序章第1章第2章第3章第4章第5章終章後記
第5章
 日があけ、翌日。
 一足先に昼餉を済ませた一郎は、大道具を担当する若者数名を引き連れ、桜深町に出発する準備を整えていた。調理担当のおかみや日用品の管理をする者、会計を担う者などの買出し班も同行するため、約半数の団員たちが町に向かうことになった。
「海都団長、ではおれたちは今から出発します」
「頼む。明日の朝にはそちらに合流する。それまでに解体を済ませておいてくれ」
「任せてください。ちゃちゃっと終わらせておきますんで」
「それから、おかみさん。保存食は多目に購入しておいてほしい。秋水先生から頼まれた薬草の手配も頼みます」
「はいよ、きちんと確保してくるよ」
 海都は、頼もしい返事を返してくる団員たちを心強く思いながら、安心して彼らが街道を去っていくのを見送った。
 まず、今後の予定を細かく立てなければならない。都経由で碧樹町へ向かう最短の道程を、今一度確認しなくては――海都は考えをめぐらせながら宿に戻った。

 未来と凛、そして廉は、冴えない表情で洗濯物を干していた。
 3人の心とは裏腹に、雲ひとつない青空の下、庭の樹に紐を渡して手巾や布をかけていく。
 いつもならば手よりも口を動かしているはずの凛も、それをどやす廉も、一言も言葉を発さずに黙々と作業をこなしている。
 未来は、朝から幾度目になるかわからない嘆息をもらした。終わりのない思考の渦に嵌まり込んでしまい、昨晩も今朝も、食事もろくに咽喉を通らなかった。凛も廉も似たようなもので、心配した秋水に具合を看られるといった調子だった。
 カサネのことを忘れよう、考えないようにしようと思う未来だが、そう思うほどにカサネの笑顔や歌声を思い出してしまい、その都度、胸を痛めていた。
 今頃何をしているのだろう。何を考えているのだろう。
 これからどうやって生きていくのだろう。村の人たちとの関係はどうなるだろうか。
 かなわぬ約束を、彼女はいつまで待ち続けるのだろう。いつまでも訪れない自分たちに、裏切られたと感じるかもしれない。そうなれば、あの赤い瞳がまた、悲しみに染まるのだろうか――
 そう思った瞬間、未来の胸がひときわ痛んだ。思わず洗濯物を手から取りこぼす。
「あ……いけない」
 慌てて拾い上げ、もう一度洗濯桶に漬ける。新しい水を井戸から汲み、ついてしまった土を落としていると、玄関側から海都が姿を見せた。
「団長。お疲れさまです」
 廉が表情を引き締めて背中を伸ばし、礼をする。海都は片手を上げて応えると、3人の顔をぐるりと見渡した。
「廉、夕刻から牛車に荷物を詰め込むから、手伝ってくれ。未来と凛は、芽衣と一緒に宿の掃除にあたってほしい」
「はい」
 3人は返事をし、こくりと頷いた。いつもと変わらぬ海都の口調は、まるで昨日のことなどなかったかのようだ。
 他の団員に指示を出すため去っていく海都の背中を見ながら、未来は長いため息をついた。胸を刺す痛みを誤魔化すように、豪快に水気を絞って紐にかける。
 汚れた水を流していると、縁側の障子が開いて芽衣が顔を出した。
「みんな、洗濯は終わった?」
「うん、今終わったよ」
 ちょうど最後の布を紐に引っ掛けた凛が答える。芽衣はあたりをきょろきょろと見渡すと、雪駄を履いて庭に下りた。そして、未来たちのほうへとゆっくり歩み寄ってくる。
「ちょっといいかしら?」
 芽衣はそう言いながら宿の裏手、台所の裏側を指差した。先日未来たちが内緒話をした場所だ。
 3人は顔を見合わせながら、先を歩く芽衣の背中を追いかけた。

 台所の裏についた芽衣は、くるりと3人を振り返った。
「あなたたち、昨晩眠れなかったんでしょう。目が腫れてるわ」
 腰に手を当てて言う芽衣に、未来たちは戸惑いながらも頷いてみせる。芽衣は「やっぱり」と言って苦笑を浮かべた。その笑みがいつもより疲れて見え、未来は芽衣の顔を改めて見つめる。いつも活き活きと輝く芽衣の瞳が、自分たちのそれと同じように腫れていた。
「芽衣姉も、目が赤いよ。眠れなかったの?」
 未来が問うと、芽衣は苦笑を深め、「まあね」と答えて軽く髪をかき上げた。その声は表情と同じく少し苦い色を含んでいる。
 台所に設置された格子窓から、わずかに海都の声が漏れ聞こえてくる。中にいる団員たちへ、今日と明日の動きを伝えているのだろう。それに応対する秋水の声も聞こえる。
 芽衣は前髪を指先でもてあそびつつ、言葉を選びながら口を開いた。
「……ひとつ、わかっていてほしいの。海都は冷徹な人じゃないってこと」
 聞こえてくる海都の声は、やはり冷静で事務的だ。しかし、海都と長い付き合いの芽衣には、その声がまったくの平常通りではないことに気づいていた。
「彼も胸を痛めているけれど、団長としてそれを表に出さない。一座の長として口にできない。その上で……あなたたちの気持ちも真剣に考えた上で、結論を出したのよ」
 未来は芽衣の言葉を聞き、昨日の海都の言葉をふと思い返した。
 彼女が幸せになることを祈ってあげなさい。
 その言葉は、海都が未来たちの気持ちをきちんと汲んだ上で口にしてくれたものだ。決して突き放したわけではない。淡白な声色の裏側には、確かに優しさがあった。
 友達だから。心でつながっているから――未来は、カサネに伝えた言葉を思い出す。
 一度つむいだ絆は、簡単に消えるものじゃない。見えない糸で、ずっとつながっている。
「だから、海都の言うように祈ってあげて。彼女のために。彼女を取り巻く現実に、変化が訪れるように」
 芽衣の言葉に、深く深く頷く。
「いつまでも後ろ向きに考えてたって、なにも変わらない。……カサネのためにだってならないよね」
 そして、そっと東の山に視線を送った。
「私たちの祈りが、廻りめぐって、いつかカサネの元に届くように、ずっと」

