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第4章
「私、カサネと友達になりたい」
 翌日、朝起きてすぐ、宿の縁側に呼び出されての言葉に、凛と廉は軽く目を見張った。
 発言の主、未来の目元は赤い。昨晩ほとんど眠っていないのが見て取れる。
 未来は詳しく話すため、一歩前に出た。他の団員達に話を聞かれぬよう、距離をつめたのだ。察した凛と廉も一歩前に出て、3人は頭をつき合わせた。
「次の巡業は何年先になるかわからないけど……またここに戻ってきたとき、会いにくるって約束したい。次に会ったとき、また一緒に歌おうって」
 未来と同じく寝不足の色を顔に浮かべた凛は、寝癖ではねた前髪を指で押さえながら「なるほど」と口を開いた。
「別れても離れても、ずっと友達だってことね」
 未来は深く頷いて言葉を続ける。
「うん。それに、今日で会うのは最後になるとしても……できるだけ彼女と仲良くなりたいの」
「仲良くなったら、別れがつらくなるんじゃないか?」
 廉が口を挟むが、未来は力強く首を左右に振った。
「仲良くなるから絆が深まって、次に会うときの楽しみが増すと思うんだ。思い出があったら、再会したとき話が弾むでしょ?」
「深雪さんみたいに?」
 凛が問い返すと、未来が「そう」と手を鳴らした。
 深雪とは、前の巡業地で起きた恋愛騒動の当事者のひとりである。未来と凛は、恋愛を手助けするため深雪と関わるうちに仲良くなり、別れ際には涙で再会を誓い合うほどの親友になった。次に会うときは、きっと思い出話で盛り上がるだろうし、ますます絆が深くなるはずだ。そういう関係を、未来はカサネとも築きたいと思っていた。
「交わした約束と思い出が、カサネの中でひとつの希望になったらいいな、……なんて、ちょっと傲慢かな?」
 苦笑を浮かべる未来の肩を、凛が軽く叩いた。
「カサネさんを見る未来の目、未来を見るカサネさんの目、どっちも同じだったよ。相手のことを大事に思ってるの、わかる。きっと思いは伝わるよ」
「ありがとう、凛。……廉くん、それでいいかな」
 凛から廉に視線を移し、未来がたずねる。廉は目を伏せ、ゆっくりと首を縦に振った。
 昨夜、カサネに別れを告げるべきだと提案したものの、冷たく切り離すことになれば、彼女を深く傷つけてしまうのではないかと彼は懸念していた。未来の言う別れの挨拶ならば、わだかまりが残らないだろう。
「未来姉の気持ちはわかった。……一応、ぼくもついていくけどいいかい」
 廉の発言の半分は監視をかねて、あと半分は自分もカサネに別れを告げるためだ。
「あっ、あたしも。カサネさんに挨拶したいし」
 廉の言葉に、凛が小さく手を上げる。未来はふたりの顔を見ながら、もちろんと大きく頷いた。
「じゃあ、いつごろカサネの家に向かおう。夕方からは明日の舞台の打ち合わせがあるだろうし……」
 未来が言ったそのとき、海都と芽衣が宿の扉から姿を現した。
「あなたたち、そんなところでなにしてるの。朝餉もまだなんでしょ?」
 縁側にいる3人に気づいた芽衣が、軽く首を傾げて問いかけてくる。慌ててつき合わせた頭を離した3人は、あははと笑って誤魔化した。
「め、芽衣姉たちこそ、こんな早くからどこに行くの?」
 海都と芽衣はきちんとした外出着を身にまとっていた。休日の装いではないことに気づき、未来が問いかける。
「桜深町まで、ちょっとね」
「桜深町? 今日は舞台、お休みなのに?」
「詳しい話は帰ってきてから。昼ごろには戻るから、昼餉の準備お願いね」
 含みのある言い方をして、ふたりは連れたって村の入り口を目指し歩いていった。去って行くふたつの背中を見つめながら、ぽつりと凛が呟いた。
「どうしたんだろ。……なにかあったのかな」
 凛だけではなく未来も廉も、海都と芽衣の表情がいつになく引き締まっていることに気付いていた。『詳しい話』の内容は皆目見当がつかないが、一座や舞台に関わる大切な話なのかもしれない。
「……ぼくらがいくら推測しても、答えは出ないよ。団長と芽衣姉が帰ってくるのを待つしかないな」
 廉が不安を振り払うように呟き、未来と廉もそれに同意する。海都たちの背中はもう見えなくなっていた。
「そんなことより、団長たちは昼ごろに戻ると言ってたわよね。彼女の家に向かうなら、今のうちじゃない?」
 凛が太陽の位置を確認しながら囁く。昼から話があるとすれば、凛の言うとおり朝の間しか時間がない。それも、昼餉の準備までに戻らなければならない。
 未来たちは顔を見合わせると、朝餉をとるため食事場へ急いだ。

 手早く朝食を済ませた3人は、すぐに山に向かうことにした。
 幸い海都と芽衣が場を外しているので、団員たちの目を盗んで抜け出すのはたやすかった。村人たちの目をかいくぐり、木々の間に足を踏み入れる。
 3度目ということもあり、未来は迷うことなくカサネの家への道を辿っていった。その後ろを凛、廉が続く。
 道の半ばまできたころ、未来は気づいた。カサネの家の方向から微かに歌声が聞こえてくる。カサネの子守唄だ。
 もしかしたら、この間のように縁側に動物たちが集まっているかもしれない。未来たちは音を立てないよう、慎重に歩を進めた。

 カサネの家のすぐそばまでたどり着いた未来は、草をかきわけてそっと様子を見た。
 縁側に腰掛けたカサネの口元からは、例の子守唄が紡がれていた。彼女のそばには、未来の予想通り動物たちが集まっている。
 鹿の親子が甘えるように彼女に擦り寄り、うさぎたちはカサネの足元に座り彼女を見上げている。屋根に小鳥たちが並び、カラスも近くの樹の幹に止まっている。
 カサネは動物たちを愛しげに見つめ、微笑みながら歌い続けた。それに呼応するように、動物たちの瞳もやさしい光を宿す。それはひどく美しい光景だった。
 唄が終わり、カサネが立ち上がる。動物たちは名残惜しげに山へと帰っていった。
 最後の小鳥が飛び立ったのを見届けてから、未来たちは草むらから姿を現した。
「カサネ、おはよう」
 動物たちが去っていった木々の間を見つめていたカサネは、驚きに目を見開きながら振り返った。一瞬だけ警戒の色を見せたが、未来たちだと気づき、すぐに笑顔になる。
「……おはようございます。本当に今日もきてくださるなんて……嬉しいです」
 愛らしい笑顔を浮かべるその頬に、土が付着している。家の壁には鍬が立てかけられており、カサネは着物をたすきがけにしていた。どうやら畑を耕していたらしい。
 半分ほど耕された畑の近くに、昨日踏みつけられた野菜の残骸がまとめられている。それを目にした未来はひどく胸が痛んだが、今日は明るく別れるために来たのだと自分に言い聞かせ、笑顔を見せた。
「カサネ、顔に土がついてるよ。ほら」
 つとめて明るくいい、頬についた土を指先で払い落とす。カサネは恥ずかしそうに「ありがとうございます」と言いながらはにかんだ。
 初めてこの家を訪れたとき、あれだけ怯えていたというのに、今ではこうして心を許してくれていることが未来にはとても嬉しく感じられた。
 同時に、やはり胸が締め付けられる。
 本当ならば、もっと仲を深めたい。孤独に耐えて生きてきた彼女に、もっといろんなことを教えてあげたい。一緒に唄を歌って、手をとって歩いて、たくさん話がしたい。
 未来は自分がまだ子どもだという自覚がある。だが、この願いが我侭だとわからないほどの幼子ではない。
 胸に去来する気持ちをぐっとこらえて、一番大切な言葉を伝えるために口を開いた。
「あのね……カサネ。今日は大事なことを伝えにきたの」
 未来は左手を伸ばし、カサネの小さな右手をとった。
「大事なこと……ですか?」
 未来は大きく息を吸うと、小首を傾げるカサネに向かって大きな声で告げた。
「私はカサネと友達になりたい!」
 カサネは未来の声の大きさに驚き、その内容に再度驚いた。丸い瞳を殊更丸くし、口まで丸く開け、言葉も発せずにぽかんと未来を見つめる。
 未来はひとつ息をつくと、今度は声の調子を落としてゆっくりと語り始めた。
「私たちはまもなくこの地での巡業を終えて、次の巡業地に旅立つの。次の巡業地での舞台が終われば、その次の巡業地へ。そうして、全国をぐるりと回っていくんだ」
 未来は右腕を宙に持ち上げ、人差し指で地図を描きながら言葉を続ける。
「あなたとは離れてしまうけど、あなたと出会った日のこと、あなたと過ごした時間のことを私は忘れない。何年後になるかわからないけど、またここに戻ってくるまで……次にカサネに会える日まで、この胸のうちに大切にしまっておくよ」
 カサネの手を握る指先にぎゅっと力をこめる。まっすぐに視線を合わせながら、未来は言葉を続けた。
「友達同士ってね、ずっとずっと心で繋がってるの。離れていても、どこにいても。たとえばあなたが唄を歌うとき、私もどこかであなたが教えてくれた唄を歌ってる。そう思ったら、元気が出てくると思うんだ。どこかで友達が頑張っていると思ったら、頑張れるもの。……だから、あなたと友達になりたい」
「未来……」
 カサネの見開かれた瞳が、だんだん細くなっていく。涙の膜がゆらゆらと揺れ、瞳の淵で輝いた。
「……ともだち……」
 握り締めてくる未来の手を握り返し、カサネは噛みしめるように呟いた。
