折々の独り言経済風味のエッセイ
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     鳶にコシヒカリ (2007年10月下旬
     「はるばる函館」の賜――北海道旅情 (1) 2007年10月中旬)
     病院内カフェに思う (2007年9月下旬)
 
     祈りの大文字 (2007年8月中旬)
     セミ異変と温暖化問題 (2007年8月上旬)
     ヒグラシ鳴きて (2007年8月上旬)
     田園風景と「美しい国」―旅の雑感 (2)(2007年7月上旬
     鉄道料金の怪?―旅の雑感 (1) (2007年7月上旬)
     個人向け国債のオーナーに (2007 年6月下旬)
     ああ、住民税 ―税源移譲と不公平― (2007年6月中旬)
     




鳶にコシヒカリ (2007年10月下旬)




 ばさっ、と顔の左側で音と風が巻き起こり、黒い影が一気に空に駆け上がる。なんだ、これは? 左手に残る衝撃。あれっ、ない!
 うらうらと暖かい秋晴れの昼下がり。ところは鴨川公園の葵橋付近。川岸の芝生にレジャーシートを敷き、家から持参した弁当や、デザート、飲み物を並べ、家族三人で昼食をとり始めて間もないときだった。私はピクニック気分で、左手におにぎりを持って一口食べ、川面に浮かぶマガモが中州に出入りする様子を眺めていた。その無防備な私を目がけて、背後から鳶が襲来。食べかけのおにぎりを見事にさらっていったのだった。
 何週間か前にテレビで見た光景がぱっと頭に浮かぶ。四条大橋から三条大橋にかけて、カップル単位で2、3メートルの間隔をあけ、鴨川べりにずらっと並んで腰を下ろしている若い人たち。チョコレートやスナック菓子を分け合いながら二人だけの世界に浸っている彼らを、上空で輪を描いている10羽あまりの鳶たちが次々に急降下して襲う。突然お邪魔むしに食べ物をひったくられたカップルの反応は、照れ笑い、きょとん、あれーっ、腹立つーう、と様々で、視聴者としては何ともおかしかった。
 みだりに人さまの不幸を笑うべからず。因果応報、きっちりバチが当たってしまった。いざ当事者になってみると、確かにリアクションに窮する場面だ。とりあえず目撃者がなかったかと周囲をそっと見渡す。あちこちに人影を認め、慌てたそぶりにならないよう自分を戒めながら、その実、浮き足立って店をたたむ。鳶と人目の双方から隔離された安全地帯を探して、そそくさと引っ越す。せっかく新米のコシヒカリでつくってきたおにぎりなのにと、照れ隠しにぼやきながら。
 で、新米の話なのですが――。10月も残すところ1週間足らずといったある日、出回りだした新米(今年産米)が同じ銘柄・同じ産地の古米(作年産米)よりも安い値段で売られているとのニュースを耳にした。いささか奇怪な現象ではあっても、考えてみれば「高くて古い米」と「安くて新しい米」が棚に並ぶケースもありえないわけではない。たとえば、どこかのスーパーで、新米を客寄せの目玉商品にし、出血大奉仕を敢行した場合が、そうだ。でも、本当にそんな単純な話なのだろうか?
 一方で、古米が売れ残っており、しかも訳あって値下げをしにくい。他方、新米の販売価格は、諸般の事情から、1年前よりずっと低い水準に抑えられざるをえない。これらの2条件が併存するときにも新米の値段は古米より安くなりうるし、この場合だと、目玉商品の事例とはちがって、問題は構造的なものでは、という見方になる。
 何はともあれ、自分の目で確かめようと近くのスーパーに行ってみた。2店舗をのぞいたところ、そのどちらでも、同銘柄・同産地の新米と古米とが同時に売られているということではなかった。ただ、目玉商品の扱いでもなさそうなのに、新米の値段がおしなべて安いと感じられた。物の値段にあまり通じていない私なので、正確を期してインターネットで調べてみたら、首都圏のスーパーでは新潟(一般)コシヒカリの新米5kg詰めが1,980円で売られている事例もあるそうな。前年より500円も安値だという。
 村田泰夫氏(明治大学客員教授)の解説によれば、「全農にいがた」が新潟コシヒカリの販売価格(卸との相対取引)を前年より10%引き下げた。新潟コシヒカリはブランド米の代表格であるものの、他産地の安い米の品質向上に伴って売れにくくなり、昨年産米には売れ残りさえ出るまでになった。そこで今年産米の全量販売を目指し、泣く泣く値下げに踏み切ったらしい。新潟コシヒカリは米相場を左右する指標役ともなってきたので、その値下げはコメ市場全体に大きなインパクトを及ぼさずにはおかない。
 さらに、全農が米農家に買い付け代金を支払うさいの「仮渡し金」制度を改めたことも、今年産米の著しい価格下落の要因となった。従来、全農が米の集荷に当たって採用してきたのは、見込み販売価格の8〜9割の概算金を支払う方式だった。しかし、そのやり方では最終的な販売価格が予想価格をある程度下回れば過払いになる可能性があるし、事実、過払い分の清算をめぐるトラブルが多発していた。だから、全農は、最初に農家に支払う仮渡し金を低めに設定して内金の形にし、その年の実勢価格がわかった後に不足分を追加代金として支払う方式に切り替えた。
 そうでなくとも、需要の長期低落と生産調整の難航で米は供給過剰状態にあり、それゆえ米価も下がる一方だった。そこに、産地間競争の激化を背景とした新潟コシヒカリの値下げや仮渡し金制度の改定が重なり、値下がりがぐっと加速した。となると、問題はまさしく構造的なものだと評さざるをえない。したがって、抜本的改革の政策なくして問題解決など考えられないが、ではその政策とは一体どのようなものなのか。日本社会が目指すべき将来のグランドデザインと結びつけた国民的議論が急務だろう。さしあたり政府の備蓄米買い入れの拡大が思い浮かぶし、今の政治状況からして多分それは実施されることになろうが、政府備蓄の増強とてしょせん一時しのぎの策でしかない。
 「鳶におにぎり」事件から数日後、さぁリベンジとばかり、またもや鴨の川原に足を運んだ。今度は新米コシヒカリの自家製おにぎりではなく、古米コシヒカリを使ったコンビニ製のおにぎりを携えて。
 ベンチに腰掛けたときからピーヒョロロの鳴き声がしており、見回すと後ろのビルの屋上に一羽がとまっていた。私がおにぎりを頬張ると、彼奴め、なんと威嚇するように近くの街灯に舞い降り、じっと私をにらんで鋭くピーピー、ピーヒョロロ。もう一口食べると、こちらに襲いかかろうとするかの身構えをする。さらに一口、鳶はさっと飛び立って低空飛行、私の目の前2メートルを通過していった。
 至近距離を行く鳶と視線が合った。「トンビがくるりと輪をかいた、ほーいのほい」なんて悠長さとは程遠い、人を射る猛禽の目つきだった。私事はさておき、日本の稲作いや農業全体も巨大な猛禽の影におおわれているような状態にあることに、瑞穂の国の一員として深い憂慮をおぼえずにはいられない。
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「はるばる函館」の賜――北海道旅情 (1) (2007年10月中旬)




