序章第1章第2章第3章第4章第5章終章後記
序 章
「うわあ、きれい!」
 風の流れに沿いながら、桜の花びらが降り注ぐ。まだ幼い少女は、大きな瞳をきらめかせ、歓声をあげた。
 路地の両脇に、幹の太い立派な桜がずらりと立ち並んでいる。少女が本数を数えようと指折るが、両手両足を使っても足りないほどの見事な桜並木であった。
 長々と歩いてきた旅の疲れも忘れ、少女は元気よく飛び跳ねた。左右に結んだふたつの髪束が、動きに合わせてひょこひょこと揺れる。
ふっくらとした頬を紅く染め、舞い散る花びらに手を伸ばし、
「芽衣姉、すごいね!」
 声にも嬉しさをにじませて、彼女――未来は、近くを歩く数歳年上の少女、芽衣に話しかけた。
「本当ね。こんなに立派な桜並木、生まれて初めて見たわ」
 芽衣は、短くまとめた髪を揺らしながら、未来と同じように目を輝かせ、降りてくる花びらを手のひらで受け止めた。
 薄い桃色の花弁からはほのかに甘い香りが漂う。昼下がりの暖かく穏やかな陽気が、春のうららかさをいっそう感じさせていた。
「桜の海の中を泳いでいるようで、うっとりしちゃう」
 芽衣はのんびりとした口調で呟き、目を細めた。
「惚けるのも浮かれるのも、ほどほどで頼むよ」
 芽衣の隣で大八車を引く少年が、正面に見える町並みに目線を向けたまま淡々と告げた。芽衣はむっとして言い返す。
「なによぉ、せっかく人が浸ってるのに、面白くないこと言って」
「新しい巡業地に入るんだから、気を引き締めるのは当然だろう」
「海都は本当に真面目よねぇ。頭が固いっていうか……」
「遊びに来ているわけじゃないんだぞ」
 少年――芽衣と同い年の海都は、浮かれる芽衣をたしなめるように語気を強めた。芽衣は肩をすくめて、はいはいと答える。
「もちろんわかってるわよ。でもね、大自然の美しさを全身で感じるのって大事なことよ、表現力や感性が磨かれるでしょ?」
「まあ、それも一理あるけど」
「海都も、自然を愛でる気持ちくらい持ったほうがいいんじゃない? 情緒のわからない男には女性が寄ってこないらしいし」
「よしてくれよ、僕たちに色恋沙汰はまだ早いだろ」
「そんなこと言っている間に、お爺ちゃんになっても知らないんだから」
 からかう芽衣の言葉にも動じず、海都はまっすぐ前を見て歩んでいく。
 そんな二人の間を、ふたつの小さな影が歓声を上げながらすり抜けた。
「芽衣姉ちゃん、海都兄ちゃん、すごいねぇ!」
「お花が雪みたい!」
 ひとりは、未来よりも幼い少女、一座の一員である凛だ。癖毛を揺らしながら、小さな手のひらを一生懸命頭上に伸ばしている。もうひとりは、凛の双子の弟である廉。彼も同じように顔をほころばせて、街道を駆けていた。

 街道の向こうに広がるのは、桜深町(おうみまち)。芸能文化に特化した、華やかで人口の多い観光町だ。
 町の中心部には芸能部屋、大衆演劇場、舞台小屋が軒を連ね、旅の一座や劇団、噺家が各施設と短期契約を結び、数ヶ月間公演を行うようになっている。
 この町の最大の特徴は、町をぐるりと囲むように植えられた桜の木だ。町の名のとおり、春先にはまさに深い桜の海に囲まれたようになる。
 未来、芽衣、海都、凛、廉は、全国を行脚しながら歌や篠笛演奏、舞踊などを披露する楽団、『伝楽座(でんらくざ)』の団員である。
 団長は、海都の父である荘介がつとめている。実際に舞台に立つ団員のほか、裏方や黒子、団員の家族など20名で構成される小さな一座だが、個々の技術はいずれも高く評価されており、全員が不自由なく生活できるほどの稼ぎを得られていた。
 ひとつ前の巡業地を離れ、観光客が多くなる時期を狙って桜深町に訪れたところだ。あらかじめ手紙を送り、大衆演劇場『やますずめ』の舞台を借りる手筈となっている。

