折々の独り言経済風味のエッセイ
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旅の静けさと証券化 (2008年5月下旬)
諏訪に遊べば湯香と油価 (2008年5月下旬)

書かなかったことの言い訳(2008年4月上旬)





            旅の静けさと証券化 (2008年5月下旬)


 今回の諏訪旅行を語る上でのキーワードは、天候と人出だ。と言っても、それは私だけの認識で、妻や娘にしてみれば郷土料理の品定めやガラス製品作り体験の方が印象的だったのかもしれないが。
 天気予報では荒れ模様のはずだったのに傘なしですんだ初日の午後、諏訪湖の遊覧船に乗ってみたら、わが家の3人以外に客は誰もなかった。夜半から降り出した雨が上った翌日の昼過ぎには、上諏訪駅前から路線バスで霧ヶ峰に向かったが、これまた貸し切り状態。私たちが駅前の観光案内所で教えられた停留所・霧ヶ峰インターチェンジで下車すると、バスは空気だけを積んで白樺湖方面に走り去った。
 あたり一面ニッコウキスゲで埋め尽くされるのはずっと先の7月だし、レンゲツツジにもまだ早すぎる。ザゼンソウは、あの辺りには生えていないだろう。案内所でそう聞いてきたとおり、花らしい花は見当たらず、視野一杯に広がる草原はほとんど晩冬の風情だった。そして、曇天の枯れ野を吹き渡る風のなんと冷たいこと。「霧の駅」でウインドヤッケを着込み、温かい「おやき」をほお張って「忘れ路の丘」を登りだすとすぐ、十数人のグループとすれ違った。それが目に映っていた唯一の人影だったので、後はやっぱり3人きりとなった。
 丘のてっぺんにある霧鐘塔は、濃霧の日に鐘を鳴らしてハイカーたちに位置を知らせる目的で、昭和34年に建てられたそうだ。なるほど、年間200日以上も霧が発生する霧の名所、霧ヶ峰だけのことはある、と納得する。幸か不幸か霧は立ち込めておらず、その姿をしっかり目視しながら霧鐘塔に行き着いたが、うなる風に身がすくみ、早々に退散した。周囲の山々をゆっくり眺めていられる状況ではなく、塔に埋め込またレリーフの「鐘がものをいふ 霧だ霧だと 鐘がものをいふ 生きろ生きろと 」(平林たい子)の詩を読むことさえ忘れていた。
 次の日は朝から快晴だった。宿で用意してもらった昼食のおにぎりをリュックに入れ、昨日と同じルートの路線バスに乗り込む。バスが、前の日に降りた停留所を通り過ぎ、ビーナスラインを走って車山高原に着いたところで下車。5人ほどの中年女性グループも降りると、車内に残った乗客は山靴をはいた高年女性が一人だけだった。
 車山高原のバス停付近にはマイカーや観光バスも駐車していたが、目に入った観光客の数はせいぜい20人程度にすぎなかった。昨日とはうってかわった陽気で、ヤッケなど必要のない温かさなのに、どうしてこんなに閑散としているのだろう。少し意外な思いを抱きつつ、スカイライナーと名づけられた展望リフトに乗って車山の中腹まで行くと、またまた家族だけの世界となった。
 すぐ近くのずんぐりむっくりの山は、そうだ若い時代に幾度もみた蓼科だ。その右に連なるのは、雪渓が陽光に輝く八ヶ岳。凛とした山容の神々しさよ。あ、富士山、と長女の声。八ヶ岳の右側稜線の中腹に乗っかるように顔を出しているのは、紛れもない富士だ。さらに右にたどっていけば、南アルプス、中央アルプス、北アルプスの尾根が、それぞれ雪をいただいた絵屏風となって遠望される。
 形容の言葉さえ浮かばない壮大なパノラマに思わず息を呑んだ後、その贅沢な空間の中で持参の昼食をとる。荒涼とした昨日の光景も抜群だったけれど、一変して春到来の今日の高原も素晴らしいね。そんな私の感想に対して、妻と娘は「昨日は寒かっただけ」と口を揃えた。どちらかと言えば寂寞派の私には、前日の評価は受け入れがたい。しかし、こと当日については、せっかくの風光明媚さをもっと多くの人で楽しめたらとの思いを共通に抱いているようだった。
 車山高原から再びバスに乗って白樺湖へ。下車した東白樺湖の辺りは総合レジャーランドになっており、景気づけの音楽が鳴り響いていた。ただし、西白樺湖に向けて白樺並木の路を歩きながら垣間見たかぎりでは、施設内にほとんど人気はなかった。西白樺湖のバス停に程近い蓼科テディベア美術館に長女が入ってみたが、ほかの入場者には出会わなかったそうだ。
