隼人石 -隼人説考-
はじめに
那富山の「隼人石」は、その奇妙な姿や類例の乏しさから、近世以来多くの好古家や学者の関心を集め、正体の解明が試みられてきました。
初期には見た目や地名から「狐」の像と考えられていましたが、江戸中期に「隼人説」が登場してからは、知識人の中では隼人像との認識が広まり、以後、隼人石という名称も定着していきます。さらに明治に入ると奈良博覧会に出品され一般の人々にも知られるようになり、「大和名物」(後藤秀穂『皇陵史稿』「七疋狐と七福神」)として人気が高まりました。
ところが、明治終わりに柴田常恵氏によって「十二支像説」が唱えられ、この説が東洋史学の権威内藤湖南氏から支持されると、一気に「十二支像説」が定説化して現在まで続いています。
最近では、統一新羅時代の十二支彫像に関する研究から隼人石との関係を論じた斎藤忠氏や近世の文献を丹念に調べ上げた福山敏男氏、地元在住の歴史研究家、細呂木千鶴子氏などが隼人石について論じておられますが、議論はほぼ煮詰まった感があります。
しかし、江戸中期に獣頭人身像と隼人の結びついた経緯が十分に解き明かされたとは言い難く、また、隼人説誕生の時期に上田秋成が隼人石を実見し拓本を採っていたことは、どなたも指摘されていません。
そこで、上田秋成の隼人石に関する記述を紹介するとともに、当時の国学において隼人がどのように解釈されていたかを明らかにし、「隼人説」誕生に関して論を試みてみたいと思います。
なお、原文を引用する際には私に翻刻しています。書き下しについても同様に私に行ったものです。

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