「素敵です。……わたしも、未来と友達になりたいです」
「なろうよ! 友達同士に!」
「はい……!」
 未来は一度カサネの手を離し、今度は右手を差し出した。改めて右手同士を重ね合わせ、握手をかわす。
「友達の証だよ。このぬくもり、忘れないで。私も、忘れないから」
「はい。ずっと忘れません」
 カサネは指先で涙をぬぐいながら、綺麗な笑顔を見せた。嬉しそうに笑う姿に、未来の瞳も思わず潤む。ひときわ強く握り合ったあと、ふたりは手を離した。
 そしてカサネは、未来の後ろに立つ凛と廉に視線を向け、おずおずと口を開いた。
「あの……凛さん、廉さん」
 名を呼ばれた凛と廉は、首を傾げながらカサネに近づいた。カサネは目元を赤くしたままふたりを見上げ、おずおずとふたりに両手を差し出した。
「……あ、あなたたちとも、友達に、なりたいです……」
 途切れ途切れに、だがはっきり告げる。
 凛と廉は、あれだけ遠慮がちだったカサネが、みずから手を伸ばしたことに驚いていた。よほど勇気を振り絞っているのだろう、カサネの両の手は小刻みに震えている。緊張と恥ずかしさからか、目元だけでなく頬までほんのり赤く染まっていた。
「こちらこそお願いします! 友達になろう、カサネさん!」
 凛は喜んでカサネの手をとった。カサネは「よろしくお願いします」と顔をほころばせる。
「……ぼくも、よろしく。カサネさん」
 廉は気恥ずかしそうに頭をかきながら、そっとカサネの手をとった。カサネはますます嬉しそうに破顔すると、凛と廉の顔を交互に見ながら「ありがとうございます」と告げた。
 握手を離したあと、廉は少し迷ってから腰に下げた巾着を手に取った。そして中から笹の葉に包まれた握り飯を取り出す。今日の朝食で出されたものを、こっそりと忍ばせてきたのだ。
「これ、よかったら。……昨日、畑を荒らされていたから、食べるものがないかと思って」
 言いながら、カサネの手にそれを握らせた。カサネは驚きに呼吸を止めたまま目を数度瞬いたのち、ぱあっと顔を輝かせた。
「あ、ありがとうございます……!」
 あまりに純粋な笑顔を向けられ、廉は思わずしどろもどろになりながら「いや」と短く返した。初対面のときにとったひどい態度を思い出し、胸が痛んだのだ。
 これ以上物の怪に関わってはならないという根本的な思いは変わらないし、海都に隠し事をしている後ろめたさが胸のうちに渦巻いている。だが、カサネに喜んでほしいのは事実だったし、友達になりたいのも事実だ。複雑な気持ちを悟られぬよう、廉は口元を右手で隠した。
「あ、先、こされた。同じこと考えてたなんてね〜」
 そんな廉を横目で見ながら、凛は身八つ口をごそごそと探った。取り出したのは、同じく笹の葉にくるまれた握り飯だ。
「実は私も……ほら」
 凛のさらに隣で、未来もまた握り飯を取り出していた。未来と凛と廉は顔を見合わせると、思わず苦笑を浮かべた。みんな同じことを考えていたのだ。
「カサネ、たくさんになっちゃったけど、よかったら食べて」
 3つの握り飯を、両の手のひらいっぱいに乗せたカサネは、ふたたび瞳を潤ませた。
「みなさん……ありがとうございます」
 言いながら、カサネは深々と頭を下げる。
「あなたたちがくれた、この気持ち、思い、そして言葉は……きっとまた新しい一歩になります。……本当にありがとうございます」
「カサネ、そんなに頭を下げたらおむすびが転がり落ちちゃうよ」
 小さな手のひらで支えるには大きな握り飯が、体勢が変わったことで今にも胸元から零れ落ちそうになっている。未来は顔を上げるようにうながした。
 未来の言葉を受けたカサネは、慌てて顔を上げ、握り飯を大事に抱えなおした。あたふたと動くカサネはまるで幼子のようで愛らしく、未来は思わず笑ってしまった。
 未来は、壁に立てかけられた鍬を手に取りながら、
「カサネ、畑を耕すの手伝うよ。あなたはそれを食べて」
 そう告げる。カサネは驚き、またしても慌てた表情を浮かべた。
「そ、そんなわけには……」
「いいのいいの、なにも食べてないんでしょ?」
 申し訳なさそうにするカサネの肩を凛が軽くつかんだ。カサネは誘導されるまま縁側に腰を下ろす。
「友達ってね、こういうとき頼るものなんだよ。だから気にしないで甘えて」
「……そ、そうなんですか……?」
「そうそう!」
 にっこり笑って告げる未来に、カサネは一応納得したようだ。「なら、よろしくお願いします」と頭を下げた。
 早速畑に向かう未来に続いて、凛と廉も近くにあった鋤を手に取り歩き出した。
 近くで見ると、畑はひどい有様だった。カサネが耕した半分は綺麗に整地されているが、まだ手入れされていない部分には、拾い切れなかったであろう南京や胡瓜、小金瓜のかけらが散らばっている。
 かつてそこに根ざしていただろう茎は容赦なく折られ、根ごと掘り返されていた。カサネの食料を奪い心を傷つける、それだけのために荒らしたあとだ。
 きちんと元通りにしようと胸に誓い、未来は鍬をふるいだす。廉も同じように土を耕し始めた。凛は鋤を使って、ぐちゃぐちゃになった野菜を埋めるための穴を掘る。
 農作業の経験があまりない3人の手つきは危なっかしいが、さすがにカサネがひとりで行うよりもはるかに早く土がならされていった。
 カサネは3人が動く姿を目で追いながら、濡れた手巾で手の土を落とすと、握り飯をひとつ開いた。ふわりと白米の甘い香りが漂う。
「……いただきます」
 ちいさく呟き、握り飯をかじる。ほどよく塩気のきいたふっくらとした米の味が口の中いっぱいに広がり、カサネは思わず頬をゆるめた。自分で炊く玄米とは違い、優しくあたたかい味がする。
「すごくおいしいです……」
 素直に感想を口にする。これほどおいしい食事は、母の手料理を最後に口にしたとき以来だった。
「一座のおかみさんが握ってくれたんだよ。塩加減が絶妙でしょう」
 未来の言葉に深く頷きながら、カサネは夢中で握り飯を頬張った。一口一口時間をかけて、ゆっくりと噛みしめる。
 握り飯が半分ほどなくなったあたりで、カサネはようやく自分がずいぶんと腹を空かせていたことに気づいた。
 食糧が尽き、数ヶ月間なにも口にしなかった時期もあったが、やせ細っただけで命を落とすまでには至らなかった。治癒能力が関係しているのか、どれだけ空腹状態が続いても、おそらくは死ぬことのない体なのだろう。
 しかし、きちんと食事をとらなければ力が沸いてこない。仕事を続けるためにも、畑を耕し次の食糧を得るためにも、生きるためには食べねばならないのだ。
 未来たちがくれた握り飯を口にするたびに、腹の底からじわじわと元気がわきあがってくる。握り飯そのものの旨さもそうだが、未来や凛、廉の気遣いが、殊更おいしく感じさせていた。
 握り飯を食べ終わり、カサネは息をついた。体も心も満たされた気分になり、思わずほっこりとしたため息が漏れる。
「ごちそうさまでした」
 ぴたりと両手を重ねて、深々とお辞儀をした後、残った2つの握り飯を持って立ち上がる。昼と夜にそれぞれ食べようと、カサネは大事に抱えて囲炉裏のそばにそっと置いた。
 そして顔をあげ、機織の上に置いた袋を手に取り、きびすを返して縁側に向かった。

 カサネが家から出てくると、3人がちょうど畑を耕し終わったところだった。カサネは綺麗な川の水が入った桶を3人の元に運び、手を洗うよう声をかけた。
 程よく疲労した指先に、冷たい水がじんわりと染みる。未来たちは綺麗に手を洗い終えると、額の汗を拭いながら一息ついた。
「ありがとうございます、本当に助かりました」
「どういたしまして。慣れてないから、あまり上手には耕せてないかもしれないけど」
「いえ。充分きれいにしていただきました。これで新しい種が植えられます」
 ぺこりと頭を下げるカサネに、3人も笑顔を向ける。
「……これを……。あの、いただきものなのですが、よかったら」
 カサネは手にした袋から懐紙の包みを取り出し、開いた。ころころとした白い玉が懐紙の上で揺れている。
「あっ、砂糖玉だ」
「これは、さとうだま、と言うのですか?」
「うん、そうだよ」
 カサネは砂糖玉と未来たちの顔を交互に見ると、「村の少女たちに、いただいたものなんです」と言い、
「いつ食べようか、迷っていたんですが、今がそのときかな、と思って。よかったら」
 3人の目の前に差し出した。
「そんな大事なもの、ぼくたちが貰っていいの?」
 廉が少し困ったように問いかける。カサネは大きくうなずくと
「分け合うとおいしくなるということを、あなたたちが教えてくれましたから……。だから、食べてもらえると嬉しいです」
 握り飯のお礼も兼ねて、ということらしい。未来たちは頷きあい、じゃあいただきますと指を伸ばした。
 畑仕事の後の身体に、ほどよい甘さが染み渡る。ほろっとほどける甘い味に、3人は頬をおさえて破顔した。3人の様子を嬉しそうに見ながら、カサネもまた砂糖玉を口に入れた。じんわりと解けていく甘さが、カサネの心を満たしていく。
「一緒に食べるとおいしいね」
 笑顔でそう言う未来に、カサネは大きくうなずいた。
 泣きながら食べたあの時とは、また違った味がした。それはとても優しく、ぬくもりを感じる甘さだった。

「ねえねえ、カサネさん。あっちに咲いてる花、綺麗だね」
