隼人石 -隼人説考-
15 杜本神社の隼人石と覚峰
江戸中・後期の僧、覚峰阿闍梨は、神童の誉れ高く早くから和歌や書道、一弦琴などを習いましたが、師匠の死をきっかけに仏門に入りました。30歳で河内の国、杜本神社の神宮寺である金剛輪寺の住職になる一方で、麦飯仙などの号で多くの書物を著しています。その膨大な著作の一つに『奈保山山陵隼人石人考』(または『奈保山山陵隼人石石人考』)という「隼人石」に関する論考があります。
また、現在、杜本神社に残る「隼人石(隼人の犬石)」も覚峰がかかわったものと思われます。当時の金剛輪寺は信長の焼き討ちにあい、かなり荒廃していました。そこで、覚峰は持ち前の国学や和歌の知識を生かして観光資源を作り、折からの旅行ブームに乗ることで寺の再興を図ります。例えば、藤原永手の墓や清少納言の供養塔、新古今集の歌碑などは、覚峰が制作に関わったり揮毫したりしたものだといわれています。隼人石もその一つではないかと考えられます。
さらに覚峰は、秋里籬島と強い結びつきをもっています。籬島が『河内名所図会』を執筆する際、国学の知識で協力したのが覚峰でした。それゆえ『河内名所図会』の中で金剛輪寺は破格の扱いを受けています。
夫此山寺は古刹にして中頃兵燹(ひやうせん)の災(さい)の後は僅(わづか)の丈室(じょうしつ)維摩(ゆいま)が居(きよ)に比(ひ)して十笏(じつしやく)を得(ゑ)たり。…(中略)…後醍醐帝の御宇世上(よのなか)穏ならざれば、天下清平御祷(てんかへいせいおんいのり)のため宸筆(しんひつ)の御製(ぎょせい)を蔵(おさ)め給ふ。南朝後村上院(ごむらかみのゐん)より金剛輪寺(こんがうりんじ)と勅(みことのり)みことのり給ひ、摂津国(つのくに)葺屋庄(ふきやのしやう)を寄(よせ)らる綸旨国宣(りんしこくせん)も伝り、二條為明卿(ためあきらきやう)の歌書もあり。あるは西行上人の肖像、余外(そのほか)什宝奇物(じうほうきぶつ)数々伝ふ。寺前には藤永手墓(ふじのながてのはか)、清少納言の古墳、楠正成塔あり。…(中略)…春は曙やうやうに嶺の松かすみ軒の梅匂ひ鶯の初音清く西には石川の流涼しく、夏はよる、蛍飛かふ草の陰、あるは郭公(ほとゝぎす)の一声を曉の月待侘び、…(後略)…
(金剛輪寺全貌図に添えられた籬島の歌)
覚峰師を訪ふて
かしの実の 若とりかくるゝ 山住の
友とやこゝに なくほとゝぎす 籬島
(金剛輪寺全貌図に添えられた籬島の歌)
覚峰師を訪ふて
かしの実の 若とりかくるゝ 山住の
友とやこゝに なくほとゝぎす 籬島
(秋里籬島『河内名所図会』1801年)
金剛輪寺の挿絵を2ページにわたって載せるだけでなく、解説の前半には数多の遺跡・宝物があることを紹介し、後半では『枕草子』冒頭をもじって風光明媚なさまを少々誇張気味に述べています。
さらに覚峰を「まづは河内州の国学の識者なり」と持ち上げ、助力に感謝の意を表しています。
当山現住阿闍梨覚峰師、諱(いみな)は真如金剛、号は四々山人或は麦飯仙といふ。浪花(らうくわ)の三村秋親(みつむらあきちか)の子にして十九歳の時、大今里妙法寺に入て薙髪(ちはつ)す。契仲より四世の孫弟なり。常に和歌を詠じ国史に耽る。性質(うまれつき)閑静を好んで僧侶の衆を嫌ひ、壮年に席を摂の飯飼岡に移し又駒谷(こまがたに)に移す。其より密宗修行(みつしうしゆぎやう)凡て四十余年猥(みだり)に山を下らず、俗塵に遊ばずして古黒(ここく)を翫(もてあそ)ぶ。今般此書(ふみ)を助力(じよりき)し給ふ事多し、まづは河内州(かだいしう)の国学の識者なり。
(秋里籬島『河内名所図会』1801年)
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