隼人石 -隼人説考-

5 隼人説の根拠は日本書紀

 秋成が、犬から隼人を連想したのは、次のような『日本書紀』の記述からだと推測されます。

弟、時に潮溢瓊(しほみちのたま)を出したまふ。兄、之を見て高き山に走げ登る。則ち潮亦山を没す。兄、高き樹に縁る。則ち潮亦樹を没す。兄既に窮途して、逃げ去る所無し。乃ち伏罪ひて曰さく、「吾已に過てり。今より以往は、吾が子孫の八十連属、恒に当に汝の俳人と為らむ。一に云はく、狗人といふ。請ふ、哀しびたまへ。」とまうす。弟還りて涸瓊(しほひのたま)を出したまへば、潮自づから息ぬ。是に於いて兄、弟の神しき徳有ることを知りて、遂に其の弟に伏事ふ。是を以て、火酢芹命の苗裔、諸々の隼人等、今に至るまで天皇の宮墻の傍を離れずして、代々に吠ゆる狗して奉事る者なり。  ※原文は漢文
(『日本書紀』神代下)
図08

 有名な海幸山幸の話の終盤です。弟の逆襲にあった兄の彦火火出見尊が弟に降伏して、「今後、自分の子々孫々は俳人(狗人)となり、宮墻を守護する」と約束します。そしてこれが、隼人たちが今も天皇のそばに仕え、犬吠をする起源だと説明しています。
 また、『延喜式』には次のような記述があります。

凡そ、元日、即位及び蕃客入朝等の儀には、官人3人。史生2人は、大衣2人、番上の隼人20人、今来の隼人20人、白丁の隼人132人を率ゐて、分きて応天門の外の左右に陣す<蕃客入朝に天皇臨軒せずば陣せず>。群臣初めて入るとき、胡床より起つ。今来の隼人吠声発すること三節。 …  凡そ、践祚大嘗の日、分きて応天門内の左右に陣す。其の群臣初めて入るとき吠を発す。 … 凡そ、遠従駕行、官人2人、史生2人は、大衣2人、番上の隼人4人及び今来の隼人10人を率ゐて、供奉す。<番上巳上は並に横刀を帯び、馬に騎る。但し大衣巳下は木綿の鬘を著く。今来は緋肩巾、木綿の鬘を着け、横刀を帯び槍を執り歩行す>。其の駕国の界及び山川道路の曲を経ば、今来の隼人吠を為す。 凡そ、行幸経宿は、隼人吠を発す。但し近幸吠えず。 凡そ、今来の隼人は、大衣をして吠を習はしむ。左は本声を発し、右は末声を発す。惣て大声十遍、小声一遍。訖て一人更に細声発すること二遍。  ※原文は漢文
(『延喜式』隼人司式)
図09

 大嘗祭などの大きな儀式において隼人が「吠声(はいせい)」を行ったことが見えます。一方、葬儀等で吠声したという記述は見当たりません。
 このように秋成の記述には文献との相違がなく、しっかり考証していたことがわかります。
 もしかすると旅に出る前にすっかり調べ上げたうえで、世に「隼人説」を問うためにわざわざ大和まで行ったのではないかと疑いたくなるほどです。もちろん、読本作家の秋成のことですから、記事は事実そのままとは言い切れません。他人の発見を、さも自分の手柄のように書きなした可能性も否定はできませんが、「犬」→「隼人」→「天皇宮墻の警護(狗吠)」と連想をつなげていること、何より現物を実見したうえで「隼人説」を文字にしていることが確実にわかる初出例であることから、隼人説の初期段階に秋成がかかわっていることは間違いないと思われます。


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