 ――未来の言葉が、終わる前に。

 突然の轟音が、辺りに響き渡った。
 次いで、足元から突き上げられ、未来の体が激しく傾いだ。
 大地が、揺れている。
「な、なに!?」
 なかば混乱状態になりながら未来が叫ぶ。凛が短い悲鳴を上げながら地面に倒れる。廉と芽衣は咄嗟に宿の壁にすがった。
 かろうじて転ぶのを免れた未来は、どくどくと高鳴る鼓動を抑えながら顔を上げる。
「地震!?」
 芽衣はあたりに視線をめぐらせながら叫ぶ。
 足元の地面が小刻みに波打ち、獣の唸り声のような低い轟音が響いている。しかし、さきほどの衝撃は地面というよりも大気を震わせるような音だった。
 ――ただの地震ではない。芽衣はぶるりと体を震わせた。
 再度の揺れを警戒した芽衣は、倒れた凛に手を貸し立ち上がらせると、廉と未来を自分の傍に引き寄せた。
 ほどなく、再度の揺れが村を襲った。地面の下から、どおんと銅鑼のような音が響き渡る。
 村人たちが悲鳴を上げ、一斉に家屋から飛び出してきた。さきほどまでの静けさが嘘のように、村は突如騒がしくなった。
「や、やだ、怖い! なに、なんなのよ、これぇ!」
 激しく狼狽した凛が叫び、芽衣の腰に抱きついた。芽衣は自らを落ち着かせるためにひとつ深呼吸し、極力冷静な声で「私がついてるから大丈夫」と言って、凛の体に腕を回し抱きしめた。
 そのとき、広場のほうから一際大きな悲鳴が上がった。
「噴火だ!」村の青年の叫び声だ。「火煌山が噴火した!!」
「噴火……!?」
 未来は目を見開いて火煌山を仰ぎ見た。そして、息をのむ。
 村人の言葉通り、頂上部分から不気味な黒煙が立ち上っている。それは見る間に膨れ上がり、空へと広がっていく。
 先ほどの揺れは地震ではなく、噴火の衝撃だった。芽衣の顔から血の気が引く。
「……海都のところに行くわよ」
 3人に告げた芽衣は、恐怖で泣き始めた凛の手のひらを握り、宿の入り口に向かって歩き出した。未来と廉も慌ててその後ろに続く。
 縁側に回ると、赤子を抱えた母親たちが大慌てで飛び出してきた。彼女たちを追い、秋水も飛び出してくる。
「みな、落ち着きなさい!」
 秋水は赤子を抱いて逃げ惑おうとする母親たちを必死になだめている。母親の恐慌を察した子どもたちは激しく泣き出し、ますます混乱はひどくなっていった。
 そんな中、梅が暴れて母親の腕から転がり落ちた。そして混乱のまま走り回り、泣き叫びながら村のほうへと駆け出していった。
「梅!」
 腹に新しい子を宿している母親はすぐに追いかけられず、真っ青になって娘の名を叫んだ。
 梅の向かう先は混乱した村人たちで溢れかえる道だ。危険だと悟った未来は、咄嗟にその幼い背中をつかまえようと追いかける。
 必死に駆け、人ごみにまぎれる前になんとかその腕をつかむことができた。泣き叫ぶ梅を抱き寄せ、腕の中におさめる。
「いやあ! こわいー!」
「大丈夫よ、梅! 落ち着いて! 大丈夫、大丈夫だから! お母さんのところに戻ろう!」
「やだあ! こわいよお!」
 2歳の梅にはあまりにも恐ろしかったのだろう、激しくもがいて暴れている。未来もまた、必死にその体を抱きしめた。腕を緩めれば、今にもまた飛び出してしまいそうだ。落ち着かせるように頭を撫でて背中をさするが、母親ではない未来のぬくもりでは、あまり効果がないようだった。
 そのとき、未来の耳に定吉の呶鳴り声が届いた。
「火煌山の火の神がお怒りになっている! 贄を捧げよと叫んでおられるぞ!!」
 半狂乱になって騒いでいた村人たちは、村長の大声を聞いて、みな一様に息をのみ動きを止めた。
 混乱の悲鳴は一気に静まり返り、何もわからない子どもの泣き声だけが村の中に響く。
「そうだ……贄だ」
「人身御供の儀式を」
「さすれば火の神の怒りがおさまる……」
 村人たちは熱に浮かされたように呟くと、火煌山と反対に位置する東の山を仰ぎ見た。
 そして、定吉が再度叫ぶ。
「――物の怪の子を、火の神に捧げよ!!」
 定吉の言葉を皮切りに、村人の大人たちは鍬や鎌、鋤を手に取り駆け出した。彼らが目指す先は東の山――カサネの家がある方面だ。
「物の怪の子を……火の神に捧げる……!?」
 未来は呆然と定吉の言葉を繰り返し、狂ったような雄叫びをあげながら山に向かって駆けて行く村人たちを見つめる。
「物の怪って……カサネ!?」
 驚き叫ぶ未来の腕の中から、いまだ喚き泣き続ける梅がすり抜けそうになる。慌てて梅の体を抱き上げた未来は、次の瞬間、喚き声を上げながら駆ける村人に突き飛ばされ、地面を転がった。
「うっ!」
 梅を庇いながら地面を転がる未来のすぐそばを、村の男が駆けていく。村に到着したとき、荷物を運んでくれた青年だ。その後ろに続くのは、かまどの使い方を教えてくれた気のいい女性。南瓜をくれた老婆の姿もある。
 人とは思えぬ叫び声を上げながら走る村人たちを、言葉もなく見上げる未来。その腕を誰かがつかんだ。
「危ない、未来姉、梅!」
 声の主、廉は素早く未来の脇に腕を回し梅ごと抱きかかえると、村人たちの暴走から離れた。さきほどまで未来が倒れていた場所を、青年たちが足音荒く駆け抜けていく。
 廉の腕にすがりながら、未来はまだ状況が整理できないでいた。ただ、目の前の光景を呆然と見つめることしかできない。
 芽衣と合流し、宿の前で村の様子を伺っていた海都が、苦々しげに顔をゆがめた。
「村長……噴火の予兆はないと言っていたのに。やはり自然現象の予知などできないか」
 そして隣に立つ芽衣に視線を流した。
「いつ火山灰が降り始めるかわからない。今すぐ逃げる準備を。全員でこの村を離れる」
「…………」
「芽衣!」
 未来と同じように、唖然と村人たちを見送る芽衣の肩を、海都は激しく揺さぶった。
「芽衣、しっかりしろ。自分の、そして皆の身を守るんだ。子どもたちと母親を早急に村の入り口へ。残りの団人には僕が指示を出す。この混乱だ、人数確認を絶対に怠るな」
「っ……、わ、わかった!」
 芽衣は弾かれたようにきびすを返し、宿の前でおろおろと火山の黒煙を見つめる団員たちに駆け寄っていく。
 冷静にならねば、団員たち、特に幼い子どもたちを余計に混乱させるだけだ、と自分に言い聞かせる。定吉の発した言葉は芽衣の耳にも届いていたが、芽衣は唇を噛んでそれ以上の想像を頭の中から追いやった。

 未来のそばに、梅の母親が駆け寄ってくる。そして、ようやく泣き止んだ梅を未来の手から受け取り、泣きながら礼を告げた。
「未来ちゃん、本当にありがとう。梅、無事でよかった……」
 未来は梅とその母親が離れていくのを、ぼうっとした顔で見送った。頭の中がかき混ぜられたように、思考がうまく働かない。
 ゆっくりと、言葉をひとつひとつ辿っていく。
 村人たちはみな、武器を手に東の山に向かった。カサネの住む山へ。
 村長は言った。物の怪を捧げよと。
 村人は言った。人身御供の儀式をと。
 その意味が繋がったと同時に、未来の体を支えていた廉が、搾り出すように言葉を発した。
「嘘だろ……カサネさんが……火山を鎮めるための人柱だなんて……」
 ――瞬間、未来は頭を殴られたような衝撃を受けた。現実から逃避していた心が、一気に引き戻される。
 思考が働かなかったのではない。村人たちの行動を、定吉の言葉を信じたくなかった。そんなはずがないと、無意識に考えるのを拒否していた。
 嘘だ。
 嘘だ!
 すべてを理解し、現実だと認めた未来の目の前が、真っ赤に染まる。呼吸が浅くなり、沸騰したかのように熱くなった頭が、一気に冷える。
「未来姉!」
 立ちくらみを起こし傾いだ未来の身体、それ支えきれず引きずられた廉の体を、駆けつけた海都の両の手のひらが支えた。廉は、大きな瞳を目を丸く見開き海都を見上げる。
「だ、団長」
「荷物を積んで逃げる。大八車を宿へ」
 海都が短く指示を飛ばす。
 廉は知らず乱れていた呼吸を胸に手を当て落ち着かせると、「わかりました」と答え、即座に駆け出した。
「凛。宿に向かい、廉を手伝ってくれ」
 目まぐるしい事態に立ち尽くしていた凛も、海都の言葉でようやく我に返る。海都の腕の中の未来を心配そうに見たあと、ぐっと唇を噛みきびすを返した。
 去っていくふたりの背中を見送りながら、海都は視線を腕の中に落とした。
 意識を取り戻した未来が、虚空を見つめながらぶつぶつと呟いている。
「うそ、……嘘」
「未来」
「……嘘、でしょ……」
「未来。落ち着いて聞くんだ。噴火の影響が出る前に、この村から出るぞ」
 海都の言葉に、光を失っていた未来の瞳がはっと見開かれる。冷たくなった指先が海都の腕を強く掴んだ。
「海都兄。カサネが」
「今は忘れるんだ」
 海都を見上げる未来の瞳は、完全に混迷し揺れていた。
「カサネが……人身御供に……。……どうして」
「考えるな!」
 未来の両肩をつかみ、海都が一喝する。聞いたことのない海都の鋭い声に、未来はびくりと身体を震わせた。
「……未来」
 いまだ平静を取り戻せぬ未来の瞳を見つめながら、海都は告げる。内心に渦巻くさまざまな感情を押し殺しながら、団長として。
「すべて忘れて、逃げるんだ」





