岡崎神社の
   狛兎
   厄除子授兎
   提灯
折々の独り言経済風味のエッセイ
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      鏡開きと切り餅特許バトル(2011年1月中旬)

      身勝手な「政治生命」2種(2011年1月中旬)
      卯年に望む「今年の漢字」は(2011年1月上旬
      紅葉の当たり年と猛暑日本一(2010年11月下旬)
      白旗に勝る「うだうだ」(2010年6月下旬)
      ポン、ガラ、ペコペコ:型と心 (2010年1月上旬)
     






         鏡開きと切り餅特許バトル
                              (2011年1月中旬)



 私の知識では、京都の鏡開きは1月4日と決まっている。しかし、そんな気の早い鏡開きがどの範囲で行われているのか、京都で育った私なのに寡聞にして知らない。少なくとも一般家庭の場合には、この地においても全国的に主流の1月11日の方が普通だろうと勝手に判断して、その日を待ってわが家でも鏡開きをした。
 開いた鏡餅は、昨年末に私が飾ったものだ。不信心なくせに一夜飾りは避けたい気持ちが働いて、30日に小さな置床の上に小振りの鏡餅を置いた。もったいをつけて話すには及ばず、たんに「サトウのサッと鏡餅」を箱から出してセットしただけのことだったが。祭事の厳粛な情緒など、かけらもありゃしない。
 米屋から届いた大きな鏡餅のほかに、三方、半紙、ゆずり葉、裏白、葉っぱ付きのだいだいの実。昔は毎年、それらを並べて、さてどんな順だったかなと思案したものなのに、いつからこんな略式になってしまったのだろう。古びた写真のように、記憶のセピア色が年々深くなる。
 懐旧の情はさておき、箱から鏡餅を出したときに、ちょっとした違和感を覚えた。見た目もセットの手順も例年の品とそっくりなのに、何となく細部に違いがあるようで、妻に聞いてみた。去年までは越後製菓の鏡餅だったが、気分替えに今年はサトウにしてみたとのことだった。少し前に越後製菓側が敗訴した佐藤食品工業との「切り餅特許紛争」が、ちらっと頭をかすめた。わが家でも越後はサトウに敗れたり、か。
 誰もが知っているように、正月にお供えした鏡餅を床の間から下げて、切ったり割ったりし、雑煮や汁粉にして食するのが、鏡開きだ。室町時代に始まった武家社会の風習だとか。「切る」や「割る」は初春には縁起が悪いとして、わざわざ「開く」の語が使われてきた。いや、うんちく好きによれば、切腹を連想させる「切る」は、言葉の上だけでなく行為としても嫌われ、固くなった鏡餅は木槌で叩いてひびを入れ、ぐいと手で開いたのだそうだ。昭和の世でも包丁で切るなんて禁物だったのかもしれないが、ここでも必死になって出刃包丁の背に全体重をかけていた昔日の自分が思い浮かぶ。
 だけど、よくしたもので、きょう日の鏡開きは(少なくともわが家のそれは)、「開く」以外の何者でもない。サトウの鏡餅(という名の鏡餅型容器)をひっくり返して、底ぶたを開け、中に詰まっている真空バックの小餅を取り出せば、はい一丁上がり。縁起を担いでの「開く」が文字どおりの「開く」になったんじゃ、中世以来の縁起も形無しだね、とニンマリ。
 鏡餅の話はこれでケリだとしても、切り餅の方はまだネバネバした特許紛争が続いている。簡単に経過を見ておこう(「知財情報局 IP-NEWS」参照http://news.braina.com/)。
 一昨年(2009年)3月に、越後製菓が佐藤食品工業を特許侵害で東京地裁に提訴したのが、事の始まりだった。越後の切り餅は、側面に長手方向の切り込みを入れることで、加熱時にきれいに膨らみ中身が噴き出ないようにするという工夫をこらしており、そのアイデアには特許が付与されている(02年10月に特許出願、08年4月に登録)。「サトウの切り餅」がこの特許を侵害している、ついては製造・販売の差し止めと損害賠償(14.8億円)を、との訴えだった。
 佐藤側は、自社製品は越後が保有する特許の侵害には当たらないとして応訴。同社の切り餅の場合には、側面の溝状の切り込みに加えて、上面と下面にも十字の切り込みが入っており、こちらも特許が認められている(03年7月に出願、04年11月に登録)。この自前技術による製品だとの佐藤の主張を認めて、東京地裁は昨年11月末に越後の請求を棄却した。越後側がこの判決を不服として12月半ばに知的財産高等裁判所に控訴し、現在に至っている。
 知的財産権の経済的意義に興味を持ち、日米企業間の特許紛争のケーススタディをしたこともある私にとっては、見過ごせない問題だ。ただし、立ち入った考察は別な機会に委ね、今は感想の一端を短く記すだけにしよう。
 1992年3月に、ミノルタカメラが米ハネウェル社から仕掛けられた自動焦点技術をめぐる特許紛争に敗れ、166億円もの和解金支払いを余儀なくされるという出来事が起きた。日本中に知財権への関心を巻き起こす引き金になった事件だった。米国内の法廷で、ミノルタ側はハネウェル特許との技術的相違を明確に説明したにもかかわらず、地元の選挙人名簿から無作為に抽出された陪審員たちは、基本的な発想が似ていると「均等論」の立場に立って、ミノルタ側に非ありの評決を下した(坂井昭夫『日米ハイテク摩擦と知的所有権』有斐閣、1994年、参照)。
 もし国際的に版図を広げてきている感のある均等論が採用されるとすれば、越後製菓の方に勝ち目が出るんじゃないか。特許裁判にも米国と同じように陪審制(に類似の裁判員制度)の適用を認めたら、技術問題には「ずぶの素人」たちによる判断はどんなものになるのだろうか。
 切り餅特許バトルに関する私の感想は、日本の特許付与や特許裁判の制度をもっとグローバル・スタンダードに向けて開いていく必要の有無を考えなければ、という問題意識につながっている。ここでもキーワードは「開く」だ。

