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第2章
「んーっ、暇ぁ……」
 広い寝室の中央、ぽつんと置かれた布団の上で、未来は低い声で呻いた。
 初日の『やますずめ』での舞台は成功に終わり、あくる日も、そのまたあくる日も大盛況が続いていた。
 海都は流香と話し合い、休日返上で公演回数を増やすことに決めた。団員たちは、公演が始まりかれこれ一月(ひとつき)の間、嬉しい悲鳴を上げながら奮闘していた。
 もちろん未来も同じように頑張っていたのだが、疲れからか、幕間に汗を拭わず転寝をしてしまい、風邪を引いてしまった。
 咽喉が痛み、声が出せなくなった未来は、即座に火神村の宿での休養を命じられた。一刻も早く熱を下げて咽喉を治し、舞台に戻るよう、海都と芽衣に口酸っぱく言われている。
 最初の2日間はおとなしく布団にこもっていた未来だが、熱が下がった3日目ともなると、じっとしているのは苦痛でしかなかった。自分以外の団員が舞台をこなしていると思うと尚更である。
 宿に残る幼い子どもやその母親たちに風邪がうつってはいけないからと、未来はひとり隔離されていた。隣部屋から、障子越しに子どもをあやす声や子守唄が聞こえてくると、ますます寂しさとやるせなさが募り、滅入ってしまう。
「秋水先生、暇だよー。早く舞台に戻りたいよぉ……」
 未来は、そばで蘇葉を摩り下ろす青年に泣き言を漏らした。秋水と呼ばれた青年は、柔和な顔に困ったような笑みを浮かべながら答える。
「駄目ですよ。まだ声ががらがらじゃないですか。今戻っても、治りが悪くなる上に、質の悪い唄を披露することになりますよ」
 秋水は、ふだん舞台で使う小道具の製作に関わっているが、医療の知識が豊富なことを活かし、団員たちの健康管理も担っている。未来の熱にいち早く気づき、熱さましを調合したのも彼だ。
「せめてもう2日は、横になっていてもらいますからね」
「ええ〜……あと2日も歌えないなんて……」
 未来は眉を下げ、どんよりと憂鬱そうな表情で呟く。秋水はまたも苦笑を浮かべながら、湯飲みに摩り下ろした生姜と蘇葉、漢方を混ぜて湯を注ぐ。
「特製の生姜湯です。これを飲めば、声の戻りが早くなりますよ」
 未来は寝具を跳ね除けて起き上がった。差し出された湯飲みを受け取り、ふうふうと息を吹きかけながら、
「先生、これたくさん作って。私、一刻おきに飲むから。そうしたら早く治るでしょ?」
 そう言うが、秋水は首を横に振った。
「そんなに飲んだら、胃を痛めるだけですよ。早く治すには、なによりゆっくりと体を休めることです。つらい気持ちはわかりますが、今は我慢のときと思いなさい」
 やんわりと咎められ、未来はますます眉を下げながら生姜湯をすする。
 舞台に立つ、唄を歌うということは、未来の生きがいである。それがままならないのは、未来にとって身を切るつらさだった。
 その上、他の団員に迷惑や負担をかけているという事実も耐え難いものだ。未来は、うっかり居眠りしてしまった情けなさに肩を落とす。
 あまりに悲壮な空気を醸し出す未来を哀れに思ったのか、秋水は少し考えてから口を開いた。
「確かに、ずっと床にいるのは飽いたでしょう。少し外に出て、空気でも吸ってきますか?」
「えっ、外に出てもいいの?」
「気分が滅入ると治りが遅くなるものです。病は気からと言いますし、少し太陽を浴びるといいかもしれません」
「ありがとう、秋水先生!」
 未来は生姜湯を一気に飲み干し、立ち上がった。同じ部屋で同じ天井を、それこそ穴が開くほどに見続けていたのだ。外の空気を胸いっぱい吸い込めるというだけでありがたい。
 浮かれた足取りで玄関に向かう未来を見ながら、秋水は釘を刺す。
「まだ完治したわけではありませんからね。悪化せぬよう、すぐに戻ってくるんですよ」
「はい!」
 生姜湯の片づけをする秋水に手を振り、未来は雪駄を履くと宿の扉をくぐって外に出た。

 爽やかな風が頬を撫でる中、未来は大きく伸びをした。やや西に傾いた太陽の日差しが全身に降り注ぐ。
 2日半ぶりに吸い込む外の空気は、格段に美味しく感じた。木々がそよぐ音が心地良い。
「早く歌いたいなあ……」ぼやきながら、首を左右に回す。「あと2日も横になってなきゃいけないなんて、背中が腐っちゃうよ……」
 のどかな、平和な村の景色。道のずっと向こうで、子どもたちが輪になって蹴鞠をして遊んでいる姿が見える。
 その光景をぼうっと見つめていた未来は、ほどなく気付く。蹴鞠を楽しんでいるのは、先日、水車のそばで話した幼い子どもたちだった。
 気づいたと同時に浮かんだのは――物の怪の子のことだ。
 未来は、少し苦い顔をして胸の前で手を握った。
 今は篠枝の言葉に従い、凛、廉とともにその存在を忘れようと努めている。だが、掘り起こされた思い出は、そうやすやすと消せるものではなかった。
 それでも、どうしようもない。もう、諦めるほかない。もどかしいが、自分にはなにもできない。
 今自分にできることは、心の中で謝ること、そしてあの子の瞳から悲しみが消えているよう、祈ることくらいだ。
 未来は小さくため息をつくと、心にかかった霞を振り払うように、子どもたちから目を逸らした。
 流した視線の先に、ふと動くものを見つけた。家と家の間を縫いながら、駆け足で移動する小さな少女だ。
「……あれ?」
 少女は早足で路地裏に滑り込み、あっという間に去っていく。ずいぶん急いでいるようだけどどうしたんだろう、と思いながら、少女が立ち去った路地をぼんやり眺めていた未来は、
「あ!! 今の!!」
 ひとつの事実に気付いて、大きな声を上げた。
「あの子の着物、流香さんの着物にすごく似てた……!」
 少女が身につけていた着物。一瞬しか見えなかったが、その独特の色使いと柄の配置に、未来は確かに見覚えがあった。
 流香の父、司郎はいまだに隣町から戻っておらず、機織師や仕入先の情報は聞けていない。流香が言うには、これまで桜深町経由で都に仕入れていたその布を、最近では都の商人が直接買い付けるようになり、桜深町での流通はほぼ途絶えてしまったらしい。
 芽衣と未来は歯がゆい思いをしながら、司郎の帰りを待ち続けていたのだ。
 流香以外に、あの着物を着ている子を見つけ、未来の心は躍った。あの子に聞けば、機織師の所在地がわかるかもしれない。
 未来は期待で瞳を輝かせながら、衝動的に駆け出した。

