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第3章
 翌日、未来は桜深町の舞台に戻った。
 ようやく戻ってきた未来は、それまでの穴を埋めるため、より一層力を入れて舞台に臨んでいた。
 伝楽座の評判は口伝えで加速し、連日満員御礼の状態が続いていた。未来をはじめ団員たちは、桜深町の旅籠屋や劇場2階の簡易宿に泊り込み、目まぐるしい日々を送っていた。

 夜の公演を終えた未来は、疲れた様子も見せずに満面の笑顔で舞台袖に戻ってきた。
「あぁ、楽しかった! やっぱり舞台で歌うのって最高!」
 同じように舞台から引き上げてきた芽衣が、流れる汗を手巾で拭いながら微笑む。
「未来、今日もよかったよ!」
「芽衣姉、ありがとう! 芽衣姉の歌声もすごく綺麗だったよ!」
 同じように汗を拭いながら、未来が答える。芽衣はありがとう、と言いながら、下りた幕の向こう側を見つめた。
「でも、あなたがいるといないとじゃ、観客の盛り上がりがぜんぜん違う。楽しそうに歌っているのが伝わるのかしらね。あなたの唄を聴いた人たち、みんな目をきらきらさせているもの」
 芽衣の言葉に、未来は照れながらも笑みを深くした。
 未来は、自分の唄が誰かの笑顔や力になることを、なによりも嬉しく思っている。それは初めて舞台で歌を披露したとき、笑顔になった観客を見たそのときから、ずっと抱き続けている思いだ。
「未来がいない間は、舞台に穴を開けないよう大変だったんだからね!」
 未来の背中に、威勢の良い声がかけられる。振り返れば、凛が片手を腰にあて、呆れたような表情を浮かべていた。
「うー、ごめん、凛」
「自己管理、きちんとなさいよ」
「うん、今はばっちり気をつけてるよ!」
「って! 言ってるそばから、汗、ちゃんと拭えてないじゃない! もー!」
 凛はそう言うと、未来の額に流れる汗を、髪の毛ごと手巾でごしごしと雑に拭った。未来は、「わ〜、ちょっとちょっと、髪の毛巻き込まれてる、ぐちゃぐちゃになる〜!」と悲鳴を上げる。そんなふたりを、芽衣は苦笑混じりに眺めていた。

「未来姉が戻ってきて、活気が戻りましたね」
 3人の姿を少し離れた場所から見ていた廉が、隣に立つ海都に話しかける。海都は頷き、口元に笑みを浮かべた。
「ああ。未来がいない間、よく穴を埋めてくれたな。礼を言うよ」
 未来が舞台に立てない間、廉と凛が演目を増やし奮闘していたのだ。その内容は、まだ幼さの残る凛と廉には厳しいものだったが、ふたりは海都の要望に全力で応えた。おかげで舞台は成功を収め続けられている。
「大変でしたが、いい経験になりました。おかげで凛の体力もついた気がしますし」
 確かに、これまで公演が終わるたびにぐったりと寝そべっていた凛が、元気よく未来に絡みにいけるほどになっていた。
「まあ、中身はまだまだ子どもですけどね」
 じゃれあう未来と凛を見ながら、廉は済ました顔で呟いた。自身もまだ子どもだというのに――大人びた廉の言葉に、海都は思わず苦笑を浮かべる。
「廉の篠笛の腕もずいぶん上がったな。特に最近の技術の上達ぶり、めざましいじゃないか」
「わ。……うわ。やった。海都団長にそう言ってもらえると、めちゃくちゃ嬉しいです」
 海都の褒め言葉を受けた廉は、瞳を輝かせながら嬉しそうにはにかんだ。その手には、よく手入れされた篠笛が大事そうに握られている。2年前、海都が団長になるため舞台を退いたとき託したものだ。
「どんどん成長して、団を盛り上げてくれよ」
「尽力します!」
 心底嬉しそうに笑いながら、任せてくださいと胸を叩く廉に、海都は「逞しくなったもんだな」と笑顔を返した。
「海都さん、公演お疲れさまです」
 その背中に、声がかかる。館主の流香だ。
「流香さん、どうもありがとうございます」
「今日も大盛況ですわね。わたくしとしても嬉しい限りでございます」
 流香は艶やかな笑みを浮かべ、ゆっくりと海都に歩み寄る。そして、隣の廉に顔を向けると、
「廉さん、今日の独奏、聴き入りましたわ。とても素敵でした」
 にっこりと微笑んでそう言った。
 とたん、廉は顔を真っ赤にして、かちこちに固まりながら「ありがとうございます」と頭を下げた。そのまま視線を上げず、ひたすら床を見つめ続ける。女性に免疫がない彼には、流香の放つ色香はいささか刺激が強すぎるらしい。
 そんな廉の様子に流香はくすくすと笑うと、海都に視線を戻した。
「海都さん、劇場設備の定期点検の日ですが、7日後に決まりましたの」
「そうですか。点検は2日ほどかかるとお聞きしましたが、その日と翌日は休演ということですね」
「はい。告知の張り紙はこちらでご用意いたしますので」
「わかりました。よろしくお願いします」
 海都は腰帯から小さな帳面と矢立を取り出し、予定を書きつけた。
 
 凛とじゃれあい、一息ついた未来は、海都が流香と話しているのに目を留めた。そして、一瞬呼吸を止め、次いで「あ!!」と大きな声を上げた。近くにいた凛と芽衣が、驚いて目を丸くする。
「流香さんの着物!!」
「着物? ……ああ、あの綺麗な着物か。流香さんが着ていらっしゃるのは久々ね。だからって未来、そんな大声で驚かなくても……流香さんに失礼でしょう」
 怪訝そうな顔をしながら、芽衣は未来を見やる。凛も不思議そうな顔で未来を見た。
 流香の例の着物を見て、未来は忘れていたことを思い出した。――カサネが、流香の着物と酷似した着物をまとっていたことを。
 そもそも、街中でカサネを追いかけたのは、機織師の所在を聞こうと思ったからだ。カサネが物の怪の少女だったという事実を知ってからは、そのことで頭がいっぱいになってしまい、いざ会ってからは唄のことばかりで、着物のことなど頭からすっかり抜け落ちていた。
 思い返せば、カサネの家には布をかけられた機織機と、色とりどりの糸が入った籠があった。まさかとは思うが、カサネがこの布を織ったのかもしれない。
 思考をめぐらせて動きを止めた未来に、芽衣と凛は顔を見合わせて首を傾げる。同じように大声で名前を呼ばれた流香も「なにかしら」と目を瞬いた。
 流香と目が合った未来は、大慌てで流香に駆け寄り、
「あの、流香さん! お父様ってまだお帰りになられないですか!? その布を織った職人さん、もしかして火神村にいるんじゃないかと思うんですけど!」
 息継ぎもせずに問いかけた。流香は未来の勢いに面食らったように唇を窄めたが、すぐ笑顔になって答えた。
「いましがた、都から来た商人さんにお会いして、その話をしてきたところなの。そう、火神村から仕入れたと言っていたわ。」
 これから報告しようと思っていたのだけれど、と言う流香に、未来は「やっぱり」と呟いた。流香の言葉から、職人がカサネである可能性が高いことを確信したのだ。
「やっぱりって……未来、どうしてそんなこと知ってるのよ?」
「えっ!? えっ、えっと……」
 芽衣に突っ込まれた未来は我に返り、額に汗を浮かべながら目を泳がせた。カサネと会ったことは内緒だと約束しているため、彼女のことを話すわけにはいかない。
「え〜、そのぉ、こないだ火神村で、流香さんの着物に似たものを着ている女の子を見かけたから、もしかしたら火神村にいるのかもしれないなぁ、と思って……あはは」
 明らかに挙動不審になって答える未来を、その場にいる全員が訝しげな表情を浮かべて見つめる。元々嘘がうまくない未来は、誤魔化すように笑顔を作ると、
「あ、汗かいちゃったから、湯浴み行こうっと! お先に失礼!」
 これ以上突っ込まれる前に、そそくさと立ち去ることに決めた。ばたばたと去っていく未来の背中を見ながら、凛が「怪しすぎでしょ……」とぽつり呟いた。
「それにしても、火神村に機織師がいたなんて……灯台下暗しだったのね」
 着物についての情報を欲しがっていた芽衣は、生き生きと瞳を光らせる。
「流香さんと話していたんだが、設備点検のため連休が取れるんだ。全員で火神村に戻る予定だから、その時に村の人へ尋ねてみればいいんじゃないか」
 海都の言葉に、なんていい時宜だ、と芽衣はますます表情を明るくした。
「うん、そうする! 機織師が若い男性だったら、私のこの色気で悩殺して、どどんと値下げ交渉しちゃうんだから」
「それは無理だろう」
「なんですってぇ! 失礼ね!」
 ぱたぱたと手のひらを横に振る海都に、芽衣が目じりを吊り上げる。海都は、ぎゃあぎゃあと噛み付く芽衣をあしらいながら流香に一礼し、控室に向かって歩き出した。
「ちょっとお!? まだ話は終わってないんだけど!」
 芽衣は海都を追いかけ、横に並びながら文句を言い続ける。賑やかに去っていくふたりを見送りながら、凛が廉に話しかける。
「廉、聞いた? 連休だって! 久々の休みだよー!」
「連休かあ。ゆっくり楽器の手入れができそうだ。新曲の特訓も。あとは……筋力をつける鍛錬にあてて。あ、せっかくの休みなんだから、凛も体力つけるために走りこみでも……」
「あ〜っ、やだやだ、この馬鹿真面目」
 凛は半眼になりながら廉の背中をぺしんと叩く。その後ろで、流香がくすくすと笑っていた。



