奈良の十二支
キトラ古墳の十二支像 那富山墓の隼人石 新薬師寺の十二神将 正倉院宝物の十二支 石灯籠の十二支 大極殿の十二支1 キトラ古墳の十二支像
キトラ古墳は、古墳が多く集まる「明日香」にある「壁画」で有名な古墳です。キトラという名前の由来については裂け目から亀と虎が見えたという説や地名の「北浦」がなまったという説などいくつもあり、今もはっきりとはわかりません。
日本初の壁画古墳である「高松塚古墳」の調査をきっかけに1983年に石室内部に彩色された「玄武」が描かれていることが発見されました。2000年には国の指定史跡に指定され、さらに特別史跡に指定されています。以後の調査で青龍、白虎、天文図、朱雀、獣頭人身の十二支が確認されましたが、壁のもろさがわかり、2004年から剥ぎ取り作業が始まりました。2019年に壁画は国宝に指定されています。現在石室は埋め戻され、一帯は国営飛鳥歴史公園として整備され、「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」で石室のレプリカ等が展示されています。

四神の館全景

石室全景(レプリカ)


寅像(画像) 午像(画像)
大陸からの影響が比較的少ないことから7世紀末から8世紀初めに作られたと考えられています。埋葬されている人物については天武天皇の皇子である高市皇子、高官であった百済王昌成などが挙がっていますが、金銀を使った埋葬品などからかなり高貴な人物であると考えられます。
壁画構成想像図
十二支像については、中国や朝鮮半島の例から東西南北の4面にそれぞれ3体ずつ描かれていたと想定されています。最初に確認されたのは北壁の「亥」「子」「丑」、東壁の「寅」、西壁の「戌」の5体でしたが、2005年に南壁の「午」が「朱雀」剥ぎ取り準備作業中に泥に転写した状態で見つかり、2023年に東壁の「辰」、南壁の「巳」、西壁の「申」が蛍光エックス線分析によって確認されました。残る3体は漆喰が剥がれ落ちており残念ながら消滅したと考えられています。
十二支像はいずれも中国風の衣装を身につけて手に武器を持っています。「午」が見つかった際、衣装の鮮やかな朱色が残っていたことから、他の十二支像も五行説に応じた彩色をされていたものと考えられていましたが、2023年の蛍光エックス線分析によって壁ごとに異なる顔料が検出されたことで石室の方角ごとに壁画の色を塗り分けていた可能性がより高まりました。
十二支像の配置にも五行説の影響がうかがえます。十二支で方位を表す場合は「子」を北にして30度ずつずれていきます。ところが、キトラ古墳の十二支像は各方位に3体ずつ壁の中央に並べられています。これは下表のように万物を5つに分けた五行説に対応します。
木 | 火 | 土 | 金 | 水 |
青 | 赤 | 黄 | 白 | 黒 |
東 | 南 | 中央 | 西 | 北 |
青龍 | 朱雀 | 白虎 | 玄武 | |
寅・卯・辰 | 巳・午・未 | 申・酉・戌 | 亥・子・丑 |
なぜ、十二支像が描かれたのかは、はっきりしません。天文図・四神とともに死後世界の秩序を保っている、薬師如来の守護天である十二神将が影響している等の説がありますが、邪悪なものを避ける(辟邪)意味があったことは間違いないのでしょう。なお、古代中国では、十二支像は壁画ではなく俑(陶製の人形)を置くのが通常で、武器を持った十二支像は統一新羅の陵墓の周囲に設置されたレリーフと類似しています。
2 那富山(なほやま)墓の隼人石
那富山墓は、奈良市の北側にある「黒髪山」の林の中にあり、夭逝した聖武天皇の第一皇子の墓と考えられています。直径10メートル程度と小さく、木々に覆われて形もはっきりしませんが、付近の「奈保山西陵(元正天皇陵)」や「奈保山東陵(元明天皇陵)」とともに宮内庁が治定し管理しています。

那冨山墓全景
隼人石(はやといし)は、高さ1メートル、幅50センチ程度の縦長の石に獣頭人身像を線刻した石造物です。4石確認されており、それぞれ違う動物が描かれていますが、今はコンクリート柵に囲われて、見ることができるのは第1石(子)と第3石(戌)だけです。
江戸時代には「犬石(狗石)」または「狐石」と呼ばれ、近くには稲荷大明神が祀られていました。しかし、明治時代に一帯が那富山墓と治定された際に神社は移転されました。現在の法蓮稲荷神社がその時移転された神社です。なお、今もすぐ近くに黒髪山稲荷神社という別のお社があります。