 10月某日の昼下がり、妻、娘とともに、ANA便にて函館空港に着く。関西空港から約100分のフライトでは、「はるばる来たぜ函館ぇ〜」と口ずさみたくなるほど、遠くに来た感じなどしない。「遠路をたどって」は、むしろ旅程の第一歩、つまり関空にたどり着くまでだった。なにしろ、自宅まで迎えに来てもらった乗り合いタクシーの方が、次の飛行機より時間がかかったのだから。
 それでも私と妻にしてみれば、やっぱり「はるばる函館」の思いが強い。「広辞苑」で「はるばる」を引くと、「距離や時間が非常に隔たっているさま」と説明され、『太平記』24巻の「――海を越えて」、「――世隔つて」が用法の例としてあげられている。距離の方はともかく、時間的な隔たりには胸にぐっとくるものがあった。というのも… 
 ほぼ40年前、新婚旅行で早春の北海道を訪れた。濃霧に閉ざされた十勝高原、濤沸湖に着水する白鳥の群、氷上を歩いた阿寒湖…。非日常的な情景に魅了され、東北に周る予定を変更して北海道にとどまり、結局10日ほどを同地で過ごした。往きは空路だったが、帰りは青函連絡船に乗って北海道を後にした。当時の私は、大学院に進学して1年近く経った頃で、提出期限が10ヵ月後に迫った修士論文の作成に本腰を入れようとしていた。将来への不安もありはしたが、ここで身を落ち着け、経済学の研究者として研鑽を積みはじめようという気概に溢れていた。  
 以来、学会等で北海道に来るチャンスは幾度もあったはずなのに、なぜか永のご無沙汰となってしまった。その北海道、それも最後に連絡船のドラを聞いた函館に再び降り立った。今の私は、大学を定年退職して半年余、諸般の事情から生業としてきた研究の継続にあまり積極的になれないでいる。それだけに、「流転常なる人生行路、はるばる来たりしものぞ」の感慨にとらわれた。そして、ほとんど感傷ぬきで、「かつて学究生活の曙に血をたぎらせた地で、今度は心穏やかに黄昏を眺めるのも、またよし」と思った。 
 五稜郭跡や赤レンガ倉庫群を巡り、日没となったところでロープウェイに乗り函館山頂上に向かう。娘の体験に根ざしたお勧めに従って夜景を見に行ったのだが、まるで冬のような冷え込みにもかかわらず、展望台は大変な人混みだった。コート、マフラー、帽子、手袋の完全装備で寒風をしのぎつつ、人をかき分け眼下に目をやれば、これぞまさしく絶景。両側から海に挟まれた函館の市街地全体が燦然と輝いていた。クリスマス・イルミネーションの人工的なデザイン、LEDのシャープな輝きとは一味も二味も違う、市民の生活の場らしい濃淡と多様性に富む、人肌の温かさを帯びた光の宝石箱だった。 
 きっと漆黒の海とのコントラストが夜景美の大事な要素なのだろう。函館とともに日本3大夜景に数えられる長崎や神戸も、また誰が言ったのか知らないが時に函館と並べて世界3大夜景に挙げられるナポリ、香港も、すばらしい港湾風景に恵まれている。共通点には、函館、長崎、神戸のどこもが「百万ドルの夜景」を謳い文句に使ってきたということもある。ナポリはわからないけれど、香港もそうだと聞く。 
 「百万ドルの夜景」に関して言えば、私は「百万」は、江戸八百八町の「八百八」の類で、多数を意味する英語の慣用的な表現だと思ってきた。ところが、くだんのフレーズは神戸のオリジナルだ、百万ドルという数字にも根拠がある、と説く者もいる。たとえば神戸有馬温泉のホテル「元湯 龍泉閣」のホームページには、こう書かれている。「『百万ドルの夜景』という言葉が使われたのは神戸が最初だと言われています。終戦後数年過ぎた頃、六甲山から見下ろした時に見える神戸の電灯の数がおよそ496万個でした。1ヶ月の電気代が、当時のレートでドルに換算するとおよそ百万ドルだったのです」。 
 「神戸新聞」(2006年3月8日)も、「夜景評論家」のほぼ同じ趣旨の説を紹介している。のみならず、今では神戸の夜景は「一千万ドルの夜景」に格上げされているが、電力使用量から夜景の価格を計算すれば「一千万ドルは間違いない」とする主張にも、さぁどうぞとばかりに紙面を割いている。 
 ほほえましい郷土愛が伝わってくる。加えて、私も関西人、そのよしみで神戸の健闘にも期待するので、決して我田引水なんて憎まれ口はたたきません。ただ、神戸であれ、函館であれ、夜景の価格をドルで表わすのは如何なものかなと、その点に限って皮肉の一つも吐きたい気がした。もしドルが暴落すれば日本の夜景の値打ちも急減することになるけれど、これは変な話じゃござんせんか。このところ小康状態ではあっても、サブプライムローン問題の煽りを受けて円高・ドル安が再燃する可能性は小さくない、いやむしろいつドル暴落が起きても不思議でない状況なんですよ、と。 
 その夜、函館駅前のホテルでテレビを見ていると、サブプライム関連の評価損などで米シティグループの第3四半期の純利益が前年同期比で57%減少した、とのニュースが報じられた。それに対する日本の政財界の要人や経済アナリストたちの反応は、相も変わらず、「日本の金融機関はサブプライム債権をあまり持っていないので日本経済への影響は限定的だ。一喜一憂めさるな」というもの。思わず、そんなわけはないだろうと画面に向かって言い返した。 
 わが身をふり返ると、この春に大学を辞めた時点では、抗癌剤の副作用がひどく、まともに研究に従事できる状態ではなかった。それでも、ちょうど表面化の段階にあった米国サブプライムローンの焦げ付き問題には、只事ならぬ匂いを嗅ぎ、興味をそそられた。そこで関連報道に絶えず注意を払い、少しは資料も集めるようになった。その流れで、抗癌剤から脱却して体調が上向きだした夏場からは、金融・証券関係のごく小規模な研究会に顔を出しはじめた。とはいえ、自分の心づもりは、あくまでも「趣味の勉強」でしかなかった。私的な事情で拘束される時間が長く、退職したからといって「毎日が日曜日」の自由な境遇にあるわけではない。体がちょっと楽になったからと研究の再開に踏み切ったりすれば、とたんに気忙しくなって、「毎日が週日」と化してしまう。そうなれば自分にも家庭にも無理が生じかねない。こんな心情だった。 
 趣味レベルの学習者でしかないと自覚する私であっても、サブプライム問題が住宅ローン証券化のスキームを介して、世界的な金融市場の混乱、ひいては世界不況にまで結びつく懸念を、日ごとに深めずにはいられなかった。株安に加えて円高が進行する形になる日本の場合にも、国民生活に重大な支障が生じるのは自明だと思えた。 
 なのに、なぜ日本への影響は限定的だなんてコメントがしれっと語られるのか。どんな根拠があって、スタジオの識者やVTRの政治家は、ご安心あれと太鼓判を捺しているのか。経済失政のつけを払わされる国民に対して、あなた達はどんな責任を取ってくれるというのか。――私の認識の方がおかしいのかどうか知るためにも、現状をきちんと分析してみる必要があるな、と感じた。 
 翌朝、元町の教会群のあたりを散策した。まだ昨夜の興奮が残っており、凛とした雰囲気の中で、やっぱり少しは研究らしい作業にも取り組んでみるかとの思いを再確認した。まずは、手持ちの資料を集中的に読んで、「サブプライム問題の概要」とでも題した報告を研究会でさせてもらうことにでもしようか。 
 今回の家族旅行は遅ればせながらの退職記念として計画したもので、とくに何処へとは考えないまま旅行社に出向いた。沖縄にしようか、鹿児島もいいな、なんて3人で相談しあっているうちに、たまたま北海道のパンフレットが目に入り、よしこれでいこうとなった。旅は人を多感にすると私は常々感じてきたが、たまたま決まった北海道旅行も例外ではなかった。いや、「はるばる函館」だったからこそ、40年前の青雲の志が心の奥深くで作用し、いつも以上に私を感じやすくしたのかもしれない。案外あっけなく元に戻ってしまうかもしれないし、ひょっとしたら研究心が再び育つかもしれない。さて結末やいかに。

