序章第1章第2章第3章第4章第5章終章後記
第1章
 ――…………
 遠くのほうで、声が聞こえる。
 ――カサネ……生きなさい。
 ――生きていれば、いつか誰かがあなたに手を伸ばしてくれる。
 少女は声の主を探して、暗闇へと必死に手を伸ばす。だが、切望する姿は見つからず、触れることはかなわない。
 ――大丈夫。きっと、あなたにも……。
 響く声が、だんだん遠くなっていく。
 ――だから……
 やがて、声が聞こえなくなる。
 いやだ、待って、行かないで――叫ぼうとするが、声が出ない。小さな手のひらは、むなしく闇をかくばかりだ。心臓の下の方が、締め付けられたように苦しくなり、そして。


 荒い息の中、少女は目を覚ました。
 闇の中へ伸ばしたはずの腕が、天井に向かって伸びていた。首筋がぐっしょりと汗で濡れている。見開かれた赤い瞳からは、涙が溢れていた。
「……。母さん……」
 伸ばしていた手を力なく下ろし、赤い瞳を持つ少女――カサネは、ぽつりと呟いた。溢れる涙はとめどなくこぼれ、布団に小さな染みを作っていく。
 長く息を吐き、涙を手の甲でぬぐいながら、ゆっくりと起き上がる。

 身支度を整え、縁側の障子を開けて朝の空気を吸い込むと、すぐさま部屋の隅に置かれた織機に向かった。
 かけた布をそっとはずし、折りかけの反物の前に腰掛ける。ひとつ深呼吸をすると、背筋をぴんと伸ばして、杼を手に取った。
 張られた経糸に、色とりどりの緯糸を通す。踏み板を足で踏み、筬を下げる。これをただひたすらに繰り返し、布を織る。カサネが火神村から渡されている仕事だ。
 頭の中に浮かぶ模様を描くように、糸の色を細かく入れ替える。そうして、正確に繊細で美しい模様が織りあがっていく。
 カサネが足を動かすたび、かたり、かたりと心地の良い音が鳴り響く。一定の間隔で打ち鳴らされるその音に合わせ、カサネはそっと口を開いた。
 その唇から紡がれるのは、母がカサネに遺した子守唄だ。

 カサネは、火神村の東にある山の中、小さな家でひとり、ひっそりと暮らしている。
 血に濡れたかのような赤い瞳、長年変わらぬ容姿、そして異常な治癒能力を持つことから、火神村の住人からは『物の怪』と呼ばれている。
 カサネはかつて、この家で母とともに暮らしていた。貧しく苦しい生活であったが、母は惜しみない愛情をカサネに注いでくれた。カサネも母を愛し、尊敬していた。
 だが30年前のある日、母は忽然と姿を消した。朝目覚めるとカサネは見知らぬ家におり、見知らぬ住人に告げられた。お前の母はいなくなった、もう帰らないと。
 悲しみに暮れるカサネを支えたのは、母が眠る前に歌ってくれた子守唄、機織の技術、そして母が残した言葉だった。
 母は毎夜、繰り返しカサネの頭を撫でて囁いていた。「生きなさい」と。「一生懸命生きていれば、きっと誰かがあなたを求めてくれる」と。
 その言葉を信じ、カサネは生きていた。

 ふと視界の端に動くものを感じ、カサネは手を止めて縁側に視線を滑らせる。そこには野生の鹿やうさぎ、鳥たちが集まっていた。
「おはようございます。いい天気ですね」
 カサネは微笑んで声をかける。動物たちは、皆一様に、カサネへと穏やかな視線を向けた。みな、カサネの歌を聞くためにこうして集まってくるのだ。
 動物たちの優しい空気を感じたカサネは嬉しそうに笑うと、再度織機を動かし始めた。

 仕上がった布を籠に入れ、それを背負って山を下っていく。
 火神村に下りたカサネは、極力人のいない裏路地を選んで通り、目的の家に向かう。手の甲で控えめに扉をたたくと、女性が顔を出した。
「仕上げた布を持ってきました」
 カサネはそう言い、先ほど織り終えたばかりの反物が入った籠を差し出した。
 女性は黙って布を受け取り、軽く広げてその柄を確認した。そしてこくりと頷くと、一旦家の中に入り、小さな包みと新たな籠をカサネに手渡した。
「7日後に納めなさい。あまった糸は破棄してよろしい」
 女性はそう告げると、ぴしゃりと扉を閉めた。
 カサネは小さな包みを軽く開き、中を覗いた。わずかばかりの米が入っている。これが今回の報酬だ。新しい籠には次の反物を仕上げるための糸が入っていた。
 年々、報酬が少なくなってきている。それに加え、納期も短くなった。必死に織機を動かしても間に合うかどうかわからない。
 眉尻を下げながら籠を背負い、来たときと同じように路地裏を抜けて山を目指す。
 目立たぬように身を低くしながら進む彼女の肩に、突然衝撃と痛みが走った。
 顔を上げると、路地の入り口に少年と少女が立っていた。少年は下卑た笑みを顔に浮かべ、これ見よがしに数個の石を手のひらで転がしている。
「よう、物の怪。今日は山から下りてきていたんだな」
 カサネは、次に飛んでくる衝撃に身構えた。怯えきったカサネの様子を見た少年は、にやにやと笑いながら、手にした石をカサネの頭めがけて投げつけた。
 飛んできた石が思いのほか大きく、怖くなったカサネはとっさに身を低くし、石を避けた。
 その動きが、少年の癇に障ったらしい。少年は、膝をつくカサネのそばに駆け寄ると、その肩を蹴り飛ばした。カサネの小さな体が、地面にたたきつけられる。衝撃で籠が転がり、中の糸が散らばった。
 あわてて糸をかき集めるカサネの背中に向かって、少女が石を投げる。
「やあい、親なしの物の怪の子!」
「化け物め!」
 カサネは糸を胸に抱き、その場にうずくまる。頭を庇うために回した両腕に、少年たちが放り投げる石や木の枝がぶつかり、鈍い音を立てた。その力には微塵の遠慮もない。
 抵抗すれば暴力がひどくなることをわかっているカサネは、一切動かず、ただ暴力の嵐が去るのを待った。
 痛みをこらえ、悲鳴をかみ殺し、地面に額をつけてうずくまり、じっと耐える。
 しばらくの間、口汚く罵りながら石を投げていた少年たちだったが、カサネの反応がないことをつまらなく思ったのか、やがて立ち去っていった。

 足音が消えたのを確認してから、カサネはゆっくりと顔を上げる。頭を庇った両腕がひどく痛む。石が当たった部分が青く腫れあがり、木の枝が掠めた箇所は皮膚が裂け、血が流れていた。
 その傷の裂け目から不意に白い煙が上がり、傷口を包み込む。青くなった痣も内側からだんだんと色を失っていく。傷だらけだったカサネの腕は、瞬く間に美しい肌を取り戻した。
 ゆっくりと腕を動かし、痛みが消えたのを確認してから、糸についた土汚れを払う。
 転がった籠を探そうと視線を持ち上げたカサネは、驚いて肩をこわばらせた。
 見慣れない2人の少女が、すぐそばに立っていたからだ。
 また石を投げられる、と身を硬くするカサネの目の前に、長い髪の少女がゆっくりと膝をついた。
 少女の手には、カサネが探していた籠が握られている。差し出されたそれを、カサネは目を見開いて受け取った。
 もう一人、髪を肩で切りそろえた少女が同じように膝をつき、懐から袋を差し出した。
 カサネは、袋と2人の少女の顔を交互に見ながら、戸惑いながら袋を受け取る。
「あ、あの……」
 カサネが、礼を言おうと口を開いたときだった。
「唄枝、桃枝。どこにいるの。畑を耕す時間よ」
 表通りから聞こえてきた、聞き覚えのある声に驚き、言葉を止める。それは先刻、カサネが布を手渡した女性の声だった。
 少女たちは顔を見合わせ、大慌てで立ち上がり、先ほどカサネが歩いてきた道のほうへと、小走りで立ち去っていった。カサネは、地面に座り込んだまま、言葉もなくその方角を見つめた。
 そして、視線を手の中の袋に落とす。少女たちはなにかを伝えたそうな表情をしていた。それがなにかはわからなかったが、この中に答えが入っているのだろうか。
 袋を開いてみようと指をかける。紐をほどき、中身を出そうとしたその瞬間、カサネははっと顔を上げた。
 路地の向こう側から先ほどの少年の声が聞こえる。仲間を連れて、またやってきたのかもしれない。
 カサネは袋の紐を締めなおし、急いで立ち上がった。籠の中に糸と袋をしまい込み、少年たちに見つからないよう注意しながら、山に向かって駆け出した。