 砂糖玉を食べながら、凛がそう言いながら、畑の一角を指差した。そこには赤い花が群れを成して咲いている。
「さっき穴を掘りながら、綺麗だなぁって思ってたんだ」
「……あれは、夢紡花(ゆめつむぎばな)といいます。この地方にしか咲かない花だそうです」
 カサネの説明を聞きながら、未来が花に歩み寄る。その花は、水鏡湖の湖岸に咲いていた花と同じもの。カサネの瞳を想起させ、未来の記憶を蘇らせた花だった。
「この花、夢紡花っていうんだ。素敵な名前だね」
「ええ。わたしも、あの花が大好きなんです。母の瞳の色に似ていますから……」
「カサネのお母さんの瞳も、カサネみたいな色だったの?」
「はい。わたしの瞳は母ゆずりです」
 丸い花弁は深みがありつつも透明感を感じる赤色だ。見れば見るほど、カサネの瞳と似ている。
「こっちの花も綺麗だね」
 近くに咲く青紫の花を指差し、廉が言う。
「それは紫瑠璃(むらさきるり)の花ですね。となりにある黄色の花は優菊(ゆうぎく)、そのとなりの桃色は恋更紗(こいさらさ)です」
 カサネは近くに咲く花の名前を口にしながら、小さな人差し指を動かした。凛や未来が他の花をさし名をたずねれば、よどみなく名前を返してくる。
「へえ、カサネ、よく知ってるね」
 未来が感心したように言うと、カサネは照れたように笑った。
「母からの受け売りです。母は、花が大好きでしたから、よく教えてもらっていました。おかげでわたしも、花が大好きになったんです。この山は春夏秋冬、たくさんの花が咲くんですよ」
 嬉しそうに笑いながら花を見つめるカサネの視線は、とても柔らかい。心から花が好きなのだと伝わってくる。
 未来はふと、カサネが織る布があれだけ美しい理由がわかった気がした。
 カサネは、この山に住む動物や植物を愛している。そして、花の美しさや川の流れ、風の爽やかさや空の高さを常に体で感じながら生きているのだろう。自然の中で磨き抜かれた感性で、布を彩っているのだ。
 カサネの機織の腕ならば、町や都で呉服屋の職につくこともできただろう。実際にあれほどの高額で取引されているのだから、もっと報酬を手にしていてもいいはずだ。だが村人たちのカサネの扱いを顧みれば、まっとうな報酬を貰えていないのは明らかだった。
 わずかに影を落とす未来のとなりで、凛とカサネの会話が弾んでいる。幼少時代から花が好きな凛は、カサネの知識に感動しているようだった。これから訪れる真夏に咲く花について、ふたりは熱心に話し合っていた。
「凛さんも花がお好きなんですね」
 カサネに言われ、凛は顔を紅潮させながら大きく頷く。
「うん、大好きだよ。花がたくさん載ってる本があたしの宝物なんだ」
「そうですか。それは素敵ですね」
「やっぱり自然に咲いている花は輝きが違うよね。この庭に咲いている花はみんな生き生きしていてすごく綺麗」
「きっと、カサネさんが愛情をこめて手入れしているからだろうね」
 盛り上がるふたりの会話を聞きながら、廉が相槌を打つ。3人の穏やかな会話と笑い声に、未来の沈んだ心もだんだんと浮上していった。
 せっかく明るく別れを告げようと決めたのだから、落ち込んだ顔なんてしてちゃ駄目! 未来は自分に言い聞かせながら、立ち上がった。
「花と言えば、はるか北の地にしか咲かない幸雪花(こうせっか)という花があるんだよ」
「こうせっか……ですか?」
「まるで雪のように白くて、見ているだけで穏やかな気持ちになれる、美しい花らしいの」
「そう、北の地の高山にしか咲かない可憐な花! 数年前に巡業で訪れたときは季節が合わずに見られなくて残念だったんだ〜」
 未来の言葉を聞き、凛が話に入ってくる。
「あまりにも繊細な花だから、大地から離れるとあっという間に枯れてしまう。指先で触れるだけで花弁が落ちてしまうくらい、はかない花なんだって。でもね、この花の花弁をひとつも落とさずに大切な人に届けることができれば、相手は誰よりも幸せになれるという言い伝えがあるんだよ」
「まあ……素敵な言い伝えですね」
「だから、冬の北の地では、幸雪花を運ぶ人が多く見られるらしいの。村の人も、町の人も、旅人も、みんな自分の大切な人を思い描きながら、大事に大事に運ぶんだって」
 未来と凛の言葉を、カサネは瞳を輝かせながら聞いている。
「だからね、カサネ。北の地を巡り、またここに帰って来るとき……私、持ってくる。あなたに幸雪花を届けるよ」
「ええっ!?」
 未来の言葉に驚いたのは凛だ。先ほど凛が口にしたように、幸雪花は非常に繊細なため、わずかな移動にすら堪えられずほとんどが散ってしまう。歩いて運ぶのすら困難なのだ。
 ここから北の地までは、相当の距離だ。間に他の巡業地も経由するのだから、少なくとも数年間枯らさずに幸雪花を育て続けなければならない。株から分けてもらったとしても、あまりにも無謀な計画だ。
 廉も同じことを考えながら未来を見た。未来は真剣そのものの顔をしている。本気で約束しているのだ。そんな無茶な口約束をして――思わず言いかけた唇が、ふと動きを止める。流した視線の先で、カサネがあまりにも嬉しそうに微笑んでいたからだ。未来が約束を持ちかけてくれたことを本当に喜んでいるのだろう。
「幸雪花……どんな美しい花なんでしょう。……わたし、見てみたいです……」
 赤い瞳を細めて、宙に視線を泳がせる。頭の中で花の色や形を思い描いているのだろう、うっとりとした表情を浮かべている。
 そんな彼女の顔を見ると、廉は何も言えなくなってしまった。凛も同じようで、危うく出かかった言葉を自分の手のひらで抑えている。
「未来、楽しみにしています。お願いします」
「うん、任せといて。気合いで運んでくるから! 約束ね!」
「はい……!」
 カサネは大きく首を縦にふった。
 自信たっぷりに胸を叩く未来の言葉に根拠などないが、絶対に届けてみせるという意思と誓いは、凛や廉にも伝わってきた。ふたりは苦笑を浮かべ、それぞれ片目を閉じながら告げる。
「あたしたちも協力するから、安心してね」
「未来姉はそそっかしいからさ」
 とたんに未来が眉を寄せて肩を怒らせ叫ぶ。
「ちょっとお! またそういうこと言う〜!」
「だって本当のことじゃない。未来ひとりだと、きっと1日ももたないわよ」
「ま、凛も大概落ち着きがないから、ぼくひとりで世話するのが一番安全かもしれないな」
「廉ーっ、あんたねえ、いちいち一言多いのよ!」
 わあわあと騒ぐ3人を、カサネは口元に指を当てくすくすと笑いながら見つめている。
 言葉と突っ込みの応酬は次第に笑いを含みはじめ、4人は互いの顔を見あうと、笑声をこぼした。
 無邪気に笑うカサネの赤い瞳を見ながら、未来はカサネと初めて出会ったときのことを思い出していた。
 恐怖と悲しみに彩られ、深い孤独に濡れていた瞳が、今は明るい光を宿し美しく輝いている。こうして真正面から言葉を受け止め、素直な笑顔を見せてくれるようになった。未来はそれを、心から嬉しく思う。
 柔らかな風が未来の頬を撫で、長い髪を揺らす。風に誘われ空を見上げれば、太陽が南に近づいていた。もう戻らなければならない時間だ。
 未来は、迫る別れの時間を憂えながらも、つとめて笑顔を浮かべ、カサネに向き直った。
「カサネ、私たち、そろそろ戻らなきゃならないの」
「……はい」
「最後に、ひとつお願いがあるんだ。……あの唄を、もう一度一緒に歌いたい」
 未来の言葉を受けたカサネは顔を明るくすると、自らの胸に両手を添えた。
「ぜひ、お願いします。わたしも、歌いたいと思っていました」
「ありがとう、カサネ。じゃあ……いくよ」
 そしてふたりは、ゆっくりと歌い出した。向かい合い、互いの呼吸を探りながら拍子を合わせ、旋律をなぞっていく。
 未来は、唄に思いのすべてを乗せた。
 ――これは、あなたと私をつなぐ唄。あなたのことを思い出すとき、私はこの唄を歌うよ。
 ――私たちは友達だから、どこにいたって、ずっとつながってる。
 カサネの瞳をまっすぐに見つめながら、気持ちを込めて歌う。
 カサネもまた、未来の声なき言葉に応えるかのように、胸に当てた手をぎゅっと握り、瞳を閉じて声を深く長く伸ばした。
 カサネの想いが、心が、未来の胸に響く。一音一音を丁寧に紡ぎ、そっと寄り添うように、優しく包み込むように、大切に歌い上げる。
 最後の一音を名残惜しげに歌い終えたふたりは、そっと瞳を開いた。
「……ありがとう、カサネ」
「こちらこそ、ありがとうございました……未来。ほんとうに……楽しかったです」
 未来は胸にせりあがってくる寂しさをぐっとこらえながら、精一杯明るい声でカサネに告げる。
「次に会ったとき、また一緒に歌えるのを楽しみにしてるね!」
「はい」
 カサネは深々とうなずき、にっこりと笑ってみせた。
「……じゃあ、そろそろ行こうか」
 廉が、静かに別れのときを告げた。太陽はまもなく真南に到達する。未来と凛が頷き、3人が歩き出そうとしたそのとき、カサネが「あ」と声をあげた。
「どうしたの、カサネ」
「……すみません、ほんの少しだけ待ってもらえませんか」
 未来が問いかけると、カサネは慌ててそう言い、家の中に消えていった。
「どうしたんだろう?」
 顔を見合わせ首を傾げる3人の元に、カサネはすぐさま戻ってきた。小走りで駆け寄ると、
「これを、みなさんに渡したくて……」