 少女の消えた路地を覗き、小さな後姿を見つける。背中に籠を背負っていてよく見えないが、裾の柄はやはり流香が着ているものに酷似していた。
 必死に追いかけるが、少女も走っているため、なかなか距離が詰まらない。未来は、病み上がりで思うように動かない体に鞭を打ちながら、下前を掴んで全力で駆けた。
 そして、
「あの!」
 大声で呼びかけながら、少女を追い越し、前に飛び出した。
 小さな悲鳴を上げて、少女の目が見開かれる。
 同時に、未来の目は少女のそれよりも大きく、見開かれた。
 驚愕に息をのむ未来の姿を映した、その瞳の色は――まるで血に濡れたように真っ赤だった。
 未来は絶句して、驚き動きを止める少女を見つめた。
 時が止まったかのように、記憶が回転する。現実と過去の光景が重なる。
 そして、ぴたりと一致した。
 まるで血を流し込んだかのような、鮮烈な色。この瞳は間違いなく、10年前に見た物の怪の少女のそれだった。
 未来が絶句した一番の理由は、少女の容姿が10年前とまったく同じだったからだ。あのとき、悲しみにうなだれていた華奢で小柄な少女が、寸分たがわぬ容姿で目の前にいる。
 まるで、そこだけ時間の流れが止まったかのような、ひどく不思議な感覚だった。
 大声で呼びかけ、目の前に飛び出てきたあげく、目を見開いたまま黙り込んでいる未来に怯えたのか、少女は恐怖の表情を浮かべて後ずさる。
 なにか、言わなきゃ。未来はあわてて言葉を探す。
 着物のこと、10年前から年を取っていないこと、驚かせてしまったこと、不躾に見つめてしまったこと――まとまらない考えを必死にかき集めるが、うまく拾うことができない。
 少女はその間もじりじりと後退していく。萎縮しきった体から、警戒と不安が感じ取れる。怖がられていると気付き、ますます焦った未来は、混乱しながらも口を開いた。
「あ、あのっ、私!」
 未来の大きな声に驚いたのか、少女は肩をびくりと震わせる。そして、弾けるように身を翻し、駆け出した。重そうな籠を背負っているとは思えないほどの俊敏な動きで路地を抜け、村の東に位置する山のほうへと走り去っていく。
 我に返った未来は急いで後を追いかけた。小さな背中に「待って!」と叫ぼうとするが、あがった息がのどに引っかかり、激しく咳き込んでしまった。
 立ち止まって身を軽く折り、ようやく咳を落ち着かせて顔を上げると、少女の姿はまったく見えなくなっていた。山の木々の間に消えてしまったらしい。
 未来は、荒い息を繰り返しながら、山の入り口を呆然と見つめた。
 ようやく諦めがついたところだった。まさか本人に出会えるとはつゆほども思っていなかった。驚きばかりが出てしまい、謝ることも、着物についてたずねることもできなかった。
 昔と代わらぬ小さな姿が、少女が人ならざる者――物の怪であることを物語っていた。
 だが、未来の中に浮かぶのは、恐れではなかった。ただただ後悔ばかりだ。
 驚かせてしまった。そして、また怖がらせてしまった。うまく言葉が出てこず、なにも伝えられなかった。
 ふと視線を下に落とすと、足元にかんざしが落ちていることに気付いた。ゆっくりと屈んで拾い上げる。おそらく、少女がきびすを返したときに落したものだろう。
 先端に飾られているつまみ細工はやや色あせているが、軸は綺麗に磨かれ、大切に使っているであろうことが伝わってくる。
 かんざしを見つめていると、未来の胸の中のやるせない気持ちがどんどん膨れ上がっていった。
 やっぱり、謝りたい。これも、きちんと渡しに行きたい。
 そう思い、山を仰ぎ見た未来の体が、意に反してぐらりと傾いだ。
 地面に両手を着いて耐えるが、落ち着かせたはずの息は、意に反してどんどん荒くなっていく。
 こめかみの辺りが熱くなり、背中には寒気が走る。病み上がりに全力疾走をしたせいだろう。
 浅い呼吸を繰り返しながら、なんとか立ち上がる。
 手にしたかんざしをもう一度見つめてから、懐にそっと忍ばせる。そして、宿を目指し、ふらつく足取りで歩き始めた。