 村を挟んで反対側に位置する山の頂上から、黒煙が上がっている。
「一体……なにが……?」
 轟音と地震に驚き家を飛び出したカサネは、不安げにその光景を見つめていた。
 黒い雲はたちどころに広がり、澄み切った青空をどんどん黒に染めていく。臆病者のカラスが、異常な速度で上空を飛び回っていた。
 カサネの本能が、激しく警鐘を鳴らしていた。それは、大自然の中で生きるうちに身についた勘のようなものだ。胸騒ぎが止まらず、鼓動がどくどくと大きな音を立てる。
 そばの草むらの葉が揺れ、間から鹿の親子が顔を出した。その目は怯えきっており、脚は震えている。動物達もまた、異変に気づいたらしい。
 カサネは鹿の親子に近づき、その頭をそっと撫でた。
「……怖い、ですか……。……そうですね、わたしも、あんな光景は初めてで、不安です……」
 言いながら黒煙に再び目を向ける。黒い雲は徐々にこちらに近づきつつある。澄んだ青空が一部だけ切り取られたような、異様な光景だった。
 そのとき、カサネの背後の草むらが、がさりと音を立てた。同時に、鹿の親子がきびすを返し木々の間に走り去る。
 カサネが振り返ると、そこには村の少年が立っていた。先日畑を荒らしに来た、そして竹槍で襲ってきた少年だ。
「物の怪! 今すぐ村に来てもらおう!」
 低い声で怒鳴られ、カサネは驚き、恐怖に肩をすくませる。
 身を縮こまらせて怯えるカサネの前に、次々と村人たちがなだれ込んできた。誰もが手に武器を構え、険しい表情を浮かべている。
「ど、どういうことですか……?」
 狭い庭は、あっという間に村人たちで溢れかえった。狂気を宿した多数の瞳に見つめられ、カサネは戸惑いと恐怖の表情を浮かべて一歩後ずさる。
「火煌山が噴火したんだよ! 火の神がお怒りだ! 供物を捧げねばならん!」
 新八を押しのけ、村長の息子である弥吉が一歩前に出る。
「物の怪――貴様には人身御供になり、村を守ってもらう!」
 弥吉は、斧を持つ腕を振り上げながら、高らかに告げた。それを合図に、村人たちは手にした農具や武器を構えた。抵抗すれば傷つけるという意思表示を示しながら、ぎらぎらと瞳を光らせている。
「ひとみ……ごくう? 村を、守る……?」
 カサネは、恐る恐る弥吉の言葉を繰り返した。
「そうだ。お前の命を水鏡湖に捧げれば、火の神の怒りは鎮まる。火煌山の噴火はおさまるんだ!」
 新八が弥吉の後ろから叫ぶ。村人たちはそれに同調し、そうだそうだと喚きたてた。
「……わたしがこの身を捧げれば、村を守ることができるのですか……?」
 か細い声でたずねるカサネに、弥吉は苛立ったように「そうだよ!」と叫んだ。
「とっとと覚悟決めちまいな!」
「お前ひとり死ぬだけで、村の人間はみんな助かるんだ!」
「みんなのために死んどくれ!」
 村人たちは苛立たしげに武器をがちゃがちゃと鳴らしながら叫ぶ。
 カサネは怯えながらも、彼らの言葉を心の中で反芻した。
 自分が犠牲になれば、みんな助かる。目の前の村人たち、自分に優しくしてくれた娘たち、山に住む動物たち、そして今この村に滞在している未来たちも――
 カサネがそこまで考えたとき、殊更大きな轟音が響き、空気と大地が震えた。村人たちが悲鳴をあげる。
「駄目だ、火の神の怒りが強くなっている!」
 カサネは視線を動かし、向かいの山を見た。山頂がわずかに紅く輝いている。黒煙はゆっくりと、だが確実に村に向かって近づいてきていた。
「ちっ、埒があかねえ。おい、こいつの腕を縛っちまいな! 抵抗するなら多少傷つけてもかまわん。どうせ死にゃあしねえしな」
 弥吉は唇を歪ませ、焦りと苛立ちを含んだ声音で新八に命令した。新八は頷くと、後ろにいる仲間に声をかけ、竹槍を構えながらカサネに近づいた。
 怒りをはらんだ瞳が、カサネを睨みつけ迫ってくる。
 その新八の瞳を見るうちに、カサネは気づいた。――その瞳の中に、確かに恐怖の色があるということに。
 新八だけではない。武器を持つ村人たちの手はみな震えている。瞳には、畏れの色がある。火の神を恐れ、村を失うのを恐れ、そして死を恐れる色が。
 みな、恐怖から逃れるためにここに来た。カサネを求めて、ここに来たのだ。
 それを理解したとたん、カサネの体の震えがとまった。
 自分にも、できることがある。何もできないと思っていた自分にも、できることが――自分にしか果たせない役割があるのだ。
 震えとともに、カサネの中から迷いが消えた。
「……わかりました」
 こくりとうなずき、小さな手のひらを新八に向けてそっと差し出す。
「行きましょう。この命、お役に立つのなら」
 まっすぐに、ためらいなく。
 新八は、思わず目を剥いた。声もなく怖がってうずくまるだろう、槍で刺して抵抗できなくなったところを縛り上げてやる――そう思っていたのに、予想外のカサネの行動に虚をつかれ、思わずぽかんとカサネの顔を見る。
 カサネの表情には恐怖も怯えもない。真正面から新八を見つめるその顔は、凛然とした表情だった。
「それが、わたしにしかできないことだというなら……きっと、わたしはこのために生まれてきたのでしょう」
 そう言って、カサネは手を伸ばしたまま一歩前に出た。そして、足を止めた新八を見上げる。いつもおどおどと逸らされる赤い瞳は、まっすぐに新八を捉えていた。
 美しく澄みきったそれに圧倒され、新八は言葉を発せぬまま、差し出された手とカサネの顔を交互に見る。
「殊勝な心がけじゃねえか。おい、一応逃げないように腕つかんどけよ」
 カサネの態度を見た弥吉は笑いながら新八に命令し、村人たちを振り返る。
「村に戻るぞ! 儀式の準備だ!」
 村人たちは狂ったような雄叫びで応える。
 新八は迷いを振り払うようにひとつ舌打ちをすると、カサネの手首を乱暴に掴んだ。新八の仲間たちがふたりを囲むように陣取り、さらにその周りを村人たちが囲む。
 新八が促すまでもなく、カサネは確かな足取りで村に続く道へ向かって歩き始めた。
 カサネは胸の奥が熱くなるのを感じていた。自分の命が、誰かの役に立つなど思っていなかった。何もできない自分にも、誰かを救うことができるのだ。
 覚悟を決めたカサネだが、心残りはひとつだけあった。
 掴まれていないほうの手で、胸元にそっと手を当てる。そこに忍ばせているのは、未来からもらった手紙だ。手渡された日から毎日、懐に大切にしまってある。約束が果たされる日まで、肌身離さず持ち歩こうと心に誓っていた。
 再会の約束をかなえることはできない。未来たちはきっと悲しむだろう。
 それでも、これは自分の役目だ。約束を果たせずとも、未来たちが生きていてくれるのなら、それがなによりだった。
 カサネは胸に当てた手のひらをぎゅっと握りしめ、顔を上げた。そして火神村の入り口を目指し、確かな足取りで歩き続けた。

