隼人石 -隼人説考-

4 隼人説仕掛人=上田秋成

 以上、江戸時代の隼人石研究史をざっとまとめてみました。眺め渡すと隼人説が誕生するのは、第1次ブームと第2次ブームの間、1750年代から1780年代ということがわかります。ちょうどこの時期に、当時大坂に住んでいた秋成が、奈良・宇治に遊んだ時の旅行記として書いたのが『山づと』(1782年)です。その中で、秋成は隼人石を実見して拓本を採ったと書いています。
 長文ですが、隼人石に関係する箇所を引用してみます。

あした佐保山にゆく。海円師けふも道わけ給へり。般若寺の前を西に横折れてゆく程、人気遠き芝山に入りぬ。こゝにとて分け入りしは、さる物見んとてなりけり。こゝを里人のたいこくの尾といふは、昔藤原の太皇后を火はうぶりなし奉りし所なりと、輿地志にいはれたり。こゝに七狐の石ぶみとて、世に怪しき古代の物のあるを、さいつ年都なる近藤何がしが摺りあらはして包みもて来しを見せ給へりし。それいかさまの物にやと、わざとにはあらで、こたびの便(たより)にもとめ来たるなりけり。辛うじて尋ねいでゝ見れば、小松原生ひ栄ゆる中に石三つなん立てる。二つは物ともわき難くなん。其一つは石の面滑かに、高さ三さかにも余り、広さ一さか二三寸もあるべし。頭大きなるけものゝ手束杖(たつかづゑ)つきたるが立てる形の上に、北といふ文字一つをゑりなせり。何の形とも、くれの故、由とも問ふべき方もなけれど、山づとにとて唐(から)の紙一ひら二ひら取りあへぬ物して摺りもどらす程に、習はねばようも物せず、やをら写して見れば、怪し、手足のあるやう身のさまもまがふ事なき人の形なるが、頭のみ獣(けもの)なるを、猶よう見れば、狐にはあらで犬の頭なるは、まなこつき耳のあるやうにぞ知らる。思ふにこゝは陵あまた立たせます所なれば、隼人の音鳴(ねな)き奉る形などをやゑり留(とど)めたる。されど大嘗祭(おほなめまつり)にこそさるためしもあれ、御墓(みはか)づかへにはある事とも知らず。近き世までは七つまで立てりしかば、七狐のあだし名をも呼びつらん。今は只三つ残れるを見る。昔日七狐の石、更に呼ばん三の隼人など誦じつつ遊ぶ。 …
(上田秋成『山づと』1782年)

 京都の近藤某から隼人石の拓本を見せられ、実物はどのようなものかと確かめに行ったという旅の目的が語られ、実際に拓本を採り、そのうえで「隼人の音鳴き奉る形」を彫ったのではないかと隼人説の核心部分を説明しています。一応「御墓づかへにはある事とも知らず」と疑問も呈してはいますが、「昔日七狐の石、更に呼ばん三の隼人」などと口ずさんでいるところからすると、隼人説でまず間違いないと考えていたのでしょう。
 実は、「山づと」の旅の最終日は、伏見に遊んでから帰阪する予定であったようなのですが、雨だったため切り上げて船にて大阪に戻っています。秋成はその足で親友の木村蒹葭堂を訪ねたことが蒹葭堂の日記からわかっています。二人の話題の中心はおそらく「隼人石」で間違いなったでしょうし、あるいは隼人説のアイデアも二人の議論から生まれたのかもしれません。


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