「えっ、未来、もうすぐ治るんじゃなかったの!?」
 夜の公演を終え、未来の様子を見に火神村まで戻ってきた芽衣と海都は、布団の中で荒い呼吸を繰り返し眠る未来を見て、驚愕した。
「おとなしく眠っていれば、明後日にも治るはずだったんですが……」
 秋水はそう言い、困った表情を浮かべながら、未来の額に濡らした手ぬぐいを乗せた。
「夕刻前、空気を吸いに外に出たのですが、なぜかずいぶん走り回ったようで……ふらふらの体で宿に戻ってきました。一旦下がった熱もまた上がってしまって」
 芽衣は額に手を当てて天井を仰いだ。
「なにしてんのよ、未来ったら……」
「気分転換になるかと思って、外に出るのを勧めたのは私です。すみません」
「秋水先生が謝ることじゃないわよ。病み上がりに走り回るなんて、普通じゃ考えられないもの」
 大きなため息をつく芽衣の隣で、海都は顎に指を当てて軽く首を傾げた。
「……理由があったんだろうが……先生、なにか変わった様子は?」
「戻ってきたときにはすでに意識が混濁していましたから、私も詳しくはわかりませんが」秋水は、未来の額の布の位置を整えながら返す。「さきほどからうわ言で、ごめんなさいと繰り返していますね」
 芽衣と海都が顔を見合わせる。
「ごめんなさい? 何に対して……なのかしら」
 ふたりは疑問符を頭に浮かべた。だが、いくら考えたところで、本人から聞かなければ真意などわからないだろう。
「解熱剤を煎じてきます。なにかあればすぐに呼んでください」
 秋水はそう言い置くと、薬草の入った巾着を手に台所へ向かった。
 残された海都と芽衣は、唸りながら未来を見つめる。
「……なんにせよ、早く治してもらわないと。未来目当てで来てくれるお客さんたちにも、申し訳が立たないわ」
 芽衣は心配半分、呆れ半分の表情を浮かべて、未来の額の手ぬぐいを手に取った。すでに生温くなったそれを、氷水を張った桶の中に放り込み、十分に冷やして固く絞る。
 前髪をかき上げて、冷やした手ぬぐいを額に乗せた瞬間、未来の睫が震えた。小さくうめいたのち、瞳がゆっくりと開く。
「未来、起きたの」
「芽衣姉……、海都兄……」
 ぼんやりとした目つきで海都と芽衣を見た未来は、申し訳なさそうに呟いた。
「あの……私……ごめんなさい」
「喋らなくていいから、ゆっくりおやすみ。ずいぶん熱が高いようだから。理由は後日聞こう」
 海都はそう言うと、未来の頭をそっと撫でた。未来は眉尻を下げて瞳を細め、熱で赤みを増した唇を噛む。――そのまなじりから、ぽろりと涙がこぼれた。
「ど、どうしたの未来、そんなにつらいの? どこか痛む?」
 芽衣が驚いて身を乗り出し、未来の顔を覗きこむ。未来が声もあげずに泣くなど、滅多にあることではない。
「そうじゃない……そうじゃないの」
 未来は涙を流しながら、軽くかぶりをふった。芽衣と海都はふたたび顔を見合わせる。ふたりの頭には疑問符が浮かぶばかりだった。
「……私……物の怪の女の子に会ったの……」
 突然の未来の言葉に、ふたりは思わず「えっ」と口にした。
「物の怪?」
 芽衣は怪訝そうな声音、海都は何かが引っかかるような声音で、未来が口にした単語を繰り返す。
「また、傷つけてしまった……悲しい思いをさせた……」
 未来はぽつりぽつりと呟くと、熱く荒い息を吐きながら目を伏せた。
「私、やっぱり……あの子に、謝りたい……」
「物の怪……って、昔、未来たちがふざけて言ってた話よね」
 芽衣は、10年前にこの村で「物の怪を見た」と未来たちが騒いでいたのを思い出した。だが、なにかの勘違いだろうと言い聞かせたはずだし、そもそも物の怪など実在するはずがない。
「熱にうかされて夢を見たか、今度は狐にでも化かされたのかしら」
 呟く芽衣を、海都が制した。見れば、海都は普段以上に真剣な顔で未来を見ていた。
「どうしたの、海都」
 急に雰囲気の変わった海都に、少したじろぎながら芽衣が問いかける。海都はなにかを思案するように瞬きを繰り返すと、静かに問いかけた。
「未来。本当に、物の怪に会ったのか」
「……うん……」
 未来が頷くと、海都は神妙な面持ちで黙り込んだ。芽衣がもう一度「どうしたのよ」と問うが、海都は考えに沈んだままだ。芽衣は困ったように、海都と未来を交互に見やる。
 長い沈黙のあと、海都はぼそりと呟いた。
「……それが『忘れ形見』か」
「え? なに?」
「いや」
 芽衣が聞き返すが、海都は言葉を濁して首を振った。そして、閉じた瞳からなおも涙を流す未来に、低い声で告げた。
「未来。――物の怪に関わっては、いけない」



 あれから、3日。
 未来の熱はすっかり下がり、ほぼ本調子に戻った。咽喉だけがまだ万全ではないため、舞台に戻るのは明日から、と秋水に言い渡されている。
 寝込んでいて低下した体力を取り戻すため、しっかり食べてしっかり体を動かしている。今は、縁側で屈伸運動を行っていた。
 この3日間、暇を持て余していた未来は、すっきりしない表情で体を動かしていた。
 単純に暇がつらかったわけではない。時間がたっぷりあるがゆえに、先日再会を果たした物の怪の子について考えてしまうことが、なによりつらかった。
 あれから、海都と芽衣は火神村に戻ってきておらず、凛と廉も桜深町に泊まりきりなので、相談できる相手はいない。
 ゆっくりと、視線をめぐらせる。村の東の青々とした山を見ながら、未来は目を眇めた。
「村には村の決まりや掟、それぞれの役割がある。軽率な行動はいい結果を生まない」
 熱に浮かされる未来に海都が告げたのは、形こそ違うが篠枝の警告と同じ内容だった。
 誰もが、物の怪の少女に関わってはいけないと言う。
 海都はなにか知っているような口ぶりだったが、どこでなにを聞いたのだろう。役割とは、なんなのだろうか。額の汗を拭いながら、長いため息をつく。

 未来のまぶたには、物の怪の少女の悲しみに満ちた瞳、怯えきった瞳の色が鮮やかに焼きついている。
 驚かすつもりも、怯えさせるつもりも一切なかったが、き傷つけてしまった。
「2度も、悲しませてしまうなんて……」
 未来は、懐からかんざしを取り出し、じっと見つめる。咄嗟に持って帰ってきてしまったそれを、きっと少女は探しているだろう。
 海都の命令は絶対であり、一座にも村にも迷惑がかかるのは避けなければならない。理屈ではわかっているが、どうしても気持ちがついていかない。
 せめて、このかんざしだけは返さなければ――思いをめぐらせた未来は、はっと息をのんで手を叩いた。
「そうだ……手紙を書こう」
 無断で持ち去ってしまったこと、10年前も今も驚かせてしまったこと、それらの謝罪をしたためて、かんざしに添えて届けよう。海都も、直接会うのでなければきっと許してくれるはずだ。
 これで、最後だから……もう、関わらないから。自分に言い訳しながら宿に戻る。荷物の中から矢立を取り出し手紙を書いた未来は、それを綺麗に畳んで、かんざしとともに胸元に忍ばせた。
 少女が走り去った山、その中に彼女の家があるはずだ。おそらく、唄枝と桃枝が言った『東の山』だろう。
「どこへ行くのですか、未来」
 乳飲み子の健康観察を終えた秋水が、雪駄を履く未来に気付いて問いかける。
「村の人の落し物を拾ったから、届けに行ってくる」
「それなら、私が代わりに届けますよ」
「身体がなまっちゃってるし、散歩がてら歩きたいの」
「そうですか。決して無理をしてはいけませんよ。この間のように走り回っては、また熱がぶり返しますから」
 物の怪の話を聞かされていない秋水は、純粋に未来を心配して優しい言葉をかけた。本当のことを話してはいないという罪悪感はあったが、届け物自体は嘘ではない。未来はこくりと大きく頷くと、
「うん、夕刻までには戻るね」
 宿を出て、ひとつ深呼吸をしてから、東の山へ向かって歩き出した。


