古典常識 十干十二支と古方位・古時刻

干支(十干十二支)について

現代では年賀状くらいでしかお目にかからない「干支」ですが、古くは「干支」に合わせて人々が暮らしていたと言ってもいいくらい生活に染み渡っていました。そのため現代の風習や行事の中にも「干支」の影響を受けているものが数多く残っています。



十干十二支の起源

十干十二支は、暦や占いに用いる甲骨文字として古代中国で始まったと考えられています。最初は単に順序を表す文字に過ぎませんでしたが、次第に暦だけでなく時刻や方位を表すのにも使用され、陰陽五行説や易と結びついて体系化・理論化していきます。その裏には、暦が農作物の収穫に大きく影響したことだけではなく、天変地異は為政者に対する戒めと考える中国の文化によって、天文学が国家の命運を握る学問として発達したことが関係していると思われます。さらに漢代のころには十二支に動物(十二支獣)が組み合わされ、広く庶民にも伝わると、占いに使われたり他の宗教とも結びついたりして、人々の生活になくてはならないものとなりました。



日本への伝播

日本に伝来した時期ははっきりしませんが、「干支文字」の入った銅鏡の存在などから古墳時代には定着したのではないかと考えられます。正倉院に残っている戸籍には「刀良女(トラメ)」や「牛麻呂(ウシマロ)」といった十二支に由来する名前がいくつも見つかり、奈良時代には庶民にまで広がっていたことがわかります。また、平安時代には安倍晴明で有名な陰陽道と結びついて、吉凶を占い、災いを避けるアイテムとして神秘化され、貴族たちの生活のルールブックへと変わっていきました。広く庶民が親しむようになったのは木版印刷による暦が出回った江戸時代のことのようです。今も「初午」「酉の市」「亥の子餅」など当時の風習が残っています。



十干十二支の由来

司馬遷の『史記』や班固の『漢書』など十干十二支について解説した書物もなくはありませんが、後世の後付けの域を出ず、各文字の字義や由来などはよくわかっていません。おそらく十干が先に使われはじめ、殷時代(約4000年前)には十干十二支として使われていたと考えられます。参考に『史記』における十干十二支の解説をまとめておきます。十干、十二支ともに植物の生長と再生になぞらえて説明しています。

 (十干)


 
甲とは、万物符甲を剖きて出づるを言ふなり。
 ※符甲:種子の表皮

 
乙とは、万物生じて軋軋たるを言ふなり。
 ※軋軋:きしむ様子

 
丙とは、陽道著明なるを言ふ。
 

 
丁とは、万物の丁壮なるを言ふなり。
 ※丁壮:壮大

 
茂なり。物皆茂盛するなり。
 ※茂盛:勢いよく茂る

 
紀なり。皆定まりたる形有り。紀識すべきなり。
 ※紀・識:すじみち・道理

 
庚とは、陰気万物を庚むるを言ふ。
 ※庚むる:改変する

 
辛とは、万物の辛生するを言ふ。
 ※辛生:新しく生ずる

 
壬の言たるや、任なり。陽気万物を下に養ふに任ふるを言ふなり。
 ※任:たえる

 
癸の言たるや、揆なり。万物揆度すべきを言ふ。
 ※揆・度:測る
※「戊」と「己」については、『史記』に記述がないため、後漢時代の『釈名』(劉熙)から引きました。

 (十二支)

子は滋なり。万物下に滋するを言ふ。 ※滋:茂る

 
丑は紐なり。陽気上に在りて未だ降らず、万物厄紐して未だ敢へて出でざるを言ふなり。 ※ 紐:結ぶ
寅とは、万物始めて生じて螾然たるを言ふなり。 ※螾:みみず
卯の言たる、茂なり。万物茂るを言ふなり。

 
辰とは、万物の蜄するを言ふなり。
 ※蜄:「振(動く)」あるいは「娠(みごもる)」
巳とは、陽気の已に尽くるを言ふなり。
午とは、陰陽交はるなり。
未とは、万物皆成り、滋味有るを言ふなり。 ※成る:成熟する
申とは、陰事を用ひ、万物を申賊するを言ふ。 ※申賊:侵し傷つける
酉とは、万物の老ゆるなり。
戌とは、万物尽く滅するを言ふ。
亥は該なり。陽気下に蔵るるを言ふ。 ※該:(芽吹きを)押さえきれない



