむような曲だから、大阪フィルがどんな演奏をするかという一点だけの興味で出かけた。

一曲目のアダムスの“主席は踊る”、ニクソン大統領やキッシンジャー、毛沢東夫妻や周恩来の時代をオペラにしたものらしいが詳細はわからない。音楽は、ドとレの二つの音を組み合わせた単純な動機が中心になって、複雑なリズム進行があり、ストラヴィンスキーを思い出させるような舞曲、ダンス音楽になってる。
次のコープランドの協奏曲も、現代アメリカの音楽で、ジャズの名手、ベニー・グッドマンのために書かれた作品。初演がグッドマンのクラリネット、かつての名指揮者フリッツ・ライナー指揮NBC交響楽団というから驚きである。ライナーがこういう曲を演奏してたんだ・・・・
曲は静かに始まり、クラリネットも静かな音楽を奏でてゆく。このフロスト、長身の奏者で楽器を体にぴったりくっつけるように持つので少しびっくりしたが、出てくる音は繊細で、テクニックも抜群、全く危なげなく吹ききる。
カデンツァの入りはピアニッシモ、こんな弱音を大きなホールで非常に音楽的に演奏できるなんて只者ではない。そして音楽はジャズ風の部分に入るが決してくだけることなくあくまで繊細。
絶大な拍手に答えて2曲のアンコール。
一曲目は自作?。そして2曲目は、グノーの“アヴェ・マリア”。この曲は、バッハのクラヴィア曲を伴奏部分に使いそれにグノーが歌の旋律を作ったもの。フロストはこの伴奏部分をクラリネットで吹くという信じられないことをやったのである。メロディー部分はといえば、オーケストラの弦のトップ奏者が順番に吹いていき、いつのまにか室内楽になっている!
なんとも楽しい音楽だった。

後半は、ブリテンの若い頃の作品「ソワレ・ミュージカル」、つまり夜会の音楽。ロッシーニの音楽を使った楽しい作品で、指揮者・オーケストラ共に楽しんで演奏していた。
最後のレスーピーギの作品は、<ローマ三部作>のひとつ。
題名から想像できるように、非常に賑やかな音楽で、オーケストラの演奏効果の高い曲。
こういう音楽は難しいことは考えずに、ただただ音を楽しむこと。オーケストラの団員も、演奏するのは大変だろうけど、演奏する側も楽しいと思う。
指揮者のガンバもだんだん興が乗ってきて、指揮台の上で体が動き出してくる。リズムに合わせてステップを踏んでいる! コンサートマスターの幸太君とヴィオラトップの小野さんの目がちょうど彼のステップ姿を正面で見ることになり、二人とも演奏しながら笑ってる。

オーケストラも好演、指揮者ガンバも非常にまとめ方がうまくて、文句なしに楽しめた。
拍手に答えて何度も舞台に呼ばれるガンバ、出てくるのに少し手間取ってるなと思えば、上着の襟を両手で抱えて出てきた。そしてその上着を広げるとそこには≪ガンバ・大阪≫のTシャツ。胸には“GAMBA”の文字が・・・・

第412回定期演奏会 2007年10月19・20日

指揮 オリヴァー・ナッセン
チェロ アンシ・カルトゥネン

曲目 ナッセン作曲  花火で華やかに 作品22
ブロッホ作曲  ヘブライ狂詩曲「ソロモン」
ナッセン作曲  ヤンダー城への道 作品21a
ブリテン作曲 鎮魂交響曲 作品20
<Sinfonia da requiem>


現代の作曲家の自作・自演の一夜、予想通り空席が目立った。
ナッセンという名前は聞いたことはあるが作品を聴くのは今回初めて(曲も指揮も)。

ナッセンの作品は結構聴きやすいものばかりで、特に打楽器の使い方が効果的。
ブロッホの「ヘブライ狂詩曲」が始まった頃、猛烈な睡魔が襲ってきて夢・現を行ったり来たりの状態で聴いていたので、あまり確かなことは言えない。
でも後半の部分の印象と、アンコール2曲を聴いただけでも、素晴らしいチェリストだということだけはよくわかった。
特に、アンコールで弾いた最初の曲、これはどうも彼が即興的にやった“”のようなもの。左手の指をそれぞれ滑らすようにして音を出したりして、普通の奏法ではない弾き方だった。でもそのかすかな響きはものすごく繊細!
次のバッハの無伴奏ソナタも同じように、完璧なテクニックで聴かせるピアニッシモは今まで聴いたことのない音楽的な音だった。デリケートで細やかで澄んだ音色。
この人のバッハ無伴奏ソナタを全曲聴いて見たいと思う。