 何処に行っても人出がひどく少なかったのはオフ・シーズンだったからで、多分、例年この時期はこんな調子なのだろう。しかし、天気予報のはずれや、暖冬・冷夏といった異常気象が客足や観光業界の態勢・営業成績に影響を及ぼすのは避けられないし、どれほどの比重なのかは別として、そうした要素が今も作用しているのだろうと感じた。となると、道は、10年ほど前から金融工学の分野で盛んに理論開発と実地応用の研究が重ねられ、現に一般的な金融商品としての認知が進んできている「天候デリバティブ」に通じているということか。
 電力、ガス、ビール、農業といった業種は、気象変動によって収益を左右されやすい。屋外のレジャー施設やイベントもそうだ。天候デリバティブは、そうした業種の企業が気象リスクを回避して収益安定をはかるのを可能にするために案出された仕組みであって、気象変動による減収をヘッジする手段として活用される。具体的な商品設計は多様だが、人気の高い保険型機能のものなら、事前に一定のオプション料(保険料)を支払っておけば、取り決めた数値以上(あるいは以下)の気温、降水量等になった場合に補償金を受け取れる、といったイメージだろう。
 さらに、天候デリバティブの証券化もすでに始動している。事業会社が特別目的会社(SPC)と天候デリバティブ契約を結ぶ。そのオプション料を原資にして、SPCは小口化した証券を売り出す。購入した投資者に対しては事後に償還がなされるが、予め定められた内容の異常気象が起きた場合には償還額が減らされる。その減額分を原資に、SPCから企業に補償金が支払われる。こんなメカニズムになっている。
 「諏訪湖畔第60回花火大会当日宿泊天候デリバティブ小口化証券、募集価格:1口10,000円、償還額:8月15日に降雨が観測されなければ15,000円、雨量1〜10mmなら8,000円、…雨量30mm以上は0円」――8月15日の花火当日には高級旅館の宿泊料は10〜30万円にもなるという事情を思えば、こうした証券の発行もありえよう。白樺湖のレジャーランドや美術館だって、また霧ヶ峰を走る路線バスの会社にしたって、気象リスク回避の観点から証券化を指向しないとはかぎらない。
 証券化と言えば、今まさに世界を覆っているサブプライム問題の脅威を理解する上でのキーポイントにほかならない。周知のとおり、米国サブプライムローンの焦げ付きが世界的な金融市場の混乱につながったのは、住宅ローンの大半が証券化され世界中の投資家によって購入されているという現実があればこそのことだ。証券化商品のリスク管理、価格評価、格付け等の問題点が浮き彫りになったが、天候リスクの証券化だってもろにそれらと関わっている。それでもこれを買いますかと問われれば、私はとてもじゃないがイエスと返事する気にはなれない。あなたはどうでしょう?
 ついでながら、ご存知でしょうか、この日本で新人グラビア・アイドルの証券化さえなされているのを。人を対象にした証券化なんて私の好みには合わないけれど、さてあなたは?

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諏訪に遊べば湯香と油価 (2008年5月下旬) 
 大型連休後の人出が少なそうな時期を狙って予定を組んでいた家族旅行に出かけ、諏訪に3泊した。前週からずっと、旅行期間は雨続きだとの天気予報が出されていたせいもあったのだろう。予想通り、いやそれ以上にどこも空いていた。
 とくに到着当日は台風の影響で荒れ模様だとされており、昼下がりに降り立った諏訪湖周辺は閑散としていた。実際には雨も降らず、湖面も白波が立つほどではなかったので、これ幸いと遊覧船に乗ったら、なんと客は私たち一家3人だけ。椅子席が1階と2階の合計で97名分もあり、デッキ等を含めると150名を運べる船なので、広々とした空間を占領している気分だった。しかし、同時に、原油価格急騰の折から、3人分の遊覧料2,400円では油代の足しにもならないだろうと、いささか肩身の狭い思いもした。そうそう野尻湖の遊覧船もやはり乗客3名のみだったっけ、と1年前を思い出す。
 下船した足で間欠泉センターに向かうと、噴出時刻は、10時、11時半、13時半、15時、16時半、最終が17時半、となっていた。○時や○時半といった切りのよい時刻であることに、自然もなかなか律儀なものだと感心しかかったものの、無論そんなはずなどありゃしない。人為的に制御しているのだろうと、すぐに察しがついた。1時間待ちだとわかり、近くの湖畔公園に作られた無料の足湯につかって、16時半の噴出を待つ。