 言いながら、手にしていたものをおずおずと差し出した。
 未来が受け取ったのはつまみ細工のかんざしだ。凛は帯飾り、廉は巾着をそれぞれ受け取る。
「……これって!」
 未来はすぐに気づいた。かんざしのつまみ細工に使われているのは、昨日泥を落とした着物――カサネの母の形見の着物だ。凛の帯飾りも、廉の巾着もそれぞれ着物の布を使って作られている。
「やはり元の形には戻せないようでしたから、昨晩、糸をほどいて作りました。母も、あなたたちが持ってくれるのを喜ぶと思って……」
 カサネの言葉を聞きながら、未来は手の中のかんざしを見つめた。
 かんざしにつけられた大きなつまみ細工は桃色でとても可愛らしい。ただ可愛いだけでなく、布の繊細な柄が優しさを醸し出しており、見ているだけで穏やかな気持ちになれる。
 凛の帯飾りには小さなつまみ細工が3つ並んでいた。未来のつまみ細工とは違い、黄色を基調とした部分を使用して作られている。快活な凛にぴったりの色合いだ。
 廉の巾着はほとんど無地の部分で作られていた。端の方にある不規則な流曲線が個性を感じさせる。物がよく入るようにまちがついており、カサネの気遣いが感じられた。
「嬉しいよ、カサネ! 本当に嬉しい! ありがとう!」
 未来は飛び上がって喜び、早速髪にかんざしを挿し、「似合うかな」と問いかける。カサネは笑顔で頷いた。
「とても似合っていますよ。未来には、桃色が合うと思ったんです」
 凛も同じように帯飾りをつけ、声を弾ませた。
「あたし、いままでいろんな帯飾りを見てきたけど、こんなに素敵な帯飾りは初めてだよ。色も形も大きさも、あたしの好みにぴったり! すっごく嬉しい! ありがとうカサネさん!」
 凛が動くたびに可憐に揺れるそれは、身につけることで一層鮮やかさ、華やかさを増した。
「ぼくは荷物が多いから助かるよ。たくさん物が入りそうだ。大事に使わせてもらうよ。カサネさん、ありがとう」
 廉もそう言い、腰に巾着を下げた。控えめな柄が、廉のまとう濃紺の着物によく似合っている。
 3人からお礼の言葉を向けられたカサネは、頬を赤く染めて「よかった」と微笑んだ。
「誰かにものを贈るのは初めてで、不安もあったのですが……気に入ってもらえたなら、嬉しいです」
「本当に気に入ったよ。ずっとずっと大事にする! カサネと……カサネのお母さんに、ありがとうだね!」
 未来がそう言うと、カサネは恥ずかしそうに笑ったのち、3人にまっすぐ向き直った。
 そして、深々と頭を下げる。
「……未来、凛さん、廉さん。ありがとうございました。親切にしていただいて、嬉しかったです。みなさんのおかげで、はじめての体験が、たくさんできました。本当に、本当に楽しかった……」
 そう言いながら顔を上げたカサネの瞳には涙の膜が張っている。今にもこぼれそうなそれをこらえながら、カサネは笑顔を作ってみせた。
「わたし、……生きていて、よかったです」
 噛みしめるように、しんみりと告げられた言葉。
 その響きの重さに、未来は思わずきゅっと下唇を食む。
「きっと、これからもっと、よかったと思うことが増えるよ!」
 じわじわと涙がにじみ視界がぼやけてくるが、未来もカサネに倣い、涙をこらえて笑ってみせた。悲しみに彩られた別れよりも、明るい言葉で締めくくりたかった。
「じゃあ……行くね」
「ありがとう、カサネさん」
「またね、カサネ!」
 廉、凛、未来は笑顔で手を振った。小さく手を振り返しながら、カサネも口を開いた。
「はい。……また、いつか」
 一呼吸置き、そして、
「待っています」
 はっきりと告げた。
 未来は何度もうなずき、「絶対だよ」ともう一度笑顔を見せる。
 名残惜しげに何度も振り返り、その都度手を振りながら、山道を目指す。
 カサネもまた、未来の姿が見えなくなるまでずっと手を振り続けた。

 カサネの姿が木々に紛れ見えなくなったとたん、未来の双眸から涙がぽろりとこぼれる。
 あたたかさと切なさと、いくばくかの悲しみ、そしてなにより寂しさで胸がぎゅっとつかまれたように苦しくなる。
 震える手でかんざしを抜き、胸元にしまいこむ。堂々とつけて帰れない後ろめたさが尚更つらかった。
 隣を歩く凛は未来の様子に気づき、その背にそっと手を添えた。その眉はさきほどまでと違い、哀しげに下がっている。ふたりの後ろを歩く廉も、小さな痛みを我慢するような表情を浮かべていた。
 3人は言葉なく、火神村へと下っていった。





 笑って別れると決めた。
 約束もした。
 次に会ったとき、きっと彼女は笑顔で再会を喜んでくれるだろう。
 ――だから、大丈夫だ。悲しむ必要はない。心配いらない。カサネはあれほど優しく心の清らかな人だから、いつかきっと村の人たちもわかってくれるはず。
 未来は自分に言い聞かせながら、昼餉の握り飯を作っていた。手を動かすたびに、カサネが嬉しそうに頬張っていた姿がちらつき、なんとも言えない気分になる。
 未来の隣で味噌汁を作る凛も、なにかを考えている風だった。豆腐を手のひらに乗せたまま、包丁を動かすこともせずにぼんやりとしている。
 しばらくの沈黙ののち、未来は小さくため息をついた。それに呼応するように凛もため息をつく。ふたりは同時に互いの顔を見た。
「あたしたち、たぶん、同じこと考えてるよね」
「そうだね」
「……綺麗にお別れしたと思うし、あれでよかったと思う。間違ってなかったよね」
 凛は言いながら、のろのろと豆腐に包丁を入れ始めた。
 考えるのをやめよう、と思うのに、同じことばかりぐるぐると頭の中を回る。
 カサネの言うように、村人たちがいつかカサネを受け入れ、必要とする日がくるかもしれない。しかしそれは、すぐに訪れるものではないだろうと未来は思う。その日がくるまで、カサネに対するいじめはきっとなくならないだろう、とも。
 それでもカサネは誰も恨まずにじっと耐えるのだろう。数年間、もしかしたなら十数年間会えないうちに、彼女がどれだけ傷つくのかと考えると、やはり胸が痛んで仕方がなかった。
「無茶だとは思うけど、いっそカサネを連れ出せたらな……」
 自棄になって呟く。すると凛は包丁を止め、わずかに身を乗り出した。
「確かに無茶だけど……それいいよ。あたし、賛成」
 未来の耳元に唇を寄せて、声をひそめて言葉を続けた。
「芽衣姉が言ってじゃない、機織師のことを村の人が隠してるって。あれって機織師がカサネだったから内緒にしたんでしょ?」
 凛の言葉に、未来ははっと息をのむ。
 カサネが例の機織師だとわかったら、芽衣と海都はどう思うだろうか。そして彼女がこの村で不当な扱いを受けていると知れば。
「……一座の団員として……迎え入れることも、もしかしたら……?」
 未来がぼそりと呟き、凛がうんうんと頷く。ふたりはしばらく顔を見合わせて考えをめぐらせたが、やがてはぁっと大きなため息をついて肩を落とした。
「やっぱり、無茶すぎるよね。海都兄に絶対怒られちゃうもん」
「その前に、廉が黙ってるわけないしねえ」
 諦めにも似た表情を浮かべながら、再び手を動かしはじめる。
 次に会える日を楽しみにしながら、カサネの日常が穏やかであるよう、好転しているよう祈る――それが自分たちにできる唯一のことだ。
「……幸雪花、絶対に届けなきゃね」
 凛が包丁を動かしながら呟く。
「うん。カサネに喜んでほしいから、頑張らなくちゃ。……それに、再会のときには私たちも大人になっているんだもの。もしかしたら、なにかいい方法を思いつくかもしれないし」
「うん、そうだよね」
 話しながら手を動かすふたりの後ろを通りがかった凛の母が、ぎょっと目を見開いて大きな声を上げた。
「凛ったら、豆腐切りすぎ! みじん切りになってる!」
「あっ、わ! ほんとだ!」
 凛は大慌てで包丁を持つ手を止めた。無意識で切るうちに、どんどん小さくなってしまった。麹と大差ない大きさになってしまった豆腐を、ぐらぐら煮立った鍋に放り込み、大慌てでかまどの火をとめる。
 凛の母は次に未来を見て、また大声を上げた。
「未来ちゃんも、そのおむすびとんでもない大きさよ!?」
「わ、わあ!? いつの間に!?」
 指摘された未来が、手にしている握り飯の大きさに気づいて大声を上げる。こちらも無意識で握っていたため、どんどん大きくなってしまっていた。鞠ほどの大きさになった握り飯を、凛の母は驚愕の目つきで見つめている。
「あなたたちどうしたの? ぼんやりしちゃって、らしくないわねえ」
 凛の母は首を傾げてたずねるが、未来と凛は苦笑を浮かべるだけでなにも答えられなかった。

 そのころ廉は、食事場でもくもくと配膳をしていた。
 台所で未来と芽衣が声をひそめながら話し込んでいることには気づいていた。おそらくはそれが、カサネに関する話題なのだろうと予測もついている。
 本来ならば話に割って入り、咎めるべきだろう。もうきちんと別れたのだから、これ以上彼女について談義するのは、やるせなさを増幅させるだけだからよせ、と。
 カサネを不憫に思う気持ちは、廉の中にも確かにある。彼女と過ごした時間を思い出すたびに、胸がちくりと痛む。
 未来たちもこの痛みを抱えているのだろう。それを逃すために、話をしているのだ。そう考えれば、咎める気も萎んでしまった。