 その頃、火神村の広場では慌しく儀式の準備が進められていた。
 定吉は、自宅の神棚から祝詞が記された神事の巻物を手に取り、笑みを浮かべた。
「よもや、こんなに早く儀式の機会が訪れようとは……」
 父が行った儀式の奇跡が忘れられず、水鏡湖の伝説を心酔している定吉にとって、この突如訪れた災厄はむしろ喜びさえ感じるものであった。
 30年前、物の怪の女は、儀式を快諾したわけではない。薬草で眠らせた娘を人質にとり、首を縦に振らせたのが真相だ。カサネを人身御供の候補から外すこと、仕事を与え村に住まわせることを条件に、その身を湖に投げた。
 それから数年後、父が死んだその日に定吉は決意した。カサネを次の人身御供にすると。
 定吉は、なんとしても物の怪を神に捧げたかった。忌子の穢れだけでは、あの光景は再現できないと考えたからだ。約束を交わした両人がこの世からいなくなったのだから、反故にしたところで問題などなかった。
 自分の判断は須らく正しかった。村に住まわせ仕事を与えてきた甲斐があった。彼女の機織の技術は惜しいが、儀式の前では微々たる消失にすぎない。
 最高の舞台で、最高の供物をもって、最高の儀式を行える。あの光景をもう一度見ることができる。いよいよ自分自身の手で、伝説を成就させられるのだ。
「村長、祭壇の準備が整いました」
 村の若者が定吉に声をかける。定吉は短い返事を返すと、水鏡湖に向かって歩き始める。
 昂揚した気持ちが抑えられず、その口元から微かな笑声がこぼれた。





 桜深町を目指す。災厄が起きたその瞬間から、海都の心は決まっていた。
 ここから桜深町はさほど離れていないため、被害の心配は拭えないが、とにかく一郎たちと合流するのが最優先だった。散り散りに逃げてはぐれた場合、次に合流するのは困難を極めるからだ。
 未来を連れた海都は、村の入り口で女性たちや子どもの点呼を取っていた芽衣に合流した。
「桜深町が混乱していないことを祈るしかないな」
 海都はそう言いながら、牛車に赤子と幼児を乗せ、次いで母親たちに付き添うように命じる。
「牛車は移動が遅い。先に出たほうがいいだろう。僕たちもすぐに追いかける」
 まもなく大八車の荷も積み終わる。急ぎ進めば、道の途中で合流できると考えた海都は、子どもとその母親を先行させることに決めた。
 芽衣は、出発する団員の名を最終確認したのち、そばに立つ秋水に頭を下げる。
「秋水先生、みんなをお願いします」
「はい。無事にお会いしましょう」
 秋水はいつもと変わらぬ静かな口調で頷き、牛を引き歩き出した。母親たちも、牛車を囲むようにして早足で歩き始める。
 海都と芽衣は、秋水の冷静さに胸を撫で下ろした。不安に揺れる母親や子どもたちだったが、穏やかな彼がいれば、大きな混乱はまず起きないだろう。
「団長、荷物の運び込みが終わりました!」
 後ろからかけられた声に、海都は振り返った。残りの団員たちが、大八車を引きながら必死に駆けてくる。
「指示通り、必要最低限のものだけを積んできました」
 息を切らしながら報告する廉。隣にいる凛は、言葉も発せず肩で息をしている。
 最低限とはいえ、大所帯の荷物はそれなりにあった。大急ぎで積み込んだ荷物は、荷台の上で不安定に揺れている。
「固定が甘い。これじゃ危険だ」
「すみません、今すぐ締めなおします!」
「頼む。終わり次第すぐに出る」
 指示を出す人間が取り乱せば、現場全員が混乱を極める。つとめて平静に応えながら、海都は空を仰いだ。
 黒い雲は徐々に近づき、間もなく村の上空にまで到達しそうであった。焦りは募る。海都は額ににじむ汗を軽く拭いながら、視線を隣に滑らせた。
 隣に立つ未来は、海都に腕をつかまれながら、団員たちが荷を積むのをぼうっと見守っている。普段の彼女なら、すすんで手伝いを買って出るところだが、動こうとする様子はない。
 糸が切れたかのような、現実から逃避したようなその姿に、両親や荘介を亡くしたときの彼女の姿が重なる。
「海都、全員いるわ」
 念入りに人数を確認していた芽衣が、海都に駆け寄り報告した。ひとまず安心した海都は、再び視線を大八車に送った。
 荷の固定を進める男たちの手元は焦りでおぼつかず、なかなか作業が進まない。動揺が手を鈍らせ、呼吸を乱し、いつものように息を合わせられなくなっている。
 見かねた海都は、未来を芽衣に任せ、作業に加わった。団員たちの肩をたたき落ち着かせ、かけ声をかけながら、全員で縄を強く縛りこむ。
「……よし、もう少し」
 海都が呟いた、まさにそのときだった。
 村の一角が、ざわめきを増した。
 山へと去っていった雄叫びが、村へと戻ってくる。異様な空気がびりびりと伝わり、思わず全員の手が止まる。
 海都は弾かれたように、声のする方向を振り返った。東に位置する山から、それは徐々に下ってきている。
 ――間に合わない。間に合わなかった。その事実に気づいた海都は、首をめぐらせ未来に向かって叫んだ。
「未来、駄目だ!」


 それは、ほとんど無意識だった。
 ただならぬ騒ぎへと視線を送れば、目に映ったのは村人の輪、その中央にいる少女。武器に囲まれながら前へ進む、彼女の姿。
 その表情は、遠すぎて見えはしない。だが、背を伸ばし、確かな足取りで進んでいる彼女。
 恥ずかしそうに、嬉しそうに、屈託なく笑う彼女の顔が、目の前に浮かんで消える。
 約束を交わした小さな手のひらの熱が蘇り、未来の冷たい指先に火をともした。
 現実感のなかった世界が、浮いたままの未来の意識へ、緩やかに混じる。それは濁流のように未来の意識をかき乱し、そして、浮上させた。
 未来の瞳に、力強い光が宿る。
 ――行かなきゃ。