 山の中には、木々が鬱蒼と生い茂っていた。
 未来は、背の高い雑草をかきわけ、細い林道をたどりながら歩いていく。
 辺りを見回しながらしばらく進むが、民家らしきものも、人の気配もない。ただ、木々のざわめく音と鳥や獣の鳴き声が微かに聞こえるだけだ。
 日の当たらない森の中は、日中とは思えぬほど暗くて涼しい。まるで外界から遮断されたような、独特の空気をまとっている。
「うー、歩きづらいなあ」
 足元の草や頭上の蔦に四苦八苦しながら進む未来だったが、たどっていたはずの林道が途中でぷつりと途切れていることに気付いた。
「あれ、こっちの道じゃないのかな……どこかに分かれ道があったっけ」
 振り返り、先ほどまで歩いてきた道をもう一度辿ろうとする。そのとき、ギャアギャアという声が聴こえ、次いで目の前を黒い影が横切った。
「きゃあ!」
 未来は両腕で顔を庇い、思わずその場にしゃがみこむ。黒い影は未来の前を通ったあと、頭上に舞い上がっていった。
「な、なんだ……カラスか……び、びっくりさせないでよぉ」
 どきどきと早鐘を打つ胸をおさえつつ、未来は小さく息をついた。見上げれば、さきほどのカラスが大声で鳴きながらぐるぐると旋回している。ぴったりと、未来の頭上を。
「な……なに……」
 急に怖くなり、未来は慌てて立ち上がった。そして、気付く。
 さして動いていないはずなのに、戻ろうとした林道が見当たらない。辺り一面、腰ほどまである草が生い茂るばかりだ。
「え……ええと、どっちから来たんだっけ……。登ってきたから、下らなくちゃ……」
 まずは一旦出直そうと辺りを見渡すが、なだらかな山肌は上下をほとんど感じさせず、村の入り口がどちらかわからない。必死に前後左右を見回しても、どこもかしこも同じ景色にしか見えない。
 都で生まれ育ち、舗装された街道を通って旅してきた未来には、山や森の知識がほとんどない。知らないからこそ甘く見ていたし、油断もしていた。
「落ち着かなきゃ……落ち着け、落ち着け私」
 自分に言い聞かせながら、とにかく人のいる場所に出なければ、と歩き始める。しかし、木の根と蔓に足を取られ、丈の高い草に視界を邪魔され、思うように進めずに焦りが募る。
 やみくもに歩めば歩むほど、方向感覚がますます狂っていく。頭上ではそんな未来をあざ笑うようにカラスが舞い続けていた。
「どうしよう、どうしよう……」未来は次第にべそをかきはじめた。涙目で必死に草をかき分ける。「帰り道も、あの子の家も見つからないよ……どうしよう、どうしよう!」
 思わず叫んだそのとき、浮いた木の根に雪駄が引っかかり、未来は短い悲鳴を上げてその場に倒れこんだ。
「い……いたたた、……あれ?」
 立ち上がろうとする未来の耳に、かすかな音が届いた。鳥の声でも、獣の声でもない、小さな音。
 未来は動きを止めて耳を澄まし、音の正体を探る。
「……これは、歌声……?」
 とても小さいが、それは確かに誰かの歌声だった。
 聴いたことのない、けれどどこか懐かしさを感じるような旋律。穏やかで優しい歌声に耳を傾けるうち、未来の心は少し落ち着きを取り戻した。
「誰が歌ってるんだろう……」
 どこに出るのか、誰がいるのか、皆目見当はつかないが、人がいるのならば助けてもらえるだろう。未来はそう思いながら、歌声の聞こえる方角へゆっくりと歩き始めた。







 かたり、かたり。
 機を織る音にあわせて、カサネは今日も唄を口ずさんでいた。縁側にはいつものようにうさぎや鹿たちが集まり、カサネの歌声に耳を澄ましている。
 カサネが踏み板を動かすたびに、鮮やかな空色の上に色とりどりの紫陽花が描かれる。小さな手が弧を描くように動き、的確に布が仕上がっていく。
 あともう少しで仕上がる。カサネは安堵の表情を浮かべながら、新しい糸を杼に巻き付けた。
 そのとき、庭の動物たちが一斉に動いた。うさぎや鹿は木々の間へ、鳥たちは空へと急ぎ立ち去っていく。
 カサネは、突然の動物たちの行動に驚いて唄を止め、杼を置いて立ち上がった。
「どうしたのでしょう……」
 呟いて、縁側に出る。瞬間、カサネはひゅっと息をのんだ。
 ――家のそばの木々の間に、少女がいた。
 その長く美しい髪には、見覚えがあった。3日前、火神村へ降りた帰り、自分の前に飛び出してきた少女だ。
「え、えっ……!?」
 カサネは驚き、目を白黒させながら少女を見る。少女もカサネと同じように驚いた顔をしていたが、ふいにその顔を歓喜の色に染め、木々の間から飛び出してきた。
 迫る少女の勢いを恐れたカサネは、肩をすくませ、慌てて家の中に駆け込もうときびすを返す。そのとき、
「あの、か、カサネさん!」
 よく通る声で名前を呼ばれ、カサネはますます驚いた。動きを止めてそっと振り返る。
 少女は、瞳に涙をためながら、長い髪が地面についてしまうほどに深々と頭を下げた。
「ありがとう! 私、山の中で迷っていて、すごく怖くて困っていたの。そしたら、あなたの唄が聞こえてきて……歌の聴こえる方向に歩いてきたら、ここに出られて……」
 言いながら、少女はへなへなとその場にへたり込んだ。相当さまよったのだろうか、頭にも着物にも、葉っぱや草、土がついている。
「怖かったぁ……猪に食べられちゃうかと思った。あなたの唄に救われたの、本当にありがとう!」
 カサネは絶句し、呆然と少女の言葉を聞いた。ありがとう、という言葉を、母親以外から向けられたことなどない。心からの感謝を擁する響きに、胸が揺れる。
 身につけている着物や髪飾り、カサネに向ける表情、話し方、どれもが火神村の住人のそれとは違っていた。きっと、火神村の宿に滞在する旅人だろう。
 少女は目元を擦りながらゆっくり立ち上がると、ばつが悪そうに肩をすくめた。
「本当は、会わないつもりで来たのに……結局会うことになっちゃったな……」
「え?」
 カサネが問うと、未来は困ったような笑顔を浮かべながら、懐を探った。
「私は未来。あなたに渡さなきゃいけないものがあって、あなたの家を探していたの」
 少女――未来は歩を進め、カサネの目の前に立ち、手を伸ばした。そこには、どこかでなくしてしまったはずのかんざしが握られていた。
「あ、これは……わたしの……」
「3日前、私が驚かせたせいで、落としてしまったでしょう。だから、届けなくちゃと思って……」
 未来の手のひらにおそるおそる指を伸ばし、かんざしを受け取る。
 これは、カサネの母がかつて使っていた形見の品だ。村の者に見つかり処分されているだろうと落胆していただけに、嬉しい驚きだった。
「わざわざ……ありがとうございます」
 かんざしを胸に抱き、頭を下げる。未来は慌てて、同じように頭を下げた。
「ううん、私が悪かったんだから、本当にごめんなさい」
 同時に頭を上げると、目が合った。青みがかった美しい瞳が、カサネの姿を映している。それに気付いた瞬間、カサネは胸の奥底が熱くなるのを感じた。
 普通に目を合わせて、話をしてくれる相手がいる。それは、カサネにとってひどく不思議な感覚だった。
 まっすぐに目を合わせて、怖がられないのは初めてだった。感情の根っこの部分が揺さぶられるような、なんとも言えない感情が心の中に広がる。