「それにしても、通行人の数が桁違いね。さすが観光地」
 町の住人や旅行客であふれる街道に目を向け、芽衣が呟く。幅の広い道の両脇には露店も並び、ずいぶんと賑やかだ。自分達と同じように、巡業にやってきたであろう楽団の姿もちらほら見える。
「あっ、ちょっとあんたたち、あんまりはしゃいではぐれないでよ!」
 花びらを追いかけて、どんどん先に進もうとする凛と廉の手を、芽衣があわてて引っつかんだ。
「ほら、未来と手を繋いどきなさい」
「はぁい」
 凛と廉は未来の両隣に立ち、手を伸ばした。未来が笑顔でふたりの手をとり歩き出す。
「ねえねえ、未来姉。春のお唄、歌ってよ。このお花にぴったりのお唄!」
 空いたほうの手で桜並木を指差し、凛が未来にせがむ。
「ぼくも未来姉ちゃんのお唄、ききたいなぁ」
 同じように廉も未来に笑顔を向けた。ふたりの願いを聞いた未来は、
「いいよ! じゃあ、さくらの唄を歌おう!」
 頷いて快く返事をすると、大きく空気を吸った。頭の中でゆっくりと拍をとると、息を止める。
 そして、その薄紅色の唇から旋律があふれ出した。
 目が覚めるような、よく通る声が、詞を丁寧に紡いでいく。凛と廉は目を細めて未来の唄に聴き入った。
 同じように歌声に耳を澄ませ、芽衣がしみじみと呟く。
「凛と廉ったら、本当に未来の唄が好きなんだから。それに未来……あの子、本当に歌うことが好きよね」
 小さな背中をまっすぐに伸ばした未来が歌うのは、誰もが知る童謡。耳なじみの良い旋律を情緒たっぷりに歌い上げるその声は、年端も行かぬ少女と思えない朗々としたものだった。
「将来有望。きっと一座の一番人気になるわよ」
 芽衣が自慢気に頷く。幼すぎるがゆえに、舞台に立つ機会は少ない未来だが、本格的に舞台をこなすようになれば一躍人気が出るだろうと、一座の誰もが思っていた。
 一座の中では一番の歌い手と呼ばれる芽衣ですら、それを素直に認められるほどに、未来の歌はまっすぐに人の心を打つ響きを持っているのだ。
 実際に、街道を歩く人々の幾人かは興味をそそられ、小さな歌い手に視線を送っていた。
「ご両親と一緒に毎日歌っていたと聞いたし……親譲りなんだろう」
 芽衣の言葉を受け、海都も未来の背中を見つめながら頷いた。
「未来のご両親、か……」
 芽衣は視線を軽く持ち上げ、伝楽座が東の都で巡業を行っていたころの記憶をゆっくりと辿る。
「東の都を出て……そう、未来が入団してもう3年になるのね。月日が流れるのは早いものね……」

 未来の両親は、東の都で物資の運輸に関わる仕事をしていた。
 一座が拠点とする宿場の隣に住んでいたこと、衣装や装飾品の販売も行っていたことから、荘介たち団員とも密に関わっていた。
 一人娘の未来は人懐こく、団員たちとすぐに仲良くなった。まだ言葉も拙いほど幼い未来だったが、その伸びやかで美しい歌声に、団員はみな驚いたものである。
 聞けば、未来の両親は若い頃に舞台で歌い手として活躍していたらしい。親が口ずさむ唄を自然と覚えていくうちに、未来も唄が大好きになったそうだ。
 彼女の歌声は両親の誇りでもあったらしい。両親は、いつか未来が舞台に立ち、人々の前で唄を披露する日を心から楽しみにしている、と語っていた。
 だがある日、事故が起きた。いつものように物資の運搬をしていた両親が、暴走した馬車の積荷の下敷きになり命を落としてしまったのだ。
 未来の祖父母はすでに他界しており、近くに親戚もいない。未来は身寄りがなくなってしまった。都の人々は商売に奔走する多忙な者が多く、幼子を引き取ると申し出る人はいなかった。
 遺された未来が路頭に迷うのを憂えた団長の荘介は、一座に入らないかと手を差し伸べた。大好きな唄、ご両親が遺してくれた唄で生きていかないか、と。
 深い悲しみにより笑顔も唄も失った幼い未来は、涙を流しながら、すがるように荘介の手をとった。
 ――それが、3年前の出来事だ。
 最初は両親を失った哀しさで塞ぎこんでいた未来だったが、旅を続ける間、荘介や団員のぬくもりに触れるうちに、朗らかな笑顔と大好きな唄を取り戻すに至ったのだ。

「本当によかった。ああやって大好きな歌を口ずさめるようになったんだもの」
「そうだな」
 ふたりが話しているうち、未来の歌は終わりを迎えた。
 辺りの通行者からちらほらと拍手が沸き起こる。未来は照れくさそうに、だが嬉しそうにその拍手を受け止め、にっこりと笑ってみせた。
「未来、あなたの唄は本当に上手ね」
 芽衣がそう言うと、未来はますます笑みを深くした。心から嬉しそうに微笑むその顔はとても愛くるしい。
「芽衣姉にほめてもらえると嬉しいなあ! ねえ、また新しいお唄、未来に教えてね」
「うん、教えてあげる」
 やったぁ、と喜んで跳ねる未来。その無邪気な姿に、笑顔を失っていたころの姿を重ねながら、芽衣は問いかける。
「……ねえ、未来は荘介さんのこと好き?」
「もちろん! 未来は荘介おじちゃん大好きだよ! 芽衣姉もおじちゃんのこと好きでしょ?」
 屈託のない笑顔で答える未来。
「そうだね。私も大好き。荘介さんには感謝してもしきれないもの」
 そう言う芽衣もまた、幼少のころ荘介に拾われた身だ。
 芽衣は、流行り病で全滅した村の唯一の生き残りである。感染を恐れ、誰にも相手にされずぼろぼろになった彼女を引き取り、ここまで育て上げてくれた荘介を、芽衣は心から敬愛していた。
 芽衣は、こぶしをぐっと握り締めて、こくりとひとつ頷くと、
「荘介さんに恩返しするためにも、精一杯頑張らなきゃね、未来!」
「うん、がんばる!」
「よーし、全力で歌って踊ってたんまり稼ぐぞー!」
「おー! かせぐぞー!」
 ふたりは元気いっぱいにそう宣言した。その声が届いたのか、少し先で馬を引いていた荘介が振り返る。髪を短く刈り込んだ、精悍な顔つきの中年男性だ。
「おっ、芽衣に未来、気合い入ってるな! その調子だぞ!」
 荘介は豪快に笑うと、眼前に迫った町の門を親指で指し、大きな声で告げた。
「さあ、いよいよ桜深町に到着だ!」