  
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       身勝手な「政治生命」2種      
                      (20111月中旬)


 なんかよくわからない言葉だな、と以前から思っていた。いやにオーバーで独りよがりだし、押し付けがましくもあるので、あまり好きじゃなかった。それを、この数日、テレビのニュースで幾度となく聞かされている。
 問題の語は「政治生命」。『広辞苑』によれば、この場合の「生命」は、「物事の存立にかかわるような大切な点・もの。また、活動の原動力」を指している。だから、政治生命とは「政治家という存在の根源にかかわる大切な点」を意味しており、仮に政治生命をかけて闘って敗れれば、政治家は活動の原動力を失い、もはや政治家ではありえなくなってしまう、ということなのだろう。だけど…
 1月5日の夜、民放テレビ番組に出た菅直人首相が、社会保障制度の抜本的な見直しと消費税を含めた財源確保について「政治生命をかける覚悟で臨む」と表明した。6月をめどに改革の方向性を示すと期限まで切ったので、正月気分を一気に押し流すように、たちまち多方面に波紋が広がった。
 しかし、翌朝には、首相発言が内閣の寿命を縮める事態を危惧した仙谷官房長官が、早々と火消しに出動。記者会見で、官房長官は、首相が政治生命を口にしたのは「危機感がそこまで深いという認識と覚悟」の表れであって、かりに野党の非協力などから6月までに成案が得られなくなったとしても首相の政治責任は問われない、と予防線を張った。首相自身も、同日夕方、発言の真意を問う記者団に対して、「全力を尽くしてやるという意味だ」と答えた(「時事通信」、「読売新聞」、参照)。
 言葉から一夜にして本来の重さが失われたのには、ほとほと呆れてしまう。だけど、それにも増して重要なのは、「いかなる目的に向けて政治生命をかけるとされたのか」という点だろう。「国民にある程度負担していただいても、社会保障を安心できるものにしなければならない」と言い添えられたことからも明らかなように、菅首相が政治生命のターゲットとしたのは、消費税増税の道筋をつけることであった。