 未来は、もう一度懐を探った。そして、綺麗に折られた白い紙をカサネに差し出す。
「本当はあなたといろいろ話したいんだけど、そういうわけにはいかなくて。私の言いたいことは、全部ここに書いてきたから……これを受け取ってくれるかな」
「これは……なんですか?」
「手紙。あんまり綺麗な字じゃないから、読みづらいかもしれないけど……」
 カサネは、戸惑いながらそれを両手で受け取った。軽く広げると、そこには細かい文字がずらりと並んでいた。
「あの……ごめんなさい。わたし、字が読めないんです」
 カサネが未来の顔と手紙を交互に見ながらおずおずと告げると、
「そうなの?」
 未来は口元を押さえて申し訳なさそうに肩を落とした。
「じゃあどうしよう……ええっと……」
 目線を宙に持ち上げ、腕を組んだり頭をおさえたりしながら未来は唸った。くるくる回る表情と動きを見るうちに、カサネの緊張はわずかにほぐれていった。
「あの……気を悪くしないで聞いてほしいんだけど」
 しばらく眉を寄せて考え込んでいた未来だったが、ようやく考えがまとまったらしい。まっすぐカサネを見つめて、ゆっくりと話し出した。
「私、旅の一座の歌い手なの。一月ほど前から隣町で巡業していて、火神村には宿を借りているんだ」
 カサネは、相槌を打つようにこくりと頷いた。
「今日ここに来たのは……本当は、あなたに会うのが目的だったわけじゃないの。実は村の人にも、一座の団長にも、あなたに会っちゃいけないって止められていて」
 申し訳なさそうに言い、カサネの顔を見つめる。その言葉に、カサネは先ほどと同じ調子で頷いた。自分は人々に忌み嫌われている存在。近づかないよう警告するのは当然だと、カサネは理解している。
「それで、会っちゃいけないなら、せめて自分の気持ちを手紙に書いて渡そうと思って、あなたの家を探していたの。かんざしと手紙をそっと置いて帰ろう、って。そうしたら、会わずに私の気持ちを伝えられるかなと思ったんだ」
 未来の言葉を聞きながら、カサネの胸にはいくつもの疑問符が浮かんでいた。
 たった一度会ったきりの彼女が、なぜ自分の名前を知っているのだろう。この手紙には何が書いてあるのだろう。なにを伝えようとしているのだろう。
 聞きたいことはたくさんあるが、どう口にしていいかわからず、カサネは視線をさまよわせた。揺れる視界の中、ふと着物の裾からのぞく未来の前腕に目が留まる。
「あ……」
「えっ、なに?」
「あの、血が……左腕の内側に」
 きょとんとする未来に、カサネは遠慮がちに口を開いた。山の中をさ迷う中、鋭い葉で切ったのかもしれない。
「えっ。あ、本当だ。さっき転んだときかな……」
 袖を捲り上げて腕を曲げ、傷を確認した未来は、私そそっかしいんだよね、と困ったように笑った。
 その様子を見ていたカサネは、勇気を振り絞って、もう一度「あの」と呼びかけた。
「よかったら……あの……こちらに」
 言いながら、自分の家を指差す。
「おうちに?」
「あ、その……き、傷が、化膿すると大変ですから、消毒したほうがいいと思います。……あ、もちろん、あなたがここにきたこと、わたしに会ったことは、誰にも言いませんから……」
 おずおずと告げると、未来は戸惑いながらも嬉しそうに頷いた。