 なんとか誰にも見つかることなく自宅にたどり着いたカサネは、ぐったりと床に倒れ伏した。
 幾度受けても、暴力に慣れることはない。カサネは生まれつき優れた自己治癒能力を持っているが、それはあくまで傷ついた箇所を治す能力である。傷つく瞬間は痛みを感じるのだ。
 腕に受けた痛み、もう消えたはずのそれが、じわじわと胸を侵食していく。与えられた痛みそのものよりも、投げられた石の冷たさ、侮蔑を帯びた視線と言葉が、カサネの胸を締め付けていた。
 カサネは両目から流れる涙をぬぐい、ゆっくりと起き上がる。
 預かった仕事の納期は短い。今から取り掛からなければ、到底間に合いそうもない。
 籠から糸を取り出したところで、カサネは少女たちに手渡された袋の存在を思い出した。
 仕事の報酬以外の何かを、他人から与えられたのは初めてだった。
 一体何が入っているのだろう。どきどきと高鳴る胸をおさえながら、そっと紐を解く。
 中に入っていたのは、懐紙を織って作られた小さな包み、真新しいさらし布、そして綺麗に洗われた薬草。
 カサネは瞬きを繰り返しながら、ひとつひとつを手にとって確かめる。
 懐紙の包みを開くと、そこには小さな白い玉が10粒ほど入っていた。見たことのないそれをひとつ摘み上げ、カサネは首をかしげる。匂いを嗅げば、花の蜜のような甘い香りが鼻をくすぐった。
 この香りは食べ物だろうと思い、そっと口に含む。とたんに、上品で柔らかな甘さが舌の上に広がった。
「おいしい」
 カサネは思わず呟き、口元を両手で押さえる。うるんだ瞳がきらきらと輝く。
「……おいしい……」
 もう一度、噛み締めるように呟く。初めての味に驚き、感動し、そして胸が詰まる。
 カサネの瞳から、涙が次々と零れ落ちていった。
 ――村の少女たちが、自分のためにくれた贈り物。
 さきほどの薬草は、切り傷によく効くとされる葉だ。傷を覆うためのさらし布も、この甘い菓子も、先ほどの少女たちがカサネのために用意してくれたものなのだ。
 胸の中心が強く締め付けられる。それは、冷たい言葉や暴力による胸の痛みとはまったく違う、苦しいほどのあたたかさを湛えたものだった。
 初めて与えられた好意に戸惑い、喜び、息を詰まらせる。涙がとめどなくあふれ出る。
 カサネは嗚咽を漏らしながら、白い玉を大事に懐紙に包みなおした。そして、使うことのなかったさらし布と薬草と一緒に、大切に袋の中にしまいこむ。
 礼を言うのを忘れてしまった、次に会ったときには必ず伝えよう。そう思いながら、カサネは愛しげに袋を胸に抱いた。
「母さん……本当ですね。生きていれば、こんな素敵なこともあるのですね」
 口の中の甘い菓子はほどけて消えたが、その余韻だけで満たされた気持ちになる。
 カサネは立ち上がり、織機の前に座った。
「私、がんばります」
 袋を織機のそばにそっと置き、微笑みながら頬に伝う涙をぬぐう。それは、朝にぬぐった涙とはまったく違う、熱い涙だった。
 そして日が落ちるまで、カサネは織機を動かし続ける。時折、渡された袋に目を向け、笑顔を浮かべながら。




「わぁ、綺麗! 芽衣姉、この桜並木すごいね!」
 薄桃色の花弁を全身に浴びながら、未来は感激の声を上げた。
 両手を目いっぱい広げて飛び跳ねる。左右に結った腰ほどまである髪が、彼女の動きに合わせてふわふわと弾んだ。
 そんな未来の姿を見て、隣を歩く芽衣がおかしそうに笑った。
「未来、あなた10年前も同じことを言ってたわよ」
「えっ、そうなの?」
 きょとんとした顔で問う未来に、芽衣は頷いてみせる。
「落ち着きなく跳ねてるのも同じ! まったく、いつまでも子どもなんだから」
「むっ。私もう子どもじゃないもん!」
「もん、なんて言ってるうちは子どもよ」
 芽衣はなおも笑いながら、未来の頭にぽんと手のひらを乗せた。昔から、芽衣が未来をあやすときの動作だ。言葉でも行動でも子ども扱いされ、未来は不満げに頬を膨らませた。
「こら、芽衣、未来」
 ふたりに声をかけたのは、少し前を歩いていた海都だ。
「はしゃぐのは結構だが、ここは巡業地だぞ。気を引き締めて臨もう」
 真面目な表情、真剣な声で、じゃれあうふたりをたしなめる。芽衣は呆れた表情で海都に目を向け、わざとらしくため息をついてみせた。
「海都ぉ、あんたも10年前と同じこと言ってる。まったく、頭が固いのは変わらないんだから」
「性分なんだよ」
「知ってるわよ」
 間髪入れず芽衣が返すと、海都は肩をすくめて息を吐き出し、街道の向こうに見える町並みに視線を向けた。

 あれから10年をかけ、全国を行脚した伝楽座は、ふたたび桜深町へ訪れた。今回は三月(みつき)の巡業を行うためである。
 全国を行脚する間、新たな家族や入団した者が増え、一座は30人を超える大所帯となっていた。
 団長をつとめていた荘介は2年前、病に倒れ命を落とした。あとを継いだ海都が現団長となり、伝楽座を率いている。
 この10年で成長した未来は、その澄み切った美しい声、安定した歌唱力から「歌姫」と呼ばれるようになり、今では一座で一番の実力と人気を誇っていた。特に、芽衣とともに披露する二重唱の評価は高く、それ目当てに再来場する客も少なくない。
 双子の凛と廉の成長も目覚ましい。表現豊かな凛の舞踊と、正確丁寧な廉の楽器演奏、どちらの技術も高く評価されていた。

「子どもっぽいって言われても、こんなたくさんの桜に囲まれてると、幸せな気持ちになっちゃうよ」
 未来は軽やかな足取りで前に進みながら、声を弾ませた。
「未来、あんた本当に無駄に元気ね……」
 そんな未来に声をかけたのは、牛車の上で、大きな荷物の隙間に座り込み揺られている凛だ。
「あたし、もうへばっちゃって駄目よぉ……」
 凛は、ぐったりと荷物にもたれながら呟いた。大きな瞳を半分閉じ、だるそうに脚をさする。髪を彩る蝶々の髪飾りが、車輪の動きに合わせて力なく揺れていた。
「凛はもうちょっと体力つけなきゃね。ぼくと一緒に、毎朝の走りこみするかい? 一里も走れば、体力の底上げになると思うけど」
 牛車の隣を歩く廉が口を開いた。しっかりとした足取りで馬の手綱を引いている。10年前は瓜二つの凛と廉だったが、廉の顔と体は徐々に精悍さを備え、男らしくなりつつあった。
「そんなのやだ〜。筋肉だるまになっちゃう。廉ひとりでどうぞ」
 凛は片手をひらひらと振って、眉をしかめた。予想通りの反応に、廉は「ま、そう言うと思ったけどね」と呆れ気味に返す。

 未来はそんなふたりから視線を外し、もう一度桜に向けた。そして、やにわに手を打つと、瞳をきらめかせながら口を開いた。
「ああ、綺麗な景色を見ていたら、歌いたくなってきちゃった」
「えっ、こんな道の真ん中で? あんた、嬉しくなるとすぐに歌い出しちゃうその癖、どうにかしなさいよぉ」
 凛が眉を寄せて苦言を呈するが、未来はかまわず胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
 そして――その唇から、澄んだ歌声があふれ出す。
 未来が歌を愛しており、感情が昂ぶると所かまわず歌いだすのを知っている芽衣や海都、一座の者たちは、またかと苦笑しながら牛車と馬を道の脇に寄せて停めた。
 街道を歩く人々は、思わず足を止め、未来の歌声に聞き入った。
 細い身体から想像できないほどの圧倒的な声量、安定した音程をもって情感たっぷりに歌い上げるその姿に、誰もが釘付けになる。
 人々の目と耳が未来の歌声に魅了されているのに気づいた芽衣は、歌が終わった瞬間、好機とばかりに、手を叩いて声を張り上げた。
「さあさあ、ただいま披露いたしましたのは、わたくしども伝楽座の歌姫、未来による歌唱でございます! 今季、この桜深町にて巡業いたしますゆえ、どうぞ皆様お誘い合わせの上、劇場に足をお運びくださいませ! 伝楽座、伝楽座をどうぞご贔屓に!」
 芽衣の煽りに反応した人々が、惜しみない拍手を送る。未来は、にっこりと笑って頭を下げた。
 満足げに息をつき顔を上げた未来のもとに、ひとりの老人がゆっくりと歩み寄った。
「なんと美しい唄であろうか、元気が沸いてくるよ。旅の疲れが癒されるようじゃ」
 老人は微笑み、未来の手を両手で優しく包み込んだ。未来は顔を紅潮させ、満面の笑顔で「ありがとうございます!」と元気に応える。
「私の唄で元気になってもらえたのなら、これ以上嬉しいことはありません!」
「劇場へもぜひ足を運ばせていただくよ」
「はい、お待ちしております! 心をこめて歌いますので、ぜひお越しください!」
 老人は心から嬉しそうな表情を浮かべ、去っていった。その後姿を見送りながら、未来はますます顔をほころばせる。
「桜深町の人々の心を、私の唄で元気に、そして幸せにしてみせる! よーし、がんばるぞ!」
 気合を入れて、拳を空めがけて振り上げた。

 一座は町の門をくぐり、観光客でごった返す道を進んで、町の中央部に向かった。
「『やますずめ』……、ずいぶん立派な建物だった記憶があるわ」
 芽衣がそう言うと、海都は顎に指を当てながら頷いた。
「子どもながらによく覚えてるよ、舞台の広さも設備も素晴らしかった」
「そうよね。今じゃこの町で一番人気の劇場だって言うじゃない。うまく巡業の約束が取れてよかった。平助さんのおかげね」
 通常、劇場の日程取り押さえは手紙を使うのだが、途中で行方知れずになることも多々あり確実ではなかったため、やり方を変えた。劇団で一番の脚力を誇る裏方の平助が、先だって次の巡業予定地を訪れ、上演日程をあらかじめ押さえる、という方法だ。
 人気のある劇場を確実に押さえられているのは、彼のおかげと言って違いなかった。