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       病院内カフェに思う (2007年9月下旬)



 私自身の受診回数はずいぶん減ったが、家族の通院に付き合ったり待ち合わせに使うことが多くなったために、京大病院に出向く頻度が最近かえって高まっている。今週は昨週に続いて3回を数えた。滞在時間も結構長い。そこで、ついつい外来棟の入り口近くにあるドトールコーヒーショップに足が向かうことになる。 
 昨年、6月半ばから約1ヵ月入院した折には、まず南病棟の病室から外来棟まで歩いていけるようになりたいと願ったものだ。ホテルさながらの広くて天井の高いロビーに置かれたソファーが、身動きのままならぬ私の頭に浮かび、「さあここに座って本でもお読みなさい」と誘っていた。それが現実になると、今度は通路を挟んだ向かい側のドトールが、「早くこちらに来てコーヒーを召し上がれ」と私をしきりに手招きした。そして、妻や長女とドトール店内で歓談できるまでになった時に、主治医から退院を許された。 
 さらに1年以上経ち、今は待ち時間の何分の一かを過ごす憩いの場として、しばしばドトールを利用しているという次第。先日、背後の席から「新聞に載ってたけど、この店が京都府内のドトールの中で稼ぎ頭なんやて」との声がもれ聞こえてきた。常に満席に近い盛況ぶりからして、さもあらんと思わずうなずいた。後で調べてみたら、05年秋にオープンした京大病院店は、面積25u、席数32と規模こそ小さいが、その売上高は100席を超える店もある京都府内17店舗中でトップクラスだとのこと(「朝日新聞」06年1月12日)。出店側がほくほく顔なのは当然だとして、病院のサービス向上策という角度からみても、患者、見舞い客、職員のニーズにあったクリーン・ヒットと言えるだろう。 
 「産経新聞」(06年9月6日)によれば、大手コーヒーチェーンの病院進出は、04年春のタリーズ東大病院店の開業に始まった。ドトールやスターバックスもすかさず後に続き、わずか2年で3社の病院内カフェは計30店舗近くになった。その後も、各地で病院への出店をめぐるコンペに3社入り乱れて参加する光景がみられたと聞く。では、そのコンペの勝敗はいったい何を基準にして決められたのだろうか? 疑問の趣旨説明を兼ねて、少しだけ大局的な話を――。 
 日本の喫茶市場は、1982年の1.7兆円をピークに長期縮小傾向をたどってきた。2006年には1兆円をわずかに上回ったものの、近い将来に1兆円割れもありえよう。事業所数も、ピークの1981年(15.5万店)から減り続け、今は8万店ちょっととなっている。この趨勢は個人経営店の衰退を反映している。他方、80年のドトール第1号店(東京・原宿)を一番槍としたセルフサービス方式のコーヒーショップは、フルサービスの個人経営店を押しのける形で急速に市場を拡大してきた。 
 ちなみにセルフスタイルの店舗数は、現在ほぼ3,000を数える。なかでも伸張著しいのがドトールであり、全体の1/3を占める。その年間売上高は約1,000億円、喫茶市場の1割に近づきつつある。2番手は96年に東京・銀座に1号店を出したスターバックスで、店舗数はドトールのほぼ半分、3位タリーズはそのまた半分といったところだ。 
 ドトールとスターバックスの対比は、経営学の分野を中心に、くり返しなされてきた。国内資本vs.外資系、フランチャイズ展開vs.直営店重視、ターゲットとする顧客層(幅広い年齢層vs.流行に敏感な20~40歳代)、店舗展開の方式(日常密着型vs.「おしゃれ系」地域重視)など、確かに両社のあり方には興味深い相違が認められる。それらの集中的表現とも言えるのが価格設定であって、本格的なコーヒーのできるだけ低価格での提供をうたい文句にしてきたドトールに対し、スターバックスの方は居心地の良いサードプレイスとなることを標榜して、高価格のブランド戦略をとってきた。 
 ドトールのドリップ式ブレンドコーヒーは、Sサイズで180円。スターバックスの「本日のコーヒー」Sサイズの方は280円。この価格差は決して小さくはないだけに、病院に出入りする人々の院内カフェ利用にかなり影響するにちがいない。「ゆったりした気分になりたいので少し高くてもOK派」もいれば、「高ければ息をつく場として入るのをためらう派」もいよう。誘致企業を決めるコンペに際して、病院側はこの問題をどう考えてきたのか。なかんずく公共の大規模病院に意思決定の根拠を聞いてみたいものだと思う。 
 統計によって数字に開きがあるが、日本人のうちほぼ半分は、2ヵ月に1回以下の頻度でしか喫茶店を利用していない。週1回以上の利用客は1〜2割にすぎないそうだ。私自身はと言うと、行きつけのドトールが京大病院店のほかにもう1店ある。ときたまスターバックスでカフェラテを飲むし、あちこちの個人経営店に入りもする。間違いなく5%以内の喫茶店ヘビー・ユーザーだろう。となると、ちまちました価格論議をする前に自分の財布を思ってまず回数を減らせ、と言われても仕方がない。 
 自販機のコーヒーもよく買う。自宅では、日に何度もインスタント・コーヒーを飲むし、気が向けばドリップコーヒーを楽しみもする。これでは、財布もさりながら、コーヒー漬けで胃を悪くしかねない。胃の手術は1回だけで懲りているのだが…。

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            祈りの大文字 (2007年8月中旬)



