1945年 京都市に生まれる。
1968年 3月 同志社大学 文学部卒業、5月にはリュック背負って「自分さがしの旅」に出る。
〜〜〜 ばら色に見えていたヨーロッパも、入ってみると、灰色の石畳冷たく、「帰りたい、帰れない」の2年間だった。人間 如何に 生くべきか、自分は一体何者なのかは相変わらず判然とせず、ただ、子守り、皿洗い、ホテルのメイドなどをやって糊口をしのいですごしただけ。(パリに十ヶ月、コペンハーゲンに一年、その合間にほとんどの国々を廻った。)ただ、裸一貫で、言葉もろくに通じない中、一匹の生きものとして生きた体験は、それなりに人生の財産にはなったようで、また、同類の日本人の友人が何人もできたことも収穫だった。
1970年 帰国してすぐに上京。文学で行くことに一応決めて、腰掛け的な仕事を転々としながら小説をひねくりまわすが、ずっと落選ばかり。社会参加もせねばならぬかと、ウーマン・リブの波に飛び込んだり、また外に出たくなって、ニューヨークに(1974年、約半年)行ったり、うまくいくはずのない恋に血迷ったり、、、で、まるで好んで挫折をくりかえしていたようにすら見える。実際、ひとりぼっちで、うなだれている時にこそ、もう一人の、本当の、自分と会い、じっくり対話をするわけで、そういうのが嫌いではないのだ。甘えん坊で、わがままな自分には、こういう苦労が必要だったに違いない。
1983年のある日、食料を買っていたスーパーで、ふっと 子供用のえのぐとスケッチブックも買いこんでいた。そうして自分でもわけのわからない絵が、堰をきったようにあふれ出てきたのであった。それは、子供の頃に住んでいた世界で、手塚治虫のマンガや、オードリー・ヘプバーンの似顔絵など、ほとんど毎日何か描いていたのであった。廻り廻って結局、心のふるさとに還ってきたのだと感じた。
1985年 文学の時とは違ってこっちでは、すぐに入選でき、やっぱり自分は絵を描く人間なのだなぁと、確信を持つことができ ほーっと安堵。すでに、39才になっていた。
〜〜 その間、とても絵では食べられないのはわかるので、比較的自由が効き、主体性を保てる、指圧を身につけ生業とする。
48才頃、更年期の波にみまわれ、妙に心細くなって、生まれ故郷に舞い戻ったが、
2006年 神戸に終の住処を得て、最後(のつもり)の引っ越しをして今日に至る。
1985 オランダ美術賞展 入選 (ルールモント市立美術館、
フーンスブルックキァッスル美術館、 ホテル・マーストリヒト・ギァラリー)
1986 スペイン美術賞展 入選 (セヴィリア、カディス、コルドバ、グラナダ)
1989 サロン・ド・トンヌ 入選 (パリ、グランパレ)
1991〜1992 フィナール国際美術展 入選 (銀座マツザカヤ)
1989 オートフォイユ画廊 主催 1989 ・クリスマス祭 招待出品 (パリ)
2004 国際芸術交流展 神戸2004 出品 (兵庫県立美術館分館 原田の森ギャラリー)
個展
・『新生』(GALLERY HARU、有楽町) 1987
・『再会』 (ギァラリー ヒルゲート、 京都) 1990
グループ展
・『それぞれの宇宙』(ギァラリー ヒルゲート、京都)1998