 桜深町は東西南北に出入り口を持つ。この地方の旅の玄関口とも言われており、普段から街道の利用者は多い。特にこの時期は、咲き誇る桜を目当てに訪れる観光客も押し寄せるため、その通行量はかなりのものだ。
 街道の混みようもさることながら、街中も人で溢れかえっている。いたるところで芸者や商売人が声高に客引きをしており、なんとも活気のある雰囲気だ。
 屋台からは美味そうな香りが漂い、呉服屋には色とりどりの美しい着物が並ぶ。未来や芽衣をはじめ、団員たちはみな視線をあちこちに送りつつ、目的地を目指した。

 一座が契約した大衆演劇場『やますずめ』は、町のちょうど中央あたりに位置する。派手な芸能部屋が立ち並ぶ中でも一際目立つ、豪壮な構えの建物だ。
 荘介が『やますずめ』の扉を叩くと、ほどなく、すらりとした少女が顔を出した。
「はい、なんでしょう」
「先日手紙をお送りしました、伝楽座の団長、荘介です。これから一月(ひとつき)の間お世話になります」
 荘介が頭を下げ挨拶をすると、少女もうやうやしく頭を下げた。
「話は伺っております。どうぞお入りください」
 扉を開き、玄関口に案内される。荘介に続き、海都、芽衣が足を踏み入れた。
 その後に続いた未来は、胸を高鳴らせながら辺りを見回した。これまで巡ってきた中でも、格別に大きな劇場だ。壁一面に、工芸品や団扇などがずらりと並んでいる。
 綺麗に磨かれたそれらに圧倒され、未来は口を丸く開きながら、落ち着きなく視線をあちこちに巡らせた。
「わたくしは『やますずめ』館主の娘、流香と申します。父を呼んでまいりますので、こちらに団員様の名をご記帳のうえ、しばしお待ちを」
 少女、流香はそう言いながら、そばにあった記帳台と筆を荘介に差し出し、にっこりと微笑んだ。その見目麗しさに、一座の青年たちは思わず、ほう、とため息を漏らす。同じ年頃、同じ女性の芽衣ですら、思わず見惚れてしまうほどの美しさだった。
 立ち振る舞いも優雅に、奥の扉へ消えた流香を見送り、芽衣は頬を染めて呟く。
「なんて綺麗な人なの……」
「芽衣ちゃんも、そろそろあれくらいの色香を身につけないとな」
 慣れた手つきで筆を走らせながら、荘介が笑う。その言葉に、芽衣は目くじらを立てて足を踏み鳴らした。
「なんですって! 私は十分女らしくて妖艶で色っぽいと思うけど!?」
「言葉通りの娘さんなら、地団駄なんて踏まないんじゃないか」
「海都、あんたねえ!」
 横やりを入れてきた海都をぐるりと振り返り、芽衣が顔を真っ赤にして怒鳴る。もはや日常光景となっているふたりのやりとりを、団員たちはほほえましく見つめていた。

 しばしの間ののち、奥の扉から線の細い男が姿を現した。流香によく似た笑みを浮かべ、荘介に手を差し出す。
「お待たせしました。館長の司郎と申します。この度は当演劇場を舞台としてお選びいただき、誠にありがとうございます」
「こちらこそ、短い期間になりますがどうぞよろしくお願いいたします」
 荘介は司郎の手をとり、笑みを返した。司郎は後ろに控える団員たちにも軽く頭を下げたのち、表情をわずかに曇らせて荘介に向き直った。
「さっそくですが、お伝えせねばならないことがございます。皆様方の宿場ですが……」
 深々と頭を垂れ、司郎は続ける。
「大変申し訳のうございます。提携している旅籠屋なのですが、こちらの手違いで重複契約を結んでしまっており、昨夜から別の客が入っております。其方様と同じ旅の一座の方々なので、長期滞在になるかと……」
 司郎の言葉に、団員達が困ったように顔を見合わせる。場の空気が変わったのを察した未来は首をかしげ、
「……どういうこと?」
 声をひそめて芽衣に尋ねる。芽衣は片眉をひそませながら、「近くの宿場を予約していたけれど、泊まれなくなったみたい。困ったわね」と小声で返してきた。
 荘介は低く唸ると、片手を額に当て、軽く天を仰いだ。
「そりゃ参ったな。どこか代わりの宿はありませんか?」
「この時期は桜目当ての観光客が多く、町の宿はどこも埋まっております。町外れにもいくらか宿はありますが、長期にわたる滞在を受け入れられるかどうか。……ただ」
 司郎はそこで言葉を止め、頭を上げて荘介の目を見た。
「少し離れておりますが、一里半ほど先の隣村に、いい木賃宿がございます。先日、前宿泊者の一座が旅立ち、宿が空いたと聞いております」
 荘介は、顎を撫でながらしばらく考えをめぐらせ、団員達に視線を送った。一里半の距離は骨が折れるが、荷物を抱えて宿場を転々とする、あるいは宿無し野宿よりはよほどいい、と全員が同じ表情を浮かべている。
 ふっと息をつき、荘介は笑顔を浮かべて司郎に告げた。
「仕方ありますまい。流香さんの美しさに免じて、それで手を打ちましょうか」
 冗談交じりの言葉を受け、司郎は安堵の表情を浮かべる。
「ありがとうございます。火神村へは、西側の街道をまっすぐ進めば着きます。牛車や馬にも易しい平坦な道で、けものもほとんど通りません。火煌山(かこうさん)の麓に広がる、のどかな村です」
「そうですか。わかりました」
「舞台で使う衣装や道具などは、楽屋でお預かりいたします。それから、当館2階にわずかばかりですが簡易宿泊設備もございます。宿場との行き来が困難な際は、こちらをお使いください」
「それは助かる。遠慮なく使わせていただきます」
「ほかにも御用があれば、遠慮なくお声掛けください」
 司郎と流香は、深々と頭を下げた。
 荘介は早速、大道具を2階に納めるため動き始めた。海都や若い団員たちも、荘介の後に続き、荷物を持って階段を上がっていく。
 芽衣と未来は、凛と廉を連れ、邪魔にならないよう館外に出た。