 廉は口をつぐんだまま、皿を並べる作業をこなし続けた。


「ただいま」
 配膳がすべて終わったころ、宿の扉が開き海都と芽衣が顔を出した。少し疲れた表情を浮かべたふたりは、荷物を下ろして息をついた。
 海都と芽衣は手を洗い外出着を脱ぐと、食事場に向かった。
「団長、芽衣姉、お帰りなさい。お疲れさまです」
 配膳を終えて盆を台所に下げるため廊下を歩いていた廉がふたりに気づき、礼儀よく頭を下げた。海都は小さく頷き、芽衣は「おなかすいちゃった」と小さく笑いながら食事場に入る。
 ふたりの姿に気づいた団員たちが、口々に「お疲れさまです」「お先にいただいてます」と告げる。それに手を上げて答えながら、ふたりも席につく。
「すぐに食事をお持ちしますね」
「いや、いい。先に話すことがある」
 凛の母が台所に食事をとりに行こうとするのを、海都は制した。凛の母は不思議そうな顔で立ち止まる。
「みんな、食事をとりながらでいいから聞いてくれ。大事な話がある」
 海都の静かだがよく通る一声に、雑談に興じていた団員たちが口を止めた。賑わっていた食事場がとたんに静まり返る。
 その声の真剣さにただならぬものを感じたのか、赤子を連れた母親たちは気をつかい、廊下へと引き上げた。
 海都は静まった食事場にぐるりと視線をめぐらせた。全員、疑問符を浮かべながら海都の顔を見つめている。
 海都はひとつ大きく息をつくと、やはり静かな声で告げた。
「桜深町での公演を切り上げることになった」
「ええっ!?」
 団員たちは驚き、思わず大声を上げた。当然、未来たちも目を見開く。凛など、驚きのあまり箸をぽろりと落としている。
 ざわつく団員たちに手のひらを向けて制しながら、海都はふたたび口を開く。
「今日、流香さんと話をつけてきた。先日の夜公演を千秋楽とする。次の巡業地は西南の港町、碧樹町(あおきちょう)だ。出発は明後日明朝。各自、旅立ちの準備をすすめてくれ」
 続いて告げられた言葉に、またも食事場がざわつく。
「だ、団長、待ってください。明後日だなんて、そんな急な話……」
「なぜですか? 桜深町での評判は上々じゃないですか。きちんと千秋楽をせず終えるなんて、客にも申し訳が立ちませんよ」
「そもそも、おれたちに相談もないなんて」
 あまりに突然の話に、団員たちは困惑を滲ませた不満や驚きを口にした。未来と凛も顔を見合わせながら、海都の言葉に戸惑いの表情を浮かべる。
「詳しい話は追々させてもらう。……半分は僕の勘だ。みんなには迷惑をかけるが……すまない」
 海都は冷静な表情、そして静かな声を崩さぬまま、動揺する一同に頭を下げた。尋常でない雰囲気を感じ、不満や疑問の色を浮かべていた団員たちも黙り込む。
 誰よりも一座のことを考える海都のことを、団員たちはみな信頼している。海都の言葉は確実に団のためを思ってのもので、決して理由なき横暴な決断ではない。そして海都の勘は恐ろしいほどに当たる。
 これまでもそうだったことを知る団員たちは、ひとまず言葉を飲み込んだ。
「……わかりました。団長の決断に従いましょう」
 団の中で一番年長の一郎が空気を察し、首を縦にふる。一郎に続いて他の団員たちも頷き、了承の意思を見せた。
「みんな、ありがとう。大道具、舞台設備の解体は明日の昼から行う。担当の者は心積もりをしておいてくれ。それから……秋水先生、旅立ちの前に赤子と幼児、女性陣の健康観察を頼みます」
「承知しました」
「わかりました。昼食を終えたら、早速はじめましょう」
「必要物の買い出しは今日、明日中に済ませるように。慌しい出発になるが、よろしく頼む」
 海都はてきぱきと指令を出していく。
 周りの団員たちと同じように「はい」と返事をしながらも、未来と凛、そして廊下に立つ廉は困惑の表情を浮かべていた。

 食事を終えた未来たちは、寝室に戻り荷物の整理を始めた。
 食事場には海都を含む大人たちが膝をつき合わせてなにやら話をしている。もれ聴こえる声は微かで、内容までは聞きとれない。
「今朝言ってた、桜深町での用事って、このことだったんだ」
「一体どうしたんだろう。……海都兄、ずいぶん険しい顔してたよね」
 未来と凛は小声で会話をしながら、各々の着替えを畳んで風呂敷に詰める。なんとなく不穏な空気を感じているせいか、その表情は硬い。
 団員のほとんどが桜深町を、『やますずめ』の舞台を大層気に入っていた。もちろん団長の海都もそれは同じで、一時は流香に巡業時期の延長を相談しようか、とまで口にしていたほどだ。
「なにか想定外の出来事があったんだろうけど……なんだろうね」
 同じように疑問を口にしながら、廉も荷物の整理をすすめる。3人は首を傾げながらも黙々と作業を続けた。
 ほどなく食事場の襖が開き、大人たちががやがやと姿を現した。ここを発つ理由を聞かされたのだろうが、その誰もが困惑の表情を浮かべている。
「……話、終わったみたいだけど……なんか、雰囲気が変よね」
 凛のひそめた言葉に、未来と廉もうなずく。荷物をあらかたまとめ終えた3人は、誰からともなく立ち上がった。
「聞きに行ってみる?」
 未来がたずねると、凛も廉も首を縦にふった。自分たち子どもにもいずれ詳しい説明があるのだろうが、気になってどうしようもない。3人は連れたって食事場に続く襖を開いた。

 部屋に入ると、海都と芽衣はなにやら早口で話し合っていた。海都の指は、絶え間なく矢立を帳面に滑らせている。今後の予定を立てているのかもしれない。
「海都兄、芽衣姉」
 未来が遠慮がちに声をかけると、ふたりは顔を上げてこちらを見た。
「さっきの話、何があったのか知りたいんだけど……今、いいかな?」
 そう切り出すと、ふたりは予測していたのか一瞬顔を見合わせたのち、頷きあった。そして、近くに寄るよう手招きをする。未来たちは緊張の面持ちで海都たちのそばに腰を下ろした。
「ええと……桜深町での公演を切り上げた理由って?」
 回りくどい物言いを思いつかなかった未来は、とりあえず真正面から問いかけてみることにした。海都は小さく息を吐くと、声をひそめて答えた。
「この村の滞在に不安要素ができた」
「火神村に?」
 空気を察し、同じように声を抑えて問い返す凛に、海都は首を縦にふった。
「この村に関わる言い伝えを耳にしたんだ。あまり気分のいいものではなかった。そしてそれに巻き込まれるかもしれない恐れがある。だからここから一刻も早く離れたい」
「……海都団長にしては、ずいぶん曖昧な物言いですね……」
 廉が思わず眉をひそめて呟く。さきほど大人たちが釈然としない表情をしていたのは、この理由を聞いたからだろう。根本的な部分の説明が丸ごと抜けているのだ。
 海都は未来を見ながら再び口を開いた。
「未来は、言い伝えについて村の誰かに聞いたか?」
「……? ううん、聞いたことないよ。どんな話なの?」
「いや。聞いていないなら、それでいい」
 海都はそう言い、話を切り上げた。未来は不思議そうに首を傾げ、となりの凛を見る。凛も同じように、不可解な面持ちで話を聞いている。
 首をひねる3人を見ながら、海都は淡々と事務的に告げた。
「皆はこの村を気に入ったと言うが、おそらく今後、この村を訪れることはないだろう」
「えっ」その言葉に、未来ははっと顔を上げる。「もうこの村で宿をとらないの?」
「ああ。桜深町へ巡業に来るとしても、町中の旅籠屋か、違う村の木賃宿を選ぶ」
「そんな! じゃあ、カサネとの約束が――あっ!」
 思わず口にした未来は、慌てて自分の口を手のひらで押さえた。未来の言葉に芽衣が眉をひそめる。
「カサネ? ……未来、カサネって誰? 約束ってなに?」
 問いかけられ、未来は思わず息を詰める。未来のとなりに座る凛と廉は、決まり悪そうに視線を落とした。
 3人の反応を見た海都は、瞳をすっと細め、硬い声で告げた。
「未来。なにか隠し事をしているなら、正直に話しなさい」
「…………」
 未来は体を縮こまらせ、視線を床に落として彷徨わせた。
 注意に継ぐ警告までされていたというのに、それを破ってカサネと会い続けていた後ろめたさで、なにから話せばいいのか見当がつかない。
「海都兄」
 見かねた凛が、横から口を挟んだ。
「未来だけが悪いんじゃないの。このことを、海都兄に報告しなくていいんじゃないかって言いだしたのは、あたしなんだよ」
「……団長。ぼくもそれに同意したから、同罪です」
 凛の言葉を受けた廉も、ばつが悪そうに口を開いた。
「ちょっと待ってよ。一体なんなの? さっぱり話が見えないわ」
 凛と廉の言葉に、芽衣が両手を広げて首を傾げる。
ここまで来れば、もはや隠し事などできないと悟った未来は、重い口を開いた。
「……カサネは、この村に住む物の怪なの」
 そして、語り始める。10年前から今日までの、カサネにまつわる出来事、そして彼女と次に会う約束を交わしたことを。

 話を聞き終えた海都は渋面になり、重々しい口調で未来に告げた。
「物の怪には関わらないよう、告げたはずだぞ」
「……ごめんなさい」
 未来はがっくりと肩を落とし、頭を垂れて謝った。いずれ隠し事がばれたときにこうなる覚悟はしていたが、海都の声が想像以上の怒りをはらんでいることに気づき、顔を上げることもできずにただ床を見つめる。
