![]() ▲ TOP PAGE 空即是色 松尾芭蕉と禅 ▼ 夏炉冬扇 飛花落葉 不易流行 不知利害 大弁若訥 色即是空 阮宣杖頭 石川虚舟/俳句集 石川虚舟のオブジェ |
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草臥て宿かる比や藤の花 (笈の小文) 廓庵和尚 『十牛図』 「第九 返本還源」 ![]() (部分/天理図書館蔵) 世阿彌の演能といふ行為、また当時の庭造りとか、 書画とか喫茶といふやうな、単に言葉だけにたよらないもの、 即ち行為的なものに支えられて初めてつれづれのすさびが、 さびとして転化継承されるにいたったと考える。 ・・・ すさびは色即是空の方向においてあるもの、 さびは空即是色の方向においてあるものといひうるであろう。 『唐木順三全集』 第五巻 「中世の文学」 (筑摩書房版)、pp.95,112 |
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「色即是空」は、ただちに「空即是色」とひるがえって、 「妙有」という肯定門に出なければならない。 「無相」がそのまま「妙有」であるところ、 そこに「真如実相」の世界がある。… その「如」のところを、また「柳は緑、花は紅」ともいうのである。 これがほんとうの「自然(じねん)」である。… 「真空」は”無相”であり、同時に”妙有”である。 ここに「空」ないし「東洋的無」が、「創造的無」と呼ばれて、 西洋的な単なる ニヒリズム と違うところがある。 秋月龍珉 『十牛図・座禅儀』 禅宗四部録(上) 春秋社、p.119 色即是空から空即是色と転ずることによって、 なまの色は空に媒介されて変貌する。… 山は山、水は水に違いないが、 山是山において山は本来の面目を現成するといってよい。 藤の花は藤の花に違ひないが、 くたびれて宿かるころや藤の花 と芭蕉にうたはれることによって、 本来の藤の花の面目を顕現する。 認識の対象としての藤の花から、天地山水を背景にし、 物我両境にわたっての藤の花が出てくるのである。… 芭蕉の風雅、風流とはそういふものであった。 これが禅を根底にしてゐることはいふまでもない。 さびは禅の精神の美的表現であるといってよい。… 『唐木順三全集』 第六巻 「千 利休」 (筑摩書房版)、pp.137-138 物我一如(もつがいちにょ) 「物我一如」というのは、 「天地と我と一体、万物と我と同根」という境地である。 秋月龍珉 『十牛図・座禅儀』 禅宗四部録(上) 春秋社、p.44 |
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