「着いた。『やますずめ』だ」
 海都が指した建物は、10年前よりも豪奢さを増した立派な2階建ての建物だった。建物の前には、たくさんの幟や旗があがっており、劇場がいかに賑やかであるかが伝わってくる。
 海都が扉を叩くと、ほどなく扉が開き、そこから美しい女性が顔を出した。
「お世話になります。伝楽座、団長の海都と申します」
「はい。先日ご一報をいただきましたわね。わたくし、館長の流香と申します」
「これから三月の間、よろしくお願い申し上げます」
「こちらこそ、よろしくお願いいたしますわ。では、中にお入りくださいませ。まずはご記帳をお願いいたします」
 流香は優雅に微笑み、団員たちに中に入るよう促した。
 扉をくぐり、海都を記帳台へ案内する流香を見た未来は、思わずほうっとため息をもらし、隣に立つ芽衣の袖を軽く引いた。
「芽衣姉、あの流香さんって人、目が覚めるくらいの美人だね」
 声を潜めて問いかければ、芽衣も深々と頷いた。
「10年前にもここで会ったのよ。あのときも綺麗な人だと思ったけど……年を重ねてますます美しさに磨きがかかったみたい……驚いちゃった」
 陶磁のような肌、絹のような髪、絵に描いたような美貌をもつ流香を、ふたりは胸をどきどきさせながら見つめる。
 芸術品を愛でるように流香を見つめていた未来の視線が、ふと、その身にまとう着物に止まる。
「ねえ、芽衣姉。流香さんの着物、見たことない模様だね」
「……本当だ。柄も色使いもすごく独特ね……」
 その着物には、斬新な色と柄が使われていた。流れる河川や風の息吹を感じさせるような、美しい流曲線、その中に色とりどりの花がいきいきと描かれている。
「なんて綺麗なんだろう……まるで、自然をそっくりそのまま写しとったみたい……」
 目を凝らして見れば、それは染付けで行われたものではなく、綿密に織り込まれたものであった。これだけ細かい模様を織り込むのには、相当の技術が必要なはずだ。裁縫や機織がからきしな未来には、その労力は想像もつかない。
 見れば見るほどその繊細な柄に引き込まれ、未来と芽衣は食い入るように流香の着物を見つめる。繊細であると同時に大胆な色使いに、ふたりはすっかり心奪われてしまった。

「記帳させていただきました」
 海都が筆をおくと、流香はひとつ頷いて確認し、微笑んだ。
「ありがとうございます。ところで前団長であられた荘介様は?」
「父は、2年ほど前に病をこじらせ永眠しまして……現在は息子である私が代表を務めております」
「そうでしたか。ご愁傷様です」
「恐れ入ります。ときに、流香殿のお父上は? お姿が見えないようですが」
「父は、最近仕立て売りの副業を始めまして、現在は隣町に仕入れに出かけております。館長の仕事はわたくしが継ぎましたの」
「そうなんですか」
 流香の言葉に、10年の月日が経ったのだと感慨深く感じながら、海都は頷いた。
「ところで此度の宿場についてですが……火神村での滞在をご希望とのことで間違いございませんか?」
「はい。10年前世話になりましたし、生前、父が大変気に入っていたので、ぜひ」
「そうですか。火神村へは少し距離がありますが……」
「承知の上です。まだ舞台に立てない幼子や乳飲み子もおりますし、半数は宿に残ることになるでしょう。静かで空気の綺麗な木賃宿を拠点にしたいのです。出番の多い団員は、この桜深町で各自宿を取ることもあると思いますが」
「なるほど、わかりました」
 流香は、すらすらと筆を走らせたのち、階段を指差した。
「では、舞台に必要な大荷物は劇場2階の楽屋にてお預かりいたします。『菊』の部屋へどうぞ」
「ありがとうございます。どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ、お願いいたします。長旅でお疲れでしょうから、公演日程の詳しい打ち合わせや手続きは、明日にいたしましょう。ご都合の良い時間にお越しください。団員の皆々様も、荷物を運ばれたら本日はごゆっくりおやすみくださいませ」
 流香は言いながら、一座をぐるりと見渡す。楽団の若者は鼻の下を長くしながら、張り切って大道具や床几台、楽器などを運びはじめた。
 海都と流香の会話の間中、着物に見入っていた未来は、流香の視線がふと自分へ向いたことに気づき、あわてて視線を上げた。
「あら。さきほどから視線を感じると思っていたけれど、あなた?」
 流香は軽く首を傾げて未来に話しかける。
「あっ! は、はい、そうです。じろじろ見て、すみません」
 不躾なことをしてしまったと気付いた未来は、勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさい。私も見ていました」
 となりで、同じように芽衣も頭を下げる。芽衣もまた流香の着物に熱のこもった視線を送り続けていたからだ。
「あなたたちが見ていたのは、この着物かしら?」
「そうです。つい見入ってしまって」
 流香の問いに未来は素直に答える。流香は袖を軽く広げ、未来たちに近づいてくる。
「この織り柄、とても独特で美しいでしょう。父が布を仕入れ、誂えてくれたものなの」
 目の前にきた流香は、迫力さえ感じるほどの美人だった。流香の美しさが着物を、着物の美しさを流香が引き立てているかのようだ。
「る、流香さんに、よくお似合いだと思います」
 未来は緊張しながら、頬を紅色に染めて、こくこくと頷いた。
 そんな未来をぐいと押しのけ、芽衣が一歩前に出た。興奮した表情を浮かべ、食いつくような勢いで流香に詰め寄る。
「あの、流香さん! その反物、どちらからお幾らで仕入れられたか、わかりますか? 私、その着物に惚れこんでしまいました。うちの舞台で衣装として使えたら、素敵だと思って!」
 芽衣の勢いに驚き、ぽかんとしていた未来だったが、 魅力的な提案を聞き、身を乗り出した。
「それ、すごくいい! 私も賛成! 流香さん、教えてください!」
 両手をぎゅっと握って目を輝かせる。
「仕入先は……どこだったかしら、近隣の村だと聞いたけれど。お値段は、だいたい……これくらいかしら」
 流香はそう言いながら、指で数字を作ってみせた。
 とたんに、ふたりの瞳から輝きが消え、がっくりと肩が落ちる。それは予測をはるかに超える高値だった。
「……うちの台所事情じゃ、とても出せない額ね……。千両役者になってから出直さなくちゃ」
 芽衣が唇を曲げて嘆く。どんよりとした空気を醸し出すふたりに、流香は苦笑を浮かべながら口を開いた。
「仲介業者や仕立て屋を通すからこの値段になるのよ。機織師から直接布を買い付ければ、もう少し安く上がると思うけれど」
 その言葉に、芽衣が目を見開き、未来が両手をぱんと叩いた。
「そうか、機織師さんを探して、直接反物を買い付ければいいんだ! 凛のお母さんは裁縫上手だし、着物を仕立てられるものね!」
 再び瞳に輝きを宿らせ、未来が笑顔を見せる。芽衣もいきいきと目をきらめかせながら、
「ってことは、交渉次第で値切ることも可能よね。……よし、その案でいこう! 流香さん、お父様が帰られて、布の仕入先がわかったら教えてください!」
「よろしくお願いします!」
 ふたり揃って、深々と頭を下げる。
「ええ、そうしますわ」
 流香の快諾に、未来と芽衣は顔を見合わせて笑った。
「話は終わったか、未来、芽衣」
 後ろから海都に呼びかけられ、ふたりは振り返る。階段に荷物を上げ終えた団員たちが戻ってきていた。
「日が落ちる前に、火神村に向かおう。では流香さん、本日は失礼します。また明日」
「はい、お待ちしております。どうぞお気をつけて」
「流香さん、ありがとうございます!」
 未来の笑顔に、流香もにっこりと綺麗な微笑みで応えた。

「おっそ〜い! 待ちくたびれちゃったよ」
 『やますずめ』の外に出ると、凛が開口一番文句を言ってきた。その腕には、2歳になったばかりの梅が抱かれている。凛と廉、幼児たちとその母親には、館外で貴重品の番を任せていたが、どうやら彼女には退屈で辛い仕事だったようだ。
「凛は短気すぎるんだよ。契約の手続き、宿場の手配、荷物の預け入れ……やるべきことはたくさんあるんだから、これくらいかかって当然だろ」
 乳飲み子の雅を抱いた廉が、隣に立つ凛をたしなめる。
「ましてやここは、町で一番人気の大衆演劇場なんだ。団長は、万が一にも何かしらの不備がないよう、慎重に……」
「あーうるさい! わかってるわよ! そんなにくどくど言わなくてもいいじゃない!」
 廉の小言に、凛は舌を突き出した。呆れたように言葉を止めた廉は、肩をすくめて海都を見る。海都はそんな廉に苦笑を返してから、両手を広げて声を張った。
「みんな、待たせたね。契約と、荷物の運び入れは無事完了した。今から宿場である火神村に向かう。長旅で疲れているだろうが、あと一里半の距離、頑張ってくれ」
「了解!」
 団員たちは威勢よく返事をする。そんな中、凛だけは「あと一里半も歩くだなんて、足が棒になっちゃうわよぉ」と文句を言い、廉にたしなめられていた。
 火神村に続く街道を歩き始めた海都の背を追いかけながら、未来はふと視線を持ち上げる。桜並木の向こうに、森に囲まれた山の頂が見えた。あの山の麓に火神村があるのだ。
 前回訪れてから、10年もの年月が流れている。まだ幼かった未来の当時の記憶はほとんどなく、まるで初めての地に来たかのように新鮮な気分だ。
 桜深町や火神村で、どんな出会いや生活が待っているのだろう。未来はこれからの日々を思い、胸を躍らせた。