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 ここで思い起こされるのが、昨年夏に勃発した消費税騒動だ。
 政権交代から1年も立たずに鳩山内閣が退陣したのを受けて、6月8日に菅内閣が発足した。その9日後に、菅首相は参院選マニフェスト発表の記者会見の席で、税率を含む消費税改革案を年度内にとりまとめたいと言明。翌日に主要閣僚に示された案では、税率は現行の2倍水準、増税実施の時期は最速で2012年秋(これは「4年間は引き上げない」とした前内閣の公約の撤回を意味した)、となっていた。
 唐突な首相提案は物議をかもしたが、6月22日の9党党首討論会において、菅首相は「政治家が政治生命をかけて申し上げていることだ」と、改めて決意のほどを強調した。しかし、内閣支持率の急低下を目の当たりにして、27日には、「(超党派の議論を)呼びかけるというところまでが私の提案だ」とトーンダウン。1週間にして政治生命の悲壮感は色褪せてしまった。
 首相が軌道修正をはかったにもかかわらず、7月11日に投票がおこなわれた22回参議院選挙で、民主党は歴史的な大敗を喫した。当然のなりゆきだろうが、同月29日に参院選総括の場として開かれた民主党両院議員総会では、菅首相によって突如なされた消費税議論の呼びかけが大きなマイナス要因になったとして、その責任を問う声が相次いだ。それに対して、首相は、財政健全化の責務を意識するあまり「前のめりの話になってしまった」と釈明する一方、次のように述べた。
 昨年(2009年)8、9月に本格的な政権交代を達成したとき、私は政治家としての最大の目標を達成したと感じたし、今もそう感じている。と同時に、達成した政権交代をぜひとも定着させなければならないとも思っている(民主党ビデオ配信資料、参照)。

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 上記の応答を耳にしたとき、私は強い違和感を覚えた。きっと多くの人たちが同じように感じたに違いない。
 政権交代の実現は、確かに菅氏を含む民主党の全議員にとって、政治家冥利に尽きる快挙だったろう。ただし、それはあくまでも民主党政権がマニフェストに掲げた政策を実行するスタート点に立ったということでしかなく、国民の願いは選挙公約が誠実に履行されるところにあった。民主党の政治家にとっても、政権交代それ自体が目的だったのではなくて、政権交代は自らが声高に訴えてきた政策を強力におし進めるための手段だったはずだ。政権獲りの成就を公約達成につなげてこそ、政治生命をかけて取り組んでいるのだと胸を張れるのではなかろうか。
 ところが、菅首相の言い回しには、民主党の政権奪取すなわち目的の達成であり、次のステップは政権維持に向けてのマニフェストにとらわれない政策の導入だ、との認識がくっきり投影していた。それを象徴したのが消費税に関する露骨な変節、すなわち消費税増税論の4年間封印を宣言して政権を手に入れながら、その後1年足らずにして自らが首班指名を受けるや否や消費税増税論を持ち出してきたやり方にほかならなかった。
 これでは、政権交代を経由してまっすぐ延びているべき政治家としての大道が、政権交代の地点であらぬ方向に屈折してしまっている、としか評しようがない。言い換えれば、首相の政治生命の仕向け先が、民主党による政権奪取から消費税増税の具体化に切り替わったのだった。昨夏の両院議員総会における菅首相の反省は、その切り替えが慎重さを欠いて「前のめり」になりすぎたことに対してだけでしかなかった。
 そして、5カ月が経ち、年も改まった今月の5日、機をうかがっていた首相が再び消費税増税の旗振り役を買って出た。冒頭に記したとおり、今度もまた政治生命という大仰な掛け声を発しつつ。言葉の軽さも前回と同様だが、他面で繰り返しが本気度の高さを物語る点に留意する必要がある。