 そして7日後、 『やますずめ』点検の日。
 団員たちは火神村へ戻ることとなった。全員揃って戻るのは初日以来だ。寝室では、久々の休日を満喫する団員たちの多くが寝そべっている。
 ようやく訪れた休みの日、それも2連休だ。未来は朝からそわそわと落ち着きなく過ごしていた。
「ただいまぁ」
 朝早くから出かけていた芽衣が、落胆の表情を浮かべて戻ってきた。
「どうしたの、芽衣姉」
「機織師のこと、村の娘さんたちに聞きに行ってきたんだけど、なんだかうまくはぐらかされちゃって……みんな知らないって言うのよ。この村から仕入れてるんだから、住人のはずなのにねえ?」
 芽衣の沈んだ声を聞きながら、未来はひそかに確信を得た。機織師を隠す村人たちの行動は、カサネの存在を隠そうとするそれとよく似ている。つまり職人とは、カサネを指しているのだろう。
「ねえ、未来。あなた、この村で着物を着ている子を見たんでしょう? どんな子だったの? その子を探したら、わかるんじゃないかと思うんだけど」
「え? えっと……」芽衣に問われ、未来はどう答えたものかと曖昧に言葉を濁した。「一度見たきりで、あまり覚えてなくて……ごめん、芽衣姉」
「なによぉ、頼りないわね。まあいいわ、もう少し聞き込みしてみようかしら。んもう、今日に限って村長さんが不在なんて困ったなあ……」
 芽衣はそう言いながら、きびすを返し、再び村へと出かけて行った。
 芽衣の後姿を見送った未来は、ますます落ち着きなく、土間と庭の周辺をうろうろと歩き回った。
 カサネともう一度、唄を歌いたい。
 カサネが機織師だとするなら、なおさらカサネに会って、話がしたい。
 朝から抱いていた思いは、どんどん膨らむばかりだ。
 着物に並々ならぬ興味を抱く同士、芽衣に相談してみようかとも思ったが、物の怪の存在を口にすれば、海都と同じく関わらないように咎めてくるだろう。すんでのところで思い直し、口をつぐんだ。
 そして昼前、芽衣はまたしても肩を落として帰ってきた。収穫がなかったことを残念がる彼女の愚痴を聞きながら昼餉を食べ終えた未来は、心の中で静かに決意を固めた。

「あれ、未来?」
 満腹になった団員の多くが昼寝に入ったころ、そっと宿を抜け出そうとした未来は、後ろから声をかけられ、驚いてぴょんと飛び上がった。
「どこに行くの?」
 庭の薪割り台に腰かけ、のんびりと空を仰いでいた凛が、小首を傾げてこちらを見ていた。
「えーっと、ちょっとそこまでお散歩に……」
「散歩? ……ふうん?」
「な、なに、どうしたの凛」
 じとっとした目つきで見られ、未来の頬に汗が伝う。
「廉と話してたんだけど、な〜んか、未来、最近あやしいよね」
「えっ、あやしい!? どこが!? 私、普通だよ!」
 両手を胸の前で振って笑顔を見せるが、凛の表情は変わらない。疑いの目を向ける凛から軽く目をそらす。
「あ、未来姉、凛。どうしたんだい?」
 次いで声をかけてきたのは廉だ。路地裏から出てきた彼は、炊事担当のおかみさんに頼まれたのだろう、村の住人から買い取ったらしき米袋を肩に担いでいた。
「未来が散歩に行きたいんだって」
「……散歩?」
 凛が答えると、廉はなにかを思案するように目を細めた。凛と未来の顔を交互に見ながら、うーんと唸る。
「あのさ、未来。あたしもついてっていい?」
「えっ!」
「じゃあ、ぼくも一緒に行くよ」
「ええっ!」
 凛と廉の言葉に、未来は慌てた。
 実のところ未来は、ふたりにカサネの話をしようか悩んでいた。だが、廉が海都と同じ思考を持っていることが怖く、結局言い出せずにいた。咎め、止められるに違いないからだ。
 そして、カサネと交わした「ふたりの秘密」。これを守るためにも、未来はすべてを胸の中にしまいこみ、ひとりで動くことを決めた。
 ごまかしや嘘が下手なことはばれているため、下手なことは口にできない。兄弟姉妹のように育ってきた凛や廉に、嘘をつき続けるのは、後ろめたく心苦しい。
 ふたりに訝しげな視線を向けられているこの状況は、未来にとってまさに四面楚歌であった。
 額に汗を浮かべながら考えをめぐらせる未来の様子を見ていた凛だったが、不意に大きく息をつくと、「わかったわよ」と言って立ち上がる。
「気をつけて行きなさいよ」
 一旦疑っておきながらもあっさり引き下がった凛に、未来は虚をつかれ言葉を失った。驚いたのは廉も同じようで、目を丸くして凛を見る。
「いいの? ……ぼくは心配なんだけど」
 廉の含みのある言葉は、やはり未来を疑っているのだろう。
「じゃあ、ぼくだけでもついて……」
「ちょっと待った廉。話したいことがあるから、宿に戻るわよ」
 廉の言葉を、凛が遮る。廉は怪訝そうな顔をして、姉の顔を見やった。
「話? そんなの今じゃなくてもいいだろ」
「今じゃないと駄目なの。ほら、行くわよ」
 凛は廉の腕を引き、宿に向かって歩き出す。廉は引きずられながらも未来を振り返り、そして、強い口調で告げた。
「未来姉。以前も言ったけど、村の事情に首を突っ込むのはやめなよ」
 宿に消えたふたりの背中を見送った未来は、詰めていた息を吐き出した。いつの間にか握り締めていた拳が軽くしびれている。
 廉が最後にさした釘が、痛いところをついている。あれは警告だ。挙動の不審さでばれているのだろう、暗に『物の怪に関わるな』と言われてしまった。
 山に向かおうとしていた気持ちが、迷いで鈍くなる。
 篠枝と海都はカサネに関わることを咎めるが、そのどちらも明確な理由を口にしてはいない。実際、先日未来がカサネに会った際になにも起きていないのだから、物の怪の毒というのはおそらく篠枝の詭弁だろう。
 すべてが、ただ「カサネが物の怪だから」という理由ならば、納得できない。
 カサネに会いたい。お互いがお互いを秘密にするならば、誰の迷惑にもならないはずだもの――
 言い訳を並べ、自分を正当化していくうちに、だんだんと気分が滅入ってくる。
 後ろめたい気持ちを引きずりながらも、カサネの元に向かう好機は今しかなかった。凛と廉が戻って来れば、次こそ深く詮索されかねない。
 ほんの少しだけ、せめて着物のことを尋ねるだけ――未来は自分に言い訳をしながら、山に向かって急ぎ足で歩き出した。