「だ、だけどカサネは本当にいい人だったんだよ。村の人が言うような存在じゃなかったんだし、現にあたしたち……」
「いい人だったかどうか、なんていうのは関係ないんだ、凛。それは結果論にすぎない」
 言い訳を口にしようとした凛を、海都は低い声で抑える。凛はぐっと息をのんで黙り込んだ。
「僕は団長として、団員たちを危険な目にあわせられない。あわせたくない。そのためにできる限りの不安要素は取り除く。それがたとえ結果的に善であろうと」
 だからこその警告だった。そう言いながら、海都は瞳を細めた。
「僕の思いをわかってくれなかったのは残念だ。お前たちがやったのは、村人へと僕、ほかの団員たちへ示しのつかないこと。己の好奇心を優先して、信頼を寄せる相手に嘘をつくのか」
 海都の言葉は未来の心に突き刺さる。
 それは、廉や篠枝に警告されたことと同じだ。村を、一座を思うのならば身を引けと。
 本来ならば、手紙など渡そうと思わず、かんざしも道端に置き去りにして、あのまま関わらずにいるべきだったのだろう。たとえ胸の痛みが蓄積したとしても、どうにもならないこともあるのだと、学ぶべきだった。
 ――けれど。
 未来は、床についた手をぎゅっと握った。
 きっと、大人になるたびに胸の痛みは薄れていくのだろう。自分の痛みはまだいい。カサネのあの悲しみに満ちた瞳に、痛みを残したまま去る。未来にはそれが耐えられなかった。
 カサネに関わったことを、後悔などしていない。カサネと過ごした時間は、未来にとって確かに大切なものだったし、今も胸を張ってそう言える。出会えてよかったと、そう思える。
 そうして警告を破ってまで関わってきた割に、未来の覚悟は中途半端だった。一座を抜けてまでカサネを選ぶのかと言われれば、それはできない。
 自分は、浅はかな子どもだ――未来はそう思い、自分の考えと行動の甘さに唇を噛んだ。
「……団長。それに関しては、ぼくに非があります」
 押し黙る未来のとなりで、廉が静かに口を開いた。
「ぼくは団長に頼まれました。未来姉が怪しい行動をとっていたら、諌めるようにと。だから、未来姉が物の怪と会っているとわかったとき、なんとしてでも未来姉と物の怪を引き離すべきだったんです」
 廉は伏し目がちに言うと、未来と同じように拳を硬く握りながら言葉を続ける。
「だけど、流れでカサネさんに会って関わっていくうちに、だんだん彼女が不憫に思えてならなくなった。……同情してはいけない、これ以上関わってはいけないと思いながらも、彼女に関する報告をせず、口をつぐんでいる自分がいました。最終的に、団長たちに黙ってことを済ませようと提案したのはぼくです」
 海都は廉の顔を見つめながら、腕を組んだ。常に海都の命令を遵守し、他の団員から金魚の糞とからかわれてさえいる廉が、海都への報告を後回しにするほど心を動かされたことに、やや困惑しているようだ。
「……もうひとつ、大事なことを言ってないよ」
 次は凛が口を開いた。懐を探り、あるものを取り出して芽衣に差し出す。
「カサネさんからもらったの。芽衣姉、見覚えあるでしょ?」
 芽衣は首をかしげながらそれを受け取った。黄色いつまみ細工が並んだ帯飾りだ。まじまじと見つめていた芽衣は、驚いて息をのんだ。
「これ、流香さんの着物の生地?」
 目を丸くする芽衣に、未来と廉もそれぞれカサネから手渡されたかんざしと巾着を差し出す。それらを見た芽衣は、ますます目を大きく見開いた。となりで海都も同じように目を見張り驚いている。
「カサネのお母さんが織った布だよ。カサネはその技術を引き継いで、機織の仕事をしてる。……カサネは、私たちが探していた機織師。流香さんの着物の布を織った人なの」
 未来の説明を聞きながら、芽衣は言葉もなくただ手の中の小物を見つめた。繊細な柄と風合いは、芽衣を虜にしたものに酷似している。不思議な魅力と存在感があった。
 ややあって、芽衣が細く長いため息をつきながら口を開いた。
「腕利きの機織師が物の怪……。村の人たちが職人の存在を隠していたのは、それが理由ってことか」
 未来は、芽衣の手の中のかんざしをじっと見つめながら口を開いた。
「流香さん、都であの着物が人気だって言ってたよね。すごい値段で取引されてるって。……カサネは、その事実を知らなかったんだよ。あれだけの技術を持ってるのに、村の人は誰ひとり彼女のことを褒めないって。それどころかひどい扱いして、彼女の存在まで隠して……」
 未来の声はどんどん掠れていく。せき止めていた言葉が湯水のようにあふれ、止まらない。
「ぼろぼろの小屋でひとり織機を動かし続けて、毎日一生懸命生きているだけ。なのに理由のない暴力を受けて、育てた野菜もいたずらに潰されて……。それでも、彼女は村の人を悪く言わないの。いつか、自分を求めてくれる人が現れるって、自分を愛してくれる人が現れると信じて生きているんだよ。長い長い間、ずっとそうやって生きてきたんだよ……」
 目じりに涙がたまり、やがて握り締めた拳にぽとりと落ちる。
「カサネは確かに物の怪で、人とは違う見た目と能力を持ってる。だけど、ただそれだけなの。中身は素直で優しくて純粋な女の子なんだよ。もっと幸せになってほしい。なれるはず……だけど」
 一度溢れた涙は止まらず、次々と床を濡らしていく。
「だけど私には……なにもできない……」
 必死に自分に言い聞かせて、諦めることにしたはずなのに、海都たちに知られたことである種の安堵感を抱き、未来の感情は一気に決壊してしまった。
「唯一できると思った約束すら、果たせないなんて……」
 海都は「善でも悪でも関係なく関わるな」という。確かに自分は間違っていて、それは正しいのだろう。それが、大人の判断なのだろう。
 だが、まだ子どもの未来にとって、その言葉はただ残酷に思えてならない。理屈のない、途方もなく高い壁を崩す術など持ち得ないからこそ尚更だ。
 ぼろぼろと泣き崩れた未来に手を伸ばし、廉は言葉なく背を撫でた。
 その様子を黙って見ていた凛が、薄く涙の張った瞳を瞬かせながら、「実は」と言葉を発した。
「あたしたち、これでも自分たちなりに色々考えたんだ。必死にない知恵絞って考えて、それで……カサネさんをここから、連れ出してしまえたらいいのにね、って話にもなったの」
 そこまで言うと、言葉を止めて海都と芽衣の顔を交互に見た。
「彼女を、一座の団員として迎え入れることはできないのかな。カサネさんほどの腕なら、きっと一座で活躍してくれると思う。芽衣姉だって、衣装職人がほしいって言ってたじゃない」
 その表情にも声にも、すでに諦めがにじんでいる。駄目だと言われるのはわかっていながらも、言わずにはいられなかったのだ。
 凛の言葉を受けた海都は、瞳を伏せて首を横に振った。
「物の怪の娘については憐れに思う。そして、職人としての腕が確かだというのも認める。だが、それはできない」
 きっぱりと告げる海都の口調には断固として譲らない難さがあった。
「世間の知る物の怪は、人の理から外れた存在だ。それはお前たち以外の団員にとっても同じこと。うちの団員たちはみな気が好いが、物の怪を受け入れられるかとなれば、話が別だ」
 海都の言葉を3人は黙って聞いている。
 海都の言うとおり、団員たちは家族同然の存在だが、全員が納得した上で物の怪を受け入れるなど、あまりに難しいことだろう。特に子どもをもつ夫婦は、何の害もないと伝えたとしても反対するに違いない。
 押し黙る未来たちに向けて、海都は再び口を開く。
「仮に彼女を迎え入れたとして、将来、物の怪を擁した楽団だと客に知られ、結果的に彼女が見世物になったら? 隠さねばならない存在になったら? ……それは、逆に彼女を傷つけることにならないか」
「…………」
 未来は、ただうなだれて話を聞くことしかできない。海都の言葉に反論などできるはずもなかった。
 人間と物の怪、ほんの少しの違いだというのに、それは埋めることのかなわない溝だった。外の世界は、未来が思う以上に、そしてカサネの言うとおりに、残酷なのだと思い知る。
 海都はしばらく黙って3人の様子を見ていたが、ややあって小さく息を吐いた。
「……未来たちの気持ちは、よくわかったよ」
 険しい表情を少し緩めて、組んだ腕を解く。
「お前たちが優しい子だということは僕も芽衣もよく知っているし、それは美徳だとも思っている。……だけど優しさだけじゃ、誰かを救うことも、なにかを守ることも難しいんだ」
 未来は、涙を拭いながら顔を上げる。海都の表情はいつも通り冷静なそれだが、その瞳には微かに柔らかな色が宿っていた。団長としてではなく、兄として未来を諭すときの視線だ。
 未来は、海都の言葉を反芻した。
 優しさだけではどうにもならない――それは、何度も痛感したことだ。親切心から自分の気持ちをカサネに押し付けようとして、現実を思い知る瞬間さえあった。
 唇を噛んでうなずく未来の肩を、海都は軽く叩いた。それは、あまり感情を表に出さない海都が団員たちを慰めるときにする仕草だ。
 あたたかさとやるせなさで、未来はさらに涙をあふれさせた。
 ぐしゃぐしゃになった顔を見かねたのか、芽衣が未来へ手巾を差し出しながら口を開いた。
「……あなたたちの話を聞く限り、その物の怪の少女は本当に気の毒だと思うわ」