 夕暮れがあたりを赤く染めるころ、一行は火神村に到着した。
「おお、旅の一座の皆々様。火神村へようこそいらっしゃいました」
 村の入り口で入村の準備をしていると、村長の定吉が笑顔で一座を出迎えた。白髪が増え、年をとったとはいえ、その人の良い微笑みは変わらない。
「定吉殿、ご無沙汰しております。10年前お世話になりました、伝楽座です。今回も木賃宿を使わせていただきたく参りました」
 海都はそう言い、頭を下げる。定吉は人の良い微笑を浮かべながら、
「おお、荘介殿率いる楽団の皆様ですな! ようこそお越しくださいました。再度のご利用、心より感謝いたします。わが村を気に入ってくださり嬉しい限りです」
 両手を広げて歓迎の意思を示したのち、海都と握手を交わした。
「おや、荘介殿はご不在ですかな?」
「父は、流行り風邪で亡くなりまして……」
 海都が簡単にこの10年の経緯を説明すると、
「そうですか……。荘介殿とはまた酒を酌み交わそうと約束したのだが、残念だ」
 定吉は顔を曇らせ、肩を落とした。
「今は、君が団長をつとめておるのだね。10年前もしっかりした息子さんだとは思っておったが、若いのに大したものだ。荘介殿も安心されていることでしょう」
「いえ、まだまだ至らぬことも多く……修行中の身です」
「ご謙遜なさいますな。うちの息子にも見習ってもらいたいものだ」
 定吉はからりと笑うと、きびすを返し、村の通路を指差した。
「それでは皆様、宿へご案内いたします。どうぞこちらへ」
 案内された宿は、ここ5年のうちに新しく作られたという木賃宿であった。一座30名が余裕で収まるほどの立派な建物だ。
「こちらの宿をお使いください」
「ありがとうございます。……ずいぶん大きなお宿ですね」
「や、ありがたいことに、ここ数年で宿泊客が増えましてね。桜深町が賑わいを増した恩恵ですよ」
 辺りを見れば、小さな宿もいくつか増えている。自分たちのほかにも旅人がいるのか、建物からは水煙が上がっていた。
「皆様、ずいぶんお疲れのご様子で。村の者に食事を作りに参らせましょう。食料はございますかな?」
「それは助かります。米と保存食は持参しております」
「では、薪と新鮮な食材をいくらかお持ちしましょう。中でお待ちください」
 定吉はそう言って、民家が立ち並ぶ通りへと消えていった。
「村長さん、すごくいい人ねえ。こんなに疲れ果てた体引きずって、今から夕餉作らなきゃならないのか〜って憂鬱だったけど、なんて素晴らしい気づかい!」
 いたわり深い言葉と行動に、凛は感激しながら目を細める。
「荘介さんが火神村を気に入った一番の理由が、村長さんや村の人たちの人柄だからね。10年前も、とても親切にしていただいて、気持ちよく過ごせたのよ」
 芽衣がそう言いながら、雪駄を脱いで障子を開けた。
 部屋は6つに仕切られており、広々とした台所と風呂場が設置されている。いぐさと檜の香り漂う、清潔感のある宿場だ。
 ほどなく、村から村長に連れられた女性が数人やってきた。食事ができるまでの間に湯浴みの準備をし、布団を綺麗に敷き、乳児たちの世話まで申し出てくれた。
 至れり尽くせりの親切を受けた団員たちは、満たされた表情で眠りにつくのだった。

 翌日、団長の海都と演者代表の芽衣、大道具や演出を担当する者たちが、舞台打ち合わせのため桜深町に向け出発した。
 他の団員たち、未来や凛、廉、幼い子どもたちとその母親は、火神村でゆっくりと長旅の疲れを癒している。話がうまくつけば、明日にでも桜深町での初舞台となる。今のうちに身体を休めておこうと、各々のんびりと過ごしていた。
 昼飯を食べ、荷物の整理を終えた未来は、意気揚々と外に出る準備をしていた。
「未来、どこか行くの?」
 鼻歌を歌いながら雪駄を履く未来に、ごろごろと畳の上で転がっていた凛が声をかける。
「うん、散歩に行こうと思って。昨日はお夕飯を食べてすぐに寝ちゃったし、どんな村なのかきちんと見て回りたいの。凛も行く?」
「もちろん、暇だし行く行く!」
 凛は跳ね起きて、乱れた髪を手ぐしで直しながら未来の隣に並んだ。雪駄を履き、ふたりが連れたって外に出ようとしたところで、
「ちょっと待って、ぼくも行く」
 部屋の隅で横笛の手入れをしていた廉が立ち上がった。
「面倒ごとに巻き込まれやすい未来姉と、なんにでも顔を突っ込む凛、ふたりで外に出るなんて危険すぎるからね」
「ちょっとぉ、どこででも騒ぎを起こすみたいな言い方やめてよ」
 凛が唇を尖らせて廉に文句を言う。
「前の巡業地でも、人の恋愛沙汰に関わって騒ぎになったじゃないか」
「あれは恋愛成就の手助けをしただけよ。うまくいったからいいでしょ」
 前の巡業地では、恋に溺れる百姓の息子が未来に恋愛相談を持ちかけ、凛がそれに首を突っ込んだことで思わぬ大騒動となったのだった。
 凛と未来の情熱的な説得、熱心な橋渡しによって無事その恋愛は成就したのだが、芽衣や海都、果ては団員数名まで巻き込んだため、ふたりは随分と絞られたのであった。
 それを持ち出されると、申し訳なさが先に立つ未来は、眉を下げるほかない。
「廉くん、私たち、そんなに信用ない……?」
「悪いけど、あるとは言えないかな」
「うぅっ。手厳しいよ廉くん。ただの散歩なのにぃ」
「ただの散歩で済むように、同行するんだよ。もしこの村でも騒動を起こしたら、団長が困るだろうし」
 はっきりとそう言われ、未来は「あはは」と苦笑を浮かべながら頭をかいた。
「あんた、どんどん団長に似てきたわね」
 凛が横目で廉をにらみながら、低い声で呟いた。
 一座の規律に対して特段厳しいのは団長の海都だが、その海都を心底尊敬しているという廉もなかなかの口うるささだ。特にその矛先が向けられやすい凛は、海都と廉の小言に心底辟易していた。
「それはぼくにとっては褒め言葉だけどね」
 廉は、草履を履きながら凛の厭味を軽く受け流す。怒る凛となだめる未来、いつもの3人の姿を、団員たちは笑顔で見送った。

 村の畑では、住人たちが畑や家畜の世話をしていた。未来たちが挨拶をすると、愛想よく丁寧な挨拶を返してくる。
「旅の一座のお嬢ちゃんたちだね。遠いところまでよく来てくだすったね。ゆっくりしていってちょうだいな」
「公演が忙しくなれば、家事や炊事の手伝いに行くから、いつでも声をかけておくれ」
「お姉ちゃんたち、舞台に立つ人なんでしょ? 疲れたときは甘い果物がいいんだって。これあげるよ」
 畑仕事に精を出す女性も、家の修繕をする男性も、幼い子どもたちも気のいい人ばかりだった。
 子どもから差し出された三宝柑の香りを嗅ぎながら、未来は嬉しそうに破顔した。
「この村の人って、みんな優しいのね。よそ者には厳しい村もあるのに。これだけ歓迎されると、嬉しくなっちゃう」
「村ぐるみで木賃宿を経営しているから、外からの客に慣れているんだろうね」
 未来の言葉を受けて、廉がそう呟いた。木賃宿は宿泊者が炊事を行うため、食材の多くを村で調達することになる。それゆえ、村人との交流が多くなるのだ。
 のどかな道を歩きながら、凛がふと未来にたずねた。
「10年前、ここに来たときのこと、未来はなにか覚えてるの?」
「えーっと……まだ小さかったから、ほとんど覚えてないなあ。凛と廉くんはもっと小さかったし、ぜんぜん覚えてないんじゃない?」
 未来の言葉に、凛と廉は顔を見合わせ、そうだねと頷いた。全国を巡る中で、数え切れないほどの村や町を見てきたせいか、記憶をたどっても10年前のものは掘り起こせそうになかった。ましてや、これほど平和で静かな村ならば、記憶に残らないのも仕方ないだろう。