干支(えと)の意味

本来は、十干の「干」と十二支の「支」を合わせて「干支」と呼びますが、現代の日本では十二支を「干支」と呼んでいます。「干」「支」はそれぞれ「幹」と「枝」のことであるとするのが通説になっていますが、古代中国では「十日十二辰」「十母十二子」という言い方や十干は「天・陽」、十二支は「地・陰」という考え方もありました。また「えと」という日本での呼び方は十干の「え(兄)」「と(弟)」に由来します。



「十」と「十二」という数字

「十」は、人の指の数などの連想から自然発生したと考えるのが穏当でしょうが、後に陰陽五行説と関連づけて体系化されるようになります。その説によると、世界を作っている基本要素である「木火土金水(五行)」を、それぞれ「兄(陽)」と「弟(陰)」(陰陽)に分け、自然の摂理を示しているのだということになります。
 「十二」についても起源は明確ではありません。1年で月の満ち欠けが12回あることからという説や、惑星の中でもっとも神聖視されていた「木星」が天球を12年かけて1周することからという説など様々です。また、いずれも天体の運行に関わっていることから、古代バビロニアの「12宮」が起源ではないかとする説もあります。
 また、「十」と「十二」を一度に説明する説として、古代中国の「天五地六」という考えから、それぞれを倍にした「十」と「十二」が生まれたとする説もあります。



十干について

「甲乙丙丁戊己庚辛癸」の十文字を「十干(じっかん)」と呼びます。

こうきのえ(木の兄)木気
おつきのと(木の弟)木気
へいひのえ(火の兄)火気
ていひのと(火の弟)火気
つちのえ(土の兄)土気
つちのと(土の弟)土気
こうかのえ(金の兄)金気
しんかのと(金の弟)金気
じんみずのえ(水の兄)水気
みずのと(水の弟)水気



十干と五行説

五行とは、世界は5つの原素の輪廻や作用によって成立しているとする考えのことです。輪廻の順序には3つのパターンがあります。

@「生成」
『書経』では「水・火・木・金・土は、五行の生れる序なり。天一水を生し、地二火を生し、天三木を生し、地四金を生し、天五土を生す。」と微かな存在から順に5原素を並べています。
『書経』には、以下のようにそれぞれの性状も説明されています。
「水を潤下と曰い、火を炎上と曰い、木を曲直と曰い、金を従革と曰い、土は爰に稼穡あり。」 ※従革:従うことと改めること  ※稼穡:種まきと収穫

A「相生(そうしょう・そうじょう)」
「木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生ず。」という具合に5原素が順々に次を生み出していくプラスの関係です。

B「相剋(そうこく)」
「木は土を剋し、、土は水を剋し、水は火を剋し、、火は金を剋し、金は木を剋す。」という具合に5原素が順々に次を打ち負かす(剋する)マイナスの関係です。

十干の順番はこれらのうち2つ目の「相生」と同じ順番になっています。



十干と陰陽

世界の原始の姿「混沌(こんとん)」から派生した、根源となる2つの「気」が「陰陽」です。戦国時代の陰陽家たちが体系化し、あらゆるものが陰陽に分類されました。数字も奇数が「陽」、偶数は「陰」と分類されており、十干の「え」と「と」に対応しています。
 なお、もともと陰陽と五行説は別々の理論理屈でしたが、戦国時代の鄒衍が両者を組み合わせ、陰陽五行説として大系化したと考えられています。



十二支について

「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」の十二文字を「十二支(じゅうにし)」と呼びます。

動物時刻方位
ネズミ 0時(夜半)
うしちゅうウシ 2時(鶏鳴)
とらいんトラ 4時(平旦)
ぼうウサギ 6時(日出)
たつしんタツ 8時(食時)
ヘビ10時(隅中)
うまウマ12時(日中)
ひつじヒツジ14時(日昳)
さるしんサル16時(晡時)
とりゆうトリ18時(日入)西
いぬじゅつイヌ20時(黄昏)
がいイノシシ22時(人定)