「みんな、先に逃げて!」
 海都の制止の声と、未来の叫びは同時だった。
 未来は、芽衣の手を振りほどき、駆け出した。
 目の前で起こったこと、起こっていることに、心がついていかなかった。頭で理解できても、心が認めたがらなかった。
 村人たちに連れられ歩くカサネを見た、その瞬間から未来の時が動き始めた。
 みんな、ごめん。
 全速力でカサネの元を目指して駆けながら、未来は心の中で呟く。海都はきっと怒っているだろう。最初から最後までみんなに迷惑をかけてばかりだった。我侭を押し通してしまった。
 だけど、黙って見てなんていられない。カサネは友達だから。人柱になる友達に背を向けるなんて、絶対にできない。
 ――だから、ごめんなさい。未来はもう一度心の中で呟いた。
 カサネと、彼女を囲う集団が、村の中央、水鏡湖へ向かっていることに気付いた未来は、先に広場へ回りこもうと、近道を探して視線をめぐらせた。家と家の隙間、縫って走れば湖へ直行できそうな道を見つけ、迷いなくその路地へと飛び込む。
 息が上がり、心臓がどくどくと音を立てる。前身頃を掴み引き上げ、雪駄を脱ぎ捨て、走る速度を上げる。
 もうすぐ路地を抜ける。視界の端に湖をとらえた未来の前に、
「止まりなさい!」
 鋭い声と共に、ひとりの女性が立ちはだかった。
 狭い路地を塞ぐように立たれ、未来は思わず足を止める。そして、目を見開いた。
「……篠枝さん!」
 名を呼ばれた女性――篠枝は竹槍を構え、未来を睨みつけている。その顔には般若のような怒りの表情が張り付き、瞳はぎらぎらと鈍く輝いていた。
「なにしに来たの。村の出口はあっちでしょう。余所者は早く立ち去りなさい」
 篠枝の顔には、さきほど山へ駆けて行った村人たちのそれとは違う類の狂気が見える。鬼気迫る様子に、未来はごくりと唾を飲み込んだ。
 それでも、覚悟を決めて飛び出したのだ。ここで止まるわけにはいかなかった。
「ここを通して。カサネの元に行きたいの」
「……なぜあんたが物の怪の名前を」
 未来の言葉に、篠枝の瞳に浮かぶ狂気が鋭さを増す。
「そんなことはどうだっていいわ。とにかく、儀式を邪魔するのだけは許さない。早くここから――」
「カサネを人柱の犠牲になんてさせない!」
 篠枝の言葉を断ち切るように、未来は大声で叫ぶ。それは自分への宣誓、そして鼓舞だ。
 必死の形相で食いついてくる未来に、篠枝は怒りを爆発させた。
「邪魔されると、私の計画が狂うのよ!」
 金切り声でそう言いながら、竹槍を振り回す。槍は未来の長い髪をかすめ、すさまじい勢いで地面に突き刺さった。
 恐怖に慄く未来だったが、篠枝の立つ向こう側、湖の前へなだれ込んでくる村人たちを目に留め、臆してははいられないと両手をかたく握りしめた。
「私はカサネのところに行く! そこを退いて!」
 未来の叫びを聞いた篠枝は、怒りを目に宿らせ、竹槍を地面から引き抜く。そしてその腕を、再度振り上げた。
 両者が一歩前に出ようとした刹那――
 唐突に篠枝の体が傾ぎ、その手から槍が零れ落ちた。
「……! 何!?」
 驚き身をよじる篠枝の足と腕に、唄枝と篠枝がすがり付いていた。
「う、唄枝、桃枝!?」
 篠枝は戸惑い、目を見開いて娘たちを見下ろす。幼い娘たちは、涙を流し、唇を噛みながら必死の形相で篠枝の動きを拘束していた。
「な、なにをするの! 離しなさい!」
 怒鳴る篠枝にも怯まず、唄枝と桃枝は未来をまっすぐに見つめた。
「今のうちに!」
「早く!」
 呆気にとられていた未来は、2人の言葉に我に返った。もがく篠枝のとなりをすり抜け、路地を抜ける。
 わき目も振らず駆け抜け、そしてとうとう、広場に出た。
 村人たちは、水鏡湖を囲うように集っていた。どこからか、微かに祝詞を読み上げる声や鈴の音が聞こえてくる。すでに儀式は始まっていた。
 未来は、上がる息もそのままにカサネの姿を探した。
 恐慌状態の村人たちは、いまだ武器を手に喚きたてている。揺れる人垣の向こう、紙垂で封印されていた橋の上に立つカサネの姿が、ちらりと見えた。
「カサネ!」
 未来は叫びながら、村人たちをかき分けてカサネの元に進もうとする。だが、人垣に押され前に進めない。儀式の邪魔をするなと、何度も押し返され突き飛ばされる。
 それでも諦めずに必死に前に進もうとする未来だったが、とうとう激しく振り払われた。未来の軽い体は吹き飛ばされ、地面を転がった。
「カサネを人柱にするなんてやめて! やめてよ!」
 痛む足を押さえながら立ち上がり叫ぶ未来だが、誰の耳にも彼女の声は届かない。
 狂気にまみれた空気が肌に伝わってくる。正気の存在しない、言葉が意味を成さない、異様な空間が、そこにはあった。
 だが未来は、諦めるわけにはいかなかった。カサネの名を叫びながら、必死に前に進もうとする。
 だが、声が枯れんばかりに叫ぶ村人たちの声に、その声はかき消されてしまう。伸ばした手のひらも、押し返されてしまう。2度、3度と地面に叩きつけられる。
 それでも起き上がり、立ち上がり、必死に前に進もうとする未来。その両脇から、よく知った声がかけられた。
「ええいっ、あんたたち退きなさいよっ!」
「未来姉! ぼくらが抑えるから、前へ!」
 同時に、未来を囲う村人からの圧力がわずかに軽くなった。
 未来と村人たちの間に、凛と廉の腕が割り込んでいる。未来を追いかけてきた凛と廉が、未来の手助けをするために体を張って壁になっていた。
「行けえっ、未来!」
 凛が叫ぶ。未来よりもさらに小柄な彼女の体は、今にも村人たちに押しつぶされそうだったが、必死の形相で踏ん張り耐えていた。
「早く、未来姉!」
 廉もまた、振り回される武器を細腕で抑え込みながら叫んだ。
 未来は大きくうなずくと、わずかに生まれた隙間に体をねじ込んだ。その勢いのまま、必死に前に進む。
 ただひたすら、一点だけを目指して、前へと。
 ――そして、未来は見た。
 朽ちかけた橋の中央に立つ、カサネの姿を。
 その足元には大きな石が置かれており、縄でカサネの足首に繋がれている。ただでさえ頼りのない薄い板は、カサネの体重と石の重みで今にも折れそうなほどにたわんでいた。
 あと少しでカサネの立つ橋の元にたどり着く――痛む足に鞭を打ち、腕を目いっぱい伸ばし、とうとう未来は人垣の一番前に躍り出た。
 その瞬間、未来の両脇の下に太い腕が滑り込んだ。そのまま、後ろから羽交い絞めにされる。未来は短い悲鳴を上げて後ろを振り返った。
「余所者が、神聖な儀式の邪魔をするんじゃねえ!」
 未来を羽交い絞めにしたのは弥吉だった。背の高い弥吉に抱えられ、未来の足が宙に浮く。悲鳴を上げもがくが、弥吉の腕はびくともしない。
 未来は必死に抵抗しながら、顔をあげる。そして、声の限り叫んだ。
「カサネ!」
 腹の底から、咽喉が切れるほどの声で、少女の名を。
「カサネぇ!!」
 橋の上で、覚悟を決めたように瞳を閉じていたカサネが、はっと息をのみ、目を開けた。
 声が、届いた。
 未来はありったけの力を込めて、後頭部を勢いよく反らした。鼻っ柱に頭突きを食らった弥吉は短い悲鳴を上げ、思わず未来の体を離す。
 開放された未来は、すぐさま橋の入り口に向かおうとするが、背後から伸びた手に帯をつかまれ、地面に引きずり倒された。その身体の上に若者たちが圧し掛かり、身動きを封じられる。
 地面に体を押しつけられながらも未来は、唯一自由に動かせる口で、声の限り叫んだ。
「カサネ、どうしてあなたが死ななきゃいけないの!? どうして! あなたはなにもしてないじゃない!」
 口を塞ごうと伸びてくる手をかわしながら、カサネに向かって再び叫ぶ。
「外の世界には、あなたと同じ仲間がいるかもしれない! 探そう! 私たちと一緒に行こう!」
 背中に体重をかけられ、呼吸が浅くなる。村人たちの咆哮に、叫びがかき消されそうになる。それでも、負けてなるものかと未来は叫び続けた。
「まだ見たことのないものを見に行こう! たくさん、たくさん楽しいことを一緒にしよう! 知らないことを、一緒に知ろうよ! もっと一緒に唄を歌おうよ!」
 全身全霊で、思いを届ける。
「未来……」
 未来の言葉を聞いたカサネは、驚きに開いた瞳を、徐々に滲ませた。唇がわななき、眉が下がる。
 短い沈黙のあと、泣き笑いめいた表情を浮かべ、カサネは口を開いた。
「ありがとうございます……未来」
 ゆっくりと首を左右に振り、言葉を続ける。
「……だけどわたしは、……きっと、このために生きてきたから……」
 純粋な瞳は、水鏡湖の湖面と同じように美しく澄み切っている。
「約束、守れなくて……ごめんなさい」
 それは、惑いも躊躇もない、覚悟を決めた声と表情だった。
 その表情を見た未来は悟った。もう、自分の言葉はカサネには届かないのだと。
 人身御供になるよう言われ、ここに来たカサネ。村人たちに囲まれ歩く彼女は、特別拘束もされず自らの足で歩いていた。背を伸ばし、迷いない足取りで。おそらく、抵抗など一切していないのだろう。
 無理やりにでも、仕方なくでもない。彼女自身が望んだ。彼女はこの運命を受け入れてしまった。自分の言葉が届かないほどに、覚悟を決めてしまったのだ。
 未来の瞳から、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。