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 「政治生命をかけて」は、もとより管氏の専売特許ではない。いや、民主党・小沢一郎元代表の場合には、より頻繁にそのフレーズを用いてきた。
 たとえば、2006年9月の民主党臨時党大会で、再選を承認された小沢代表(当時)は、挨拶に立って、「私自身の政治経験、政治生命のすべてをかけて(対自民党)決戦の先頭に立つ」と息巻いた。翌年1月の定期党大会においても、「生活維新」実現のために参議院での与野党逆転を目指す政治決戦にあたり、私は以前から表明してきたとおり「政治生命をかけて闘う」、と決意を語る小沢代表の姿が壇上にあった(「民主党メールマガジン」参照)。
 2007年7月実施の第21回参院選で与野党逆転を果たした民主党は、2009年8月末の第45回衆議院議員総選挙でも大勝し、ついに悲願の政権交代を達成した。衆院選前の5月に、西松建設疑惑に関連して公設秘書が逮捕された件で代表辞任に追い込まれた小沢氏は、鳩山内閣の発足とともに首相の要請に応えて民主党幹事長に就任。しかし、やはり「政治とカネ」問題が痛手となって、昨年6月、鳩山内閣の終焉と同時に幹事長職を退くにいたった。
 せっかく政治生命をかけて政権交代の偉業を成し遂げたのに、9カ月後には、その政治生命が政治資金疑惑のブラックホールに吸い込まれてしまった――小沢評価は人それぞれだとしても、小沢氏の政治生命はこれで断たれたとの見方が広まったのは、けだし当然であった。
 ところが、鳩山内閣の後を継いだ菅内閣が脱小沢色を鮮明にしたのに反発した小沢元代表は、9月の民主党代表選挙に出馬する挙に出た。表舞台への復帰とともに「政治生命をかける」も息を吹き返す。
 同月4日、管・小沢の一騎打ちになった同選挙の初の立会演説会で小沢氏は、JR新宿駅西口の街頭に立って、管内閣の財政再建方針を官僚主導のやり口そのままだと批判しつつ、景気回復に効果的な財政出動をはかることなどの必要性を説き、「私の政治生命のすべてをかけて皆さんのために頑張る」と、なみいる聴衆に意気込みを訴えた。7日に高知でおこなわれた街頭演説での小沢氏の言葉は、輪をかけて激しいものだった。いわく、「政治生命をかけて日本を変える。場合によっては物理的生命も賭けることになるかも」(「産経新聞」参照)。
 7月14日の臨時党大会(党代表選挙集会)での政権演説においても、小沢氏は、自らの政治資金問題によって党と国民に迷惑をかけたことを詫びた上で、次のように決意を述べた。今こそ官僚主導の政治を打ち破り、政権交代にさいして民主党が国民と交わした約束を果たすべく最大限の努力をしなければならない、そのために「私は自らの政治生命の総決算として最後のご奉公をする決意であります」(民主党ビデオ配信資料、参照)
 代表選は、小沢元代表の敗北に終わった。しかし、国会議員票の半分近くを獲得した小沢氏は、民主党内で一定の影響力を保ち続けており、今なお「最後のご奉公」の意欲を隠そうとしていない。検察審査会の「起訴すべきである」との議決を受けて、政治資金規正法違反の罪で起訴される時が刻々と近づいているにもかかわらず、だ。

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 ともに政治生命をかけて政権交代を勝ち取ったかつての盟友、菅首相と小沢元代表が、現在は不倶戴天の政敵(ひょっとしたら一見?)として角突き合わせる状況となっている。一方は、政治生命の道をあっさり付け替えて、政権交代の実現に寄与した公約とは明らかに背反する目標に政治生命をかけると唱えながら。他方は、「政治とカネ」問題と代表選の敗退ですでに消えていてもおかしくない政治生命を、強引に我が手で蘇らせ、再び、三度と繰り返し「国民へのご奉公」に投じながら
 風合いの異なる政治生命2種。私には、そのどちらもが「生命」の厳粛さに不似合いな身勝手さに染まっているように感じられて仕方がない。政治生命の語を自分本位に弄んでいる間に、国民の目から見た政治生命は薄汚れ、やせ細ってゆく――その危険性をぜひとも当人たちに自覚していただきたいと思う。


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        卯年に望む「今年の漢字」は
                      2011年1月上旬)