 外に出ると、太陽は西に傾き始めていた。
 凛と廉が眠そうに目をこすっているのに気づき、芽衣は牛車に腰掛けるようにうながした。
「泊まるところが見つかってよかったね!」
 未来が笑うと、芽衣もほっとしたように表情を緩めた。
「旅路では野宿続きだったものね。ようやく湯浴みができるから嬉しいわ。まぁ、まだだいぶ歩かなきゃいけないけど……」
「未来は、ちょっとつかれたなあ」
「ふふ、元気が取り柄の未来もさすがにお疲れか。凛と廉と一緒に、牛車に乗っていくといいわ」
 牛車の上で頭を寄せ合い、うつらうつらと舟をこぐ双子を指し、芽衣が笑った。その言葉に甘えて、未来も牛車にあがりこむ。
 ほどなく『やますずめ』の扉が開き、荷物を運び終えた荘介たちが姿を現した。生活必需品を積んだ牛車と馬三頭を引き、一行は西の街道目指して歩き出した。

 一里半の距離は、徒歩で半刻以上かかる。幼い子どもや荷物を抱えて移動するには、やや骨の折れる距離である。整備された街道とはいえ、土の上を歩み続けるのは、けして楽ではない。
 疲れた足を引きずり、のろのろと街道を歩む団員たちを叱咤しながら、荘介が笑った。
「街道から村の入り口まで、この桜並木が続いているそうだ。目の保養もできて、その上、足腰まで鍛えられるなんて最高じゃないか」
「うう〜、団長は楽天的すぎますよう……」
 青年たちがぶつぶつと文句を言うが、本気ではない。苦笑を浮かべながらも、荘介の陽気な提案に従うのはいつものことだ。
「ここで恩を売っておけば、多少の無理は通してもらえるようになるだろう。館の利用料についても検討してくれると言っていたしな。むしろ幸運だったぜ」
「そういう打算があったのですか」
 荘介の言葉を受け、牛車を操る海都が苦笑する。
「一介の一座にゃあ、ほんの少しの恩や金がどれほど価値を持つか。お前もゆくゆく俺の跡を継ぐのだから、しっかりと身につけろよ。したたかさと決断力がないと、一座を守ることはできないぞ」
「胸にとめておきます」
 真面目にうなずく海都の背を、荘介が笑いながらばしりと叩いた。

 牛車の上で、荷物と一緒に揺られながら、未来は数度目のあくびをかみ殺した。先の先まで続く桜並木は変わらず美しいが、さすがにずっと見ていると感動も薄れてくる。
 前髪に落ちてきた花弁を人差し指ではじきながら、膝を抱えて呟く。
「あと、どれくらいかかるのかな?」
「日が暮れるまでには着くはず、と館長さんは言っていたけれど……どうかしらね」
 牛車の横を歩きながら、芽衣が大きく伸びをする。未来の後ろにある大きな籠の中では、凛と廉が道中着にくるまり寝息を立てていた。さすがに疲れ果ててしまったようだ。
「炊煙が見えた。もうすぐだ」
 海都が前方を指差した。桜の木の隙間から白い煙が上がっているのが見える。団員たちはやっと見えた村に頬を緩めながら、歩を進めた。

 火神村の入り口を越え、住民であろう老女に声をかける。老女は笑顔で、村長を呼んでまいりますと言って立ち去った。
 ほどなく、村長が一座の前に現れた。人のよさそうな笑顔を浮かべた彼は、荘介に頭を下げた。
「火神村へようこそおいでくださいました。私は村長の定吉と申します。すいぶんと大人数ですが、旅芸人の方でいらっしゃいますかな」
「はい、旅の一座、伝楽座と申します。私は団長の荘介。音楽や歌の舞台を披露しながら全国を行脚しております。このたび桜深町にて巡業することとなり、『やますずめ』館長の司郎殿から、こちらの宿を紹介していただきました」
「なるほど、司郎殿から。では早速、宿場へご案内いたしましょう。我が村の宿は木賃宿ですが、当村産の米や野菜、猪や鹿の肉がございます。どれも逸品ですよ」
「それはありがたい」
 荘介も笑顔で応え、握手を交わした。

 案内された先にあったのは、4つの部屋と台所、風呂場で構成される、こぢんまりとした宿場だった。見た目こそ古さを感じるものの、畳や家具、調理台などは丁寧に掃除されており、清潔感がある。
 縁側には井戸が設置されていた。綺麗な地下水が汲めるらしく、食事や湯浴みに使ってよいという。
 牛車に乗せた荷物を運び入れていると、村の青年たちが笑顔で手伝いを買って出た。また、村の女性たちは宿の台所に集い、今日はお疲れでしょうからと、夕餉と風呂の準備をこなしてくれた。
 至れり尽くせり、親切丁寧な村人たちに荘介や団員たちはいたく感動し、破顔するのだった。

 ゆっくりと体を休めた翌日から、『やますずめ』での公演が始まった。
 朝一番に桜深町へ向かい、朝、昼、夕、3回の舞台をこなす。日が暮れたころ、桜街道をとおり、火神村の宿で休む日々の繰り返しだ。主な出演者である芽衣や海都、楽器の奏者、団長の荘介たちは『やますずめ』2階の簡易宿で泊り込むこともあった。
 時折、未来や凛、廉たちも同行する。まだ幼いため機会こそ少ないが、歌や舞踊を披露するためだ。
 桜深町の客層は思った以上に景気がよく、心づけの額も多い。
 一座は奮起し、ますます舞台に磨きをかけていった。