 カサネは、未来の涙が地面を濡らすのを、瞳を細めて見つめた。
 これは、村を、動物たちを、未来たちを救うための方法だ。そのためならばカサネは、胸を張って命を捧げることができた。
 未来が、自分のために来てくれた。涙してくれている。あんなにぼろぼろになってまで、手を差し伸べようとしてくれている。
 カサネは胸の痛みとともに感謝の気持ちを抱いた。自分のために泣いてくれる人が存在する、そのありがたさを、そのときの気持ちを、未来と出会って初めて知ることができた。
 未来や凛、廉が与えてくれたのはそれだけではない。
 心を通わせる難しさと、その幸せを。
 分け与えあう尊さと、鼓動の高鳴りを。
 寂しさだけではない、つながりの中の別れを。
 彼女たちは、教えてくれた。なにも持たず、なにもできない自分を受け入れ、認めてくれた。
 カサネは今一度感謝し、胸元にそっと手を当てた。
 そして、桜色の唇を開く。
 ともに歌った、大好きな唄を、心を込めて紡ぐ。
 未来の心を癒すために、安心させるために、そして感謝を伝えるために。一緒に歌ったときの胸の高鳴りを思い出しながら、感情の変化を認めながら、丁寧に丁寧に、音を辿っていく。
 母が遺した宝物は、未来たちと共有することでより大きな意味を持つようになった。大好きだったこの唄を、これまで以上に好きになったのも、未来たちのおかげなのだ。
 未来の心に届くように、カサネはまっすぐ前を向いて、歌を紡ぎ続けた。


 黒い雲は、とうとう村に到達しようとしていた。先ほどまで降り注いでいた日の光は遮られ、あたりは薄暗く翳っている。
 御神木の根のそばで、熱心に祝詞を唱えていた定吉は、不意に聞こえ始めた歌声に顔を上げた。
 カサネが、橋の上で唄を歌っている。
 一瞬気色ばんだ定吉だったが、どうせあとわずかな命だ、好きにさせてやろう――そう思い直し、祝詞の詠唱を続けることにした。
 だが、徐々にカサネの歌声が耳につき始めた。耳を打つ旋律が、定吉の意識を揺さぶる。それはやがて、祝詞に集中できぬほどになった。
 定吉は一旦詠唱を止め、忌々しげにカサネを見た。
 そこでようやく気づく。先ほどまで恐慌に揺れていた村人たちが、呆然と彼女を見つめていることに。
 怒声や悲鳴に溢れていた広場が、水を打ったように静まり返っている。火煌山の唸り音と、カサネの歌声だけが響き渡っていた。
「なんと……なんと美しい唄じゃ……」
 定吉のとなりで鈴を持ち、祝詞の補助をしていた老婆が、ぽつりと呟いた。
「このような唄は、聴いたことがない……」
 彼女もまた、呆然とカサネを見つめている。視線をめぐらせれば、清めの水を持つ女性も、貢物を準備していた男性も、カサネの唄に聞き入り、呆けた表情をしている。
 戸惑う定吉の耳に、がしゃり、がしゃりと音が届いた。何事かと音のほうへと顔を向ければ、村人たちの持つ鍬や鋤が、ひとつ、またひとつと手から滑り、地面に落ちていた。
 村人たちの荒立った空気が、カサネの唄によって鎮まっている。人々の瞳に宿っていた畏れと焦燥が、だんだんと消えていく。
「あの子は、本当に穢れた血の者なのか……?」
 誰かが発した呟きに、定吉は眉をひそめた。同時に、わずかな焦りが生じる。
 カサネの唄は確かに美しい。あれだけ恐慌状態に陥っていた村人たちを鎮めるほどの迫力があった。
 だが、あくまでも彼女は穢れた血の者であり、人柱だ。この唄によって、彼女を神聖な存在だなどと住人たちが言い出せば、煩わしいことになりかねない。
「……気を引き、同情を誘うつもりか。物の怪の分際で!」
 定吉は吐き捨てるように唸ると、残りの祝詞を素早く読み上げた。そして、村人たちが妙な気を起こす前に、自分の手で儀式を成就しようと決断し、巻物を放り投げて立ち上がる。
 定吉は、ぼんやりと唄に聴き入る村人たちを押しのけ、前に出る。
 そして村人が落とした鉈を拾い、振り上げながら橋に向かって突進していった。

 力を失った村人たちの下から這い出した未来は、涙を流しながらカサネの唄を聴いていた。
 歌声には、未来たちに対する感謝が、溢れんばかりにこめられていた。どれだけ自分たちを大事に思ってくれているのか、伝わってくる。
 穏やかに、落ち着かせるように。風の如く、音がわたる。
 未来は、溢れる涙を手の甲で拭い立ち上がった。カサネの立つ橋へとゆっくりと歩を進め、手を伸ばした。
 失いたくない。
 生きてほしい。
 この手をとって、ともに生きるといってほしい。
 そしてもう一度、……ううん、何度も。何度でも、あなたと――
 未来の思考は、横からの激しい衝撃に打ち消された。カサネに向けた手のひらが、虚しく空を掻き、地面に落ちる。
 体当たりを仕掛けた定吉は、倒れ伏す未来を一瞥すると、手にした鉈を振り上げた。
 そして、叫喚の声をあげながらカサネの立つ橋へ駆け寄り、そのたもとに鉈を振り下ろした。
 鈍い音がして、橋が傾ぐ。
 再度鉈を振り上げる定吉に、ようやく前へたどり着いた凛と廉が止めようと飛びかかったが、定吉の動きのほうが一瞬早かった。
 躊躇ない2撃目が、振り下ろされる。
 未来の目の前で、めきめきと不吉な音を立てながら、橋がゆっくりと折れていく。
 橋の上で、カサネの小さな体がぐらりと傾いた。
 未来は、凛は、廉は、そして村人たちは、湖面に向かって落ちていくカサネを見た。
 ――微笑んで、落ちていくカサネを。
 すべてを受け入れ、穏やかな笑顔を浮かべた彼女を。
 そしてその小さな体は、吸い込まれるように湖へと消えていった。

