隼人石 -隼人説考-
6 隼人の源流は「海幸彦山幸彦神話」
ところで、上田秋成が獣頭人身像から連想した「隼人」とは、どのような存在なのでしょうか。
隼人という語は、先に挙げた『日本書紀』以外に『古事記』や『万葉集』といった、主に上代の文献を中心に登場します。
『日本書紀』や『古事記』に描かれた「海幸彦山幸彦神話」は、たびたび反乱を起こす隼人に帰順の姿勢を表させるとともに、彼らの呪力や神秘性を利用しようとする朝廷の考えが反映しているのではないかと考えられていますが、当時の朝廷が隼人を独自の習俗を持つ蛮族の一種ととらえていた、あるいはとらえようとしていたことは確かなようで、隼人に守護のほか、芸能や竹細工といった特別な役割を担わせていたことが『延喜式』等で確認できます。
一方、『万葉集』では、隼人は「早人」と表記され、わずかに3首載っているだけです。そのうちの1首は、隼人の吠声を巧みに取り入れた、次のような歌です。
(早人 名負夜音 灼然 吾名謂 □恃 ※□は女偏に麗)

この歌では、「隼人の吠声」は「名に負ふ」、つまり有名とされており、人々の間で広く知られた存在であったことがわかります。
ところが、万葉集以降に隼人や吠声が歌に詠まれることはほとんどなく、歴史書などの文献からも隼人は姿を消してしまいます。
ただ、「隼人の吠声」は平安時代まで続いたようで、「隼人司」という役職が設置され、九州から朝貢にやってきたのち、畿内に定住させられた畿内隼人が宮中の重大行事や行幸で吠声を発したことが先に引いた通り『延喜式』に書き残されています。しかし、『日本書紀抄』(清原宣賢 1528年ごろ)に「吠狗ト云ハ公卿ノ参内ノ時、御即位ノ時モ隼人ガイヌホヘト云事ヲスルゾ。今ハタヘテ候ワヌゾ。」とあり、この慣習も中世のころには廃れたようです。
また、芸能に関しては、隼人舞と呼ばれる歌舞をたびたび宮中で披露した記録が残っています。さらに、皇族や朝廷の有力者たちの前で「相撲」を披露したことも『日本書紀』や『続日本紀』に記録されています。いずれも隼人の呪力や神秘性を取り入れようとしたものと考えられますが、これらも長く続かなかったようです。
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