 前回の帰り道、目印にした木をひとつひとつ確認して辿りながら、草をかきわけ進んでいく。さほど時間も経たないうちに、高い草の向こうに寂れた屋根が見えてきた。
 道を間違えていなかったことに胸を撫で下ろし、さらに歩を進めようとしたそのとき、カサネの声が聞こえた。
 ――悲鳴だ。
 ただならぬ様子の声に、未来は慌てて駆け出した。
 草むらから飛び出すと、そこには地面に膝をつき、自らの頭を両腕で庇うカサネと、カサネを取り囲む5人の少年たちがいた。彼らの姿には見覚えがある――火神村の住人だ。笑顔で挨拶を交わしたこともある。
 未来よりも少し年上と見られる少年たちの手には、太い木の棒や鋤が握られていた。彼らはそれを、容赦なくカサネの体に振り下ろしていた。鈍い音、そしてカサネの押し殺した悲鳴があがる。
「てめえ、おれたちに口ごたえするたあ、何様のつもりだ!」
「抵抗してもいいぜ。まあ、そのときは倍にして返してやるけどな!」
 少年たちは楽しそうに笑っていた。火神村では人の好い笑みを見せたその顔が、今は邪な侮蔑をはらんだ笑顔を浮かべている。まるで別人のようだった。
 ひるんで一瞬足を止めた未来だったが、事態を把握し、かっと頭に血が上る。
「あなたたち、やめ――」
 その瞬間、未来の隣を小さな影がものすごい速さで追い抜いた。
 驚いて言葉を止めた未来のあとを継ぐように、その影が威勢よく声を発する。
「あんたたち、やめなさい! 女の子相手に、なにやってんのよ!!」
 飛び出してきたのは、凛だった。蝶の飾りを揺らしながら、仁王立ちになり大声で怒鳴る。
「り、凛!?」
 未来は、少年たちと同じく驚きの表情を浮かべて、怒りをあらわにする凛の背中を見る。
「こんな小さな子に、よってたかって暴力!? ありえない!! その子から離れなさい!!」
 凛は腕をぶんぶんと振り回しながら少年たちに向かって怒鳴る。少年たちは、未来と凛が宿の客人だと気付いたらしく、顔をゆがめた。
「や、やべえ。客人だ」
「新八、逃げようぜ」
 少年たちは棒や鋤を投げ捨て、大慌てて踵を返した。未来たちが通ってきた道とは違う方向の藪へと逃げていく。
 凛は怒りが収まらないのか、少年たちの背中を追いかけながら、大声で怒鳴っている。その声で我に返った未来は、地面に倒れ伏すカサネの元に急いで駆け寄った。
 カサネの体を抱き起こすと、小さな頭は未来の腕の中で力なく傾いた。気を失っているようだ。
 着物のあちこちが無残に破れ、腕や脚にひどい打撲の痕が見える。石を投げられたのだろうか、額からは大量の血が流れ、その顔の半分を赤く染めていた。
「カサネ! カサネ、しっかりして!」
 半ば悲鳴のような声音で呼びかけると、カサネはかすかに睫毛を震わせ、次いで瞳をごく薄く開いた。
「未来……?」
 驚きを含んだ声で呼ばれ、未来は大きく頷く。カサネは小さくうめいて「着物が汚れますから、離してください」と呟き、再び瞳を閉じた。額から流れる血が瞳の中に入ったらしい。
「そんなの気にしないで! そんなことよりカサネ、傷が……血が!」
 カサネの頭を支える未来の手のひらに、じわじわと血が伝ってくる。生暖かく鮮やかな色のそれに、未来はひどく混乱していた。
 どうしたらよいのか、気ばかりが焦って頭も体もまともに動かない。落ち着かなくては、自分に言い聞かせながら、焦りに体を震わせる。そんな未来の背中に、
「未来姉、まずは止血だ」
 聞きなれた声がかかった。
 はっと顔を上げる未来の隣に、後ろから現れた少年が片膝をつく。――廉だ。
「れ、廉くん。どうして」
「話は後だ。手当てするから、未来姉、しっかり支えてて」
「う……うん」
 突然現れた凛と廉に驚きっぱなしの未来だったが、廉の冷静で心強い言葉に安堵し、落ち着きを取り戻した。できるだけ頭を動かないように、両手でしっかりと固定する。
 カサネは知らない人物の声に驚いたらしく身を硬くしたが、未来が大丈夫だよと告げると、ほんの少し警戒を緩めた。
 廉は腰に下げた巾着から手巾を取り出し歯にくわえ、縦に裂いた。1枚を手早く折りたたんで傷口にあて、もう1枚は更に縦に裂いて包帯状にする。カサネの頭を覆うように巻きつけようとした、そのときだった。
 廉は思わず動きを止めた。傷口に当てた布から、するすると一筋の白い煙が立ち上っている。
 中途半端に巻きかけた包帯から手を離し、布を恐る恐る持ち上げる。覗き込んだ未来が、思わず息を詰めた。
 傷口から、白い煙が湧き出していた。立ち上ったそれは、しゅうしゅうと微かな音を上げて傷口を包み込んでいく。たちどころは傷がふさがり、一切の痕跡すら見えなくなった。
 同時に、カサネの細い手足にある青紫色の痣も、内側からその色を失っていく。棒を打ちつけられたのか、ひどく腫れ上がっていた腕も、見る間に平らになった。
 カサネの顔や瞳を汚していた血も、未来の手を伝っていた血も、傷口にあてがった布の血も、棒や鋤に付着していた血さえも、ほどなく煙になって消えてしまった。
 まるで、なにもなかったかのように。すべての暴力が、嘘だったかのように。
「……こ、これは……」
 廉が、驚愕とわずかな恐怖を含んだ声で呟く。
 未来も、唇を震わせながらその光景を見ていた。怪我が煙になって消える不可解な現象は、確かに10年前の記憶にあった。だが、ここまでひどい怪我が一瞬で消え失せるとは――実際に目の当たりにしてもなお、わが目を疑ってしまうほどのすさまじい治癒力だった。
 やがて、カサネがそっと目を開く。
 白い煙の間から、赤い瞳がゆっくりと現れ、今度こそ廉は大きく目を見張って息を呑んだ。
「なんなのよ、これ!?」
 言葉を失いカサネを見つめる未来と廉の元に、少年たちを追い払った凛が荒々しく駆け寄ってきた。
「未来のあとをつけてきんだけど……どういう事態!? あっちにある畑、南京も茄子もぜんぶぐちゃぐちゃに踏み荒らされてたよ、なんてひどいこと……」
 怒りの表情を浮かべた凛は、廉のとなりまで歩み寄った。そこで、傷ひとつないカサネの姿、そして彼女の赤い瞳に気付き、言葉と足を止める。
 凛は、廉と未来の顔を交互に見つめたのち、なんともいえない表情を浮かべ小さく唸った。
「……。ねえ。これって……一体どういうこと?」
 未来は腕の中のカサネに視線を落とした。カサネは涙をたたえた瞳を哀しげに細め、ぎゅっと唇を結ぶ。
「この少女が、物の怪の子……ってわけだね、未来姉」
 廉の言葉は確信に満ちていた。隠す術を持たない未来は、静かに頷くしかない。とたん、廉の表情が険しくなる。
 突如雰囲気の変わった廉に驚いたのか、カサネの瞳に怯えの色が宿った。廉の視線から逃れるように、カサネは慌てて未来の腕を払い起き上がる。
「あの、……助けてくれて、ありがとうございます。……でも、ごめんなさい……」
 傷がなくなったとはいえ痛みは残るのか、顔を歪めながらよろよろと立ち上がる。
「やはり、わたしには関わらないで……本当に、ごめんなさい。ごめんなさい……」
 瞳いっぱいに涙をためたカサネは、震える声でそう告げると、自宅へと走り去ろうとした。未来は慌てて立ち上がり、その手のひらを掴む。
「待って! 私……」
「未来姉! 物の怪には関わらないようにと言っただろう!」
 未来の声は、強い語気で発された廉の言葉にかき消された。未来は長い髪を翻し、廉を見る。ふだん温厚な彼にしては珍しく、警戒と怒りの表情をあらわにしている。
「未来姉の勝手な行動のせいで、一座のみんなにも村の人にも迷惑がかかることになるかもしれないんだぞ。その手を離してこっちにくるんだ!」
「絶対に嫌!!」
 廉の言うことがもっともだとはわかっている。自分が悪いということもわかっている。
 しかし未来は、カサネの手を離さなかった。カサネの小さな手のひらは、温度をなくし震えている。怯えきった彼女をひとり置いていけるはずがなかった。
 未来の激しい拒絶に驚きの表情を見せる廉だったが、彼も意志を曲げる気はないようだ。眉尻が上がり、ますます険しい顔になる。
「ちょっと待ちなさいよ!」
 にらみ合いになる廉と未来の間に、話を聞いていた凛が割って入った。
「一体なにがどうなってるのか、まったくわからないんだけど?」
 未来と廉を交互に見ながら、腰に手を当てて告げる。
「未来、どうしてその子と知り合いになったの? どうしてそんなに必死なの? まずはそこから、ちゃんと説明して」
「説明なんて聞く必要……いてっ!」
 話を打ち切ろうとする廉の背中をばしりと叩き、凛はまっすぐ未来を見た。
「廉の主張はわかってるわよ。それが正しいってこともね。でも、このままじゃ平行線じゃない。未来がここまで言うってことは……相応の理由があるんでしょ?」
 話を向けられた未来は、カサネに視線を送る。カサネは、怯え、不安に満ちた表情で事の成り行きを見ていた。安心させるよう、両手のひらでカサネの手を包み込む。
「カサネ……話してもいいかな」
 未来が問うと、カサネは少し心を落ち着けたのか、かすかに表情を緩めて小さく頷いた。
 凛と廉に向き直った未来は、カサネと出会った日のことをゆっくりと話し始めた。




「なるほどね……あんたが最近あやしかったのは、そういうことか」
 話を聞き終えた凛は、ため息混じりに呟いた。
「気持ちは分かるけど、ちょっと暴走しすぎじゃない? それもひとりで……」
 さすがの凛も、手放しで未来の味方をしてはくれなかった。こそこそとひとりで動き回った挙句、勝手を押し通したのは百も承知なので、未来には耳が痛い。
「……ま、未来の唄を通じた直感は確かだから。彼女は悪い子じゃないんだろうけどさ」
 凛はもうひとつため息をつくと、「それで」と言葉を続ける。
「さっきのあいつらは、一体なんだったの?」
 未来はカサネを見た。当事者であるカサネにしか説明できないことだからだ。3人の視線を受けたカサネは、肩を縮こまらせながら、消え入りそうな声で返した。
「……火神村に住む方々です……。さきほどやってこられて、暇つぶしにと畑を荒らしはじめたので、思わず、やめてくださいと叫んだんです。そうしたら、突然殴られて……」
 カサネはそこで言葉を止めて、唇をかみしめた。
「で、さっきの場面に繋がるわけね」
 凛はカサネの言葉を続けると、きりりと眉を吊り上げた。
「あいつら、いつもあんな風に畑をぐちゃぐちゃにするの?」
「……い、いえ……いつもは、野菜を持ち去られるくらいで、ここまでひどくは……」
「それだって重罪じゃない。人の育てた野菜を無断で取るなんて窃盗だよ?」
 凛はますます眉を吊り上げて、顔を真っ赤にして怒った。
「人より長生きで、瞳の色が違って、怪我を治す能力を持っているだけで、なにもしてないのに好き勝手されてるなんて。それってただの弱いものいじめじゃない!」
 村人と、カサネに対する仕打ちに対して怒りをあらわにする凛の隣で、廉は複雑な面持ちで荒らされた畑を見つめていた。
 一座のため、世話になった村のため、そしてなにより団長である海都のため、決まりごとや言いつけを、廉は誰よりも守る。騒動を巻き起こしやすい体質の未来や凛を咎めるのは、彼の役目だ。
 慎重な廉は、話を聞いている最中も、未来が物の怪にたぶらかされ、騙されているのではないかと疑ってかかっていた。
 しかし、話を最後まで聞き終えた今、彼の心は揺れ始めていた。
 未来の言葉には、ひとつの嘘もない。共に育った経験から、それは容易にわかる。そして、たどたどしく未来の説明に言葉を添えるカサネもまた、嘘をついているようにはとても思えなかった。
 カサネは物の怪であり、村人たちに忌み嫌われている存在だという。とはいえ、さきほどの光景はあまりにも非人道的だった。無抵抗の相手に振り下ろされる容赦のない暴力に、背筋が凍った。それも、普通の人間ならば、死んでいてもおかしくない傷だ。
 やはり聞くべきではなかった、と廉は思う。凛が何を言おうと、あのとき未来を引き剥がすべきだった。事情など知らないまま、ふたりを引きずってでも帰るべきだった。
 廉は後悔したが、もう遅い。話を聞いたことで、同情が勝ってしまった。このまま無感情に放り出して帰ることはできそうにない。
 視線の先で、少女の育てた野菜が無残に踏みつけられている。ぐらぐらと揺れる己の甘さをもどかしく思いながら、廉は口を開いた。
「……事情を知らなかったとはいえ、冷たい言い方をしてしまい……悪かった」
 言いながら、頭を下げる。それを見た凛も、慌てて同じように頭を下げた。
「あっ、あたしも謝らなきゃいけないんだった! 未来に聞いたけど、あたしも10年前にあなたを怖がっちゃったんだよね? あのときすごく小さかったから、ほとんど覚えてなくて……だけど、あなたを傷つけたのは事実。だから、本当にごめんなさい!」
「それに関しては、ぼくも謝ってなかったな。すまない」
 頭を下げるふたりに、未来はようやく胸を撫で下ろした。張り詰めた空気がようやくほぐれ、ほうっと息が漏れる。
 カサネも同じように肩の力を抜くと、深々と頭を下げた。
「いえ……あのときも、さきほども、助けてくださり……嬉しかったです」
 声はか細いものの、カサネの手の震えは止まっていた。未来は小さく笑顔を作ると、安心させるようにカサネの手を強く握る。カサネはそれに答えるように、手のひらを軽く握り返してきた。遠慮がちなその力が、未来には心地よく感じられた。