 8月16日午後8時、「大文字」に火が点りだした。東山如意ヶ嶽の支峰・大文字山から、みるみる巨大な火文字が浮かび上がる。ついで、松ヶ崎西山・東山の「妙法」、西賀茂船山の「船形」、衣笠大北山の「左大文字」、嵯峨曼荼羅山の「鳥居形」と次々に点火される、「五山送り火」の開幕だ。盆に現世に戻った先祖の魂を冥府に送り返す精霊送りとして室町時代から盛んになった送り火、そのシンボルであり晩夏の風物詩ともなっている京都の伝統行事が例年どおり滞りなくとり行われた。 
 昨年、退院間もない私は、家族に付き添われるようにして大文字山の山麓にある自宅近くから、灼熱の大を仰ぎ見た。今年もまた、夜になってなお32度近いという異例の酷暑を理由に、家から徒歩5分圏内の超近場での大文字観賞となった。思えば、「たまには嵐山の渡月橋から鳥居形と精霊流しでもみたいものだ。広沢の池もいいな」などと言いながら、多分10年以上もの間、送り火は大の字だけしか目にしていない。ほかの四山を軽んじているわけではないが、観光客で混雑している街中の長い移動距離を考えると、つい二の足を踏んでしまう。 
 江戸時代後期には、市原の「い」や鳴滝の「一」などもあり、送り火が焚かれる山は全部で十を数えたそうな。だけど、明治時代の当初10年間、土着の信仰に支えられた送り火を政府が迷信排除の観点から禁止扱いにしたことや、地元住民が背負う人的・経済的負担の重荷のせいで、その数は半減するにいたったという。 
 現在残っている五山のどこでも、行事の担い手の継承や資材・資金の調達に地元はさぞ大変な思いをしてきたことだろう。そして、そこに庶民の素朴な祈りがこめられてきたからこそ、その多大な苦労もえんえんと払われ続けてきたのだろう。地域共同体の崩壊が社会問題化している今日、京都市文化財保護条例に上乗せする形で有効な手が打たれなければ、継続と伝承の困難はさらに強まるに違いない。共同体の再建を町おこしのキーワードと位置づけている地域経済論や、文化政策に軸足をおいた町づくりを唱える文化経済学からの具体的な施策の提起に期待したい、と思う。 
 五山送り火の祈りは、もとより先祖の供養や魔除けだけに向けられているわけではなかろう。昭和10年4月、夏でもないのに日露戦争の勝利を祝って送り火が焚かれた。第二次大戦末期の昭和18〜20年には、人手不足と灯火管制のために点火はおこなわれなかった。その代わりに早朝に白いシャツを着た学童・市民が大文字山の火床に立ち、戦意高揚と戦死者の鎮魂を願って、人文字で「白い大文字」を描いたとのこと(「京都新聞」の解説に依拠)。送り火は、歴史的事実として戦争と無関係ではなかった。 
 戦後においては、前日が終戦記念日だという偶然の符合もあって、祝勝や戦意高揚のためにではなく、平和を祈念して送り火に手を合わせてきた人も、決して少なくないのでは。軍事経済を研究課題の一つとしてきた私も、悲惨な戦争の多発によって混迷を深める世界秩序・国際情勢の実態や日本を軍拡へと誘う根強い外圧・内圧の存在を直視し、平和への思いを新たにしなければならないと、すこぶる厳かな気持ちになった。 
 遠目にはたおやかな大文字だが、近くから見上げると荒々しい迫力に圧倒されそうになる。75基の火床にくべられた計600束の割り木がもうもうとした白煙を伴って燃え盛っても、大文字山の山裾にほど近い位置からでは、火は線としてつながらない。火床ごとの火が、それぞれ固有の意思を持っているかのように、点描の列をなす個々の点として夜空に絶え間なく揺らめく。「森を見て木を見ず」じゃいけない、全体としての森だけでなく個々の木も見てほしい。福祉社会のあり方を総数のレベルで論じるあまり、一人ひとりの人間を取り巻く固有の事情をないがしろにする類の福祉行政の後退が起きているのではないか。私には、生き物を感じさせる炎の乱舞の奥底に、私を含む多くの庶民の「思いやりのある福祉」に対する切実な願いが激しく息づいているように思えてならなかった。 
 漆黒の空を朱色に染める炎は、そのあっけない鎮火ぶりも含めて、人を多感にし、無常の心を抱かせるものなのか。ともあれ、単なる観光の対象ではない「祈りの大文字」は、私の祈りも包み込み、30分あまりで夜陰に沈んだ。願わくば、See you again next year.

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        セミ異変と温暖化問題(2007年8月上旬)



