隼人石 -隼人説考-

7 再発見される「隼人」

 文献上、南九州の人々を隼人と呼んだのは9世紀初めまでであるという研究があり(永山修一『隼人と古代日本』2009年)、「隼人」という呼称は限られた上代の書物に登場するだけで、中世以降は特殊な例を除いてほぼ忘れ去られていたと考えられます。

 隼人が再び注目されるのは約八百年後、江戸時代になってからです。戦乱で荒廃した地域の歴史や文化を見直そうという動きが、好古趣味を経て、『万葉集』『古事記』『日本書紀』といった古典の研究=国学へとつながり、その中で隼人が再び取り上げられるようになりました。

 先に紹介した万葉歌に初めて詳しい注釈をつけたのは北村季吟でした。季吟は『万葉拾穂抄』(1686年)で以下のように解説しています。

はやひとのなにおふ  隼人は犬の声をなして守護し侍る物也。日本紀曰「火酢芹命苗裔、諸ノ隼人等今ニ至ルマテ天皇宮墻之傍ヲ離レズ、代ニ吠狗シテ奉事者也」。この集より後の事なから延喜式隼人曰「凡元日又即位及蕃客入朝等ノ儀ニ左右ノ群臣初テ入テ今来隼人、犬ノ声ヲ発る。三節。」畧註この隼人の犬のこゑを名におふ夜こゑといふなるへし。扨一二句はいちしろくといはん諷詞也。あさやかに我名を告て妻と頼まんと也。吾名謂をわかなをいはじと和ス、さはよみかたく、義もよろしからぬにや。  ※一部書き下しに改めた
(北村季吟『万葉拾穂抄』1686年)

 『日本書紀』と『延喜式』を引いて、隼人の吠声について紹介していますが、隼人についての自説は特に述べていません。他の注釈書もほぼ同じような状況で、『日本書紀』神代紀・『延喜式』からの引用か、賀茂真淵のような簡単な説明が中心です。

早人名負夜声
早人ハ第3隼人薩摩トツゝキタルニ付テ注セリ。名負夜声トハ隼人ハ犬ノ吠ユルマネシテ仕フマツル故ナリ。延喜式第七云。十一月卯日平明隼人司率隼人分立左右朝集堂前待開門乃発声。吾名謂、此ヲワカナヲイハシト点セルハ誤レリ。ワカナヲイヒテト読ヘシ。初ハ名ヲモ告サリシカ打解サマニ成ヌレハ押アラハシテ我名ヲナノリテ妻ニ定メテ憑マムトナリ。謂ヲ六帖ニカタラハトヨメル時ハ女ノ歌ニテ吾名トハ男ノ名ナリ。
(契沖『万葉代匠記』精撰本1690年)
早人は隼人也。朝廷護衛の武官の者也。夜行の時名謁と云事、令式にも見えたり。其名のりする声の如く、いちじるしく我名をあらはし、名のりておもふ女に知らせ告げて、妻と頼まんとの義也。令式等の文重而可加之也。
(荷田信名他『万葉集童蒙抄』1716~1735年)
早人  隼人は、公の御門に仕て出入人有とき声を立るなり。
(賀茂真淵『柿本朝臣人麻呂歌集之歌考』1768年ごろ)
神代紀一云「狗人請哀之。弟還出涸瓊、則潮自息。於是、兄知弟有神徳、遂以伏事其弟。是以、火酢芹命苗裔、諸隼人等、至今不離天皇宮墻之傍、代吠狗而奉事者也。」云々と有。大嘗会式に「隼人司率隼人分立左右朝集堂前、待開門乃発声」と有も吠声をたつる事也。それを名におふ夜ごゑといへり。さていちじろくといはん序とせり。宣長云吾は君の誤也といへるぞよき。
(橘千蔭『万葉集略解』1800年)
早人は隼人なり、延喜式に隼人司式あり〇名負夜声(ナニオフヨコヱ)は、妁然(イチシロク)をいはむ料なり、神代紀下、海宮ノ條に、是以火酢芹ノ命ノ苗裔(スヱ)諸ノ隼人等(ハヤヒトラ)、至今(イマモ)不離(サラズ)天皇宮墻之傍(キカキノモト)、代吠(カハリホエテ)狗(イヌニ)而奉事者也(ツカヘマツレリ)と見えて、大嘗会式に、十一月卯日平明云々、隼人司率隼人分立左右ニ、朝集堂ノ前、待開門乃発声ヲとありて、其ノ発声のいちしるきよしもて、いひつづけたり〇歌ノ意は、かくれもなし、かく打出して、いちしるくまぎれもなく、今は我カ名をのりつれば、いでや妻とおもひたのみてよと云なり、末ノ句は、アガナハノリツ、ツマトタノマセとよむべし、(本居氏の説に、吾は君の誤なり、キミガナノラセツマトタノマムなり、といへるは、わろし)〇この一首は、隼人に寄てよめるなり
(鹿持雅澄『万葉集古義』1827年?)

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