 カサネの家は、かつて村人が狩猟の際に使用していた休憩所だ。隙間だらけの痛んだ壁の上に、かろうじて屋根が乗った、簡素なあばら小屋である。
 縁側の障子を開け、未来を中に招き入れる。未来は、お邪魔しますと礼儀よく頭を下げてあがりこんだ。
「ここに、ひとりで住んでいるの?」
「ええ。狭いですが、あいているところにかけてください」
 小柄なカサネが生活するぶんには不自由のない広さだが、自分よりもふた回りほど大きな未来がそばにいるだけで、いつもの部屋がずいぶんと狭く感じられる。申し訳なくなりながらも促すと、未来は笑顔で頷き、部屋の中央にある火鉢のそばに腰を下ろした。
 カサネは、織機の近くに置いた袋からさらし布と薬草を取り出し、煮沸した沢水の桶を持って未来の前に腰を下ろした。
 人の傷の治療はもとより、これほど近くに他人がいるという状況がほとんど初めてなのだ。自分から誘ったというのに、緊張で肩がこわばってしまう。
 恐る恐る手を伸ばすと、未来はにっこりと笑い、
「お願いします」
 そう言って、腕を差し出してきた。
 敵意のない笑顔に安心したカサネは、こくりと頷くと、綺麗な手ぬぐいを水で湿らせ、未来の傷の汚れを拭った。幸い、傷は浅かったらしく、血はほとんど止まっていた。
 薬草を傷口に当て、さらし布でゆっくりと巻いていく。
 巻き終わりを綺麗に畳んでしっかり固定すると、未来はもう一度笑顔を見せた。
「ありがとう」
「いえ……わたし、人の治療をするのは初めてで……これで大丈夫ですか?」
「うん、これならすぐに治りそう! 本当にありがとう、カサネさん!」
 未来は再び礼を言うと、笑顔で頭を下げた。
 名を呼ばれたカサネは、さきほど呼ばれたときと同じように、鼓動が大きくなるのを感じた。
「あの……少し話をしても……?」
 腕を曲げたり伸ばしたりしている未来に、控えめに声をかける。未来は笑顔で、もちろん、と答えた。
「あ、でも、わたしと話して、お咎めされませんか?」
「じゃあ、このことはふたりだけの内緒……秘密ってことで」
 唇の前で人差し指を立てて片目を閉じる未来に、カサネはほっと息をつく。
「ええと……。あなたは、わたしに何を伝えたかったのですか? 手紙の内容が、知りたいです」
「そうだ、肝心なところ話してなかったよね」
 未来はぽんと手を打つと、背を伸ばしてかしこまった表情でカサネを見た。そして、深々と床に頭をつける。
「ずっと、あなたに謝りたかった。ごめんなさい」
 突然、謝罪の言葉を告げる未来に、カサネは驚いて目を見開いた。
「あ、あの、一昨昨日のことは、さきほど謝っていただきましたから、そんな……顔を上げてください」
 カサネは、両手を振りながら大慌てで未来に声をかける。言葉を受け、未来はゆっくりと顔を上げると、その頭を左右に振った。
「かんざしのこともそうなんだけど、もうひとつ謝らなくちゃいけないことがあるの。……私、10年前にもあなたを傷つけてしまったから」
「10年前……?」
「うん。さっき言ったけど、私たち一座は、全国を巡業しているの。10年前も、今と同じように火神村で宿をとらせてもらったんだ」
 そして、未来は語り始めた。10年前、村を散歩していたときのことを。そのとき、傷つけ悲しませてしまったことを。
「えっ……?」
 話を聞き終えたカサネは、驚いて口元を押さえた。
「あのときの……わたしを庇ってくれた幼い女の子……あなただったのですか……?」
 生まれて初めて自分を庇ってくれた、母以外の唯一の人物を、カサネははっきりと覚えていた。
 その面影が、目の前の未来と重なる。髪型、髪の色、澄んだ瞳。大きさこそ変わっているが、それらは記憶の中の少女と確かに似ている。
「覚えていてくれたの!?」
 カサネの言葉に、未来も驚いて目を見開いた。
 互いに、互いの目を見つめる。あのとき重なった瞳が、今また重なっている。カサネはそれを、ひどく不思議に感じた。
「私も、一緒にいた妹分の凛、弟分の廉くんも、あなたに謝りたいと思っていたの。自分と違う容姿に驚いて、怯えてしまって……あなたのことを傷つけたから。本当にごめんなさい」
「そんな……助けてくれようとして、わたし、本当に嬉しかったんです。なのに、どうしたらよいのか、なにを言えばいいのかわからず、逃げ出してしまって……こちらこそごめんなさい」
「あなたが謝ることはないよ! それから、さっきも言ったけど、3日前はいきなり驚かせてごめんなさい」
「いえ、いえ、びっくりしたからといって、話も聞かずに立ち去ってしまい、すみません」
 再び頭を下げる未来に、カサネも慌てて頭を下げる。
 交互にぺこぺこと頭を下げるうちに、ふたりの口元は思わず緩んだ。そしてそれは自然と、微笑みに変わっていく。
 カサネは、未来を見る。未来も、まっすぐにカサネを見返した。
 未来の瞳に自分の赤い瞳が映っているのを見たカサネは、軽く目を伏せ問いかけた。
「……あなたは、わたしが怖くないのですか? わたしは、物の怪なのに……」
「怖くないよ。こうして話をしていても、私たちと変わりはないもの」
 未来はきっぱりとそう言い、さきほどカサネが巻いたさらし布を指差した。
「治療の仕方も、すごく丁寧で優しかったしね」
 未来の言葉は淀みない。本心から思っているのだろう。
 カサネは言葉を失い未来を見つめる。今まで向けられる言葉といえば、侮蔑や罵倒ばかりだったからだ。慣れない言葉に戸惑いばかりが浮かんでくる。
 そんなカサネに、未来はわずかに眉をひそめてたずねた。
「ねえ、あなたはどうして村の人に暴力を受けていたの? 私には、あなたが悪いことをするように思えない。なのに、村の人たちはこぞってあなたの存在を隠そうとしたり、関わるなと言ったり……」
「それは……」
 カサネは一瞬言葉に詰まった。それは、毎晩星を見つめながら自問していることだ。
 なぜ、自分は愛されないのだろう。なぜ、嫌われているのだろう。
 だが、導かれる答えは、いつも決まって同じだった。
「……それは、わたしが、物の怪だから仕方がないんです」
 なにを求めようと、なにを欲しようと、自分が物の怪である限り、他の人のようにうまくはいかないのだと、カサネはわかっていた。
 哀しさに引きずられ視線を落とすと、未来の膝が目に入った。その上に置かれた手のひらが硬く握り締められ、わずかに震えている。
「そんなの……、そんなの理由にならないよ!」
 未来の突然の大声に、カサネは驚いて顔を上げる。未来は眉を吊り上げ、顔を赤くしていた。
 未来の顔に浮かぶ怒りの感情に驚き、カサネは腰を浮かせて縮こまる。
「確かに私たちと少し違うところがあるかもしれないけれど、ただ、それだけじゃない!」
「え……」
 未来の言葉に、カサネは強張っていた肩の力をわずかに抜いた。ゆっくりと、言葉の意味を反芻して、ようやく気付く。未来が怒っているのは、カサネに対してではなく、カサネのために、だということに。
「突然訪れた私に、こんなに優しくしてくれたし、それに……さっきの唄は心のこもった優しい歌声だった。悪い心を持った人が、あんなに美しい唄を歌えるはずがないよ」
 未来は身を乗り出して、カサネの両手を掴んだ。カサネの小さな手のひらが、未来の手の中に収まる。
「私ね、小さいころからずっと唄とともに育ってきたからか、歌声を聴けば、その人の心や性格をなんとなく感じ取れるの。カサネさんの唄は、本当に優しくて……包み込まれるようなあたたかさを感じた。まっすぐで……綺麗だった。きっとあなたの心も、あの唄みたいに綺麗で優しいと思う」
 熱のこもった未来の言葉を、カサネはただただ呆然と聞いていた。
 他人に手放しで褒められたことも、こうして触れられたこともない。ましてや、自分のために怒ってくれるなど、想像したことすらなかった。
 目を見開いて固まっているカサネに気付いた未来は、慌てて手を離した。
「ああっ、ごめんなさい。私、声が大きくて……驚かせちゃったかな!」
「い、いえ……あの、驚いたのは、驚いたんですけど、その……」
 カサネは両手を彷徨わせて、しどろもどろになりながら頭を横に振った。
「嬉しいほうの、驚きで……。こんな言葉を、かけてもらえるなんて……思っていませんでしたから」
 もったいないほどの言葉に、目まぐるしささえ覚えてしまう。胸がどきどきと高鳴って、頬が熱くなるのを感じた。