 あるテレビ番組で、セミの分布図に異変が生じている、大阪の御堂筋はクマゼミの天下になりつつある、と言っていた。南方系のクマゼミのテリトリーが、次第に北に向かって広がってきているらしい。そうした「大阪夏の陣」の背景にあるとみられているのが地球温暖化の進行だとか。その見方が科学的に検証されたものなのかどうか、私には知る由もない。けれど、直感がさもあらんと囁く。 
 これもテレビから得た知識だが、フランスではセミは南部のプロヴァンス地方にしか生息していない。もとより欧州大陸も温暖化と無縁ではありえないので、いずれパリの街でもセミの声を耳にするようになるのだろうか。そう言えば、四半世紀も昔にイギリスで過ごした夏には、セミのいない国ならではの静かな日中に違和感を覚えたものだった。仮にセミ軍団がフランス全土を制したとすれば、彼らは、続いて最短距離34kmのドーバー海峡を超えて、英国本土への上陸を企てるかもしれない。約2世紀前のナポレオンのように。となると今度は「トラファルガーの海戦」か。 
 プロヴァンス地方では、セミは幸せを運ぶと言われているそうだ。パリでも、ロンドンでも、彼らはその地に版図を広げたときに、愛すべき存在として住民から歓迎を受けることになるのか。はたまた、真夏の昼中の静謐を破る騒々しい闖入者として嫌われる運命なのか。それはともかく、セミの移動に影響を与えている要因だとされる地球温暖化については、全人類的にみて招かれざる客であるのは異論のないところだろう。 
 もう10年近くも前になる。1997年12月、ここ京都の地で地球温暖化防止京都会議が開催され、温室効果ガス排出の削減目標を定めた「京都議定書」が採択された。専門家でない私自身はカヤの外だったが、職場内に重要な役割を担当した先生方が何人もおられた。当時私が担当していた学部ゼミの中に京都会議で同時通訳を勤めた学生もいて、身近なところで歴史的な動きが起きていることを強く実感した。 
 何の疑念も感じなかったわけではない。いや、むしろ疑問だらけだった。たとえば――
・  そもそも温室効果ガスを何%減らせば何度分の気温上昇を食い止められるのかに関して、確実な見通しなど存在しないのではないか?
・  京都議定書では、約束期間(2008〜12年)内に、先進国全体の排出量を1990年レベルから平均5.2%(日本6%、米国7%、EU8%)削減するものとされたが、産業活動や国民生活に多大の影響が及ぶ問題だけに、うまく各国の足並みがそろうのか?
・  基準年を1990年にしたことや6%という日本の削減率は、國際政治上の力関係に影響されずに、純粋に科学的根拠にもとづいて決まったと言えるのか?
・  仮に先進国の努力が成功するとしても、数値目標など新たな義務を課されなかった中国、インド等の発展途上国の経済拡大が続けば、世界全体としての排出量は増大することになるのでは?
・  地球温暖化を阻止するには、化石燃料に由来する温室効果ガスの削減だけでは不十分で、化石燃料由来エネルギーそれ自体の使用量削減にまで踏み込む必要がありはしないか? 
・  先進国の目標達成を支援する目的で導入された「京都メカニズム」(排出量取引、途上国とのプロジェクトを通じて削減するクリーン開発メカニズム等)が、自国内での削減に対する意欲をかえって損なう可能性はないのか? 
 京都議定書に関して上のような種々の問題点を感じはしたけれど、それが温暖化問題に対する世界的な取り組みの第一歩だったのは間違いない。その後、アメリカの離脱をはじめとした各国の思惑が障害となって議定書の発効条件はなかなかクリアされなかったが、2005年2月にようやく発効するところとなり、私も胸をなでおろした。 
 とはいえ、ほっとしている暇はない。オセアニアの島国ツバルは、自分には何の非もないのに、海面上昇による水没の危機に瀕している。国連IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の第1作業部会報告(07年2月)の予測では、化石燃料依存型の社会が続けば今世紀末の平均気温は最大6.4度、海面は59cm上昇するということなので、ツバルの悲劇はありふれたものになるに違いない。過去に例をみない激しい暴風雨、洪水、氷雪融解など、世界各地の人々を悩ませてやまない異常気象の常態化も、同報告が明確に位置づけたように、温室効果ガス増加がもたらす温暖化に起因している可能性が高い。 
 もはや待ったなしだ。離脱しているアメリカを翻意させ、中国やインドの協力も取り付けて、京都議定書の数値目標を、それも可能な限り前倒しに達成する必要がある。もとより、それだけではすまない。IPCC第3部会報告(07年5月)によると、気温上昇を産業革命時と比べて2.0〜2.4度の範囲に抑えるには、2050年時点の温室効果ガス排出量を2000年比で80〜50%削減しなければならない。この予測を踏まえた「ポスト京都議定書」の枠組み作りも、差し迫った急務だろう。 
 来年7月に北海道洞爺湖地域で開催されるG8サミットでは、ポスト京都の新たな枠組み構築が主要テーマになる。ところが、ホスト国・日本の温暖化防止策の進捗状況は、およそ芳しくない。わが国の排出量は1990年比で減るどころか反対に8%近く増えている、それが偽らざる実情なのだ。最近、「京都議定書目標達成計画」(05年4月)の見直しにあたってきた環境・経済産業両省の合同審議会が公表した中間報告案には、現行の対策を進めても国内の排出量は2010年時点で0.9〜2.1%増えるとの推定が載っている。そこで報告案は、業務部門と家庭部門での対策強化に照準を合わせ、種々の具体的措置をあれこれ列挙したが、それらによって6%排出削減の国際公約が達成されるとみる向きは少ない。コスト増を嫌う産業界に配慮して省エネ効果の高い「国内排出量取引」の導入を先送りにしている点が、とくに問題だろう。 
 洞爺湖サミットのホスト国であるからには、それに恥じないだけの強力な達成計画を、日本政府の手でしっかり練り上げてもらいたい。そして、それに裏づけられた説得力をもって、全人類的視点から京都議定書の完遂とポスト京都の枠組み作りを主導してほしい、と心から願う。むろん、私も国民の一人として、なしうることはなすつもりでいる。と言っても、ゴミを減らす、電気をこまめに消す、エアコンの設定温度を下げる、エコバッグを常時携帯する、といったくらいしか思いつかないが。 
 今や関東にまで侵入し始めているクマゼミは、私の自宅周辺でもすでに常連の列に連なっている。シャオシャオシャオという気ぜわしい鳴き声を耳にするにつけ、有効な温暖化対策の発案・遂行をせき立てられているように感じるのは、私が京都会議ゆかりの地に住んでいるからなのだろうか。

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          ヒグラシ鳴きて (2007年8月上旬)



 今日もまた、ヒグラシの声で目が覚めた。午前4時半、判で押したようにこの時刻に聞こえ出す。ガラス越しだと涼やかな音色だけど、書斎の窓を開け放ったとたんに音量がずんと増す。目の前が杉林になっており、音源との距離は10mちょっとといったところだろうか。まるで目覚まし時計のようなけたたましさだ。

 アブラゼミは「ジリジリジリジリ」、ミンミンゼミは「ミーンミンミン」、ツクツクボウシなら「オーシツクツク」と、鳴き声の表記はほぼ統一されている。クマゼミは、「シャオシャオシャオ」か「シャシャシャシャ」か、いずれにせよ大差ない。ところが、ヒグラシとくると、「カナカナカナカナ」、「キッキッキッキッ」、「ケケケケケ」など、ばらつきが目立つ。それだけ文字にしにくい音なのだろう。「わび・さび」を感じさせる響きに対する、人それぞれの思い入れも作用しているのかもしれない。 
 「のおあある とおあある やわあ」
 かつて『青猫』(1923)所収の詩「遺伝」で、萩原朔太郎は犬の遠吠えをこう表現した。10代にそれを目にして以来、快くはないが妙に気にかかる魂の叫びといった趣をもって、半世紀経った今も私の頭にこびりついている。ときに物悲しさを誘うヒグラシの声は、朔太郎の耳には、どのように聞こえたのだろうか。 
 ヒグラシのことを知りたいと思って、パソコンにインストールした『Microsoft エンカルタ総合大百科』を引いてみた。生息域や鳴き声に加えて、初鳴きがニイニイゼミと並んで早いことも記されていた。確かにそのとおりで、私も6月下旬には初鳴きを耳にしていた。以来、幾度、夜明けの30分ほどの間、白みゆく大気を震わせる金属質の声音に聞き入ったことだろう。ただ、最初はヒグラシの独演会だったのに、今では他種のセミたちの声も混ざっている。そして、ヒグラシの黎明の出番が終わると、アブラゼミ、ミンミンゼミ、クマゼミらの競演が次第にかまびすしさを加え、やがて強烈なセミ時雨と化す。真夏のじりじり感がセミの大合唱によって増幅される、まさしく猛暑の候だ。 
 百科事典をみていて、思わずギョッとした。「なに、カメムシ? お主はカメムシの仲間だったのか」。ヒグラシがセミ科に属するセミの一種なのは当たり前だけれど、そのセミ科は昆虫綱カメムシ目に入っているのですって。口が「口吻」と呼ばれる管状をしているのがカメムシ目に共通する特徴だそうで、なるほどセミもそうに違いない。と納得はすれど、興醒めの感を否めず。すぐには忘れられないとしても、来夏に間に合うように記憶から消し去ってしまおう。 
 生物の分類については、以前にも驚いたことがある。「哺乳綱―ネコ目―ネコ亜目―ネコ科」、これはなるほどというもの。「哺乳綱―ネコ目―ネコ亜目(最近ではイヌ亜目ともされる)―イヌ科」、こちらは違和感たっぷり。ネコはネコ、そしてイヌもネコ。言葉の上ではややこしくって面白いが、科学の上ではきっと根拠のある明快な区分なのだろう、と感じたものだ。 
 「猛暑の候」と「分類の妙」。ヒグラシからここへと及んだ思いは、さらに先へと進む。 
 7月中は例年になく涼しかったのに、8月になったとたんに前月分を取り戻そうと言わんばかりの異様な暑さだ。気候だけではない。政治の場にも、むせかえるような熱気が充満している。7月29日の第21 回参議院選挙で、自民党は歴史的大敗を喫して第1党の座から滑り落ちた。公明党を合わせた与党全体でも参院の過半数を割り込んでしまったのだから、今後の参院運営の主導権は第1党となった民主党が握る形になる。むろん、その衝撃は参院内だけにとどまるはずはなく、国会審議全体の動向や外交のあり方にも大きな影響を与えずにはおかない。内閣の改造や総辞職、さらには衆院解散にも、当然その波紋が及ぶだろう。 
 こうした時だけに、選挙で示された民意を正しく反映する政権とはどんなものなのか、真剣に考える必要がある。その際には主要政党、政党内の諸グループ、代表的論客たちといった各レベルでの的確な分類が前提になるが、現実にはそれは簡単ではなく、ほとんど不可能に近い。というのも、2大政党のどちらにもネコ科とイヌ科が混在している上に、場面によってはイヌがネコになったり、逆であったりと自在に姿を変えるからだ。おまけに、もともと得体の知れぬヌエもいれば、自分はネコだと言い張るイヌもいる。 
 生物の分類とは違って政界の分類を画然となしえないのは、事の性質上、なんら不思議ではない。とはいえ、日本の政治の実体も、せめて欧米諸国並みに政策理念や政治手法を基準にして基本的な分類が出来るようなものであってほしい。今回の参院選がその意味での政界再編成の導火線になってくれれば、と願わずにはいられない。 
 実は私が直接関係している経済学の分野も、政界に負けず劣らず分類困難な世界なのですが。その点はまたの機会に。