 畑を越え、民家の間を抜けると、広場に出た。村の中心部だろうか、平坦な土地に立派な東屋が立っている。
「わあ!」凛が目を輝かせ、広場の向こう側を指差した。「すごい、広い湖!」
 凛の言葉の通り、広場の向こう側に美しい湖があった。水面が光を受けて、目がくらむほどの輝きを宿している。
「――あ!」
 湖を見た瞬間、未来が声をあげて立ち止まった。
「ここ、知ってる気がする。……昔、来たことがあるのかな」
 未来は身八つ口に三宝柑を放り込んで湖に駆け寄った。急に駆け出した未来に驚き、凛と廉が後を追いかける。
 湖の上を涼しい風が吹きぬけ、未来の長い髪と着物の袖を揺らした。その柔らかく清涼感のある風に、ふと懐かしさを感じる。幼いころここに立った記憶が、ほんの微かにだが、確かにあった。
「見事な湖だね。未来姉が幼心に覚えてるのも納得だよ」
 追いついた廉が、湖を眺めながら感心したように呟いた。湖の水は澄みきっており、中に泳ぐ魚の様子もよく見える。透明度は高いが思いのほか深いらしく、よくよく目を凝らしても湖底を見ることはかなわなかった。
「ねえ未来、あの木すごいね。御神木ってやつかな?」
 同じように湖を見つめていた凛が顔を上げ、そばの大木を指差した。
 凛が指差した木は、樹齢は数百年ほどだろうか、胴回りは17尺をゆうに超える、立派な欅であった。
「……うん、確かそうだった気がする……昔、誰かにこの木が御神木だって教えてもらったような……えっと……」
 誰に、どこで、なにを……思い出そうとしても、これまで滞在したいろんな町や村での思い出が邪魔をし、なかなか明確な記憶が出てこない。
 もどかしさと歯がゆさに悶えながら、ほかに覚えているものはないかと、未来は視線をめぐらせた。御神木、開けた広場、こじんまりとした東屋。湖に架かる橋。そして――
「あっ!」
 湖のそばに咲く、真紅の花々を見た瞬間、未来は大きな声を上げた。そののち、ぐるんと広場のほうを振り返る。
「思い出した! この村で昔、目の赤い女の子に……物の怪に会ったんだ!」
 未来の突然の言葉に、凛と廉は目を真ん丸に見開いて口をぽかんと開けた。
「……物の怪ぇ?」凛が、未来の言葉を怪訝な顔で繰り返す。「物の怪って、絵草紙で出てくるあれのこと?」
「突拍子もないことを……こんなのどかな村に、そんなものいるわけないじゃないか」
 廉も同じように怪訝な顔をして、信じられないといった調子で言う。
 未来はふたりの言葉も耳に入れず、10年前の記憶を必死にたどり始めた。どんなやりとりをしたのか、どういう状況だったか、おぼろげで断片的なそれが、ほんの少しずつ、あやふやながらも繋がっていく。
 曖昧な記憶の片隅に、ただひとつ鮮明に残っている記憶があった。
 未来は、もう一度赤い花に視線を戻した。確か、少女の瞳はこの色によく似ていた。そしてその瞳に宿っていたのは――あまりにも深い悲しみだった。
「ちょっと未来、どうしちゃったのよ。急に黙り込んで……」
 眉尻を下げ、神妙な顔をして黙りこくる未来に、凛は心配そうに声をかける。
 未来は視線を上げ、ふたりに向き直った。大きく息を吸い込み、そして吐く。深呼吸を数度繰り返してから、口を開く。
「とてもおぼろげだけど……確かに私、会ったんだよ。10年前、この広場で……小さな物の怪の女の子に」
 ただならぬ未来の様子に、露ほども信じていなかった凛と廉は顔を見合わせた。未来は意味のない冗談を言う性質ではないことを、ふたりはよく知っている。
「その子、村の男の子たちに手ひどくいじめられていて……私、すごくびっくりしたんだ」
「いじめられてた? 物の怪が、人間の子どもに? 物の怪って妖怪とか鬼でしょ。怖くて強くておっかないやつが、ただの子どもにいじめられるなんてありえないよ」
 凛の言葉に、未来は頭を左右に振って「違うの」と答えた。
「私が見た物の怪の子は、おっかなくなんてなかったよ。蹴られたり石を投げられたりされても、文句のひとつも言わなかった……ただ、悲しそうな、寂しそうな表情を浮かべているだけで……」
 話すうちに、だんだんと記憶が蘇ってくる。
「あまりにひどい暴力だったから、放っておけないって思って、それで……そう、私、彼女を助けようと思ったんだ……」
 少女を守るために飛び出したこと、凛と廉も同じように飛び出し、少女を助け起こしたこと。
 少女の瞳が血のように真っ赤だったこと、体中の傷がなぜか突然治ったこと、それにとても驚いたこと。
 少女が傷つき、逃げてしまったこと。
 未来は時折言葉に詰まりながらも、記憶の限りをふたりに語って聞かせた。

 話を聞き終えた凛と廉は、腕を組んで軽くうなった。
「未来姉がそこまで真剣に言うなら、本当にあったことなんだろうけど……にわかには信じがたいな。ぼく自身が覚えてないから尚更だけど……凛は覚えてる?」
「あたしも覚えてないし、信じられないわよ」
 ふたりは困惑した表情を浮かべて未来を見やった。
 未来は自分の記憶を確認するように、湖を振り返る。
 火神村と物の怪の子、そのふたつが繋がらなかったこと。物の怪の子との出会いを忘れていたこと。一番の理由は、団員たちが信じてくれなかったからだ。
 幼かった凛と廉はすぐに忘れてしまったし、大人たちは未来の話を信じてくれなかった。そのうち未来はそれが夢だったのかもしれないと思うようになり、口にしなくなった。そうして忙しい日々を過ごすうちに、自身の記憶もどんどん薄れてしまった。
 だが今、この場所に立ったことで、胸の奥底に眠っていた思い出が緩やかに蘇った。それは細い線のような頼りない記憶だが、ただの夢とは思えない現実味のあるものとして。
 もう一度記憶を辿っていた未来は、やがて、もやもやとしたものが胸に満ちていくのを感じた。
「……私、あの子に謝ってないな……」
 小さな声で呟き、ゆっくりと広場に向かって歩き出す。中央で立ち止まってしゃがみこみ、足元の小石を拾い上げた。悲しみに濡れ、傷ついた瞳が、まぶたの奥に浮かんで消える。
「助けに行ったつもりが、余計に傷つけてしまったのかもしれない」
 未来の心の奥底の靄は、去り行く少女に言葉をかけられなかった後悔から生まれていた。なにかできたかもしれない、声をかけられたかもしれない、そう思うほどにやるせなさが湧き上がってくる。
 未来は、小石をそっと戻して立ち上がり、凛と廉に向き直った。
「以前、栄港(さかえみなと)の町で巡業中、外海からきた西洋のお医者さまに会ったよね。あの方の瞳は、空のような青色だったじゃない。黒、茶、青、赤……色は違っても、同じ瞳。それって個人の特徴だと思うの。私の瞳が少し青っぽくて、凛と廉くんの瞳が茶色だって言うのも、そうでしょ」
 自分の瞳を指さす未来に、凛と廉はうなずいた。
「……あの子、本当に物の怪だったのかな、って。ただ、少し他の人と違うというだけで、物の怪と呼ばれていたのかも……」
「他人と違う部分があると、それだけで虐めの標的になるからね」
 未来の言葉を受けて、廉は腕を組んだまま苦々しく頷いた。幼いころから華奢な容姿をからかわれ、「女子のようだ」とさんざん言われた経験のある彼には、思うところがあるようだった。
「私、ちゃんと彼女に謝りたい。その特徴にびっくりして、傷つけてしまったんだもの」
 未来が呟くと、それまで黙って話を聞いていた凛が、頭半個分高い位置にある未来の顔を見上げて口を開いた。
「なら、あたしもその子に謝る」
「えっ?」
「あたしも、その子のこと怖がって傷つけちゃったんでしょ? 幼かったから、悪気がなかったから、覚えてないから、仕方ないなんて駄目」
 形のいい眉を吊り上げる凛の、その瞳は真剣そのものだ。
 普段は破天荒な性格が前に出てしまい霞んでいるが、凛は非常に強い正義感の持ち主である。未来以上に、曲がったことや理屈の通らないことが嫌いなのだ。
「悪いことをしたらきちんと謝る。わざとじゃなくてもそれは同じ。そうでしょ! ねえ、未来。その子、探そう。一緒に謝りに行こうよ!」
「確かにそうだね。もし会えるなら、ぼくも謝りたい」
 真面目な廉も、凛と同じく筋の通らないことは許せない性質である。ふたりの言葉に、未来は力強く頷いた。
「うん、謝りに行こう。そうだ、さっき畑にいたおばあちゃんたちに聞いてみようか」
 そして3人は、さきほど着た道を引き返していった。