 忙しい日が半月ほど続いたある日、『やますずめ』の休館日がやってきた。
 団員たちはみな火神村の宿で、日ごろの疲れを癒していた。ゆったりと洗濯や炊事をこなす者、畳の上で惰眠を貪る者、商売道具の楽器を手入れする者など、その過ごし方はさまざまだ。
 そんな中、凛が芽衣の足元に付きまとい唇を尖らせていた。
「芽衣姉ちゃん、ひまぁ。おはじきであそぼうよー」
「ごめんね。これから凛の母様に、新しい着物の丈合わせをしてもらうの」
 芽衣はそう言いながら、手にした着物を凛の母に手渡した。旅の途中、行商人から買い取った着物を、舞台上で動きやすいように仕立て直すのだ。
「時間がかかると思うから、廉と一緒に村を散歩しておいで」
「あっ、じゃあ私もいっしょに行く!」
 縁側で洗濯の手伝いを終えた未来が、芽衣の言葉を聞きつけて元気よく手を上げた。
「村の中、探検してみたかったんだ。ねえねえ、村の中で一番きれいな景色をさがしに行こうよ!」
「わあ、たのしそう!」
「よーし、行くぞー!」
 未来の元気な声につられ、凛と廉が元気よく腕を上げる。3人は急いで草履を履くと、歓声を上げて飛び出していった。
「子どもって無邪気ねえ」
 3人の背中を見送り、芽衣がしみじみと呟く。
 着物を肩に合わせていた凛の母が、「ひと回りも違わないのだから、芽衣ちゃんもまだ子どもじゃないの」と吹き出した。

 宿を出て歩を進めていた3人は、荘介が若い女性と話しているのを見つけた。
「こんにちは」
 未来たちが挨拶をすると、女性は微笑を浮かべ、こんにちはと返した。
「あら、小さなお嬢さんたち。この子たちも舞台に立たれるのですか?」
「そうさ、まだ見習いだがね。はい、これくらいで足りるかい」
 荘介は言いながら、銭貨を数枚女性の手に握らせた。女性は笑顔を浮かべてうなずき、手の中の籠を荘介に手渡す。
「丹精こめて育てた野菜です。どうぞ味わってください」
 籠の中には、小金瓜や胡瓜、水菜などの野菜が盛られていた。どれもがみずみずしく艶を宿している。未来は、瞳を輝かせて女性を見上げた。
「おいしそうなお野菜! お姉ちゃんが作ったの?」
「そうよ。とってもおいしいから、たくさん食べてね」
 にっこりと笑う女性に、3人は大きくうなずいた。夕餉の皿が楽しみだと笑みを浮かべる未来に「ところで」と荘介が問いかける。
「お前たち、どこに行くつもりだ?」
「凛たちね、おさんぽに行くの。芽衣姉ちゃんとおはじきであそぼうと思ったのに、いそがしいから子どもだけで遊べっていうのよ」
「海都兄ちゃんもいそがしそうだったから、ぼくらだけで行くんだ」
 凛と廉が、幼い言葉で説明し、荘介がなるほどとうなずく。未来はぽんと手を打ち、女性を見上げた。
「そうだ、お姉ちゃん。この村で、一番きれいな景色はどこで見られる? 花畑とか、湖とかあるのかなあ?」
「きれいな景色……そうね、水鏡湖(みかがみこ)かしらね」
「みかがみこ?」
「水の、鏡の、湖と書くの。名前のとおり、鏡のように美しい湖よ。村のちょうど中心にあるの」
「中心って、どのあたり?」
「あっちよ。よかったら案内するわ」
「わぁ、ありがとう!」
 嬉しい申し出に、未来たちの顔がぱあっと明るくなる。荘介は肩をすくめ、頭をかきながら軽く頭を下げた。
「篠枝ちゃん、悪いな。赤ちゃん産んだばかりの体だってのに、こっちのお守りさせちまって」
「いえ、ちょうど散歩をしたかったので……気分転換になって、嬉しいですから」
「えっ、お姉ちゃん、赤ちゃんがいるの?」
 未来は驚いて目を丸くした。随分若い見た目だというのに、女性――篠枝はもう母親らしい。
 篠枝は僅かに間を置いたあと、曖昧な笑顔を浮かべてうなずいた。
「ええ、そうなの。……今は、主人が家で見てくれているのよ。……じゃあ、一緒に行きましょう」
 そう言って、ゆっくりと歩き出した篠枝の後を、未来と凛、廉が軽い足取りで追いかける。その背中に、ちゃんと言うことをきくんだぞ、と荘介が声をかけた。