 2011年(平成23年)が明けた。
 卯年だ。うさぎにあやかって、日本の政治・経済が長い閉塞状態から脱兎のごとく抜け出し、国民生活も飛び跳ねるように向上してくれればよいのだが。12月に清水寺の貫主が揮毫する「今年の漢字」に「脱」(脱帽なんてのもグー)か「跳」が選ばれる、そんな1年であってほしい。
 そして、来年の干支(辰)がらみの期待感あふれる漢字「昇」につながれば、言う事なし。もちろん、昇竜の昇だ。「登」(登竜門)でもOKかな。だけど、「恐」(恐竜)は御免こうむる。続く再来年(巳)は? 「毒」(蛇毒)、「藪」(薮蛇)、「尾」(竜頭蛇尾)…。もうやめよう、これぞまさしく蛇足なので。
 そう言えば、先月発表された2010年の「今年の漢字」は「暑」だった。チリ鉱山落盤事故で地下700mの暑苦しい避難所に閉じ込められた33名の作業員たちが、ボーリング穴からカプセルに乗って次々に地上に引き上げられた。あの感動的な全員救出の映像は、まだ世界中の多くの人の瞼に焼き付いているにちがいない。しかし、大方の日本人にとって一番ピンとくるのは、観測史上最高の平均気温を記録した歴史的な猛暑の方では。梅雨明けからどんどん最高気温が上昇し続けただけでなく、盛夏の8月よりも9月の方が一段と暑く、しかもお彼岸を超えてもなお残暑が続いた。
 実は、その長くて厳しい夏の間ずっと、いや前後にプロローグとエピローグがついて5月の大型連休明けから紅葉が色づき始める頃まで、私は妻ともども、かつてないほど心身に負荷がかかる日々を過ごした。健康問題など身内の事情が主な原因だったが、幸い半年にわたる長丁場の非常事態を乗り切ってほっとしたところで、平穏に年を越すことができた。わが家的にも、2011年が足場の崩れやすい難所からしっかり脱出する1年、運気の跳ね上がる1年であってほしい、と切に願う。
 新年の願かけとなれば、なすべきは言わずと知れた初詣。ってことで、3日に家族プラス孫たちで、自宅そばの氏神様に参拝した。初詣には厳密な定義などなく、三が日がすんでからでも1月中ならかまわない、参詣先は神社・仏閣を問わない、何箇所行っても問題はないどころか多様なご利益を期待できるとの説もある由――実に融通無碍ですな。家族の間では、近いうちにもう1箇所と行こうと決めている。
 お目当ては、干支にちなんで岡崎神社。鳥居の側にはうさぎの絵柄の提灯、拝殿の前に一対の狛犬ならぬ狛兎、そして黒光りのする厄除子授兎と、うさぎ尽くしで知られる神社だ。散歩がてら一度立ち寄ってみたら、普段は人っ気のない境内から人がどっと溢れ出し、外の歩道に何十メートルもの長い列ができていたので、日を改めることにした。
 3年前の初詣を思い出す。子年だった。いつ行っても人影のない大豊神社なのに、狛鼠に会おうと大挙して押し寄せた参拝客が参道入口の「哲学の道」までぎっしり詰まっていて、近寄りもできなかった。十二支だから12年に1回の大盛況なのだろう。神社にとっての12年ごとの掻き入れ時をほほえましく感じる一方、残りの11年は大変だろうななんて要らざる気を回したりして。
 ともあれ岡崎神社には再チャレンジの予定でいる。もう人出も減ってきている頃だろうに決行が遅れているのは、寒波の波状攻撃と家族の風邪っけのせいだ。去年の猛暑の原因だったラニーニャ現象が持続して、今冬の寒さに一役買っていると聞けば、「跳ね回るのはうさぎに任せて、そろそろ家にお帰り」とラニーニャ(スペイン語で「女の子」の意)ちゃんに説教したくもなる。
 この厳冬には北極振動とやらも大きく関わっているそうな。でも、ラニーニャと北極振動の間にどんな連関が存在するのか、それとも無関係な両者がたまたま重なっただけなのか、専門家の意見も分かれているみたいで、素人の私などは狐につままれた感じ。それどころか、そもそもなぜラニーニャや北極振動が起こるのかのメカニズムすらわからないし、第一その最も基本的な点に関する専門家の解説を見聞きした覚えもありゃしない。寒さきびしき折ゆえ、地球は温暖化しているのではなく逆に寒冷化しつつあるといった説の真偽も気になる。本当のところ専門家とされる方々にどこまでわかっているのか、腑に落ちるようにお教えいただきたいものだ。
 むろん、自然現象だけでなく社会現象についても、知りたいことが山のようにある。とくに2011年の世界と日本の政治・経済がどんな動きをみせるのかには、私も今を生きる日本国民の一人として強い関心を寄せており、幅広い専門家のご意見を拝聴したいと願っている。ただ、私としては、この分野については教えを乞うばかりでは立つ瀬がない。年頭にあたって、自らも少しは世のためになる知見を発信しなければとの思いを新たにする次第なり。