「さあてねえ……数年前に亡くなった千代婆は、赤茶の目をしていたけどねえ」
 畑の老女は、口の中でもごもごと言葉を濁らせ、困ったように目を細めた。
「あぁ……わたしにゃちょっとよくわからんね……役に立てなくてすまないね」
 赤い瞳の女性を探しています、と声をかけた途端、老女が狼狽したのに気づいた未来は、更に問いかけようとしたが、
「そうだ、これ採れたばかりの南京だよ。よかったら今日の夕餉の足しにどうだい?」
 言葉をさえぎるように、老女は笑顔で南京を差し出してきた。廉の手に南京を握らせると、そろそろ休憩するから失礼、と言ってそそくさと去ってしまった。
「……おばあちゃん、わからないって言ってたけど……知らないってことかな? それにしては、ずいぶん歯切れが悪かったよね?」
 誤魔化すような物言いに、凛が疑いを含んだ声音で呟いた。廉も同じ思いなのか、複雑そうな表情で南京を手ぬぐいで包み、帯にくくりつける。
「別の人に聞いてみよう」
 未来は諦めずに、辺りを見回す。すると、水車の近くで、さきほど三宝柑をくれた子どもたちが独楽で遊んでいるのに気づいた。
「こんにちは。さっきは果物をありがとう」
「あっ、お姉ちゃんたち。どうしたの?」
 駆け寄って声をかけると、子どもたちは独楽を回す手を止め、無邪気な笑顔で首をかしげた。
「あのね、お姉ちゃんたち、人を探してるの」
「誰を探してるの?」
「あのね、名前はわからないんだけど、赤い瞳をもつ女の人で……」
 未来が言うと、一番幼い少年が、あっ、と声を上げて片手を挙げた。
「それって、カサネのこと……」
「あっ、馬鹿!」
 その瞬間、他のふたりが大慌てで少年の口を塞いだ。
「それ、言っちゃ駄目って母ちゃんに言われてるだろ!」
 最年長であろう少年にたしなめられ、幼い少年は、もごもごとこもった声をあげながら、目を白黒させている。
「言っちゃ駄目? どういうことなの?」
 未来が問いかけると、子どもたちは目線を泳がせ、申し訳なさそうに口を開いた。
「……ごめん、お姉ちゃんたち。この話はしちゃ駄目って、母ちゃんや近所の大人たちにきつく言われてるんだ」
「私たち、その人に会って伝えたいことがあるんだけど……」
 子どもたちの不穏な言い分に困惑する未来。子どもたちも、困ったように顔を見合わせた。
 ――そのとき。
「あなたたち、なにをしているの?」
 後ろから声がかかり、未来たちは振り返る。未来よりも10ほど年上かと思われるすらりとした女性が、大きな籠を手に立っていた。
「あっ、篠枝おばさん!」
 子どもの1人が、女性の名を呼ぶ。
「……篠枝、さん……?」
 その名前が、未来の記憶に引っかかる。かすかな覚えがあった。細い記憶をたどって、ようやく記憶の中の顔と目の前の顔が一致する。
「あ! 10年前、この村を案内してくれた……!」
 目の前に立つ女性が湖と御神木のことを教えてくれた本人だと気づいた未来は、大きな声を上げた。篠枝は長い髪を後ろに流しながら小さく笑った。
「あら、覚えていてくれたの。10年も経つから、忘れてしまったかと思ったけれど」
「思い出しました。あの、あのときはありがとうございました。湖がきれいだって教えてくれたり、花冠の作り方を教えてくれたり……」
 未来は、そこでふと言葉を止めた。篠枝の微笑みを見ていると、なぜだかひどく落ち着かない。得体の知れない冷たい汗が背中を流れ落ちるのを感じ、言葉に迷う。
「ところで、さっきは何の話をしていたの?」
 未来が不自然に会話を止めたのを気にする様子もなく、篠枝は笑顔のままたずねる。
 凛は、子どもたちに視線を送って片目をぱちりと閉じてみせると、肩をすくめて篠枝に笑顔を向けた。
「あたしたち、ある人を探していて、この子たちにたずねてたんです。でも、みんな知らないって言うから、どうしようかなぁって思っていたところなの」
 凛の言葉に、口を滑らせたことを告げ口されると身体を固くしていた子どもたちが、ほっとしたように顔を緩めた。篠枝は、そうなのねと頷き、
「どなたを探していらっしゃるの?」
「10年前、未来がこの村で赤い瞳の女の子に会ったと言うんです。その方と話がしたくて……お心当たりはありませんか?」
 篠枝の問いに、今度は廉が答えた。その言葉を聞いた瞬間、篠枝の顔からすっと笑顔が消える。
 場の空気が突如凍りつき、凛と廉は、篠枝の表情の変わりように驚き目を見開いた。
 未来は、篠枝のその表情に見覚えがあった。
 10年前、物の怪の少女が走り去ったあと「物の怪だから仕方がない」と告げた、あのときと同じ表情。
 ぞくりと背筋に寒気が走り、未来は思わず一歩後ずさった。
「……あのことは忘れなさいと、そう言ったのに……どうして今更、詮索するのかしら」
 篠枝は冷たい声でそう言うと、鋭い視線を未来に向けた。凛と廉はわけもわからず、ただ未来と篠枝を交互に見ることしかできない。
 未来は勇気を振り絞り、胸の前で手をぐっと握って口を開いた。
「あの……あのときの、あなたたちが物の怪の子と呼んだ女の子に、もう一度会いたくて」
「会う必要はないわ」
「でも私、あの時、あの子のことを傷つけてしまった。だから、謝りたいの……あんなに哀しい瞳をさせて、ごめんなさいって言いたくて」
「未来ちゃん」
 篠枝は強い口調で未来の言葉を途中で遮り、もう一度髪をかき上げた。今度は、まるでうっとうしい蝿を払うかのような動作で。
「いい加減になさい。あなたには関係のないことよ。これ以上深入りしないでちょうだい」
「でも!」
「未来ちゃんたちが物の怪の毒に冒されたら、伝楽座の皆様はさぞお困りになるでしょうね」
 なおも食い下がろうとした未来に、篠枝はぴしゃりと言い放った。一座の名前を出された未来は、思わず言葉を飲み込んで黙り込む。
「ちょっと!」
 未来の隣にいた凛が、篠枝にずかずかと歩み寄り、人差し指を立てながら口を開いた。
「さっきから黙って聞いていれば、ずいぶん偉そうな物言いじゃない!? あたしたちはただ、会って謝りたいって言ってるだけなのに、なんでそんな頭ごなしに……むぐっ!」
 声と顔に怒りを浮かべ、噛み付くような勢いで抗議する凛を、慌てて廉が押さえ込む。
「こら、凛! お前こそ失礼な物言いだろう!」
 手のひらで口をふさがれてもなお、くぐもった声で抗議し続ける凛に、篠枝は呆れたような顔を向ける。
「余所者にはわからない事情があるのよ。あなたたちの行動は誰のためにもならない。村のためにも、あなたたち一座のためにも、ね」
「…………」
「わかったのなら、もう二度とその話はしないことね」
 篠枝は吐き捨てるような口調で言うと、籠を抱えて広場の方へと立ち去って行った。

 篠枝の背中が見えなくなってから、廉はうめきながら暴れる凛の口から手を離した。とたん、凛は顔を真っ赤にして廉に掴みかかる。
「ちょっと廉、なんで邪魔すんのよ! まだ言いたいことがあったのに!」
「騒動を起こすんじゃない。宿を出る前に言ったろ、僕たちが騒ぎを起こしたら、困るのは海都団長や一座のみんななんだぞ」
 廉は胸倉を掴む凛の手を振り払い、はっきりとした口調で言い返す。正論を真正面から投げつけられ、凛は眉を怒らせてぷいとそっぽを向いた。
「これから長く滞在する身なんだ、面倒ごとは避けなくちゃ。きっと色々と事情があるんだろう。この村で世話になる以上、眉を顰められるような行為は慎むべきだよ」
「……。わかってるわよ」
 苦々しい声で答える凛。廉の言葉が正しいということは理解できるのだが、納得がいかないのだ。
 ふたりを見つめる未来の胸中にも、凛と同じような感情が渦巻いていた。無意識に詰めたままの呼吸を、ゆるゆるとほどく。そして困惑の表情を浮かべ、篠枝が立ち去った方向をじっと見つめた。
 篠枝の言葉からわかったのは、物の怪の女の子が確かに存在していたこと、そしておそらくは今もこの村に住んでいること。村の人々がそれを隠しているということだ。

 一歩下がったところで縮こまっていた子どもたちが、おずおずと未来たちに話しかける。
「あの……お姉ちゃん、さっきはかばってくれてありがとう」
 年長の男の子が、凛に頭を下げた。
「篠枝おばさん、優しいんだけど……旦那さんがいなくなってから、ときどき怖いんだ。本当に助かったよ」
 その子にならって、子どもたちがみな頭を下げる。その素直な態度に、凛もようやく怒りの表情を引っ込めた。
「他の大人たちにも内緒にしとくから、安心してね」
「ありがとう。……教えられなくてごめんなさい、お姉ちゃん」
 未来は、申し訳なさそうに眉を下げる子どもたちの頭を撫でて、
「あなたたちはなにも悪くないよ。無理に聞き出そうとして、困らせたね。ごめんね」
 安心させるように笑ってみせる。子どもたちはほっとしたように顔を見合わせた。

