石川虚舟
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 空即是色 
松尾芭蕉と禅
 
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 阮宣杖頭 
 

石川虚舟/俳句集
 
石川虚舟のオブジェ
 
 
 
 
草臥て宿かる比や藤の花
(笈の小文)
 
廓庵和尚 『十牛図』
「第九 返本還源」

  (部分/天理図書館蔵)
 
世阿彌の演能といふ行為、また当時の庭造りとか、 書画とか喫茶といふやうな、単に言葉だけにたよらないもの、 即ち行為的なものに支えられて初めてつれづれのすさびが、 さびとして転化継承されるにいたったと考える。
・・・
すさびは色即是空の方向においてあるもの、 さびは空即是色の方向においてあるものといひうるであろう。
『唐木順三全集』 第五巻 「中世の文学」 (筑摩書房版)、pp.95,112
 
 
 
 
「色即是空」は、ただちに「空即是色」とひるがえって、
「妙有」という肯定門に出なければならない。
「無相」がそのまま「妙有」であるところ、
そこに「真如実相」の世界がある。…
その「如」のところを、また「柳は緑、花は紅」ともいうのである。
これがほんとうの「自然(じねん)」である。…
「真空」は”無相”であり、同時に”妙有”である。
ここに「空」ないし「東洋的無」が、「創造的無」と呼ばれて、
西洋的な単なる
ニヒリズム と違うところがある。
秋月龍珉 『十牛図・座禅儀』 禅宗四部録(上) 春秋社、p.119
 
色即是空から空即是色と転ずることによって、
なまの色は空に媒介されて変貌する。…
山は山、水は水に違いないが、
山是山において山は本来の面目を現成するといってよい。
藤の花は藤の花に違ひないが、
くたびれて宿かるころや藤の花 と芭蕉にうたはれることによって、
本来の藤の花の面目を顕現する。
認識の対象としての藤の花から、天地山水を背景にし、
物我両境にわたっての藤の花が出てくるのである。…
芭蕉の風雅、風流とはそういふものであった。
これが禅を根底にしてゐることはいふまでもない。
さびは禅の精神の美的表現であるといってよい。…
『唐木順三全集』 第六巻 「千 利休」 (筑摩書房版)、pp.137-138
 
物我一如(もつがいちにょ)
「物我一如」というのは、
「天地と我と一体、万物と我と同根」という境地である。
秋月龍珉 『十牛図・座禅儀』 禅宗四部録(上) 春秋社、p.44