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        紅葉の当たり年と猛暑日本一
                      (
201011月下旬)

 

 御所(京都御苑)の一角を家族3人で散歩して帰宅したところです。常緑の松と真っ赤なカエデのコントラストも見事だったけれど、白い玉砂利に降り敷いた銀杏の落ち葉の黄色い絨毯が、その上にたたずむ幼児の太陽を背にしたシルエット付きだったためか、ひときわ印象的でした。
 一昨日は、やはり妻、長女と連れ立って、京都府立植物園まで散歩がてらの紅葉見物に行ってきました。一番のお目当ては、樹齢100年、高さ25メートルのフウの大木で、この数年は欠かさず眺めに通っています。近隣諸府県から訪ねてくるファンも多いという人気者なのが一目で納得される幻想的なたたずまいに、今年もまた、ただただ魅了されるばかりでしたね。
 その2日前には、真如堂から黒谷さん(金戒光明寺)まで、これまた3人で散策しました。真如堂の境内は絵の具を流したように真っ赤に染まっていて、まさしく紅葉シーズンたけなわの風情でした。一昔前は「もみじの隠れた名所」だったのに、年々紅葉客が増えて、今は穴場どころかツアーが次々に乗り込んでくる立派な観光スポットです。特に今回は、京都の秋を映すTVの全国中継で真如堂が派手に扱われたせいもあってか、縁日のような人混みでした。昔を知る周辺住民の一人として、メジャー化の活気や良し、されど以前の閑静さが懐かしくもあり、の複雑な心境にさせられました。
 ほかにも東福寺や岩倉実相院などに足を運びましたが、どこも精一杯の華麗さを見せてくれ、おかげで駆け抜ける錦秋をしっかり堪能できたと大満足。今年は気象条件からして紅葉の当たり年になるとの報道がしきりになされ、その声に促されてあちこちうろついた面もないと言えば嘘になります。ですから、確かに専門家の予想にたがわぬ何年かぶりの艶やかさですだ、と感心してもいます。
 原理はうろ覚えでしかないものの、紅葉の美しさには、直前の時期に昼夜の温度差が大きく開くことだけでなく、夏場の暑さや日照時間の長さ、多雨なども深く関わっているはずです。となると、近頃の朝夕の冷え込みは肌身で感じているところですし、過ぎ去った夏のひどい酷暑と各地でのゲリラ豪雨騒ぎも思い出されます。そう言えば、あれはどうなったのかな?
 手帳のメモによれば、今年の国内最高気温(39.9℃)が観測されたのは95日のことでした。それを記録したのは、なんと我が京都府の京田辺市だというのです。ちなみに、39.9℃は9月の気温としては、10年前に埼玉県の熊谷市で出た39.7℃を超える観測史上最高値でもあります。「本年における」とか、「9月についての」とかの限定があるとはいえ、日本一・史上一位の響きは心地良く、京都府民として思わず口元がほころびました。猛暑の地であることが褒められた話かどうかはいざ知らず、です。
 ところが、喜び(?)も束の間。数日後に目にした新聞記事にびっくり。京田辺市内に設置されたアメダス(地域気象観測システム)には蔓草が巻きついていた、だから不正確な計測だった恐れもある、とのこと。もしデータの正確性に問題ありと判断された場合には取り消しの可能性もある、と気象庁が示唆したそうなんですね。
 せっかく手にしたオリンピックの金メダル危うし、ドーピング検査の結果次第で剥奪か、てな不吉な予感が、必殺仕分け人・蓮舫さんの声を伴って頭をよぎったものです。「一番じゃなきゃダメですか?」
 あの時そう感じながら、心せわしい日々が続く中でそれっきりになり、今の今まで完全に忘れさっていました。はたして、その後の展開やいかに。近いうちに成り行きを調べてみることにしようかな。――師走が迫る晩秋に、世間離れした呑気な思いをめぐらせている私です。