「あの……」
 そんな未来の背中に、小さく遠慮がちな声がかかった。未来は顔を上げて、声の方向へと振り返る。
 そこには、少女がふたり立っていた。凛や廉より幼いだろうふたりは、髪型以外は瓜二つだ。年子か、もしくは双子のように見える。
「あ、唄枝姉ちゃんと桃枝姉ちゃん」
 子どもたちがふたりの名を呼ぶ。ふたりは子どもたちのほうをちらりと見たあと、視線をさまよわせながら、声を潜めて未来に話しかけた。
「ごめんなさい。母は口調が強くて……」
「母?」
「唄枝姉ちゃんと桃枝姉ちゃんは、篠枝おばさんの娘だよ」
 首をかしげる未来に、子どもたちが助け舟を出す。なるほどと頷く未来に、髪の短い少女、唄枝がますます声を潜めて話を続けた。
「あの、話が、聞こえたので……。……みなさん、物の怪の子を、探しているんですか?」
「聞いてたの?」
 同じように声を潜めて、未来が問い返す。唄枝はこくりとうなずくと、
「そこの裏道を、通りかかって……話し声が聞こえたんです」
 そう言って、桃枝と視線を交わらせた。ふたりはなにかを思案するように幾度かうなずき合った。唇がいくつかの言葉を形作るように動くが、迷いがあるのか声にならない。時折送られる視線から、何かを切り出したいのだと気づいた未来は、どうしたの、と先をうながした。
 ふたりは覚悟を決めたように顔を上げる。
「あの……あなたたちの探している人は……」
「……カサネさんは、東の山に」
「桃枝姉ちゃん、言っちゃ駄目だよ!」
 子どもの鋭い声に、桃枝は肩をびくりと震わせて口元をおさえた。
「篠枝おばさんや母ちゃんたちに折檻されるよ、やめなよ!」
「だ……だけど、私たち……」
 困ったように視線を落とすふたりに、廉が優しく声をかける。
「なにか教えようとしてくれているみたいだけど、ぼくら余所者のために親の言いつけを破ることはないよ」
「えっ?」
「ぼくらはもう、物の怪の子に関わるつもりはないから。そうだよね?」
 廉はきっぱりと言うと、未来と凛を見た。
 自分たちはあくまでも余所者。団長や一座に迷惑がかかる――廉が先ほど告げた言葉はもっともだ。だが、感情面での納得が追いつかない。未来は言葉を発せず視線を彷徨わせ、凛も苦い顔で黙り込んだ。
「もうこの話はしないよ。悪かったね」
 廉の言葉を聞いた唄枝と桃枝は、目を見開き、次いで哀しそうに目を伏せた。
「……そう……なんですか?」
 切なげな、消え入りそうな声が返される。関わりを否定することで安心させるつもりだった廉は、思わぬ反応に目を瞬き、戸惑いの表情を浮かべた。
「え、えっと……おいらたち、そろそろ帰るね」
 微妙な空気の沈黙に耐えかねたのか、子どもたちは、居心地悪そうに地面の独楽をかきあつめて、近くの家屋に走り去っていった。その間も、唄枝と桃枝はまだ悲しげに地面を見つめるばかりだ。
 唄枝と桃枝の先ほどの反応。そして、発言。
 それはまるで、物の怪の子に関わってほしいとでも言いたげだった。
 未来は、次に何を言おうかと思案ながら視線を横に流した。凛は片眉を寄せ、腕を組んでいる。廉も未来と同じように、言葉を捜しているようだった。
 どうしようか、と考える未来たちの耳に、
「唄枝、桃枝。そんなところでなにを?」
 先ほど聞いた硬い声が届いた。全員の視線が声の主に向かう。広場で籠を下ろしたらしい篠枝が、こちらに向かって歩いてきていた。
「あ、あの……畑を耕し終えたので、散歩を……」
 唄枝と桃枝は、萎縮しきった表情を浮かべて、か細い声で答える。
「通りがかりに挨拶してくれたので、少し世間話をしていました」
 未来と凛が口を開くと面倒だと思った廉が、ふたりの前に立ち、いち早く言葉を発した。
「先ほどはすみませんでした。村の決まりごとや定めを尊重せず無礼な発言をしたこと、どうかお許しください」
 廉が頭を垂れると、篠枝は瞬きをいくつかした後、ふっと息をつき、にっこりと微笑んだ。
「わかってくれたならいいのよ。さ、唄枝、桃枝。帰りましょう。夕餉の支度をしなくては」
「あ……」
 名を呼ばれた唄枝と桃枝は、すがるような目線を未来に向けた。なにか大切なことを伝えたいのだと、その視線から感じ取れる。しかし、篠枝がいるため互いに口を開けない。
 未来は歯がゆい気持ちを抱えながら、ふたりの目線をただ受け止めることしかできなかった。
「じゃあ、失礼するわ」
 篠枝は視線を割るように間に入り、娘たちの手を引いて歩き出した。

 残された3人は、顔を見合わせてため息をつく。
 長い沈黙のあと、いまだ腕を組んだままの凛が口を開いた。
「あの子たち、物の怪についてなにか言おうとしてたよね? せっかく向こうから話そうとしてくれたんだから、聞けばよかったんじゃないの?」
「聞いてしまったら、またややこしくなるだろ?」
 廉がかぶりを振って両手を広げる。
「未来姉と凛が、一度突っ込んだ首を出すわけがないじゃないか。それなら、突っ込む前に引っ張っておこうと思ったんだよ」
「失礼ね! 突っ込むだの引っ張るだの、人を物みたいに!」
 声を跳ね上げて文句を言う凛の横で、篠枝が去っていった方向を見つめ続けていた未来がぽつりと呟いた。
「……カサネ……」
 その言葉に、凛が反応して振り返る。
「それ、あの子たちが言ってた名前ね」
「うん」
 去り際の唄枝と桃枝の瞳を思い出しながら、未来は軽く俯いた。
「……あの子たち、なにを伝えたかったんだろう」
 おそらくは居場所を教えてくれようとした唄枝と桃枝。彼女たちが、余所者の自分たちに声をかけた理由が気になって仕方がない。
「未来姉、だめだよ」
 そんな未来の思考を断ち切るように、廉が未来の肩を叩いた。
「篠枝さんが言ってたろ。このことはもう忘れよう。きっとぼくらにはわからない深い事情があるんだ。謝ることができないのは残念だけど、これから世話になる村の人に不快な思いをさせてまで、すべきことじゃない」
「……。うん……」
 未来はしょんぼりと肩を落とした。
 どこからともなく薪の燃える匂いが漂ってくる。見上げれば、空は徐々に赤く染まりつつあった。
「さあ、帰ろう。そろそろ海都団長たちも戻るだろうし、夕餉の支度を手伝わないと」
 廉は、重くなった空気を切り替えるように言うと、宿に向かって歩き始めた。凛と未来もその後を追いかけて足を踏み出す。
「ねえ廉くん、このこと、海都兄に報告すべきだと思う?」
 歩きながら未来がたずねると、廉はうーんと唸りながら軽く首をひねった。
「一応報告はしたほうがいいと思うけど……どうだろう」
「篠枝って人の耳に入ると厄介だし、黙ってた方がいいんじゃないの?」
 篠枝を気に入らない様子の凛は、投げやりな口調でそう言って、頭の後ろで両手を組んだ。
「そうだな……他言してほしくなさそうだったし、黙っておいたほうが……。いや、まったく報告しないっていうのも……でも団長は忙しいだろうし」
 廉はぶつぶつと呟きながら思案を廻らせる。
「物の怪について聞かれたら答える、聞かれなければ答えない、でいいでしょ。ねえ、未来」
「うん、それがいいと思う」
 凛の提案に、未来は肩を落としたまま、浮かない顔で同意した。ふたりの意見が一致したことに廉も納得し、そうしようかと頷いた。


 宿に戻ると、ちょうど海都たちが桜深町から戻ってきたところだった。未来たちが歩いてくるのを見つけた芽衣は、腕を振って笑顔で告げる。
「ただいま! 巡業は明日からになったわよ。朝から通し稽古、昼から予行演習、本公演は夕方から。以降は1日3回公演。忙しくなるわよ」
「あ……うん」
「なによ未来、その気のない返事。昨日はあんなに張り切ってたのに」
「そ、そんなことないよ」
 怪訝な顔をして未来を覗き込もうとする芽衣の前に、
「ぼくら3人で散歩してたんだけど、あちこち歩いてたら疲れちゃって」
 廉が笑顔で体を滑り込ませた。未来は咄嗟の嘘がつけない性質なので、口を滑らせないように気を遣っての行動だ。
「それより芽衣姉、これ村の人にもらったんだよ。夕餉の一品にどうぞって」
 廉が腰に下げた南京を芽衣の手に押し付ける。南京が好物の芽衣は、目を見開いて喜んだ。
「あらすごい、大きな南京! やっぱりこの村の人って親切なのねえ。さっそく煮付けにしましょう。みんな、手伝ってね!」
「はーい」
 未来たちは素直に頷き、雪駄を脱いで宿に上がった。台所に向かう途中、凛が未来の袖を軽く引き、こそっと耳打ちした。
「未来、顔、顔」
「えっ、なに、なにかついてる?」
 頬に指先を這わせる未来に、凛は肩をすくめ、「そうじゃなくて、笑顔忘れてる。不自然よ」といいながら口角を指差した。
「気付かれると面倒でしょ。いつも通り、いつも通り」
「うん、そうだね」
 未来は頷くと、懐から取り出した腰紐でたすきがけをしながら、台所に向かい歩き出す。そして、硬い南京と格闘している芽衣を手伝うため、凛とともに駆け寄っていった。