それでもこの日のクライマックスは、ブリテン作曲の鎮魂交響曲
知らなかったけどこの曲は、若きブリテンが日本の『皇紀2600年記念式典』のために委嘱されたものらしい。でも1940年のこの式典では演奏されなかったようだ。
お祝いの席で、<死者のためのミサ曲>はふさわしくなかったのだろう。

曲の成立事情はともあれ、作曲者26歳の時の作品とは思えない!
管弦楽だけで演奏されるレクイエムで、
 1.ラクリモサ(涙の日) 2.ディエス・イレ(怒りの日) 3.レクイエム・エテルナム(永遠の安息を与えたまえ)
という代表的な3曲だけを取り上げた短い音楽。
それぞれの性格を見事に音にしていて、モーツァルトやヴェルディなどのレクイエムと同じくらいの崇高さ、厳粛さ、激情、静けさを感じた。
ナッセンの指揮も見事で、妙に深刻ぶった音楽じゃなくむしろしっかりした構築性を感じさせる。盛り上がるべきところでは堂々たる音楽を作り、シンフォニックな響きがある。
3曲目では、フルートがしみじみとした旋律を吹くが、決してメランコリックなムードにならないようにしっかりとした音を聴かせるのはナッセンの素晴らしい感性だと思う。

巨人と呼ぶにふさわしい体格のナッセンが、イギリス音楽の素晴らしい一面を披露してくれた。



オーケストラのメンバーの顔ぶれが少し替わってるようだ。
(メンバー表を見ればよくわかる)
発展的にフレッシュ・アップしていってくれる事を願う。



第413回定期演奏会 2007年12月6・7日

指揮 大植英次
ヴァイオリン ルノー・カプソン

曲目 ブルッフ作曲  ヴァイオリン協奏曲第1番
ラフマニノフ作曲  交響曲第2番


大植英次の熱い音楽を堪能することが出来た。

今年の定期演奏会のプログラムに、ラフマニノフの交響曲があるのが以外だった。
でも、チャイコフスキーの名演を聴き、同じラフマニノフのピアノ協奏曲の情熱的な演奏を体験したので、この日の演奏がどんなものになるのかはおおよそ見当がついていた。
そしてこの日、予想したとおりの 熱い演奏 になった!

近代ロシアの作曲家ラフマニノフの音楽は、あふれる情熱 熱きロマン むせび泣く抒情の嵐 たぎる血潮
こんな言葉で表現したいような音楽である。
ロマンの熱気が延々と続く息の長い旋律が、これでもかと言わんばかりに押し寄せてくる。
それ故、たらだらと長ったらしいだけでしまりのない音楽だとか、構成力の弱い音楽だとか、いろいろ言われる。
もちろんそれもあたってるとは思うけど、そういうマイナス要素を補って余りある ハート を持った音楽である。
少なくとも私はラフマニノフの 抒情 が大好きな人間。
音楽を聴き始めてまだそれほど経たない時期に買ったレコードに、チャイコフスキー・コンクールに優勝して一躍アメリカの英雄になったヴァン・クライバーンの弾くチャイコフスキーとラフマニノフのピアノ協奏曲がカップリングされた一枚がある。
ラフマニノフとの始めての出会いであった。
最初はチャイコフスキーばかり聴いていたが、いつの間にか裏面の方を聴くことの方が多くなっていた。
ラフマニノフの音楽は一度はまるとその濃厚なロマンの渦に間違いなく巻き込まれてしまう。いわば中毒症状になってしまう。
この2番の協奏曲、実演でも何度か聴いており、一番最近のものは、園田高弘・朝比奈隆指揮大フィルの演奏。
(ただこのときはフェスティバル・ホールの最前列右端の席で、聴きづらかったという記憶の方が強い・・・)

そのラフマニノフの交響曲を聴いたのは相当後になってから。
デュトワ指揮モントリオール交響楽団のCDで2番のシンフォニーをじっくり聴くようになった。
と言ってもこれはそう何回も聴いたというわけじゃなく、少なくともここ数年は全く聴いてない。
だから今回の演奏は、久しぶりにじっくり聴くことになるのだ。