「わあっ、すごい! 綺麗!」
「きらきらだー!」
 未来たちは、大きな瞳を限界まで見開き、歓声を上げた。
 目の前に広がる湖は、広く澄みわたっていた。水面が日の光を反射し、きらきらと輝いている。「鏡」を冠する名のとおり、その湖面には頭上の雲が映っており、まるで空を丸く切り取ったかのようだ。
「気に入ってもらえたかしら」
「うん、ありがとう篠枝さん! こんなに綺麗な湖、初めて見た!」
 はしゃぐ未来に、凛と廉も興奮した様子で「あたしも!」「ぼくもだよ!」と笑顔を見せる。
「あっ、橋がある!」
 凛が、湖の端を指差した。湖の中に、上部が平らになった岩が突き出ており、湖岸とその岩に1枚の板がわたされている。
「駄目よ!」
 そちらに向かって駆け出そうとした凛の腕を、篠枝があわててつかんだ。
「あれは渡れないの。神事に使うものだから、普段は立ち入り禁止になっているのよ。ほら、入れないようになっているでしょう」
 篠枝は言いながら、湖岸側の板を挟むようにして立つ2本の柱を指差した。柱の間には縄が張られ、紙垂が飾られている。
「さかなつりができると思ったんだけどなぁ」
 残念そうに眉を下げる凛に、篠枝はわずかに苦い顔をしながら小さくため息をつくと、ゆっくりと告げた。
「……この水鏡湖と、そこにある御神木はね、火神村を守ってくださるの。……おいそれと穢してはならないのよ」
「ごしんぼく、って、あの大きな木のこと?」
 橋の近くに植わっている立派な木を指差す未来に、篠枝は「ええ」とうなずいた。橋にかけられた紙垂と同じものが、木の周りにもぐるりと巻きつけてある。
「そうそう、御神木の反対側に、綺麗な花が咲いているのよ。このあたりにしか咲かない、珍しい花なの。摘みに行きましょうか」
「行く!」
「凛、花かんむり作りたい!」
「めずらしい虫、いるかな」
 4人は笑いながら、歩き始めた――そのときだった。
 未来の耳に、女の子の悲鳴が届いた。

 声の聞こえたほうを振り返ると、未来よりも少し年上であろう少女が地面に倒れていた。5人の少年たちが仁王立ちになって、その少女を取り囲んでいる。
 少年の1人が、地面に落ちている石を拾い上げ、少女に向かって投げつけた。もうひとりは、脚で腹部を蹴り上げる。
 小さな体が鞠のようにごろごろと地面を転がり、別の少年の脚に当たって止まる。その少年もまた、その体を蹴り飛ばした。少女はまたも小さく悲鳴を上げ、土煙の中に倒れ伏した。
 未来は驚き、息をするのも忘れて立ち尽くす。
 その間も、少年の暴力は続く。少女の頭を踏みつけ、「辛気臭い顔しやがって、気持ち悪いんだよ」と忌々しげに吐き捨てた。
 あまりに一方的で容赦のない暴力に我慢できず、未来は衝動的に駆け出した。少年たちの間をすり抜け、少女をかばうように両手を広げる。
「あなたたち、なにしてるの!?」
「なんだぁ、お前? 邪魔すんなよ!」
 自分よりも頭ひとつぶん背の高い少年に凄まれ、未来はびくりと肩を震わせる。これほどまでに、敵意剥きだしの視線を受けたのは初めてだった。鼓動が大きくなり、頬に汗が浮かんでくる。脚ががくがくと震える。
 だが未来は、頭を振って恐怖を振り払い、すうっと息を吸い込み、大きな声で言い返した。
「さっきからよってたかって女の子をいじめて、はずかしくないの!?」
「お前には関係ないだろ。そいつは物の怪なんだから、なにしたって構わねえんだよ」
「もののけ…?」
 未来は、肩越しに少女を振り返った。
 未来の後を追い、駆け寄ってきた凛と廉が、倒れたままの少女の肩を揺すりながら「だいじょうぶ?」と問いかけている。少女は肩を震わせ、地に伏したままだった顔をそっと持ち上げた。
 瞬間、凛が鋭い悲鳴を上げ、尻餅をついた。
「め、目が……!」
 その瞬間、未来も息をのむ。少女の瞳は、まるで血に濡れたかのような赤色だった。
「うわあ!」凛の横で、廉が腰を抜かし、へたり込む。「な、なにこれ!?」
 廉が指差したのは、少女の腕だった。さきほど蹴られたときにできたであろう、真新しい傷口。そこから流れる赤い血が、見る見るうちに煙となって消えていく。
「……う、うそ……」
 未来は大きな瞳を限界まで見開き、震える声で呟いた。凛と廉は怯えて、じりじりと後ずさる。
 物の怪と呼ばれた少女は、未来たちの反応を見て、唇をぎゅっと噛み、悲しげな表情を浮かべた。深く傷ついた様子の少女に、未来はあわててなにか声をかけようと、体ごと向き直る。
 だが、未来が声を発するよりも先に、少女は傍に落ちていた籠を素早く拾いあげ、駆け出した。村の東側を覆う森の入り口へ走り去る。
 その背中はみるみる小さくなり、やがて木々にまぎれて見えなくなった。

