隼人石 -隼人説考-
1 最初は「狐」
―第1次ブーム―(1680年~1730年 元禄ごろ)
隼人石が初めて確実に文献上に登場するのは、林宗甫の『和州旧跡幽考(大和名所記)』(1681年)です。宗甫は大和郡山の在野の学者で、大和国内の名所・名跡を調べ上げ20巻にも及ぶ『和州旧跡幽考』にまとめました。隼人石に関しては、「その表に狐の杖をつき躍るすがたあり。その刻ざま、世のつねの物とも見えず」とその奇怪さを強調していますが、彫られた像については、地名「七疋狐」の由来となった石であると紹介していることから、「狐」と考えていたと思われます。
此所は聖武天皇推の岡の陵の乾なり。俗爰を七疋狐といふ事は七つの立石(たていし)に狐のかたちをあらはせるゆへにかくいひつたへける。年経ぬればにや数なくなりて、当代石一つ残りたり。その表に狐の杖をつき躍るすがたあり。その刻(きざみ)ざま、世のつねの物とも見えず。元明天皇爰にて葬し奉るよしいひつたへたり。

続いて、松下見林の『前王廟陵記』(1696年)や関祖衡・並河誠所(永)の『大和志』(1736年)が、「狐」を彫った石として、隼人石を取り上げています。しかし、伝聞による記述なのか、残念ながら記述も短く内容も不正確です。また、寺島良安編纂の『和漢三才図会』(1712 年)も隼人石を取り上げていますが、内容はほぼ『旧跡幽考』からの焼き直しです。一方、村井古道編纂の『奈良名所絵巻』(1705年)では、記事こそ『旧跡幽考』と大差ありませんが、挿絵によってしめ縄のようなものをかけられた第1石(子像)が山中の少し開けた小松原に置かれている様子をうかがうことができます。なお、村井古道は『平城趾跡考』でも隼人石について詳しく紹介しています。
奈保山ノ東ノ陵ハ平城ノ宮ニ御宇ス元明天皇。…(中略)…或ノ曰、今俗ニ云大奈閉(ナベ)。七疋狐ノ辺。七ノ立石有。石狐ヲ鐫。

眉間寺山の乾北なり。昔時彫刻野に七匹なるも、今世一石存るのみ。その形勢、杖を携え踊り戯るる所にして、必ず及ぶべからず。凡そ工の者甚だ寄(奇?)観なり。また其の濫觴詳かならず。 ※原文は漢文
人王四十三代元明天皇 … 改葬年月国史に無し。重ねて考えるべし。
欲良峯は般若寺在家の西方、興福院艮方にして俗に大黒芝と号す。異石七基有りて、各野干形を彫る。其の工甚だ奇なり。今多く分散しむ。漸く二基存するのみ。俗間、大黒芝と号す。亦、稲荷神と為す。按ずるに当所巽方に太皇后光明子の山陵有り。太皇后の芝為るべし。後世誤りて大黒に作る。 ※原文は漢文 ※「野干」は狐の古異名

元明天皇ノ陵ナリ 元正天皇陵<■■法華寺村>
… (省略) …
傍に立石有り。面に狐杖を携て躍る形を造る。往古此くの如き石七箇有り、因て七匹狐と曰ふ。今は唯一箇のみ。未だ作者及び来由を知らず。 ※原文は漢文

平城ノ朝、太皇大后藤原氏宮子○眉間寺ノ西北ニ在リ。陵北六百歩許呼ビテ大皇后(タイコク)ノ尾ト云フ。巨石有リ。七狐ヲ彫刻ス。即チ天平勝宝六年八月火葬の地ナリ。謚ヲ千尋葛藤高知天ノ宮姫の尊ト曰フ。乃チ聖武帝ノ母なり。
この時期の文献の中で唯一隼人石の由来を考察しているのが、室鳩巣の『駿台随筆』(1730年代?)です。鳩巣は「梅山陵の石人」(欽明天皇陵の「猿石」のこと)の条で、隼人石は圧勝(悪霊に対する魔除け)ではないかと推測しています。
上古は皇族の死せるときは必ず殉人を以て葬る事、和漢ともにありしと。我国にても垂仁天皇の御とき迄は、宮妃に至るまで共に葬りしを、野見の宿祢の臣、帝に奏問して殉死の人を止め、人に替るに土殖の人形を以てす。帝彼が功を賞して大師といふ姓を賜ふと。それより代々土人形を以て殉人にかゑしと。大和国高市郡平田むらの東に欽明天皇の陵あり。郷人、梅山の陵と称す。叢樹欝蒼として、丘陵皆砂石を以て固む。歳経て石の如し。陵の傍に石人四軀あり。長け各々三尺ばかり、奇形の人也。内に一軀陰を出せるものあり。何のものたる事を知らず。是も又殉人にかゑしものか。但しは圧勝のためか。頃日は陸務観が入蜀記を見て抹陵の傍に石老石媼あり。是も又上古の帝陵の物たりとあれば、漢土にも此類ひありや。又添上郡佐保山の陵には、巨石に狐形の事を彫刻せり。是即ち聖武帝の御母藤原の宮子を葬る所也。是全々道家に所謂圧勝の類か。惣じて漢土、我邦とに符節を合せたるが如き事多し。
中国との類似にまで目配りしつつ論じているところがユニークです。とはいえ、像については「狐形の事を彫刻せり」と書いていますから、狐だと考えていたと思われます。
このように、文献に登場し始めたころの隼人石は、元禄の修陵や全国の地誌作成に関連して取り上げられていました。それゆえ深い考察は少なく「狐」の像が彫られた奇妙な石という認識程度であったことがわかります。
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