 ところで、足湯って一体いつ頃からはやりだしたのだろう。湯治の一種としてなら、きっと長い歴史があるに違いない。ただ、各温泉地が集客の看板スポットとして設ける足湯の普及となると、目立ちだしたのはここ数年という新しい現象ではないのか。諏訪湖畔の足湯が開設されたのは2001年だそうだから、ひょっとしたらその草分けかも。昭和3年に、製糸業で財を成した片倉財閥が諏訪湖のほとりに建てた片倉館は、知る人ぞ知る日本最古の温泉保養施設だ。そうした先見の明が諏訪温泉のDNAに組み込まれていて、観光足湯でも他に一歩先んじたのだろう。何の根拠もないけれど、一宿一飯の恩義とばかり、勝手にそう信じることに決めた。
 間欠泉は、マイクの放送で集まった十数人の目の前で、予定時刻どおりに噴き出し始めた。日本一の高さを誇る間欠泉と聞いて期待していた。ああ、それなのに。地鳴りのような音と湯煙はそれなりに凄みがあったが、噴出した湯柱の高さはせいぜい2〜3メートルといったところ。湯量も少なく、ショボショボ出とまでは酷評しないにせよ、かなり迫力不足の感を否めなかった。
 諏訪市のホームページをみると、昭和58年に温泉掘削中に噴き出た間欠泉は50メートル、当時では世界で2番目の高さに達したとか。ところが、平成に入ると噴出間隔が次第に間遠になり、やがて自噴しなくなってしまった。今では、コンプレッサーで圧縮空気を送って噴出させているが、湯量の減少等で噴出高も数メートルどまりだという。自噴の終焉に直面して、関係者一同が「すわ一大事」と青ざめ、観光資源の保全・再生に知恵を絞った様が目に浮かぶ。予算と技術の両面で難しい課題だと推測されるだけに、関係者のいっそうの努力が間欠泉の往年の迫力を蘇らせ、町おこしに大きく寄与する形で実を結んでほしいと、これまた一宿一飯の義理に動かされて、強く願う。
 宿の大浴場も、当夜は相客なしだった。湯船に浸かっていると、間欠泉の元気のなさが目に浮かび、油田が枯渇するときもあんな感じかなと連想が走る。うろ覚えの怪しげな知識でしかないが、原油とともに湧き出す天然ガスの圧力が低下すれば、原油の自噴は止まる、と何処かで聞いたので。他方、この浴場は泉温が十分高くて重油ボイラーの世話になっていない、おかげで広い浴槽を独り占めにしていても遊覧船内とは違って油代を考えて気を遣うようなことはしなくてすむと、ほっとした気持ちにもなった。
 この度ばかりでなく、近頃、ともすれば原油価格に意識が向かう。一つには、私自身がサブプライム問題の解明作業に着手しており、その一環として、証券化商品離れした投資マネーが金融市場からコモディティ市場にシフトし、原油・穀物価格を急上昇させる重要な要因になってきた経緯に関心を寄せている、といった事情がある。だが、原油価格の急騰があらゆる生活物資の値上がりを先導しているのみならず、穀物のバイオ燃料原料への転用を通じて世界的な食糧危機を誘発していることへの、一生活人としての怯えに近い危機感や、やり場のない怒りの方がずっと大きい。
 近時のとどまるところを知らぬ原油価格の高騰こそ、国難という表現がぴったりくる、紛れもない国民的な「すわ一大事」だろう。私も旅行が終われば、おっとり刀で自分の決めた持ち場に駆けつけなければ。
 諏訪に遊べば、「湯の香」に包まれ「油価」思う。
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      書かなかったことの言い訳(2008年4月上旬)


 当面の重点領域と位置づけてきた「折々の独り言」のページなのに、去年の10月に2編を載せて以来、新作を綴らないまま5ヵ月余が経ってしまいました。もちろん、いつも気にはなっていました。とくに2編中の1つに「北海道旅情 (1)」という副題をつけておきながら、続編さえ書かなかったことについては、自責の念にかられもします。
 今となっては気の抜けたビールみたいなものですが、ちょとだけフォローをしておきます。「北海道旅情 (2)」ではこんな与太話をするつもりでした。
 ――関空で函館行きの搭乗開始を待っているとき、ガラス越しにスターフライヤーの姿を見かけた。黒を基調とした機体は実に印象的で、確かにうたい文句どおり「21世紀のモダン」という感じがした。客室乗務員の制服も黒なら、機内の革張りのシートも黒だとか。そういえば、昨今の日本では黒の人気が高く、黒いうどんや黒い練りはみがきも一部で流行になっていると聞く。こちらの方は、私としては「おはぐろ」を連想してしまうので、ぞっとしない。で、口に入れる黒となると…。