「カサネーーー!」
 未来は叫び、カサネを追いかけようと、湖へ足を向ける。
 その体は水面に踊る間際で後ろに引かれた。芽衣が必死の形相で未来の体を抱きとめたのだ。
「カサネ! カサネぇ!!」
 叫びながら身をよじる未来。芽衣は、血がにじむほどに唇をかみしめ、震える腕を未来の体に回し、抱きしめる。姉として、大切な未来を湖に飛び込ませるわけにはいかなかった。
「うそ……嘘よぉ……カサネさんが……カサネさんが……」
 定吉ともみ合い傷だらけになった凛が、地面に両手をつき涙をこぼす。
「どうしようも、なかったのか……」
 廉もまた地面に爪を食い込ませながら、悔しさとやるせなさに涙を浮かべた。
 暴動に巻き込まれ、もみくちゃにされていた村の子どもたちを救出していた海都も、唇を引き結び、眉を寄せて瞳を伏せた。

 静まり返った村人たちは、みな一様に湖面を見つめていた。
 水面へ上がる水泡が数を減らし、そして完全に見えなくなるまで、目を離さずその光景を見ていた。
「……あいつ……」
 水面から泡が消え、カサネの息が尽きたのを確認した新八は、呆然と呟いた。
「あいつ、笑ってた……これから死ぬって言うのに……どうして……」
 新八の言葉を聞いた村人たちは、互いに顔を見合わせ、そして黙り込む。誰もその問いに答えられる者はいない。
 沈黙する村人たちの背後に、幼い声が響いた。
「カサネさんは……なにをしたの?」
 村人たちは一斉に振り返る。そこに立つのは、唄枝と桃枝だった。ふたりは涙に濡れた瞳を村人たちにまっすぐ向け、もう一度問いかけた。
「カサネさんは私たちに、なにをしたの……? あなたたちに、なにを?」
 その問いを受け、新八は思い出す。
 10年前、向けられた同じ問いに、何も答えられなかったことを。改めて問われた今も、その問いに答えることはできなかった。
 他の村人たちも、新八と同じように言葉を発せずにいた。
 他者を傷つけるわけでもなく、悪意を見せるでもなく、山の中でひとり暮らしていただけのカサネ。彼女が何を考え、なにを思い、どんな気持ちで生きてきたのかなど、誰も知らず、知ろうともしなかった。
 彼女は、「自分の命で村が助かるのならば」躊躇いなくそう言った。
 そして一切の抵抗もせず、誰かを恨む様子も見せず、ただ美しい微笑みを浮かべて湖へと消えていった。
 海都に助けられた子どものひとりが両親に歩み寄り、袖を引きながら不思議そうに問いかけた。
「ねえ、カサネって怖くて悪いやつだったんでしょ? だから、なにしてもかまわないんだって、父ちゃんたち言ってたよね?」
「それは……」
 両親は顔を見合わせ、ばつが悪そうな表情を浮かべた。
 村人たちは、日常の一部、当たり前と化していたカサネへの冷たい態度を顧みた。
 ある者は、カサネが道を通るたびに、消毒と称してこれ見よがしに水をまいた。またある者は、カサネの家の壁を憂さ晴らしに破壊した。彼女の生活用水に毒を流し、育てていた野菜を好き勝手に持ち去り、受け取ったばかりの報酬を奪い、家の回りへいたずらに獣用の罠を仕掛けた。
 石を投げ、暴力をふるい、罵声を浴びせ、異質な容姿を執拗になじった。
 心を持つ者としての尊厳を、目一杯踏みにじってきた。
 どれほどひどいことをしても、カサネは悲しみに目を伏すばかりで、反撃はおろか反論すらしたことがなかった。
 やがて、誰かがぽつりと呻いた。
「あの子は……本当に悪しき物だったのか……? あの子が、私たちに何をしたというんだ?」
 その問いにも、答えられる者はいない。誰もが皆、答える術を持たなかった。
 ようやく後悔と自責の念を抱いた村人たちは、顔をゆがめ、ただ項垂れた。