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   田園風景と「美しい国」―旅の雑感 (2)(2007年7月上旬)



 信越の米どころを通過したのは何年ぶりだろう。乗った列車がどれも空いていたおかげで心静かに車窓の眺めを楽しめたが、果てしなく連なる水田に風が渡り、青々とした稲の海にさざ波がきらめき走る光景は、実に印象的だった。夕焼けを背にした鎮守の森のシルエット、深まり行く夜陰の濃さと遠くに点在する民家の灯り…。都市部に生まれ育った私にも、日本の原風景のように懐かしく感じられた。 
 以前に何人かの外国人から、「日本の都市は没個性的で好きになれないが、田圃の緑はすばらしい。田舎の光景はエキゾチックで魅力的だ」と聞いたのを、思い出す。私の方は、「確かに目の保養にはなるけれど、水田の場合はヨーロッパの牧草地とは違って立ち入れないので面白くない」なんて軽口をたたきながらも、日本の田園風景を感嘆の口調でほめられたことに誇らしさを感じたものだった。日本美の真髄を的確に示す、げにすばらしき呼び名よ、「瑞穂の国」、と感じ入りもした。 
 では、わが田園風景に対して貴重な国民的財産にふさわしい処遇がなされているのかとなると、どうやらそうでもなさそうだ。4年前に国土交通省が発表した「美しい国づくり政策大綱」(2003年7月)には、こう書かれている。「四季折々に美しい変化を見せる我が国の自然に較べて、都市や田園、海岸における人工景観は著しく見劣りがする」。そこで改善の主方針として唱えられたのが、良好な景観の形成・保全に向けての「市場機能の積極的な活用」だった。実は、「大綱」の関心は都市部の問題に集中していて、田園に関してはせいぜい屋外広告物の規制強化が言われただけ。「政策的な無関心+市場機能の活用」は、田園風景に何をもたらすのか。門外漢の私であっても、気がかりだった。 
 安倍首相が昨年9月、自民党総裁選挙への立候補に当たって打ち出した政権構想「美しい国、日本」はどうか。そこでは、@文化、伝統、自然、歴史を大切にする国、A自由と規律の国、Bイノベーションで新たな成長と繁栄の道を歩む国、C世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップのあるオープンな国、が目指すべき国のあり方だとされた。@には景観を大切にすることも一部含まれるものの、全体的な狙いは明らかに、国民が自信と誇りを持てるように日本という国の形を変える点に定められている。美しい国と言えば、「美しい自然・景観」を思い浮かべるのが普通だろうに、主眼は「美しい体制」だとなると、価値観の統制の匂いがして、私には違和感を禁じえない。 
 それはさておき、「安倍構想」は、具体的な政策のポイントとして、「戦後レジームからの新たな船出」等と並べて、「イノベーションとオープンを通じた経済の活性化」をあげている。オープンは政府関与の削減・競争の増進による生産の効率化を意味するから、基調は国交省の「大綱」と変わらない。農家間競争が非効率な小規模経営の駆逐をもたらすのは自明の理だが、実際には国際競争力強化を急ぐべきだとして、補助金の供与対象を大規模農家に絞る措置までとられている。となれば、すでに38万ヘクタール(2005年)、大阪府の面積の2倍規模に達している休耕地の拡大に、さらに拍車がかかる可能性が高い。要するに、「美しい国」の政策路線には、「美しい田園風景」を保全・拡大するどころか逆に台無しにしかねない要素が内在しているのであって、心地よい語感に惑わされてはいけない。 
 もっとも、政府の政策だけに責任があるわけではない。米作の趨勢的な不振には、日本国民の食生活の変化に伴う米消費量の減少が深く関わっている。私自身について言えば、抗癌剤の服用が始まって以来ずっと米飯がほとんど喉を通らず、この1年、もっぱらパンに頼って生きてきた。旧約聖書「申命記」第8章の「人はパンのみにて生くるにあらず」の深遠な意味とは別に、現実の食生活において概ねパンのみにて生きてきた私にとって、今回の旅行で最も困ったのはパンがなかなか入手できなかったことだ。米どころのパン不足、何たる皮肉か。黒姫高原の童話館内にあるレストランと直江津のパン屋、あちこち探し歩いたのにその2度しかパンにありつけなかった。そんな私に米の消費拡大に身をもって寄与する道など見当たろうはずはなく、それゆえ内心じくじたるものがある。 
 食生活の変化は食料自給率を低下させ、遠くない将来における食糧危機の勃発を予感させる一大要因ともなっている。国や自治体レベルでとるべき対処策はいかに? 小泉政権以来の構造改革によって、地方経済は著しく疲弊するにいたっているが、どのようにして大都市と地方の格差解消をはかるのか? また、休耕地をバイオマス燃料の生産の場に利用して、エネルギー危機や地球温暖化に対する有効な手立てにできる可能性の有無は? こうした広がりのある土俵を設定して、「日本の豊かな未来と優れた景観の保全・形成を両立させる知恵を搾り出すための国民的議論」を展開することが、今こそ求められているのではないか。 
 もう一言。旅行中、鉄道の駅名こそ同じだとはいえ、平成の大合併によって市町村の名称と範囲が激しく変化していたのに驚いた。新潟県の場合だと、2000年3月末には全部で112だった市町村の数が、6年後には35にまで減っている。この合併の急進展は地方議員数の激減につながっているので、地元の疲弊に対する住民の不満が激しければ、政権与党の集票マシーンと言われる地方議員の説得能力や活動意欲に深刻な陰りが生じるかもしれない。ひょっとしたら目前に近づいている参議院議員選挙で、そのために大波乱が起きるかもしれない。もしそうなれば、先ほど述べた国民的議論も夢物語ではなくなるのでは、と水田のさざ波のように思念の輪が広がった。

