隼人石 -隼人説考-
3 山陵研究家の活躍
―第3次ブーム―(1850年~1860年 文久ごろ)
第2次ブームの後しばらくは、清水浜臣の『遊京漫録』(1820年)や梶野良材の『山城大和見聞随筆』(1840年代?)といった紀行文、随筆に散発的に登場する程度で、隼人石に関する記述は減ります。
奈良の都をみめぐりて、元明帝のみささぎなる犬石をうつしすりて、一ひらを旅屋のあるじ威徳井屋某におくりあたへしに、故よししるしつけてよとこへるにそへたる詞
此犬石は大和国添上郡なる眉見寺のうしろのをかにたてり。ここはむかし元明のみかどを荼毘し奉りし所なりとぞ。はじめは四方四隅にたてるものにて、隼人がどものみかどもる心にてすゑしものなりけんを、時うつり星かはり、岸くえ土くづれて池の底にうもれしも有て今は四残れり。それもなかばはうもれたり。其さまたてるあり、ついゐたるあり。此一つのみあざやかにまたくすがたをあらはせり。しかるを後に七疋狐とかいひならはしてつひに稲荷のほこらをいとなみ、とりゐをさへたてて、あらぬこともいひつたふめり。おのれ、ことしやよひのはじめつかたこゝにあそべるに、旅屋のあるじのこふにまかせて此犬石のゆゑよししるしつけてあたへぬ。かくものしおくは大江門の言の葉人、清水のはま臣
図06
此犬石は大和国添上郡なる眉見寺のうしろのをかにたてり。ここはむかし元明のみかどを荼毘し奉りし所なりとぞ。はじめは四方四隅にたてるものにて、隼人がどものみかどもる心にてすゑしものなりけんを、時うつり星かはり、岸くえ土くづれて池の底にうもれしも有て今は四残れり。それもなかばはうもれたり。其さまたてるあり、ついゐたるあり。此一つのみあざやかにまたくすがたをあらはせり。しかるを後に七疋狐とかいひならはしてつひに稲荷のほこらをいとなみ、とりゐをさへたてて、あらぬこともいひつたふめり。おのれ、ことしやよひのはじめつかたこゝにあそべるに、旅屋のあるじのこふにまかせて此犬石のゆゑよししるしつけてあたへぬ。かくものしおくは大江門の言の葉人、清水のはま臣
(清水浜臣『遊京漫録』1820年)

…大黒はらとて芝地の小山へ出る。西へ郡山の辺りまで二里程もつづきたる原にて一面芝地なるに小松生立、岩躑躅多く、春は花見、秋は松茸狩いとよろし。東ははるばると木津歌姫の辺もみえ人の行通ふ跡にあらねばいつも塵ほこり掃き清めたるやうにて奇妙なるといふ斗りなり。実々浮世の外のこゝちして仙郷ならんかとおもはれ、稲荷の小社有り。其所の石に狗の彫たるありて隼人石といふよし。西をさしてしばらくゆけば山の背の道となる。
(梶野良材『山城大和見聞随筆』1840年代?)
数は少ないものの、他には見られない内容があり興味深い記事です。
『遊京漫録』は「元明帝のみささぎなる犬石」と言っており『大和名所図会』の影響がうかがえます。しかしそれで終わらず、「はじめは四方四隅にたて」ていたと「8石説」を唱えます。さらに地元では狐の像と見なし「稲荷のほこら」を立て、根拠のない伝説(=あらぬこと)まで伝えていると紹介しています。
一方、『山城大和見聞随筆』は、京都奉行、奈良奉行を経て勘定奉行にまでなった梶野良材の随筆です。近世文献の中では、隼人石を「隼人石」と紹介している数少ない資料です。この記事から隼人石のあった場所が小松の生える芝地であったことがわかります(村井古道の『奈良名所絵巻』の説明と符合します)。さらに、「稲荷の小社」の辺りがきれいに清められて、花見や松茸狩りができそうな景勝地のようになっていることもわかります。
さて、江戸時代最後の隼人石ブームは幕末に起こります。この時、記録や議論の担い手となったのは、尊王思想の高揚とともに盛んになった山陵研究家です。特に文久の修陵に向けて、多くの山陵図が描かれる中、隼人石の所在地や状況が詳しく記録され、谷森善臣や北浦定政などが、実見するとともに諸説の吟味を行っています。
頂なる稲荷の小社は南向きに立て、めぐりに土塀を築めぐらしたり。此社ノ前の西南の旁に狐石一つ仰(アフケ)に倒(タフ)れてあり。その北に又一つ長(タケ)低(ヒキ)くて立り。社の東ノ旁にもまた短きが一つ立り。合せて狐石三つあり。是を七疋狐と云へり。そのもと七つ有しにや。その社の右左に立る二石は石面いたく荒て彫りたる像(カタ)さだかならず。南に倒れたるはその像明らかに見ゆれば臘墨とり出て摺りうつす。其像のたけだち二尺七寸、像より上に北といふ字をも彫たり。石の長さ三尺六寸あまりあるべし。その像をつくづくみるに頭こそ狐とも犬ともみゆれ、身(ムクロ)は人のさましたれば、誠に先達の説のごとく隼人の犬の面を装ひたる像にして、むかし狗人といひしもののさまにぞあるべき。
図07
(谷森善臣『藺笠のしづく』1857年)

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