この曲、あまり評判は良くない。
構成が弱いというか、なんとなくムードに流されるような印象を与えやすいからだろう。
第一楽章はソナタ形式で二つの主題が展開されてゆく、交響曲としては普通の構成になってるが、その二つの主題がはっきりと性格の違うものではないので、どうしても変化に乏しくなるようだ。
古典的なソナタ形式の曲では、力強い第一主題に対して第二主題は穏やかな性格のメロディーが配置される。
ラフマニノフの音楽はそういう特徴がやや薄くて、極論すればどちらも穏やかな性格を持っている。
第2楽章スケルツォは一転して活発な音楽で始まるが、中間の部分はロマンチックな音楽。
そしてゆったりとした第三楽章は、全体がロマンチックの塊とでも言いたくなるような、せつなく懐かしさいっぱいの旋律が、これでもか!というくらい押し寄せてくる。
むせび泣くような音楽。
そして終楽章の第二主題も同じような性格で、子の主題を最後に大きく盛り上げて全曲を閉じる。
この交響曲をあまり良く言わない人が多いことはわからないではない。
でも、聴く人の胸に訴えかける音楽なんだから、それでいいんじゃない?
世の中には、人の欠点をあげてその作品なり人格をけなしたり貶めたりする人がいるけど、それって何の意味があるのかな?と最近思うことが多くなってきた。
いいところがあればそちらの方をクローズアップするほうがいいはず。
音楽に関して言うなら、聴いてそれが自分に訴えかけてくるのならばそれは“わたしにとって”いい音楽なのだ。
聴いて心が弾むならそれはいい音楽、いい演奏、いい作品と言いたい。

この日の大植英次は、いい曲を名演奏で楽しませてくれた。
第一楽章はわりとあっさりした感じで、オーケストラもいくぶん硬め。まだまだ序の口という感じ。
スケルツォを挟んで第三楽章に入ると弦の音も生気を放ってくる。
この楽章のロマンティックなたたずまいこそこの曲の核心で、大植英次はここで大きくうねるような濃厚な音楽を展開する。
これぞラフマニノフ!
そして終楽章ではオーケストラもその渦の中に巻き込まれるように素晴らしいアンサンブルを披露してくれた。
ここで弦楽器は、一糸乱れぬ纏まり方であふれんばかりの想いを吐き出してくれた。
これだけ艶のある音は、大植英次の最大の魅力である。
ベートーヴェンやブルックナーの時の硬さが全くなく、自信に満ちた音楽を聴かせてくれる。
大フィルもここまできたか・・・と唸らされてしまう。大フィルに新しい伊吹を吹き込み、新たな響きを生み出した。

拍手しすぎて腕がだるくなった。こんな経験も初めてだ。

前半のブルッフのヴァイオリン協奏曲についてもすこし触れておこう。
プログラムを見た段階では、なんでこれとラフマニノフの交響曲の組み合わせなのかな?とやや疑問だったけど、並べて聴いてみて納得。
こちらも熱いロマンの香りいっぱいの曲で、独奏ヴァイオリンはもちろん伴奏のオーケストラも弦のアンサンブルが大活躍。
ベートーヴェンやブラームス程長くはなく、メンデルスゾーンの有名な曲にイメージとしては近いものがある。
独奏のルノー・カプソンはフランスの若手のヴァイオリニストで、アイザック・スターンが使っていた<グァルネリ>を弾いているらしい。
その音は非常に端正なもので、決して派手な音ではないが抑制の利いた美しいもの。
ブルッフの曲は、結構濃厚な弾き方をする人が多いが、このカプソンは変に力を入れることなく最後まで決して乱れない。
この日の演奏では、カプソンよりもむしろ大植英次の方がよりロマン的な音楽を作っていたと言える。
大植英次の、伴奏指揮者としての実力も相当なものだと思う。やや小さめの編成のオーケストラでしっかり支えてゆきながら、ここという所では濃厚な音楽を展開する。その出し入れが絶妙。
カプソンの素晴らしさは、その後のアンコールで示される。曲はグルックの「オルフェオとエウリディーチェ」から 「精霊の踊り」(第30番)
親しみやすい静かな曲だが、彼はこれを終始弱音で弾き通す。
シーンとした広いホールに、ピーンと張り詰めた在るか無きかのかすかな音が聞こえてくる。そのピアノのまま優しいメロディーが流れてゆく・・・・・
あっけに取られたように固まったまま聴き通した。