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        白旗に勝る「うだうだ」
                     
20106月下旬)



 もう降参だ、白旗をあげよう。一瞬そう思いはしたが、すぐさま、白旗を掲げてケリがつくような話じゃなしと自分にダメ出しをする。
 だいいち、戦場で全滅のピンチに立たされた側が白旗をあげたって、相手が攻撃をやめてくれる保証など、どこにもないじゃないか。
 確かに、戦時国際法のさきがけとなったハーグ陸戦条約(1899年締結、1907年改定)が生まれた頃には、条約の規定するルール(民間人殺戮の禁止や捕虜虐待の禁止等に加えて白旗ルールも)にのっとって遂行された「堂々たる戦争」も、散見された。だけど、その後の歴史をみると、戦争の総力戦化や局地戦・ゲリラ戦の頻発などに伴って、戦争の基本ルールからの逸脱がどんどん進み、今や条約は空文に等しい有り様と化している。
 もはや戦場にあっては、戦いのルールをきちんと守るモラリストなど絶滅危惧種であって、探してもめったにお目にかかれる存在ではなさそうだ。白旗を目にした敵側は、降伏の意思を認めて打ち方を止めるどころか、そこを目がけて集中砲火をあびせてくるものと心得るべし。これでは、うかつに白旗など掲げられるものか。戦場とは無縁だのに、勝手にヒートアップして、油断するなと自分を戒める。
 それにしても、戦う相手が人間ならまだしも、とも思う。わが家周辺に病害ビームの波状攻撃を仕掛けてくる疫病神。そんな得体の知れない御仁にルールの遵守やモラルを求めるのは、金権政治家に「政治とカネ」問題の解決を約束させるよりも難しい。なにしろ、交渉や説得に乗り出そうにも、接触の方法すらわからないのだから。
 こうした次第で、白旗論は、瞬く間に脳裏から消え去った。私が身を置く仮想戦場の露と消えた。ついでに疫病神も露になってくれれば有り難いかぎりだが、こんなふうに「うだうだ」述べているだけでも苛立ちが鎮まるのだから、贅沢は言うまい。白旗ならぬ「うだうだ」を携えて、疫病神がもう飽きたと家を離れるまで、焦らず騒がず、お相手を務めることにしよう。

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     ポン、ガラ、ペコペコ:型と心 (2010年1月上旬)