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      鉄道料金の怪?―旅の雑感 (1) (2007年7月上旬



 6月下旬、家族3人で妙高高原まで出かけた。ほんの数日の滞在だったが、それでも久しぶりに非日常の場に身をおくと、旅は雑感の宝庫だと改めて思わずにはいられなかった。その一端を書き留めたい。

 味気なさも多分にありはすれ、便利な世の中になったものだ。わざわざ時刻表と首っ引きで調べなくても、インターネットの時刻表・乗り換え案内検索サイトにアクセスして出発駅、到着駅、日時等を打ち込みさえすれば、たちどころに幾つかの経路が示される。路線、距離、所要時間、運賃、特急料金はもちろん、空席状況もすぐにわかる。 
 京都−妙高高原間をみてみると、東海道側から名古屋・長野経由で行っても、日本海側の富山・直江津経由のルートをとっても、運賃は同額の6,830円となっていた。距離は、それぞれ435.7kmと459.2km。その差の23.5kmが料金上はゼロだという事実をもとに、「消えた6里」なんて推理小説を誰か書いてくれないものだろうか。それがベスト・セラーになって、印税の一部が謝礼として我がポケットに…。夢想ににんまりしながら、往路は名古屋回り、復路は富山回りと決めた。 
 保養だけが目的の、まったく急ぐ必要のない旅なので、京都から長野まで特急「しなの」一本で行って、その先は信越線の各駅停車に、ということにした。名古屋まで新幹線「のぞみ」を使って中央線の特急に乗り継ぐ場合と比べれば、所要時間は1時間ほど長くなるが、料金は1,600円少なくて済む。「時は金なり」だから安さの分だけ時間がかかって当たり前、早く着きたきゃ予算を増やせ、という理屈なのだろう。思えば私自身も、絶えず時間に追われ、時を金で買うような感覚で社会生活を営んできた。 
 だけど、実際に京都駅から「しなの」に乗ってみると、同じ車両にはインド人らしき大家族の一行ぐらいしか客はなく、ゆったりとしたアット・ホームさが実に快かった。たまたま時季と時間帯とが乗客の種類や数に影響していたのかもしれないが、いつ乗車してもビジネス街を車両に詰め込んだような風情の「のぞみ」とは、まったく異質のリラックスできる空間だった。そこで思ったものだ――「時は金なり」が至言だとしても、もし‘車中の時間’のほうが‘スピードの速さによって節約される時間’より自分にとって貴重だというのなら、「高速=高価」の関係は成り立たなくなるのでは、と。 
 そう言えば、鉄道に急行料金が導入される際に、「なぜ乗っている時間が短いのに高くつくようになるのか」との疑問が出て議論になったと、どこかで耳にした覚えがある。私にはその真偽はわからない。世界で初めて蒸気機関車による商用鉄道が開業したのは1825年、イギリスのストックトン〜ダーリントン間だったが、そのイギリスでは、当初から鉄道会社の関心が高速化にばかり向けられたために、低料金の各駅停車の運行を義務付ける立法が早期になされたという。そうした史実からすれば、私が小耳に挟んだ話は、あるいは眉唾かもしれない。しかし、私にしてみれば、少なくとも今回のケースに関しては、低速にして割安、これぞ「二重のお得」という気分だった。 
 鉄道つながりで述べておくと、帰路には富山市に立ち寄ってライトレール(LRT)に乗ってみた。富山LRTは、JR西日本の富山港線を路面電車化したもので、港のPortと路面電車のTramを合成したPORTRAMがその愛称となっている。京都でも市電の復活がホットな話題になっているので、野次馬的な興味から全線を往復してみたが、PORTRAMの乗り心地は、かつての京都市電や、ヨーロッパの幾つかの都市で利用したことのあるトラムよりも、はるかに良かった。 
 ひょっとしたら専門家から、何が‘鉄道つながり’だと叱られるかもしれませんね。鉄道とはレールが路床よりも高い線路を指す言葉で、トラムロードとは別物だぞ、って。それでは富山LRTの軌道の形状はいかに。すみません、見忘れました。鉄道、路面電車、LRTの関連や異同についてはややこしい定義や議論があるようなので、素人は言いっぱなしのままこれにて退散。

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       個人向け国債のオーナーに (2007 年6月下旬)