 黒雲から、はらはらと白い粒が舞い降りてくる。季節はずれの粉雪のようなそれは、風に乗って飛散する火山灰だ。
「なぜだ……」
 手のひらに落ちた灰を震える手で握り締めた定吉は、カサネが消えた湖を覗き込みながら呟いた。
「人身御供の儀式は成立したはずだ! 最も穢れた血の者を捧げたではないか、火の神よ……!」
 しかし降り注ぐ灰は次第に量を増し、大気を揺るがす轟音はなおも続いていた。噴火はまだ続いているのだ。
「30年前、カサネの母を……テトを捧げたときは、見る間に災厄が終息したというのに……なぜだ!」
 定吉は混乱していた。青年だった定吉は確かにここで見た。父親が祝詞を唱える中、カサネの母が湖に身を投げ、火山の噴火が収まっていく様を、この目で確かに見たのだ。
 30年もの間、あの奇跡を待ち望んでいた。今日は、ようやく訪れた記念すべき日なのだ。
 多少の邪魔は入ったが、儀式は滞りなく終わったはずだ。しかし、定吉の予想に反して噴火の勢いが衰える様子はない。
 それどころか轟音も地面の揺れも激しさを増すばかりだ。このままでは土石流や溶岩流出が起き、村が壊滅しかねない。
 なにより、人身御供の儀式を完遂できない、あの美しい光景を再現できないことに対し、定吉は怒りと焦りを募らせていた。御神木の言い伝えは定吉にとって絶対であり、疑念など抱いてはならない。失敗などあってはならない。
 30年前の儀式による災厄の収束がただの偶然だったという可能性など、考えたくもなかった。
「……そうか、まだ贄が足りぬと申すか、神よ。ならば……」
 定吉は熱に浮かされたように呟くと、ぐるりと視線をめぐらせた。そして、唄枝と桃枝の姿を見つけると、その顔にどす黒い笑みを浮かべて叫んだ。
「火の神よ、物の怪の穢れた血では足りぬと申すのなら、次いで年子の忌子を捧げましょうぞ! 皆の者、唄枝と桃枝をここへ連れてまいれ!」
 その叫びを聞いた瞬間、未来は目を見開き、芽衣の腕を借りて立ち上がった。
「もう……もうやめて!」
 しゃくりあげながら、必死に叫ぶ。
「そんなの、無意味だよ! 自然災害を、人間がどうこうできるわけないじゃない! もうやめてよ! こんなこと、哀しいだけだよ!」
 定吉と未来の叫びを聞いた村人たちは、どうしていいのかわからず、顔を見合わせるばかりだった。彼らも、どちらが正しいのかわからなくなってしまった。
 贄として指名された当の本人、唄枝と桃枝は瞳をあわせると、覚悟を決めるようにぎゅっと互いの手を握り、湖に向かって歩を進め始めた。
 ふたりの後ろに呆然とへたり込んでいた篠枝は、娘たちが何をするのかを悟り、悲鳴を上げてふたりの足元に縋った。
「待って、何をする気なの。馬鹿なことを考えないで、唄枝! 桃枝!」
「私たちは、忌子ですから」
「カサネさんと同じように、使命を果たすまでです」
 凛然とした声音の唄枝と桃枝に、篠枝はわなわなと唇を震わせた。
「駄目よ! そんなことはさせない! そんなこと、許さないわ!」
 篠枝は半狂乱になり、髪を振り乱しながら唄枝と桃枝を抱く手に力を込める。その様子を見た定吉は荒々しく舌打ちすると、近くにいる息子に命じた。
「弥吉! ふたりを連れてこい、力ずくでもだ!」
 他の村人たちと同じように言葉なくその光景を見ていた弥吉は、はっと息をのみ、命じられるがまま篠枝たちに近づいた。近くにいた凛と廉が、弥吉を止めようと慌てて立ち上がる。
 次の瞬間、篠枝が獣のように唸って唄枝と桃枝の前に飛び出し、金切り声を上げながら弥吉に突進した。
「あんたが! あんたたちが、金を渋るから!!」
 弥吉の大きな体を引き倒して馬乗りになり、鬼のような形相で拳を振り下ろす。
「あと少し金が貯まれば、都に逃げられたのに! こんな古臭い習慣のある村から逃れられたのに! 全部あんたたち親子のせいだ!!」
「もうやめてください、お母様!」
 激昂する篠枝を抑えたのは、唄枝と桃枝だった。
「お母様は間違っています!」
「カサネさんも私たちも、同じ穢れた血の者だった。同じ苦しみを抱えるもの同士だった。なのに、お母様は彼女の苦しみをわかろうとしなかったじゃないですか!」
「カサネさんを犠牲にして、私たちだけ逃げるなんて卑怯です!」
 毅然と叫ぶ娘たちを、篠枝は呆然と見つめた。
「そんな……私は……」
 今まで従順だった娘たちからの言葉に、篠枝は激しく動揺していた。
 彼女たちのためにやってきたことを、彼女たち自身に否定された。ふたり連続で忌子を産んだことで夫に逃げられ、それでもなんとか幸せを掴もうと必死に続けてきたことを、真っ向から拒絶されてしまった。
 忌子をもつ篠枝は意図して、カサネに感情移入しないよう接してきた。情が移れば、いざというときに非常な決断ができなくなるからだ。
 すべては唄枝と桃枝のため、3人で穏やかに暮らすためだった。
「私はただ……あなたたちのことを思って……」
 篠枝は力なく呟くと、拳を下げた。その双眸から涙が零れ落ちる。
「いつまでごちゃごちゃと話している! 別れの挨拶が済んだなら、さっさとこないか!」
 いつの間にかそばに迫っていた定吉が、唄枝と桃枝の腕を掴んだ。篠枝は慌てて定吉を仰ぎ見る。定吉の目にはぞっとするような狂気が宿っていた。
 唄枝と桃枝の腕を引きずり、湖に向かおうとする定吉を、凛と廉が咄嗟に止めようと前に出る。しかし、狂気にかられた定吉は尋常ではない力で凛と廉を振り払うと、下卑た笑声を漏らしながら湖を目指した。
「いやあ、唄枝、桃枝!」
 泣き叫びながら追いすがろうとする篠枝を蹴り飛ばし、前に進む定吉。村人たちはただ呆然とそれを見送った。
 ――そのとき、ぱしんと乾いた音が響いた。
 同時に、定吉の体がよろめく。飛び出した海都が定吉の頬を打った音だった。
「神事の成就に、躍起になっている場合ですか」
 怒りの表情を浮かべた海都は、低い声で叫びながら定吉の胸倉をつかみあげた。
「あなたは村長だろう! 村人の命を預かる長じゃないのか。あなたが今すべきことは、なんだ!」
 定吉は海都の勢いに唖然としながら、叩かれた頬を押さえた。いつも穏やかで冷静な青年の瞳、その奥の激情に思わず怯み、唇をわななかせる。
 定吉の腕の力が緩んだことに気づいた凛と廉が、息を合わせ、唄枝と桃枝の体を素早く引き寄せた。そのまま定吉の手が届かないところまで距離をとる。
 篠枝は嗚咽を漏らしながら駆け寄り、戻ってきた唄枝と桃枝を抱きしめた。
「……そう、海都の言うとおりよ」
 湖面のそばに立つ芽衣が、村人たちに鋭い視線を送る。
「村長だけじゃない。あなたたちも考えなさい。その目を開いて、今起きていることをちゃんと理解しなさい」
 芽衣は言いながら、腕を頭上に伸ばした。
 芽衣の指先を見上げ、そのまま上空に視線を持ち上げた村人たちは、頭上に広がる黒い雲と降り注ぐ火山灰に気づき、蒼白になった。
 灰を吸い込んだ子どもたちが、苦しげに咳き込みはじめる。灰が入った目をおさえ、うめく者もいた。
「そうだよ……」
 未来は小さく呟き、水鏡湖を振り返った。
 初めて見たときと変わらない美しい湖。水面に落ちるその瞬間、カサネは笑顔で何を思っただろうか。なにを、望んだだろうか。
「……そうだよね、カサネ……」
 カサネの笑顔の意味。カサネが願ったこと。
 ――それは、きっと……
 未来は、ぐっと手のひらを握り、村人たちに視線を戻す。そして叫んだ。
「カサネは最後まで、村を……村に住むあなたたちを守りたいと願ったの! カサネの気持ちを、どうか無駄にしないで!」
 未来の言葉に、互いの顔を見合わせた。あれほどの悪意を一身に受けてなお、村のために笑顔で命を捧げたカサネ。彼女の気持ちと思いを、今一度思い返す。
「カサネは、誰にも死んでほしくなかったんだよ! 私たちは、彼女のためにも生きなくちゃ! ……カサネの思いを、ちゃんとつながなくちゃならない!」
 未来は言いながら、村人たちをぐるりと見渡した。
「だから……生きて! 生き延びるの! 自分の命を、大事な人の命を守るのよ!」
 声の限り叫び、未来は両腕を大きく広げた。
 未来の言葉を受けとめた母親たちは、わが子をそっと抱きしめた。その母子に夫が寄り添う。
 戸惑いながら、あるいは荒々しく、あるいは静かに、兄妹が兄妹の、友が友の手をとる。
「生きる……」
「そうだ、私たちは……」
「死にたくない……死なせたくない」
「家族を、友を、死なせたくない……!」
「ここで終わりたくない! ……村長!」
「村長!」
「村長っ!」
 決意を固めた人々は、口々に叫びながら、村長を見た。
「……ご決断を」
 海都が定吉の胸元から手を離し、静かに告げる。
 その場にいる全員の視線を受けた定吉は、ぎりぎりと歯軋りをしながら、眉を寄せた。
 舞い落ちる細かい灰があたりを白く染め、轟音はますます強くなっている。このままここにいては、人体への深刻な影響が出るのは間違いない。
 定吉はゆっくりと顔を上げ、苦々しく口を開いた。
「……村を捨てる。みな、速やかに避難せよ」








 誰かの声が聞こえた気がして、カサネは唇を動かした。
 だが、こぽりと濁った音が漏れるだけで、声にはならなかった。
 優しい声。自分の名を呼ぶ、優しくてあたたかい声。
 だれ……?
 言葉なくたずねるが、返事はない。
 ゆっくりと沈んだ体が、湖底にたどり着く。力なく落ちたカサネの手のひらに、ふと何かが触れた。よく知った、だがもう忘れかけていたその感触。
 どこかから、母の歌声が聴こえる。懐かしい声が、カサネの心を満たしていく。
 母さん、あなたが教えてくれたこの唄が、わたしと未来たちを繋いでくれたんですよ。
 初めての友達ができました。わたしのために笑ってくれたり、涙を流してくれる友達が……
 本当に、うれしかった。本当に……
 カサネは涙を流しながら微笑んだ。無邪気な、子どものような笑顔で。
 ――頑張ったね。
 ――おやすみ、カサネ……
 再度、カサネの元に声が届く。柔らかなそれは、未来のものだろうか。それとも凛か、廉のものか。あるいは――……


 あたたかい声に包まれ、カサネは穏やかな笑顔を浮かべたまま、ゆっくりと意識を手放した。
 
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