「だから言ったろ。あいつは物の怪だって」
 立ち尽くす未来に、少年たちがため息混じりに呟き、両手を広げる。
 物の怪――昔話に登場する、人の道を外れた存在。その呼び名は、幼い未来でも知っている。
「物の怪……あの子が……?」
 少女が走り去った山のほうを見つめながら、未来はぽつりと呟く。
 どの物語でも、物の怪はすべからく『悪』として描かれている。幽霊、妖怪、鬼と並ぶ、醜い存在。未来の中で、物の怪とは人に害なすもの、すなわち『わるいもの』であった。
 けれど、と、未来は彼女の表情を思い出す。
 潤んだ赤い瞳。強くかみ締められた唇。
 ――その表情は、悲しみで溢れていた。幼い未来の胸に突き刺さるほどに、寂しさに濡れた色だった。
 その色を思い出せば思い出すほど、未来の心の中に疑問がわきあがってくる。
「……あの子は、あなたたちになにをしたの?」
「えっ」
 未来が投げかけた質問に、少年たちは目を瞬く。
「あの子が悪いことをしたから、いじめていたの? 仕返しなの?」
 未来が質問を重ねると、気まずそうに視線を泳がせながら、「そうじゃねえけど」「だって、なあ」「そういうもんだから」などと小さな声を口の中で転がした。
「そうじゃないなら、どうして……」
「未来ちゃん、さっきその目で見たでしょう。あの子は人ではないの」
 未来と少年たちの間に割って入ったのは、少し離れたところで様子を静観していた篠枝だった。ゆっくりと歩み寄りながら続ける。
「これは、仕方がないことなのよ」
「仕方ないって、どうして? あの子、すごく怯えていたよ。すごく悲しそうだった。なにもしてないのに、物の怪だというだけで叩いたり蹴ったり、そんなのおかしいよ!」
「未来ちゃん」
 強い声で呼ばれ、未来は言葉の続きを飲み込み、篠枝を見上げる。さきほどまで柔らかな笑みをたたえていたその表情は、一転して冷酷な表情になっていた。その視線の冷たさに、未来は背筋を凍らせる。
「穢れた血をもつ物の怪だから、仕方ないのよ」
 そう言うと、今度は少年たちに視線を流した。そして、低い声で告げる。
「……新八、あんまりやりすぎちゃ駄目。いずれ村長に見つかるわよ。……それに、物の怪の話を軽々と余所者に語らない、そういう決まりでしょう。忘れたの?」
「はーい。気をつけます」
 少年のひとりが舌を出しながらそう言い、肩をすくめて走り去っていく。
 もっと文句を言ってやろうと思っていた未来だったが、篠枝の雰囲気にのまれて動くことができなかった。
「怒鳴り声が聞こえたが、一体どうしたんだね」
 不意に後ろからかけられた声に、未来は振り返る。そこには、村長の定吉が立っていた。
 篠枝は定吉に会釈をすると、にっこりと笑って朗らかな声で告げる。
「新八たちが、喧嘩をしていましたの。たしなめておきましたから、問題ございませんわ」
 篠枝の言葉に驚いた未来が、あわてて「違うよ」と両手を振って定吉を見た。
「村長さん! あのね、さっき、もの……、っ!」
 だが未来の視界と言葉を、篠枝が遮った。村長と未来の間に体を滑り込ませた篠枝は、未来に顔を近づけ、
「びっくりしたのはわかるけれど、さっきのことは忘れておしまいなさい」
 そう言いながら、右の手をとった。
 冷たく硬い指先に、未来はひゅっと息をのむ。篠枝は冷たい視線のまま、声だけを柔らかくして続けた。
「目の前で起こった喧嘩が怖くて、混乱してしまったのよね。もう大丈夫よ」
「そうか。言葉遣いのならぬ村の童が、すまなかったな。気を悪くしないでおくれ」
 篠枝の言葉を聞いた村長がそう言い、未来に笑いかける。未来は引きつった顔で唇を震わせた。注がれたままの篠枝の冷酷な視線が、身体を縛るように絡みつく。
「そういえば、お花を摘みに行く約束をしていたわよね。ほら、行きましょう。綺麗な花を見たら、きっと心も落ち着くわ」
 黙っている未来に納得したのか、篠枝は話題を切り替えると、いまだ座り込んだままの凛と廉をうながし立ち上がらせ、村長に一礼すると歩き出した。
 引かれる手の力がひどく強くて、未来は怖くなり黙って後をついていくことしかできなかった。
 手を引かれるままに、湖岸の一角へ向かう。ほどなく、一面の花畑に到着した。
 そこには美しい花が咲き乱れており、元気を取り戻した凛と廉がはしゃぎ始める。篠枝も、湖を案内してくれたときと同じように、笑顔でそれを見守っていた。
 未来は浮かない顔をしながら、花を手の中で遊ばせていた。花弁の中央は、まるで彼女の瞳のように深い紅色をしている。
 悲しい色をたたえた瞳が、まぶたの奥に焼きついて忘れられなくなっていた。

「篠枝おねえちゃん、ありがとう!」
 花で作った冠を頭に載せ、凛が言う。花摘みに夢中になっているうちに、夕刻が迫っていた。宿の前まで送ってくれた篠枝に、3人は頭を下げる。
 凛は、優しく作り方を教えてくれた篠枝にすっかり懐いていた。廉も、珍しい虫を手のひらで大事に持ち、笑顔で篠枝に礼を言う。
「喜んでもらえたならよかった。じゃあね」
 手を振り去っていく篠枝に手を振り返す3人だったが、未来だけは引きつった笑みを浮かべていた。

 宿に戻ってすぐ、未来は洗濯物を畳んでいる芽衣に後ろから飛びついた。
「きゃっ、なによ未来、どうしたの」
「芽衣姉、あのね、未来ね、さっき、物の怪に会ったの」
「物の怪?」
「凛も見たよ。目が真っ赤で、びっくりした!」
「ぼくも見た。しゅう〜って煙が出て、けががなくなっちゃうんだよ!」
 横から凛と廉も会話に入ってくる。
「真っ赤な目? 怪我がしゅうって?」
 身振り手振りで伝えようとする3人だが、いまいち伝わらない。
 首をかしげる芽衣に、未来はもどかしくなり、つたない言葉を駆使しながら、かいつまんで顛末を説明する。
 最初は真面目に耳を傾けていた芽衣だったが、だんだんその表情は苦笑いに変わっていった。最終的にあきれ果てた顔になり、手のひらをひらひらと左右に振りながらため息をつく。
「物の怪なんているはずないじゃない。きっと見間違いよ。瞳の色が薄い人なんてどこにでもいるし、その煙もおおかた土ぼこりだったんじゃないの?」
「でも、村の子たちも、あいつは物の怪だって言ってたんだよ!」
「なにを騒いでるんだ?」
 隣の部屋から海都が顔を出す。未来の大声が部屋まで届いていたらしい。
「未来がね、村で物の怪を見たって言うのよ」
「海都兄、未来、本当に見たんだよ!」
「凛も見たよ、すっごくこわかった!」
「ぼくもこわかった!」
 騒ぎ立てる3人を制し、先ほど未来が話した内容を、芽衣が海都に話して聞かせた。話を聞き終えた海都は片眉を軽く上げ、芽衣と同じ表情を浮かべてため息をついた。
「物の怪なんて、この世に存在しない架空の存在だよ。きっと未来たちの勘違いだ」
「ほらね、海都もこう言ってるでしょ?」
「白昼夢でも見たか、狸に化かされたかな。……ところで芽衣、そろそろ夕餉の支度の時間だ。準備を頼む。僕はもう少し父さんと打ち合わせをするから」
「わかったわ。ほら、未来たちは手を洗ってきなさい。井戸の前の桶に綺麗な水を汲んであるからね」
 ふたりに適当に流されたことに腹を立てた未来は、口を曲げ、足音荒く縁側に向かった。