第414回定期演奏会 2008年1月23・24日

指揮 尾高忠明
ヴァイオリン サラ・チャン

曲目 シベリウス作曲  ヴァイオリン協奏曲ニ短調 作品47
エルガー作曲  交響曲第3番(ペインによる完成版)


シベリウスのヴァイオリン協奏曲は、ベートーヴェンチャイコフスキーの協奏曲に次いで好きな曲。
ベートーヴェンは別格として、ヴァイオリンの甘くせつない音色をストレートに感じさせてくれるのがチャイコフスキー。
そこから甘さを取り除いて、北欧の厳しい寒さを感じさせるのがシベリウス。
はじめて買った、オイストラッフ(ダヴィード・オイストラフ:ソビエトの代表的な名ヴァイオリニスト)のレコードは何度も聴いた。
オーケストラの弦楽セクションが、夜明け前の薄暗い北欧の雰囲気をかもし出す中、 独奏ヴァイオリンがピアニッシモで第一主題を奏でる。この始まりがこの曲の性格を際立たせる。美しさと言うより“暗さ”が表に出ている。
ヴァイオリンは休むことなくこのテーマを中心に華やかに演奏するけれど、曲は決してそ の暗さから抜け出さない。
そしてこの楽章の中間部では、ほとんどヴァイオリンの独奏で展開するという異例の構 成。
普通ソナタ形式の協奏曲の展開部は、独奏楽器とオーケストラが主題を華やかに展開して<聴かせる部分>なのに、シベリウスはヴァイオリンの独奏にその部分を任せるのである。
技巧的にも大変(?)なはずで、ヴァイオリニストの腕の見せ所でもある。

この日のヴァイオリニスト、サラ・チャン。韓国系のアメリカ人で、すでに8歳の時から<神童>と騒がれていた女性。まだ20代なのにその風格は<大家>そのもの。
このシベリウスの出だしのピアニッシモを聴いただけでその風格を感じさせてしまう。
曲が盛り上がっていっても決して先を急いだり、情に流されたりはしない。
イン・テンポ(一定の速さ)で盛り上がりを作っていく様子は、大家のそれであり、男勝りと言っても過言ではない。
本来の彼女の音がどういうものなのかはっきりとは分からないが、この曲にぴったりの音色のように感じる。
演奏しながら舞台上を動くので、音の出る方向が一定しないことが何度かあったり、興に任せて動き回った挙句床を強く踏みつける音が<ドスン>と聞こえるという場面もあった。
でもこれだけ安定した音楽を聴かされるとそんなことは大したことではないし、演奏のキズにもならない。
長年イギリスで活躍していた指揮者の尾高さんにとって、北欧の音楽は得意のはず。
ゆったりとしたサラのヴァイオリンにぴったり寄り添うような息の長い演奏を聞かせてくれた。
欲を言えば、そのサラと張り合うくらいの積極性がもっとあってもよかったのでは?
時にはオーケストラがサラのヴァイオリンを煽り立てたほうがこの曲には良かったように思う。
両者がもっと激しくぶつかったら、さらに気迫のこもったシベリウスになったと思う。そういう意味では、この日のサラの演奏は少しおとなしいという印象だった。



この日の後半は、尾高さん得意のエルガー。
それも未完の交響曲第3番を、後年そのスケッチをもとにペインと言う人が完成したもので、これがエルガーの曲だと言うには問題がありすぎる。
この版での演奏を日本初演したのがこの尾高さんで、自身音楽監督をつとめる札幌交響楽団とのコンビ。この日の大フィルとの演奏が日本で2回目ということらしい。
エルガーといえば、チェロ協奏曲を思い浮かべるがシベリウスの音楽と同じく、やや暗い音楽をイメージさせる作曲家なので、期待して耳を傾けた。
でも、演奏が始まってもあまりこちらに訴えかけてこない。
いつまでたっても音楽に<流れ>が出てこない。
発展して行きそうになるんだけど、そのあといつの間にか消えてしまうという具合で、聴いていて楽しくない。
失礼な話だけど、眠気の方が勝ってしまいそうになる。
終楽章くらいは聴き応えのある音楽になるだろうと思っていたけど、ついに最後までそうはならなかった。
演奏が終わると同時に、<ウォー!>という歓声が上がっていたので、感動された方はおられたようだけど私にはそんな感動は沸きあがっては来なかった。