 函館空港だったか、それともJRの札幌駅だったか、北海道銘菓「白い恋人」の看板が堂々と掲げられていた。賞味期限改ざんの発覚(8月半ば)によって、「白い恋人」は黒い疑惑に包まれ市場から消えうせてしまったのに、2ヵ月もの間、看板はそのままになっていたのだろう。生産の再開時には慌てなくてもすむし、帰還の日も遠くなさそうだけれど(実際11月下旬に再開)、ちょっと高をくくっている趣もなしとしなかった。製造元には高ではなく腹をくくって、「恋人よ、そばにいて」と誰もが口ずさみたくなる土産品を提供できるように、大胆な経営刷新を実行してほしい。
 賞味期限の若干の引き延ばし程度なら苦笑ですませられるかもしれないが、生菓子の消費期限偽装となると、事は健康被害に直結しているだけに、およそ許しがたい。土産品の売れ筋ランキングでは「白い恋人」をしのぐ王者「赤福餅」も、その申し開きの出来ない行為に走ったがために、10月12日をもって駅、デパートから一斉に撤去された。「白」よりも一段と黒い「赤」には、300年の伝統が泣かないような体質に変わりきるまで、五十鈴川でしっかりみすぎをしてもらいたいものだ。――
 上のように述べた後、現行食品行政のあり方や欧米との法制の相違にも目配りしながら、賞味期限や消費期限をめぐってあれこれ論じたいと考えていました。月並みではありますが、とくに訴えたかったのは、地球のあちこちに飢餓があり、また世界的な食糧危機の足音が聞こえるのに、賞味期限切れを理由に品質的に何の問題もない食品を大量に廃棄し続けている日本社会の不条理さです。
 ほかに、「鴨川べりでのトンビとの闘い」に関する第二弾も頭にありました。第一弾では、鳶にコシヒカリのおにぎりを奪われた事件をイントロにして、米価低落の構造的問題に説き及びましたが、今度やられたのはサンドイッチです。いや、決して強奪されたわけではなく、10羽以上の鳶が束になって舞い降りてきて目の前を行き交うのに恐怖を感じて、手にしていたサンドイッチを意気地なく地面に放り出してしまったのでしたが。そこで――
 米価は下る一方なのに、パンの方は小麦価格の高騰を受けて派手に値上がりしている。では、なぜ小麦は高くなるばかりなのか。輸入小麦を主体とする小麦の価格は、一体どのようにして決まるのか。パンだけでなくチーズ、カレールー、コーヒー、香辛料、食料保存用ラップ、用紙類など、値上げの嵐が吹き荒れているのに、消費者物価は奇妙に落ち着いている。なぜそうなのか。――てなシナリオでした。
 話の種はまだ幾つもあったのに文章にしようとしなかったのは、ひとつには日常生活がかつてなく多忙で、時間的なゆとりが少なかったからです。しかし、もっと大きかったのが、私自身の心境の変化でした。そのきっかけについては「北海道旅情 (1)」に記したし、先日その線に沿って「ごあいさつ」のページを書き換えもしたので、詳細は割愛します。ともかく、昨年春の定年以後、現代の経済問題への関わりは「趣味の学習」のレベルにとどめる決意をしていたのに、その自己抑制を緩めて「研究」の場に部分的にでも復帰する気持ちになったということです。
 以来、いったん店じまいした後こじんまりとでも仕事を再開するのは実にエネルギーのいるものだ、と日々痛感しています。「白い恋人」や「赤福餅」の再登場に外野から注文をつけるのは簡単ですが、いざ自分が研究の再開に踏み出そうとなると、つけた注文がわが身にはね返ってきます。賞味期限は大丈夫か? それどころかとっくに消費期限切れでは? ただし、疑惑だらけではあっても食品衛生法の表示義務に縛られているわけじゃなし、ここは甘い自己認証でいかせてもらおうということにしました。
 他方で、研究することの醍醐味も再認識しつつあります。当面の考察対象に選んだサブプライム問題がみるみる世界経済を脅かすリヴァイアサン(巨大な怪物)に急成長したためもあるのでしょうが、そもそも研究には没我の境地に陥る麻薬的な要素が含まれているようです。限られた時間ながら、文献・資料の収集・解析にあたるにつけ、大学院生時代に戻ったような清新な気分を味わえるのは何とも贅沢だと感じます。
 まぁこんな次第で、サブプライム問題に引き付けられているうちに、どんどん時が流れてしまったのでした。といっても、解明作業はまだ入り口をくぐった段階にすぎず、分析がある程度の水準に達するのには相当な時間が必要です。その影響で、「折々の独り言」を疎かにする状態がまだしばらく続くかもしれません。過去だけでなく近い将来をも含んだ言い訳としてお聞きいただければ幸いです。考えてみれば、「書かなかった言い訳」を書くより、言い訳抜きで新作を書いた方が手っ取り早かったかもしれませんね。

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