隼人石 -隼人説考-
16 奈保山山陵隼人石人考
では、改めて『奈保山山陵隼人石人考』について見てみましょう。ただし、現物を確認することはできなかったので、天理図書館報「ビブリア」で、近江昌司氏が紹介されている大要に基づいて考察します。
元明天皇之山陵在大和国添上郡推山此所にて聖武天皇推陵の乾なり、俗ここを七疋狐といふ也。其故ハむかし七つの立石に狐のかたちをほりたるなり。当代は只一つ残れり。そのかたち狐の杖つきたる姿なりと、云々。
今按ずるに昔し七疋とありしといふこといといぶかし。其故ハ只今残し石に上のかたに北といふ字みゆ、しかれば南北に二つ立しか、但し東西南北と四つ立しかいふべし、是狐にあらず、隼人のかたちなり、狗のかぶりして杖つき犢鼻褌したるかたちなり、むかしは陵ごとに立たるよし、但し元明天皇御遺詔は其地に常葉樹をうへ碑を建よとあれば、この時はじめて山陵に碑をたてしものなり、隼人の石もはじめて此陵に立しなるべし。
…(『続日本紀』元明天皇崩御の記事、善城寺内の函石について触れ)…
石のことは奈保山山陵の碑登而此善城寺へうつり、隼人の像はいまになら山に一つのこれり。
1段目は、近江氏も指摘するように『和州旧跡幽考(大和名所記)』の記述の引用です。
2段目に覚峰の見解が述べられています。最初に石の数について考察し、続いてやや唐突に彫られている像の正体について述べ、設置の由来を推測しています。余り目新しいことはないように見えますが、詳細に読むといくつか興味を引く点があります。
まず、石の数については、「北」の文字から2石または4石と推測しています。4石説は『大和名所図会』の「陵の四方に建ちし石」と同じ推測で、根拠としている「北」の文字も、北から東西南北を思いつくのはたやすく、覚峰の独自性は低いと思われます。しかし、2石説は他に見当たりません。というより、この時期には藤貞幹や屋代弘賢が3石あることを確認していますから、2石説は不自然です。最後に「隼人の像はいまになら山に一つのこれり」と述べていることから、覚峰は、隼人石は1石しか残っていないと考えていたと思われます。現地を訪れる機会がなかったうえに、藤貞幹や屋代弘賢といった好古家ともつながっていなかったのでしょう。『旧跡幽考』しか引用しなかったのはその辺りに原因があるのかもしれません(ただし「函石」については言及していますので、藤貞幹の「奈保山御陵碑考証」は知っていたと思われます)。
続いて、彫られているのは「狗のかぶりして杖つき犢鼻褌したる」隼人であると言い切っています。覚峰は杜本神社の隼人石を作成するのに、奈保山の隼人石の拓本を持っていたと思われますから、「狗のかぶりして杖つき犢鼻褌したる」は見たままといえば見たままです。しかし、冒頭で『旧事記(先代旧事本記)』を引いているとなると、少し気になることがあります。まず、『旧事記』の海幸彦・山幸彦の内容を見てみましょう。
兄の命釣りするの日、弟の尊濱に居て嘯くの時、迅風急に起こる。兄則ち溺れ苦む。生くべきに由無し。便ち遙かに弟の尊に請ひて曰く、「汝(いまし)久しく海原に居れり。必ず善き術有らん。願はくは以て之を救ひたまへ。若し我を活けば、吾が生みの兒の八十連属、汝の垣の辺を離れず、当に俳優(ワザヲギ)の民たるべし。弟嘯くこと已に停めば風も亦還りて息(フキヤ)まりぬ。故れに兄弟の徳(イキホヒ)を知りて、自伏辜(シタガヒナント)欲ふ。而るに弟の尊慍れる色有りてともに言(コト)とはず。爰(ココ)に兄犢鼻(タウザキ)著して、以て赭(ソウニ)を掌(タナウラ)に塗りて其の弟の尊に告げて曰く、「吾れ身を汚すこと此の如し。永(ヒタブ)るに汝の俳優者(ワザヲギヒト)為らん。」乃ち足を挙て踏行(アシブ)み、其の溺れ苦むの状(カタチ)を学ふ。兄の命日(ヒゞ)に以て襤褸(ヤツレ)て、戻(ウレヘ)て之曰く、「吾已に貧。」乃ち弟に帰伏(マツロヒフ)すの時に、潮溢瓊を出せば、則ち兄の命手を挙げ之に溺る。因て還て潮涸瓊を出せば、則ち然て平復(タイラギ)ぬ。
兄命前(サキ)の言を改て曰ふ。「吾は汝が兄なり。如何ぞ人の兄と為て弟に事しや。」弟の尊時に潮溢瓊を出せば、兄之を見て走り高山に登る。則ち潮亦山を没(い)る。兄の命高樹(タカギ)に縁れば則ち潮亦樹を没る。兄の命既に窮途(セマリ)て逃れ去る所無し。乃ち伏罪(シタガヒ)て曰く、「吾已に過り。今より已後(のち)吾が子孫八十連属(コウマゴヤソツゞキ)、恒に当に汝の俳人(ワザヲギビト)と為るべし。亦狗人(イヌビト)と為らん。請ふ之を哀みたまへ。」弟の尊還て潮涸瓊を出せば、則ち潮自ら息(ヒ)ぬ。是(コゝ)に兄弟の尊の神徳(アヤシキイキヲヒ)有ることを知り、以て其の弟の尊に伏(シタガ)ひ事(ツカフマツ)る。是を以て兄の命の苗裔(ハツコ)諸の隼人(ハヤヒト)らは今に至るまで天皇の宮墻(ミカキ)の傍(モト)を離れず、吠へて狗に代り、奉事(ツカフマツ)る。 ※原文は漢文
下線を施したように、隼人の祖先とされる兄の海幸彦(火酢芹命・火闌命)が服従のしるしとして「犢鼻(褌)」つまりふんどし姿になったとあります。(なお、『日本書紀』にも『旧事記』とほぼ同じ内容が書かれていますが、複数の「一書」に分断されています。)覚峰がこの部分を意識していたとすると、「犬衣(大和名所図会)」や「狗装(金石記)」とはまた別の隼人説の根拠であると言えます。
最後の、隼人石は陵ごとに立てられており、始まりは元明天皇であるという説は、根拠には乏しいものの、他に見えない覚峰独自の説です。この説は、伴信友の『比古婆衣』が「此犬石も遺詔によりて立てられたりしものなるべし」として継承しています。信友はまた、「隼人の狗吠して奉仕るときには、狗の仮面を被る例なりける」、「今遺れる立像の上に、北ノ字あるは、そのかみ陵域の四面に、それと同じ状なるを建られて、その方位を標したりけむを、後に東西南の三基は亡せたるなるべく」とも述べており、覚峰の『奈保山山陵隼人石人考』をかなり参考にしたのではないかと思われます。
ところで、奈保山山陵の所在地について覚峰はかなり雑なとらえ方をしているようです。覚峰が引用している『旧跡幽考』では、大奈閉に元明天皇陵があり、大黒芝(七疋狐)は火葬地という認識ですが、覚峰は大奈閉の存在を知らなかったのか、あえて無視したように読めます。
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