 今年も元日に、家族そろって近くの氏神様に初詣した。もともと不信心な私なので、きちんとした参拝の方法など身についているはずもない。でも、そこは亀の甲より年の功。数年前に自分なりに手順を「呪文」化したおかげで、今では、神社に行けば「ポン、ガラ、ペコペコ、パンパン、ペコ」の音律が耳に流れるようになった。
 ポンとお賽銭を投げ入れ、ガラと鈴を鳴らす。ペコペコは2礼、そしてパンパンと拍手を2度して、ペコの1礼で締めくくる。――何しろ数人で満杯になってしまう狭い社殿内のこと、参拝者の挙措は傍らに控えている巫女さんから丸見えだ。そこで、彼女の視線を意識して、恥をかかぬようにと呪文の順に落ち着いて行動した。立派な所作だったと密かに自賛し、巫女さんからお神酒をいただき、社殿を出たとたんに気がついた。そうだ、願い事をするのを忘れていた。
 実は、この私、1年前にもまったく同じ過ちを犯した。そして、その時、お手軽に「型」だけを覚えようとするのは良くないなと、少しは反省したはずだった。
 武道や古典芸能などでは、まず型の模倣から入れと教えられることが多いと聞く。多分、型の中にはその道の精髄とも言える大切な「心」が凝縮されて詰まっているのだろう。ゆえに、型の習得は精神的な何かの感知と表裏一体の関係にあるということなのでは、と私は門外漢なりに推察している。何年間か茶道の稽古に通った若い頃からずっと抱いてきた自分のそうした思いも、しょせんは素人の観念論にすぎないのかもしれない。だとしても、型に宿る心を置き去りにして、うわべの型ばかりにとらわれるのは、やっぱり褒められた態度ではなかろう。
 むろん、修行や修練と神社参拝とでは問題の次元が違う。とはいえ、せっかく神社に参りながら、型を意識するあまり肝心の祈りを失念してしまうなんてのも、お寒い限りだ。確かにそのように自覚し、型と心の乖離をなくそうとすれば、心根の方をどうにかしなきゃいけないんだろうなと思いもした。
 その夜、TVニュースを眺めていたら、初詣客たちの参拝風景が大写しになった。彼らの口元を見ていると、どうやら2拍手の後に頼み事をしているらしい。そこで、さっそく、わが呪文の中に祈りの「アーン」を挿入してみる。「ポン、ガラ、ペコペコ、パンパン、アーン、ペコ」、よし手直し完了。――これが不信心の不信心たるゆえんなのでしょうね。心掛けを変えなきゃと殊勝につぶやきながら、実際には、型の表記を少しいじるだけで間に合わせてしまうなんて。
 けれども、改訂版の呪文とて万全ではなかった。実地に試してみると、「アーン」の位置がわかりにくいという問題が出てきたからだ。
 例えば、十二支にもう1種類何かを加えるとすれば、最有力候補となるのは猫にちがいない。で、その席順はとなると、寅と卯の間以外には考えられない。ただし、「わたし的には」、かつ「語調の面に限って」ということだが。「ネ、ウシ、トラ、ネコ、ウ、…」、実にリズミカルですな。
 そんな「十三支」の場合なら、私にしてみれば、さて猫の居場所はどこだったかなと迷うはずもない。ところが、ポン・ガラ呪文のアーンとなると、ここでないとしっくりこないといった定位置などない感じがする。「ポン、ガラ、アーン」でも、「ペコペコ、アーン」でも、はたまた「パンパン、アーン」でも大差がないようで、だから、いざ参拝の場に立つと、時にあれっと首をかしげる羽目になったのだろう。しかし、非日常的な不都合でしかなかったので、何の手もうたないままにしてきた。
 今年に話を戻せば、年明け早々の氏神様詣では、単に願い事をし忘れただけではなかった。その防止策として呪文をアーン入りに修正していたことさえ、なぜか完全に頭から消し飛んでいて、旧版の呪文が聞こえてきた。これじゃダメだと、改訂版の呪文を記憶に刻み込み直して、翌日、平安神宮にて雪辱戦に臨む。
 にもかかわらず、ですね。大所につきものの行列待ちをして賽銭箱の前に立ってみると、なんと鈴がなかったんですよ、ポンに続くはずのガラが。意外な手違いが生じて次はなんだっけと考えていたら、後続の人たちに押され、アーンに行き着かぬままエリア外にはじき出されてしまった。型と心の乖離どころか、型の崩れが災いして心にまで出番が回らずのお粗末。これぞまさしく型なし(形無し)だと苦笑した。
 さて、個人的にはいささか不恰好なスタートを切った2010年は、日本の国民にとってどんな1年になるのだろうか。私としては、鳩山内閣が昨夏の総選挙で国民に約束した「友愛社会」を実現してくれること、少なくともその方向に進んでいると実感させてくれることを期待してやまない。
 友愛社会という政治の「心」は、幾度も声高に宣言されている。他方、それを不況と財政危機の状況下で達成していくための政策手段の体系や具体的な工程表は、まだ説得力のある形では提示されていない。昨年末に閣議決定された「新成長戦略(基本方針)」によれば、環境・エネルギー分野や医療・介護・健康関連産業の新規市場創出に依拠して、GDPを年率3%(2020年度までの平均)で成長させるそうな。願わくばそうあってほしいけれど、合理的な経済モデルに基づいて割り出された根拠のある数字ではないので、今のところ単なる「お告げ」でしかない。友愛の心を体現する政策の「型」が曖昧模糊としたままでは、本気度を疑われもしよう。また、新成長戦略とその数日前に決定された来年度政府予算案とが本当に整合的なのかも、はっきりしない。予算案の「型」が中長期的な成長戦略のそれと不適合なら、現実政治の道は喧伝されている友愛社会とは別物に通じていることになる。
 せっかくの政権交代が形無しになってしまうような1年であっては困る。虎が変じて猫になってはいけないので、「十三支」の「トラ、ネコ、ウ」の順も再考することにしますか

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