「ところで、カサネさん。さっきの……なんていう唄?」
 未来が、首を傾げてカサネにたずねた。
「わたしも、題名は知らないんですが……母が昔、よく歌ってくれた子守唄です」
「そうなんだ。素敵な唄だったね」
「ええ、わたし、この唄が大好きで……歌っていると、心が穏やかになるんです」
 微笑んで答えると、未来は目を輝かせて身を乗り出した。
「ねえ、もう一度聴かせてほしいんだけど……駄目かな?」
「えっ!?」
 未来の思わぬ願いに、カサネは驚いて小さな体を跳ね上がらせた。
「あっ、急にごめんなさい。とても素敵な唄だったから、じっくり聴いてみたくなっちゃって」
 無理ならいいの、と言う未来を見つめながら、カサネは戸惑いながら視線をさまよわせた。
 今まで動物たちに聴かせたことはあるが、人前で歌ったことなどない。唄を生業にしている未来の前で歌うのは、殊更緊張してしまう。
 だが未来は、自分の大切な唄を素敵だと言ってくれた。恥ずかしさと緊張はあるが、求められたことに応えたい。
「……で、では……」
 カサネは小さく頷くと、深呼吸をして瞳を閉じ、ゆっくりと唇を開いた。

 唄の一音一音を、大切に丁寧に辿る。
 ――生きていれば、いつか誰かがあなたに手を伸ばしてくれる。
 ――誰かが、あなたを求めてくれる。
 希望を捨てずにいられるのは、母の唄、母の言葉、そして母との思い出があるからだ。
 だからこそ、カサネはこの唄を心から大切に思っていた。母に抱かれたような安堵感に包まれる、この唄を。
 大事に、大事に。ゆっくりと、愛しさを込めながら、カサネは音を紡いだ。

 最後の一音を歌い上げたカサネは、そっと瞳を開いた。
 そして、未来の表情を見て驚く。未来は、その大きな瞳から大粒の涙をぼろぼろとこぼしていた。
「え……!? あ、あの……!? どうか、されましたか……!?」
 慌てて腰を浮かせてたずねるカサネに、未来は「違うの」と答え、溢れる涙を手の甲で拭った。
「なんて……なんて優しい唄なんだろう……」
「えっ?」
「カサネさんがお母さんを大好きな気持ちと、お母さんがカサネさんを大好きな気持ち……唄にこめられた愛が伝わってきたよ。すごくあたたかくて……こんなに心に響く唄、初めて聴いたから……胸がいっぱいになっちゃって……」
 言いながらも、未来の涙は止まらない。
 カサネが手巾を差し出すと、未来はありがとうと言い、眉を下げたまま笑顔を見せた。鼻の頭が赤くなっている。
 未来は涙を手巾で拭うと、勢い込んで膝立ちになった。そして、先ほど唄をねだったときのように身を乗り出すと、
「カサネさん、私、その唄大好きになっちゃった。私も歌ってみたい! その唄を、私に教えてください!」
 涙で濡れ、きらきらときらめく瞳をカサネに向けて、真剣な表情でそう告げた。
 カサネはまたも呆気にとられ、ぽかんと口を開けたまま、そんな未来をただ見つめる。
 嘘も打算も裏も見当たらない未来の表情と言葉。それらは、カサネの心の奥底、カサネ自身も知らない部分を強く刺激した。喜びや緊張、嬉しさ、いろんな感情がせりあがってくる。
 カサネは薄く涙の張った瞳を緩めて笑顔を浮かべると、大きく頷いた。

 カサネが紡ぐ一節を、未来が追いかける。同じ言葉を辿り、奏でていく。
 目で合図を送りながら、手のひらで拍子をとりながら、ふたりは同じ旋律を繰り返した。次第に、カサネの歌声に未来の声が乗り、ふたりは声を重ねて歌い出す。
 最後まで共に歌い終え、ふたりは余韻に浸りながら息をついた。
「歌っていたら、ますますこの唄が好きになってきたよ。ねえ、あともう一度だけ……いいかな?」
「はい」
 嬉しそうに、興奮した表情で問いかける未来に、カサネも頬を紅潮させて答えた。
 もう一度、最初の言葉から歌い出す。すると、不意に未来の音階が下がった。不思議に思ったカサネは唄を止めようとするが、未来は手振りで「続けて」と告げる。
 未来の歌声が、カサネの歌声の少し下を這う。ふたつの旋律は絡まりあい、美しい二重唱となった。
 カサネは驚き、胸元を押さえながら歌い続けた。未来も、胸元に手を添えて歌っている。
 互いの音が互いを支え、新しい和音が生まれていく。
 音が絡んで、ほぐれ、そしてつながる。それはまるで、寄り添われているかのようだった。
 背筋が痺れるような、衝撃的な感覚に、カサネは胸を震わせた。
 のびのびと歌う未来の表情は、とても楽しそうだ。その唇から紡がれる歌声は、細い身体から発しているとは思えぬほどよく通る。柔らかく美しい歌声だった。
 ――悪い心を持った人が、美しい唄を歌えるはずがない。
 カサネは、さきほど未来が口にした言葉を思い出す。自分のそれに当てはまるかは分からないが、未来の歌声を聴いていると、その言葉の意味がわかるような気がする。未来は、この歌声のようにまっすぐで心の美しい人なのかもしれない、とカサネは思った。
 歌いながら目を合わせ、頬を緩める未来に、カサネの表情もつられて笑顔になる。
 先ほどまでの緊張はすっかり解れ、ふたりは夢中になって何度も繰り返し歌い続けた。