いくら曲が素晴らしくても、演奏が素晴らしいものであっても、聴いてる個人にそれが感動的なものでないなら、その音楽はその人にとっては価値あるものではない。
「絶対的な評価」=「感動」とは必ずしもならないというのが、音楽にはある。
そんな言い訳を自分に言い聞かせながら、はやばやと会場を後にしてしまった。


第415回定期演奏会 2008年2月14・15日

指揮 大植英次
ジャズ・ピアノ 小曽根真

曲目 ラヴェル作曲  道化師の朝の歌
ガーシュイン作曲  ラプソディー・イン・ブルー
ベルリオーズ作曲 幻想交響曲 作品14


大植英次がベルリオーズの幻想交響曲を定期演奏会で振るのは2度目になる。
最初は、2003年9月の定期で取り上げており、かれが大フィルのシェフになってまだ2回目の登場で演奏している。
この年、朝比奈の跡を受けて大フィルの音楽監督に就任したところで、マーラーの交響曲第2番「復活」で華々しいデビューを飾った大植英次が次に取り上げたのが幻想交響曲。
このときの様子は今でもはっきり覚えており、感動的な一夜だった。
大フィルの大きな変貌、大植英次の音楽のすごさ、生の演奏会の素晴らしさを思い知らされたもの。

そして5年目の定期で再びこの曲を取り上げたのだが、<その意図はどこに?>というのが正直な思いだった。
まだまだ聴きたい曲がたくさんあり、急病でキャンセルしたマーラーの交響曲第九番もあるのに、なぜ今“幻想交響曲”なの?・・・・
この演奏が素晴らしいものになるだろうという予想は容易に出来た。むしろ名演が当たり前という認識にすらなっていた。
さて結果は・・・?

その前に、前半の2曲のことを外すわけには行かない。
まずラヴェルの「道化師の朝の歌」。
短い曲だが、スペイン舞曲のリズムが出てくるので、大植英次が取り上げたのもよく判る。
バルセロナのオーケストラを振るようになった彼が、今一番興味を持つのが“スペインのリズム”だろうから。
ラヴェルという人のオーケストレーションの巧みさ、華々しさは聴いていて楽しいし、ある意味オーケストラを聴く醍醐味を堪能させてくれる第一人者かもしれない。
次の曲が、ガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」。
アメリカで育ってきた大植英次、ジャズ・ピアノの第1人者である小曽根真、最近ジャズ・グループのアロー・ジャズとの共演が増えて話題になってる大フィル、この3者の共演は、聴く前から興味津々。
以外(?)なことに、登場してきた小曽根は燕尾服姿。
ジャズマンはラフな服装で出てくるものと勝手に想像していたので、いささか拍子抜け。
でも演奏が始まるとそんなことも関係ない。
出だしのクラリネットの、<これぞジャズ!>というようなグリッサンドを聴かせてくれたのは大フィルのブルックス・トーン。
一気にジャズの雰囲気に入るけど、オーケストラはしっかり纏まったクラシックの演奏。
小曽根のピアノも最初はおとなしい演奏で、いきなり崩した演奏はしない。
いくつかあるカデンツァ(独奏者が自由に演奏する箇所)も、はじめはごく普通の演奏に聞こえた。
ところがそのカデンツァが進むにつれて様子が変わってくる。
おとなしい演奏で終わると思っていたのが、徐々に乗ってきてジャズの即興演奏になってゆく。
リズムの変化も凄いもの。右手と左手が別々のリズムを刻むようになり、聴いているこちらも、目を凝らし耳を凝らしながらそのピアノにのめりこんでしまう。
時間を計ってなかったけれど、いったい何分かかったのだろうか?
ひょっとしたらこのカデンツァの部分だけで10分以上弾いていたのでは、と思うくらい。
小曽根さんの弾いている姿も独特。低音域での演奏になってくると、右足を浮かせながら左足でリズムを取る。
見た目にはちょっと奇妙だが、彼の独特のリズムの取り方なんだろう。慣れてくるとその姿にも共感する。

