隼人石 -隼人説考-
2 好古家たちが注目
―第2次ブーム―(1790年~1810年 寛政ごろ)
次に、隼人石に注目したのは、藤貞幹や屋代弘賢、松平定信のような好古家たちでした。彼らはとにかく古いものを蒐集し分類しました。隼人石も拓本がいくつか採られたようで、彼らはその著書に写生図を載せています。「隼人説」が現れるのもこの頃です。
「隼人説」提唱の最有力者として名前が挙がる藤貞幹は、京都の好古家であり、和歌や書にも通じていた人物です。彼は、著書『好古小録』(1794年)の中で獣頭人身像の写生図を「隼人図」として紹介しました。3体の獣頭人身像の図が頁全部を使って大きく取り上げられており、獣頭人身像の奇妙な姿が印象に残ります。福山敏男氏の調べによると、貞幹は明和年間(1764年~1771年)には隼人石の拓本を有していたらしく、後に門人の山田以文が『訪古遊記』で、「蔵宝山御陵碑及隼人形」と紹介している拓本がそれであるなら、最も古い「隼人説」ということになります。しかし、貞幹は隼人説について全く説明をしておらず、また、『好古小録』での隼人図の紹介の仕方を見ると、すでに隼人説が一定、定着していたような印象を受けます。
事情は屋代弘賢についても同じです。弘賢は、江戸時代後期の幕府御用人(右筆)で、国学にも造詣が深く、幕府の命によって松平定信とともに古美術の図録集『集古十種』なども編纂しています。弘賢が幕命を受けて京都・奈良の古寺社の調査をした時の記録が、『道の幸』(1792年)です。
わざわざ出向いたわりには、あっさりと触れているだけですが、隼人の像だと断言し、特に説明をつけたりはしていません。
ところで、同じ時期「名所図会」ブームが起こっていました。人々の旅行志向の高まりに乗ってブームのきっかけを作った秋里籬島は、大和についても『大和名所図会』(1791年)を出しています。その中で、隼人石を「犬石」という名で紹介しています。
南陵の乾にあり。此所元明帝の陵と云ひ伝ふ。此石、陵の四方に建ちし石なり。若隼人像なるが後考あるべし。隼人応天門に陣し犬衣を着する事、延喜式に見へたり。

「若隼人像なるが後考あるべし」と断言は避けていますが、『大和名所図会』が評判になるにしたがって「隼人説」もまた広まったと考えられます。
前:最初は「狐」 次:山陵研究家の活躍