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無源 The Fountainless 『老子』 第4章 道。冲而用之或不盈。淵兮似萬物之宗。 挫其鋭。解其粉。和其光。同其塵。 湛兮似或存。吾不知誰之子。象帝之先。 【注】 「或」は、常と同義(河上公注)。 道は、冲(から)っぽで、 いくら注いでも一杯になるということがない。 それは奥深くて万物の生まれ出る大本のようだ。 それは鋭さを挫(くじ)き、粉(もつ)れを解きほぐし、 万物の輝きを和らげ、万物の塵(よご)れを同じくする。 それは深くたたえて常存不滅の存在のようだ。 わたしにはそれが誰の子供なのか分からない。 どうやらそれは天帝に先だつ実在のようだ。 cf. 福永光司 『老子』 (朝日選書)、pp.61-65 ⇒ ENGLISH tr. by James Legge, 1891 河上公本『老子』第4章の章名は、「無源」。 それに先立つ源は無く、 道(タオ)こそが 源(起源) という意味。 1891年のJ. レッグの英訳では、「無源」は「The Fountainless」。 つまり、「源」の英訳が 「Fountain」 ということになる。 デュシャンが小便器に添えた題名は、それに由来するのであろう。 本文におけるレッグの誤訳は、小便器として意味ありげである。 従来の一般的和訳「泉」は、 『老子』第6章の谷神 を彷彿させ、 それなりに詩的といえるのだが・・・ |
![]() 《 Fountain 》, 1917 Photo by Alfred Stieglitz ⇒ 《EQUIVALENTS》1923-36 この小便器は、道(タオ)を表象。 所謂道悪乎在、荘子曰、无所不在、 ・・・、曰在尿溺、・・・ 謂わゆる道は悪(いず)くにか在ると。 荘子曰わく、在らざる所なしと。 ・・・、曰わく、尿溺(しにょう)に在りと。・・・ 『荘子』 知北遊篇 第二十二 ⇒ 無の用 ⇒ 坎水逆流 ⇒ 石川虚舟 《ガラス製の泉》 2011 |