十二支獣・十二生肖・十二相属

十二支に配された動物を、十二支獣または十二生肖、十二相属と呼びます。生肖は「似ている」という意味、相属は「仲間・身内」という意味です。現代では十二支=動物になっており、年賀状の図柄やお正月の縁起物など動物抜きの十二支を思い浮かべることさえできない状態です。しかし、だれが、いつ、何のために十二支に動物を当てたのかはわかっていません。選ばれた動物の基準も不明です。王允の『論衡』の中ではすでに動物を当てていることが書かれていますので、漢代には広まっていたと考えられます。おそらく庶民が十二支を理解できるように身近な動物と結びつけたのだろうと思われますが、確証はありません。そのため中国では唐の時代あたりから十二生肖の説明が試みられてきました。江戸時代の新井白石が『干支考』の中でまとめていますので、簡単に紹介してみましょう。
1 脚の爪の数説(宋・洪巽)
陰陽説が広まると、あらゆるものが陰陽に分類されたことは先ほど述べましたが、数字も奇数が「陽」、偶数が「陰」と分類されました。そこで、動物たちの脚の爪(蹄)の数に注目して十二生肖を決めたのだという説が唱えられました。確かに鼠・虎・龍・猿・犬は5本、馬は1本で奇数番号の動物たちは皆、脚の爪の数は奇数です。偶数番号の牛、兎、猪は2本、羊、鶏も4本で偶数になっています。しかし蛇は説明できません。そこで、蛇は舌が二股であるとして無理やり偶数グループにしています。
2 性格説(宋・王逵)
中国の科学は経験科学でした。十干十二支を用いて吉凶を占ううちに、それぞれの文字に特徴付けがなされたはずです。さらに陰陽五行説と結びついたのちは論理的に補強されていったと考えられます。そうして作り上げられたイメージと似通った性格の動物が結びついたのだというのがこの性格説です。例えば、「子」は陰の気が極まり万物が潜んでいる時だから、隠れて姿をくらます鼠があてられたとか、「丑」は陰が俯いて慈愛する時であり、子牛を舐めて慈愛する牛の性格に当てたと説明します。すべての生肖を合理的に説明できるので、白石もこの説を推しています。
3 自然の摂理説(明・楊昇菴)
最後は、人為を否定し自然に根拠を求める説です。例えば鶏と兎は、それぞれ太陽と月に住んでいるので、それぞれの天体が昇る方角の反対側(太陽は東から昇るので西、月は西から昇るので東)の十二支(酉、卯)と結びついた。とか、巳や亥はそれぞれの動物(蛇、豚)から文字が作られたと説明します。白石は北斗の精が豚に姿を変えて渾天寺にやってきたという故事を挙げ、亥が北に配置されたのはこの話と関係するのだろうかと付け加えています。

十二支は中国日本だけでなく漢字文化圏に広く流布していますが、十二支獣は地域によって微妙に違っています。例えば、中国をはじめ多くの国では、亥は「豚」になりますし、タイやベトナム、ロシアでは卯は「猫」に代わり、水牛や象、ワニが登場する国や地域もあります。



十二支と古時刻(十二時辰)

十二支は時刻を表すのにも利用されました。24時間を12で分けるので、それぞれの十二支が表す「一刻(いっとき)」は2時間でした。最初の「子の刻」は午前0時を中心(これを「正刻」という)に前後1時間ずつ、すなわち午後11時から午前1時までとなります。下に図としてまとめました。図を見てもらうと「正午」が「午の刻」の「正刻」に当たるのがわかると思います。ここから、午前、午後という呼び方も出てきているわけです。
 ただし、不定時法を採用していた室町時代から江戸時代までは、日の出(=卯の刻)・日の入り(=酉の刻)で調整していたため、冬に比べて夏の方が昼間の一刻の長さは長くなっていました。
 また一刻を4等分(十二辰刻四十八刻法)したり、陰陽の影響から「子の刻」「午の刻」を「九つ(最大の陽の数)」とし、1ずつ減らしていったりといった複雑な組み合わせの数え方をしていました。現在に残る「丑三つ時」や「おやつ」はその名残です。