法蓮稲荷神社
「七疋狐」の地名があることから、もとは7つあった可能性がありますが、江戸時代には3つしか残っていなかったようです。
江戸時代後半には、尊王運動から陵墓研究が盛んになり、この隼人石も多くの書物で紹介されています。
最初にこの石と隼人を結びつけたのはだれか、はっきりしたことはわかりません。例えば、著書『好古小録』の中で写生図を示しながら隼人との関係を指摘した江戸中期の有職故実研究家、藤原貞幹(藤貞幹)などが考えられています。また江戸後期には伴信友が『日本書紀』の中の、隼人が宮中警護の際に犬のような声を出して邪気を払う「狗吠(くはい)」と、石に刻まれた謎の獣頭人身の姿を結びつけ、亡くなった皇族を守護しているのだと解釈しました(『比古婆衣』)。これらが広く受け入れられ「隼人石」と呼ばれるようになったと言われています。
しかし、明治の終わりに統一新羅時代の王陵に設置された十二支獣の石像との関連が指摘され、それ以来「隼人石=十二支像」がほぼ定説になりました。
※柴田常恵「元明陵の隼人石に就て」(東京人類学会雑誌285号 1909年刊)

第1石(子)

第3石(戌)
1998年に宮内庁によって石の保存修復処理が実施され、その際の調査結果が橿原考古学研究所から刊行されています。この調査結果等を参考に4つの石について紹介します。
第1石 墳丘北西隅にある。横に寝た耳のネズミ(子)と見られる。肩幅の広い全身が表現され、直立して胸元で拳を組み、杖を持つポーズをとっている。衣服はなく、褌のような表現がある。頭上に「北」と彫られている。 ※写真では柵の横棒に重なって読めません。 | ![]() |
第2石 墳丘北東隅にある。頭部は不鮮明だが耳の間に2本の角を持つウシ(丑)と見られる。やや雑だががっしりした全身が表現され、跪いて胸元で拳を組んだポーズをとる。衣服はなく、褌のような表現がある。 | ![]() |
第3石 墳丘南西隅にある。長い耳のイヌ(戌)と見られる。下半身の表現が省略され、胸元で拳を組んだポーズをとる。 | ![]() |
第4石 墳丘南東隅にある。耳が斜め上に伸びたウサギ(卯)と見られる。全身が表現され、跪いて胸元で拳を組んだポーズをとる。肩幅は広く、褌のような表現がある。頭上に「東」と彫られている。 | ![]() |
隼人石は、大阪府羽曳野市の杜本神社にも存在しています。図柄は第1石(子)に似ており、本殿前に対になって立っています。
墳墓における十二支像は、例がほとんどなく、その意図もはっきりとはわかりません。12石揃っていたのか、外側を向いていたのか内側を向いていたのかさえ分かりません。しかし、伝承通りこの墓が1歳足らずで亡くなった第一皇子のものであるとすれば、かわいらしい十二支像は皇子の遊び相手として、あるいは冥界への道を教える道案内として、聖武天皇が贈った最後の贈り物だったように思われます。
隼人石についての考察 → 隼人石−隼人説考
3 新薬師寺の十二神将
新薬師寺は奈良公園の南、高畑町にある古刹です。
相次ぐ天変地異を鎮めようと大仏建立を発願したにもかかわらず、聖武天皇が体調を崩されたので、全国で薬師悔過(やくしけか・病苦を救う薬師如来に天下泰平を祈る法要)が行われました。この時、春日山でも薬師悔過が行われたのをきっかけに、天平19年(747年)、聖武天皇の御后、光明皇后によって創建されました。当初は大勢の僧が住む大伽藍でしたが、平安期の落雷や台風でほとんどの建物を失い、唯一残ったお堂が現在の本堂です。
新薬師寺の「新」は「あたらしい」の意味ではなく、霊験あらたかの「あらたか」の意味です。創建当初は「香山薬師寺」、「香薬寺」とも呼ばれていました。