「やっとすっきりしたよ。つけてきてよかった。ま、聞いても素直に言わないと思ったから、あえて泳がせたんだけどさ」
 頭を上げた凛が、未来に視線を向けてため息をつく。
「ふたりがあとをつけてきているなんて思わなかったよ……」
 話があるといって宿に引っ込んだふたりは、未来が山に向かって歩き出したのを確認し、こっそりとあとをつけてきたらしい。凛は興味本位から、廉は未来の行動を咎めるためだった。
 未来は凛と廉が話を聞いてくれたことを心底安堵していた。秘密を貫き続けるのは難しかったし、なにより心がつらかったからだ。
「……ありがとう、凛、廉くん」
 なにより、未来ひとりでは少年たちを追い払えたかどうか、傷の手当てを思いついたかどうか――結果的に、ふたりの決断力と行動力に、未来もカサネも救われたのだ。
 凛は改めてカサネと未来に向き直ると、申し訳なさそうな笑顔を浮かべた。
「わざとじゃないけど、ふたりの秘密に割って入っちゃったね」
「まあ、その秘密がばれるのも時間の問題だったと思うけど。未来姉は嘘が本当に下手だから」
「うう、廉くん、そんな言い方ひどい……」
 廉の物言いに、未来はがっくりと肩を落とす。その様子を見た凛と廉が小さく笑った。
「カサネ、秘密って言ったのにごめんね」
 気を取り直して未来が言うと、カサネは控えめに「いえ」と言い、微笑んだ。
「みなさんは……とても、仲がいいのですね」 
「まあ、兄弟姉妹みたいなもんだからねえ」
 凛の言葉を聞いたカサネの瞳の色が、わずかな羨望のそれへと染まる。それは、長い間ひとりで生きてきた孤独を感じさせる色だ。
 未来は敏感にそれを感じ取り、埋めることのできないカサネの悲しみの重さを憂えた。
「……ところで、先刻の怪我は?」カサネに続いて未来の表情が曇ったことに気づいた廉は、話題を転じた。「傷口は消えたようだけど、痛みはどうなんだい?」
「あ……だ、大丈夫です。もう、ほとんどありません」
「本当に? 無理してない?」
 続けて未来が問うと、カサネはこくこくと頷き「大丈夫です」と繰り返した。そして自分の体を見下ろし、泥だらけであちこちが破れた着物をそっと撫でる。
「だけど……着物が、こんなにぼろぼろになってしまいました……」
 カサネは、自身が傷ついたことよりも着物が無残に引き裂かれたことを悲しんでいた。丸い瞳に悲しみが宿る。
「カサネ、着替えよう。私、裁縫得意じゃないけど、修復手伝うよ」
 未来はそう提案し、カサネの両肩に手を置いた。
「駄目よ、未来の裁縫の腕は壊滅的なんだから! 穴が大きくなっちゃうわよ」
 凛が腰に手を当て、よく通る声ですぱりと告げる。「凛、ひどい!」と喚く未来と、「だってほんとのことじゃない」とあしらう凛の姿がどうにもおかしく、カサネは思わず笑声をもらした。カサネの空気が緩和したことに安心し、未来と凛は目を合わせて笑顔を見せる。
「修復までは無理でも、泥を払うくらいならできるよ!」
「はい、お願いします」
 未来の言葉に、カサネは笑顔で首を縦に振った。凛は「決まりね」と頷くと、廉を振り返る。
「あ、廉はついてきちゃ駄目よ。ここで、さっきのやつらがこないか見張ってて」
「……。わかってるよ」
 凛の言葉を受け、廉は複雑な表情を浮かべながら頷いた。カサネの家から離れ、さきほど少年たちが去っていった藪の近くに立つ。
 カサネと未来、凛はカサネの家に足を踏み入れた。

「まず泥をおとさなきゃね。衣紋掛けはある?」
「あ、はい……あちらの角に……」
 凛の問いに答えたカサネは、籠の中から新しい着物を出すと、帯を外して着替え始めた。
 未来はカサネに声をかけ、破れた着物と帯を受け取った。ひどい有様だったが、幸い長襦袢までは破れていないようだ。
 未来から着物と帯を受け取り、衣紋掛けにかけた凛は、それを持って縁側に向かった。外の風に当てたほうが、泥の乾きが早いという判断だ。
 新しい着物に袖を通すカサネを見ながら、未来は目を見張る。破れてしまった着物の柄も見事だったが、こちらの柄も同じように素晴らしい柄だ。色合いはさほど派手ではないが、緻密に編まれた模様はため息が出るほどに美麗だ。そしてそれもやはり、流香のまとっていた着物の柄に酷似していた。
 自分の胸の高さにあるカサネの後頭部を見つめながら、未来は静かに口を開いた。
「ねえ、カサネ。今日はあなたに聞きたいことがあってここにきたんだ」
「はい。……なんでしょう?」
 カサネは慣れた手つきで帯を結ぶと、首を傾げながら振り返った。未来は、部屋の隅にある布がかけられた織機に目をやり、問いかける。
「あなた、機織の仕事をしているの?」
「はい。村から糸を預かり、反物を作る仕事をしています」
「それじゃ、あなたのこの着物も、自分で織ったもの?」
「ええ。仕事の余り糸をいただき、織ったものです」
 カサネの答えに、未来は「やっぱり」と声を上げる。その反応に、カサネがもう一度首を傾げた。
「隣町で、よく似た柄の着物を見かけたんだ。私、その着物の美しさに一目で惚れこんで……誰が織ったものなのか、ずっと知りたかったの。もしかして、それがカサネじゃないかな、って」
 未来が言うと、カサネは少し考えてから織機にかけていた布を取り払った。
「わたしが仕事で織る布は、こういう柄が多いのですが……」
 そこには、織りかけの布がかかっていた。
「……わあ!」
 その美しさに、未来は思わず感嘆の声を上げた。
 濃紺から空色へ濃淡がつけられた生地に、色とりどりの朝顔が鮮やかに描かれている。川の水色や木の葉の緑色、木漏れ日を模した模様が随所に散りばめられていた。柄を囲むように描かれた流曲線は風を模しているのだろうか、まるで生命が宿っているかのような躍動感だ。
 流香の着物を初めて見たときと同じ衝撃、そして感動が、未来の身体を震わせる。
「そう……そうだよ! 自然を写し取ったみたいな独特の色彩と模様……間違いないよ! やっぱり、カサネが腕利きの機織師だったんだ!」
「なになに、何の話?」
 着物の陰干しを終えた凛が戻ってきて、話に入ろうとする。未来は、着替え終えたカサネと凛を誘って外に出た。廉にも説明したいと思ったからだ。
 廉は真面目に、警戒態勢で藪のほうを見つめていた。声をかけると「着替えは終わったようだね」と近づいてくる。カサネと未来は小さな縁側に肩を並べて座り、凛と廉は傍に置かれた大小の木箱にそれぞれ腰を下ろした。

 未来は凛と廉に、先日カサネに声をかけた理由を詳しく話して聞かせた。
 未来と芽衣が流香の着物をずいぶん気に入っていること、機織師を探していることをよく知っていたふたりは、話の内容に驚きを隠せないようだった。
「未来と芽衣姉が探してた職人さんが彼女だったってこと? すごい偶然ね」
 凛は目を真ん丸に開いてそう言い、カサネに向き直った。
「あのね、着物の持ち主の流香さんに聞いたんだけど、あなたの織る布、都で大人気らしいよ。奥方たちがこぞって買い付けてるんだって」
「そう……なんですか?」
 凛の言葉を聞いたカサネは、きょとんとした表情で目を瞬いている。
「聞かされていないのかい?」
 カサネの反応を不思議に思った廉が問いかけると、カサネはこくりと頷いた。
「わたしの仕事は、反物を村に納品するまでです。それがどう使われているのかまでは、知りませんでした」
 カサネはそう言うと、自分のまとう着物を見下ろした。そして、ぽつりぽつりと語り始める。
「この機織の技術は……かつて母から学んだものです。さきほど破れた着物は、母が遺してくれた形見のひとつなんです」
 言いながら、縁側の上部、突き出した柱にある衣紋掛けに視線を移す。未来と凛、廉も、カサネと同じように顔を上げた。かけられた着物は、柔らかな風に吹かれて微かに揺れている。
「そっか……だからさっき、あんなに悲しそうな顔をしていたんだね」
 さきほどの悲しみに満ちたカサネの瞳を思い出し、未来がしゅんと眉を下げる。カサネは小さく頷くと、話を続けた。
「わたしは、生きるために布を織っています。糸を預かって布を織り、布を渡して食べ物や道具をもらう……ずっとそうして生きてきました」
 そこで言葉を止めて、細い顎をゆっくりと下げる。
「わたしの織った布を、誰かが喜んで手にとってくれているなんて、……考えたこともありませんでした。……嬉しいです」
 カサネの顔には、屈託のない笑顔が浮かんでいた。
 それは、赤子が浮かべるかの如く純粋で、素直な喜びの表情。ささやかな事実を心から喜ぶ姿はいじらしくもあり、それだけに不憫でならず、3人は胸を衝かれ黙り込んだ。

