隼人石 -隼人説考-
17 籬島に情報提供したのはだれか
ところで、どうやって覚峰は現地を訪れることもなく、また藤貞幹や屋代弘賢といった好古家の書に当たることもなく隼人説にたどりつくことができたのでしょう。考えられるのは拓本を手に入れた際に、隼人の図と聞かされたという筋書きです。それなら「是狐にあらず、隼人のかたちなり」といういきなりの断定も納得できます。拓本については、今までの記事の中で藤貞幹、上田秋成、屋代弘賢らが所持していたことに触れましたが、そのほかにも三浦蘭坂なども所持していたようで、かなりの数が出回っていたのだろうと思われます。その多くが最もはっきり線が残っていた第1石だったと思われます。現存するのは1石のみと覚峰が考えたのも拓本しか見ていなかったからと考えれば筋が通ります。そしてその拓本が『好古小録』のように「元明天皇陵隼人図」と紹介されていたとすれば、覚峰の書きぶりもうなずけます。
では、だれが覚峰に隼人石の拓本を渡したのでしょう。確たる証拠はありませんが、それが離島だったのではないかと考えます。籬島はおそらく『大和名所図会』に関して相談した際に、貞幹から拓本を譲り受け、同時に隼人石に関する断片的な情報を得、それをもとに『大和名所図会』で「犬石」として紹介したのではないかと推理しています。そして『河内名所図会』を書くに当たり覚峰に情報提供したのではないでしょうか。覚峰は寺の名物を増やすべく、その拓本をもとに境内にある杜本神社に「隼人石」を狛犬のように建てるとともに、籬島の隼人石に関する情報があやふやであったため、文献に当たって『奈保山山陵隼人石人考』にまとめたと考えれば、すべてのつじつまが合うのではないかと考えています。
なお、「犬石」という名称を思いついたのは籬島ではないかとの推測については別の稿に譲ります。 →「犬石考」
『大和名所図会』以降、「犬石」は石自体を指す名称として、清水浜臣の『遊京漫録』(1820年)や津久井清影の『聖蹟図志』(1854年)でも引き継がれ、むしろメジャーな呼び名として定着していきます。そのような中で蒲生君平は、「犬石」を正確に伝えています。君平は『山陵志』(1808年)で次のように述べています。
文武后の之陵なり。其の火葬の所と云ふ。今呼びて大黒(タイコク)の柴と為す。蓋し后を尊び大后と為す。大黒は其の音の訛なり。其の辺りに石面に刻みて狐の如き者七枚有り。或ひは云ふ。狗の形なり。狐に非ず。古時隼人職、宮門を守る。狗吠を為す。故に大喪に臨む。亦、狗形を以て梓官の傍らに置けり。 ※原文は漢文
『大和名所図会』と同じように隼人説にためらいが感じられます。最初に「狐」説を紹介したうえで、或説として隼人説を紹介していますが、よく読むと、石自体は「狗形」であり、狗形を置く理由を隼人が宮門を狗吠して守ることに見いだしています。
蒲生君平は『山陵志』を執筆するにあたり、徹底的に現地調査したはずですが、隼人石については「狐の如き者七枚有り。」と石の数を誤っています。(佐保山西陵には4つの巨石があり、隼人石と合わせて「七ツ石」と呼ばれることがあったようです。君平はこの「七ツ石」と混同したのかもしれません。)藤原宮子の火葬地としているのも、『大和志』と同じとはいえ少数派で、君平がどこから隼人石の情報を得たのか疑問が残ります。
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