 なにか思う節があるのだろう、ゆっくりと瞬きを繰り返す芽衣の表情は晴れない。時間をかけて言葉を選びながら、話を続けた。
「それに、ずっと探してた職人が物の怪だったなんて思ってもみなかったから、本当に驚いたのよ。一座に引き込む方法を考えていたくらいだもの。……あの機織の技術は、正直言って咽喉から手が出るくらいほしい。一座の独創性の飛躍的な向上が期待できるからね」
 芽衣は未来たちの顔を順番に見つめながらそう言い、最後に海都の顔へと視線を移して、「だけど」と続けた。
「……海都の判断は団長として正しいと、私も思うわ」
 海都と芽衣は、何か思案するかのように見つめあった。ふたりの無言の応酬を、未来は少し不思議に思いながら赤くなった目元を手巾でこすった。
 やがて視線を芽衣から外し、海都は未来たちに向き直った。
「……未来、凛、廉。その痛みは一時のものだ。皆、そういった痛みを抱えて大人になっていくんだ。彼女が幸せになることを、心から祈ってあげなさい。それはきっと彼女に届くだろうから」
 未来は瞳を伏せ、長い沈黙のあと、深々とうなずいた。
 幸雪花を手渡す約束をした、あのときのカサネの嬉しそうな顔が目蓋の裏に過ぎる。
 閉じた目蓋からまた新しい涙が流れ、床に落ちた。



 月明かりが、宿場の屋根を照らしている。
 宿のとなりの馬繋場には、旅を共にしている馬が3頭、牛が1頭つながれている。海都は旅立ちに備え、馬と牛の様子を見にきていた。
 木箱を開け、餌の在庫を確認しながら、昼間の話を思い出す。
 腕利きの機織師が物の怪だったのは、海都にとっても驚きだった。同時に、弥吉の発言にも合点がいった。機織師が物の怪だからこそ、無茶な労働を強要していたのだ。
 芽衣が言うように、村人たちが職人の存在を隠していたのは、物の怪の発覚を恐れたからだろう。物の怪の存在を隠すのは、穢れた者が村にいるということを知られたくないためか、あるいは彼女に辛く当たっていることを他者に知られたくないためか。いずれにせよ保身だろう、と海都は思う。
 伝説について雄弁に語った村長は、おそらく村人たちが行う物の怪への悪行に気付いていない。後ろめたさがないからこそ、堂々と海都に語って聞かせたのだろう。息子の弥吉が悪行に加担していることさえ知らないかもしれない。
 昨日、篠枝が弥吉の脅しから彼女を庇った理由もわかる。
 不死とはいえ、万が一、物の怪の身に何かあった場合、次の儀式で犠牲になるのは忌子――つまり、篠枝の子どものどちらかだ。わが子を幼くして亡くすのを避けるため、彼女は物の怪に生きていてもらわねばならないのだろう。
 まるで命の負の連鎖だ――海都は心の中で呟き、苦い顔で小さく息を吐いた。
 狂った歯車が軋んでいる。平和で穏やかな空気で濁されたそれが、少しずつ顕わになりつつある。村人たちの親切心が、見えない部分に悪意をぶつけることで成り立っているものだとしたら、人間の心の闇深さにぞっとする。物の怪の娘は、生きながらにして人柱になっているのだ。
 黒く醜いものがあふれ出す前に、穏便かつ速やかに村を離れなければ。海都は改めて決意を固めた。

「海都、ここにいたの」
 後ろから不意にかけられた声に振り返る。そこには、複雑そうな顔をした芽衣が立っていた。
「どうしたんだ。もう眠ったんじゃなかったのか」
「うん……布団には入ったものの、眠れなくてねえ。……少し海都と話したくて、探してたの」
 苦笑を浮かべた芽衣がゆっくりと歩み寄ってくる。彼女が何を話したいのかを察した海都は、体を少しずらして場所を空けた。
「未来たちは?」
 海都は馬の背中を撫でながら小さな声で問いかける。芽衣は肩をすくめて答えた。
「布団がもぞもぞ動いていたから、きっとまだ寝ていないわね」
「廉も眠れないみたいで、何度も寝返りを打っていたな」
「……昼間の話が、よほど堪えたんでしょうね」
 芽衣は言いながら、馬繋場の柱にもたれかかった。木の柱がかすかに軋んだ音を立てる。
「ところで、村長の説得は問題なかった?」
 声量を極力絞った芽衣の質問に、海都は苦笑を浮かべて両手を広げ、同じようにごく小さな声で答えた。
「最終的には、ね。ずいぶんと渋い顔をされたよ。迷惑金を積んだら納得してくれたけどね」
「へえ……なんでもそうだけど、やっぱり金がものを言うのねえ。荘介さんの言うとおりだわ」
 芽衣は気のない返事をしながら、ふう、と疲れたように息をついた。
「で……話したいことって?」
 芽衣の表情から、それが本題ではないと気づいた海都は、率直にたずねる。
「もちろん、昼間の話のことよ」
 わかっているんでしょう、とでも言いたげな口調で芽衣が返してくる。その声は先ほど以上にひそめられている。
「未来たちが物の怪に関わっていたこと、機織師が物の怪だったってこと、考え出したら、頭の中がぐるぐるしちゃって……」
「まあ、そうだな。僕も色々と思うところはある」
 芽衣は細い頤に指を当て、視線を足元に落とした。
「……ねえ。未来たちは、水鏡湖にまつわる言い伝えを知らないといっていたわ。物の怪が、5年後の儀式で人柱になることを知らないってことよね?」
「ああ。そして物の怪自身も、それを知らない可能性がある。知っていれば、数年後の約束を交わしたりしないだろうから」
「……やっぱり、そうよね」芽衣は、力なく呟いた。「ずいぶん残酷な話じゃない……未来が知ったらどんなことになるか」
 もしあのとき未来に人身御供の話をしたなら、彼女はひどく悲しみ、怒り、混乱しただろう。宿を飛び出して行ったかもしれない。海都と芽衣はそれを危惧し、あえて口をつぐんだのだ。どうしようもないがゆえに、知らないほうが幸せだと思うよりほかない。海都と芽衣の考えは一致していた。
 ふたりが同時にため息をついたそのとき。
 馬繋場のちょうど裏側、納屋が立ち並ぶ路地裏から数名の少年が飛び出してきた。
「なあ新八、ちょっとやりすぎたんじゃねえの?」
「村長や篠枝おばさんに見つかったらやべえぞ」
 かすかに聞こえたその声は、言葉とは裏腹に弾んでいるように思えた。まるで悪戯を楽しむ子どものような、興奮した声色。
 ちょうど柱の影になっているため、向こうからこちらは見えない。海都は少し頭を出して、彼らの様子を伺った。
「骨を折っても復活する化け物だぜ。あんなくらいで死にゃあしねえよ」
 少年たちの中でもひときわ体の大きな一人がそう言いながら、手にした竹槍を軽く振り回した。その先端から、なにかが滴って地面を濡らした。
「それもそうか」
「ああ、いい鬱憤晴らしだった」
「証拠が残らないから気が楽だよな」
 よもや、と海都は思い、視線を芽衣に送る。芽衣は眉をひそめ、神妙な表情で海都を見返してきた。
 少年たちは小さな声で談笑しながら、広場の方へと去っていく。完全にその姿が見えなくなったのを見届け、芽衣が掠れた声で呟いた。
「さっきの……」
「…………」
 海都は険しい顔をして黙り込んだ。風に乗って、ほんのわずかに届く匂いは、覚えのあるものだ。少し遅れてそれに気づいた芽衣は、思わず馬繋場から飛び出した。
「待て、芽衣。君まで関わるつもりか」
 慌てて芽衣の手首を掴む海都だったが、
「あんな話聞いて、見て見ぬふりできないわよ」
 芽衣はそれを振り払い、少年たちが出てきた路地に向かって駆け出した。海都は一瞬眉根を寄せると、芽衣の背中を追いかける。
 角の傍までくると、とたんに匂いが強くなった。芽衣は足を早め、角を曲がる。そして――その脚が、唐突に止まる。
 芽衣は瞳を限界まで大きく見開き、大きく息をのんだ。口元に手のひらを当て、一歩後ずさる。
 芽衣の肩越しに路地裏を覗き込んだ海都もまた、絶句した。
 おびただしい量の血が地面と壁に散らばっている。その中央、赤黒い血だまりの中、ぼろ雑巾のように転がる小さな体が月明かりに照らされていた。
 蒼白になって震える芽衣の肩をそっと引き、海都はその血だまりに向かって足を踏み出した。
 血の海に沈む小さな体――それは幼い少女だった。うつ伏せに倒れるその背中、足、腕、そこかしこに竹槍でつけられた傷痕がある。おそらくは貫通しているであろう傷もいくつか見られた。
 普通の人間ならば絶命しているであろうその状況で、少女の細い背中はわずかに震えていた。浅い呼吸を繰り返している――生きているのだ。
 膝をつき、ゆっくりと体を抱き起こす。
 少女は呼吸をしているものの意識はないらしく、その小ぢんまりとした体は何の反応も返さずにぐったりと海都の腕の中に納まった。口から血があふれ、ごぼりと嫌な音を立てる。
 ようやく平静を取り戻した芽衣が、海都のとなりに歩み寄り、同じように膝をついた。そして、「うっ」と短く呻く。正面から見た傷口は背中のそれよりもひどい。着物を突き破るほど深々とえぐられた腹部は、一面血の色に染まっている。
「なんてひどい……」
 震える声で芽衣が言った、その直後だった。
 湯が沸くときのような細い音が唐突に海都の耳を打った。音の出所は、抱きかかえる少女の傷口だ。
 そこから白い煙が立ち上っていることに気づき、海都は唸った。
「……この子が物の怪の少女……カサネか」
 それは予測のついていた事実。