 沈みこんだ場の空気を持ち上げるように、「そういえば」と凛が立ち上がる。
「さっき話に出てきたけど、未来が惚れこんだ唄って、一体どんな唄なの?」
 明るい声で話題を変え、両手を広げてカサネと未来を見る。話題を振られた未来は、胸の中のやるせなさを振り払うように笑顔を見せ、
「本当に素敵な唄なんだよ」
 そう言い、カサネに「ね」と同意を求めた。カサネは恥ずかしそうに頬を染めると「はい」と答えた。
「カサネのお母さんが歌っていた子守唄なんだって。まるで、お母さんの腕の中で眠っているようなあたたかくて優しい旋律なの。私、一度聴いただけで大好きになっちゃったんだ。きっと凛も廉くんも気に入ると思うよ」
 未来は、カサネと共に奏でた旋律を思い出しながらしみじみと語った。
「そっかあ。未来が一耳惚れしちゃうくらい素敵な唄なんだ」
 凛は、カサネのほうを見、「そうだ!」と両手を打った。
「ねえ、その唄、あたしたちにも聴かせてくれない?」
「え、えっ!」
「こら、凛。いきなり無理な願いを言うもんじゃない」
 突然矛先を向けられ戸惑うカサネを気遣い、廉が冷静な声音で凛を制する。
「だって未来がそこまで言うなら、聴いてみたいじゃない」
「彼女、困ってるじゃないか」
「あ、あの、大丈夫です」
 言い合うふたりを交互に見ながら、カサネは両手のひらを胸の前で振った。
「びっくりしただけで、嫌なわけじゃないんです。……よかったら、聴いてください」
 そして、隣に座る未来に顔を向ける。
「未来、あなたも一緒に……歌ってくれますか?」
 カサネの視線を受け止めた未来は胸を叩いて、大きく頷いた。
「もちろん! 今日は咽喉の調子が万全なの。この状態でカサネと歌ってみたかったんだ!」
 ふたりは顔を見合わせると、互いの手のひらで拍をとり、大きく息を吸い込んだ。

 音が、溢れる。
 質の違うふたつの歌声が、絡み合い、別れ、そしてひとつになり交わる。
 笑顔で見守っていた凛も、腕を組んでいた廉も、思わず目を見開いて歌声に聞き入った。
 未来の声量と技術は熟知している凛と廉だが、カサネの歌声もそれに引けをとらないものだった。小柄な凛や廉よりも更に小さなカサネから発される豊かで澄んだ声に、ふたりはただ言葉を失い、耳を傾ける。
 不意にがさりと近くの草むらが動き、凛ははっとそちらに視線を流した。先ほどの少年たちが戻ってきたのかと思ったが、そうではなかった。草の向こうに見えるのは、鹿の親子だ。
 歌声に合わせるように、小鳥の鳴き声が響く。音を辿り顔を上げれば、家の傍に立つ高い木の枝に数羽の小鳥が止まっているのが見えた。木の根のそばには、うさぎの姿もある。
 凛と廉は、ほどなく理解した。動物たちが顔を出したのは、ふたりの歌声に引かれたからなのだ。カサネと未来を見つめる動物の瞳は優しさに満ちている。それは、まるで子どもが親を、親が子どもを見つめる視線によく似ている。
 動物たちに見守られているからか、カサネの歌声が深みを増した。それに合わせるように、未来の歌声も一層情感を増していく。

 やがて歌が終わり、あたりに静寂が戻る。
「……すごい……」
 しばしの沈黙の後、口を開いたのは凛だった。
「なんだろう……この感じ。あたたかくて、心地よくて……」
 瞳を細めて胸を押さえる凛の隣で、廉もまた同じような表情を浮かべていた。
「なんだか、懐かしい気持ちになる……素敵な唄だったよ。未来姉が惚れこんだのもわかる」
 ふたりの言葉を受け、カサネは恥ずかしそうに、だがとても嬉しそうに破顔した。同じように笑顔を浮かべる未来と顔を見合わせる。
 凛は胸に手を添えながら快活な瞳を大きく開き、カサネに話しかけた。
「未来はいつも、歌声を聞けば相手の人柄や思いがわかるって言うの。あたしにはわからない感覚だったけど、初めてわかった気がする。カサネさんと未来がこの唄を好きだってこと、心の奥まで伝わってきたよ。わがままを聞いてくれてありがとう」
 凛の直球な言葉に、カサネはまたも頬を赤く染めながら「こちらこそ、聴いてもらえて嬉しいです」と答えた。
「あの動物たちは、唄を聴きにきたのかな」
 去っていく動物の背中を見ながら、廉が問いかける。
「あ……はい。わたしが歌っているといつも聴きにきてくれる、お客様なんです」
 カサネがそう言うと、未来があっと大きな声をあげ、
「そういえば、私が道に迷ってここにたどり着いたときも、動物たちが縁側にたくさんいたよね。そっか、あの子たち、あのときもカサネの唄を聴きにきていたんだ……驚かせて悪いことしちゃったなぁ」
 申し訳なさそうに眉を下げる。しゅんとする未来を見たカサネは小さく微笑んだ。
「みんな気にしていませんよ、優しい子たちですから……。それに、未来の歌声も気に入ったみたいです。今日はいつもより、嬉しそうな顔をしていました」
「えっ、本当に? よかったぁ」
 カサネの言葉に、未来は安堵したように表情を緩める。
 ふたりの会話を笑顔で見つめていた凛が、瞳をきらめかせながら「そうだ!」と元気よく右手をあげた。
「お返しってわけじゃないけど、あたしたちの舞台もカサネさんに見てもらおうよ」
「舞台……ですか?」
「未来が歌い手だっていうのは聞いたかな? あたしは踊り手、廉は楽器の奏者なんだ。いつもみんなで舞台に立ってるの。あたしたちの本質を感じてもらうには、これが一番いいかと思ってさ」
「お互いを音楽で理解する、ってことか」
「そういうこと」
 廉の言葉に頷いた凛は、雪駄をとんとんと地面に打ち付けながら足元の確認をしている。未来も揚々と立ち上がり、軽い足取りで凛の右側についた。
「ほら、廉。あんたもよ。篠笛持ってきてるんでしょ」
 呼びかけられ、廉も立ち上がる。腰帯にさした金襴袋から篠笛を取り出し、凛の左後部に立った。
 縁側に腰掛けたカサネは、何が始まるのかと緊張の面持ちで3人を見つめる。
 3人は目配せを交わしてから息を吸い、同時に止めた。そして凛が、大きく手を打つ。
 凛の合図を皮切りに、未来の唇から唄が紡がれる。次いで、廉の篠笛から旋律が流れ出した。凛はふたりが奏でる曲にあわせて一定の拍子で手を叩き、地面を蹴った。
 優しく耳を打つのは、カサネの知らない曲だ。
 未来が紡ぐ唄は、四季を讚美する民謡。カサネと二重唱をしていたときのそれと雰囲気をたがえ、腹の底から堂々と歌い上げる。快活でよく通る声は聴いていて心地いい。
 未来の唄に寄り添うように、廉の篠笛が響き渡る。繊細な中にも力強さを感じる澄んだ音色は、優しく耳に馴染む。
 曲に合わせて手拍子を打ち、合いの手を入れながら凛が軽やかに跳ねた。雪駄を履いているとは思えぬほどの足取りで、愛嬌のある笑顔を振りまきながら舞い続ける。
 カサネは瞳を限界まで大きく開き、食い入るように3人の姿を見つめた。彼女たちの技術の高さは、舞台に触れたことのないカサネにも充分に感じ取れる。
 一人ひとりの技術もさることながら、3人が揃うことで、お互いの良い部分を引き出しているのだろう。
 それはまるで、カサネが初めて未来と二重唱を歌ったときのような衝撃だった。
 凛がくるりと回って足を止め、同時に唄と演奏も止まる。3人は顔を見合わせ、舞台でするように深々とお辞儀をしてみせた。
 カサネは大きな拍手を送った。感動と驚きに満ちた彼女の瞳は輝き、頬は紅潮している。
「すごい、すごいです」
「楽しんでもらえたかな?」
「はい!」
 カサネはまるで子どものように頷くと、何度も何度も「すごい」と繰り返した。
「ね、いい提案だったでしょ。あたしたちの本質、ちょっとはわかってもらえたかな」
 額の汗を軽く拭い、凛が笑う。
「はい、とてもまっすぐで、堂々としていて……それでいて優しくて、勢いもあって……あの、……その……ああ、なんと言えばよいのか……」
 カサネは熱い頬を両手で押さえながら、言葉を探している。一生懸命感想を口にしようとする様子がおかしく、未来は小さく笑った。
「カサネ、充分伝わってるよ。ありがとう!」
 その言葉に安心したカサネは、ほっとしたように笑顔を返した。