十二支と古方位

方位もまた、十二支で表していました。北が「子の方」、東は「卯の方」、南が「午の方」、西は「酉の方」となります。一方、易の八卦も方位を表していたことから、北東の方角の「艮」、南東の方角の「巽」、南西の方角の「坤」、北西の方角の「乾」をそれぞれ「うしとら」「たつみ」「ひつじさる」「いぬゐ」と呼びます。百人一首の「わが庵は都のたつみしかぞ住む…」はこの「巽」です。下に図としてまとめておきます。
 なお、艮の方角を「鬼門」と呼び、日本では鬼や災いが入ってくる方角と考えていました。鬼の頭に牛の角が生え、トラのパンツをはいているのは、この「うしとら」からと言われています。また、鬼退治に行く桃太郎の家来は反対の方角の動物である犬・キジ・猿が選ばれています。
 さらに、十干も加えたものが「二十四方位(二十四山)」です。主に占術などで使われました。十干のうち「戊・己」は土気なので、中央に配されています。


(内側から、四神獣・八方位(八卦)・十二方位(十二支)・二十四方位)



十二支と陰陽五行説

十干と同じように十二支も陰陽五行に対応しています。ただし12は5で割り切れないため少しずれが生じます。
まず、様々なものを五行に割り振った下の表をご覧ください。

五行
五色
五方中央西
五時土用
五味
五臓
五常

 すでに述べたように、十二支も方位や月を表しますので、五行の表に割り振ると以下のようになります。

 (方位)

中央西
寅・卯・辰巳・午・未割り当てなし申・酉・戌亥・子・丑

 (季節)
土用
寅・卯・辰巳・午・未(辰・未・戌・丑)申・酉・戌亥・子・丑

 旧暦では春を1年の始まりとしていましたから、「寅」が1月となり、12月は「丑」となっています。(さらにさかのぼると、「冬至」を1年の始まり(つまり「子」)としていたという事情も関係があるようです。)
 また、「土用」とは「土の作用」という意味で、土気が季節の巡行を促すと考えられたことから、各季節の最後の18日間を「土用」と決めています。
 季節と月を図にまとめると下のようになります。


(内側から、季節・十二支・月+月の古称・二十四節気)



十二神将・十二天将

既に述べたように、12という数字が天を連想する神秘的な数字であったためか、仏教や陰陽道においても12という数字は特別な意味を持ちます。例えば仏教においては薬師如来を守護する天部の神々が「十二神将」と呼ばれています。また陰陽道では、占いの際に用いた神が「十二天将」と呼ばれました。十二神将も十二天将もそれぞれ十二方位の守護神として信仰されたので、同じく方位をつかさどる十二支と強いつながりを持つようになりました。

十二支  十二神将 十二天将
毘羯羅(ビギャラ)大将玄武(げんぶ)
招杜羅(ショウトラ)大将貴人(きじん)
真達羅(シンダラ)大将青龍(せいりゅう)
摩虎羅(マコラ)大将六合(りくごう)
波夷羅(ハイラ)大将勾陳(こうちん)
因達羅(インダラ)大将騰虵(とうだ)
珊底羅(サンテラ)大将朱雀(すざく)
頞你羅(アニラ)大将大裳(たいも)
安底羅(アンテラ)大将白虎(びゃっこ)
迷企羅(メイキラ)大将大陰(たいいん)
伐折羅(バザラ)大将天空(てんくう)
宮毘羅(クビラ)大将天后(てんこう)



六十干支(十干十二支の組み合わせ)

十干十二支が生まれたころは、組み合わせて「日」を表すものでした。それが次第に「月」を、少し遅れて「年」を表すようになったと考えられます。
 また、組み合わせ方には独特のルールがあり、「甲子」から始まり「癸亥」で終わり、60組で一巡します。