新薬師寺東門

新薬師寺本堂
十二神将は、薬師如来や薬師経を信奉する人々を守る夜叉(インド神話の森に棲む精霊)の大将です。それぞれが7千の夜叉を率いており、十二夜叉大将、十二神明王とも呼ばれます。
「薬師瑠璃光如来本願功徳経」には次のように書かれています。
所謂
弥勒菩薩 得大勢至菩薩 阿弥陀如来
宮毘羅大将 亥 伐折羅大将 戌 迷企羅大将 酉
観世音菩薩 虚空蔵菩薩 虚空蔵菩薩
安底羅大将 申 あに羅大将 未 珊底羅大将 午 あは安に頁、には人偏に爾
地蔵菩薩 文殊菩薩 薬師如来
因達羅大将 巳 波夷羅大将 辰 摩虎羅大将 卯
普賢菩薩 金剛手菩薩 釈迦如来
真達羅大将 寅 招杜羅大将 丑 毘羯羅大将 子
此の十二の薬叉大将、一一各々七千の薬叉ありて、以て眷属とせり。同時に声を挙げて仏に申してもうさく。世尊、我等今仏の威力を蒙りて世尊薬師瑠璃光如来の名号を聞くことを得て、亦更に悪趣の怖れあらず。我等相率いて皆同じく一心に乃至尽形まで仏法僧に帰して誓って、当に一切の有情を荷負して、為に義利し、饒益し、安楽を作すべし。随って何等の村城国邑、空間林中に於けるも、若し此の経を流布し、或いは復、薬師瑠璃光如来の名号を受持し、恭敬し、供養せん者あらば、我等眷属此の人を衛護して、皆一切の苦難を解脱せしめ、諸有の願求を悉く満足せしめん。
頭注 十二神将は次の如く十二支の神にして仏菩薩の化身なり。
※国立国会図書館デジタルコレクション「和訳薬師瑠璃光如来本願功徳経」(明治25年)より引用した。一部省略、新字体に改めたりひらがなにしたりしている。
新薬師寺の十二神将立像は、奈良時代の作で最古最大の塑像です。ほぼ等身大で、怒りの形相で様々なポーズをとりながらも群像としての統一感があります。作られた当時は青、朱、紫に繧繝彩色(うんげんさいしき)され、派手ないでたちであったと考えられています。
神将の数が12であるのは、薬師如来の「十二の大願(人々の病気を治し衣食住を満たす)」に対応していると考えられます。
寺院では薬師如来を中心に円形に配置され、十二の方位を守っているとされています。また、薬師如来の両脇には日光菩薩、月光菩薩が配置されることが多く、日光菩薩が昼を月光菩薩が夜をそれぞれ受け持ち、さらに十二神将が1日を十二等分して守っているとされます。これらのことから十二支と関連づけられ、平安期以降、頭部にそれぞれ動物が載っている像がつくられます。しかし、十二支の割り当ては後世の後付けであるため十二神将と十二支との組み合わせ方には異説もあり、新薬師寺でも十二支の表す方位とは関係なく配置されています。
本堂内配置図

奈良近鉄ビル5階に展示されているレプリカ
3-2 興福寺の十二神将
奈良公園の中にある「興福寺」にも国宝の十二神将立像があります。
興福寺の十二神将立像はそれぞれに個性的な動きがつけれられており、鎌倉時代の代表作と言われています。
新薬師寺の立像との大きな違いは頭部に十二支獣が載っていることです。また、お堂の形状のせいか全員が「西」を向き、十二支の順番通りに並んでいます。

興福寺 東金堂
東金堂内配置図
C:薬師如来坐像
D:文殊菩薩坐像 E:日光菩薩立像
ウ:広目天(西) エ:多聞天(北)
3:真達羅(しんたら・寅) 4:摩虎羅(まごら・卯)
5:波夷羅(はいら・辰) 6:因達羅(いんだら・巳)
7:珊底羅(さんていら・午) 8:あに羅(あにら・未)
9:安底羅(あんていら・申) 10:迷企羅(めきら・酉)
11:伐折羅(ばさら・戌) 12:宮毘羅(くびら・亥)
十二神将像は、新薬師寺、興福寺以外に東大寺、室生寺などにもあります。東大寺・室生寺の十二神将立像も鎌倉時代のもので、頭上に動物をつけています。
4 正倉院宝物の十二支
正倉院宝物の中にも、僅かですが、十二支を図柄に持つものがあります。
「十二支八卦背円鏡(じゅうにしはっけはいのえんきょう)【南倉】」は、正倉院所蔵の鏡の中では最も重く、二番目に大きい鏡です。背面の模様は、真ん中の獅子のようなたてがみを持つ動物の取っ手を取り巻くように4層になっています。一番内側の1層目は、四神獣(青龍・朱雀・白虎・玄武)です。それぞれの間には花卉山岳文があしらわれています。2層目には八卦が八方位に合わせて描かれています。3層目が十二支です。十二の動物が同じ方向を向いて疾走しています。一番外側の4層目には葡萄唐草文が帯状に施されています。
十二支が描かれた鏡は、正倉院宝物以外にもいくつか知られています。東大寺には法華堂の天蓋部分に取り付けられていた鏡の一つに十二生肖が描かれています。どの鏡の十二支も動物の姿をしており、疾駆していることから、時の流れを表現しているのではないかと考えられています。