 柄杓で水をすくい上げ、手を洗いながら未来は大きくため息をついた。
「芽衣姉も、海都兄もひどい。本当なのに、信じてくれない!」
「あの真っ赤な目、鬼みたいだったね」
 凛も同じように手を洗いながらそう言い、廉も「うん」と同意する。だが、未来はぶんぶんと頭を横に振った。
「違うよ、あの子は鬼なんかじゃないよ。叩かれても蹴られても、意地悪言われても、なにもしなかったじゃない。もし鬼だったら、絵草紙にあるみたいに、やっつけにきた相手を食べちゃうはずだもん。それに……」
 未来は、少女の赤く濡れた瞳を思い出しながら、言葉を続けた。
「あんなにさびしそうな目をした鬼なんて……いるわけないよ……」
 そのとき、縁側の障子が開かれ、しゃもじを手に持った芽衣が顔を出した。
「ちょっと、いつまで外にいるの。手を洗ったら戻ってきて、夕餉の準備を手伝ってちょうだい」
 未来はまだ口を曲げたまま、芽衣に向かって「だって、物の怪の子が……」と言うが、
「まだその話をしているの? いい加減になさい。そんな話ばかりしていたら、枕元に本物の物の怪や幽霊がきて、頭をかじられちゃうわよ!」
「えぇ、やだぁ!」
「芽衣姉、やめてよぉ!」
「じゃあ、もうそのことは忘れちゃいなさい。未来もよ。いいわね」
「……はあい」
 結局信じてもらえないまま、あしらわれてしまった。未来はもう一度大きなため息をつき、濡れた手を手巾でぬぐった。

 夕餉の食卓には、篠枝が作った野菜がずらりと並んでいた。
「この野菜、すごくおいしい!」胡瓜を頬張った芽衣が、頬をおさえて感嘆の声を上げる。「こんなにみずみずしい胡瓜、食べたことないよ」
 隣に座る海都もまた、村の猟師から買い取った鴨肉を口に入れ、目を輝かせた。
「この鴨も、米もおいしい」
 茶碗に盛った米も村人が作ったものだ。粒立ちがよく深い甘みがあり、肉や野菜によく合う。食の細い海都が2膳目をぺろりと平らげてしまうほどであった。
「火神村の名産品らしいからな。桜深町の高級料亭にも卸しているそうだ」
 地酒をあおりながら、荘介が言う。
「村人は親切で優しいし、景色も綺麗で、空気も名産品もうまい。移動距離はちとあるが、余りあって素晴らしい村じゃないか。次の巡業の際は、またこの村に宿をとらせてもらおう」
 団員はみな笑顔で、村の素晴らしさについて語り合っている。
 もやもやとした思いを抱えながら野菜を口に運んでいた未来は、話を聞くうちに妙な感覚に陥っていた。
 村人たちは、みな一様にいい人だ。愛想良く、優しく、気さくな人たち。
 のどかな村の雰囲気を体で感じれば感じるほど、団員の賞賛の言葉を聞けば聞くほど、物の怪の存在が現実から浮いているように思えてしまう。昼間の出来事が本当だったのか、わからなくなる。
 芽衣姉の言うように、あの子は物の怪じゃなく、人間だったの?
 真っ赤な目がめずらしいから、みんなと違うから、物の怪と呼ばれていただけ?
 ――でも……いい人たちばかりの村で、あんなにひどいいじめが起きるの?
 困っている人を見過ごせないような人たちが、誰かをいじめたり、いじめられているのを知りながら放っておくとは思えない。だとしたら、あの光景は何だったのだろう。
 いくら考えたところで、なにが正解かなどわかりそうもなかった。大人たちに話したところで、芽衣や海都のように信じてはくれないだろう。
 凛も廉も、昼間の出来事をすっかり忘れたかのような表情で食事を頬張っている。今この場で違和を感じているのは、未来ひとりだ。
 それ以上考えるのが怖くなり、未来は口をつぐんだ。



 一月(ひとつき)が経った。
  あの日以来、未来が物の怪の少女を見かけることはなく、団員や村人がその存在を口にすることもなかった。
 忙しい日々はあっという間に過ぎていった。公演は盛況の内に終わりを迎え、伝楽座は次の巡業地へと向けて旅立つこととなった。
 村での生活をいたく気に入った荘介、羽振りの良い荘介を気に入った定吉は、互いに意気投合し、次の巡業の際はまたここで宿を取ると約束を交わし、火神村を後にした。



 ――――そして、10年の歳月が流れる。



 
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