この曲でこんな長い演奏、今まで聴いたことがない。
クラシックのピアニストだったらこうはいかないということかもしれない。
でもそんな小曽根さんだけじゃなく、大植英次/大フィルとの共演部分も面白かった。
特に最後の部分では、大植英次が小曽根さんとアイコンタクトをとりながら(というより睨み合いながら)リズムを合わせているところなど、さすがと言うほかない。
はじめは少し硬いかなと心配していたけど、終わってみればあっという間の時間だったような気がする。
アンコールで弾いた自作の曲、時にはバッハを思わせる部分もあって素敵な演奏だった。
小曽根さんのピアノ、音の粒立ちが非常に綺麗で、特に高音をうまく使った演奏に特徴があると思う。
それにしても、ジャズの即興というのはいいものだ。
興に任せて弾いてゆく音が楽しそうに遊んでいるようだ。

そして今日のメイン、ベルリオーズ幻想交響曲
若者の情熱を音楽で表現している曲なので、演奏会で聴き応えのある曲の一つ。
二度目の演奏も、出だしの序奏部は静かで綺麗な弱音が雰囲気を作ってゆき、前回と同じような演奏になるのかなと思っていたが、曲が進むに従って少しづつ違う表現になってきた。
特徴的なことが二つあった。
まず、休符の時間が非常に長くて、フレーズが終わるとしばらく息を呑むような静寂な時があって次のフレーズにゆく。
音楽の途中に来る長い“”は、音楽の流れをきってしまうこともあるが、音楽に大きな緊張感をもたらすこともある。
今までの大植英次にはあまり見られなかった変化として、今回の演奏は一味も二味も違ったものになりつつあると感じた。
全体としては効果的だったが、その回数が多くて、やや効果の薄いところもあったことは事実。
そしてもう一つの特徴は、弓を弦に強く当てて弾かせる部分が結構あって、これが又凄く効果的だった!
今までの大植英次の演奏で、フォルティッシモの表現をする時には、音を大きくするだけだったのが、今回はもっと積極的で、音が割れてもいいから弓を弦に叩きつけるようにさせている。
大フィルのチェロがここまで激しく強い演奏をするのを今までほとんど見たこと・聴いたことがない。
これはやりすぎると雑音が入るし音が濁ってしまうので汚い音になる可能性もある。
でもそれを恐れず、表現を優先するという姿勢は必要だ。
大植英次がここに来て初めてそういう姿勢を見せてくれたことを喜びたい!
表面的に綺麗な音で演奏することが音楽の基本だとは思はない。
作曲家が表現したい情熱を表現するためには、おとなしい表現などありえないはず。
ベルリオーズの幻想はいわば狂気の音楽。その狂気を音にするのだから、思い切った表現は必要不可欠といえる。

こういう大植英次の変化は、前半の3つの楽章では時折顔を出すくらいで、その時点ではまだ最終的にどんな効果となって表れてくるのかはっきり分からなかった。
後半の第4・5楽章になってその意図は明確になる。
第四楽章の<断頭台への行進>では、金管群により強い音を出させ、チューバ・トランペットの咆哮、打楽器の強打も効果的でうるささは皆無。
弦のリズムもスタッカート気味に明瞭な音が聞き取れ、なおかつ厳しさもある。
この楽章での前半部分の繰り返しは効果的に響く。
そして、悪魔達がうごめく中で夢遊病者のように右往左往する人間を描く終楽章にきて、この日の大植英次の、一歩踏み込んだ強い表現方法が全開する。
大植英次の指示するアクセントは音楽の幅を大きくし、デフォルメすることをためらわない。

2003年の演奏は、本当に綺麗な音で素晴らしい音楽だった。
これを聴いた時は素晴らしい名演として今でも耳に残っているが、5年後に再挑戦した大植英次はそれとは全く違う世界を聴かせてくれた。
“幻想交響曲”に再挑戦したことの意味がよく判った。

どちらの演奏も好きだ。今回の方がこの曲の演奏としてはふさわしいかもしれない。
(前回の演奏も捨てがたい・・・)

この演奏を聴いて思うのは、こういう姿勢で他の音楽にも向かってもらいたいということ。
特に、昨年聴いたベートーヴェンの交響曲にもぜひこのような姿勢が欲しいのです。
50と言えばまだまだ指揮者としては若手、今聴かせて欲しいベートーヴェンはその若さあふれる斬新さなんです。
大事なものを丁寧に扱うようなベートーヴェン演奏は、もっと年取ってからのことで良い。
7番のフィナーレなんか、オーケストラがついて来られない位のアッチェレランドにしても良いじゃないか、第九の終楽章、30秒くらいのゲネラルパウゼにして、異様な沈黙の時を作っても良いじゃないか。
今日の演奏を聴いて、大植英次が一皮むけた姿を見せてくれたと思うので、これ彼が楽しみになってきた。
来シーズンは<スペインのリズム>でスタートする大植英次。
進化(深化)を期待してます。
第416回定期演奏会 2008年3月13・14日