 夜が更けたころ、海都は定吉の家を訪れた。酒を酌み交わそうと誘いを受けたのだ。海都の羽振りの良さに感動した定吉は、どうやら海都をずいぶん気に入ったらしい。
 海都は常より、宿や劇場への支払い額をやや上乗せして渡すことにしている。荘介の残した言葉、「金や恩は強みになる、一座を守る手段のひとつ」を信じてのことだ。
 最初からある程度の金を積んでおけば、確かに悪いことにはならないと、ここ2年の間に海都は学んでいた。むろん、火神村への心づけも忘れはしない。
「定吉殿。伝楽座の海都です」
 扉を叩くと、定吉と満面の笑みで海都を出迎えた。
「お疲れのところ、無理にお誘いして悪かったですな」
「いえ、嬉しく思っております。こちら、前巡業地の銘菓です。よろしければ」
 日持ちのする干菓子を手渡すと、定吉は「若いのに気が利きなさる」と笑みを深めた。
 囲炉裏の前に腰を下ろすよう促され、ひとつ礼をしてから正座する。定吉は斜め横に腰を下ろした。
「改めて、ようこそお越しくださいました」
 定吉が差し出した八勺枡を受け取る。そこにはなみなみと清酒が注がれていた。折敷には、定吉の妻が作った肴がずらりと並んでいる。
「こちらこそ、長い期間お世話になります。初日から親切にしていただき、感謝しております」
「村の者はみな気がいいのでね。みなさんの役に立てるのが嬉しいようで」
「みな長旅で疲れておりましたから、非常に助かりました」
「それはよかった。『やますずめ』での公演はいつから始まるのですかな?」
「明日からになります。役者と裏方は桜深町で宿をとる日もあるでしょうが、舞台に立てぬ乳飲み子と幼子、その母親は木賃宿に残ります」
 海都が答えると、定吉はなるほどと笑顔で頷き、酒を一口すすった。
「薪は毎朝届けますので、他にご入用のものがあればお申し付けください。特に村で採れる食材は自慢の逸品ですからな」
「ええ、昨夜の食事も非常に美味で、感動いたしました。この酒もすっきりとして飲みやすくいい味ですね、地酒ですか?」
「そうですよ。気に入っていただけましたか?」
 海都が頷くと、定吉は満面の笑みを浮かべて2杯目をすすめてきた。海都は礼を言って枡を差し出した。
「私は、ここから湖を見ながら酒を飲むのが好きでね」
 定吉は自分の枡にも酒を注ぎ、視線を縁側に滑らせた。海都も定吉の視線を追って外を見る。
 半分明けられた障子の隙間から見えるのは、美しい湖だった。凪いだ湖面に月と雲が移りこみ、なんとも幻想的な雰囲気をかもし出している。
「我が村自慢の絶景です。美しいでしょう」
「ええ。10年前にも思いましたが、見事な湖ですね。それに、その隣の御神木も変わらず立派であられる」
 湖面のそばに聳え立つ大きな木が、風に揺れてさわさわと音を立てている。静かな夜に響くその音は、心地よく海都の耳を打った。
「……そういえば、湖と御神木には、紙垂がかけられているようですが」
 風に揺れる白い奉書紙に気づいた海都が問うと、定吉は箸を置いてこくりと頷いた。
「水鏡湖と御神木、そして火煌山には神が宿っている。神事の際以外は、おいそれと立ち入ってはならないのです」
「神事……ですか」
「災厄を鎮めるため、神に供物を捧げる儀式のことですよ」
「災厄?」
「ええ。30年前、火煌山が噴火しましてね……」
 定吉は瞳を閉じ、ひとつ息をつくと、ゆっくりと語り出した。

 火煌山は、火神村のほど近くにある活火山である。
 火煌山、水鏡湖、御神木。この3つには語り継がれる伝説があった。いわく、「火煌山に住まいし火の神の怒りを鎮めしとき、水鏡湖に穢れた血の者を捧げ御神木に祈るべし」――いわゆる人身御供の伝説である。
 30年前のある日、火煌山が噴火し、噴出物が火神村を襲った。
 村人たちは火の神の伝説に従い、水鏡湖に人身御供を捧げることに決めた。そうして、村の中で最も穢れた血を持つ者――物の怪の女が生贄として選ばれることとなった。
 当時の村長、定吉の父が御神木の前で祝詞を捧げる中、物の怪の女は重石を足に提げ、湖に身を投げた。すると、それまで轟音を上げ噴火していた火煌山の怒りが徐々に鎮まり、土石流や溶岩流出の被害なく収束したという。
 住人にひとりも死傷者は出ず、降灰による農作物の被害程度にとどまったのは、まさに伝説に語り継がれる奇跡そのものだった――

「――なんとも言えぬ光景でした。これぞ、真なる奇跡だと感動したものです」
 恍惚とした顔で語る定吉の顔を見つめ、海都はわずかに眉をひそめる。
 現実的にものを見る海都には、にわかに信じがたい話ではあった。だが、心酔しきった定吉の表情を見るに、冗談などではなく実際に起こったことなのだろう。
 薄ら寒さを感じると同時に、海都の頭にひとつの恐ろしい疑問が浮かんだ。黙り込む海都に、定吉はにこやかにたずねてくる。
「どうかされましたか?」
 定吉の気を悪くしないようにと、海都は言葉を選びながら問いかけた。
「……無礼を承知でお尋ねします。滞在中に噴火する可能性などは……」
 海都の問いに、定吉は笑顔のまま「大丈夫ですよ」と言った。
「耳を澄ましてごらんなさい、とても静かでしょう。活火山の噴火の前兆として特徴的なのは、地鳴りや地震の頻発と言われておりますが、そのいずれも起きていない。今は火の神がお休みになられているのですよ。30年前の生贄に満足されているのでしょう」
「そうですか……」
 定吉の言葉に、とりあえずは胸を撫で下ろす。
「……また次に災厄が起きれば、生贄を捧げるのですか?」
 海都の問いかけに、定吉は至極当然と言った口調で「ええ」と答えた。
「災厄が起きたときにはもちろん取り急ぎ神事を行いますが、人身御供の儀式自体は、何もなくとも35年おきに行っております」
「……何もなくとも、ですか?」
「神事の巻物に書かれているのです。火の神には、35年にひとりの供物……穢れ持つ者、忌子を捧げるようにと。そうすることで、怒りを未然に防ぎ、村の平穏を保てるのです。次の儀式、5年後の対象者ももう決まっております」
 行灯に照らされた定吉の笑みは、相変わらず人の良い柔らかなものであったが、その口から紡がれたのは恐ろしい事実だった。火山が噴火したときのみならず、常から生贄を捧げることで、この村は平穏を保っているのだ。
 忌子とは、新月の夜に産まれた赤子をさす。光のない夜に産まれた者は、運命に見放された穢れた血の者という説があり、ほかの命よりも軽んじられると、いつか書籍で読んだことがあった。
 生まれながらにして人身御供の定めを課せられるとは残酷な話だ。そう思いながら、海都はゆっくりと、湖に目を向ける。あの静かな湖面の下に、たくさんの命が眠っているのだと思うと、背筋に冷たいものが駆け上がってくるようだ。かすかに肩を震わせながら、酒を口に含む。
 そういえば、先ほどの話の中で、ひとつ引っかかるところがあった。
「ところで30年前に捧げられた方は、忌子ではなく物の怪……とのことですが?」
 それを口にしたときの定吉の表情はいたって真剣だったが、物の怪や妖怪の類を信じていない海都にとっては夢物語のように感じたのだ。
「海都殿は、物の怪や妖怪は信じておられないのですかな」
「……すみません、そういった類の想像が及ばず」
「いえ、普通はそうでしょう。……ですが」
 定吉は昔を懐かしむように瞳を細めると、大きく頷き、酒をあおった。
「あれは確かに人ならざる者――物の怪だったのです。自分では300年ほど生きていると言っておった」
「300年!?」
 現実味のない定吉の言葉に、海都は思わず声を強めて聞き返す。
「信じられないのも無理はありません。私も、最初は信じられなかった」
 定吉は海都の反応に苦笑を浮かべると、湖を見ながら話を続けた。
「女は、これまで随分迫害されてきたようでね。以前住んでいた村でひとりの人間の男性と恋に落ち結婚したが、夫は早々に原因不明の病で死んでしまった。夫殺しの疑いをかけられ、処刑されるすんでの所で命からがら逃げ出し、生まれたばかりの娘ともども、火神村に助けを求めて転がり込んだ……」
 定吉はそこで言葉を止めて、ふうとひとつ息をついた。酒を口に含んでゆっくりと飲み下し、言葉を続ける。
「村長だった父は、村の片隅で誰の邪魔にもならぬよう暮らすならば……と、彼女を受け入れることにしたのです。当時、村に忌子が存在しなかったため、非常に都合がよかった。それでなくとも、妖怪や物の怪の血は忌子にも勝る穢れをはらみますからね。これで次の儀式を滞りなく行えると、みな胸を撫で下ろしたものです」
 ひどい――海都は、あやうく口をついて出そうになった言葉を飲み込んだ。
 物の怪がどのような性格、人柄であったかは知る由もないが、聞き及ぶに壮絶な人生を送ってきたのだろう。その最期が人柱とは、なんとも救いのない話だ。
「おっと……失礼、話が過ぎましたか。気分が良いもので、酒のまわりが早くなったのかもしれませんな」
 軽く眉を寄せて考えに沈む海都に、定吉は苦笑を浮かべた。そして、
「とまれ、今現在に関しましては、物の怪の忘れ形見がおりますし、忌子もおりますから、万が一の事態にもご安心ください」
 明るい声音で告げる。どうやら、海都が噴火を不安に思い黙り込んでいると捉えたらしい。海都は曖昧な返事をして、形だけ笑ってみせた。
 定吉はなおも語った。自分たち人間も、自然の一部。自然に住まう神が望むものを捧げることで、自然から恩恵を受けられる、そういうものなのだ、と。
 ――果たして、そうだろうか。それはひどく一方的な理論ではないだろうか。忌子や穢れた血の定義なども、おそらくは人間が勝手に定めたものだ。
 海都は心の中で思ったが、口にはしない。地域や集落によってさまざまな文化や風習、生き方や掟があるのだ。その地に生きる人々が信じるものに、第三者が疑問を投げかけるなどできない。ましてや否定など、できるはずもない。
 海都は愛想笑いを顔に貼り付け、肴が空になるまで、定吉が語る村の自慢話に相槌を打ち続けた。
 心の底に、村に対する不安が芽生えたが、それを表には出さずに。
 
【→第2章】 【↑上へ戻る】