  干支(読み) 西暦(和暦)
甲子(きのえね・かっし)1984年(昭和59年)
乙丑(きのとうし・いっちゅう)1985年(昭和60年)
丙寅(ひのえとら・へいいん)1986年(昭和61年)
丁卯(ひのとう・ていぼう)1987年(昭和62年)
戊辰(つちのえたつ・ぼしん)1988年(昭和63年)
己巳(つちのとみ・きし)1989年(昭和64年・平成元年)
庚午(かのえうま・こうご)1990年(平成2年)
辛未(かのとひつじ・しんび)1991年(平成3年)
壬申(みずのえさる・じんしん)1992年(平成4年)
10癸酉(みずのととり・きゆう)1993年(平成5年)
11甲戌(きのえいぬ・こうじゅつ)1994年(平成6年)
12乙亥(きのとい・いつがい)1995年(平成7年)
13丙子(ひのえね・へいし)1996年(平成8年)
14丁丑(ひのとうし・ていちゅう)1997年(平成9年)
15戊寅(つちのえとら・ぼいん)1998年(平成10年)
16己卯(つちのとう・きぼう)1999年(平成11年)
17庚辰(かのえたつ・こうしん)2000年(平成12年)
18辛巳(かのとみ・しんし)2001年(平成13年)
19壬午(みずのえうま・じんご)2002年(平成14年)
20癸未(みずのとひつじ・きび)2003年(平成15年)
21甲申(きのえさる・こうしん)2004年(平成16年)
22乙酉(きのととり・いつゆう)2005年(平成17年)
23丙戌(ひのえいぬ・へいじゅつ)2006年(平成18年)
24丁亥(ひのとい・ていがい)2007年(平成19年)
25戊子(つちのえね・ぼし)2008年(平成20年)
26己丑(つちのとうし・きちゅう)2009年(平成21年)
27庚寅(かのえとら・こういん)2010年(平成22年)
28辛卯(かのとう・しんぼう)2011年(平成23年)
29壬辰(みずのえたつ・じんしん)2012年(平成24年)
30癸巳(みずのとみ・きし)2013年(平成25年)
31甲午(きのえうま・こうご)2014年(平成26年)
32乙未(きのとひつじ・いつび)2015年(平成27年)
33丙申(ひのえさる・へいしん)2016年(平成28年)
34丁酉(ひのととり・ていゆう)2017年(平成29年)
35戊戌(つちのえいぬ・ぼじゅつ)2018年(平成30年)
36己亥(つちのとい・きがい)2019年(平成31年・令和元年)
37庚子(かのえね・こうし)2020年(令和2年)
38辛丑(かのとうし・しんちゅう)2021年(令和3年)
39壬寅(みずのえとら・じんいん)2022年(令和4年)
40癸卯(みずのとう・きぼう)2023年(令和5年)
41甲辰(きのえたつ・こうしん)2024年(令和6年)
42乙巳(きのとみ・いっし)2025年(令和7年)
43丙午(ひのえうま・へいご)2026年(令和8年)
44丁未(ひのとひつじ・ていび)2027年(令和9年)
45戊申(つちのえさる・ぼしん)2028年(令和10年)
46己酉(つちのととり・きゆう)2029年(令和11年)
47庚戌(かのえいぬ・こうじゅつ)2030年(令和12年)
48辛亥(かのとい・しんがい)2031年(令和13年)
49壬子(みずのえね・じんし)2032年(令和14年)
50癸丑(みずのとうし・きちゅう)2033年(令和15年)
51甲寅(きのえとら・こういん)2034年(令和16年)
52乙卯(きのとう・いつぼう)2035年(令和17年)
53丙辰(ひのえたつ・へいしん)2036年(令和18年)
54丁巳(ひのとみ・ていし)2037年(令和19年)
55戊午(つちのえうま・ぼご)2038年(令和20年)
56己未(つちのとひつじ・きび)2039年(令和21年)
57庚申(かのえさる・こうしん)2040年(令和22年)
58辛酉(かのととり・しんゆう)2041年(令和23年)
59壬戌(みずのえいぬ・じんじゅつ)2042年(令和24年)
60癸亥(みずのとい・きがい)2043年(令和25年)

「壬申の乱」「戊辰戦争」など歴史上の出来事の中には発生した干支によって名づけられたものも少なくありません。また、「甲子園」や松尾芭蕉の『甲子吟行(『野ざらし紀行』の別称)』などにも残っています。



(参考にした文献)
松田邦夫『暦のわかる本』海南書房 1987年10月
諸橋轍次『十二支物語』大修館書店 1989年12月
吉野裕子『十二支―易・五行と日本の民俗』人文書院 1994年7月
見憲明『干支ってなぁ〜に?』チクマ秀版社 2000年8月
川合章子『陰陽道と平安京 安倍晴明の世界』淡交社 2003年11月
稲田義行『十二支読本 暦と運勢のしくみを読み解く』創元社 2017年09月
武光 誠『日本人にとって干支とは何か』河出書房新社 2020年11月