 太陽がやや西に傾き始めている。
「本当に、素晴らしかったです」
 未来たちの賑やかな演舞を、カサネは大層気に入ったらしい。しみじみと呟くカサネに、未来は「そう言ってもらえて嬉しいよ」と返した。
 4人は、縁側に集まって先ほどの着物の泥を落としていた。付着した泥はすっかり乾いており、落とすのが容易になっている。未来はそれを慎重に払いながら、破れた箇所を改めて見つめた。
「綺麗に治るといいけど、どうかな……」
「……おそらく、元の形には戻らないと思います」
 カサネの返す言葉のとおり、着物の形に蘇らせるには破れている箇所が多すぎる。
 未来はカサネが悲しみに沈んでいるのではないかと思い、励まそうと彼女の顔を覗きこんだ。しかしカサネは思いがけず、穏やかな微笑みを返してきた。
「それでも、あのとき……あなたたちが助けてくださったから、この程度ですみました。着物として着ることはできなくなっても、違う形で大切にしていきます。……本当にありがとうございます」
 カサネの言葉に、未来は驚いた。じわじわと切なさが這い上がってくる。
 できることならこの宝物が傷つく前に助けてあげたかった。
 カサネもこの着物も、傷つけられる理由などないというのに――カサネが笑顔だからこそ、未来の胸は余計に痛んだ。
 裏側の泥を落としていた凛は、手をはたきながら表に回り、カサネの前に立った。その顔には未来と同じく、やるせなさが滲んでいる。
「ねえ、どうしてこんなに苦しい思いをしながら、ここにいるの?」
 尋ねる凛の声に、いつもの威勢のよさはない。
「長い間、理不尽ないじめを受け続けてきたんでしょ? これからも受けるかもしれないんでしょ? それなのに、あなたはここに居続けるの?」
 問われたカサネは、少し間を置いたのち、こくりと頷いた。
「どうして? そんなの辛すぎるよ。いっそ逃げちゃえばいいじゃない!」
 思わず声を高めた凛に、カサネは驚いて肩を震わせた。払った泥を箒で掃いていた廉も、手を止めその様子を見ている。
「……逃げる……」
 カサネは細い頤を軽く下げて視線を地面に落とし、ゆっくりと唇を動かした。
「……どこに行けばいいのか、わかりません……」
 ぽつりとこぼれた言葉には、哀しさや寂しさ以上に、当惑の色が浮かんでいる。
「わたしは、物の怪です。どこに行っても、追い出されるでしょう」
 泥のついた手のひらをぎゅっと握り締め、カサネは続ける。
「火神村の人たちは、わたしにつらくあたります。……だけど、わたしを追い出したりしないし、仕事も与えてくれます。……わたしが平穏に生きていけるのは、きっとここだけ。母さんとの思い出の家があり、山の動物たちがいる、この場所だけ……」
 カサネの言葉を聞きながら、未来も知らず手のひらを握り締めていた。
 自分たちの倍以上の年月を生きる彼女の言葉は、あまりに重い。しかし、だからこそ未来は黙っていられずに口を開いた。
「そうとは限らないよ、カサネ!」
 確かにそれは、カサネがはかり知れない孤独の上でたどり着いた結論だろう。
 だがそれは、この狭い世界の中で生きてきた彼女が、複数ある道の存在を、そして選択肢の存在を知らなかったからではないだろうか。
 未来はカサネに諦めてほしくない一心で言葉を続けた。
「外に出てみないとわからないよ。きっと、もっと平穏に生きていける場所があるはずだよ!」
「外……ですか?」
 未来の言葉に、カサネは目を瞬いた。
 この場所で育ち、学を積むことも他人との親交もなくひとり生きてきた彼女にとって、火神村の外の世界など想像もつかないのだ。
 未来は歯がゆい思いを抱きながら、カサネの両肩をつかんだ。
「カサネはこの村から出たことがないんでしょ? 外は……この村の外は、世界はすごく広いんだよ。カサネが知らないことだってたくさんある。あなたがもっと幸せになれる場所が、どこかにきっとあるよ!」
 真剣な顔で未来が言い、その隣で凛が「そうだよ」と大きく頷いた。
 カサネは幾度か瞬きを繰り返すと、未来の顔をまっすぐに見上げた。そして、問いかける。
「外の世界の人は、みんな、あなたたちのような人なのですか?」
 ――瞬間、未来は軽く息をのんだ。
 カサネの発言に他意はない。ただ純粋な問いかけだろう。
 だが、未来はそれに答えることができなかった。そうだとも、そうじゃないとも言えない。答えがあるのかどうかすらわからなかった。
 カサネが火神村の住人からこれほど邪険に扱われている理由。それは、彼女が物の怪だからに他ならない。絵草紙や昔話に出てくる物の怪は、常に人に害なすものとして描かれる。恐れられ、忌み嫌われる存在――それが世間の認識だ。
 たとえどれだけ善良な物の怪だったとしても、無条件で受け入れてくれる人々が外の世界にどれだけ存在するのか。そんなこと、知りようがない。未来自身、カサネに出会っていなければ、物の怪に対しどういった反応を向けたかわからないのだ。
 未来は、自分がいかに無責任な発言をしたのかということに気付き、押し黙った。
 凛も同じことを思ったのだろう、未来と同じように口をつぐみ、視線を彷徨わせている。廉だけはなにかを思案するように箒を握り締め、表情を変えずに話を聞いていた。
 答えられずにいる未来を見て、カサネは「ごめんなさい、おかしなことを聞きましたか?」と少し慌てたそぶりを見せた。未来は歯切れ悪く「そうじゃないの」と答えたが、それ以上のことは口にすることができなかった。
 居心地の悪い、微妙な沈黙が場に流れる。

「実は……村の少女たちに優しくしてもらったことがあるんです」
 沈黙を破ったのはカサネだった。肩をつかんだままの未来の手にそっと触れ、言葉を続ける。
「わたしの体をいたわって……優しい瞳を向けてくれたんです。とても嬉しかった……。そのとき、わたしは思ったんです。村の人たちも、きっとわたしを嫌いな人ばかりではないのだろうって……」
 カサネは赤い瞳をそっと閉じ、言葉を続ける。
「生きていれば、誰かが自分を求めてくれる、必要としてくれる。……母はそう言っていました。あの少女たちの優しさは、きっとその一歩。私はそれを、信じたいんです」
 未来の手の上の、小さな指先にかすかな力がこもる。
「……だからわたしは、ここで生きていきます」
 カサネははっきりとそう言い、瞳を開いた。濁りのない赤の瞳が、まっすぐに未来を見る。
 あれだけ痛めつけられても村人を憎まず、希望を捨てないカサネを、未来は複雑な感情で見つめた。カサネの言うとおり、村には優しい子どもたちもいるのだろう。だが、村全体に漂う大きな悪意の前に、その小さな善意が勝てるとは到底思えなかった。
 そして、カサネと自分の立ち位置が違うことをまざまざと思い知る。
 同じ人間ならば問題のない道でも、彼女が物の怪というだけで、その幅は一気に狭くなる。同列に考えられるような、簡単なことではなかった。
 未来と同じことを考えたのだろう、凛は下唇を噛みながら地面を見つめた。
 善意でできることには、限りがある。結局、自分たちは部外者でしかないのだ。

「……未来姉、凛。そろそろ日が暮れる。戻らなきゃ」
 またしても場に下りた沈黙を、今度は廉の静かな声が破った。箒を元の場所に戻し、黙ったままの未来と凛に声をかける。
 廉の言葉のとおり、陽はずいぶん西へ傾いていた。まもなく空が赤く染まり始めるだろう。
 未来は力なくカサネの肩から手を下ろした。胸の奥のほうが締め付けられ、うまく言葉が出てこない。黙って見つめてくる未来に、カサネは小さく微笑んだ。可憐な笑みがひどく儚く見えて、未来の胸はますます痛んだ。
「本当に、ありがとうございました」
 カサネはそう言って深く頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとう。……それじゃあ、行こう」
 廉が答え、山道へと歩き出す。凛は何か言葉を探しているようだったが、うまく見つからなかったらしい。結局カサネに向かって「さようなら」とだけ告げ、廉の背中を追った。
「帰り道、わかりますか?」
 カサネの問いに、未来は小さく頷いた。カサネは安心したように頷き返すと、
「未来、本当にありがとうございました。……さようなら。お元気で」
 そう言い、微笑んだ。
 言いたいことや伝えたいことはたくさんあるはずなのに、うまく言葉にならない。笑顔になろうとしたが、それもうまくいかない。
「……また、来るから」
 そう言い、返事も聞かずに踵を返す。これ以上カサネの顔を見ていると、涙がこぼれそうだった。


 3人は無言で下山した。
 宿に着くころには鮮やかな夕焼けがあたりを赤く染め、村の家々から水煙が上がっていた。
 団員全員揃って夕餉をとるのは久々なので、芽衣や幼子の母親たちは腕によりをかけてご馳走を振舞った。食卓にはずらりと火神村名産の食材が並び、団員たちは談笑しながら食事を楽しんだ。
 未来は複雑な気持ちで箸を動かしていた。凛や廉も冴えない顔をして食事を口に運ぶ。その様子を見た芽衣は「あなたたち、どうしちゃったのよ」と怪訝な顔をしたが、説明などできるはずもなく、3人は曖昧に誤魔化すことしかできなかった。
 
 食事と風呂を済ませ、布団にもぐりこんだ未来は、思いをめぐらせていた。
 目が冴えて眠れそうにない。それは隣の布団にもぐりこんでいる凛も同じらしく、周りの団員がみな寝息を立てる中、ふたりは落ち着きなく何度も寝返りを打っていた。
「……未来。起きてるんでしょ」
 業を煮やしたのか、凛が頭を寄せ、小声で話しかけてくる。未来は同じように声をひそめ、言葉を返した。
「うん、起きてる。……眠れなくて」
 行灯のわずかな光の中、凛の瞳が憂鬱な色に揺れている。自分も同じような目をしているのだろうな、と未来は思いながら、ため息をついた。
 凛は未来のため息を受け、うーんと唸ると、ねえ、ともう一度話しかけてきた。
「ちょっと、外に出て話さない?」
「こんな夜中に外に出たら怒られちゃうよ」
「どうせ眠れないんだから、どこにいたって同じじゃない。宿のすぐそばなら大丈夫よ」
 頭を突き合わせた凛は、どうにも落ち着かない様子だ。同じことを考えて眠れないだろうことは容易にわかった。確かに、ここでごろごろと寝返りを繰り返して朝を迎えるよりすっきりするかもしれない。
 ふたりは小さく頷き合うと、そっと布団から抜け出した。眠っている団員たちに気付かれないよう、忍び足で部屋を出る。音を立てないよう気をつけながら、扉を開けて外に出た。