 海都が渋い顔を浮かべる中、少女の傷口は白い煙に包まれみるみるふさがっていく。同時に、地面の血だまり、壁に散らばった血からも白い煙が上がり、赤黒い染みはまるで蒸発するかのように消えていった。少女の口からこぼれていた血も、海都の手についた血も、同じように綺麗に消え去る。
「これが、未来の言っていた治癒の力……」
 芽衣は呆然とした表情で、海都の腕の中の少女――カサネを見る。
 怪我がたちどころに治る様は、思っていた以上に衝撃を受けるものだった。だがそれ以上に衝撃的だったのは、カサネが受けた暴力のひどさだ。
 顔をゆがめる芽衣のとなりで、海都もまた苦々しい表情を浮かべた。
 未来たちは、村の者がカサネに石を投げたり蹴り飛ばしたり、道具を使って殴っていたと告げた。この惨状を見るに、おそらくそれは、未来たちが止めたからその程度で済んだのだろう。先ほどの青年たちの口ぶりからすれば、彼らにとってはこの傷ですら、遊びの範疇にすぎないのだ。
 村人たちはカサネを虐めるが、殺したり迫害しない――未来はそう言ったが、実のところは、「どれだけ傷つけても死なない、だから殺せない」だけなのではないか。
 海都の腕の中で、不意にカサネが小さく呻いた。
 意識が戻ったのかと思い、芽衣が顔を覗き込むが、いまだ四肢は力なく投げ出されたままだ。
「……さ、い……」
 芽衣の耳にカサネの小さな声がかすかに届く。その言葉を明確に拾えず、芽衣は更に顔を近づけた。
 今にも途切れそうな細い呼吸の間で、カサネは同じことを繰り返し続けている。うわ言のように、ただひたすら「ごめんなさい」、と。
 それに気づいた芽衣は唇を震わせながら、ゆるゆると頭を左右に振った。
「……話には聞いていたけど、ここまで……」
 カサネの体の傷はすでに治り、煙もすべて消え失せている。確かに彼女の体はひどく傷つけられていたというのに、着物の破れと浅い呼吸以外に、暴力の痕は一切残っていない。
 芽衣は、地面に力なく落ちた小さなカサネの手のひらを見つめながら、恐怖と怒りに体を震わせた。
 傷が残らないとはいえ、痛みは感じるだろう。それだけに、見えない傷がどれだけ心の中に蓄積しているのかと思うとぞっとする。
「なんなの、あいつらは。人を傷つけて、あんなに笑っていられるなんて信じられない。あいつらのほうがよほど化け物じゃない……」
 少年が持っていた竹槍は、確かにカサネの体を貫いたはずだ。
 だが槍に付着していた血も、彼らが浴びたであろう返り血も、今頃は煙となって消えているのだろう。彼らがそう言ったように、証拠などどこにも存在せず、故にとがめられることがない。
「げに恐ろしきは人間なり、か……」
 海都は、彼にしては珍しく吐き捨てるように呟いた。目の前で悪意の一部を見せられ、火神村へ抱いていた不信感が嫌悪感に変わる。
「……ん……」
 腕の中のカサネが、不意に小さく身じろぎをし、低く呻いた。
 ゆるゆると、その瞳が開く。月の光を浴びて輝く瞳は、ふたりの予測どおり血のような赤色をしていた。
 カサネの瞳の中央はぼんやりと白濁しており、焦点が合っていない。失血のせいか、よく見えていないらしい。
 思わず抱き起こした腕の中のカサネをどうするか、彼は迷っていた。
 物の怪に関わってはいけない、この村の厄介事に巻き込まれてはいけない――伝楽座の団長として、海都は今この瞬間も意思を曲げる気はない。しかし、彼女を地面に放り出し立ち去るなど、人としてできない。
 傷が癒されるのと同じように血液も再生されるのか、カサネの頬には少しずつ赤みが差しつつあった。白濁していた瞳も、ゆっくりと真紅に染まり始めている。
 その焦点がようやく合った――刹那、カサネは瞳を限界まで見開き、小さな悲鳴を上げた。そして全力で海都の胸を突き飛ばす。
 予期せぬ力に不意をつかれた海都はよろめき、カサネを抱いていた手を離した。
「あ……あ……」
 カサネは突き飛ばした反動でその場にへたり込み、自らの体を抱きながらがたがたと震えた。唇はわななき、瞳には恐怖の色がありありと浮かんでいる。
「大丈夫よ。なにもしないから安心して」
 怯えきった様子を見かねた芽衣が、落ち着かせようと声をかける。
 だがカサネは、掠れた声で「ごめんなさい」と叫ぶと、勢いよく立ち上がった。芽衣や海都が止める間もなく、一気に体を翻す。傍に置かれていた大きな籠を手に取ると、先ほどまで致命傷を負って倒れていたとは思えぬほどの素早さで山のほうへと走り出した。
 闇にまぎれて消えていくカサネの背中を呆然と見つめていたふたりは、どちらからともなく立ち上がり、顔を見合わせた。互いの顔には困惑が色濃く浮かんでいる。
 海都はもう一度、少女が立ち去った路地の奥を見た。そこになにかが落ちているのに気づき、目を凝らす。
 近づいてみれば、それが破れた巾着だとわかった。巾着の特徴的な柄から、カサネの持ち物だと気づく。あたりに散らばる少量の玄米は、彼女が仕事の報酬として受け取ったものなのかもしれない。
 海都は、そっと巾着を拾い上げた。中に残っていたほんのわずかな玄米が足元に落ちる。乾いた音を聞きながら、海都は深いため息をついた。
「……村ぐるみで、これを容認してるの……」
 芽衣の低く押し殺した声には、怒りがこもっている。
「ああ」
 海都が同意すると、芽衣は手のひらをぎゅっと握り締めて悔しそうに口を開いた。
「想像もしなかった……。荷物を持ってくれたお兄さん、無邪気に話しかけてくれた子たち、郷土料理を教えてくれたおばあちゃん、みんな優しくて親切で、いい笑顔で……なんて素敵な人たちだろうって思ってた。だけどあの笑顔の裏で、あの子を虐げていたなんて」
「…………」
「満足に生活もさせずに、暴力に怯えさせて、あげく災厄の人柱としての使命を全うするまで便利に扱うだけなんて……そんな人生に一体どんな意味があるって言うのよ」
 芽衣は震える声でそう言うと、悔しそうに唇を噛み、黙り込んだ。
 そのとなりで、海都は拾い上げた巾着をもう一度見つめる。
 5年後の儀式で湖に沈められるその日まで、彼女は痛みや苦しみに耐える日々を過ごすのだろう。それはあまりに残酷に思えてならない。
「……ねえ海都、覚えてる?」
 長い間黙り込んでいた芽衣が、ぽつりと呟いた。
「私、流行り病で両親や友達を皆亡くしたじゃない。……あのとき、誰にも受け入れてもらえなくて、助けてもらえなくて、ああ、私はこのままひとりで死ぬんだな、って幼心に思ってたのよ」
 芽衣の呟きに、海都は昔のことを思い返した。
 十数年前、巡業先に向かう途中通りかかった村で、幼い海都と荘介はか細く響く泣き声を聞きつけた。そこかしこに遺体が転がる中、村で唯一の生き残りの芽衣を見つけたのだ。
 彼女は近隣の村人に存在を知られてはいたものの、疫病の感染を恐れて放置され、ただ死を待つだけの身だった。
「荘介さんと海都が来てくれて……ふたりで必死に励ましてくれて。荘介さんが、一緒においで、って言ってくれたときは……嬉しかったな」
 当時、一座に同行していた医者は疫病に精通しており、その治療法法を持ちえていた。医者の的確な治療、荘介と海都の献身的な看病によって芽衣は救われた。そうして、荘介の家族として、伝楽座の一員として生きることになったのだ。
「頼る人もいなくて、帰る場所もなくて、孤独が怖かった。だけど、荘介さんと海都が私のことを優しく包んでくれて……それにどれだけ救われたか」
 芽衣はそこで言葉を切り、海都を見上げた。芽衣の瞳には薄く涙の膜が張っている。
「……あの子は、誰からも手を差し伸べられずに、終わってしまうのかしら」
 芽衣は、幼い頃孤独に怯えていた自分を、カサネになぞらえているようだった。辛そうに眉を寄せながら、搾り出すように言葉を紡ぐ。
「彼女に手を差し伸べる役目は……もしかしたなら――」
「芽衣」
 芽衣の言葉を途中で遮り、海都は首を横に振った。
「もし彼女をここから連れ出せば、次の儀式で湖に沈められるのは村の忌子だ。……他人の人生に影響を及ぼすことを、僕らが決めていいのか。あの子たちにやらせていいのか」
「…………」
 海都の静かな声に、芽衣は瞳を細めて黙り込む。
 海都の判断は正しい。一座にとって最善の選択だ。
 理屈ではわかるが、感情がうまく追いつかない。昼間泣きながら訴えてきた未来も、同じような気持ちだったのだろう。胸の奥に痞えたやるせなさで、息が詰まる。
 誰もが痛みを抱えて大人になっていく。しかし、大人になっても抱えられる痛みの範囲には限界があり、いずれなにかを切り捨てていく覚悟が必要になる。海都も芽衣も、それをよく知っていた。
「そろそろ戻ろう、芽衣。体が冷える」
 海都はそう言うと、芽衣の背を軽く叩いて促した。
 芽衣は子どものようにこくりと頷き、のろのろと宿に向かって歩いていく。いつもしゃんと伸びている背中が、小さく丸まっていた。
 芽衣の背中に向けていた視線を手の中の小さな巾着に落とした海都は、重く沈んだ気持ちを振り払うように軽く頭を振った。
「……すまないな」
 路地裏の地面に巾着をそっと置き、誰にともなく呟く。自分で思っていた以上に、その声は苦さを含んでいた。
 海都はもう一度頭を振ると、芽衣の背中を追って歩き出す。
 雲ひとつない夜空の月がいやに眩しく感じて、目を眇めた。
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