指揮 高関健
ピアノ フィアルコフスカ

曲目 ショパン作曲  ピアノ協奏曲第2番へ短調 作品21
ブルックナー作曲  交響曲第5番変ロ長調


その演奏が素晴らしいものになるかどうかは、最初の2・3分でわかるようだ。
この日の高関/大阪フィルによるブルックナーの交響曲は、第一楽章の序奏を聴いただけで、オーケストラの音の充実ぶりがひしひしと伝わってきた。
ブルックナー開始>という言葉があるくらい、この人のシンフォニーの出だしは特徴的で、弦楽器のトレモロが静かにうごめきはじめ、やがて霧に包まれた深い森の奥からホルンの幻想的なメロディーが神秘的な幻想の世界に連れて行ってくれる。
ところがこの第5番のシンフォニーはそういう手法をとらないで、弦のピッツィカートの重々しいメロディーで始まる序奏部があって、他のシンフォニーとはやや異なる開始。
大阪フィルのこの部分の引き締まった音がこの曲の出来栄えを暗示していた。

高関のテンポはやや速めで、これでブルックナーの壮大な響きになるのかな?と少し心配したがそれは杞憂に終わった。
しばらく聴いているといつものブルックナーの音楽とは少し違っていて、少し違和感を感じるほど。
主題が細切れに出てきて、纏まった一つのものになっていかないもどかしさがある。
特徴的なのは終楽章で、主題が出る前にクラリネットがおどけたようなフレーズを挿入するかと思えば、ベートーヴェンの第九シンフォニーのように、前の楽章のテーマが回想するように出てくる。更に、第一主題が提示されたあと、普通なら次の第二主題になっていくはずなのに、ブルックナーは第一主題をフーガで展開し始める。
こういう玄人好み(?)の音楽展開は、私のような素人愛好家には、ついていくのに四苦八苦する。
でも、ブルックナーらしい荘重な金管の響きや、第2楽章の第二主題の素敵なメロディーが聴けて、十分楽しめる曲でもある。
高関さんの指揮は、大フィルを完璧にコントロールしてその音楽の魅力を予想以上(と言っては失礼だが)にしっかりと伝えてくれた。
音楽監督の大植英次さんが指揮をすると、今の大フィルは <大植サウンド> を聞かせる。
ピッチの揃った弦の実に綺麗な音色がその特徴。

この曲に限らず、オーケストラを支えるのは何と言っても弦楽器、このアンサンブルがしっかりしてないと音楽が生き生きとしたものとして伝わってこない。
大フィルのアンサンブルはこの弦がますます充実してきて、この日の演奏もそういう意味で実に安定感があった。なによりチェロの音が生きていた。
この弦に支えられ、ブルックナーの生命線ともいえる金管のファンファーレが意味深い響きを創り出している。
この両者が見事に交わっていたのが終楽章のフィナーレ。
大きな波のように弦楽器が渾身の力を振り絞って音を刻みそれにのっかて金管群が大きく盛り上げるところは正にブルックナー音楽の真骨頂!
高関/大フィルの創り上げた音に聴衆も圧倒された。
最後の音が鳴り響いたあとの静寂・・・・・・そして大きな拍手と歓声。

朝比奈/大フィルのブルックナーと比較することはあまり意味のないこと。
新しい大フィルが新しいブルックナーをこうして聴かせてくれる事にこそ意味がある。
いづれ、朝比奈に匹敵するような素晴らしい演奏を聴かせてくれる人が出てくることを信じたい。

ショパンの音楽は取り立てて聴きたいと思う音楽ではないので、特に印象に残るものではありませんが、フィアルコフスカというはじめてのピアニストは、女性らしい繊細な音を出す人。力いっぱい弾くでもなく、情に流されることもない。
綺麗な音でショパンを聴かせてくれた。
大フィルの演奏、出だしはまだまだ戸惑ったような探るような音で、少し不安げ。
でも次第にうまくあわせるようになり、終楽章では堂々とした音になっていた。
次のブルックナーの音が見違えるような張り詰めた音だったので、やはり自分達の慣れ親しんだ音楽だとこうも違うんだなと、変なところで感心してしまった。