 月は東南の夜空に浮かんでいる。もうしばらくすれば夜半を過ぎるころだ。
 思いのほか涼しい風が吹きぬけ、未来は長い髪を手のひらで押さえた。
 扉の近くで話していては、誰かが声を聞きつけ起きてくるかもしれない。ふたりは寝室から一番遠い台所の裏側を目指すことにした。
 縁側をぐるりと回り角を曲がったところで先客がいることに気づき、未来は驚いて足を止めた。危うく出そうになった声をなんとか飲み下す。
 そこには廉がいた。突然現れた未来に廉も驚いたのか、目を丸くして瞬きを繰り返している。
 立ち止まった未来の後ろから顔を出した凛は、やはり同じように驚いたあと、
「廉、あんたこんなとこでなにしてんのよ」
 声をひそめてたずねる。廉は肩をすくめ、ひとつ息をついてから口を開いた。
「未来姉と凛こそ、こんな時間に外に用事があるのかい?」
「どうにも眠れないから、話をしようと思って外にきたの」
 質問を質問で返す廉に、未来が答える。
「実はぼくも眠れないんだ。体を動かせば眠れるかと、ここで運動してたんだけど……余計に目が冴えてしまって」
 未来と凛は顔を見合わせ、そして廉を見た。
 この3人が全員眠れないとなると、原因はひとつしかない。
「……未来も廉も、カサネさんのこと考えてたんでしょ」
 口火を切ったのは凛だ。今度は未来と廉が顔を見合わせる。互いに図星だという表情をしていた。凛はやはり、という表情を浮かべる。
「あたしもそう。今日の昼間のこと思い返すと、どうにも眠れなくてさぁ……」
 凛の声は、もやもやとすっきりしない。未来はこくりと頷き返すと、
「胸の奥が重たいの。なんて言ったらいいのかな……締め付けられるようで苦しくて……」
 そう言って己の胸に手のひらを当てた。いつも朗らかな表情を浮かべるその顔は曇り、形のいい眉は力なく下がっている。
「……カサネがかわいそう。なんとかならないのかって、そのことばかり考えてしまうの」
「あたしも、そう」凛は宿場の壁に軽くもたれかかりながら腕を組んだ。「カサネさんはああ言ってたけど、この村にとどまることが最善だと、あたしにはどうしても思えないよ」
 その言葉に同意しながら、未来は村の家屋が立ち並ぶ通りへ視線を向けた。
 どの家も明かりは消え、あたりには静寂が流れている。昼夜問わず人が行きかう桜深町の夜とは違う、その静けさは心地よくもあったが、同時にどこか薄ら寒さを感じずにはいられなかった。
「私たち、彼女のためになにかできないのかな」
 未来は視線を頭上の月に移しながらぽつりと呟いた。
「どうにかいい方法があればいいんだけど。カサネが傷つかず、みんなで幸せになれる方法が……」
「うまくはいかないだろうね」
 それまで黙ってふたりの会話を聞いていた廉が、未来の言葉を遮った。凛と未来は廉を見る。彼は真剣なまなざしでふたりを見返しながら、言葉を続けた。
「彼女が自らここに留まりたいと言ったんだ。なら、ぼくらが彼女のためになにかをしようとするのは、彼女にとって迷惑になりかねない」
 小声できっぱりと言い切る廉に、凛が不機嫌な顔を向ける。
「なによ、廉。あんたもカサネを思って眠れなかったんじゃなかったの」
「……そうだよ。だけど、これはどうしようもない話だ。善意で行ったことが、必ずしもいい方向に転がるとは限らないんだから」
 廉は、そばにあった切り株に腰をかけながら、凛と同じように腕を組んで静かに答えた。
「もしぼくらが手助けをして、現状を変えたとしよう。たとえば、別の場所に移住できたとして……今以上にひどい状況になったらどうする?」
 未来は唇を軽く噛んだ。それは、昼間カサネと話したときに思い描いた行く末そのものだった。
「確かにその可能性もあるけど、今よりましになる可能性だって、なくはないでしょ?」
 食い下がろうとする凛だが、
「ましになると本当に思うかい? 凛だって最初、物の怪はおっかない化け物だって言ってたじゃないか。それが世間の認識なんだよ。カサネさんの性格や本質はともあれ、彼女が物の怪なのは、覆せない事実なんだから」
 即座に切り返され、黙り込むしかない。今度は未来が廉に食い下がる。
「廉くんの言うことは、よくわかるよ。それでも、私は諦めたくない。カサネにも諦めてほしくないの」
「諦めてはいないだろ? カサネさんはこの村に希望を持っていると言っていたんだから」
「なら、カサネの希望をかなえてあげることはできないのかな。彼女をいたわった村の少女を探して、うまく話をして……それで……その子たちをきっかけに、いずれ村人全員の考え方が変わるように……」
 未来の言葉は、尻すぼみに消えていく。提案に中身が伴っていないことに気付いたからだ。この村の住人でもない未来たちに、根本的な考え方までをも覆す力や権限など、あるはずもない。
 認めるのは悔しいが、やはり廉の並べる言葉こそが現実的だった。この現実を解決する術を、未来たちは持ち得ない。自分たちがもっと大人ならば、知恵を持っていればあるいは――そう思ったところで、どうしようもないのが現状だった。
 黙りこんだ未来を見ながら、廉は小さく息を吐き出した。わずかに眉を寄せ、未来と凛を交互に見る。
「ぼくらはあと一月もすればこの村を離れ、次の巡業地に向かう。けしかけた責任を取ることもできないのに、中途半端に希望を持たせるなんて、そっちのほうが残酷だと……ぼくは思うよ」
「…………」
 言葉を受けたふたりは、返す言葉もなく地面を見つめ続けている。廉は切り株から立ち上がると、少し声を落として呟いた。
「明日、彼女に別れを告げに行こう。それが一番カサネさんのためになるだろう」
 未来と凛は、廉の声にほんのわずかな悔しさが滲んでいることに気づき、はっと顔を上げた。
 冷たい言葉を口にしているようだが、彼が眠れずにここに来たのは、やはりカサネを不憫に思ったからに相違ない。カサネのために考え抜いた挙句、この結論にたどり着いたのだろう。
 本来ならば海都への報告を考慮するはずの彼が思いとどまっている理由。未来と凛が感情だけで動こうとするのを止める理由。どちらも、カサネのためなのだろう。彼は彼なりに、カサネのことを深く考えているのだ。
「さあ、戻ろう。抜け出したのがばれたら、芽衣姉たちに怒られるよ」
 廉はそう言うと、宿の扉に向かって歩き出した。
 月の位置が高くなっている。もう夜半を回ったころだ。
 廉の背中を見送り、未来と凛は同時に大きなため息をついた。やるせなさの滲んだ、重いため息だった。
 未来はもやもやとした気持ちを抱えながら、出たときと同じように音を立てず部屋へ戻り、布団へもぐりこんだ。凛も冴えない表情で、隣の布団に横たわる。
 そして、悶々と思いを巡らせながら眠りにつくのだった。


 その頃、寝室の奥に位置する客間の隅で、芽衣と海都は酒を酌み交わしていた。
「やっぱりもう少し、今一歩、どうもねえ。うちの一座だからこそ、というのをもっと……こう、前面に押し出したいんだけどなあ」
「ふむ……」
 芽衣の言葉を聞きながら、海都は猪口に入った酒を口に含んだ。火神村の住人から買い取った地酒だ。酒豪の芽衣はすでに7杯目をあおっていたが、海都はいまだ1杯目をちびちびと口に運んでいる。
 芽衣は舞台に立つ者として、現状にずいぶんと思い悩んでいるようだった。
 伝楽座は桜深町でかなりの人気を博している。充分な客を得られているし、団員たちの技術や向上心、団結力も問題ない。
 芽衣がしきりに気にしているのは、独創性のなさについてだ。
 伝楽座らしさ――他の楽団にはない独特の魅力をもって更なる高みを目指したいと彼女は思っていた。その情熱が高じ、最近では独学で曲作りなども行うようになったほどだ。
 海都は現在、団長兼舞台監督として動いている。観客からの評判や声、客席からの見栄えや音響の具合、そして実際に舞台に立つ者の意見をすり合わせることで、現状を把握するのが主な仕事だ。
 特に芽衣の舞台に関する感性には全面の信頼を置いていることもあり、こうして膝をつき合わせ一座の将来について話し合う機会が多々あった。
「やっぱり、衣装職人がほしいなあ」
 芽衣は、猪口の淵を指先でなぞりながらため息混じりに呟いた。
「この村に、腕利きの機織師がいるって流香さんが言ってたでしょ。今日1日、聞き込みして回ったんだけど、なんだかはぐらかされちゃって、結局わからずじまいなんだよね。村の住人のはずなのに、村長さんの奥さんや息子さんまで知らないなんて、おかしくない? 明日には村長さんが帰ってくるらしいから、聞いてみようと思うんだけど」
 話しながら8杯目を猪口に注ぎ、一気にあおる。
「その機織師が、専属の衣装職人として入団してくれたら最高なんだけどな。……でもあれだけの腕だもの、給金がとんでもないかもねぇ。いろんなところから引っ張りだこだろうし。となると、やっぱりこないだ桜深町で見たあの髪飾りを……」

 芽衣の話を聞きながら、海都は、今日の昼間の出来事を思い出していた。
 篠枝から野菜を買い取る約束をしていた海都は、彼女の家を目指していた。
 角を曲がろうとしたとき、向こうから男女が言い争う声が聞こえてきた。あまりに激しい口論だったので、海都は思わず立ち止まり、家の影から様子を覗き見た。
 そこにいたのは篠枝と、村長の息子である弥吉。ふたりは肩を怒らせながら怒鳴りあっていた。
「話が違います。仲介料を上げてくださると言っていたじゃないですか!」
「具体的な時期の話はしてなかったろ。来月からだ、来月!」
 篠枝の怒りをはらんだ金切り声と、弥吉の地を這うような低い声がぶつかり合う。海都は思わず眉をひそめた。
「あの反物は、都でずいぶん高値で取引されていると聞きましたわ! あなたの手元にも相当金が舞い込んでいるはず。今すぐにでも払えるはずでしょう!?」
「おいおい、推測だけでものを言うとは学の足りねえ女だな、旦那に逃げられるのも無理ねえや。確かにあいつの反物は人気だが、なにせ納品速度が遅すぎる。もっと急かすことはできねえのか」
「納品はこれが限界だと何度も言ったはずです。出来を落としたなら評判も売値も落ちる。困るのはあなたのほうじゃないですか」
「だから、出来を落とさせずに、めし食う時間と睡眠時間をぎりぎりまで削らせろって言ってんだよ」
「これ以上急かして、万が一にも命を落としたり逃げ出されたりしたらどうします。困るのは村長とあなたでしょう!?」
「そこはうまく調整するんだよ、仲介者として。それがお前の仕事だろ」
「……弥吉さん、いい加減にしてください! 論点がずれています! 私は、仲介料の話をしているんですよ!? 来月まで待てないという話を!」
 一段と鋭くなった篠枝の言葉に、弥吉はわざとらしく大きなため息をついてみせた。
「おーおー、金、金、金か。がめついことで。お前んとこの娘らはいずれ人柱になる身だろ、金かける価値もねえってのに。ともかく、値上げは来月からだ。余裕がなけりゃ再来月からになるけどな!」
 弥吉は吐き捨てるようにそう言うと、海都の隠れる角と反対側へ足音荒く去っていった。残された篠枝は怒りに震え、ぎりぎりと歯を噛みしめていた。
 「腐った金の亡者どもめ……こんな村、金さえ貯まれば……」
 呪詛を唱えるように呟く篠枝の顔は、いつも野菜を売りに来るにこやかな彼女と同一人物に見えないほど鬼気迫っていた。
 さすがにそんな彼女に話しかける気にはなれず、海都は複雑な気持ちでその場を後にした。
 篠枝が時折連れて歩いている幼い娘たちが、物の怪の次に穢れの強い者――忌子だということ。そして、篠枝は機織師と繋がっているということ。昼間海都が得たのは、そのふたつの事実だった。