「十二支彩絵布幕(じゅうにしさいえのぬののまく)【中倉】」は、十二支獣を描いた横長の布幕の一部と考えられています。現在は、龍、猪、鶏の一部分が残っているだけです。
「白石鎮子(はくせきのちんす)【北倉】」は、大理石のレリーフです。四神と十二支から2獣ずつが絡みつくように彫られています。鎮子とは「重石」のことですが、正確な用途は不明です。

寅と卯
5 石灯籠の十二支
浮御堂の近くに整備された「瑜伽山園地(ようがやまえんち)」は、もと大坂で銀行を経営していた実業家である山口氏の別荘で、明治・大正の頃は志賀直哉や武者小路実篤などの文人たちが交流していた場所です。高低差のある地形を生かし、滝や池のほか、いくつかの灯籠や橋が配された回廊式の庭園になっています。その灯籠の一つが「奥の院型灯籠」と呼ばれるタイプで、中台に十二支が彫刻されています。奥の院型灯籠は江戸時代初期に発生したタイプで、全体的に装飾が多く豪華なのが特徴です。十二支は火袋を載せる中台の6面に浮き彫りされており、方位に合わせて「子」が北になるように置かれています。
奥の院型灯籠の名前の由来となった灯籠は、春日大社の奥の院にある紀伊神社の横に立っています。春日七灯籠の一つで江戸時代の作です。ただし、中台には十二支ではなく、獅子が駆ける姿が彫刻されています。
なお、春日大社は、日本一灯籠の多い神社といわれており、約3000基(石灯籠およそ2000基、釣灯籠およそ1000基)の灯籠があります。

瑜伽山園地

瑜伽山園地の石灯籠

春日大社奥の院(紀伊神社)の石灯籠

中台の獅子
6 大極殿の十二支
2010年に復元された「第1次大極殿」は、平城旧蹟の中にあり、正面約44m、側面約20m、地面から約27mの高さを誇ります。当時は天皇の即位式等の重要儀式を行う中心的宮殿でしたが、恭仁京遷都の際に移築され、恭仁京が廃されると山城の国の国分寺金堂にされるなど数奇な運命をたどりました。
十二支は、天井付近の壁面に四神獣とともに描かれています。作者は奈良市在住の上村淳之氏です。四面の壁のそれぞれ中央に玄武(北)、青龍(東)、朱雀(南)、白虎(西)が一対ずつ描かれ、十二支は南北の壁に左右3種類ずつ描かれています。花鳥画で知られる上村氏が「穏やかで、優しさも感じられるように表現した」と語られたとおり、見る者をほっこりさせるかわいらしい十二支です。

第1次大極殿全景

壁面(北西)

壁面(子)
(参考にした資料)
川瀬由照『日本の美術 No.518 十二支−時と方位の意匠』ぎょうせい 2009年
1 キトラ古墳の十二支像
来村多加士『高松塚とキトラ−古墳壁画の謎−』講談社選書 2008年
山本忠尚 『高松塚・キトラ古墳の謎』吉川弘文館 2010年
キトラ古墳壁画体験館 四神の館パンフレット
2 那富山墓の隼人石
細呂木千鶴子『歴史と文化の素顔−奈良・大和路を行く−』大阪書籍 1987年
3 新薬師寺の十二神将
小川光三『十二神将 奈良・新薬師寺』毎日新聞社 2001年
新薬師寺パンフレット
興福寺東金堂パンフレット
4 正倉院宝物の十二支
杉本一樹『正倉院あぜくら通信 宝物と向き合う日々』淡交社 2011年
杉本一樹『正倉院宝物 181点鑑賞ガイド』新潮社 2016年
5 石灯籠の十二支
福地謙四郎『日本の石燈篭』理工学社 1978年
喜多野徳俊『春日の神の石燈篭』近代文藝社 1995年
石燈籠平成調査会「春日大社石燈籠平成調査の概要」奈良学研究6号 2003年