 近くの郵便局に出向いて、6月3日から募集が始まっていた個人向け国債の購入手続きをした。買ったのは、「変動金利型10年満期」および「固定金利型5年満期」と2種類あるうちの後者(2007年7月発行の「固定5年」第7回債)。客観的には知れた額だとはいえ、私にしてみれば大事な虎の子を思い切って投じた。 
 個人向け国債はペーパーレスということになっている。郵便局や金融機関の口座で電子的に管理される形なので、券面は発行されない。紛失や盗難の心配がなく利子・元本の受け取り忘れもない優れた方式には違いないが、卒業しても卒業証書をもらえないようなもので、いささか味気ない。と同時に、心もとなくもある。何分にも、社会保険庁の入力ミス等による「消えた年金」に社会の関心が集まっている昨今なので。今から2年以内に「株券の電子化」も実施される予定だが、本当に大丈夫なんでしょうね。 
 個人向け国債の発行は03年春に、国の厳しい財政事情を慮って、国債に投資する個人投資家の裾野を広げよう、他国に比して低い個人の国債保有比率を高めようという政府の意図にもとづいて開始された。1万円単位で買える、最低金利保証が付いている、一定期間を過ぎると満期前でも手数料を払えば政府が額面金額で買い取ってくれるなど、安全性が高く、個人が購入しやすい商品設計になっている。当初は変動金利の10年物だけだったが、06年1月から利率固定の5年物も用意され、ともに四半期ごとに募集されてきた。 
 地を這うばかりの超低金利と株価低迷が続く一方、ペイオフ全面解禁が日程に上るといった環境下にあって、少しでも安全で有利な資産運用手段を探している個人の側から見ても、個人向け国債には確かにそれなりの魅力が備わっていた。だからこそ、初回の募集も、2回目も、国から販売を委託された郵便局での即日完売がマスコミを賑わせもした。もっとも、私自身はと言えば、ペイオフ解禁を恐れなければならないほど潤沢な貯蓄をもっているはずはなし、また多忙で体調も良くない日常生活の中では資産運用など二の次、三の次だったこともあって、その動きにはほとんど無関心だった。 
 それが今回は購入する気になった。定年退職者は金利に敏感にならざるをえないという鉄則が作用したのはもちろんだし、幸いにも固定5年(第7回)の利率は過去最高の1.50%とされていた。しかし、それにも増して、昨夏の胃癌手術後に5年生存率5割強と言われたのに、再発の危険が最も高い最初の1年を無事に終えようとしていることが大きかった。10年後はいざ知らず、5年後なら私がこの世にいる可能性は高まった、となると「人生の満期」以前に「国債の満期」を迎えられるかもしれない。脈絡のないフィーリングの世界だけど、何となくお守り代わりに5年物を買う気分になったというところだ。 
 利率1.50%は、銀行の5年物定期預金の金利よりずっと高く、ほぼ2倍の水準にある。それにしても、預金金利のなんと低いことよ。加えて、超低金利による資金調達コストの抑制と公的資金投入という国民に二重の負担を求める方式で不良債権処理・経営再建を果たし、いまや史上空前の利益を計上するまでになった銀行界なのに、そのサービスのなんたる悪さよ。今どき、まだ真昼間の午後3時に営業時間が終わり、土日も終日シャッターが下りているなんて、顧客の都合を考えないでよくもサービス業を名乗れたものだ。こんな日頃の鬱憤のせいか、個人向け国債は銀行(や証券会社)でも買えるけれど、私の足は自然に郵便局に向かった。 
 とはいえ、郵便局の方も、日本郵政公社の民営化(07年10月)を目前にして事情は複雑なようだ。個人向け国債の導入初期には即日完売に沸き、その後も販売額をおおむね順調に伸ばしてきた(4年間で約500億円から約2,000億円に)郵便局だったが、実は今年4月発行分の販売実績は公社計画(3,100億円)の6割にしか達しなかった。背景にあるのは、06年7月のゼロ金利解除を契機とした投資信託ブームだとの見方が多い。 
 順序だてて述べると、郵便局は05年10月に投資信託の委託販売を開始し、すぐに投信ブームに乗って販売高を急増させた。06年度実績の約2倍に設定された郵政公社の07年度投信販売目標は1.1兆円、これは06年度の個人向け国債販売実績を2割がた上回る数字だ。しかも、郵便局の手に入る投信の販売手数料は約200円で、個人向け国債の場合の4倍もの高さだとか(「読売新聞」07年6月9日)。だから、民営化に備えて、郵政公社は実入りの良い成長分野である投信の販売に血眼になっており、そのために個人向け国債の販売にはあまり力が入らない、ということらしい。せちがらい話ですね。 
 それでも、長期金利上昇に伴う設定利子率の引き上げが好感され、今夏の個人向け国債の販売は、郵便局でも銀行でもかなり勢いを取り戻した。財務省は、ほっと胸をなでおろすと同時に、個人向け国債のいっそうの販路拡大に努める意思を明らかにしている。なかんずく銀行による販売の拡大を後押しして、07年度の個人向け国債販売目標6兆3,300億円を是が非でも達成する構えだ。また、国債残高全体に占める個人保有分(06年9月末時点で約30兆円)の比率(4.5%)が10%を超える欧米諸国に比べて低いことを理由に、財務省は通常の国債の個人による購入を促進する措置も講じようとしている。 
 郵便局と銀行、投信と国債、個人向け国債と通常の国債の個人保有、変動金利型と固定金利型…。それぞれの次元で、また各次元が入り組みながら、今後ますます多様な競合、軋轢、協調、補完の構図が、現れたり消えたりするに違いない。私の「人生の満期」までに、一体どれほどの光景を目にすることになるのだろうか。 
 とまれ、「私、恥ずかしながら個人向け国債のオーナーになりました。寅次郎もどき拝」

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     ああ、住民税 ―税源移譲と不公平― (2007年6月中旬)



「明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき 朝ぼらけかな」
   粋ですね、藤原道信朝臣さん。
「開けたれば 泣けるものとは 知りながら なほ恨めしき 納税通知書」
   無粋ですね、○○○さん。 
 6月になれば届くとわかっていたもの、そして恐れてもいたものが、きっちり郵送されてきた。税務署からの「平成19年度市民税・府民税納税通知書」だ。 
 私のように定年退職した者にとっては、個人住民税の後払い方式はなんとも切なく、やりきれない。具体的には、年間(1〜12月)の所得に対して課された住民税額を翌年6月からの1年内に納付する仕組みになっている。これは、退職によって所得が激減したにもかかわらず、今年の6月に一括して(あるいは来年5月までに4分割の形で)去年の所得に応じた税額を支払わなければならないことを意味している。年金や雇用保険のない失業者なら輪をかけて大変だろうと、いたく同情する。 
 もっとも、この住民税のシステムにはそれなりの合理性があるし、基本的に給与所得者の誰もがその道を通らざるをえないという意味で公平でもあるので、財政学者のはしくれとして、私もいまさら異を唱えようなどとは思わない。いや、‘多少不公平を感じる場合’であっても、国民の3大義務(子どもに普通教育を受けさせる義務、勤労の義務、納税の義務)を定めた日本国憲法に敬意を払って、示された税額を粛々と納めるつもりをしていた。事実、納税通知書が来た翌日、決していそいそとではなかったものの、さっそく郵便局に行って一括納付をすませた。 
 しかし、それにしても生ごみ処理機、ドラム型洗濯機、パソコン、薄型テレビ、最新式のDVDプレーヤーなど、ほしい電気製品をまとめて買ってもお釣りがくるほどの大きな金額だった。ただし、通知書に記された納付額をみても、ああやっぱりきついなとため息が出ただけで、別に驚きはしなかった。というのも、昨年度までよりずっと住民税が増えるのは前もってわかっていたし、その額が大体どれくらいになるかも自分で推測できたからにほかならない。 
 ちなみに、地方自治推進をうたって推進された「三位一体改革」の一環として、平成18年度税制改革で国から地方への本格的な税源移譲を実施することが決まっていた。個人の所得税は負担を減らし(今年1月から新税率)、住民税は負担を高め(今年6月から新税率)、もって3兆円分を国税の所得税から地方税の住民税に移し替える、というものだった。となると、住民税の大幅な負担増はいやでも大半の国民の身にいやでも降りかかるわけで、私とてそれを知らないわけではなかった。 
 だけど、だけどですね、本当に公平かとなるといささか異議ありと言いたいですね、私としては。なぜなら、「個々の納税者の所得税および住民税を合わせた税負担は、税源移譲前後で基本的に変動なし」とされているけれど、今年の退職者に限ってはそうはならない公算が大だからですよ。住民税の負担は間違いなく増える、他方、所得の激減によって所得税の対象にならなくなれば所得税の負担減の恩恵は受けたくても受けようがない――これでは、特定の納税者だけに不利益がもたらされることになる。実質的に一種の選別的な増税だと考えざるをえない。 
 ほかにも所得額ではなく住民税額にもとづいて国民健康保険料を決めるようにしている自治体の住民など、不公平感を抱かざるをえない納税者がありそうだ。もちろん、たまたま運が悪かった人たちに我慢してもらおうなんて荒っぽい話ではなく、公平さこそが国民の納税意欲を支える一番の要件だとの意識に立って、関係機関においてそれぞれに対応したきめ細かい調整措置・特例措置が検討されているのだろう。できるだけ早期に、不利益を受ける者を洩れなく救済する、それも納税者側が面倒な手続きに煩わされなくてもすむような手を打ってほしい、と願う。

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