 海都が思い返している間も、芽衣はぶつぶつと衣装について語り続けていた。
 斬新な印象を与えるために着物の裾を短く切ろうか、異色の柄を合わせようか、帯の素材を西洋の布に替えて……などと熱心に思考をめぐらせている。
 きちんと聞いていなかったことに申し訳なさを感じながら、海都は芽衣の名を呼んだ。芽衣は言葉を止め、首を傾げて海都を見る。
「……なんだかずいぶん深刻な顔してるわね」
 手にしていた猪口を床に置き、芽衣はわずかに瞳を細める。言外になにがあったのか問いかけてくる彼女に、海都はひとつの覚悟を固めた。
「大事な話がある」
 村長から水鏡湖の伝説の話を聞いたときと同じ、胸のざわつきが拭えない海都は、声を低くして、隣の寝室で眠る他の団員に聞かれぬよう、芽衣との距離を詰めた。芽衣は少し緊張した面持ちで、同じように顔を寄せる。
「……実は、予定を前倒しにして、この地を離れようと思っている」
「え?」海都の唐突な言葉に、芽衣は思わず眉を寄せて問い返す。「いきなり何、どういうこと? 桜深町ではまだまだ稼げると思うけど……」
「桜深町は問題ないんだ。問題はここだ」
 海都はもう一段声をひそめ、とんとんと床を人差し指で突いた。芽衣はやはり眉を寄せたままその指先を見、そして海都の顔に視線を戻した。
「ここって、この村のこと?」
「ああ」
「……なにがあったの?」
 誰よりも一座を第一に考える海都が、これほどの重大な決断を理由なく下すなどありえない。それだけの原因があるのだと悟った芽衣は、きりりと表情を引き締め、背筋を伸ばして座りなおした。
 海都は静かに口を開き、村長から聞いた水鏡湖の伝説、忌子と物の怪の存在について、かいつまんで語った。
 海都の話を聞き終えた芽衣は、腕を組んで唸った。
 あれだけ人当たりのいい村人たちだが、裏にはずいぶん暗いものを抱えているらしい。火神村を心底気に入っていた芽衣には衝撃的な話だった。
「信じがたい話だけど……人柱の伝説なんて本当にあるのね」
 芽衣は長い睫毛で縁取られた瞳をまたたくと、軽く頭を揺らしながら呟いた。
 神への供物として人を捧げる風習が存在することは知っているが、一昔前に廃れた文化だと思いこんでいた。実際に滞在している村がその文化を擁しているとなれば、背筋が寒くなるのも仕方ないだろう。
「それに、300年も生きる物の怪がいたなんて……想像もつかない話だわ」
「僕らにもまだ知らない世界があるってことさ」
 海都はそう言いながら、猪口を空にした。2杯目を徳利から注ぎ、ゆっくりと口に運ぶ。その様子を眺めながら、腑に落ちない顔で芽衣は問いかける。
「確かに薄ら寒い話だけど、それだけの理由で?」
 桜深町ほどの大きな舞台で稼げる機会はそれほど多くはない。あと一月の巡業がまるまるなくなるのは、ずいぶんな損失に思えてならなかった。確かに人身御供の伝説や物の怪の存在は不気味だが、直接自分たちに害のある話ではない。天秤にかけるほどの話だろうかと、芽衣には不思議に思えたのだ。
「いや、それだけじゃない。……芽衣、覚えているか? 未来が風邪を引いたときのことを」
 芽衣は記憶をたどった。ちょうど一月ほど前のことだったろうか、と思いながら頷く。
「あのとき、彼女は物の怪の少女に会ったと言っていただろう」
「ええ。また夢でも見たのかと思っていたけど……」
「村長は、火神村には物の怪の忘れ形見がいる、と言った。未来が会った少女は、おそらく、先の儀式で生贄になった物の怪の実子ではないかと僕は思う」
 海都は村長から聞いた話をなぞりながら憶測を口にする。ぼんやりとわかる部分をつなぐうち、自然と導き出された答えだ。
「未来は物の怪の娘に2度会っている。好意的な様子だったし、会って謝りたいと言っていたから、おそらくはまだ再会を願っているだろう。だが物の怪の娘は、5年後の神事で人身御供になる運命を背負っている。それを未来が知ればどうなる?」
「……まあ、止めるでしょうね。あの子の性格なら」
「そうなれば、きっと騒ぎになる。互いのために未然に防ぐべきだ。……有り体に言えば、この村が抱える厄介事や面倒ごとに巻き込まれたくない」
 海都の発言は、村の者が聞けば気を悪くするような冷たい内容だ。だがそれもすべて一座を思ってのことだと芽衣にはわかる。荘介とやり方は違えど、なによりも一座を大切に思い、団員たちを守るためならばどれほど小さな障害をも慎重に取り除こうとする海都を、芽衣は心から信頼していた。大きく頷きながら口を開く。
「そうしましょう、団長」
 芽衣の真摯な瞳と言葉を受け、海都が安心したように薄く微笑んだ。
「ところで、出発を早めるって、どれくらい?」
「準備が出来しだい、すぐにでも。未来のことだけでなく……なんとなく、嫌な予感がするんだ。できるだけ早くこの村から離れたい」
「海都の勘は当たるからね」
 理由のひとつは曖昧なものだったが、芽衣はいたって神妙な顔で同意した。こと危険察知に優れた海都の勘には、これまでも救われてきたからだ。
 海都は猪口の中身を飲み干し、あらためて芽衣の顔を見た。
「明日の朝、桜深町に出向いて、公演の切り上げについて流香さんに報告するつもりだ。迷惑料の支払いや荷物の引き上げの段取り、手続き等があるから、芽衣にも同行してほしい」
「わかったわ」
「桜深町から戻りしだい団員たちに今後の動きを伝える。村長への挨拶はその後になるだろう。忙しくなるが援助を頼む」
「任せて」
 芽衣は真剣な表情でこくりと頷いた。
 そしてふたりは次の巡業地の候補を考え始めた。
 すぐに出発するとなると、平助の足を頼って上演日程を取り付けることはできない。過去の巡業履歴が書かれた帳面をめくりながら、飛び込みが可能そうな候補地を絞っていく。最終的に、西南の港町を目指すことに決めた。
 今後の動きが決まったことで少し落ち着いたのか、芽衣は再び酒を自らの猪口に注いだ。
「……結局、火神村にいるっていう機織師には会えずじまいか。なにか後ろ暗いことがあるから隠しているんだろうし」
 天井を仰ぐ芽衣を見て、海都は篠枝と機織師とのつながりを思い出す。手がかりはすぐそこにあるが、それを伝えることで妙なことになっては困る、と口を閉ざした。
 芽衣のことだ、おかしな行動をするとは思えないが、万が一と言うこともある。なにより、篠枝に機織師の話を持ちかけるのは、危険な気がしてならない。
「あの着物、一生に一度の運命の出会いとまで思えたのに、残念だな」
 仕方ないという口調で、それでも心残りでならない様子の芽衣に、海都は少し考えてから口を開く。
「……次の町に向かう前に、都に立ち寄ろうか」
「都に?」
「都だと、その着物が流通してるんだろう?」
「そうだけど……」
「桜深町で稼いだ金をつぎ込めば、まあ、一着くらいはなんとかなるかもしれない」
 海都の言葉に、芽衣はぽかんと口をあける。
「嘘。買ってくれるの?」
「ずいぶん気に入っていたようだし。確かに舞台栄えしそうな着物だから、値段以上の働きを期待して……ね。必要経費ってことで、みんなも賛成してくれるだろう」
 しばらく食費や娯楽費を切り詰めなければならないかもしれないが。苦笑する海都に、芽衣は瞳を輝かせて少女のような笑顔を見せた。
「嬉しい! 未来も絶対喜ぶよ!」
「こら芽衣、大きな声を出すな」
 思わず大声を出した芽衣を、海都がたしなめる。芽衣は肩をすくめ、ごめんと謝った。だがその顔には満面の笑みが浮かんだままだ。
「海都ったら、男前」
「芽衣がずいぶん独創性のなさを気にしていたから……ひいては一座の将来のためだよ」
「ふふーん、照れちゃって」
 芽衣は笑うと、空になった徳利と2つの猪口を持って立ち上がった。
「じゃ、そろそろ眠りますか。これ以上深酒して、明日に響いたら大変だものね」
「そうだな」
 続けて海都が立ち上がる。台所の流しに向かいながら、芽衣がぽつりと漏らす。
「……出発まで、なにもないといいけど」
「よしてくれよ。そういうことを言うと、むしろ余計なことが起きるから」
 海都は苦笑を浮かべながら、男部屋に続く襖へ足を向けた。
 
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