 歌が止まる頃には、ふたりの額には汗が浮かんでいた。
「気持ちよかった……!」
 未来が、心底楽しそうに満面の笑顔でそう言った。カサネは何度も頷き、早鐘を打つ胸に両手を添えた。
「わ、わたし……すごく……どきどきしています」
「私も、すっごくどきどきしてる……歌いながらこんなに胸が弾んだの、初めて」
 興奮を抑えようともせず、未来はこくこくと頷いた。
「カサネさんの声、とっても綺麗だった! 心が癒されるような……清らかな歌声だったよ!」
「ええっ、そ、そんな……」
 手放しで褒めちぎる未来に、カサネはどう答えていいのかわからず、頬を染めてどぎまぎと視線を泳がせる。森の動物たちが自分の唄を気に入ってくれているのを嬉しく思っていたが、こうやって言葉での賞賛は浴びたことがないからだ。
「ああ、私の咽喉が万全だったら、もっともっと綺麗な二重唱ができるのに」
「えっ、万全ではないのですか……?」
「そうなの。先日、風邪で咽喉をやっちゃって……もうほぼ治ってはいるけど、絶好調とまではいかないなあ」
 未来の言葉に、カサネは驚いた。不調を一切感じさせぬ美しい歌声だったというのに、万全の状態では、一体どれほどの豊かな声になるというのだろうか。
 咽喉に指を当てながら自分の声を確かめていた未来が、不意に縁側に目をやり、慌てて口元を押さえた。
「あっ、いけない! 私、夕刻には戻ると言い置いて出てきたんだった!」
 未来の視線の先を見れば、障子の隙間から赤々とした夕陽が漏れている。カサネも未来も唄に夢中になっており、日が暮れかけていることに気付かなかった。
「私、村に戻らなきゃ!」
 大慌てて立ち上がる未来を見ながら、カサネも立ち上がる。
「あの、村までの道……よかったら、ご案内します」
「わあ、ありがとう! 私ひとりじゃ無事にたどり着けなさそうだから、本当に助かるよ!」
 未来は屈託なく笑いながら雪駄を履く。カサネも草履を履くと、未来の前に立って歩き始めた。

「暗くなってきましたから、足元に気をつけてください」
 カサネは、後ろをついてくる未来を気づかいながら、うっすらと踏み固められた道を歩き出した。未来ははぐれぬよう、カサネの背中にぴたりと付き添って歩いている。
「大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。……あっ!」
 不意に、未来が声を上げて立ち止まった。怯えた様子で頭上を見上げる未来に、カサネは首を傾げる。
「どうかしましたか?」
「さ、さっき道に迷ったときにいたカラスだ……追いかけられて怖かったの」
 未来の指の示す先には、大きなカラスが舞っていた。それは、見覚えのある姿。カサネが歌を口ずさむときに寄ってくる、森の住人の一員だ。
「ああ……あの子は臆病な子なので……あなたを侵入者と思い、追い出そうとしたのかもしれません」
「そうなの?」
「ええ」
 カサネは頷き、カラスに向かって「大丈夫ですよ。怖くありませんから」と微笑みを向けた。するとカラスはその場を何度か旋回したのち、安心したかのように優雅に羽ばたき去っていった。
「カサネさんは動物と話ができるの?」
「話ができる、というか……なんとなく、通じるんです」
「すごい、すごいよ! なんだか、かっこいい!」
「え、ええっ……そ、そうですか……」
 未来はうんうんと頷いた。かけられたことのない言葉を向けられ、カサネはまたしても戸惑ってしまう。
 困惑を感じ取ったのか、未来が「あっ」と声をあげて眉を下げた。
「そういえば、さっきから不躾な話し方してごめんなさい。カサネさん、私よりお姉さんなんだよね……? あっ、ですよね?」
 思い返したように突然かしこまる未来に、カサネは思わず、くすりと笑みをこぼした。
「はい、これでも数十年生きていますから。……だけど、普通にお話してください。さん、と呼ばれるのも、なんだか恥ずかしいですし……」
 そう告げると、未来はまた笑顔に戻って大きく頷いた。
「じゃあ、遠慮なく……カサネって呼ぶね。私のことも、未来って呼んでね!」
「はい」
 話しながら、木々の間を通って山を下っていく。村の入り口のそばまできたところで、カサネは足を止めた。
「ここからまっすぐ降りれば、村に着きます」
「うん、ありがとう!」
 日が暮れるまでに戻って来られたことに安堵した様子の未来を見ながら、カサネは口を開いた。
「……あなたに会えて嬉しかったです。一緒に歌えて、楽しかった。……でも、わたしに会ったことは、どうか誰にも言わないでください。あなたにまで、不幸が及ぶのはつらいですから……」
 カサネは、さきほどふたりで決めた『秘密』をもう一度口にした。忌み嫌われている自分と話をしたことが知れたなら、未来が咎められるのは間違いないからだ。自身が傷つくのはともあれ、未来が傷つくのは耐えられそうになかった。
「あなたにいただいた手紙や言葉……そして、一緒に歌った時間、大切にします。ずっと、ずっと忘れません」
 カサネは思いをこめて言い、精一杯の笑顔を向ける。
「ありがとうございました。さようなら、未来」
 未来は、言葉にこめられた思いを汲み取るかのように、真剣な顔でしばし黙っていたが、ふっと表情を緩め、カサネの手をとった。
「……私も、本当に楽しかったよ。ありがとう。……またね、カサネ」
 そして、満面の笑顔を見せた。大きく手を振りながら、山を下っていく。やがてその姿は、大きな木の幹に隠れ見えなくなった。
「……またね……」
 カサネは、未来が口にした別れの挨拶を、噛みしめるように反芻する。
 夕暮れの赤色が深い闇色に変わるまで、カサネは未来が去った方向をじっと見つめていた。

 
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